はてなキーワード: 胡蝶の夢とは
大友克洋の全集が刊行されているのを、近所のヴィレッジヴァンガードで見かけた。それで思い出したことがあるから、ここで書き留めておく。別に誰かを責めたり批判する目的ではない。
大友克洋の初期短編で、こんな作品がある。ファンの人ならば、知っている人も多いはずである。
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主人公である現代の日本人サラリーマンは、家の寝床で眠る時や、通勤列車内での居眠りしている時、或る夢を見る。
その夢の中で主人公は、決まって、太平洋戦争末期の、南方戦線に従軍している旧日本軍兵士である。夢の中での戦況は、良くない。物資も衛生環境も、上官の質も。
それらは、日増しに、眠りに就く度に、悪化していく。夢の中の主人公は、窮地に追いやられて行く。
終に主人公は、夢の中で敵兵の銃弾に身体を貫かれ、地面へ仰向けに倒れ込む。
物語のラストは、事切れて仰向けに倒れた、旧日本軍の兵士としての主人公の「会社の上司に作成を命じられた書類を、明日までに仕上げなければ……」というモノローグで幕を閉じる。
そのラストの画面となる大きなコマは、仰向けに倒れた主人公を、横から撮影したカメラアングルになっていて、広角レンズで撮影したように地面が湾曲している。
そして、それ以上に決定的なのは、主人公が横たわる地面がコマの上(天)側に、青い空がコマの下(地)側に描かれていることである。
現実と思っていた現代人のサラリーマン人生こそが夢であり、戦時中の旧日本軍兵士の身こそが現実なのであった。
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次に、個人的に好きなラテンアメリカ文学作家の一人である、アルゼンチン出身のフリオ・コルタサル(Julio Cortazar)を紹介する。このコルタサルの邦訳題名が『夜、仰向けにされて』という短編小説がある。こんな話である。
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現代人の主人公は、市街地をオートバイで走行していた時に転倒事故で負傷し、病院に入院することになる。
その夢の中で主人公は、決まって、アステカの人狩り戦士たちに追われて密林の中を逃げ惑う、原住民の男である。もしも戦士たちに捕まれば、人身御供として神殿の祭壇上で、生きたまま心臓を抉り出されて太陽神に捧げられる。
夢の中での状況は、良くない。日増しに、眠りに就く度に、悪化していく。アステカの戦士たちによる包囲網が、どんどん狭まって、夢の中の主人公は、密林の中で逃げ場を失い、追い詰められていく。
昼間、病院の医師に悪夢のことを相談しても、怪我の精神的なストレスと言われるだけで、毎晩の悪夢を見ることは止められない。
終に主人公は、アステカの戦士たちに捕らえられて、神殿地下の石牢に閉じ込められる。祭壇に運び上げるのに備えて、生贄専用の御輿に、大の字の仰向けに拘束された状態で。
主人公の番がやって来た。神官たちが、主人公の御輿を担ぎ、神殿の急勾配の階段を登り始める。主人公の足を上に、頭を下に向けた状態で。
主人公は、必死に夢から覚めようとする。主人公は、夢から目が覚める。主人公は、病院のベッドに仰向けに寝ている。
しかし、水平感覚がおかしい。頭が下で、足が上になっているように感じる。
気がついたら、やはり主人公は、御輿に拘束された状態で、神殿の頂上へ向かって運び上げられる真っ最中である。
主人公は、物語の冒頭を思い起こす。五月蝿い羽音を立てる金属製の蜂に跨り、大きな石造りの建物の間を高速で移動していた時のことを。
あれこそが、夢だったのだ。この生贄にされようとしている今が、現実なのだ。
御輿は、神殿の階段を登っていく。主人公を仰向けにしたままで。
