はてなキーワード: トランスセクシュアルとは
https://x.com/an_azure/status/1822907978753921286
笙野頼子さんの本を実際に読んで感じたのは、なんでこんなに性同一性障害について真摯に考えているひとが攻撃されたのかということ。トランスセクシュアルとトランスジェンダーを一緒くたにした人間の責任を問いたい。わかるように説明してよ。
https://anond.hatelabo.jp/20240721230541
ジジェクは道を誤った / メラニー・ゼルMelanie Zelle [スワースモア大学の学内新聞『スワースモア・フェニックス』の編集者] ※削除済
ttps://web.archive.org/web/20230303073524/https://swarthmorephoenix.com/2023/03/02/zizek-has-lost-the-plot/
私が哲学に興味を持つようになったのはスラヴォイ・ジジェクのおかげである。
彼の著書『終焉の時代に生きる』と『パララックス・ヴュー』に偶然出会い、中学2年生の私が苦労して読み進めたこの本が、
ジジェクの文章は、彼が即興でする賛美のすべてにおいて、素晴らしく説得力があると私は感じた。
本棚に積まれた1000ページにも及ぶ矛盾の山に憤慨しながら『Less Than Nothing』を読み通したのは、高校時代に果たした偉業だった。
私は、ジジェクの長編作品の論旨を理解できるかどうかで、自分の知的価値を測るようになった(現在はほとんど理解できないが、以前はまったく理解できなかった)。
それだけに、現代の政治文化に関する最近の記事で、ジジェクを非難するのは心苦しい。
しかしある意味で、ジジェクと私の関係は、彼が何について間違っているのかだけでなく、
なぜこのような著名人が、あのように明らかな知的陥落にはまることができたのかを理解しようとする上で、
有利なポジションに私を置いていると感じている。
私の怒りの主な対象は、先週発表されたばかりのジジェクのエッセイである。
そのタイトル「Wokeness Is Here To Stay」は、たぶん私がそれほど警戒するものではなかったと思う。
ジジェクの哲学は、ヘーゲル、ラカン(そしてフロイトも)、そしてもちろんマルクスへの愛着から、オーソドックスな、ほとんど伝統主義的なものと特徴づけうる。
他方で世間一般におけるジジェクのペルソナは、意図的に培われたものだと私は主張したいが、ディオゲネス的挑発者であり、象徴破壊者であるが、自分勝手なものではない。
ジジェクのこうした面が、彼の論文や公開講演会、そして彼の知的活動への、より親しみやすい影響を及ぼしているようだ。
したがってジジェクが、クリックした人々が眉をひそめるようなタイトルを選んだことを読んでも、私は驚かなかった。
私は、ジジェクのお気に入りのトリックのひとつである、正式な哲学的分析の範囲外と考えられている文化の側面を選び出し、
喜びを感じながらそれを切り裂くことに慣れてしまっていた。
(ある講義では、カンフー・パンダについて論じており、また別の講義では、ヨーロッパ各地のトイレの特殊な構造が、
ポストイデオロギー的なポストモダニズム世界の概念に対する究極の反論となっている)。
ほとんどの場合、ジジェクの指摘は最終的に重要であり、さらに重要なのは、彼の広範な哲学のいくつかの要素について、面白おかしく、
しかし(おそらく結果的に)効果的に紹介者の役割を果たすことである;
そして一見したところ、"Wokeness Is Here To Stay は同じ公式に従っている。
トランスジェンダーの権利をめぐるスコットランドの政治的混乱から始まり、他の現代政治問題にも触れ、最終的にはフロイトとラカンへの言及で締めくくる。
表面下に潜む構造的な違いを無視しても(これについてはまた述べる)、この作品には、ジジェクのいつものトーンとは正比例しがたい苦渋が感じられる。
これは、私の最大の関心事である彼の議論の内容については言うまでもない;
ジジェクは、スコットランドにおけるトランスジェンダーの権利をめぐる、最近の政治論争をめぐる議論について、記号論的な分析を行っているわけでもなければ、
正確に他の多くのことと結びつけているわけでもない。
結局のところ、ジジェクは皮相な哲学的手法とともにただ単に政策論争に参加しているだけであり、遺憾ながら完全に間違っている。
ジジェクは、過去10年間にリベラルな知識人全体に伝染した観を呈するトランス医療をめぐるパニックに陥っている。
ジジェクのいつもの懐疑論は、ここではいつもの懸念荒らしconcern trollingの再現に留まる。 ジジェクはこう書いている:
「思春期ブロッカーは、タヴィストックでの診察に送られたほぼすべての子供に投与された。
その中には、性的指向がはっきりしないという誤診を受けた可能性のある自閉症の若者や、問題を抱えた若者も含まれていた。
言い換えれば、医学的な性別移行を望むかどうか判断できる年齢に達していない脆弱な子供たちに、人生を変えるような治療が行われていたのだ。
批評家の一人が言ったように、『性別の悩みを抱える子供には時間とサポートが必要である。あとになって後悔するかもしれない医療措置に進むよう仕向けられるべきではない』 」。
この一節は疑問を投げかける。ジジェクは、その知的能力において、思春期ブロッカーが何であるかさえ知っているのだろうか?
