2022-04-26

丸山真男を読むと日本ネットバトル様式を分かった気になれるのでお薦め

丸山真男日本思想』を読んでいるのだが、海外比較としての日本人の思考様式精神性の解釈が非常にしっくりと腑に落ちる。

この本の書かれた年代は古いが、現在SNS政治トピックスにおける論戦の様相などにも適用できる程度には、日本人というもの精神性の核をとらえているように思える。

例えばこれ

ともあれ、こうした国学儒教批判は、

(1)イデオロギー一般嫌悪あるいは侮蔑

(2)推論的解釈拒否して「直接」対象に参入する態度(解釈多義性に我慢ならず自己直観解釈絶対化する結果となる)、

(3)手応えの確な感覚日常経験にだけ明晰な世界をみとめる考え方、

(4)論敵のポーズあるいは言行不一致の摘発によって相手理論信憑性を引下げる批判様式

(5)歴史における理性(規範あるいは法則)的なものを一括して「公式」゠牽強付会として反撥する思考

等々の様式によって、その後もきわめて強靭思想批判の「伝統」をなしている。

丸山 真男. 日本思想 (Japanese Edition) (p.28). Kindle 版.

1-5まで、スタンスの左右を問わず現代twitterはてなブックマークでもよくみるような批判様式だと思いません?

これらの思考様式の背景にある要因もいくつか挙げられているが、私が面白いと思ったのはキリスト教圏との対比。

キリスト教圏では唯神論に対する反発(対立軸)として市民社会思想が発展した背景から思想それ自体神格化して同じ轍を踏まないために、思想形式的不備を市民監視する構造が浸透している。

一方で日本においてはそういった背景がないため、「思想」それ自体を道具の一つのようにプラグマティックに取り扱う傾向がある。矛盾する思想でも状況に応じて使い分ければよい。思想の中身はさておき、その思想適用すると何が便利なの?という発想である思想それ自体形式(建前の正当性)を重視するキリスト教圏との大きな違いがここにある。

なお中国儒教の影響が支配的なのでまた別ということになっている。日本のこの柔軟性は神道がそういった特性であったことも背景として挙げられている。

日本人は「物分かりがよい」という表現もなかなか味わい深いと思った。

引用にあるような「感覚的な便益を重視し、抽象化・体系化や論理的整合性価値を見ない」という評価と、「物分かりが良い」という評価一見矛盾するようで、そうでもない。

道具として使える程度に理解することにおいては日本人は早い。なぜなら既存価値観との整合性を気にしないから、(便利である限りにおいては)新しい考え方に対しても衝突したり反発したりせず、すぐにとり入れることができる。その際には、既存価値観を拡大解釈する(へえ、外国人はこういう考え方をするのか、でも日本のこの考え方と一緒のもの解釈できるな)という様式が使われやすい。既存価値観と同一視するという輸入様式はまさに抽象化だと思うのだが、抽象化自然に行うため逆説的にそれに価値を置かないという精神性が成立しているということだろうか。

一方で抽象化一般化された思想体系を戴くことを嫌う。それは思想体系を一度決めてしまうと前述の拡大解釈による柔軟性が損なわれるからだろう。

日本人の精神性は「そういう考え方もあるよね〜」を地で行っており、その意味で非常に包摂力が高い。包摂力の高さを維持するために、統一基準を作ることを嫌う。イデオロギー嫌いがイデオロギーである、とも言えるか。とはいえ新たなイデオロギーから影響を受けないわけではなく、拡大解釈意図的誤訳によって、既存価値観と同居させる形でイデオロギー解体して取り込むのである

個人主義リベラリズムフェミニズムなどが、日本になじまなさそうで、でもやっぱりなじみそうな(それらにまつわる論戦において、各論ごとに各人のスタンス右派なのか左派なのかも判然としない)のは、それらの思想各論での実利については認めており、慣習としては取り込んでよいと思いながらも、原理原則として戴くつもりはない、というイデオロギーが影響しているようにも思える。

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