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作品の発表年は、コルタサルの方が大友克洋よりも早いようである。しかし「胡蝶の夢」形式の現実と夢の逆転物語は、古今東西、枚挙に暇がない。フィリップ K. ディックほか、多くの作家が書いている。したがって、大友克洋の短編がコルタサルの短編を元ネタにしているとは、簡単に断定できない。とはいえ、物語の締め括りが、仰向けになった主人公、天地の逆転というところが、酷似しているようにも思える。
もう一度言っておくが、批判したり責めたりする目的ではない。単に、ふと「過去に、大友克洋はインタビューとかで『元ネタはコルタサル』と明言していたっけ?」と思っただけである。そして、例えば石ノ森章太郎の『サイボーグ009』のラストは、レイ・ブラッドベリの『万華鏡』であるとか、藤子・F・不二雄の短編『流血鬼』の元ネタは、リチャード・マシスンの『地球最後の男(I AM LEGEND)』であるといったような、オタク好みの由来話を知りたいと思っただけのことである。
大友克洋は既に有名なので、ここではフリオ・コルタサルの方を宣伝しておこう。岩波文庫から短編集『秘密の武器』『遊戯の終わり』『悪魔の涎/追い求める男』が出版されている。特に『悪魔の涎/追い求める男』は、堅苦しい文学作品として捉えなくとも、ホラー・怪奇ジャンルが好きな人にはエンタメとして楽しめると思うので、気軽に手にとって試しに読んでみて欲しい。
なんかFGOのシナリオが『探偵映画』っぽいとか噂になっているようなのでついでに宣伝しようと思ったが、中古でも新書版しかないってどういうこと? 講談社文庫も文春文庫もあるはずなのに…まあせめてKindleでどうぞ。 https://t.co/jejAX1otKs @amazonJPさんから— あびこ (@sukiyapotes) May 17, 2019
「惑う鳴鳳荘の考察」と探偵映画が似ているという、我孫子武丸氏のこの指摘を読んで、私は訝しみました。
ですが、京大ミス研出身で、講談社からデビューして、麻耶雄嵩に受肉させられたような人間が、こんなベタな作品とネタを被らせるでしょうか?
そこで私は、思い出してしまったのです。
数年前、同じように探偵映画の盗作をして話題になった「ホタエナッ!!」という演劇のことを……
これは、伊福部崇さんが「ホタエナッ!!」を盗作として断罪されてしまったことのリベンジとして「惑う鳴鳳荘の考察」を書いた。
そう考えれば、すべてのパズルのピースが綺麗にハマるのです!!!!
なお、この理論により、辻村深月とかかずゆみが同一人物になりますが、どちらもドラえもんに関係しているのだから、同一人物に決まっています。
放送作家が何をする仕事かわからないけど、どちらも作家とついているのだから、違うはずがない。
なお、この理論により、森見登美彦とふかわげんきが同一人物になりますが、この二人はどちらも「よく可愛い女の子に囲まれてて羨ましい」という、逃れようのない事実としての共通項があるため、同一人物です。
下二桁目と下一桁目が同じ「3」である。
これは偽名を名乗るときに自分の名前から取ってしまうのと同じ現象。
なお、この理論で、似鳥鶏(38歳)と田村ゆかり(43歳)が同一人物になりますが、この場合どちらも「世界一可愛い」という共通点があるため、証明不要です、世界一は一人だけです。
どちらも関西にある変人があつまる大学なので、大阪芸大に入れる人間は京大にも入れるに決まっている。
なお、この理論により、梶井基次郎と庵野秀明が同一人物になりますが、偏食の庵野秀明と檸檬大好き梶井基次郎が同一人物のはずがありません。
奈良には鹿がいて、北海道には熊がいる、どちらも音が二文字で漢字が一文字と非常に似ている、おそらく同一の生き物の別の呼び方にちがいない。
同じ生き物が住んでいるのだから、これらは同じ場所に決まっている。
なお、この理論により、森見登美彦(奈良県出身)と田中理恵(北海道出身)が同一人物になりますが、二人とも配偶者が可愛いという疑いようのない真実が合致しているため、この理論を適応しなくてもよいです。
逆転裁判 時間旅行者の逆転は巧舟のモノマネで、ブルコンのテーマには神谷明や小野坂昌也などのモノマネをするパートがある、モノマネなんて聞いたことも見たいこともない芸を披露できるのは同一人物だから。
