はてなキーワード: 人事不省とは
https://anond.hatelabo.jp/20230316083855
強姦等が性暴力系の撮影罪だとすれば、パンチラは純粋盗撮系の撮影罪とでも言えようか。まず撮影罪の全般の定義は以下となる。括弧の位置は読みやすいように文の後に移動させた。
(一)正当な理由がないのに、ひそかに、次の(1)又は(2)に掲げる姿態等のうち、人が通常衣服を着けている場所において不特定又は多数の者の目に触れることを認識しながら自ら露出しているものを除いたものを撮影する行為
(1)人の性的な部位等又は人が身に着けている下着※のうち現に性的な部位※を直接若しくは間接に覆っている部分をいう。
※下着は通常衣服で覆われており、かつ、性的な部位を覆うのに用いられるものに限る。
正当な理由なく、本人が隠すつもりでいる下着を、撮影したら犯罪(盗撮)とみなすという内容である。もっともである。個別に読んでいこう。
「正当な理由」というのは、例えば記念撮影をしたらたまたま後ろが階段でパンティが撮れてしまったとか、そういった偶発的な撮影までは含まれないように考えたものだろう。この線引きは、例えばうっかりカメラの電源を切り忘れていた等は違法か?反対に、うっかりが何でも通ってしまうとザル法なのでは?といった議論がされるものと思う。すでに過去の議論においても、例えばデジカメの性能が大幅に向上して100億画素やそれ以上が普及機となってきた場合、一見して花鳥風月などをメインの被写体としたように見える映像だが、背景にわずかに映り込んだ露天風呂の女性客を切り出したら1000万画素くらいあるかもしれず、それは「正当な風景写真」だと抗弁され得るか?といった点まで考慮されたようだ。(増田でわかりやすく例え直ししている)
「目に触れることを認識しながら自ら露出しているものを除いたもの」も集合写真でのしゃがみパンチラなどは本人が露出している感覚があるのか?肩からブラ紐が出ている、ズボンの腰の部分からパンティのウェストゴムが出ている、等はきちんと除外できるか?といった議論がされるものと思う。
下着の「通常衣服で覆われており、かつ、性的な部位を覆うのに用いられるもの」は、AND条件であるため、見せブラや、極端なミニスカに合わせるための見せパンなどを除外するための規定だろう。すでに「自ら露出しているものを除いたもの」とあるが、パンティ全体を自ら露出しているのか、あるいはチラッと見えているのか、など条件を整えたものと思われる。考えにくいがパンティが膝までずり下がり、辛うじてスカートで隠れている状態は「自ら露出」しておらず、「通常衣服で覆われ」ているが「性的な部位を覆う」状態になっていない。そのためその膝パンティ状態があまりにおもしろいので、出来心で少し低めのアングルから膝パンティ部分だけをこっそり撮影した人がいたとしても、この場合は合法になるという条文である。(もちろんお尻などを撮影したら違法)
こうした議論について、部会では車の運転が著しく速そうな名前をした先生など盗撮罪に関する第一人者が議論しており、かなり具体的に煮詰まっている。そのため私のような浅薄な突っ込みは議事録ベースの議論に入る手前の予備会などですべて排除されていると思われるが、法律にするかどうかは国会議員の裁量である。国会議員の仕事の上で大きな比重を占めるものは法律と予算である。しかも政府側の役職に就いた場合には旧帝大クラスの知力を持つ各省庁のキャリア官僚が家庭教師的にレクに入ってくれるわけであり、10年単位で議員歴のある人はかなり法律に詳しくなっていることがある。(どこまで行っても立法サイドであるため、法曹サイドとはまた違った視点だが)
ただ、撮影という行為はスマホの普及によって多くの人とって身近な行為となっており、昔の銀塩カメラのように一家のお父さんだけがシャッターを切るという時代ではない。また、マスコミなど知る権利との関係も強い。そのため政治家に対する批判報道への抑止として撮影罪を持ち出すとか、左翼団体への立ち入り捜査の際に彼らが公権力の監視のためにビデオ撮影(オウム真理教でもよく見られたもの)に対して転び公妨的に別件逮捕できてしまうような可能性を残せば、リベラル系議員も反対に回る可能性もある。そして前述したように撮影に加えて配信・記録に関わる技術の進展も早い。こうした点から立法の難易度はかなり高いと言えるだろう。不同意性交罪も確かに日常生活のリスクを増大させるが、撮影と比べればうっかり違法行為に手を染める可能性は低いと思われる。すくなくとも普通の女性の大半は加害側になることはまずないだろう。一方で撮影は老若男女の誰もが、幼稚園児から80歳過ぎまでその撮影の対象が大丈夫か?という点を求められる犯罪であることから、しっかりと考えていく必要がある。
