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2021-01-26

知的障害児の母親が忘れられない 追記

知的障害を持つ子供と親について、またそういった子供を産むことや育てることについて、比較マイナスな内容です。不快に思う方もいると思いますので自己責任でお読みください。


インスタのおすすめ欄を見ていたら、軽度の知的障害を持つ娘を小学校普通学級に通わせてるお母さんの投稿が出てきた。その子クラス孤立していること、授業の指示を理解できていないという報告をサポーターの人から受けたらしく、学校に行って状況を改善するよう話をしたいという投稿だった。

これを見て、ふと小学校の時に同じクラスにいた知的障害を持つ男の子のことを思い出した。その子、Aくんは、授業中、授業に関係ないことを唾を飛ばしながら話し、正面を向いて座れないのかいつも横向きに座っていた。国語からっきしだったが算数が得意で、足が早くて、ドッヂボールが好きだったと思う。正確に覚えていないけど、小学校までは普通学級で過ごして、中学支援学級に通っていたはずだ。

当時の担任先生は、大人になった今考えても非常に真摯に生徒に向き合ういい先生だった。私も当時3ヶ月ほど入院したことがあるのだが、他県の病院にいた私のもとへ平日の放課後にお見舞いに来てくれるような先生だった。何を話したかは覚えていないが、クラスの皆に手紙を書かせ、きれい製本し、お花と私の好きだったキャラクターの小さなぬいぐるみと共にプレゼントしてくれたのを覚えている。その先生はAくんにも目をかけ、目に余るようならば厳しく叱ったりするものの、しかし他の生徒と良い意味でも悪い意味でも同じように接した。そのため私たちもAくんのことについて「変わった子だな」とは思いつつ、Aくんが障害を持っていることは成長するまで知らなかった。察している子もいたかもしれないけど、少なくともあらゆることにおいて「障害があるから」ということを理由にしない先生だった。田舎学校なので、私も含めクラスメイトたちはなかなかいい子ではなかったけれど、注意することはあれど、強い言葉で怒ることはしなかったし、ましてや手をあげることは一度もなかったから、幼いなりに先生尊敬していた。

その先生が、唯一大きな声を出して、たった一度だけ、されど一度、手をあげた相手がAくんだった。詳しいことは忘れてしまったけれど、Aくんの腕を掴んで廊下へ連れて行こうとする先生の目がなぜか潤んでいたのは覚えている。

ところで、私は小学校から歩いて子供の足で30〜40分ほど離れたところに住んでいた。家が遠いので、近くに住む幼馴染と一緒に登下校していたのだが、幼馴染のクラスは私のクラスに比べて帰りの会が終わるのがかなり遅かった。そのため、私はよく廊下で幼馴染を待っていたのだが、ある時、ふと忘れ物したことに気づいた。幼馴染のクラスはまだ終わらなさそうだったので、自分教室へ取りに戻ることにした。教室電気がついていたので、先生挨拶しようと思って教室を覗き込めば、先生と誰かのお母さんらしき人が話しているのが見えた。特別聞き耳を立てたわけじゃないが、ドアが開いていたので声が聞こえてきた。Aくんのいることでクラスのみんなに迷惑をかけている、Aくんのことを叩いてしまう、先生にも手を出させてしま申し訳ない。そのお母さんは泣いているらしく、当時小学校の低学年だったけれど、これは聞いちゃいけない話だと思い急いで戻った記憶がある。

それからしばらくして知ったけれど、その女の人はAくんのお母さんだった。実は私はAくんと6年間同じクラスだったため、私の母とAくんの母は面識があった。私が小学校卒業してだいぶ経った後、母が酔った時に聞いた話だが、Aくんの母はAくんのことについてかなり思い詰めていたらしい。

Aくんの母は、Aくんを一人で育てていた。私も私の母も、小学校から中学までの9年間、Aくんの父親も、Aくんの祖父母も親戚も見たことはない。働いていたようだし、もしかしたら離婚していたのかもしれない。Aくんの下にいくつか年の離れた妹がおり、それでもAくんのことでクラス迷惑をかけてしまうからと、学級委員を引き受け、PTA活動にもかなり積極的に協力していた。そういえば、学期末にAくんのお母さんからクラスのみんなにお礼と言って高そうなお菓子をもらった気がする。とにかく、Aくんのお母さんは周囲の子供や先生保護者に常に頭を下げていた。授業参観懇談会行事も、常にAが迷惑をかけて申し訳ない、と言っていた。母は詳しく話さなかったが、AくんとAくんのお母さんについて、冷たい言葉を浴びせる保護者もいたらしい。私は特別Aくんと仲がいいわけではなかった(そもそも性別が違うので一緒に遊んだりはしなかった)が、Aくんのお母さんは授業参観等で私に会うといつも疲れた笑顔で「いつもありがとうね、Aが迷惑かけてごめんね」と頭を下げた。小学生の私は、大人の女の人から頭を下げられることなんてなかったから、なんだか不思議気持ちがした。

私は現在20代になり、友達との会話も、結婚子育てについての話題が出るようになった。特に仲良い友達子供好きで、最近お兄さんの子供が産まれたらしく、自分結婚して早く子供欲しい、そのためには彼氏を見つけなきゃね、と笑っていた。私に子供ができたら、自分の子供と遊ばせよう、と。

彼女は当たり前に自分の子供が健常児であると信じており、私の子供もそうであると思っている。私もそう思っていた。でも、Aくんのことを思い出すと、もし自分の子供が知的障害を持っていたら、と考えてしまう。わたしは、自分の子供のために尽くせるんだろうか。Aくんの母親のように周囲に常に頭を下げ、言うことを聞かずに周囲に迷惑をかける子供を躾け、周囲の心ない態度にも耐えることができるんだろうか。私がもっと人間的に成長すればできるのだろうか。今の私よりはるか人格者だった担任先生ですら、手をあげたのに?

子供可愛いと思う。昔は苦手だったのに、今は赤ちゃんをみると思わず笑ってしまう。自分が産むのは痛そうだし怖いけれど、好きな人の子供を産むのは素敵だとも思う。でもそう思えば思うほど、もし障害を持っていたらと考えてしまう。その子父親となる人は、私の両親は、友達は、理解を示してくれるだろうか。一人で育てることになるとしても、私は自分の子供を育てられるんだろうか。もちろん健常児でも同じ不安はあるけれど、障害児なら尚更、自信がなくなっていく。

知的障害の子供を捨てる方法はないらしい。親や親戚に育てられる環境があるなら、施設にはそう簡単に入れないという。産んでもし障害児だったら。もしくは、産まれときは元気でも、後天的障害を抱える可能性もある。そうなったら多分、私は捨てる方法を探してしまうかもしれない。子供を育てられる自信がないのはもちろん、わたしはAくんの母親のようにはなれないしなりたくないと思ってしまう。

こんなことを考えている私は多分子供を産む資格はないし、年齢的にもまだ産む予定はないが、子供を産んだ親は皆こういう悩みを乗り越えているのかな。それとも私の友達と同じように、自分の子供が健常児でないなんて想像もしていない?

ネット検索すれば綺麗事は沢山出てくる。色々考えて、乗り越えて、幸せ暮らしている家族だってたくさんいる。だけど、自分母親になれるような年齢になってから、Aくんの母親が忘れられない。優しい人で、でも小学校の後半は、子供の目から見てもやつれているのがわかった。彼女はどんな気持ちで、私たちと関わっていたのだろう。

Aくんと母親が今何をしているかは知らない。ただ、Aくんが楽しく過ごせて、あの母親がもう頭を下げなくていい生活をしていたらいいと思う。


1/27 1:22

注目エントリに入ってるのを見てビビり、タイトルがあまり露骨だなと思ったので変えました。本文も誤字直したり付け足したり。

本文に書いたように、どんな子供であっても自分の子を捨てるかもなんて考えをしている時点で私は子供を持つ資格はないと思っています。私の子がどうこうというより、障害を持っている子供とその周囲について、実際に見たことを思いだして、世の中の人はどう考えているのかなと疑問に思い書きました。不快な思いをした人はすみません問題があるようなら消します。

1/27 13:48

起きたら人気エントリに入っててさらビビりました。たくさんの反応ありがとうございます

編集タイトル変えても別のところ(ブックマーク?)では変わらないんですね。増田に書くのが初めてなので知りませんでした。消さなくて良いよと仰る方が多く安心しましたが、一部タイトル含め不快な思いをしてしまった方もいるようで、配慮が足りず申し訳ありませんでした。

コメントブックマーク等、全て読ませていただいています

私は親になったならばその子がどんな子供であれ幸せにする責任があると思っているので、福祉の充実も含め、親が二人(もしくは一人)で育てていかなくてはいけないという体制もっと良い方向に変化して欲しいなと思っています。勿論今も私の子供の頃に比べたら支援等かなり良くなっていると思うのですが、やはり世の中のお父さんお母さんでそこまで考えて産んでる人は少ないと思いますし、それこそ私の友人のように健常を前提として子供を産んだ親や、子供が産まれた後なんらかの事情障害を抱えた場合、すぐに「それでも我が子だから頑張ろう」と育てていける人ってかなり少ないと思います。これはもちろん健常児の場合も同じで、健常児だから楽というわけではないことは承知しています。ただ、親が正直しんどいと思った時、育てるか捨てるかという二択ではなく、少しでも子育てをお休みしたりできるシステムがあれば、親になりたい、もしくはなりたかったけど、という人も子供を持ちやすくなるしいいと思うのですが、これは子供からしたら親と離すなんて可哀想、という意見も出そうですし難しいのかな。まとまってなくてすみません