なお、この理論により、北村薫(女子大生のモノマネをしていた)と青木佑磨(鷲崎健のモノマネをしている)が同一人物になりますが、どちらも学生時代への強い憧れがあるという気持ちを抱えているので、同一人物なのは一目瞭然。
谷川ニコは作画と原作の二人組で人間は二人いると必ずセックスをするし、天使もえはセックスをするのが仕事なので、同一人物。
なお、この理論により、岡嶋二人とみくちゃんが同一人物になりますが、クラインの壺も素人図鑑File-07も同じ胡蝶の夢をテーマにした作品なので、この理論によらずとも、同一人物です。
青崎有吾は「青がつくミステリ作家のじゃないほう」で、天津向は「天津のじゃないほう」で、どちらもじゃないほうなので同一人物。
なお、青がつくミステリ作家こと青柳碧人と、天津こと木村卓寛は、多作の売れっ子作家と一発屋芸人なので同一人物ではありません。
「うゆーさん」だの「うゆうさん」だのなんて表現は、ライトノベル以外の何物でもない。
すべてのライトノベル作家はあかほりさとるなので、麻耶雄嵩も同様にあかほりさとるである。
松屋にも辛いものは置いてあるが、伊福部崇が満足するほど辛いものは置いていない。
好きな食べ物がまったく違うのに、二人を同一人物として扱うなんて狂っています。
なお、そもそも、別に「惑う鳴鳳荘の考察」は探偵映画のパクりではありません。
また、我孫子武丸と関智一は怪盗不思議紳士という作品などで交流があり、あの件は終わっています。
なので、もう良い加減に「探偵映画」という言葉を見かけるたびに「伊福部さんがパクったやつだ!!!」とテンションを上げて、このような駄文をしたためるのはやめたほうがいいのです。
以上です。
どーも、デレステやってる志希Pです
フェス限志希、出たのでそのセリフ確認少しするよ。ヒマな人はどうぞ。
まず、私が注目したセリフでも挙げておこうか
ルーム特訓前
「ヒューマンエラー。人間の揺らぎが、実験研究の最大の敵なんだよね」
ルーム特訓後
「達観するのにも飽きたからさー。人生、楽しまなきゃソンだよ」
ホーム特訓前
「この街並みを見てるとさー、もしかして、全部夢なのかなーって」
「思いだすな―、あの頃。あの頃は…どんな頃だったっけ。どうでもいっか」
良いセリフもいっぱいあった。特に、今回の志希は非常に落ち着いている。
誰かとの反応ではない、”一ノ瀬志希”そのままの輝き。彼女が個人で持っている魅力…
…話がそれた。
とりあえず気になったのは、ここら辺。
で、まずは
「ヒューマンエラー。人間の揺らぎが、実験研究の最大の敵なんだよね」
まず、この発言は事実を述べたもの。「人間の揺らぎは実験研究の敵」という事実。
でも、事実を語るのは少ない。なくはないけど。
幾つかの要因が積み重なって徐々に興味が薄れて、何かのきっかけで完全にやめる、という事が多いと思う。私は。
幾つかの要因の一つか決定的な何かかは知らないけど、志希はおそらく「人間の揺らぎ」で苦い思いをして、そして研究をやめた。
「似たもの同士で反発」「父親はぶっ飛んでいる」との事なので、私が言いたい事はこうなる。
「非常に合理的な考えを持っていて、当時の志希にはあり得ない冷酷な答えを出す事もある大人」→「人間の揺らぎ」を起こしたのは志希
「俗物的で金や名誉を大事にするような考えで、志希にとってはあり得ないくらい子供」→「人間の揺らぎ」を起こしたのは志希の父親
よし、一つ終わり。
それでは次、「達観するのにも飽きたからさー。人生、楽しまなきゃソンだよ」やろうか。
この文章から、志希は「達観していた」「人生は楽しくなかった」とわかる。
私の思う達観は、言い換えれば「妥協を覚える」「諦める」が近いかな?そこまで悲観的じゃないけど。これ補足ね。
かるーくまとめる。
以前の志希は明るく無くて、いつもつまらなそうな顔をしていた。
そして、「達観していた」。周囲の大学の研究者からみたらどう見える?
”此方を見下した、頭は妙に回るガキ”だと思われるんじゃないかな?
