はてなキーワード: 後水尾天皇とは
このように、兄の信康や秀康、弟の忠吉などは、武勇や知略に恵まれた名将と評価されている。事実、信康は武勇に優れ、秀康も秀吉にその人物を評価され、忠吉も関ヶ原の本戦で島津豊久を討つという武功を挙げている。それに対して秀忠には、武勇や知略での評価は乏しく、またその評価ができるような合戦も経験していない。ただし、秀忠は2代将軍だったため、後半部分で秀忠は温厚な人物だったと弁護している(「仁孝恭謙」と、儒教倫理上での最高の評価をしている)。しかし、当の徳川家による史書でさえ、秀忠の武将としての評価は低かった。
それでも後継者となったのは、家康が秀忠を「守成の時代」の主君に相応しいと考えていたからだと言われている[17](家康は唐の太宗の治世について記した『貞観政要』を読んでおり、貞観政要には「守成は創業より難し」という一文が存在する)。父の路線を律儀に守り、出来て間もない江戸幕府の基盤を強固にすることを期待されたのであり、結果として秀忠もそれによく応えたと言える。
公家諸法度、武家諸法度などの法を整備・定着させ、江戸幕府の基礎を固めた為政者としての手腕を高く評価する意見もある[注釈 6]。娘の和子を後水尾天皇に嫁がせ皇室を牽制、また紫衣事件では寺社勢力を処断し、武家政権の基礎を確立させた。家康没後は政務に意欲的に取り組んでおり、家康が没した直後の元和2年(1616年)7月、小倉藩主の細川忠興は息子・忠利に「此中、公方様御隙なく色々の御仕置仰せ付けられ候」(最近将軍様は政務に余念がない)と書き送っている[19]。
秀忠に将軍職を譲った後の家康がそうであったように、家光に将軍職を譲った後の秀忠も、大御所として全面的に政務を見ている。作家の海音寺潮五郎は「家康は全て自分で決めた。秀忠はそれには及ばなかったが半分は自分で決めた。家光は全て重臣任せであった。」としている。
江戸上洛の途中、三島宿で鰻を獲ると神罰が当たるという三島明神の池で鰻を数尾獲った小者がいた。そのことを耳にした秀忠は小者を捕えると宿の外れで磔に処した。「神罰を畏れぬ者はいずれ国法をも軽んじて犯すに違いない。それでは天下の政道が成り立たぬ。神罰覿面とはこのことよ」と言った。一罰百戒、厳罰主義の秀忠らしいエピソードである。
大名たちの家族関係には些細なことにも気を配り、それを解決する時には茶目っ気もあった。小倉藩主細川忠興は父・幽斎譲りの脇差「大三原」(『享保名物帳』の同名の刀とは別物)を愛刀としていたが、嫡子忠利が所望しても与えないので、親子関係がぎくしゃくしていた[25]。どういうわけか、この事情は秀忠の耳にも及んでいた[25]。そこで、ある年、細川父子を伴として浅草川に水浴に出かけ、忠興にも一緒に川で水を浴びるように誘った[25]。忠興も、水浴びとなれば、大三原を腰から外さざるを得ない[25]。秀忠は、忠興より先に水浴びを済ませ、川辺に置かれていた大三原を手に取ると、一人川に入らず側に控えていた忠利に気を利かせて、「余がこれを拝借し、取り次いで、そなたに下賜してやろう。(将軍が仲介しているのだから、)越中(忠興)のやつもまさか異議は申すまい」と堂々と宣言して、大三原を忠利に与えてしまった[25](『細川忠興公年譜』[26])。このときのやりとりは実は忠興にも聞こえてはいたのだが、将軍の声には逆らえず、しぶしぶ従ったという[25]。秀忠の大物ぶりに感化されたのか、忠利は後に大三原を気前よく弟の立孝に譲っている[25]
101.称光天皇(1414~1428))
102.後花園天皇(1428~1464)
譲位後に発生した応仁の乱を嘆いて出家。政務を放棄した足利義政を戒めたこともある。
103.後土御門天皇(1464~1500)
大嘗会を催したが、直後に応仁の乱が発生したため、中世最後の大嘗会となった。
104.後柏原天皇(1500~26)
即位時、朝廷の財政は困窮しており、父であった先帝の葬儀も40日後、即位式も即位後21年という有様であった。
105.後奈良天皇(1526~1557)
飢饉と疫病に苦しむ民を救うため、諸国の一宮に直筆の般若心経を奉納した。
106.正親町天皇(1557~1586)
毛利元就の献上金で即位。織田信長・豊臣秀吉の援助で皇居の修復、伊勢神宮の造営などを実現した。
107.後陽成天皇(1586~1611)
秀吉の援助で朝廷の権威回復に努めた。聚楽第行幸を行った。学問を好み、日本書紀などの慶長勅版を刊行した。