ジジェクの引用の使い方は、この作品の中で頻繁に行われていることから特に明らかであり、すでに示唆されていることを裏付けている。
実際、彼が引用したガーディアンの記事を読んでいれば、上で引用した段落を修正できたかもしれない。
ジジェクが引用した記事の上の行には、"異性間ホルモンは16歳からしか処方されず、専門家によれば思春期ブロッカーは不妊の原因にはならない "と書かれている。
したがって、このスロベニア人に知的怠惰の恩赦を与えることもできない。 これは純粋で単純な不誠実さであり、危険な形態である;
さらにひどいのは、ジジェクが記事の冒頭で取り上げた最初の文化的分析対象である。
『コンパクト』編集部がありがたいことに、ページをスクロールすると引用文が表示されるようになっているのだ(まだ彼の論調を十分に理解していない人のために)。
それはこうだ: "女性だと自認する人物が、ペニスを使って2人の女性をレイプしたことを我々は知っている"
“We have a person who identifies itself as a woman using its penis to rape two women.”
ジジェクが言及しているのは、アイラ・ブライソンの事件である。
この有罪判決は、スコットランドにおいてレイプで有罪判決を受けた史上初のトランス女性となり、
トランスの人々に対する「懸念」を持つすべての人々にとってのロールシャッハ・テストとなった。
ここでジジェクは、基本的な事実認識が間違っている。ブライソンの性別移行の時系列を誤って伝えているからだ。
さらに問題なのは、読者を煽動するために、本質化するような言葉を使い、さらに誇張していることである
(「ペニスを持ったレイプ犯が、囚われの女性たちと刑務所にいる」という表現が思い浮かぶ)。
ブライソンを「彼he」、そしてさらに厄介なことに「それit」と、ジジェクが性別を間違えて表現することに固執するのは、
ジジェクがトランスのアイデンティティを尊重することを、裁量に任された、善行次第のものだと考えていることを示唆している。
ジジェクはこの論文で、控えめに言ってもトランスフォビックtransphobicだ。
しかしそれ以上に、ジジェクは退屈で、独創性がなく、不誠実で、怠惰である。
彼はトランスの人々について、『ガーディアン』紙や『ニューヨーク・タイムズ』紙の同様の記事からは得られないようなことを何も書いていない;
この時点でようやくジジェクが哲学について語るかもしれないと思うのも無理はないが、残念ながらそれは間違いである。
記事の次の部分はさらに長く、さらに面白くない。『コンパクト』誌に掲載された別の記事の宣伝である。
(中略)
で、どういうこと? なぜジジェクはこんなことを書くようになったのか?
その答えは、対立的でありたいという彼の誤った願望にある。
彼は、この作品の中で他者が陥っていると彼が非難する事柄に陥っている。すなわち、自分を悩ませる他者を、自分自身の中で勝手に思い描く罪を犯しているのだ。
The answer lies in his misplaced desire to be oppositional. Ironically, he is guilty of the thing he accuses others of falling prey to within the piece, that of envisioning for himself an Other that haunts him.