だからこそ主張したいのは撮影罪を罪とする議論のフレームの不十分さである。議論に至る流れは大きく2つあった。本稿でもそのように述べてきたつもりであるが、ひとつは厳然たる性暴力の一環として行われる撮影を明確に罪とすること。そしてもう一つが撮影だけを行うパンチラなどの純粋盗撮も撮影罪に含めようとする流れである。性犯罪部会のフレームとしてまず性暴力が中心にあり、その周辺犯罪として撮影罪が含まれる形となったのだろう。その際に性暴力系の撮影罪に加えて、パンチラも一緒にして検討してしまおうという感じに議論がスタートしたように感じられる。(※盗撮も広い意味では性暴力だと言う人もいるかもしれないが、ここでは記述を単純化するためレイプなどを性暴力とする)
しかしながら、オーバルコースを車でぐるぐる回るのがうまそうな先生など国際的な盗撮規制の動向をよく知る専門家もいらっしゃるのに、盗撮とは何か?という点の議論が不十分であったように感じる。それはもちろん性犯罪に関する部会という枠組みからすれば仕方のないことだが、専門家の方々であればこそ、性犯罪ではない撮影罪とのすみわけが十分か、部会ではどこまで語れるが、語れない論点としては誰がどのように総会で議論するのか、といった申し送りが必要ではなかったか。(ただし最終の第14回の議事録は作成中のため閲覧できてない)
例えば増田の削除稿に対しても「女性に男性が電車内で盗撮されたら」というトラバがあった。このように誰かを嘲笑するような盗撮は道徳的な批判は受けるだろうが、今の日本で罪とすべきとまで考える人は少ないだろう。また、人前に出るということはそれは肉眼では見られるということであり、仮に隠したい身体的な特徴などがあっても隠そうと思えば隠せるものである。ハゲが恥ずかしければ帽子をかぶることもできるだろうし、もしそのハゲが撮影の気配を感じることができれば「やめてくれ」ということもできる。そもそもそのハゲがハゲを撮影されることを刑法で罰すべきと感じるほど強く恥じているかどうかは個人差が大きい。ハゲにプライドを持ったハゲである可能性もある。折しも2023/3/14には路上生活者の女性をコンビニに連れ込み、何でも買ってあげると噓をついて代金を払わず、その嫌がらせに困る様子をtiktokに流した行為で10代少女2名が書類送検された。この一連の行為を撮影罪に問わずして、何が撮影罪なのだろうか?本件の罪状はコンビニに不当な目的で立ち入ったとする「建造物侵入」であった。建造物侵入は前述したリベポル、迷惑条例に加えて盗撮の立件に援用されがちな罪状である。特にアスリート盗撮はレーシングブルマなどが撮影ターゲットとなるが形の上では完全な形で衣服を着用しており、観客も目視できる状態であり、撮影して何が悪いのかという線引きの定めにくさが課題となっている。(死刑賛成弁護士で知られる上谷さくら弁護士は、性的自己決定権だけではなく性的尊厳にまで保護法益を拡大することでアスリートも保護できるのでは?と主張しておられて説得力があるが、スポーツに打ち込む姿を「性的」と結び付けにくい点はまだ十分に解決できないように感じる。ただしアスリート盗撮は本稿の趣旨ではないためこの程度にしておくこととする。)そういう訳でアスリート盗撮は迷惑条例が強い京都府などを除いて「建造物侵入」での立件に頼らざるを得ない。
話を元に戻し、読者が意識不明になったとして(特に裸になったり下着が見えているわけではないとするが)、地面に倒れているところを撮影・拡散されたらどうか?これは本人にとって「やめてくれ」ともどうすることもできない状態であり、かつ不名誉な状態を意図せず撮影されており、考えようによっては人権侵害である。