ついでに、二宮飛鳥と長くお喋りしてた件。この話が正しければ、飛鳥を気に入るのも簡単にスジが通るよ。
以前の志希と飛鳥は、「対人」が共に死んでいる。
「コイツ馬鹿だ」と思えばもう、相手に敬意どころか気遣いも無し。
つまり二人は似た者同士!
あ、私は志希も飛鳥も好きだよ?なんだかんだ二人は前向いて歩いてるから。
じゃ、ここまでで「志希は飛鳥に過去の自分を見て、それで気に掛けている」説終わり。
よし、次。
「この街並みを見てるとさー、もしかして、全部夢なのかなーって」
「思いだすな―、あの頃。あの頃は…どんな頃だったっけ。どうでもいっか」
内容が一緒だから、纏めていこう。
まず、上。「全部夢なのかも知れない」
※真剣にコレを考え”続ける”ことは難しく、志希なら一瞬で終わります。詳しくは「胡蝶の夢」でググって
街並みを見た時の「楽しそう」「五月蠅い」といった感想とは違うね。
続けて、下。「あの頃の事は、別にどうでも良い」※見栄を張っている可能性は少ないです、自分に語るような声音だったので
なら、その高い能力から多くの経験を積んできたはず。印象的なこともたくさんあった。
なのに「どうでもいい」?
この二つから、分かった。
志希はもう、現世に未練が殆どない。引き留める人がいなければ世間一般で言う”失踪”をするだろうし、少し生きづらくなれば「面倒なことはゴメンだね」と簡単に自殺もあり得る。
Twitterで誰か志希Pさんが「志希は気がついたら幻のように消えてしまいそう」と言っていて、私も結構共感していた。
その危うさが、志希の魅力を引き立てていたから。
…これで「幻のよう」が一気に加速した。いやー凄い。私正直、公式にここまで出来るとは思ってなかった。
この魅力を出すなんて。
なーんか中途半端な気がするけど、ここまでかな?
後は、前回のコメント返し。まともな人だけ。(約一名)
一応ね、度々セリフ集の確認とかはしてるよ。最近のドラマチックシナジーも。
だけどね…あれは考察には挟めないや。
だって志希がにゃはにゃは笑ってる以外、何もない。可愛かったけど。
島村卯月が「頑張ります!」と笑顔で言っていた頃、私は卯月がどのくらいの情熱を持っていたか知らなかったよ。
彼女のアイドルへの憧れ、彼女自身の在り方への悩みなんて知らなかった。
ぶつかり傷つき、その壁から逃げ出すのも良い。
一旦壁から逃げて見れば視界が広がる。壁と会うことが無い道もあるだろうし、壁を超える方法が見つかるかもしれない。
傷つかなかったら? その姿はとても格好良い。それもまた個性。
ただし、より高い壁とぶつかった時どうなるのかは神のみぞ知る。
まあつまり、そういう理由でモバマスは使わないよ。少なくとも今は。
終わり
見てくれた人ありがとう
もしこの世界がゲームの中だとして、自分がゲームのキャラクターだとしても、これがゲームなのか現実なのか、答えはわからない。
クラインの壺、クリス・クロス 混沌の魔王、胡蝶の夢とか、良く聞く話。(高畑京一郎はおすすめ。作品少ないし、続編出てないけど)
科学っていうのは、このゲームの中かも知れない世界のプログラムにあたるルールを明らかにすること。これってすごくない?