[ジジェク]「要するに、ここにあるのは、政治的に正しい突き上げと、金銭的利益の残酷な計算との最悪のコンビネーションなのだ。 」
思春期ブロッカーの使用は、[ジジェクによると]"目覚めた資本主義 "のもうひとつの事例であるとされる。
ここでジジェクは、ジャニス・レイモンドの1979年の『トランスセクシュアルの帝国』に端を発する、トランスジェンダーの人々が選択する様々な処置や療法は、
製薬企業にとって重要な経済的利益をもたらすものであるという、一見したところ長年にわたる議論に訴えかけている。
そうすることで、救命医療へのアクセスを容易にするべきだと主張する人々を、自分たちの身体をめぐる現実の物質的な対立のために戦うのではなく、
資本の側、つまり極悪非道な個人の側にいる人々として捉え直すことができる。
バトラーやフーコーを読んだことのある人物が、このように書くことができるのは、こうした運動が誰のためになるのかという、権力についての混乱がジジェクを盲目にさせているのだ:
[ジジェク] 「性的混乱に「異常」なことは何もない。「性的成熟」と呼ばれるものは、長く複雑で、ほとんど無意識のプロセスである。
それは激しい緊張と逆転に満ちている。自分の心の奥底にある「本当の自分」を発見するプロセスではない」。
作品全体と同様、これはジジェク特有の哲学的プロセスといううわべに包まれたいつもの本質主義と、トランスフォビアtransphobiaである。
この最終的な帰結は、英米でトランスジェンダーの物質的な生活にすでにダメージを与えているヒステリーhysteriaの波に、ジジェクがお墨付きのスタンプを押したということだ。
ジジェクは、社会の変化に懐疑的なジャーナリストや知識人の瘴気miasmaの中に紛れ込んでしまったかのようだ。
これはポストモダンの懐疑主義に非常に批判的な人物から出た究極の皮肉である。
過去の思想家からの豊かな引用を悪しき議論の隠れ蓑に変え、気まぐれさを苦味に変えてしまう。
私たちにとって悲しい日であり、多くの意味でジジェクにとっても悲しい日である。
ジジェクは豊富な理論的な著作の中で最高のパフォーマンスを発揮し、ここでは最悪のパフォーマンスを発揮している。
このエッセイを読むと、あなたは感じ取るだろう。少なくとも少しは彼がそれを自覚していることを。
[終]
トランスセクシュアルとかトランスジェンダーとか性同一性障害とかの
生まれ持った性別と「自認」が異なる状態(性分化疾患は別)って
自分が自分を何者だと思うかの問題として語られがちなんだけどもそれはウソで
常に「対社会」の問題、つまり自分が他人から何者だと見られたいかということなんだと思う。
自分は自分でしかないのでもともと自分の心そのものに性別はない。自分の精神の働きについて「男(女)特有の考えだな」というバイアスを知覚することはない。
別の言い方をすれば性別は文字通り属性であって自分自身ではない。「日本人である」とか「昭和生まれである」とかと同列のものだ。
性別は対社会の局面でしか現象しない。「私の心は本当は男なのだろうか、女なのだろうか」みたいな問いには意味がない。「私は男(女)として見られたい」があるだけ。
トランスセクシュアルとトランスジェンダーをきちんと区別できてない人が多いのかな。
トランスセクシュアルの犯罪よりも雄フェミの犯罪のほうが申告じゃん
セクシャルマイノリティはLGBTだけじゃない!あなたは"LGBTTQQIAAP"という言葉を知っていますか?
この記事読んだ。
LGBTはご存知の通り以下の4つ。
Transsexual(トランスセクシュアル、性別違和)
Queer(クイア、当事者がセクシュアルマイノリティ全てを包括する言葉(総称)として抵抗運動(クィア・ムーブメント)や連帯の合言葉)
Questioning(クエスチョニング、性自認や社会的な性、性的指向が確立できず、自問している人)
Intersex(インターセックス、身体的な性別(体の性)を男性・女性どちらにも分類できず、性染色体に異常がみられる。両性具有など)
Asexual(アセクシャル、恋愛感情を抱くことがなく、性的に興奮することもない)
え、おかしくない?