これを保護法益の対象と考えているのがドイツである。ドイツ刑法201a条(撮影などによる高度に個人的な生活空間の侵害)では、もともと風呂やトイレなどのプライバシー空間での撮影を禁じていたが、その空間的な制約を拡張し、撮影されることに無防備な人はそもそも撮影すべきでないとする考え方を採用した。この際に、例えば交通事故の被害者など人事不省な状態も救済されるべきとなっている。すなわち、性暴力の議論の延長線として盗撮もくっつけておきました、という議論ではなく、意に添わぬ撮影という行為の全般に根底からしっかりと向かい合ったと言える。2015年に成立したこの条項は、2020年には死去した人の撮影まで保護を広げており、ドイツ国内での支持を得ながら問題なく運用されていることが窺われる。そうでなければ死者の追加といった発展的な議論よりも、もっと異なる姿に修正する議論がされていただろうからである。ただし201a条は不完全だとする意見もあり、後日184k条としてパンチラ撮影を罪とする条項が別に追加されている。しかし議論の順番としてはそもそも個人の基本的な権利として撮影される・されないの議論がしっかりとされ、それを5年運用した上で不十分だった点を追加的に立法しており、ついで等ではなく順を追って大きなものから小さなものへのしっかりと立法したドイツのプロセスこそあるべき姿であると感じる。
それでもマスコミの事件報道などで意識不明の人物を撮影するのが認められるか?といった議論がドイツで続くようであるが、日本もそのあたりのルールをマスコミの自主規制に任せるのでなく、いつか自分が事件報道の対象として被写体となるかもしれない、あるいはリテラシーが未発達な小中学生がそうした被写体を撮影しようとしたときに、撮影されない権利というのはどういうことかを説く社会を目指すべきだろう。このような視点に立ち、パンチラ盗撮とは縁遠い立場の人々も含め、社会で幅広く撮影罪の在り方、加えて撮影するという行為で得られる利益は何なのか?などまで議論すべきではないだろうか?
そうした議論は法制審議会の議事録からは窺われない。ご機嫌なラップタイムを刻みポールトゥウィンを決めそうな専門家の先生も執筆陣に名を連ねておられる厚い本ではG7のいくつかの国での動向が紹介されているし、その条文の日本語訳は法制審議会刑事法(性犯罪関係)部会の第1回会議(令和3年10月27日開催)の配布資料6、諸外国の性犯罪関連規定(仮訳)にも含まれている。例えばイギリス性犯罪法67a条ではVoyeurismすなわちパンチラを撮影したり鏡で盗み見たりすることが犯罪と規定されている一方で、フランスには盗撮規定がないことや、カナダでは獣姦は禁止されている一方で盗撮は規定がない各国の考え方の違いが垣間見える。
∩_∩ (・(ェ)・ )クマー
また、アメリカではミシガン、ニューヨーク、カリフォルニアの各州が代表して紹介されているが、盗撮に関して定めたテキサスの州法に関して違憲訴訟の提起があり、一審となる連邦地方裁判所では合衆国憲法修正第14条「如何なる州も法の適正手続き無しに個人の生命、自由あるいは財産を奪ってはならない。」に照らして違憲であるとの判断があった。ただし控訴審では合憲とされている。そうした動向については配布資料の直訳だけではなく、CLJなどの専門誌に寄稿もあった。法制審議会のメンバーであれば、そうした文献にアクセス可能な立場におられる方(というか著者じゃん……。)もいらっしゃる気がするが、議事録を斜め読みした範囲では性犯罪部会の枠組みを超えての撮影罪とは?の議論がなく、迷惑防止条例やリベポル法、不法侵入など先行する法律と重複しないための配慮の議論の配分が多かった点は残念に感じた。
そもそも部会での議論に関して、強姦などの直球の性犯罪の議論が重視されたためか、議事録を拝見した限りでは撮影罪については時間不足であるように感じた。もちろん被害の甚大さでいえばその通りであるが、
(続き)
ワクチン2回接種済。
35歳男。
BMI21の軽肥満。基礎疾患なし。
(21日)
喉に違和感を覚えながら起床。
冷房に喉をやられた時と全く同じ感じだったので侮っていた。
昼頃、喉がカスカスになり寒気に襲われ始め、炎天下をのべ1時間ほど歩いていたのにもかかわらずあまり暑いと思わなかった。
帰宅後、熱を測ると37.1℃。
平熱が35.6度くらいなので結構高いなと思った。
夜
特に頭痛が一番きつく、こめかみと眼球がガンガンするのが耐えがたかった。
体温は39.0度まで上がっていた。このとき、私物のパルスオキシメーターで酸素飽和度を測ったら98もあった(普通の体調の時は96しかないのに)。
(22日)