108.後水尾天皇(1611~1629)
女帝。
110.後光明天皇(1643~1654)
111.後西天皇(1655~1663)
112.霊元天皇(1663~1687)
113.東山天皇(1687~1709)
114.中御門天皇(1709~1735)
先帝の代に復興した大嘗祭が再び途絶えた。公事部類を残した。笛が巧く、狐ですら聞き入ったとされる。
115.桜町天皇(1735~1747)
116.桃園天皇(1747~1762)
117.後桜町天皇(1762~1771)
118.後桃園天皇(1771~1779)
父典仁親王に尊号を与えようとするも松平定信に阻まれる尊号事件があった。
120.仁孝天皇(1817~1846)
121.孝明天皇(1846~1867)
安政5ヶ国条約に反対し、攘夷を主張した。反面、和宮の降嫁に賛成し、公武合体を推し進めた。
122.明治天皇(1867~1912)
大政奉還がなされ、明治政府が誕生。在位中は大日本帝国憲法発布、廃藩置県、国会創設など近代化が進められた。日清・日露戦争の勝利、韓国併合により日本は列強の仲間入りは果たした。
123.大正天皇(1912~1926)
生まれつき病弱であったため、皇太子裕仁が摂政に任じられた。在位中に第一次世界大戦が勃発。皇室として初めて一夫一妻を確立。
124.昭和天皇(1926~1989)
在位中に第二次世界大戦が勃発。日本の敗北を受け入れ、日本国憲法が制定された。
125.上皇(1989~2019)
世界各国を訪問して皇室外交による親善に努めた。東日本大震災の際には自ら被災地を訪問した。
126.今上天皇(2019~) NEW!!
鶏は江戸時代から食用となり品種改良や料理本が出るようになった
戦国時代にはキリスト教徒のポルトガル人が西日本へ来航し、カステラやボーロ、鶏卵素麺など鶏卵を用いた南蛮菓子をもたらした[42]。江戸時代初期の寛永4年(1627年)にオランダ商館一行が江戸へ参府した際には道中でニワトリと鶏卵が用意されたという[43]。
江戸時代には無精卵が孵化しない事が知られるようになり、鶏卵を食しても殺生にはあたらないとして、ようやく食用とされるようになり、採卵用としてニワトリが飼われるようになった。寛永3年(1626年)に後水尾天皇が二条城へ行幸した際には鶏卵を用いた「卵ふわふわ」が出され[44]、寛永20年(1643年)の料理書『料理物語』では鶏卵を用いた各種の料理や菓子が記されている[45]。また、江戸初期には海外交易が盛んとなっており、朱印船によって軍鶏、チャボ、烏骨鶏が日本へと移入された[41]。
江戸時代中期以降、都市生活者となった武士が狩猟をする事が少なくなり、野鳥があまり食べられなくなり、代わって鶏肉が食べられるようになった。文化年間以降京都や大阪、江戸において食されるようになったとの記述が「守貞漫稿」にある[46]。料理書において鶏肉・鶏卵が登場し、1785年には「万宝料理秘密箱」という鶏卵の料理書も出版されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%AF%E3%83%88%E3%83%AA
長生殿(ちょうせいでん)は、石川県金沢市の森八で作られている和菓子である。
新潟県長岡市の越乃雪、島根県松江市の山川と共に、日本三名菓の一つにも数えられる。
紅白の落雁の一種であり、材料は四国産の和三盆糖と北陸産のもち米を用いる。
出来上がった落雁は、小堀遠州の直筆の“長生殿”と彫り込まれた木型で打ち上げられている。
ちなみに、菓子の名前は唐の白居易「長恨歌」の末章:「七月七日長生殿、夜半無人私語時。」より、唐玄宗と楊貴妃が
七夕に愛を語りあった場所である長生殿から由来しているとされる。
長生殿は加賀藩3代藩主前田利常より七夕のための落雁を作ることを命ぜられた三代目森下屋八左衛門(森八の前身)によって
作られた。茶道遠州流の開祖である小堀政一(遠州)の助言により、菓子に篆書で「長生殿」の文字が彫り込まれている。
命名も小堀による。
後水尾天皇にも献上され、前田家から徳川将軍家にもしばしば献上された。明治以降もしばしば宮内省に収めた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E7%94%9F%E6%AE%BF_(%E8%8F%93%E5%AD%90)