なんで「アライ」とかが平然と入ってるの?「クィア」?連帯の合言葉ってなんだよ。
これ、性的少数者の分類じゃねーじゃん。ただ自分の味方とか認めてるやつを並べてるだけじゃん。
しかもしれっと「PZN」(ペド、ズー、ネクロ)とかを省いてる。
PZNも性的少数者なんだけど?「アライ」なんかより優先順位が下だってのか?
おかしいでしょ。そこまでして性的少数者内で差別を続けたいの?
はっきり言わしてもらうけど、こういう不誠実なダブスタ差別を続けてる限り、LGBTには何の正義もないよ。
蜘蛛の糸の犍陀多。救われようとしてるくせに、他の性的少数者を蹴落とそうとしてる。
セクシャルマイノリティの理解は我々日本人にはまだまだ足りていない部分が多いと思います。
現状では、セクシャルマイノリティの方々が安心して普通に暮らせる環境がまだ整っていません。
誰もが自分らしく生きていける世の中にするために、一人一人がセクシャルマイノリティの理解を深めていく必要があると思います。
そうだな。まずお前が理解足りてないよ。
この国で、いや世界で一番差別を受けてる性的少数者の分類は何か。
Pだよ。paedophilia。
【みんながLGBTに意識高くなっていてウザい】anond:20190319214717
結論から言います。この増田はトランスジェンダーなのでLGBTに含まれます
みんな「???」って思った?でもトランスジェンダーの定義からすると増田は立派なトランスジェンダーなのです
例えばこのサイトではトランスジェンダーをこのように定義してます
http://jobrainbow.net/gender-expression
トランスジェンダーとは、実は大きく3つに分けることができます。
(1)(狭義の)トランスジェンダー:性自認と周囲からみられる性が異なる状態
例:「性自認も身体的性も男性だが女性として見られている」「性自認と身体的性が異なり、周囲から性自認とは別の性として見られるものの、外科的な手術までは求めない」
(2)トランスセクシュアル:身体的性と性自認が一致していないことに対して違和感や嫌悪感を抱いている状態
(3)トランスヴェスタイト(クロスドレッサー):性自認と身体的性は一致している状態で、それとは異なった服装を身にまとう状態
この定義によれば増田は(3)に当てはまりますからトランスジェンダーなわけです(この定義が正確かどうかは知りません)
さてトランスジェンダーをこのように定義した場合、ちょっと困ったことが起きます。
『松浦大悟さんの「女湯に男性器のある人を入れないのは差別」論への疑問』
「男性器のあるトランスジェンダー」とはいったいどのような人なのかということです。
先ほどの定義からすれば増田は「男性器のあるトランスジェンダー」になるわけです。
性同一性障害でホルモン療法をして性別移行手術直前の人も「男性器のあるトランスジェンダー」です。
この二者を同一のくくりとして議論するのはさすがに無茶があります。
なので「トランスジェンダー」の話をする場合、どの範囲の話なのかあらかじめ明示しておかないと大変なことになるよ!
大変なことになるよ!
https://anond.hatelabo.jp/20190112150155
SRSして戸籍も変更、基本的に埋没して男性と結婚しているMtFですが、一番最初の「トランス女性への根源的恐怖感はスルーされていいわけ?」(https://anond.hatelabo.jp/20190110110456)の人も、心情的にはわかります。ただ、恐怖を理由にしたら何でも言えてしまうわけで、「怖いからやめてください!」を振りかざされるのには、それこそ恐怖を感じてしまいます。
わたしはオペ前に公衆浴場に入るなどということは考えたこともないですし、現在でも基本的に公衆浴場や温泉は利用しません。使ったことはありますが、裸になってジロジロ見られれば骨格その他でわかる可能性はあるわけで、それに対して不快感を覚える人がいたら嫌だからです。これは単に「他人に迷惑をかけたくない」ということもありますが、それ以上に「恐怖の対象」のように見られてしまうことに「恐怖」を感じますし、また尊厳を傷つけられるからです。