保険手続きや会社への報告のためになんとしてもPCR検査を受けたく、朝から徒歩圏内にある病院のべ10件に数え切れないほどの回数の電話をかけるも9割型不通。
残り1割は「来週いっぱいまで枠が埋まってる」or「明日また予約の電話かけ直して」パターン。
熱は39.0度で安定。症状も変わらず。
酸素飽和度98。
(23日)
朝、体温は36.4度まで下がっていた。
また、近所のクリニックの発熱外来の予約を奇跡的にとることが出来た。
電話での予約受付をしておらず、サイトのフォームに各種個人情報を入力して時間帯別に枠を争う方式をとっていたのが幸いしたと思う。
なお、予約受付開始スタートから全枠が埋まるまで30秒くらいだった。
唾液のPCR検査を受けて、普通の風邪薬(ムコダイン?とかカロナールとか)を処方されて帰宅した。
(24日)
体温36.1度。
頭痛がほぼおさまった代わりに少しだけ鼻づまりと咳が出始める。インフルのときと同じレベルの喉痛もこのタイミングで発生した。
また、太もも、二の腕、腰にまだらな蕁麻疹が発生した。蕁麻疹については痛みや痒みや皮膚の隆起はなく、この時点で自分のなかでは
「コロナ陽性は9割型ない。ついに数年越しの潜伏を経て梅毒かHIVを発症したのでは?」
と半泣きになっていた。
酸素飽和度98。
(25日)
9時にクリニックからコロナ陽性の連絡を受け10日間の自宅療養に突入。
全く休んでいた筋トレを再開。
結局、食欲不振に陥ったり、肺炎に苦しんだり、人事不省になったりというのは1度もなかった。
あとなぜか丸2日間高熱でうなされてるのに汗を全然かかず、またガチの臭いタイプの無音オナラが止まらなかった(5分に1発こいてた)。
全く期待してないからまだ要求してないけど恐らくホテル療養は不可能と思われる。
僕の好きな仏教系の挿話に「火事で燃えてる家と赤児の話」というのがあって
どんな話かというと、とある家が火事になっているとする――。その燃えている家の、崩れた瓦礫の隙間に赤ん坊が取り残されているとする。赤ん坊はどうやら周囲の状況にあまり気付いていないらしく、指を咥えてぼんやりとした面持ちのままその場に座り込んでいる――。まだ火の手はそれほど近くにまでは来ていないから、何らかの手段を講じれば赤児の命を助けられるかもしれない、みたいな話。
でも、瓦礫でできたスペースは小さくて、その奥まった場所に取り残されている赤児の元へは、大人の体では大きすぎて辿り着くことができない。また、その瓦礫を除けようも、ちょっとしたバランスの変化で瓦礫は崩れ落ちそうに見えるくらい、その均衡は危うい。つまり、その時赤ん坊を助け出す手段としては、赤ん坊自らの力によって瓦礫の外へと這い出してもらうより他に方法がない、という状況である。
さて、この時赤児にアプローチするには幾つか方法があって、この挿話によればその方法は主に二つである。一方に関しては、これは失敗が決定付けられた最も愚鈍な手段であるんだけど――次のようなものだ。
「火事なんだ! すぐ傍にまで火の手がやって来ている。だから早くその場所から逃げ出すんだ。さもないととんでもないことになるぞ!」
当然この方法は赤児の命を救うことができない。それは無論のことで、赤児はまだ大人の冷静な言葉を解するには年齢や知能の発達が不十分で、その言葉を正しく理解することなど到底できないから、正しい指示を送ったところで何の役にも立たないということなのだ。
また、そこにはもう一つ細かい問題というのもあって、この挿話ではそれについて次のように述べている。大人が必死な目をして、必死な声で赤児に対して叫ぶのを見て、むしろ赤児は言うことを聞くどころか怯えて、泣き出して人事不省に陥ってしまうなり、あるいは、間違った方向へと這いずって逃げ出してしまうなり、むしろ事態が悪化する行動を取る結果にしかならないだろう――とこの挿話の語り手は述べるのである。
さて、そのような具合に、「正しい情報を与え、正しい指示を行う」といった方法はこの場合何の役にも立たないことが示された。それどころか、より事態を悪化させることにしかならない、という結論が述べられた。勿論これはあくまで仏教的な挿話の範疇で示唆されていることではあるんだけれども。いずれにせよこちらは失敗にしか傾斜しない、二者のうち一方の愚鈍極まる手段ということであった。
では、もう一方の手段とは何か。
それは、「何か音の出るおもちゃを持って、笑顔で赤児に呼びかける」である。
