はてなキーワード: 課題とは
http://twpf.jp/FredPrevost2 音楽芸術ジェンダー表現一般の研究者 🇺🇸住*UCLA’16*アンチテーゼの表現は使命*BL好き-アイコンバナ−3D自作ージャズとか年に四回ぐらいはライブ出る*雅な文系
Pixivは薄桜鬼二次作中心ですが限りなくオリジナルに近いです。現パロ、男x男エロ 18禁とかなりヘビーなプロット多いです。自分のために書いてるのでエロとインテリ内容が同時に混在していることが多いです。
ジェンダー学専攻なのでエロス、セックスとセクシュアリティの表現に関しては理性的で現代社会学踏まえて表現をしています。
モノ書く目的が既成概念への挑戦だったり、抵抗であったり、疑問や課題の提示であることが多いので、エロ小説でもそれぞれ目的があって書いていることが多いです。
[B! 司法] 「国民の一般的な宗教的感情」を害したので有罪。孤立出産で死産したベトナム人技能実習生、地裁判決の中身(望月優大) - 個人 - Yahoo!ニュース
この件、既にブコメでも言われてるから敢えて書く必要はないかもしれないが、「国民の一般的な宗教的感情」が持ち出されるのは仕方ないと思う。
誤解無いように言えば技能実習生だったリンさんに対して下された判決そのものを妥当だと言ってるわけではない。「国民の一般的な宗教的感情」の中身や適用範囲には議論の余地があるが、「国民の一般的な宗教的感情」という概念自体はやむを得ないというお気持ち。
Q. 「国民の一般的な宗教感情」概念自体は仕方ないにしても有罪に導くロジックはおかしいのでは?
A. 実際のところ実務的な論点はそっちの方が重要だと思うよ!このエントリは死体遺棄罪の保護法益は「国民の一般的な宗教感情」としか言えないしそこはしゃーないって話しかしてないからね。「殺人罪の保護法益は『人命』です」ってエントリだけじゃ実際の事件に対して殺人か傷害致死か過失致死か、正当防衛か緊急避難か、手術の失敗みたいな仕方ない事案なのか、責任能力はあるのか、そもそも被疑者が犯人なのかetcなんて語れてないというのと同じです。
ベトナム人元技能実習生に逆転無罪判決 死産児遺棄の罪 最高裁 | NHK | 事件
最高裁で逆転無罪判決が出たようです。かなり珍しい形ではないでしょうか。難しい判断だったかと愚考しますが個人的には良かったと思います。NHKのこの記事は論点を網羅していて良い記事ですね。技能実習生に対する妊娠・出産に関しての不適切な言動について「出入国在留管理庁が去年初めて……実態調査を行った」レベルなのは今まで行われてなかったのかと愕然とするものがありますが…。
制度に関する有識者会議が現在開かれています。この事件を通して技能実習制度が孕む問題について真剣な社会的議論が行われることを切に望みます。技能実習制度の抜本的な改革が叫ばれてもう20年以上経ちました。その間に訴訟が起き労働者性が認められ、法が変わり労基法も適用されるようになりましたし、外国人技能実習機構という新しい組織がなんかできたりもしました。もちろん状況の改善がなかったとは言いません。しかし一方でずっと同じ問題が指摘され続けてもいます。そろそろこの問題に決着をつけてほしいと願うばかりです。
第188条
1 神祠し、仏堂、墓所その他の礼拝所に対し、公然と不敬な行為をした者は、六月以下の懲役若しくは禁錮又は十万円以下の罰金に処する。
2 説教、礼拝又は葬式を妨害した者は、一年以下の懲役若しくは禁錮又は十万円以下の罰金に処する。
第189条
墳墓を発掘した者は、二年以下の懲役に処する。
第190条
死体、遺骨、遺髪又は棺に納めてある物を損壊し、遺棄し、又は領得した者は、三年以下の懲役に処する。
第191条
第百八十九条の罪を犯して、死体、遺骨、遺髪又は棺に納めてある物を損壊し、遺棄し、又は領得した者は、三月以上五年以下の懲役に処する。
第192条
まず刑法の建て付けとして死体遺棄罪を含む死体損壊罪等(190条)は「礼拝所及び墳墓に関する罪」という章の中にあるんだよね。同じ章にある第188条は「礼拝所に対し、公然と不敬」をした人間を罰するもの(礼拝所不敬罪)だったり第189条は墳墓の発掘者を罰するもの(墳墓発掘罪)だったりで非常に宗教的な内容。なので190条も宗教的な項目だと見るのはそこまでおかしくない。もちろん猥褻関係の罪のように同じ章でも個人法益の保護と社会法益の保護と分かれてるものもあるので必ずしもというところではあるんだけど。実際192条は明らかに性質が違うので。
