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はてなキーワード: うつろいとは

2021-04-07

弱者男性だが俺はもう大丈夫

もともと女性一般から広くモテたいとか、誰でもいいかセックスをしたいとかさせてほしいとか、社会から魅力的な男性として認められたいといった願望はない。俺が惚れた女がたまたま俺に惚れてくれないという状況がン十年続いているだけだ。しか世間一般ではその状況こそ恋愛弱者とされているのだろう。俺からしてみれば弱者という自覚などないしこうした現状を特に気に病んでもいないが、うるおいのない人生であることもまた事実だ。たしか人生はパサパサだ。顔は脂でネチョネチョしているが。さて、独り身の男がうるおいのない人生に慰めを見出すとしたら? もっとも手軽な手段は読んで字のごとく自慰である。というわけで、ここから先はオナニーの話をします。恋愛弱者論は出てきません。お引き取りください。

100%イマジネーションだけで登頂できる程度にはまだ元気な私だけれど、もちろんよいおかずがあればそれに越したことはない。私の世代男性はさまざまなおかずで食事をしてきた。うつろいゆくエロメディアの変遷をすべて経験してきた。いや、ピンク映画経験してないか。まあいい、それはさておき、自宅の電話線に通信モデム接続されるまでの長い長い間、私の主食は紙媒体だった。エロ本、エロ小説エロマンガである劇画タッチの暗くて薄汚いエロマンガに代わってアニメ調のかわいらしい絵柄の美少女エロマンガ雑誌が続々登場し、それに夢中になったりもした。アダルトビデオもすでに文化としては大輪の花を咲かせていたが市場的にはレンタル専用の位置づけで、日々の主食とするにはコストがかかりすぎるごちそうだった。どんなに気に入った作品でもレンタルは返さなければいけないし、セル用VHSともなると1本が1万円以上したのだ。

こうしたおかず環境インターネットの登場で激変し、通信環境パソコンの処理能力の向上でもう一度激変した。このあたりの変遷はくだくだしく振り返る必要はないだろう。かつて、何世代ものダビングを経て裏か表かすらよくわからなくなった飯島愛ビデオに目をこらしていたことを考えると、常時接続ネット回線からフルハイビジョン無修正動画無料でドバドバ降ってくる現代の状況は「隔世の感」などという月並み言葉では語り尽くせない感慨がある。「この世の春」が少し近い。

もっとも、この変化はあくまでも量的な変化に過ぎない。ガビガビの飯島愛とフルハイビジョンの七沢みあの違いは、端的には解像度と入手性だけであり、メディアとしての質的な差はないと言える。どっちも同じ動画だ。そこには、かつてエロ本(静止画)に代わってエロビデオ動画)が登場した時のようなパラダイムシフトはない。作品の内容についても同様である。80~90年代のAVに比べると現代のAVは内容がめちゃくちゃに高度化していて、とんでもない美人がとんでもなくエロいことをとんでもない演技力でやってのける時代になったが、これとても地道に連続的に向上していった結果であり、その間に何か飛躍があったわけではない。

この先もこういう線形な向上がひたすら続くんだろうな、と俺は思っていた。モデルますます美人になり、エロ演出ますます洗練され、解像度4K8K、16Kとますます向上し……そのうちテレビも買い換えなきゃだな、と。この先に非線形な、飛躍をともなうパラダイムシフトが起こるとは思っていなかった。

ところが2016年になってそれは起こった。アダルトVRの登場である

それはまさにパラダイムシフトだった。静止画動画になったあのパラダイムシフトさえ超える革命だった。初めてアダルトVRを見たとき、「これは今までのAVとはまったく異質なものだ」と私は確信した。

VRゴーグルをかけて再生を始めた時、自分行為の「当事者」になっていた。それまでのAVでは(一人称視点モノであっても)自分あくまでも「傍観者」だった。見慣れたハウススタジオで繰り広げられている知らない誰かと誰かの性行為を神の視点で眺めるだけの傍観者だ。男優の求めに応じて、あるいは自発的女優が行う行為淫靡さ大胆さ、背徳さや不潔さ、それを傍観して興奮するのが従来のAVだ。AV嬢は裸になるのが当たり前だし、裸になるまでのチンケな三文芝居など早送りするしかない。

しかアダルトVRはそれとはまったく違った。なぜか間取りをうっすら知っている家の中に自分はいて、目の前にはめちゃめちゃきれいな女の子がいる。冬服に変わったばかりで今タンから出してきたようなブレザーの制服を着ている。樟脳のにおいがしてきそうだ。その子がこっちを向いて「うふふっ」と笑う。こちもつられてつい笑ってしまう。「ンフッ」 今までAVを見ていてそんなことがあったか? 俺はなかった。画面の中で何が行われていても、握力と緩急の調整こそすれ、表情は真顔のままだったと思う。