同じような不安を抱えているよ、と書いてくださる方が多くて嬉しかったです。また厳しい意見ありがとうございます。実際に体験した話もそうでなくても、皆さんから意見を読むことで、自分の中のモヤモヤしたもの記憶が整理されていく気がします。私はまだ社会に出たてのペーペーなので、まだ結婚出産といったものぼんやりとしたイメージしかないのですが、どんな選択をしたにしろ、自分も、産むとしたら自分の子供も、幸せであるように全力を尽くしたいと思います

ここまで読んでくださりありがとうございました。

2021-01-01

鉄道会社現業)へ就職を考えてる人たちへ

鉄道現業で働き続けアラフィフになる僕の感想です。

これから就職を考えている方は参考にしていただければ幸いです。


入社前】

高卒中心の採用だったのは遠い彼方。

今はどの会社

大卒5:専卒4:高卒

位の割合採用が行われる。

入社動機がはっきりしている専卒・高卒はもとより大卒入社理由は人それぞれで面白い

鉄道好きを上手く隠して入社したタイプ

いわゆる私大文系自己分析の結果、数字ノルマのある営業や全国転勤は嫌だから「とにかく安定している」という理由以外特にないままこの世界に入るタイプ

近年はJR大手私鉄だと、MARCH駅弁以上だけど現業という珍種もいる。

いずれも楽しい研修生活を終えると地獄を見るがそれも経験

新入社員入社3年目位】

楽しい研修を終えて方々の駅に散る。

そこで待っているのは今まで経験したことのない同じ釜の飯を食い同じ寝床で寝る楽しい楽しい集団生活

基本的にどの鉄道会社も4週8休で朝~翌朝までの24時間勤務をベースに循環交代しながら働くことになる。

○よく説明される例

(月)朝~(火)朝・・・全泊仕事

(火)朝~終日・・・非番

(水)朝~(木)朝・・・全泊仕事

(木)朝~終日・・・非番

(金)朝~夕・・・日勤仕事

(土)休み

(日)休み

だいたい説明会や研修でもこのような勤務の仕組みの説明を受け「非番自分時間自由に過ごせますよ!」とかキラキラした目のサクラ社員説明されるが実際は、

●本当の例

(月)朝~(火)朝・・・全泊仕事

(火)朝~夕・・・残業で日勤仕事

(水)朝~(木)朝・・・全泊仕事

(木)朝~夜・・・残業ラッシュ対応とお昼まで教育、そのあと先輩に強制連行されて平日昼から酒(20時~終電間際まで)

(金)朝~(土)朝・・・本来は日勤だったが病欠が出たので半分休日出勤でそのまま通して全泊仕事

(土)朝~夜・・・仕事を終えた朝から昼までは詰所で死んだように仮眠、昼から組合員講座へ動員され夕方から飲み会

(日)休み・・・死んだように眠る

こんな感じ。

終車後の仮眠時間はどの会社も概ね5時間前後だが全員が着替えやシャワー浴びる時間も含めてその時間

当然イレギュラーなことがあったりシャワーの台数と働いている人の数が釣り合わないと短くなる。

平均3時間としておくのが現実的数字

多くの若者にとっては今まで学校に行って家に帰れば親の用意してくれたあったかご飯を食べて暖かい布団で寝れた生活からの転調なので当然ショックを受ける。

また、いくら時代が変わったとは言えまだまだ20年30年働いている先輩が幅を利かせてる超縦社会なので体育会系集団生活経験のない若者のっけから洗礼を受ける事多し。

先輩への気遣いはどこの会社でもあるが、それがおはようからおやすみまでどころか翌朝のおはよう以降も続くのでやはり向き不向きはある。

ダメな奴はすぐにダメ判断し辞めるのが一定数いる(それはどの仕事も同じだけど)。

ただこんな生活でも半年もすれば身体が慣れてしまうので大丈夫

若いうちは休日出勤も含めた残業代でそれなりに稼げるのでほとんどの若者は4週5~6休くらいにして休日出勤で稼ぐ。

入社3~10年】

乗務員を目指すか否かで最初の分かれ道が待っている。

会社によっては駅は子会社採用乗務員にならないと親会社転籍できないところもあるので人によっては死活問題でもある。

もし駅が子会社採用乗務員になる以外親会社就職できない鉄道会社への就職を考えるのであれば必ず入社前に運転の適性を確認すること(視力・聴力)。

やはり子供の頃からの夢で乗務員を目指す若手が多いが夢を叶えるのは同期全体で半分もいれば良い方。

どの会社も駅以上に超体育会系ではあるが、駅より拘束時間が短く給料も同じで休暇も取りやすいので人気が高い。

駅でそのまま係員として過ごす場合、ずっとルーチンワークが続くが年々後輩が入ってくるので仕事自体は楽になる。

組合関係役職員で重宝されることが出世コースとなるかは会社によってケースバイケース。

御用組合会社では組合役員出世コース(ただしどの会社組合関係は酒・ゴルフのお付き合いが付きものなので向き不向きがある)。

だいたいこの生活を30まで続けるともう月~金で毎日会社へ行く生活のほうが無理になる。

入社10年目以降】

どの会社も30代40代助役以上を目指すかどうか決めることになる。

給料会社によって大きく異なるが、総じて助役になるとそれなりの収入になる会社が多い(ただしそれには理由があり・・・)。

助役というのは言わば現場監督でその日の責任者

駅という建物管理消防建築)、駅員の管理(人事・総務)、売上の管理経理)等、助役になった瞬間仕事の幅が広がる。

ルーチンワークをこなす事と他人ルーチンワークを正しくやらせる事では使う頭が変わってくる。

一昔前はパソコンも使えない高卒のおじさんが酒と煙草飲みニケーションを図り、体裁の悪いものは上手く隠し、良くも悪くもどんぶり勘定現場をまとめるのが良い助役とされた。

しかし、昨今のコンプライアンス重視の風潮や大卒者の増加により明らかに時代より仕事に求められるクオリティーが上がった。

これは業界特有だが規則規定を知ってれば知ってるほど偉いという風潮があり、最善の結果を求めた結果ルーチンワークに新たなルーチンワークが加えられるケースが多い。

脅しすかしで上手く若手を使った時代過去の話となり、最近は係員に仕事を振るのも一苦労といった具合。

これはすべての会社共通だが助役に上がるとそこから残業が激増する。

係員として長年親しんだ明け番でバイバイ!というのもなくなる。

自分が当務者の日に係員がトラブルを起こし、翌日の家族旅行子供運動会授業参観ドタキャンになったなんて日常茶飯事だ。

そう、助役収入が高くなるのは残業代が大きいからのであるほとんどの会社では助役管理職ではないので残業代が出る)。

年収の3割が残業代というのもおおげさではない。

そうなるとそこまでして助役を目指すべきか?という疑問も当然大きくなる。

助役を目指すのと一生係員でいるのとでは生涯賃金でどのくらい差がつくかは会社による。

本当に恵まれた一部の大手鉄道では一生係員でいても年功序列でそれなりの収入になるので助役を目指さない人も多い。

最終的には同期入社のうち定年まで残った者の割合は、乗務に行くのが3割(駅への出戻りもある)、助役以上になるのが4割、一生係員が3割という感じ。

役職で言うと助役自分の実力だけで誰でもなれる最後ポストでそれ以上は上からの覚えが重要になる。

それ以上のポスト名前首席助役区長・管区長駅長など会社によって違うが、いわゆる駅長ポジションになると泊まり仕事でなくなり日勤のカレンダー休みになる。

普通会社でも課長になると残業代がなくなり年収が下がるという減少はあるが、鉄道現業職という性質上それ以上の出世は望めないので年収的には寂しい定年間際となる。


【年齢と収入(仮)】

会社によって違いますがだいたいこんな感じ。

元國鉄は額面はこれより少ないですが、超恵まれ福利厚生が凄いので体感はほぼこれと同じかこれ以上です。

あと私鉄は大半の会社が転勤に転居が伴わないので、大手でも住宅関係の手当がほとんどない会社が多いです。

なので家賃は社宅や独身寮に入らない限り給料から全額払うのが普通だと思ってください。

☆一部の恵まれ会社モデル(すべて残業代込)

○一生係員コース

25・・・500万

35・・・700万

45・・・800万

60・・・900万

退職金1500~2000万

助役になったコース

(30代半ばまではほぼ同じ)

45・・・950万

55・・・1000万

60・・・1050万

退職金2000万前後

駅長ポジションになった場合

40代半ばまでは助役と同じ)

50・・・850万(残業代がつかないので減る)

60・・・950万

退職金2000万~(助役+数百万)