上手くいけば、赤児はそのおもちゃに興味を示して、出口の方へと這いずって自ら正しい方向へ歩むことができるかもしれない。少なくとも、何ら言語を解さない赤児に向かって、「逃げろ」だの「火事が迫っている」だの叫ぶよりはずっと結果はマシになる筈であろう、とのことであった。因みにこの方法を用いる理由として一つ、さらに重要な前提があって、つまりそれは赤ん坊はよくも悪くも自分自身がおかれている状況に無自覚であるということである。そのため、赤ん坊は火事の危険を知らず、余計な恐怖や危機感によって泣き叫んだり人事不省に陥ったりする心配は今のところ無い――つまりは割と平然としているということが、この第二の手段を更に正当化する理由となるのであった。
時間制限は確かに存在する。火の手が回る前に、迅速な判断が必要な場面ではある。とは言え、自らの膂力によって瓦礫を除けたり、あるいは赤児の取り残された小さな隙間に入り込むといった手段を使えるわけでもなし、正しい指示を送ることは怯えさせるだけで役に立たない――そんな時に用いるべきなのは、本当は「おもちゃの音色と、同時に浮かべられる朗らかな笑顔」なのだというのが、この挿話の結論であった。
賢明な読者の皆様はお気付きであると思うが、この「火の手が迫り今にも崩れそうな家」と、「状況を理解していないし、また言語を解すこともできない、取り残された赤ん坊」は、現世と衆生にそれぞれ対応した比喩となっている。もっと言えば、それは我々の世界と我々自身についての比喩なのだ。
(あるいはこれは、悟りや涅槃(救い)というものと、それを理解できない衆生の対比になっているとも言える。)
いや、こんなこと言ったら気分を害する人もいるかもしれないんですけどね、まあ仏教というか宗教全般は大体そういう通底した考えとか世界観があるのはしゃーない。正しい言葉で語りかけても、衆生は危険を認識するどころか怯えて遠ざかり、尚の事炎の害に遭う可能性が高まるので、何らかの便宜的な他の手段(この場合はおもちゃと笑顔)を講じるべき、というのが、仏教側のスタンスだということでした。まあいずれにせよ昔の人は面白い喩え思いつくなー、とかそういう話なんですねはい。
僕の好きな仏教系の挿話に「火事で燃えてる家と赤児の話」というのがあって
どんな話かというと、とある家が火事になっているとする――。その燃えている家の、崩れた瓦礫の隙間に赤ん坊が取り残されているとする。赤ん坊はどうやら周囲の状況にあまり気付いていないらしく、指を咥えてぼんやりとした面持ちのままその場に座り込んでいる――。まだ火の手はそれほど近くにまでは来ていないから、何らかの手段を講じれば赤児の命を助けられるかもしれない、みたいな話。
でも、瓦礫でできたスペースは小さくて、その奥まった場所に取り残されている赤児の元へは、大人の体では大きすぎて辿り着くことができない。また、その瓦礫を除けようも、ちょっとしたバランスの変化で瓦礫は崩れ落ちそうに見えるくらい、その均衡は危うい。つまり、その時赤ん坊を助け出す手段としては、赤ん坊自らの力によって瓦礫の外へと這い出してもらうより他に方法がない、という状況である。
さて、この時赤児にアプローチするには幾つか方法があって、この挿話によればその方法は主に二つである。一方に関しては、これは失敗が決定付けられた最も愚鈍な手段であるんだけど――次のようなものだ。
「火事なんだ! すぐ傍にまで火の手がやって来ている。だから早くその場所から逃げ出すんだ。さもないととんでもないことになるぞ!」
当然この方法は赤児の命を救うことができない。それは無論のことで、赤児はまだ大人の冷静な言葉を解するには年齢や知能の発達が不十分で、その言葉を正しく理解することなど到底できないから、正しい指示を送ったところで何の役にも立たないということなのだ。
また、そこにはもう一つ細かい問題というのもあって、この挿話ではそれについて次のように述べている。大人が必死な目をして、必死な声で赤児に対して叫ぶのを見て、むしろ赤児は言うことを聞くどころか怯えて、泣き出して人事不省に陥ってしまうなり、あるいは、間違った方向へと這いずって逃げ出してしまうなり、むしろ事態が悪化する行動を取る結果にしかならないだろう――とこの挿話の語り手は述べるのである。