驚くべきは女優たちの演技力だ。アダルトVRは基本的に「女優の一人芝居」である自分役の男優はいるがただの木偶であり、ストーリー進行はすべて女優の演技に任されている。女優たちはこれを見事にしてのけるのだ。イッセー尾形とまでは言わないが、正直私はAV女優たちがここまでちゃんとしたお芝居をするとは思っていなかった。また、そのくらいアダルトVRは女優演技力重要ジャンルなのだった。棒読み学芸会の芝居だとまったく白けたものになってしまうのだ。結果として、ただかわいくてスタイルがいいだけの女優ではなく、きちんとお芝居のできる女優が日々発掘され、適性が見いだされ、人気を得て活躍していくようになった。

一人称AVというジャンルは古くからあるが、久しくマイナージャンルであった。しかしここへきて一人称AVは突然業界のどセンターに据えられることになったのだから世の中わからないものである

一人称という形式により、2Dでは早送りしていたような行為前後のたわいもないドラマシーンががぜん意味を帯びてきた。この女性下宿美人管理人さんで、俺はしがない浪人生。この女性かわいい妹で俺はモテない兄貴。この女性神待ちJKで俺は一人暮らしの冴えないおっさんリーマン。2Dではわりとどうでもよかったそんな設定がいちいち重要になってきた。その設定に没入すればするほど、目の前の女性が服を脱いだ時の衝撃と興奮が大きいのだ。もし美人教師かわいい看護婦さんが「現実に」目の前で服を脱ぎだしたら、誰だってびっくりするでしょう?

風呂上がりでバスタオルを胴に巻いただけの妹が俺のほうに上半身をのり出してきて、急にまじめな顔になって聞く。「ねえおにいちゃん、そらのおっぱい見たい?」俺はあまりのことに声も出せずただブンブンと首をタテに振るしかできなかった。「ほら!」バスタオルの前が勢いよく開かれた。椎名そらの、いつもAVで見ていたあこがれの椎名そらの、あの白くてすべすべしてふっくらとまろやかで、ぷにぷに弾力のあるかわいい乳房が、俺の目の前でぷるんと揺れた。「あっ、あっ…!!」人は感極まるとカオナシみたいな声が出てしまうことを知った。「興奮する?」「うん…する…する!」思わず答えていた。

目の前に素敵な女の人がいて、自分を信頼して親密に身を寄せてきてくれるあの幸福感が脳を満たす。「幸せ物質」みたいなものがあるとしたらそれが体中を駆けめぐる感じ、2DのAVでは決して味わうことのないゾクゾクする感じがアダルトVRにはあった。もちろん相手が生身の女性だったらその歓喜もっとずっと大きいはずだが(長いこと感じていないのでどのくらいか忘れてしまった)そんなことはもうどうでもいい。少なくとも2Dにはそれがなく、VRにはそれがあるのだ。

心通じ合うパートナーがいなければこの先ずっと得られないと思っていたあの歓びを、わずかでも擬似的にでも感じることができたし、ゴーグルをかければいつでも感じることができる。そしてこの先まだまだVRゴーグルの性能は向上するし、きっと動画解像度も上がっていくだろう。素晴らしいじゃないかコロナにおびえながらキャバクラ風俗に通わなくてもいい。俺はもう、大丈夫だ。これさえあれば、アダルトVRさえあれば大丈夫だとわかった。生きていける。

2020-11-13

愛知県知事リコール署名半笑いでおちょくっていて背筋が冷えた件のブコメを読んで思った話

https://anond.hatelabo.jp/20201109184717

という文章を書いて400件近くブクマがついたので、それを読んで(読ませてもらって)思ったこと、考えたことについて、以下のとおり書いておく。

もはや、ほぼ愛知県知事リコール署名とは関係のない話になるので、あくまで俺個人の整理のための記述になる。

・お前「も」、もしくはお前「が」一番頭おかしい、という話

高須院長とその界隈を高みから見物しているつもりで、本当はこの騒動に食い気味にのめり込んじゃって、一番おかしいのはお前だろ、というブコメがいくつかあって、これは実際にその可能性がある。

俺は文中で自身正気ちゃんと相対化できているつもりだったし、最後も、(俺にとってはもっと合理的理解である愛知県知事リコールにおいては高須院長もその取り巻き半笑いであって、仮に全てがおちゃらけに過ぎないのなら、頭から湯気立てて正気を失ってるのは俺だけだな、と書いたつもりだった。だから、お前も頭おかしいぞ、と言われれば、「だから自分でそう言ってんじゃん」という気はする。

ただ、「俺はてめえの頭がおかしくなってる自覚があるからまり狂ってねえ!」というのは当然、矛盾している。

俺は自分のどうかしている具合について認識が甘すぎるんだろう。以前、何かの増田についたブコメで「この増田自身の頭がおかしいことを自認しているが、おそらく増田自身が思ってるのとは違うかたちでおかしいんだと思う」というのがあって言い得て妙だな、と思った経験があるが、なんていうか、それに近いのかもしれない。

