はてなキーワード: 独善とは
何故って、自ら望んで生を受ける子はこれまでにただの一人も存在せず、一方で親は子を為そうとして子を為し、また子を育てようとして子を育てるからである。「食べる」の受動態が「食べられる」であるのと同じように「生む」の受動態が「生まれる」である。猫に食べられたいと望んで食べられる鼠なんてのがせいぜいフィクションの中にしか存在しないのと同じように、親に生まれたいと望んで生まれる子なんてのは現実には一切、全く、金輪際存在しない。まずここまでの話に同意できないやつは創作の読みすぎ、そうでなきゃ宗教の影響を受けすぎだ。どうせ宗教をやるなら禁欲を徹底して処女懐胎くらい起こしてみろやw
よって親は子に対しあらゆる贖いをしなければならない。もちろん(それが子の望みを叶える手段または子の望みそのものでない限り)肉体的な死は贖いにならない。何故ならそれは独善でしかありえないからである。贖いとは子の望みの一切を叶えることであり、またそれ以外を一切行わないことである。社会的に死に、子の魔法の杖でのみあれ。老いずとも子に従え。自ら贖うことの叶わないときには同等かそれ以上の代償を払ってでも叶えよ。子の望みが下僕に伝わらないのは下僕の能力に難があるのであって、断じて子に望みが無いことを意味しない。解釈をするな。正解を出せ。そもそも子の望みを子に伝えさせている時点で下僕として不適格である。本来、子がステーキを食べたいと望んだときには既に子はステーキを食べ終わっているべきである。しかし非常に不本意なことにそれを叶えるのは誰にとっても現実的でない。したがって下僕はあらゆる所作の初めと終わりに「申し訳ございません」と発さねばならない。これは「御望みをお叶えすること能わず申し訳ございません」であり「御自ら直々に御言葉を発させてしまい申し訳ございません」であり「生んでしまい申し訳ございません」である。この程度のことで得られるものは少ないが、何も無いよりはよほどマシである。それくらいの態度は示せ。許しも得ず勝手に生んでおいてその程度の贖いすらできぬ者が傲慢でなくて何であろうか。
これを完璧にこなせる者のみが親である資格を得るべきである。俺には無理。既に親である者には無理と言わせねえぞ。しかしほとんどの人には無理だろう。だから人は子を為してはならぬし、子を為し得る行いもしてはならぬ。あらゆる人生は自死のいずれかでしかない。親でないうちに死なねばならぬ。そういうわけでとっとと去勢したいのだが、どこでやってくれるんだろう。阿佐ヶ谷ロフト人肉食事件の当事者に聞けばいいのかな。俺のこの望みが未だ叶っていないのも、俺を生み俺を育てたと勘違いしている者が一度たりとも正しく俺の親であったことが無いからである。恥を知れ。
成田vs田原の動画は老人の独善と総意がそのまま動画化されたって感じでとてもよかったよ
https://www.youtube.com/watch?v=C7E3eBU28yM
どうしようもねぇって思った
まずもって私は他人に指図されるのが大大大の大嫌いなのだ。それを野菜の洗い方はこうだ、切り方はこうだ、味付けはもっと薄くなんて一挙手一投足にケチをつけられることに腹を立てたのだ。なんやかんやあるけど結局はこれが一番の原因だ。ここからは目をそらしてはいけないだろう。
具体的に起こったことはこうだ。私が晩飯の料理中に、その様子を眺めていた母が野菜の洗い方に指図をしてきて、私はそれに腹を立てた状況である。こう書くと我ながら心の狭いことだ。
野菜の洗い方への指摘ごときで怒った心の狭さを認めたくなかったのだろう、私は別方向に飛躍した怒り方をすることになる。それは、母の「なんで?」という問いかけが独善的だと感じるというものだ。
自分の中の基準と違う言動を私がしているのを目にすると、母は「なーんで〇〇しちゃうの?」と相手に聞く。これは一見相手の言い分を聞き、言い分を勘案した上で意見の擦り合わせをする動きに思えるが、私の感じ方はそうではない。結局母は他人の言い分を聞きっぱなしなのであって、それを自分の意見に反映させることはないのだ。あくまで、自分の中の納得の一助とするだけ。だからこの問いに対して理由を説明することは無駄だと思っている。申し開きの有無に関わらず、この質問の後は自説がいかに正しいかの説明と、自説に基づいた行動を採ることを相手に求める説得が始まることが確定しているのだから。
であるなら何故理由を一旦聞くのか。それは相手の言い分を斟酌した、というエクスキューズを自分の中に求めているだけなのだ。どこまでも自分の意見本位に動くつもりなら、「私は相手に自分の意見を押し付けてなどいない、あくまで話し合いの上での合意である」という言い訳まで用意しないでほしい、せめて自分の独善を承知した上でそう振舞ってほしいという怒りである。
これを伝えたところ、母から帰ってきた言葉は「あんたがやりたいって言ったからピアノも習わせてやったのに」であった。自分が相手の要求に十分応じているアピールと誰のおかげでここまで生きてこれたんだ論法の併せ技である。自身の独善を承知してほしいと伝えての回答がこれで、母の逆撫で能力の高さに慄き、そして当初とは別種の立腹を得た次第である。
まあ私も私である。母の独善があるように私にも私の独善がある。自身の独善によって他人を支配できると無邪気に信じないでほしいと思う私の気持ちもまた、独善である。
長年の仕事を辞めて家族のために帰郷してきた。本当にくだらない怒りではあるが愛憎入り混じっているなと感じる。愛の方が格段に多くはあるが、愛に免じてここは謝ってくるべきなんだろうか。悩むね。