最近、インターネット上のアレコレを見ていても思うことのほとんどが、人間はカスみてぇな精神しか持ちえないということに帰結してしまう。
人間のほとんどが、自らの欲望をしっかり見据えられていないし、自他区別がしっかりできていない。自由などの抽象概念の理解も出来ていない。
俺個人は、もともと近代市民社会をくそくらえと思っているが、それはひとえに人間が精神だけで存在しているわけではないし、そもそもそれは無意識という素晴らしい領域の発見を考慮していないと考えているからだ。
そうした俺個人の思想とは関係なしに見た時、所謂リベラルな先達は、そうした近代市民社会を理想として戦ってきたわけであるし、それはある程度まで効果を発揮してきたということは認めるべきことだ。
が、しかしだ。
インターネットの普及と啓蒙活動が組み合わさって出来たものが、今の醜い自称リベラルのカスどもなわけである。
彼らは、やれ人権を守れだのと言いながら、自らが嫌いだと思う思想の自由を認めない。これを差別主義者といわずして何と呼べばよいのか。
彼らは自分が嫌いだと思うものを嫌いだと言わずに、くそくだらねぇ整合性のかけらもない屁理屈をつけて排斥しようとするのだ。カスだな。
それもそのはず、彼らは社会の残酷さを減らそうとしているから、残酷さそのものである自らの嫌悪感情をそのままに表明できないのだ。性格がひねくれてる。
まぁ、近所の居酒屋で管を巻いてるなら別にいいよ。キモイ奴だなって周りの人間が離れて終わりだからな。
でもインターネット、特にSNSの発展のおかげさまで、キモイ奴がキモイ奴とめぐりあってしまったわけだ。そうなると自らの思想未満のゴミの矛盾さを人数で覆い隠すわけである。
彼らは、自分の好悪感情を善悪にすり替えているし、そのことに自覚的でない。さらには、彼らは自身の欲望もまた自覚できていない。
リベラルな先達が何よりも相手取ってきたのは抑圧だったはずなのに、彼らは抑圧を生み出さないためにと欺瞞して抑圧を欲望しているのだ。
だから、彼らは革命家になれない。彼らは根本的なところで自分と異なるものを認めない態度を保持しつづけている。表面だけをリベラル風に取り繕った差別主義者なのだ。
とはいえ、我々は皆総じてカスだ。人間精神なんてそんな上等なもんでも高機能でも、ましてや神の代わりともなることが出来ない。