・お前は醜怪だ、という話

上の、俺の頭がどうかしているというブコメ似て非なるというか、印象的だったものがあった。

最初反論しておくと、俺は誰かが真面目だったり熱心であることを理由に、おちょくられるのを無条件に免れるべきではないと思っている。

別に俺も、真面目かつ誠実に世のことを思っている人間に対して辻斬りのように悪意を浴びせるほど邪悪じゃない(とは思っている)。ただ、今回の高須院長の、86万筆という当初の目的に明らかに届かないにも関わらず、いかにも肉薄しているという空気を醸成しようとしたこと、結果として集まった43万筆の中身にも疑義がついているのにその検証言下に否定したこと署名活動中にリコール反対派を犯罪者呼ばわりしながら届けた工作活動の進捗を説明しないこと、ははっきり言って不誠実だし、リコールという制度を悪質にショー化する行為であって、それはおちょくられても仕方ねえよな、とは思っている。

で、ここからが少し複雑な話になる。

俺は、相手悪口を書いたり、内容に虚偽を含めたりしない限り、不誠実で悪質な言動について相手を直接、ネット上でやり込めようとすることは許されると思っている(この考え方は本当に俺の異常性を吐露しているのかもしれない。「不誠実」で「悪質」を、ちゃん主観を除外して判断できるつもりの上、攻撃トリガーまで引くんだから)。今回の俺のリプライは、表面上は高須院長の味方にしか見えないものなので、(あくまで俺の中の)基準を満たしている。

一方で、俺は自分がほぼ悪意で行動していることを自覚している。義憤ではなく、私的かつ単純に「気に入らない」という感情ドライブをかけられていて、まともな人間はこんなことをそんなにしない。

まり高須院長の言動は真っ当な市民感覚によって非難されるべきだと思うけど、俺が従っているのはそういう倫理観ではまったくないし、取っているアクションもネジクレている。

お前は醜怪だ、という指摘はその点でこたえるものがあった。

・俺がtwitter捨て垢を使ってリプライを送った / 先の増田twitterで当該のリプライを目にしたまったく別の第三者によって書かれた、という話

皮肉ではなく、おもしれえな、と思った。

この人たちには、本垢有名人をおちょくったり、そのことを武勇伝めかして増田で書くことは想像を絶しているらしい。どちらが真っ当な感覚かはわからないが、この人たちの方がまともな気もする。

異常でわけのわからない行為合理的説明しようとすると、かえって、実態と異なる推論がはじき出されてしまうということで、これは頭を働かせている側がいけないのではなく、そもそも現実に起きていることがのっけからおかしいので、そうならざるを得ない。

おもしれえな、というのは、まるで、先の増田高須院長たちの行動を理解しようとした俺自身のようだったからだ。つまり、「まったく事実に反した異様なツイートに大量の支持が集まるって、俺の理解できる世界を完全に超えている。もしかして、院長もその支持者も、全然本気でやってなくてふざけてやってんじゃねえのか?」。こんな俺の考えも、見当違いの方向にぶっ飛んだ推測なのかもしれないな、とあらためて思った。

・今回のリコール運動の中にもいろんな思惑があるよ / 個人の中にもマジの部分と半笑いの部分や時期があるよ、という話

言ってることはわかるんだけど、俺としては以下の1~4のどれかで断言してくれた意見の方が面白かった。

お前が面白いとかどうとか知らねえよ、という感じだと思うが、そう感じた理由あとで書く

・1~4の話

1. 院長もその取り巻きも大マジ、という優しい世界

2. 院長はマジだが取り巻き半笑い、という70過ぎのジイサン見世物にした構図

3. 院長は半笑い取り巻きがマジ、という大規模なパパ活

4. 院長も取り巻き半笑いでやっている世界

ブコメを見ると、1, 4にそれなりに割れて、2、3がちょいちょい、というように見受けられる。

俺はこれが本当に面白くて、おそらくはこれまでの印象や知識によって、あの運動が各人で全然違う見え方をしていることがわかった(もちろん先の増田ブコメをつけた人々の意見なので、世間全体ではまた違うんだろう)。

俺が1ではなく2~4を選ぶのは、あるブクマカが仰っていたハンロンのかみそり(愚かさで説明できることを悪意で解釈してはいけない)が、この場合機能するのかな? という疑念があるからで、俺にとっては悪意や冷笑のために時間と労力を割いて敵方嘲弄することはちゃん合理的行為からだ。

こうして考えると、人間自分モデルにしてしか他者の行動を推論できないことがよくわかる。実際は1の可能性も十分あるだろうと思う。

あと、4の中にも高須院長と取り巻き共犯ってパターンと、院長と取り巻き意志共有はされていなくて、結果として4が形成されてるだけってパターンがある、と指摘している方もいて、なるほど、と思った。

いずれにしても、1~4のいずれかが今回の運動のメイン層であり、グラデーションはあっても、あるいは個人内でスタンスうつろいはあっても、コアになる部分があると思う。

俺が「色んなやつがいるよ」的な解釈にあまり乗れないのは、「巨大な運動の内部に様々な思惑があるって、そりゃそうだろうな」っていう一般論しかないのであんまり面白くないからだが、(ここから少し大仰な話になるので、狂人に訳知り顔されるのが不快な方はすみません)、もう一つ理由がある。

ブコメを読んで色んな見方があることがわかって、その中には「◯◯に決まってるじゃん」と断言するものもあって、正直言ってこれは便利だな、と俺は思った。

これってつまり、一つの現象をめぐる解釈について、どれだけいい加減な放言を言い散らしても、誰かしらは味方してくれるし、耳を貸すということじゃんな?