当然ながら、こちらとしては積極的に恐怖を与えるつもりはないですし、シス女性やそれ以外の方の大勢もそうでしょう。そういう「普通の人」が、他人から「うわーこわーい、逃げろー」みたいに扱われたら、酷く尊厳を損なわれるし、悲しい気持ちになるでしょう。シス女性の一部はあまりそういう状況を想像したことがないのかもしれませんが、大抵の人は「うわーこわーい」と言われたら悲しいと思います。
恐怖の対象として扱われるのも嫌ですし、「仲良くしてやってやる」と上から見られるのも不快ですから、どうしても人との距離は離れめになってしまいます。まあこの辺はわたし個人の性格によるもので、似た立場の人でも人懐こい方はたくさんいらっしゃいます。
上の「『男体への恐怖』を正当化する差別主義者多すぎやばい」の方は、ちょっと口調がキツすぎてかえって反感を買ってしまうのではないかと心配しますが、筋道としては概ね同意はします。一方で、心情的には「恐怖」の人の気持ちもわかるわけで、またあまりにかたくなな態度をとってかえって攻撃を煽っても嫌ですから、当事者としては心情は複雑です。
と、とりとめがなくてすいません。
当然ながら、これはわたし個人の経験と見解であって、似た立場の人を代表するものではまったくありません。「似た人たち」を十把一絡げにすることこそが差別だと思っています。だからわたしは「LGBT」とかいう恐ろしく大雑把な言葉も嫌いです(が、とりあえず術語としてそうした言葉が便利に使えるというのはわかりますし、またこういうわかりやすい=不正確なワードを広めることで薄く広い「理解」を進められている、という利点は大いに認めますが)。
ついでに言えば「トランスジェンダー」という言葉にも少しモヤモヤしてしまいます。昔は「トランスセクシュアル」という言葉などとセットや対比をもって使われていた気もするのですが、最近はその辺、随分大雑把になりましたね。もちろん、身体的特徴でもって弁別するような考え方が薄まったということなら肯定的に捉えるべきかもしれませんが、SRS程度で社会的生存を許されるならお安い御用、というか、それくらいは当事者の責任として頑張ろうよ!という気持ちもあり、これも複雑です(保険適応にも反対でした)。
筋道としての正しさと、社会的共感を生んで平和裏に共存するための努力というのは、分けて考えるべきなのかもしれません。
結論がなくてすいません。
http://b.hatena.ne.jp/entry/www3.nhk.or.jp/news/html/20161104/k10010756371000.html
ブコメの反応が思った以上に否定的で驚いたんだけど、よく考えたら、なんの前知識もなければ私も文句つけてたと思う。
記事の中に
「ほかの学校で応用する場合、当事者本人の意向を丁寧に確認して対応していく必要がある」
私は愛媛に住んでいて、丹原東中の挑戦を割と近いところから見ている。
2014年度、文科省人権教育研究指定校となった丹原東中は、当時の校長の発案で「性的マイノリティ」を題材に取り上げた。
独自に資料、書籍を集めたほか、愛媛のLGBT当事者団体と連絡をとり、教材作りから全面的な協力を受けている。
当事者団体の代表は、最初に「生徒さんの中にもいると思われますが、当事者探しをするようなことにだけはならないように」とお願いした。
中学生の中には「マイノリティ」の意味もわからない段階の子もいる。繊細な問題を、焦らず段階を追って教えることに、先生方は大変な努力をして取り組んだ。
私は、LGBT当事者サイドからその取り組みを追っていた。正直最初は不安だったが、日を追うごとに生徒の様子が変化するさまを見ると、素晴らしい経過をたどっていることがわかった。
それは実際の生徒の言葉からも感じられると思う。段階を踏んで、このように変化した。
「最初は、どうせ『道徳の時間』を作るための授業だろうと軽く考えていた」
↓
「世の中にはそういう人もいるんだ」
↓
「社会に偏見があるとわかって、家族や友人に、言えなくて苦しんでいる人がいるかもしれないと思った」
↓
「今はまだわからないだけで、自分が『性的マイノリティ』の可能性もある」
周囲の人を思いやる段階さえ過ぎて、自分のこととして捉える感性が育っているのだ。
丹原東中の性的マイノリティ学習は、「性的マイノリティの知識を身につけ差別をなくしていく」という趣旨で始まったが、学校側や関わったLGBT団体の期待した以上の良い変化を生徒にもたらした。
精神的に安定し、穏やかになった。