よく言われるが恵まれ鉄道会社給与形態就労形態的には消防警察に似てる(手当や退職金消防警察のほうが多い)。

警察消防のようなパワハラ的な厳しさはないので、警察学校崩れや元自衛官で中途で入ってくる若手が多い。

★厳しい会社モデル

係員は子会社採用なので昇給退職金制度等がほとんどない。

子会社採用モデル子会社定年退職まで働いたサンプルはまだまだ少ないと思うので平均的なものはないと思う(あったらごめん)。

乗務員合格したら親会社転籍できるが、あくまでも「転籍」なので退職金の係数や休暇の日数も1年目からやり直しになるので注意。

親会社転籍後は、恵まれ会社の1~3割引と考えて貰えば大体合ってる。

退職金会社によってぜんぜん違うので要確認

2020-12-19

anond:20201219102045

意味はあるんじゃないの

シフト休日会社の都合で決まるけど有休会社指定できないか

今週水曜は娘の授業参観日だから有休取ろうとかできるじゃん

有休取れる日まで会社指定してるならそれこそもう労基に相談するか労働裁判起こすしかないけど

2020-12-11

2020年都内中学学事

たぶん今の都内(=23区)の中学学事情をよく知らない人が多いと思うので、概説してみたいと思う。

昨年、61465人の中学卒業者のうち、45678人が都内公立中学校に進学した(都の公立学校統計調査報告書より算出)。それ以外を、ここでは中学受験をして中高一貫校に進学した者とみなしてしまおう(実際には単に引っ越ししただけの人も多くいるはずだが、簡単のために)。

都内で均すと、一貫校進学率は25.56%である。四人に一人だが、これを個々の区に分けていくと違う光景が見える。

各区の一貫校進学率は以下のようになっている。

>40%: 3区

>30%: 9区

20%: 5区

20%: 6区

都内で最高の一貫校進学率を誇るのが、港区。48.17%で、つまり同級生の半分が地元中学校に進学しない。一方で最低の江戸川区12.44%だ。都内でも区によって四倍の差が出ているのだ。

なにがこの違いを説明するのかというと、単一の原因はおそらくないと思われる。が、ちょっと面白い統計がある。一貫校進学率と、住民大卒率(大卒者÷(人口-在学者))(2010年の国勢調査より算出)には強い相関があるのだ(決定係数0.835)(もちろん区の平均年収とも相関があるのだが、平均年収が極端に高い区がいくつかあるせいであまりうまくフィットしない(決定係数0.536))。

匿名ダイアリーにはグラフが載せられないので、大卒率47.54%, 進学率48.17%の港区と、同22.44%, 12.44%の江戸川区を線で引いて、その他の区を適当に散らばらせたようなグラフを思い浮かべていただければと思う。

このように、都内大卒者では「資力があって教育方針に強いこだわりがなければ、中学受験をするのが普通」という環境になっているのだ。

そこには既に公立校に対する蔑視や警戒心すら無いかもしれない。

さて、教育方針に強いこだわりがあり、積極的意思を持って公立中学校を選ぶことを考えてみよう。つまり、十分な資力と最高の学力があってですら、あえて公立中学校を選ぶような状況だ。

一貫校に対する公立中学校のメリットとして「多様な生徒と三年間を過ごすことができる」と言われる。だが、既に都内公立中学から多様性は失われているのだ。

例えば、都内最大の人口を抱えるのは世田谷区(77.7万人)だ。もし地方に住んでいるあなた都内に引っ越すとしたら、ここに住む可能性は十分高い。そして、この区の一貫校進学率は36.81%だ。クラスの中で成績の良い子や資力のある家の子が、中学に進学するにあたって上から順に1/3ほどまるごと抜けてしまうのだ。

おそらく中学校における多様性というと、頭のいい子から勉強の苦手な子、お金のある家の子から給食代が払えない子まで、進学や就職をしてしまったらなかなか接することのできないタイプ人間と付き合えることができる、そういう状況が期待されているだろう。

しかし、都内公立中学校では、そういう状況は期待できない。望ましい条件を満たした1/3の子がすぽーんと抜けてしまった状態をもって、多様性があるといえるだろうか?

今度小学校授業参観に行ったら、頭の良い子や育ちの良さそうな子を1/3ほどピックアップしてほしい。そして、その子らを除いた状態脳内クラスを編成してほしい。それが公立中学校でのクラス編成になるだろう。

実際、中学受験時には偏差値50(上位1/2が入れる)だった学校は、高校受験時には偏差値60(上位1/6)から65(1/15)あたりにランクインする。多様だった小学校教室から優位にある生徒をごそっと引き抜いて、残った生徒で成績をつけると、こういうことになるのだ。

更に、多くの一貫校が高校から編入を取りやめつつある。いくら公立中学校で多様性満喫し、高い成績を得たところで、進学の選択肢は既に限られたものとなっているのが実情だ。

そういったわけで、おそらく、都内において公立中学校を積極的に選ぶ理由は既に無くなっている……というのが2020年の状況だ。

(余談だが、学力資力に勝る生徒が数多く抜けてしまとはいえ都内公立中学校の治安は悪くない。いじめ暴力件数私立と大幅に違うということはないし、ひと目で分かる不良中学生というのも(自分が住んでいる貧しい下町ですら)見たことがない。ガラス窓は割れない、火災報知器も鳴らない、タバコの不始末で学校燃えることもない、家庭のお金を数十万円にわたって貢がせる生徒もいないし、万引した品の交換会も開かれない。治安けが理由で一貫校進学を考えているなら、公立でも問題ないと思う)

2020-11-19

妻が子どもに厚着をさせたがる。

天気予報で20度超えるからとか言っても、スエット上着を着せて送り出そうとする。

せめて脱げるようにと子どもTシャツワイシャツを渡すと切れる。

妻は運動不足コーヒーがぶ飲みの冷え性だが、自覚がない。

小学生男子の肌感覚理解できない。

天気予報で暑くなることが分かるのに、朝ちょっと寒いだけでタートルネックやダウンで出かける。

昼間は決まって、こんなに暑くなると思わなかったとか言う。

温度と天気と服の関係感覚が無い。

でも子供授業参観に行ったら、子どもたちが軒並み厚着してた。

どこの親も同じだな。

2020-11-13

小学校つまんねぇ

子ども授業参観に行ってきた。音楽グループごとに前に出て演奏する。他の人はそれを聞く。意見感想がある人は立って言う。

うちの子不登校気味で、最近少しずつ出れる日が増えてきた。今日も朝から行けた。

でも授業のつまらなさに、これは行きたくなくなるわ~って感じ。

子どもたちの意見

楽器の音が重なってきれいでした」「大きい音から小さい音まで工夫しててすごいと思いました」「○○さんと同じ意見ですが〇〇だと思いました」

みたいな。ほんとにそう思ってるの?その意見を言ったり言われたりって意味あるの?

もちろん子どもだちに罪はないし、先生もがんばってはいると思う。

ももっともっと楽しくできるだろう!?素人ながら「おれならこうする、こうしたらもっとおもしろいのに」とか浮かぶよ。

フリースクールとかそういう意識のあるところもある。でも普通学校だって、やろうと思えばできるだろう!「教育改革」とかよく聞くけどぜんぜん進んでないわけ!?

今日ちょっとショックだったな。

2020-11-11

小2の子供の授業参観

コロナ廊下から見るだけ。

授業は図工で絵具で絵を描く回。

毎回なのでしょうがないけど、先生が見回り中に手助けする子どもの中に必ず入る。

の子どもが手を汚して拭いてもらっていると、僕も~と言って手を拭いてもらいに行き、君は汚れてないでしょと追い返される。

絵具のバケツに水を汲みに行くときもなかなか終わらず先生に手伝ってもらう。

の子の3倍くらい先生先生言ってる。

の子より手がかかって先生申し訳ない。

2020-10-21

anond:20201021171152

当時ちゃおコラボしてたよ

https://natalie.mu/comic/news/185657

あと子供由来情報

授業参観の時に子供自己紹介カード貼られるんだけど、当時高学年のクラスだと「好きなものおそ松さん」って書いてる子も数人いた記憶

勿論今の鬼滅ほどのブームじゃないけどね

2020-10-17

高齢出産メリットってあるの?

初産で高齢出産ですって聞くと素直に喜べない自分がいる。

でき婚しちゃいました!のと同じで、おめでたいのだけどなんか引っかかる。世間高齢出産ブーム(?)なので絶対こんなこと言えない。

そもそも高齢出産メリットってあるの?地獄案件しか見えないんだけど。

お金

40近くまで働き続けたんなら貯蓄たんまりあるんだろうなと想像してたけど、共働きでもそこまで貯蓄ない世帯普通に多い

不妊治療してたら家購入する資金もなくなったり、あるいは庶民から想像できないほど贅沢しまくってたりとか。

さらに両親の介護問題にも直面してると本当にお金ないらしい

(彼らの言う"お金ない"は自分自由に使えるお金が少ない、という意味であり生活が困窮してるわけではないと思う)

高齢出産リスク

そもそも流産率が高い、ダウン症ちょっと多い。これについてはいろんな人が言ってるから割愛する。

メンタル

ほとんど一人っ子ベタベタ甘やかし育ちが多い印象(私の周りだけかもしれませんが)

更年期精神的に不安定な中子育て大変なのは同情するけど、子供にあたってるの見るとほんとしんどい

いい子だなと思ってたら、急に叩かれたり、ご飯なかったり、お母さんが怖いから言うこと聞いてるって子もいて。

でもそれなりの服着させてたり、ちゃんとした習い事などさせてるからパッと見そういうのわからないんだよね。殴った後とか、そういうのもない。精神虐待?が多いのかも。

40にもなれば精神的にも成熟してるから広い心をもって子育てができる、とネットのご意見をみたけども

広い心をもって子育てしている高齢出産の方いたらぜひお話伺いたいものです。超レアでは。

あと、40前後のご夫婦だと母親主導の子育てが当たり前という価値観を持ってる旦那さんが多いらしく、夫は子育てに非協力的な面も目立つ。(共働きでもそんなの関係ないようですw)