もしどこかの世界線で、俺が今と同じくらい世に倦んでいて、今と比べ物にならないくらもっと金持ちで頭が良かったら、「××について、正解は1~4のうちどれでしょう?」の中で、自分にとって一番得で、自分憎悪で人がたくさん泡を吹いて苦しんで、みんなができるだけ不幸になる答えについて、それを信じてくれる人たちに頑張って吹き込むのにな、と割とマジで思った。

そういう悪意に対抗するには、どれもが正解に見えるうちのもっとも核心に近いものを常に求めるぐらいが関の山でほかにどうしようもなく、「色んなやつがいるよ」は答えとして絶対間違えようがない一方で、悪意の味方になり得て助かるかもな、と思うので、あんまり好きな回答じゃないな、と思った。

言い換えると、これ! という正解を常に抱えながら、科学的な証拠があれば別の正解に賛同できる柔軟性が市民には必要だ、ということになり、皆さんにはこれができるだろうか。ちなみに俺自身絶対にできないと思う。

オウムの話

「ふざけきってるようであいつらはマジだぞ」という1を選んだ人の中に、オウムとの相似を見た人もいて、そういう見方もあるのか、と思った。なんとなく村上春樹の『アンダーグラウンド1・2』を思い出した。

ウヨの考えてることなんてわかるわけねーだろ、というブコメもあって、俺もまあ先の増田高須院長の取り巻きのことを途方もないアホか、(俺と同じ)悪意の塊かの二択の後者寄りでとらえてるので、いさめる気も権利もないんだけど、仮にあいつらがマジなら、誰かが高須院長の取り巻きたちの話をマジメに聞いてやったほうがいいのだろうか、とも思った。これは、『ボウリング・フォー・コロンバイン』でマリリン・マンソン学校銃撃事件主犯だった少年たちに向けた言葉から思いついたんだけど(「黙ってあいつらの言いたいことを聞いてやる。誰もそれをしなかった」)。だけども、俺には無理だ。理解できないやつとも、俺と同じくらい醜いやつとも話す気力も知性もない。善良で体力のある人に頑張って欲しい。

なお、理解の及ばない排他的な方向に加熱している、という意味でのカルトや『ボウリング・フォー・コロンバイン』の例えであって、暴力予備軍とみなしているわけではないことは言い添えておく。

ポコチンの皮の話

バカバカしいことだが、俺は先の増田を書くにあたって、高須クリニックで包茎手術をやっていることを確認していた。

https://www.takasu.co.jp/danseiki/

俺がお詫びしなければならないのは、他人生業揶揄するような文章を書いてしまたことだ。これは本当に俺の想像力が欠如していた。高須氏にも美容整形に携わる方々にもお詫びいたします。申し訳ありませんでした。

2019-01-10

anond:20190110163745

時間を表すうちでは、真とはまさしくそ状態にあることを意味し、

真冬真夏はあるけど春と秋はうつろいの途中なので言わない。

同様に、朝と夕は、昼と夜の間のうつろい時間から真は当たらない。

2018-11-30

anond:20181130230921

とりあえず5000年程の不老寿命が欲しい。

子孫を残す能力を引き換えにしてもいい。

とにかく普通人間より圧倒的な長寿命を手にしたい。

命の連鎖の外にいてそれの繰り返しをひたすら見つめていたい。

人生の盛衰、国家の興亡、世界うつろいをこの目で見届けたいんだ。

あと透明化能力とか千里眼とかあると尚良いな。

2017-11-14

息を飲んで、息を吸って。

こんな形のリノベーションがあったとは、その時は誰も思っていなかった。しかし、それは実現したのだ。なぜならば、リノは、ベー君とションしたからだ。だからといって、君が言う言葉は失ってしまった世界とそれを繋ぐものであるはずがない。

ここは、どこなんだ?私はウツロイながらそう呟いた。ウツロウ、この漢字変換できない。そしてどんな漢字であったかも忘れてしまった。ただブラウザアドレスバー検索キーワードとして、うつろい 漢字 と入れれば分かる話なのかもしれない。だが、それをする手間すら惜しい現状がある。