第1条
この法律は、墓地、納骨堂又は火葬場の管理及び埋葬等が、国民の宗教的感情に適合し、且つ公衆衛生その他公共の福祉の見地から、支障なく行われることを目的とする。
関連して墓地埋葬法では宗教的感情を理由に墓地や埋葬に関わる規制を行うと明示している。
しかし、それでも死体損壊罪等は宗教的側面から逃れられないだろう。と、その前に感情を保護法益にできるのかという話をしなければならない。
確かに刑法において感情を保護法益にするのはあまり好ましく思われていない。例えば侮辱罪について保護法益を名誉感情とする説もあるが人気はない。刑法は謙抑的でなければならないのに安易に感情を理由にした規制を認めれば際限なく広がりうるからだ。社会秩序としての「国民の一般的な宗教的感情」が云々と言った時も何とかして法益の最終地点を社会秩序とか宗教的風俗とかそういうところに落とし込もうという謎の努力が垣間見られる。
しかしはっきり言えば第188-191条は基本的に「宗教的感情」を保護法益とするものだと理解されることが多い。礼拝所不敬罪についての高裁の判例を見てみよう。
……思うに、同条は、国民の宗教的崇敬ないしは死者に対する尊敬の感情を害する行為を処罰するものであつて、そのいかなる行為がこれに該当するかは時代によつて同一ではないであろう。しかしながら、今日のわが国の公衆一般の感情としては、特に清浄を保つべき場所たる墓所の区画内において放尿するがごときはなお明らかに墓所の神聖を穢すものと観念されるのであつて、このことからさらに推して考えるならば、たとえ現実には放尿しなくとも、放尿するがごとき格好をすること自体、見る者をしてその墓所に対する崇敬の念に著しく相反する感を与えるものといわなければならない。……
いや、判例がそう言おうとも礼拝所不敬罪(188条1項)と説教等妨害罪(188条2項)についてはあくまで宗教的自由の保障なんだという意見はありえる。墳墓発掘罪(189条)についても確かにそう言えなくもない。これらは他者の宗教的行為に対して害をなしていると言う立論もできなくもないからだ。
しかし果たして死体遺棄や損壊は他人の宗教的行為に害をなしていると言えるのだろうか?やはり死者への崇敬の念という宗教的感情で説明せざるを得ないのではないか(通常189条に対してもこう説明される)。
これはつまりそもそも何故死体はここまで保護されるのだろうかという問題である。何故器物損壊罪では飽き足らず、死体損壊罪を特別に規定したのだろうか。感情を持ち出したくないなら死者の生前の人格権の延長と見なすという方法はある。それでも権利主体でもない死体が法益の帰属主体となりえるのかという疑問は湧く。しかもこれだと生前の火葬を拒否していた人間を火葬したら人格権の否定として死体損壊罪の構成要件に該当する可能性まで生まれてしまう。
実際のところ死体が敬意を伴って丁重に扱われ慰撫されるのは生きている我々でしかない。死体が傷つけられたのを生命への侮辱と見るのはそれこそ素朴な「宗教的感情」ではないか。無宗教を自認する人間の多い日本では宗教的感情と死者への敬虔を別と考えたくもなるかもしれない。ナイーブな気がするが、まあ宗教的でない普遍的な感情としてもやはり「感情」が保護法益であることを否定はできていない。「国民の一般的感情」としても問題は変わるわけではあるまい。
まあネットでは「お気持ち」カード切ればゲームに勝てる感じだしまあネット上の議論なんてそんなものでもいいのだが、現実を見るとそう簡単に割り切れるものでもない。今回は刑事なのでちょっと違うが民事の名誉毀損では「名誉”感情”」が保護されることになっている。「お気持ち」と法で言う「感情」は同じじゃないと言えるかもしれんが…本当にそうかなあ。実務的にはどういう感情というかお気持ちが保護されるべきかみたいな方が喫緊の課題なんじゃないかな。ネット上の議論はその辺り無視して話をできるからやりやすいですな。建設的になってるかは知らんけども。でもはてブのAPIも非建設的なコメントを建設的と認識してる気もするからまあヨシ。
「一般的」とか勝手に言うなというのは分かる。ところが刑法判例を見ると「普通人」だの「通常人」だのという言葉もそれなりに見る。