たまに勘違いイクメンもいるけど、あれは形だけだからなぁ

若いカップルの方が一緒に子育てしてる印象がありますね。わからないことも素直に聞いてくれるし、変な先入観がないのがよろしい

子供気持ち

イベント授業参観の時とかにお母さんがおばさんに見えるから(老けてるから)来てほしくないって子、やっぱりいるんですよね

産前は若作りできても産後一気にメッキがとれて老け込むから仕方ないんだけど

子供からしたらおばあちゃんに見えなくもない親ってちょっと嫌なのかもね わざわざ見に来てくれたのに早く帰って!とか言っちゃってる子もいるし。

キャリア

ある程度職場でのポジションを築いてから産もうと思ってる人、よく考えてほしい

子供が小さいうちは呼び出されたり急に休まなければならない時がある 仕方ないことです 周りも子供事由で休むことに何も文句ない

でも要職についてると代わりが少ないし責任のある仕事も多いことでしょう

から「ある程度」なんて思わずにさっさと若い時に産んでしまったほうがいいです

高齢出産しました!ってイキってるバリキャリアラフォー多くて、それに感化されてる若い子いそうで恐ろしい 見習っちゃだめな例ですよw

あとお金にも絡んでくるけど、40前後で産んだら、自立する65歳くらいまでは働き続けなきゃならないということも考えてほしい

院まで行ったら70近くまで稼がなきゃならないのです もちろんアーリーリタイアなんてできない

体力もモチベーションもない頃にそこまで前線で働き続けられる??窓際社員文句なく稼げるポジションがあればラッキーだけど今の状況考えるとそんな夢のようなポジションは将来なさそうじゃん

高齢出産ブーム去ってほしいし適齢期に産んでバンザイな流れになってほしい

2020-07-29

給食マスクで思い出すこと

給食マスクと聞くと、小学生だった時の担任のM先生を思い出す。

M先生は30歳前後女性で、2年間自分担任だった。小学生ながらに「この先生ちょっとヤバイ」と思っていたので、M先生について思い出せたエピソード客観的に書いてみる。別に変じゃないエピソードもあるかもしれない。もう自分では何が普通で何が異常なのかよくわからなくなっている。

給食当番は、家からマスクを持ってこないといけないルールだった。M先生は、マスクを忘れた生徒を怒り、黒の油性マジックで顔にマスクを書いた。口の周りに大きな四角を、それから耳まで紐の部分を書いた。さすがに四角を黒で塗りつぶすことはしなかったが、四角の中に大きくバッテンを書いていた気がする。そしてそのまま生徒を下校させた。

授業参観の前日、M先生は「明日授業参観なので、みんなで1本ずつバラの花を持ち寄りましょう!教室が華やかになりますよ」と言った。「反対の人は手を挙げて」と言うので手を挙げた。手を挙げたのは自分だけだったので理由を聞かれた。「今月のお小遣いがもう残っていないので買えません」というと、「自分で買えなんて言ってないわよ、みんな親御さんに買ってもらいなさい」と笑った。帰宅し、母親バラを買いに行った。田舎だったので町に花屋さんは1つしかなく、バラはもう売り切れていて買えなかった。

M先生結婚した。相手は他校の教師らしい。結婚式準備や新婚旅行で何日か学校を休んだ後、生徒の家にハガキが送られてきた。二人が肩を組んでいる幸せそうな写真入りで、「私たち結婚しました」と書いてあった。母親が苦笑していた。

ある日、M先生の発案で、授業間の10分の休み時間がおしゃべり禁止になった。最初の何回かはみんな守らず、ひそひそとおしゃべりをしていたが、M先生がついに本気で怒った。その次の休み時間、本当に誰一人声を発しない、静まり返った教室となった。するとM先生は「なんか誰もしゃべらないのって気持ち悪いわねぇ!やめましょやめましょ!!」と笑い、そのルールは一日でなくなった。

やんちゃ男子3人組がいた。何か物が壊れていたりすると「あの3人がやったに違いない!!!」と騒ぎ、3人を呼びつけ怒っていた。3人は反論せず呆気に取られていた。

やんちゃ男子3人組のひとりが何か悪いことをしたらしく、M先生に怒られていた。M先生は、「先生の言うことは絶対なんです!先生が死になさいと言ったら死ななくてはならないんです!今すぐあのベランダから飛び降りなさい!」と言っていた。※ちなみにその男子は先生の話を全く聞いておらず、いつものようにケロっとしていた。その後落ち込んだりとかはしていなかったと思う。

M先生親族が亡くなった次のお正月父親が「M先生喪中から年賀状ではなく寒中見舞いを出しなさい」と言ったので、その通りにした。学校が始まると、M先生年賀状を出してしまった生徒が集められ、「あなたたちはとても失礼なことをしたのよ」という旨のことを怒られた。寒中見舞いを出した自分も一緒に怒られた。親に報告すると、母親が「だから寒中見舞いも出す必要なかったのよ、余計なことはしなくていいのよ!」と父親喧嘩していた。

2年間、平日は毎日顔を合わせていたから、他にもたくさんあるはずだけど、これしか思い出せなかった。もう20年くらい前の話なので、印象に残ったこしか覚えていないし、詳細も確かではない。ただ、もうすぐクラス替えというタイミングで、「来年先生担任がいい人~?」と自ら生徒に聞き、誰も手を挙げなかったときのことは、今でも鮮明に思い出せる。

2020-07-22

うつ病休職して1ヶ月経つんうつになったきっかけとか書く①

6月頃に一回自殺未遂したけど死ねなかった女の話です。

したことは書いてないけど「へーこういう女もいるんだな」って思ってください。

休職中ずっと増田読み漁って色々な考えに触れたので、この記事も誰かの役に立てばいいな、と思います

クソ長い自語り、家庭環境諸々から書いてみる。ちょっとフェイク入れてるし人名は全部仮名です。


私について

北海道から上京してきた20代前半、上京してきて多分4年。学歴は専門卒、高校工業出身。今年始めて彼氏が出来た陰キャ

きしょいオタク文章書くのは割と好き。漫画アニメソシャゲ全部好き。乙女コンテンツに入り浸る典型的な女ヲタ

母(7人兄弟の次女:中卒)、弟2人の母子家庭。弟は今21(医療系の大学)、20(専門学校)。父親は小5の時に離婚した。

記憶にないけど死んだ妹がいる(私の1つ下だと思う、親に未だに聞けてない)

両親も親戚もみんなオタク父親ラムちゃんアイマスプロレス母親最近イケメンシリーズ、ボイフレ、アンジェと遥か、アトラスゲー。

弟2人はFPSとかモンハン兄弟二人ともゲーマーガチ世界ランク上位に入るレベル。一番下は格ゲーボドゲに目覚めた。

実家は村に近い山奥のドドドドド田舎同級生農家酪農やってる子がいっぱいいる。


小さい時

育ての親は母親の妹(3女:以下さっちゃん)。母親は働きに出てた。多分パートだったのかな?分からん

保育園に入ったのが5歳くらいだったんでそれまでは母方の祖母の家に預けられて育った。

イマジナリーフレンドが4人いた(らしい)、よく見えないお友達と遊んで親戚をビビらせた。ごめん。

ちなみにお婆ちゃんは私の見えないお友達存在しているもの扱いしてたらしい。とんでもねえばあちゃんだ……


物心ついたときには父方の祖母と両親、弟2人と一軒家に引っ越してた。

保育園に入った時にはもう住んでた。この頃から父方のおばあちゃん長男の弟かわいいで私に対して興味なかった。つーか嫌いだったのかも。

母親は土日関係ないサービス業なので、土日の食事祖母。弟たちの分はあっても私の分は無いとかザラだった。今思えば普通に虐待

ただご飯が無くてもゲームと本があれば全然平気だったのでお母さんは私がご飯を食べてないのを知らなかった。

後に私がさっちゃんに「お母さん(これは父方の祖母を指す、実母はママ)がごはんくれない」と遊びに来た時に漏らしたらしい。

当然ながら怒り狂う母とさっちゃん。父方の祖母は「お腹へったって言わないからいらないと思った」としれっとした顔で言ったのを見て目眩がしたらしい。そらそう……。

あとはさっちゃんが当時、父方の祖母の作ったご飯を食べてあまりの味の薄さに「これを毎日食べてて、ごはんも用意してもらえない日がある、食べた気しないんじゃ……」って思ったら私が不憫すぎて車で泣いたと聞いた。