2017-03-28

現代語訳/ 星野源「恋」

クズのようなあなた

クソみたいなお仕事タイムが終わりました

さあ帰りましょう


あなた人生意味などないです

日々はただ無常に過ぎていきます

それでもお腹が減ります

家に帰れば全自動で夕食が用意されています


あなたはお父さんとお母さんが

セックスして生まれました

みんなそうやってできました


夫婦でいると初々しかったころの気持ちを忘れてしまます

ただ側にいたい その気持ちを思い出してみてください

褥をともにすればまた取り戻せるでしょうか

冷めてしまった私とあなたの熱情を


恋の形態はうつろいでいきます

あなた初恋の人を幻影をおいつづけるかもしれないし

二次元存在に恋い焦がれるのかもしれない

所詮恋とは一人相撲です


夫婦でいると初々しかったころの気持ちを忘れてしまます

ただ側にいたい その気持ちを思い出してみてください

褥をともにすればまた取り戻せるでしょうか

冷めてしまった私とあなたの熱情を


夫婦なのだから色んな出来事があるでしょう

長く一緒に住んでいれば住んでいるほど


夫婦でいると初々しかったころの気持ちを忘れてしまます

ただ側にいたい その気持ちを思い出してみてください

褥をともにすればまた取り戻せるでしょうか

冷めてしまった私とあなたの熱情を

あなたと私でオリジナル関係を築きましょう

他の誰のものと同じじゃない、唯一の関係です


あと、ここにいる女、ぜんぶ俺の。

2016-05-01

循環するわたしの身体。

このあかるい午後に、光をとりこみ、呼吸をして、ただ生きている。

終わりが来れば、からだは朽ちて、新たな循環にとりまれる。

草木自然うつろいとともに朽ちていくのに、

ひとの身体はどうして、あらがうように醜く朽ちるのだろう。

ひとの自我が、自然の循環をこばむのか。

世界はそれぞれの循環をもってめぐりゆくのに、

わたし自我けが世界と溶け合わずに、ベットの上に横たわっている。

透明で、はっきりと形をもった自我は、世界にあらがうばかりではなく、

この自我ひとつ守るために、世界の終わりのスイッチさえ、ためらうことなく押すだろう。

たとえそれが、わたしを含め、ほかに生きるものの、すべての循環をうばってしまうとしても。

からこんなあかるい午後は、静かに目を閉じて、自我世界になじませてみる。

身体の呼吸するままに、夜が来るのをまつ。

(このポエム晩酌の残りをつまみながら10分で書かれました)

2015-12-15

ちょろい国民

案の定、新国立競技場の両案には「日本の伝統がー」「日本文化意識したー」「日本のモノづくりパワーをー」というような文言があふれていた。

で、それに対して「A案のほうが日本の伝統を感じるな」「いやいやB案の方が」とかTwitterでドヤコメする奴らが続々登場中なわけだ。本当に日本国民てちょろいなと思う。後付けでも何でもいいから、とりあえずそういう文言を並べておけばなんとなく納得してくれるんだもんね。

建築場合だったらとりあえず「木」を使って伝統感をアピールしておけば大体認めてもらえるし、そこに神社建築のうんちくやら日本の伝統色やら“うつろい”系のワードやらを絡めればもうほぼ完璧。一気に「文句言うやつは日本人じゃない」状態の完成なわけだ。

エンブレム場合は「日の丸」「桜」「富士山「絆」とかを絡めればOK。大体納得してくれるし、「反対する奴は非国民」と勝手擁護すらしてもらえるヨ。

建築家とかデザイナーはよく、こういうベタワードモチーフを使わず表現を行おうとするけど、残念ながら日本人にはそれを理解する知性も審美眼もないんだよねー。それどころか「これは日本人感覚とは違う」とか言われネットであることないこと叩かれだす可能性が高いから、そういうチャレンジは控えたほうがいいと思う。

今回のオリンピック騒動でいい加減わかったでしょ?これからは「ちょろい国民」と割り切って、ベタベタなコンセプトで金を巻き上げていくのが建築家デザイナーの生きる道。それが嫌なら国外脱出したほうがいいと思うヨ。

2013-12-24

精神的自涜

 私は心のうちに形のない肉棒を欲した。扱けばなにもかも忘れられる肉棒を。眠りに落ちるように想像現実となる世界を。生温かい泥沼に沈んでいく果てのない“抱擁”を。一方で現実の陰茎はまるで幻想の有機さとは程遠く、ただ排泄器官の一つとして働く以外断線され電子回路のように上手く繋がらなかった。不思議にも器官も私自身も全く自涜に走ろうとは思われなかった。我われは我われに何処までもついてくる影に全部身を委ねても構わなかったが影とは永遠に触れ合うこと無く、けれども数学界の微妙な誤差程度の拒絶を保って離れずに私を構成していた。謂わば私の求めているものとはこの隔たりを蕩かす運命であり、宇宙の手ほどきであった。

 世界が私を拒絶するたびに私は選択を迫られた。それは間違いなく献身自殺傲慢な己惚れ以外になかった。私は常々正直な人間であろうとした。教育する側の言い分を信じこんだ。不良を笑った。私の綺羅びやかな将来のための穢れ無き投資であった。しかし徐々に徐々に正義はその輝きを失っていった。まるで自然世界うつろいであった。

