フェミニズムを巡る疑念、糾弾、齟齬の根幹は、結局はそれが「女権のみ拡張主義」であるのが普遍的な人権思想に根差しているのかによる。「○○のみ拡張主義」はナチズムが「アーリア人の権利のみ拡張主義」であったように最悪の結果をもたらすし、それによって公共が左右されることはファシズム以外の何物でもない。
この種のフェミナチたちは、誰かが対抗理屈(と言うか対抗屁理屈)を発明するとそれに群がって考えもせずに多用し始めるが、これが問題であるのは、「○○のみ拡張主義」で公共を左右しようとする試み自体がナチズム/ファシズムとして糾弾されるべきだからであって、常に公共への働きかけは普遍的な人権思想に基づく公共の福祉の調整でなければならないからである。
つまり普遍的な人権思想に根差して、公共の福祉の調整と言う観点に基づかない権利主張はすべてファシズムなのであって、他者に対する人権弾圧である。
これが「女権のみ拡張主義」「ならば男性は男性で自分たちで男権を主張してください」の人たちが言葉の正確な意味合いにおいて社会害悪であり、積極的に排除されなければならない根本的な理由だ。また、これが世界の主流派フェミニズムが急いで、ユニヴァーサリズムに方向転換しようとしている理由でもある。
ナチズム下においては、人権の定義が大きく制約されることになった。通常の殺人の範囲に含めないことでユダヤ人の大量虐殺は可能になったのである。
従って、アフターナチスの世界で求められるべき「人間」とは定義が恣意的な意図によって左右されない絶対性によって規定されるべきであろう。死刑廃止運動とはまさしくこの観点から為されている。死刑囚の人権擁護のためではなく、「人間」の不可侵性を守ろうとする思想である。死刑廃止運動においては、このことを理解しているリベラルが中絶の問題になれば、まったく態度を翻すのは理解しがたいことである。
人間の定義には政権やイデオロギーの恣意性に基づく冗長性があってはならないのであって、アプリオリに絶対的なものでなければならい。
現在は、胎児は「全身が母体から出てからが人であってそれ以前は物」と言う考えが主流であるが、これは恣意性そのものの定義である。例えば頭部のみが出ている段階で、赤ん坊をナイフで刺せば器物損壊罪で、1秒後に全身が出たところで刺せば殺人罪と言うのは科学的な説明がつかない。物体それ自体は同じだからである。栄養従属体であるかどうか、つまりは臍の緒でつながっているかどうかであれば、帝王切開をするかしないかでも他者による恣意性が入り込むことになる。
1秒前までは物、1秒後は人間、と言う科学的なアプリオリに基づかない恣意性から脱却するためには、結局のところ受精卵に人間性を求めるか、少なくとも胎盤への着床後にそれを求めるしかないのであって、理屈の方は中絶禁止派の方が科学的には通っている。
「女の体は女の物」
「私の体の決定権は私にある」
と言う人たちは、徴兵制によって徴兵されて死を強制されて来た男性兵士たちのことを考慮してみた方がいいと思う。彼らもまた、同じことを言いたかっただろう。現在、徴兵制があるかどうかは問題ではない。それがあり得る政策として現在も許容されているということが問題なのである。そしてこれは、同時に、「女性のみが男性のリソースに負担をかける形で体育成績で優遇されている」「女性のみが需給法則・雇用の自由に逆らって男性の機会リソースに負担をかける形で男女雇用機会均等法がある」「女性のみが男性の権利を侵害する形で女性専用列車がある」「女性のみが男性の税金雇用機会に負担をかける形で女性センターがある」等など数え上げればきりがないが、最終的には男性の身体性を毀損する形で、公共の福祉の観点から調整が図られているのだ。その結果が著しい性差が偏った寿命格差、幸福度の差、自殺率の差であっても、許認されているのである。
つまり、利害が対立する局面において、他方の損失が生存に負荷をかけるような重篤性がある場合は、「女性がこの社会により適合性を持たないのは男性のせいでは無いが」、公共の福祉の観点から調整が正当化されるのである。
それが市民社会なのであって、中絶問題はつまりは女性が、他者の利益のために公共の福祉を成立させる自己犠牲を受け入れられるかどうかが問われているのである。
女性の身体の自由性、女性の心身の健康もかなり人権的には重篤なレベルの権利ではあるが、それが胎児の生存権に優先され得るかどうかが問題になっているのだ。
「胎児だから人間ではないので胎児の人権それ自体が存在しない」
という主張は、既に見たようにアプリオリなものでも無ければ科学的根拠に基づくものでもない。恣意性に基づいていると言うこと自体、批判されるべきであるが、恣意性に基づいているのであれば別の恣意性によって動かし得るものなのである。そしてこれを免れ得ないので、中絶賛成派は、アプリオリな定義と科学に基づく議論には決して深入りをせずにただ相手をキチガイ呼ばわりしてそれでおしまいにするのだ。
女性の身体の不都合と胎児の生存権、どちらを優先するかは人権思想に基づくのであれば、後者とせざるを得ないのである。なぜならば私たちは二度とユダヤ人を人間の定義から外した恣意性に戻ってはならないからである。
フェミニズム主流派が言うように、フェミニズムがヒューマニズムの一形態であるのであれば、ここが女性が人権思想を本当に尊重し得るのか、市民社会のプレイヤーとして相応しいのかどうかが問われる試金石になるだろう。他者の生存権を尊重できないようであれば、フェミニズムはイコールの関係においてナチズムに他ならないのである。
セックス禁止にすれば、中絶する必要もないし。
セックスする前に、男にGPS発信機を埋め込めば、逃げられない。
anond:20220504085545 米国最高裁判決(中絶に関する)が事前にリークされた権で、「それをさせるだけのひどい判決だ」みたいなことを言う人たちがいるけど、根本的にリーガルマンドが欠...
最高裁判事はトランプの置き土産だからね。大切にしないとね。
それどういう犬笛?