かに味は薄かった。天ぷらだけはめちゃくちゃ美味しかったな。今狂ったように辛いものとしょっぱいものを食べてるのはその時も反動かもしれない。



小学生時代

全学年2クラス、2年ごとにクラス替えだった。2クラスしかないんで全員顔見知り状態

入学してからは超絶人見知りを発揮。保育園の頃に仲良くしてくれた子たちとだけ交流してた。毎日連絡帳に口数が少ないとか書かれてた。

家が近所のゆみちゃんと一緒に登下校してた。お互い何も言わなくても一緒に帰る仲だった。今は看護師やってるらしい。

教室でずっと本読んでた。徐々に色んな子と喋れるようになる。ぼっちに話しかけてくれたみほちゃんありがとう……

あとは算数が出来なくて宿題解けない……って泣いた記憶がある。ちなみに時計が読めなかった。


3年生ぐらいか普通に社交的になったと思う。クラス委員長とか誰もやらないなら…でやり始める。この時ちゃお読んでた。

この頃、休み時間教室以外にも図書室で本を読む女になってた。

同時期ぐらいに父親仕事をクビになってニート引きこもりになった。今で言うFXかな?やってたらしい。けど、あんま才能無かったのかも。

ただ、父親なりに色々と私も含めてかわいがってくれてたと思う。漫画とか全部父親が買ってくれてた。


高学年に上がってからは弟2人も一緒に学校に行くようになってたので、周りの親から評価めっちゃ高かった。

勉強ができて、運動もできて(足が速いだけ)、面倒見もいい女の子

実際、3年からは毎回クラス委員長だったし、同じクラスになったことない子も下の兄弟同級生同士で仲良し~とかあった。

ちなみにこの頃はちゃお少年Aジャンプ、母方の祖母の家でガンガンGファンタジー読んでた。


ただ両親がしょっちゅう家で喧嘩してた。祖母の部屋は1階、私達の部屋は2階。

多分祖母は病んでたのか、深夜に父親の部屋の前で名前を呼んでいるのを見た。めちゃくちゃ怖くて夜中トイレ行けなくなった。

祖母の私と弟への差別は益々酷くなっていて、私の家で友達と遊んでる時に「ごはんの準備しろ」「洗濯干してこい」とか言うようになる。

弟がなにか手伝おうものなら「あんたは長男からしなくていい」って言ったの聞いてなんで?と思ったけど、弟に手伝わせるのも可哀想だなと思って大丈夫って言ってた。


小5の夏、庭で土いじりしてる祖母に「倉庫からスコップ持ってきて(でかいやつ)」と言われてめんどくさいな~って思いながら取りに行った。

祖母に渡すために後ろに立った時、(あ、これ今殴れるな……殺してもいいんじゃない?)って思った。今思えばこの時には既に私ももう心を病んでいたのかもしれん。

その後、親が離婚して一軒家から団地引っ越した。離婚父親には一度も会ったことない。ただ、車で事故って半身不随になったのは聞いた。


これは高校に入ってから母親に聞いたけど、あの頃の祖母は枕の下に包丁を入れて寝てたらしい。こえーよ。病むっていうかキチだと思う。

母親はい祖母に殺されるか分からなくて毎日不眠の状態仕事に行ってたらしい。それでも授業参観運動会も学芸会絶対全部来てくれた。



中学生時代

田舎あるある小学校から生徒が全員持ち上がりなので知らない子はいない。お母さんがパソコン買ってくれたのもこの時じゃなかろうか。

半年間は平和だった。でも、中1の秋頃から毎日登下校をともにした仲良しのゆみちゃんいじめを受け始める。

ゆみちゃん堀北真希に似てる超絶美少女で、当時仲の良い男の子に数合わせでいいから、という理由野球部所属していた。私はゆみちゃんに「1人じゃ不安から……」と頼まれ野球部に入った。

まあよくある、男の集団に女がいるの気に入らないムキーッみたいなのが原因だったんだと思う。いじめてたのは女バスと女バドの5、6人。

私はゆみちゃんいじめを受けてるのも知ってた上で普通に仲良くしてた。ゆみちゃんの家も母子家庭で、当時は母親が家に彼氏を連れ込んで家に居にくいからってよく私の家で過ごしてた。

彼女の凄いところは毎日学校に行ってたところだと思う。私に泣きながら「リスカが止まらない」と相談してくれたこと、リスカ跡は今でも忘れない。


結局、ゆみちゃんは2年に上がるタイミングで転校した。その結果どうなったか

私がいじめを受け始める。いやなんでだよ。私は当時160cm80kgのデブだぞ。何が気に食わねえんだよ。と思ったけどいじめ相手が居なくなったから仲良かった私になった。

ただ、いじめられてることに気付いたのがゆみちゃんが転校してから2ヶ月後くらいだった。私は超鈍かった。周りは気付いてるけど自分だけ気付いてなかった。

なんでか自分ノートがないとか、教科書がないとか、下駄箱の上靴がないとか。そういう事が起こってから気付いた。

当時から仲良かった子に「あの頃めっちゃ陰口言われてたし、あんたと話したら次お前をいじめるとか言われたことあるで」って言われた。

そういえば当時はいじめを題材にしたドラマ流行ってたし、あれはいじめのお手本になってたなと思う。本当によくない。


中2の夏ぐらいだったかな。衣替えするかしないか、とかだった気もするから9月ぐらいかも。半年くらい我慢して学校に通ってた。

私は学校に行くのやめた。というか、行けなくなった、のほうが正しいかもしれない。制服を見ると気持ち悪くなって泣きそうになった。

休みたかったけど、母親は私が生理痛で辛い、と言えば痛み止め飲んででも学校に行け、サボるなと言う人だった。休むことはサボりだと言う人だった。

それでも母親には迷惑かけたくない、という一心で吐きそうになりながら学校に行くフリをしながらおばあちゃんの家に行った。

おばあちゃんは何も言わなかったし、おばあちゃんちの犬と遊ぶのが好きだった。おばあちゃんの膝が悪いから代わりに散歩に行ったのも覚えてる。

ただ、学校担任から「1週間ほど無断欠席が続いてるが大丈夫か」という連絡が家に入りバレてめちゃくちゃ怒られる。怒られた時に初めていじめられてると言えた。

母親はその日のうちに学校電話をして、学校側もいじめを知ってたけど本人が言わないから、とかそういう理由で何もしてなかったらしい。

後日、私は学校に行っていじめてきた女たちから「形だけのごめんなさい」を受ける。クソ無意味。謝られたからと言って事実は消えないわけだし。

どのみち私は学校に行っても教室に入れなかったし、教室に入れないなら授業も受けられない。だったら行く意味が無いな、と思って家に引きこもるようになる。

家に引きこもってる間も勉強は出来た。そう、みんな大好きTwitterです。当時高校生だったり大学生だったフォロワーたちが勉強を教えてくれた。スカイプ使って。


ネットが私の居場所だった。勉強ってどこでも出来るんだ、って思った。


そのフォロワーたちもいじめ経験した人たちで、私の学校に行けない、けど勉強はしたい、という気持ちに寄り添ってくれて教えてくれた。本当に頭が上がらない。

なので、テストがある日だけ学校に行った。テストは出席番号順で座るし、いじめっ子たちと真逆の席なのでその時だけは制服着て教室に入った。

クラスメイトたちは「久しぶり!」とか「テスト範囲大丈夫?」とか声かけてくれる子も結構居た。あの子達の勇気は今思うと凄い。

修学旅行は行ってない。何されるかわからないし。代わりに学校先生マンツーマン勉強した。凄い有意義時間の使い方だったなと思う。

卒業までテスト期間だけ登校する生徒をやった。家の近い子がテスト範囲プリントを持ってきてくれたし、フォロワーたちが勉強を教えてくれる日々が続いた。

高校は女で嫌な思いをしたので男子比率が高いし、比較的家から近い方(といってもバスで1時間)の工業を選んだ。仮に落ちたら通信制高校へ行く気でいた。

卒業式も出ていない。式が終わった次の日が高校合格発表で、無事に工業に受かったという報告と卒業証書アルバムをそこでもらった。アルバムはその日のうちに捨てたけどな。



高校時代

ぶっちゃけ担任がクソゴミだった。生徒の机を蹴って見せしめみたいに怒鳴り散らすタイプ体罰普通にあったし、クラスメイトの男子教室内でデカデカ万引を自慢するようなクラスだった。

担任はそれに対してもっとバレないようにやれとか、スリのほうが良いとか、教育者としてありえんことを言ってるのにドン引きして学校に行く気が失せた。

ラッキーなことに全日制の単位制だったので単位さえあれば進級できた。単位計算をして、単位分だけ出席した。常にギリギリ単位の女で普通科先生に「お前は出席点が足りない」と言われまくった。

後々、クラス男子に教科の単位を聞かれた。私と同じように単位しか出席しない人が増えたらしい。毎日の出席率は最悪だったと思う。まあ工業だしな。

担任露骨わたしを毛嫌いしてたし、私も嫌いだったのでお互い様だろと思ってた。高校ちゃんと授業に出たのは専門科目だけ。これだけは教科書読んでもどうにもならん。あとは実習。

他は中学の時と同じようにフォロワーを頼ったり、ネット検索したら大体答えの出し方があったので家で勉強してた。親は私が家に居ても何も言わなくなった。

学祭とか体育祭は出たことがない。強いて言うなら修学旅行東京だったので行った。お世話になったフォロワーたちに会いに行くという理由で。クラス女子は私含め7人で、うち1人は中学が一緒。

の子と出席番号が前後だったジャニヲタまなみちゃんと仲が良かった。ちなみにまなみちゃんまなみね、山田涼介くんのお嫁さんになるの!」と平然と教室でも言ってた強い女であるマジで強い。

ここまで書いてて思うけど本当に協調性のきの字もない女だな……。ちなみに進路相談も凄い適当で、適当AOで専門行くわ、と一方的に言って終わり。AO入試なんて軽い面談書類審査のみ。私は高3の夏休み中に進路が決まった。

この頃にハマってたのは黒子のバスケで私はほぼ毎日夢小説を書いて過ごしてた。あと支部BLも書いてた。当時黄黒を読んでた人はもしかしたら私の黄黒も読んだかもしれない。読んでくれた人が居たらありがとう