 跳ねられて死んだ猫の死体はいつまでも道路にあった。私が道路を通る度に猫は痩せ衰えていった。枯れ葉は猫を優しく包み込み、猫は博物館にいる小さな恐竜の如きに変身していくのだった。そうして私は自分の死後に幽かな希望を期待して毎日自転車を漕ぎながらその小さな崇高な生の残り香を愉しむようになったある日、それは何処へか消えていた。車両が毒々しい粉塵をまき散らして横を通った。鬱蒼とした雑木林の中、転生し蘇った力強き“生”を、確かに私は垣間見たのだ。……

2013-10-25

能年玲奈歌声

かっじ〜つドルチェ♪のCMを見た。

歌下手なんじゃね。なんか怖い。

よくわからないけど、怖い。

聞いてはいけない音を聞いてしまたかのように鳥肌が立った。

あまちゃんでの鈴鹿ひ○美に近い、不穏な音程。それに舌足らずさ。

ドラマ潮騒メモリ○を本気で歌ってるときにもちょっと下手じゃね…?と疑いつつだったけど、今回のCMの歌で確信したね。不安定な歌。まさにうつろいやす音程。そしてそれが完璧な下手くそではないところがまた、ね。何なのあれ。

視覚情報だけだとすごくかわいいんだけど、あの歌が入ったことで「ん?これは…」と唸ってしまう。無敵のかわいさまで相殺してしまうのではないかと思うくらいに、不安感がある。

まあ、あのCMは奇異の目で見てしまうよね。かわいいだけに。

※初め「能年玲奈の歌」のタイトルにしようかと思ったけど、それだと能年玲奈の歌っていうのを作詞作曲したのだと捉えられてしまう可能性があったので「歌声」としました。

そしてはてな匿名ダイアリー投稿するのはこれが初めてです。至らないところがあったらすみません

2013-08-06

レックスマークプリンタ

インクジェットは撤退してたんだね。

デル契約してたようだが、時のうつろいは速いもんだ。

2013-07-12

この世には情緒豊かで情熱的な方々がたくさんいらっしゃるようで、その場の激しすぎる衝動子供を作ったり、「愛さえあればやっていける!」と高尚な感情のみを頼りにして結婚したり、惰弱な逃げ道など用意せずに「義」のため、「愛」のために金を貢いだり借金を立て替えたりする風流人を拝謁する機会が多々ある。

「そこまで激しい愛に突き動かされたんだ。さぞかし幸福ある永遠の仲になるでしょうなあ」と感心していればそうでもなくて、あんなに愛を競い合っているように見えた彼らが、数年後には憎しみを競い合っているように見える事もままあるし、子供が生まれた時は満面の笑みで祝福していた母親が、今では般若の顔を被って子供を厳しく折檻しているどころか、逆に親子間で罵り合いつつ喰らいあう場面も多々あるというのだ。

全くもって不可思議奇っ怪、花の散るよりお早いうつろい人間というのは実に読めませんなあ、と結婚出産関連の怨嗟を覗きつつ独りごちている。

まるで梅よな。花を見る分にはいいが、漬けると途端に酸っぱくなる。単体では到底食えぬが、添え物としてなら程よい味を醸し出す。

満開の桜、松の下の鶴、満月すすき野にも勝てず、栄えがあるのは鶯止まる満開の梅の花のみ。

頻繁に切り詰めないとすぐ枝が汚らしくなり、鬱蒼とした暗がりを作り出す。古来からしまれてきているのに、中途半端な位置づけの一スパイスとしてしか影響が垣間見れないのも近しい物を感じる。

それでしかないのに、世の結婚出産必然的に人を縛り付け、無理にでも二人三脚しなければ立ちいかぬ仕組みとなっている。

「元気が二倍!」なぶん負担も疲労も二倍、いや、それ以上の重量を抱え込む事になる。特に子供は己を犠牲にせねば育ちもせず、育った後も見続けねばならない危うい存在だ。「梅のみを大切にし、他の花は疎かにせよ」などと戯けた状況だというのに、この世の思慕強き方々は若々しくそれを渇望していると来た。

子供の俺には毛程も理解できませんなあ。

2013-04-30

〈死〉について


  死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。

 言葉にしてしまうと平凡だが、そのときの僕はそれを言葉としてではなく、ひとつ空気のかたまりとして身のうちに感じたのだ。文鎮の中にも、ビリヤード台の上に並んだ赤と白の四個のボールの中にも死は存在していた。そして我々はそれをまるで細かいちりみたいに肺の中に吸いこみながら生きているのだ。


 - (村上春樹 『ノルウェイの森』)


 死とは何であろうか、という根源的な問いに対して答えようとした哲学者は多数いる。

例えばハイデガーがそうである。私はハイデガーの著作を簡単に理解できるほどの頭を持った人間ではないが、ハイデガー人間存在をして、"Sein zum Tode"、つまり「“死”へと向かう存在であるとして捉えている。