最高裁様が決めた悪名高き刑法175条「わいせつ」概念の定義を見てみよう。
「普通人」「正常な」ってなんだよ。そもそも羞恥心みたいな感情を害することを軽々と要件にしていいのか。何らなら「善良な性的道義」もよく分からないが、しかしまあこの定義は脈々と受け継がれている。ただ、正直に言えばこうした罪状はこういう言い方しかできない部分が無いではない。
もう少し言えば他の罪状でも「通常人」を持ち出すしかない部分はある。例えば過失の認定をするのに危険が発生することを予見できたのか、という思考実験を行わざるをえない時もある。その際に通常人から見て予見可能性はあったのかと考えるのである。そうでなければ、被疑者が「自分には危険は予期できなかった」と言えばそれに反する証拠を提出できなければ全て無罪になってしまう。過失犯は立証困難になり死ぬというわけだ。
それと実際上の問題としてわいせつ概念や死者への敬虔の発露の方法が時代や社会によって大きく異なることは留意せねばなるまい。わいせつに関しては女性の胸の扱いとか見ると分かる気がするんだけど、下着姿の女性が公然わいせつになったりというのはある時代ある社会ではありえないことだろう。今の日本では実際に逮捕されたりしてるけどね。死者の扱いもやはりその場所その時の習俗に大きく左右されるのは分かるだろう。だからこそ「一般」「普通人」みたいな限定をかけておいてあまりにも硬直的で時代遅れにならないようにしてる部分はある…のかは分からないんだけどたぶんそう。
ただまあ「一般」も「普通人」も「通常人」も裁判官の想像上の産物しかないので注意を向けなければならないのも確かではある。どうしても恣意的になるしそうなると罪刑法定主義からしてどうなんだって話にはなるし。今回の件も宗教的感情という言葉そのものよりそういうとこが問題なんじゃないかな。
これはもう労働法が妊娠による不利益取り扱いを禁じていて、その労働法が技能実習生に適用されるよう法改正した時点で自明なことなんだけど、何故か未だに妊娠禁止とか恋愛禁止とか決められてたりするんだよねえ…。技能実習生に対しては日本人労働者と同じ扱いしなくていいと思ってるのか、そういうヤバイ労働環境だから日本人が来なくて技能実習生で代替せざるをえないのか分からんけど。
裁判例としては最初期の2013年の地裁判決の内容を紹介しておく。
(事例)
中国人技能実習生の女性は中国の送り出し機関と妊娠禁止の規定を結んでいた。ところが来日し食品加工会社で働き始めてから6ヶ月後に妊娠が判明した。
すると日本の受け入れ団体(監理団体)は妊娠を理由に強制帰国させるべく抵抗する当該女性を拘束して空港に連行した。なおも女性は抵抗し空港で保護される。
こののち女性は流産。女性はこのことで記者会見を開いたため会社に解雇された。
(結論)
技能実習生に対しては非人道的な行為がわりと行われてたりするので法の限界事例みたいなのがしばしば起こる。会社所有の寮にカメラがあって盗撮されてたという事例なんかははてブでも話題になってたが実は日本の法体系の間隙を突いた問題なんだよね。迷惑防止条例は公共の場に限定してることが多いから会社所有の寮みたいな私的空間には適用できず、そういう時に拡張して使われる建造物侵入罪は所有者が被害届を出さないと適用できない。軽犯罪法の窃視の罪にはなりそうだけど、迷惑防止条例と拡大解釈した建造物侵入罪でとりあえず対応しておくという実務というかちゃんと法整備してないツケ。閉店した後の店とかも公共の場ではなくなるので実は真摯に議論する必要がある部分だと思うんだけど、まあこういうことが技能実習制度で分かるというのは平常人間が受けない仕打ちを技能実習が受けやすいということでもあるんだろうなあ。違法状態が常態化してるのおかしいですよ。
・シス女性アスリートがトランス女性アスリートと切磋琢磨しさらなる高みを目指せる
・発達障害者が無理矢理働かされずにすむ
・健常者も障害者も同じ教室で助け合い学び合いサバイバルスキルを身につけられる
・授業内容を全く理解できない児童も共に学ぶ大切さを実感し鍛錬を積める
・女性たちが肌を隠せるようになる
・欧米を見習おうとした明治時代の先人たちの正しさが改めて実感できる
・ホームレス暮らしを謳歌する男性と同じく女性も児童も不審者のいない路上でのびのびできる