適当単位取って適当卒業した。これが私の高校時代の思い出である


専門学校は今までと比べたら楽しかった。ここでいろんな資格も取ったし、クラスメイトも普通に接してくれてた。唯一毎日学校に行けた時期だったと思う。ただ行事だけはゴミ

ここで就活頑張っとけばよかったんだよな~~~と思う。就活サボって適当に警備会社入社した。そしてこの後、地獄を見る。



2年間の社畜時代

前置きすると私より辛い人もいるとかそういうのはどうでもいい。私は私の辛いを話してるので。

上京してから半年横浜警備員をやってた。この半年はまだ良かった。残りの1年半は川崎地獄を見る。

警備は万年人手不足で月の休みは多くて4日、私が限界を迎える頃は3日だった。勤務時間は朝6時半~16時半の早番と13時半~23時半の遅番。あとは9時~22時までの中番。

入社時の条件は月8休みと言われてたのにマジで騙されたと思ってる。入社して半年は確かに8日間の休みがあった。でもその後から毎月3、4日の休み

休みの前日は絶対に夜間警備が入るため、帰宅は朝5時。当然、遅番か中番が終わった後に続勤。休みは実質半日しかない。寝て起きたら仕事に行く。

休めるわけねーだろバーーーーーーーーーーーーカ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

そりゃあ毎日寝ても寝ても眠いし、突然気分が落ち込むし、情緒があまりにも不安定にもなる。思えばもうこの時にはうつだったんじゃなかろうか。

心がしんどい……となり始めた頃、母親に「しごとつらい」といえば「社会なんてそんなもんだよ笑」と返ってきた。そして根拠のない「大丈夫!」「なんとかなるよ!」という返事。

私もそうだよね、なんとかなるよね、頑張るね、って返してた。これは絶対に良くなかったと思う。

そしてある日、体のほうが出社を拒否した。会社に行こうと思うのに涙が止まらない。手が震える。こりゃ今日出勤出来ねーわ、と思って職場電話を掛ければ「いや来てもらわなきゃ困る」。あっはい……。

無理に決まってんだろ、そう思いながら電話を切って母親電話した。泣きながら電話した母は、「偉い人に電話しなさい」と教えてくれて、私は本社に連絡を入れた。

元々寮で暮らしたこともあり、総務のとよく話をする事があったのでまずは総務に事情説明、そのまま直で警務部長から「休んで下さい」と言われた。

私は初めて、会社を休んだ。そしてそのまま退職した。

その時に初めてメンタル系の医者に行ったけど、まるで私がメンタル系にかかるの常習みたいな態度を取られるしいか自分が凄い医者なのかを言われた。あのクソジジイ一生許さねえ。



文字数制限引っかかったので適当に続き別の記事にでも書きます

2020-07-13

32歳腐女子オタク増田で母と喧嘩した話

感情のままにこれを書く。

つい先ほど母と喧嘩をした。発端はツイッター話題の32歳腐女子独白を私が母とシェアしようとしたことだった。

同じくオタク腐女子の私は母にひたすらその文章を読んで聞かせた。読み終わった後に「やばくない?」と聞こうと思っていた。共感を得ようと思っていた。だが母はファッションのくだりで遮った。こっちは興味ないの、と。なんで延々と読み上げるの、あんたは何が言いたいの。

なんで?そんなのこの内容を聞けばわかると思った。20歳になったばかりのお洒落初心者オタクの私にとってこれがどんなにゾッとすることか、普通ならわかるはずなのだ

私はすっかり失念していた。母が自分容姿自己投資無頓着なことを。50代の母はメイクほとんどしない。使うもの免税店で売るようないいものだが、ファンデーション口紅、それだけだ。育児で忙しいとかそういうことではなく、昔からそうなのだ。服だってユニクロの服を着たりする。私と服をシェアすることだって日常的にある。母はそういう人なのだ自分のためにお金を使うことはあまりなく、かといって特に趣味があるわけでもない。ただの50代のおばさんだ。しかし、母は、美人なのだ

自慢ではない。思い込みでもない。母はどうにも、美人なのだバランスの良い輪郭、ぱっちりとした二重で上品さをたたえた目、知的眼差し、天然ものにも関わらず落ち着いた印象を与える整った眉、しっかりと通った鼻筋、大きすぎず、薄めで形のいい唇、笑ったときの頬も大人成熟さが感じられて素敵だ。私はそんな母の顔が好きで、母に似ていると言われるのを待ち望んできた。しかし、そんな機会は一度もなかった。いや、嘘だ。一度だけある。授業参観で私の母を目にした同級生が、「〇〇ちゃん、お母さんに似てるね!雰囲気が!」と満面の笑みで言ってくれたことはあった。倒置法で期待をへし折られるのはなかなか辛かった。

そう、私はなかなかのブスなのだ。額が狭いくせに見まごうことなき面長顔、ふっっっとい眉、一重で笑うと目が消滅するひきわり納豆並みの小粒目、ほこりを取るという本来機能すら果たせないレベルの短い睫毛、ヴォルデモートよりはましレベルの低い鼻は団子鼻のおまけ付き、ゴボ、黄歯、タラコ三重苦を備えた口、ろくに対策をしなかったせいで顔中にはびこるしみ・そばかす、手は小さく爪は短く指は太い。加えて大根足。主張の激しい尻。別にスマウントが取りたいわけでもないし、私よりましですよ!なんて言ってほしいわけでもない。これが、私の顔、しいては体型を構成しているのだ。さらについ昨日自分の頬骨がだいぶ横に出っ張っていると自覚した。死にたい

私は自他共に認めるブスだ。空港パスポート確認する係の職員が私のパスポート写真を見て軽く噴き出した時、私は笑われるレベル顔面なんだと実感した。それ以来写真には極力写っていない。

話を戻そう。母は問うた。なんであんたがこの話をそんなに気にするの。あんたは周りの人を顔や容姿判断するの。なんであんたは周りからの印象や意見に過剰に反応するの。大学に入ってから服だの髪だの化粧だのそんな馬鹿馬鹿しいことばかりじゃないの。偏りすぎてると思わないの。お母さんを見なさいよ。私なんて50過ぎてるのにろくに化粧もしないで安い服着て仕事に行くんだよ。

いかけは次第に説教へと変わっていった。こういうことは今に始まったことではない。今までにもこんな議論は何度もあった。私がダイエットをすると言って食べる量を減らしたとき、私が整形をしたいと言ったとき、私が汚い男爪をなんとかしようとして爪を長く伸ばし始めたとき私たちは同じことを繰り返した。そして私は決まってこう返すのだ。

「お母さんは綺麗だから

綺麗であれば装備は少なくてもなんとかなるのだ。元々のスペックが高いのだから美人な人は他人から評価なんて気にする必要がないのだ。その顔や容姿でこれまでに不利益を被ったことがないから。美人は皆言う。人間顔じゃないよ、中身だよ。

うるせ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

わかってる。美人でも自分磨きを怠らない人がたくさんいるのも知っているし、逆にブスでもデブでも自分の外見に無頓着な人がたくさんいるのも知っている。ブスだとか美人だとか関係ないのだろう。母が言いたいことの一つはそういうことかもしれない。でも私が気にしてるのはそう言うことじゃないんだ。なんで「ただしイケメンに限る」みたいな言葉があると思ってんだ。幸せお金で買えないって言うけどそれなりの幸せお金で買えんだよ。それと同じだ。私は何も小松菜奈とかアンハサウェイみたいになりたいなんて言ってない。それなりの美貌がほしいんだ。あわよくば美人自分磨きサボってるレベルの美になりたいんだ。写真で撮られても怖くないように、ちゃん笑顔で笑えるようになりたいんだ。褒め言葉をお世辞じゃないかって疑うんじゃなくて、素直に受け止められるようになりたいんだ。

私みたいなブスがそこに追いつこうとしたらもっと努力を重ねないといけない。だから歯のホワイトニングを始めた。全身脱毛カウンセリングを予約した。インスタでファッション美容、いろんなアカウントフォローした。爪のケアや二重にする練習も頑張っている。朝をオートミールに変えた。初めて万超えの服を買った。メイク勉強も始めた。イエベブルベ骨格も自分なりに把握したし、ファッション用語勉強も始めた。コテも買った。ちゃんとした美容院で髪を切ってもらった。シンプルアクセサリーも買った。毎日顔のマッサージをしているし、前より姿勢に気を使うようになった。

母はそんなのまだ早いと思っているのかもしれない。だがそれらはみんな大学受験が終わったらやりたかたことで、みんな今より綺麗になるためにしたかたことで、それは自分から見た自分のためでもあり、他者から見た自分のためでもあった。他者から見た自分は醜くて嫌いだった。だから自分から見た自分のことも嫌いになった。そこからずっと抜け出せなくて、歳を重ねても自分でかけた呪いから離れられなくて、ずっと苦しかった。私は中身もできた人間じゃない。幼稚だし飽き性だし教養もない。可愛い子には嫉妬するし、僻んだりもする。心の狭さ、浅さもなかなかクズだ。承認欲求もすごい。強欲すぎて我ながら引く。

異性や芸能人は顔で判断したりもするし、正直に言うと現実の友人の中にも私よりもブスだと思っている子がいる。もっと言えばブスだし性格もよくないしで救いようがねえなって思っている人もいる。今の私と同類だ。

今よりもう少し綺麗になれたら、自分と周りの目に怯える必要のない心の余裕が持てるほどの美人になれたら、世の美男美女が言うことの意味もわかるような気がする。そしたら私は母のような素敵な人になれるのだろうか。

見た目が全てではないのは分かっている、が、中身が全てでないことも分かっている。

私は今見た目に、そして自分自身に完全に意識が向いている。母から見て私が足掻いている馬鹿馬鹿しいことは全て、私が中身にも、そして他者にも目をきちんと向けられるようにするためのステップなのだ。私は見た目を諦めてまで中身の段階へ行きたくはない。そこそこの美貌に満足できるその日を現状のゴールとして、私は私のやりたいようにやろうと思う。