 死は我々にとってあまりにも大きな存在であり、時に我々の在り方は“死”そのものによって規定される。

 無論、そういう言い方はあまりにも“死”というものを大きく捉えすぎている、という反論もあるだろう。“死”というものはあくまで実体を把握できない彼岸にある存在で、我々にとって死とは多くの現象の一つに過ぎないか、あるいは文化として我々の前にあるものの一つに過ぎないと言うこともできるだろう。

 その中で、村上春樹は“死”というものを「万物がその内側に抱え込み、育てているもの」とした。

 彼はその存在について「何かぼんやりとした空気のかたまり」と称してもいる。

 空気、というのは一つのキーワードでもある。スピリット、という言葉語源は“空気”という言葉と根を共にしている。というのは、聖書の上で泥の人形だった我々に魂を注いだのは、まさしく神の息吹だったかである


 “死”とは一体何であろうか。

 我々とって死とは、村上春樹の言う通り、「内側で腫れていく存在」と言えるのであろうか。

 結論から言ってしまおう、それは、“死”というものの一側面に過ぎないのではないだろうか。

 “死”とは確かに我々の内側にも存在している。しかし、それは同時に彼岸にも存在するものでもある。

 彼岸存在する死は、常々我々から遠ざけられている。日常において“死”を意識する瞬間はほとんどない。あるいは、葬儀などの機会に出くわしたとしても、その存在を具体的にはっきりと捉えることはないのである

 しかし、それでも我々は死に常々触れている。“死”は彼岸にありながら、確かに我々のすぐ傍に寄り添っているものでもある。

 我々が様々なもの認識するときにもまた、死は我々のすぐ近くに存在している。

 例えば、我々が何かに触れようとする時、その皮膚と対象との間のすぐ近くに、死は存在している。

 我々は、例えば人の手に触れる。その時に、我々にとって相手のてのひらと自身のてのひらとの間に、死は存在しているのである

 死とは、我々のすぐ傍にあり、そして我々との間に境界線を形作るものでもある。死は、我々が何かと触れ合おうとする度に、その介添人として、我々の手を取り、そしてその対象と我々を結びつけるものなのである

 これがどういうことかお分かりであろうか。つまり、死は常に我々と触れ合っており、その死と我々との間にできた境界線と呼ぶべきものが、我々の触れている一切のものとの間にできた境界線に関わっているのである

 “死”とは機会であり、境界線のことなのだ

 我々が触れ合った、手と手の間に、死は存在しているのである


 フランス哲学者エマニュエル・レヴィナスは次のように言っている。

 彼岸にある存在は、我々と境界線を共有しない、と。

 しかし、私はそうは思わない。死は我々のすぐ傍にある。だからこそ、我々の存在、そして我々を縁取っている境界線と呼ぶべきものは、はっきりとした形で我々の認識に晒されるのだ、と。


 確かに、我々は死を内側に含んでいる。

 それはまるで胎児のように、あるいは生命の萌芽のようにして含まれている。そして我々はその死を育み、時にその死を拒もうとするものである

 しかし、時にその死こそが我々の境界線を規定している。死こそが、我々とその外部の世界とを結びつけ、我々と世界の間に境界を生み出し、そして我々のうつろいゆく認識というものの介添人となっているのである

 死とは、彼岸にあるものでもある。それは、我々の内側で腫れていき、今ぞ誕生の時を願っているところの(あるいは死産の恐怖に怯えるところの)胎児存在にも喩えられる。

 しかし、死とはそれと同時に、我々と世界との間に、あるいは、我々の手のひらと手のひらとの間に、芽生え、我々の関係を取り持ち、我々と世界の全てとの変化を結びつける介添人でもあるのである