セクシャリティに限らず、相手が何か問題を抱えている可能性に配慮し、また、自分の抱えている問題を相手が暴くことはない、という信頼関係が生まれ育っている。
こういった学校であるから、まだ教育を受けておらず差別的な言動をしてしまう新入生がいても、徐々に人権感覚を身につけていく。
3年にわたる連続した学習があって「思いやりトイレを使ってもいじめられることなどにはならない」と、確信を得て今回に至ったのだ。
また、元記事中で使われている「LGBT」という用語は、レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダー(トランスセクシュアル)の頭文字からきた言葉ではあるが、そのほかにも様々にある性的マイノリティの総称だ。「トランスジェンダーの方に配慮」といった時にこぼれ落ちてしまう性的マイノリティを含むという考えでこの言葉を使っているのだと思うので、LGBには関係ないなんて責め方しないでやってください。
まあ元記事に上げている通り、自殺率がヘテロに比べて六倍だという事実もありますし。
私にだって思春期には色々と悩みもあったんですよ。
ええですから、よく考えもせずに現実はそこまで救いようがないことはない、などとは仰らないで下さいね。
因みに、ホモセクシュアルやトランスセクシュアルといったマイノリティーが、メンタル面に多く問題を抱えざるを得ないという状況にあるという事実は、昨今でも多く取り沙汰されております。
http://www.nhk.or.jp/heart-net/mukiau/shirou3.html
ブクマコメで温かいお言葉をたくさんいただいてしまった。大変ありがたい。
優しいのは私の周りにいる人達だけじゃなくて、多分世の中には優しい人が大勢いるんだろうと思う。あんまり優しい人が多いものだから、私はちょっと世の中をナメてしまいかねない。そんな生やさしいもんじゃねえぞと言ってくださっても構わない。
色々言っていただいたので、軽く追記しようと思う。
まず、自分について把握していること。
重症軽症という言葉を使ってしまったが、これはいわゆるトランスセクシュアル、トランスジェンダーと呼ばれるもので、前者がいわゆる性同一性障害の中核群、後者は肉体を変えたいとまでは思わないが性別違和があるというものである。ともに性同一性障害として認知されており、私もこの後者の部類であるものと自分では思っている。
とは言え、広く一般のトランスジェンダーに対し「覚悟がない」だとか「肉体の性別で生きていくという選択肢もあるんじゃないの?」などと言う気は全くない。今回ぼやいているのはあくまでも私個人の問題だ。あくまでも私が、私の中にある不安のために、私を宥めてみたり鼓舞してみたりしようとしているだけだ。以降も、そういう文脈と思っていただきたい。
考えていたこと。
前回のエントリで
この辺りの「どっちでもいいよ」感というのが、非常に微妙なところで、批難されるに値するところだろう。
と書いた部分が、どうも人目に止まるものだったようだ。実は、指摘を受けてぎくりとした。
この文章自体は、実のところ何の気なしに書いた。ただどうも色々露呈してしまったらしい。つまり私は、そもそも心のどこかで、「どっちかであるべき」と思ってしまっているのである。
自然の摂理とかその手のものを持ち出すつもりはなく、それは一種の「しめし」の問題だ。
つまりこういうことである。「特殊」な人間がそれを白日の下にさらけ出して生きるなら、それ相応の、格好よく言えば「覚悟」のようなものを示すべきなのではないか、それが大人としての礼節であり責任というものではないのか。そして実際そのくらいでなければ、世の中渡っていけないんじゃないの、という。
以前友人の一人が、私がこのような人間であることを知らないままに率直さをもって、このように言ったことがある。「オナベって、美人じゃないと説得力ないよね」。正直に言うが、私は納得しさえしたのだ。このように思っている人は大勢いるに違いないのだろう、という点において。
私たち(私は性同一性障害というものになにか帰属意識を持っているわけではないが、こう言う)はどう言い繕っても特殊である。特殊な人間は多分、普通よりもいろんなものを持っていなければならない。嫌悪されないだけの人格や、社会から不要と見なされないための能力。軽蔑したがる人につけいられないためには隙(醜さもその一つだ)があってはならず、見当違いな憐憫を浴びないためには生まれ育ちが不幸でない方がよい。あまりにも乱暴な物言いと呆れられるかもしれないけれど、それが実際のところなんじゃないのと思っている。