2020-07-10

授業参観

コロナの影響で、教室には入れない。

廊下から覗く。

の子もの時は怒られてるか、窓の外を見てた記憶しかない。

の子なんだからそんなに集中なんか出来ないよなと思いながら見てたけど、案外真面目にやってた。

でも時々注意はされる。鉛筆で遊んでて「鉛筆は置いてください」前の人に続けて数字を言う時に言えなくて「注意してください」とか。

授業に集中できないのは努力2割、遺伝8割だな

2020-06-21

私の父は優しい人だと私は知っている

私の父は世界一不器用でだめで、それでも脆いほどに優しい人だと私は知っている。

物心ついた頃から親父が苦手で苦手で、喋るのが苦痛だった。

眼力が強く、冗談も言わない、笑わない、話しかけても会話は返ってこない、それから1度怒ると暴れ出し、弟と私をよく殴った。社会で上手く馴染めず仕事から帰る度に私たち八つ当たりはザラで

とにかく触ってはいけない人間なのだと、小学一年生で悟った。

自身の父ながら、父の家族兄弟に友人、父の昔話や人となりの話も聞かされたことはなく、親父の趣味や好みも年齢もどこ出身であるかも小学六年生になるまで知らない、そんな未知な父親であったように思う。

仕事で家に帰ってくる事が少なく、また学校行事には来た事がない。親子の関係は冷え切っていた。

だが小学六年生のある日、とうとう母親父親ってどんな人って思い切って聞いてみた。

父親=触れてはいけないもの、と思っていた私としてはかなり思い切った問い掛けである

「おまえの父さんはな、親に捨てられて学校にも行かせてもらえず、橋の下生活してた野生児やった」

と今ではありえない、漫画のような事を聞かされた。

最終学歴は中卒だが、厳密に言うと小卒レベル学力大人になってしまった子供だった、と母親は物思いに耽りながら答えてくれた。

借金を苦にした実の母親に捨てられ、近所の人に助けてもらうまで

アパートの一室で1人、それから大量のウサギ、犬、ネコニワトリ、虫また、動物の腐乱死体(なぜ動物に囲まれていたかについては謎らしい)と共に糞尿にまみれ、

非常に飢えた状態で救出された後、施設から逃走し橋の下で半ば野生児のように生きたと父親談。

だがその後また施設保護され、やがて青年になり父親作業員として働いていた中今の母親出会う。

母親は当時の親父とデートしてびっくりしたことが、まず服のセンスが壊滅的だったこと、また箸の持ち方やテーブルマナーが人並み以下だったこと、自分名前すら書けず足し算レベル計算もできず、学が無いため給料もちょろまかされている、感情の起伏が激しく癇癪をすぐ起こし警察沙汰になる といった親父の境遇環境に、こいつを人間らしくしなければいけない と母親は強く感じたらしい。

いままで学と無縁だった親父の躾に苦労しながら、なんとか識字や計算一般常識を覚えさせる事ができた所で、私が生まれたとの事。

私が産まれた時、滅多に泣かない(感情が乏しい)親父が泣いて私を抱き上げたのだ、と母親に聞かされた時、あの親父があの親父が泣いて喜んだのか、とかなりショックを受けた事を思い出す。

懸命に親父が母親スパルタ指導で様々な事を覚える中、どうしても親父が理解できなかったものがある。

いままで誰にも愛されたことも無く、実の親に育てられず、人を愛せたことも無い人間であったため、私が生まれて嬉しいことは嬉しいがどう愛していいかが分からないままであったとのこと。

小さい赤子を触れることさえも怖くなり、ある日とうとう赤子の私を床に落としてしまった事から、私が小学生になるまで私に触れることも話すことも、関わることもできなくなったのではないか母親が打ち明けてくれた事で、いままでの親父の素っ気なさと距離に対する違和感が繋がったような気がした。

親父の社会に馴染めなさ、おぼつかない字の書き方、下手な話し方、魚を食べるのが下手なところ、情緒不安定なところ、すぐ殴るところ 全てが親父の生い立ちに起因するもので、それらは未だに勉強であるものだと分かった瞬間、親父にもっと関わろうと思えたのだ。

ある日親父に授業参観きてよ、って言うと親父の元々大きい眼が更に開き、びっくりしたように「行ってもええんか」と呟いた。

授業参観の日、仕事抜け出して泥だらけの作業着で見に来てくれた時は泣きそうになった。おやじも照れてて泣きそうになってた。

元々絵が得意な私に、普段の拙い落書きでも絵で賞を取っても「お父さん才能ないからなぁ、おまえ凄いな」と手放しで褒めてくれたこと。

繰り返していた自殺未遂と、シンナー吸引をやめて前向きになってくれたこ

「おまえ、これ好きやろ」と、好きな漫画キャラが使う武器木材で本物同様に作ってくれたこと。(親父は不器用だが、手先や工作に関しては神がかり)

寒いやろ」と手袋を無けなしの小遣いで買ってくれたが、もう中学生なのにどれみちゃんの小さくダサい手袋を買ってきたこと、

夏休み工作を手伝ってくれるが、完成度が高すぎて親父が作ったという事がバレバレなこと、

私が生まれからも勉学でかなりつまづいていたが、とうとう一級建築士資格を取得できるまでに努力してきたこと、

自分の育ちが悪く、また貧困いじめられていたからこそ

子供の私達にはしつけを厳しくしてくれたこと、またどんな人にも優しくするようにおしえてくれたこと、

冗談が言えるようになり、人付き合いも上手く行き部下に慕われるようになったこと、

箸の使い方も魚の食べ方も綺麗になったこと、穏やかになったこ

私が大学に行き、一人暮らしすることになった時、涙を堪えようとするけど鼻水垂らしながら号泣して見送ってくれたこと、

バイクの修理まで手伝ってくれること、

私が世界一可愛いと素直に褒めてくれること

あの頃歩み寄って親父の事を聞いてよかったなって思います

あの頃逃げてばっかだったおやじも、私と向き合ってくれたからここまで分かり合えたのかなっておもう。

たまにバカで雑でアホだけど、努力してきた親父は不器用だけど世界一優しいと私は知っている。

本当の大人になれるまで、懸命に生きてきたそんな親父は世界一強いと私は知っている。

そんな親父をしばきながら根気良く育てた母親世界一強いと私は知っている。

2020-05-11

分かる。小学生高学年の時、親が授業参観の後、

友達の〇〇君、毎朝でワックスを使って髪をセットしてるんだって

 〇〇君のお母さんが言ってた。色気づいちゃって(笑)

と言ってきたのが、十数年以上たったいまでも記憶に残ってる。

(ああ、男が髪をセットするのは、クラスメイトの親に言われて、笑われるほど恥ずかしいことなんだ)

という図式が出来上がり、高校大学になっても、頑なに整髪料などを使わずにいった結果、

オシャレというもの無頓着になってしまった。

anond:20200511001339

2020-04-26

小学生なんだけど

コロナで今年は学校に登校しない日々が続くと嬉しい

授業参観ときに周りから若くないお母さんをバカにされなくていいか

なんで若い時に結婚しなかったの?

2020-01-20

まーた非公開か

いつも思うけど、当時の児童ポルノ禁止法や都条例、昨今の著作権関連の知財会議とかでもそうだけど、この手の連中は会議自体を非公開にしたり、身内のみで結論ありきで押し進めたりしたがるのはそれこそ、自身が疚しい行為をしており、世間から非難を受ける行為をしている事を理解した上で規制を行おうとしているからだろうね。

女性差別反対とかプロフにもあるあの関係っぽい弁護士にも要約したら素案作った奴が頭おかしいみたいな事を言っていて草。

この辺にも毛嫌いされているとかマジでこの素案作った奴等誰向けに条例作ったんだ?

2020-01-05

anond:20200105114656

シャネルだろうかシャムネコだろうが気にしねーよ

いや授業参観に猫がいたら流石に覚えてるわ

2020-01-03

anond:20200103185209

父親10歳過ぎた娘と風呂に入るとかね。

あと増田たち(男)は結婚後の生活が下記のような感じだったらどう感じるんだろう。

 

文化の違いというが、

もしも増田(男)は結婚後、奥さん

 

掃除…週1部屋を丸く履いて終わるだけ

食事…朝は牛乳コーンフレーク、昼は自分の小遣い(手取りの1割)でやりくりしてね、夜は冷食オンリーバラエティは3種類ぐらい)

洗濯洗濯乾燥機に入れたらスイッチは押してくれる

 

っていう生活、ただしもちろん料理が好きなら自分で凝るのはOKだしむしろやれ、

奥さん自分と同じぐらいの収入がある、

休日基本的夫婦で外出、

子ども幼稚園の送り迎えのどちらかは自分が必ず、宿題を見たり寝かしつけは夫の仕事

授業参観運動会自分仕事休んで参加、

奥さんはたまに出張で家を空けるのでその時の家事育児は全部自分(内容は上に書いた水準でOK)、

月1回ぐらい交互に夫婦お互いの同僚との親睦パーティ的なものがあり、そこで愛想よく如才なく振る舞うことが求められる。

 

…こういうのだと生活水準としてはどうだろう。

2019-12-12

離婚しなかった母が離婚を勧める

小学校授業参観で、母一人だけ老けていて嫌だった。

10年の差婚のため、父は老けていて初老老人に見えた。

そんな両親は不仲極まりなく、母が最初に手を上げてやがて耐えきれなくなった父が対抗する、

私は玄関ベランダの外に出される、かばんを捨てられる、

かなりの頻度で包丁を振り回されるという状況だったけど、両親は離婚しなかった。

父が亡くなってからしばらく経つと母は少しだけマトモになった。

手は出さなもの口論の多い夫婦仲を知らないにも関わらず、

母は離婚したらと言ってきた。ひどい毒親でもちゃん子ども本音はわかってる。

けれど、いくら第三者からアドバイスを受けても、大半は別れるという選択肢はない。

一番ひどかった平成元年の冬に戻って母にいいたい。

お父さんと離婚しないの? 私はパパと暮らしたい。




たぶん、令和5年頃に、このままだと娘にはっきりと同じことを告げられるだろう。

いくら学歴が上がっても努力しても、デジタル家電進化しても

毒親子どもを産み育てる不幸の連鎖は止まらない。

2019-11-28

クチャラーの親はクチャラーなのだろうか?