2012-07-04

Summerism

 季節はなんでやってくるのか

 どうしてそれはうつろいでゆくのか

 それは、公転運動があるから


 恒星があって、その重力があって初めて、惑星の公転運動があり、ひいては季節の移りゆきも生じてくるというわけだ

 つまり、季節というのは、太陽があって初めて成立するのだ


 季節は太陽のもちものなのだ


 そして夏は

 まちがいなく光の季節で

 太陽の季節でもある


 何故、時はうつろいゆくのか

 それはきっと、記憶があるから

 記憶があるから、新しい季節の輝きに気付くことができる

 かつての輝きを知っているから、新たな輝きに目をすがめることがあるのだ


 たとえば、世界の一切が、同じことの繰り返しだったとしても

 記憶があれば、その繰り返しごとに違った感想を抱くことができるだろう

 そうやって、記憶があればこそ、僕たちは同じところに留まるのではなく、次のステップに進んでいけるのだ


 全て、推進力とよぶべきものは、記憶のもとにこそある


 全ての季節の中心に太陽があるように


 しかし僕達は、いつかは記憶を忘れるだろう

 その記憶から遠くに行けば行くほど、記憶は薄れていく

 でも、遠くに行けば行くほど、また新しい記憶を手にすることができるんだ


 そうやって今日も一日を更新していく

2009-05-09

http://anond.hatelabo.jp/20090508223115

私がいるな。

小説読んだ時もそうだし、実生活で感じたことを言葉に表現できない時にも

似たような感覚に陥る。それを増田に書こうとするのだけれど、元記事増田と同じで

文章にすることができない。30分以上ディスプレイの前で格闘の末に結局挫折する。

私の場合、まず語彙が乏しいことが第一。その言葉とその意味概念を知らなければ

言葉にしようにも出来る訳がないと思う。これは本を沢山読んで辞書で調べて増やすしかない。

語彙が豊富でもそれを使って表現できなければ意味がない。

だから、次に自分の「もやもや」した感情をどう文章にするかだと思う。

話逸れるけれど、身近に私に輪をかけたように表現力の乏しい人がいて、

伝えたいことをジェスチャーと「みたいな」という言葉だけで

表現しようとする人がいる。驚いたことを身振り手振りしながら

「うわってなってきゃーみたいな」と言う。とても聞き苦しい。

「むかつく」や「うざい」のような安易な感情表現を連発する人は

語彙も表現力も乏しいのだろうな。非常に頭の悪そうな印象を受ける。

それで伝わるのだから、ある意味で便利な言葉ではあるのかもしれない。

私もそれを使いそうになった時は、その「むかつく」や「うざい」を

別の言葉に置き換えるように普段から意識しているかな。

と書いていて、上の「ある意味で」とは「どういう意味で」だろうなと思った。

おそらく「その言葉受け手が相手の感情を自分の体験・経験に照らして

どう「むかつく」のか、どう「うざい」のかを感覚的に理解してくれるか、

または自分勝手言葉に置き換えてくれるという意味で」なのだろう。

(これで表現できている?)。まぁ、こんな風に別の言葉に置き換えてみる。

話を戻して、

だから増田で表現しようとして書いては消し、また書いては消したり、

キーボードに向かってじっくり推敲(?)するだけでも訓練になると思う。

それでも表現できないなら、まだ自分の中で煮詰まっていないのだと考えて

一旦諦める。その「もやもや」を忘れないように書きかけの文章は一応残しておく。

時々、読み返して普段からそのことを意識するようにする。

何かの拍子にふっと上手い表現が沸いてくることがある。

ただ、そんなのは稀で大抵は本を読んでいるときに、

あの時の「もやもや」の正体はこれだったんだと分かることが殆ど。

それでもその他人が書いた文章を読むと「もやもや」した霧が晴れて

とてもすっきりする。清々しい気持になれる。

確かにその時は他人の表現かもしれないけれど、それでいいと思う。

表現もある程度は学ぶものだと思う。現に今自分が使っている表現も

本を読んで覚えてきたものを使い回しているだけだと思う。

元記事増田

それは、空に浮かぶ雲のように、時間が経つにつれてうつろい、消えてしまう。

は正にそれなんじゃない?こういう表現を自力で考え出せるなら才能あるよ。

私的だけど結論。

大事なのは自分の中に言葉にできない「もやもや」の存在を感じ取ること。

それを覚えていて常に意識して言葉で表現しようとしていること。

新しい表現を考え出すよりも、知っている表現を使いまわして表現すること。

その内に新しい表現を思いつくかもしれないし、死ぬまでないかもしれない。

後者で終わる恐れがとても濃厚な気がする)

なんにしても本を読まないと始まらないかもしれない。

--

こんな風に正しいか間違いかは別にしてとりあえず文章にしてみることかな。

期間を置いて読み返してみて、「何か変なこと書いてるな。稚拙な文章だな」

と思えれば、少なくともその時よりは成長していることを実感できる。

もう一度、同じことを一から書き直してみるのもいいかもしれない。

と、たったこれだけの文章を考えながら書いていたら 1時間以上かかった。

世の作家は一冊の小説書き上げるのにどれだけ時間を使っているんだろう…

2009-05-08

もやもや

小説を読んだあと、心の中になにかもやもやが生まれる。

もやもやは小さいときもあるし大きなものもある。

それは、空に浮かぶ雲のように、時間が経つにつれてうつろい、消えてしまう。

僕はそれをなんとか言葉にしようと、キーボードに向かう。

けれど、このもやもやをうまく、僕が感じているように表現することができない。

書いては消し、また書いては消し、いつの間にかもやもやとはかけ離れた味気無い文章になってしまう。

だから、他人の感想言葉を求める。

僕のこのもやもやを表しているであろう言葉を探して。

他人の感想を読んでいるうちに、小説を読み終わった直後に生まれたもやもやは変化し、読んでいる感想と似たようなものになる。

他人の書いた言葉が、自分言葉としてでてくる。

それはなんだか悲しいことだと思う。

僕の想いを、僕の言葉で。

僕の歩いてきた20年の人生の中に、僕の感じたもやもやを表せるものがないのかもしれない。

どうすれば、もやもやをうまく言葉にできるのだろうか。

 
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