だから常に毅然としていなければならない。物事をよく弁え、その上で覚悟を持ってこの生き方を選択したのだと言うことができなければならない。不快だと顔をしかめられても、だけど仕方がないじゃないですかと言えるだけの、こちら側から示せるもの。それがつまり「しめし」と言ったことの意味だ。
ちょっと格好をつけ過ぎたので恥ずかしい。繰り返すがこんなこと、他人に押しつけるつもりは毛頭ない。そもそもいつでもこんなことを考えているわけじゃなくて、冒頭にも言ったように、「世の中結構なんとかなっちゃうもんでしょう」くらいのつもりで日々生きている。
けれど多分心底には、このような物事の捉え方があるのだと思う。だから前回のエントリで「批難されるに値する」と書いた。
そして、けれど、多分本当のところは、こういう考え方がちょっとおかしいんだということは、自分でも薄々分かっている。前段落で書いたことのうち、まだしも尤もらしいのは「覚悟を持って選択した」あたりくらいのものだ。それ以外はクソみたいな「べき」論だ。
考えてみること。
本当は、「どっちでもいいよ」と言ってしまいたい。どっちでもいいんだけど、どっちかと言ったら男として生きたいと思っていて、どちらを選ぶかは自分の勝手だから勝手にするんだよ、何と引き替えるつもりもなければ何の努力も払うことなしに、当たり前みたいな顔でそうするんだ、と、そういう風に言ってのけられるようになりたい。
私は、そうする権利を持っていないつもりでいる。心のどこかで、それは不当に失ったものだと思ってさえいる。
だけど多分ここに書いたようなことは全部、何もかも、自分の一人相撲でしかないんだろう。規定しているのは自分自身で、だから必要なものがあるとすれば、それは「自分で選んで、自分で決めるんだ」という覚悟だけだろう。それがありさえすればきっと、「どっちでもいいよ」と言い切ることもできるようになるんだと思う。
長々しい愚痴に対してのご静聴、ありがとうございました。
そういえばここに至るまで、私が感じていると主張するところの「性別違和」や「どっちでもいいや」感の実態というものに触れていなかった、と思い出したのだけれど、それはここで問題にしたいことではない気がするのでやっぱり書かない。あまりにも長くなってしまうこともあるし。
性同一性障害の人はネット上にたくさんいて、私よりも心情吐露に優れた人もすぐ見つかるだろうと思うので、そちらをあたって「こんなようなものなのかあ」と読んでいただければ、それでいいかと思う。
姉さん:結構年上。お堅い職業。MTFTS。
もともと、とあるボランティアサークルで知り合ったんだけど、たまに連絡ごとと雑談をメールやメッセでする以外は、姉さんの事は落ち着いた大人の男性としか思っていなかった。いつも物事を俯瞰して、議論が脱線しそうになったときや空中分解しそうになったとき、的確な意見をくれる。そんな存在。
一方私は、彼氏と一部の親しい友人くらいにカムアウトして、一時期そういう団体に所属して勉強会とか交流会に参加したりしてたことがあったけど、もう彼氏と付き合う前の事で、当時の友達ともほとんど縁がとぎれてしまっていた。
自分のセクシュアリティについての実感も薄らいでいて、「あー若い頃はそんなこと言った事があったなぁ」くらいの感じ。
それが、急に思い出すきっかけは某SNS。入ってみたら、当時のLGBT(レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスセクシュアルの略)関係の知り合いが民族大移動か!っていうくらいに皆いて、少しづつだけど交流が戻ってきた。
そんな私のところに、友人から「パレード行かない?」と誘いが。
歩くのは抵抗があるけど、関連イベントのパーティーなら行く!と久しぶりにゲイナイト(正確にはGAYMIX)に参加したのが去年。
もう、ここが私のルーツだ、といっぺんで感動したね。絶対来年も来るんだ!!と熱い日記をSNSに更新してからあっという間に一年が。
その間に交流も増え、ボランティアつながりとギョーカイの人と、リアル友人がごっちゃになるカオスを呈してきた頃に、私がSNSの日記に