小学生の息子の同級生友達を家に招いて食事会を開催したんだけど、招いた友達の一人が酷いクチャラーだった

とても不快だったんだけど、角が立つし注意はしなかったんだけど、なんだか凄く腹が立った

きちんと挨拶するし身なりは清潔感あったからそれなりの家庭だと思うんだけど、何故にクチャラーに育ててしまったんだろうか

授業参観では残念ながらご尊顔を確認しなかったから、いずれはどんなツラしてるかみて、心の中で罵倒してやるんだ

2019-11-25

小1の息子がちょっと

口癖は抱っこして。

インフルエンザ予防接種ときに抱っこをせがみ、保育士に苦笑される。

夜は毎晩お父さん一緒に寝ようと言ってくる。

授業参観に行ったら、授業中ずっと指を舐めてるか、鼻くそほじってる。

休み時間に指舐めてんじゃねーと言ったら、隣の女の子に息子君ずっと指舐めてると告げられる。

授業中、先生が話してる教科書のページが分からず、先生にそっと教科書めくられる。

後片付けに時間がかかり、先生に引き出しを片付けられる。

引き算ができない。足し算も指を使わないと難しい。教えようとしても聞く気がない。

公園遊具に登り下りれなくなる。

美術館に行ったとき入り口の前にある池に足を突っ込む。

とにかく出不精でばあちゃんちに行くとき行きたくないと言い、帰るときは帰りたくないと言う。

運動勉強は苦手で得意なことは折り紙ブロック遊び。

妹と喧嘩ばかりして泣かせたり泣かされたりしてる。

3者面談でお母さんじゃなくてお父さんがいいと言って夫婦仲を険悪にさせる。

かわいいけど不安しかない。

2019-11-21

anond:20191120220832

抽選で決める時点でもう崩壊してる学校なのかな。

誰も希望者がいないって事だから

からガチガチ強制しないと誰もやらないから強制する→だから皆嫌がる、の悪循環だろうか。

うちの子学校場合、以前PTAとある学年全員の親を招集する行事役員やった事あったけど

何だかんだで一学年70人くらいのうち非協力的な親は3人くらいだったと聞いた。

普通にフルタイム共働き親も多い学校だけど(フルタイムでないと保育園入園不可能地域だけど、保育園出身の子多いし)

ホワイト勤務なんだな~と思った記憶

ホワイトでないならフルタイム共働きなんか出来ない、ってだけかもしれないけど。

授業参観も平日でもほぼ全員来てるし(来たら名簿にチェックするのですぐ分かる)。

元増田は他は全員専業主婦と決めつけてるようだけど、実際はホワイト勤務の正社員ママも多数混じってるだろうね。

そういうママからしたら「私は休んでるのに何でお前は休まねーんだよ」ってなりそうだし。

2019-09-16

低学歴の世界外圧・内圧の思い出

昔、田舎公立小学校(といっても地方中枢都市クラス住宅地だが)にいたことがある。

そこで授業参観理科の授業をやることになったのだが、俺は当時からちょっと浮いていて、

まあありていに言えば「少し変な奴」認定を受けていた。



そんな俺だったが、理科社会の授業はほとんど授業は真面目に聞いていなかったがなぜか成績はよかった。

俺は張り切って親にいいところを見せたくて、

先生の「シリンダーを押し込むと、スポンジが外に飛び出ました。なぜですか?」という質問に手を挙げて、

シリンダーが押し込まれたので内圧が上がり、外圧より高くなったからです」と、元気よく答えた。


そのとたん、教室爆笑に包まれた。


どうやらここは、授業で習った通りに『シリンダーの中の空気が押し込まれたから』と答えるべきだったらしい。


俺はなぜ笑われているのかわからなかった。小学生である同級生が、俺のことを笑うのはまだわかる。

だが、授業参観に来ている親のほとんども「何を言っているんだこの子は、バカなんだな」という顔で笑っているのだ!

なぜ笑うのか、まったく分らなかったが、結果としてその日から俺は「少し変な奴」から「バカ」保護者公認格下げされ、

いじめを受けることになった。

今ならなぜ笑われたかわかる。保護者ほとんども俺が言っていることが何となく理解できなかったのだ。

少数の仲のよかった(彼らも異分子扱いだった)友達は笑わなかった。その親もだ。

後で知ったが、仲の良かった友達の親は、大学職員行政書士パチンコ"メーカー"勤務など、

いわゆる高学歴の世界人間だった。

対してあざけりの表情をしていたのは───まあ、土地から察されるだろう。

彼らは、中学受験をして地元コミュニティから去っていった。

そして俺もある時点で地元中学から去ることになる。

もうすでに地元の"おな小"、"おな中"コミュニティとは10年縁切りだ。

大学の時は「大卒以外は人間とは思ってはいけない」などという傲慢な考えにとらわれたこともあった。

社会に出て、高卒でも俺より知識技能もあるおじさんに揉まれて、

一概に括れるものではないということも分かった。

だが、たまに。

時々思ってしまうのだ。俺の心の中の安全弁が壊れて圧力が上がった時。

低学歴の世界の住人は救えない。関わってはいけない。住む世界の違う生き物なんだ」と。

2019-05-22

体罰必要子供もいること

体罰による躾を肯定した記事を書いた増田ボコボコに叩かれてたのを見て、私も体罰による躾があったからこそ、こうして今がある人間として思うこともあるので、ここに書いておきたいと思う。

はてなには体罰による躾を一切認めない人たちが多い。それについて例の増田じゃないけれど私も疑問を覚える。

その理由は、体罰必要子供も本当にいることを、私は私自身の行動から骨身に沁みて知っているからだ。

幼稚園の頃から私は他人が苦しんだり悲しんだりするのを見るのが好きだった。

絵本でも児童書でも、いじめられてるシーンや恥をかくシーンを見て興奮する子供だった。

何をしたのかはあまり覚えてないが幼稚園の頃から、なんでお友達に意地悪するの!と母によく怒られていたことは覚えている。

小学生とき授業参観の日にクラス大人しい子の教科書を朝にこっそり盗んだ。

後ろに親が並んでるなかで教科書がなくて必死に探して泣き出した子を見て楽しかった。

でもなぜわかったのか、母に家に帰ったら問答無用ランドセルの中を見られてその子教科書が出てきて思いっきり叩かれた。

仕事から帰ってきた父も話を聞いて怒鳴りつけ殴られた。

それが私の受けた体罰最初記憶だ。そのあとから体罰が度々行われるようになった。

あるとき、AちゃんがCちゃん宛てにBちゃん悪口を書いた手紙捏造してこっそり教室に落とそうと考え、その手紙を書いてるところを母に見つかった。

母は号泣して私を殴りつけ父には何度も蹴られた。全身が痣だらけになるくらいで次の日は高熱が出た。

でもそのおかげで「痛み>快楽」の方式自分の中に根付き、他人嫌がらせをすることをやらなくなった。

私物はすべて管理され部屋も与えてもらえなくなったか自由もなくなったことも大きい。

父に自分が行ったことをすべて書かされてから学校に無理やり連れて行かれて、教室先生やみんなの前で読まされたことで、私自身がいじめられる側になり他人に何かを出来なくなったことも影響はあったとは思う。

ただそのすべてで私は私の行動を社会的ルール適応させることを学べたし、犯罪を犯さな人生を歩めた。

両親は私が中学生の頃に、父の兄、私にとっての伯父に当たる人が、女性強姦して逮捕されたことなどの影響で、夫婦関係も難しくなり離婚した(父は五人兄弟だが私が産まれる前にも一人逮捕されている)が、父はその兄と私が似ていると心配していたらしい。

私は女なので強姦逮捕される可能性は低いが、あの体罰がなかったら違う罪を犯してたんじゃないか自分ことながら疑ってしまう。

子供は好きなことをやってしまう。好きなことが社会的に悪いことな場合体罰必要だと感じる。

追記

anond:20190522204053

申し訳ないが反省や後悔はしていない。私がどう感じようと、その人に傷が残っているなら残り続ける。なので意味があるとは思えない。

anond:20190523034025

感情強制なんて誰にも出来るわけはないと思うので、問題なのは私が行為を繰り返すか繰り返さないかだと思う。

そして私は体罰による苦痛リスク嫌がらせで得られる快楽を上回ったのでその行為をやめたという事実がある。

内心の強制は出来なくても行動の強制は出来るということが大切なのでは?

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