さて、そのような具合に、「正しい情報を与え、正しい指示を行う」といった方法はこの場合何の役にも立たないことが示された。それどころか、より事態を悪化させることにしかならない、という結論が述べられた。勿論これはあくまで仏教的な挿話の範疇で示唆されていることではあるんだけれども。いずれにせよこちらは失敗にしか傾斜しない、二者のうち一方の愚鈍極まる手段ということであった。
では、もう一方の手段とは何か。
それは、「何か音の出るおもちゃを持って、笑顔で赤児に呼びかける」である。
上手くいけば、赤児はそのおもちゃに興味を示して、出口の方へと這いずって自ら正しい方向へ歩むことができるかもしれない。少なくとも、何ら言語を解さない赤児に向かって、「逃げろ」だの「火事が迫っている」だの叫ぶよりはずっと結果はマシになる筈であろう、とのことであった。因みにこの方法を用いる理由として一つ、さらに重要な前提があって、つまりそれは赤ん坊はよくも悪くも自分自身がおかれている状況に無自覚であるということである。そのため、赤ん坊は火事の危険を知らず、余計な恐怖や危機感によって泣き叫んだり人事不省に陥ったりする心配は今のところ無い――つまりは割と平然としているということが、この第二の手段を更に正当化する理由となるのであった。
時間制限は確かに存在する。火の手が回る前に、迅速な判断が必要な場面ではある。とは言え、自らの膂力によって瓦礫を除けたり、あるいは赤児の取り残された小さな隙間に入り込むといった手段を使えるわけでもなし、正しい指示を送ることは怯えさせるだけで役に立たない――そんな時に用いるべきなのは、本当は「おもちゃの音色と、同時に浮かべられる朗らかな笑顔」なのだというのが、この挿話の結論であった。
賢明な読者の皆様はお気付きであると思うが、この「火の手が迫り今にも崩れそうな家」と、「状況を理解していないし、また言語を解すこともできない、取り残された赤ん坊」は、現世と衆生にそれぞれ対応した比喩となっている。もっと言えば、それは我々の世界と我々自身についての比喩なのだ。
いや、こんなこと言ったら気分を害する人もいるかもしれないんですけどね、まあ仏教というか宗教全般は大体そういう通底した考えとか世界観があるのはしゃーない。正しい言葉で語りかけても、衆生は危険を認識するどころか怯えて遠ざかり、尚の事炎の害に遭う可能性が高まるので、何らかの便宜的な他の手段(この場合はおもちゃと笑顔)を講じるべき、というのが、仏教側のスタンスだということでした。まあいずれにせよ昔の人は面白い喩え思いつくなー、とかそういう話なんですねはい。
ネムイ朝第4代皇帝エーガミ帝の息子、王子カカナイ(400~455)はネムイ朝第6代皇帝エーカキ帝とその弟第7代皇帝ヤッパエーカキ帝の摂政を務めた。今日でも「ソシャゲイ」の渾名で知られる彼は人々に愛された統治者であった。
1998年に世界遺産に登録され今もなお人々を魅了し続けている巨大神殿グ=グプレカードとアップ=ルカードは彼が建設を主導したものである。又公共事業で雇用を生む傍、国の主要輸出産品を生産の安定しないクリップスタ塩、プロクリエ糸、アイビ酢から、安定生産・安定供給の可能なスクフェ酢、デレ鱒、シャニ鱒、バン鳥、マギレ粉等に変え貿易による経済の発展を促した。
ネムイ朝第5代皇帝コンシューマーゲームシ帝の弟でもある彼は、先代の父の死後わずか7歳で即位し成人した2年後には精神を病んだ甥のエーカキ帝に代わって長期に渡り政治を執り行った。エーカキ帝が31歳で狂死し、ヤッパエーカキ帝が即位したのちにも民草の支持を得て摂政の職を続けることとなった。しかし仕事中毒とも呼べる働きぶりであった彼は、54歳のある日、朝食のテーブルについた途端に脳の病で倒れ人事不省に陥った。その晩、家臣や侍女たちが見守る中突然起き上がり「モン・エナ(人生見つめ直せ)」のただ一言を発して息絶えた。この遺言の解釈については諸説あるが、隣国シューカイのエフジ王(※注)へ向けた言葉という説が有力である。(※エフジ王は先の大戦で占領したホーグバイソ区の住人へ苛烈な重労働を強いていた。)
カカナイがこの世を去ってからたった一月後、不幸なことにヤッパエーカキ帝は後の第8代皇帝ネロの差し金により暗殺される。ネロはエーガミ帝の息子でありコンシューマーゲームシ帝とカカナイの異母弟であったが、政治手腕は兄達に似ずネムイ朝の崩壊の原因となった。
そして時代はオキンノツレエ朝へと移り変わってゆく。