例えば、原始人が普通に生活していても、ウランの同位体を集めて核融合をしようとは思わないだろう。
また、DNAの切り貼りで、まったく違う生物のDNAを組み込んだ生物をつくろうとは思わないだろう。
でも、科学という、この世界のプログラムを読み取り、世界の仕組みを知ることで、通常では思いつかないような裏技を使えるようになる。
科学ってすごい。
http://anond.hatelabo.jp/20161003130854
80年代から90年代にかけて、日本は経済的に豊かになった。生活が大雑把に言って誰にとってもよくなったし、多くの人が下層から中流へと引き上げられていったのだと思う。増田自身がそうだというのではなくて、この考え方がどこかにわだかまっているのを感じ取って書いているのだと思うけど、この「『景気はずっと上昇していくし、そうでなければおかしい』ってのは非常に傲慢で気が狂った意見に思えるんだけど、どうだろう?」という発想は、そうやって引き上げられて適応できなかった人たちの言葉なんじゃないだろうか。
人類の歴史のうち、記録に残っているのは紀元前精々数千年だけれど、その間でテクノロジーの進歩が止まったことはなかったはずだ。ヒトは消費を拡大し、経済を拡張し、産業を発展させて、生存をより確かなものにし続けてきた。文明、経済や文化の発展とはエネルギー消費の拡大でもあるけれど、生存をより確かなものにするためのものでもあった。
「景気はずっと上昇していくし、そうでなければおかしい」というのは、この認識に対する挑戦だと思う。つまり景気は「上昇しすぎた」ので、「おかしい」が、「おかしくなかった」水準があり、そこまで下降することが現状よりも良い、という意見だ。おそらく経済学を学んだ人なら教科書の最初の章で学びでもすることなんだろう ―― そこにはもっと簡潔で示唆に富んだ言い方で書いてあるのだろうけれど、景気は上昇しなければおかしいし、景気を支えるのは景気だ。経済は静的な系ではない。常に動的で、一時的な、その裏にある人間の日常生活を調停するメカニズムに過ぎない。
彼らの語る"適切な規模の経済"には、いつもどこかから富が湧き出てくることになっている。財やサービスが社会システムによって無から自動的に生み出され、それを絞ることで持続性を確保することになっている。そこに規模の経済などもちろんないし、需要と供給の関係もない。代わりにあるのは、供給と受け入れ可能量だ。大衆は受け入れ可能量をもち、与えられた賃金の中で供給を仕方なく消化するが、受け入れ可能量の伸びには限度がある。だから供給は低く押さえることが望ましい、というモデルだ。
景気の爆発によって、多くの人が経済や社会を自分の認識する世界と切り離して考えるようになってしまった。あるいはそういう人が新たにたくさん発言力を得た。株式市場というのは一部の人が遊ぶゲームで、経済政策は美麗字句を書いた文書に過ぎない。小さな好景気や不景気は《降って》くるもので、仕事場と帰りに寄るスーパーと自宅の外のことは、そういった仮想世界での事件とは何ら関係なく、「おかしくなかった」水準で永遠に続いていく。これらの人々は胡蝶の夢のごとくそう思い込んで、「仮想世界にのめり込むのはやめよう」と言っているようにも聞こえる。増田の意見、そしてそれに類する意見を見るたび、そういう違和感を覚える。"現実世界"から"仮想世界"のものを排除して、きれいで質素で、自分が必要だと思ったものは無から湧き出ることで変わらず存在していて、必要がないと思ったものはきちんと栓を閉めたのでどこを探しても残っていない、そういう過不足のない世界を作るんだという幻想がそこに見える。
でも、うまく言えないけど、そんな"仮想世界"はないんだ。全国で毎年数百人しか使っていない制度を廃止すると、増田の5親等先から悲鳴が聞こえてくる。平均株価が何ポイント落ちると、コンビニのジュースが何円上がる。コンビニは贅沢か。それなら上水道でもいいかもしれない。飲み水に上水道は贅沢だろうか。
経済は永遠に拡大していくという言い回し、永遠に消費は増え物価は下がっていくというモデルが今一つ心に響かないよ、という気持ちはわかる。しかしそれを理解してほしい。経済は褒めれば伸びる。ときどき発振する。抑えれば、フィードバックがかかってどんどんと落ち込んでいく。スタグフレーションは実在するんだ。支出を抑えて賃金を下げても、誰かの所得が増えるわけじゃない。金の額面は貯めこめても価値は貯め込めない。それは増田も貯金の価値が不変ではないと認めている通りだ。価値は、作らなければ、自然に風化して消えて行ってしまうんだ。
コントロールされた縮小をすれば一定量の幸福を長く保てるなんていうのは幻想なんだ。自分が理解できない経済のメカニズムをぶち壊しても、美徳や気持ちで金銭を置き換えても、その実態は通貨の名前を変えた貨幣経済だ。どうかそれに気付いてほしい。