・妊婦さんたちが外野の声を遮断し本当に産みたい子だけを産めるようになる
・出産直後でも好きなだけ働ける
・田舎のしがらみから解放され都心で好きなだけ子育てに勤しめる
・男性同士が愛し合うマンガ作品が普及し同性愛の男児が勇気づけられる
・都会のみならず農村でも工場地帯でもさまざまな地域の外国語を学ぶ機会が増え多様性を実感できる
・進学したくもない大学に無理に行かなくてすむ
・アジア系アメリカ人が大学入試でチャレンジモードにチャレンジできる
・ユダヤ系ドイツ人とアラブ系ドイツ人が人目を気にせずガチンコディベートできる
・ドイツやスウェーデンなどの移住先でも自国自民族独自の司法文化や婚姻文化を実践できる
・沖縄に住むアメリカ人の子どもたちが日本人の大人からひどい言葉を浴びせられなくなる
・好きなキャラクターの肌を黒く塗ったファンアートをたくさん鑑賞できる
・同じ肌の色の人々が作った文化を自分たちで独占し流出拡大を防げる
・時効をなくせる
・友好国の軍隊同士でじゃれあえる
・おまわりさんが当てにならないことを学び市民が自分たちの手で課題解決する力を身につける
・おまわりさんがジェンダー論の主張を受け入れてくれる
PS5やプラモみたいに、時間経過とともに供給量が増加していくものの転売と、公演チケットや数量限定販売商品みたいに供給量自体が制約されてるものの転売では、その構造も対策も違うと思うんだけど、主に前者について。
人気があって定価販売の商品は、供給当初は需要が供給を大幅に上回っていて「財の希少性」が高い。市場理論的には本来もっと高く売ってもいい(売るべき)商品を、本来の実需との均衡価格に見合わない安い価格で販売しているから、結果的に転売益を取る余地が生まれる。需要者の効用(買うために出せる金額)がメーカーの標準小売価格を上回っている間は、その差額分の転売益を期待できるので、どうしても転売屋・転売行為は発生する。今はメルカリその他の古物販売プラットフォームもあって、参入障壁がとても低く、誰でも転売屋になれる。極端な話、普通のエンドユーザーがその商品をどうにか入手できて「さあ遊ぼうか」というタイミングで一応メルカリ見て、差益が2万円も出せることを知って、「なら遊ぶのはしばらく待ってもいいかな」と心変わりして転売する、なんてことも普通にありえる。いくら倫理で批判しても、転売益という実利がある以上は、転売行為を撲滅するのは難しい。
だったら、転売益という実利自体をなくしてしまおう。転売屋は市場の仕組みを利用しているのだから、メーカーも同じことをすればいい。新発売から一定期間(より受け入れられやすい表現で言えば「事前販売期間」)は、メーカー自身が自社サイトでネットオークション形式で売るのだ。サイトで一番高値をつけた人たちに順に商品を販売していく。こうすると、転売屋はその商品に手出しができなくなる。
ちなみにオークションといっても1台ずつオークションにかけて1台ずつ落札する必要はない。ヤフオク・モバオクなどでも実装されている複数出品オークション方式を取れば、たとえば初期ロットとして5000台を出品し、それを同時に多数の購入希望者が値付けして、入札額が上位のユーザーから5000人が落札する、ということができる。
なぜこれで転売問題が解決するか。具体的にはこういうことだ。転売屋は3万円で商品を買って、「5万円でも欲しい」という一般エンドユーザーに5万円で売り捌くから、2万円の利益を出せる。でも、メーカーが供給当初にオークション形式で商品を販売すれば、その「5万円出してでも欲しいエンドユーザー」達は、5万円を出してその商品をメーカーから直接購入する。彼らはその時点での本人の主観的効用に見合った金額を払って購入しているので、一切〈損〉はしていない。さらに時間経過とともに生産・供給が進むことで、より高い値段で値付けする「その値段でも買いたいユーザー」から順にどんどん商品を入手してゆき、実需がしだいに満たされ、オークションの約定価格は下がっていく。全てのユーザーは、約定価格が「この値段なら欲しい」と思える値段まで下がった時点で、その商品を入手可能になる。これは市場の仕組みそのものだ。
一方で、転売屋も一般エンドユーザーと同様、メーカーの公式オークションで、たとえばある時点では5万円を出してその商品を買うことはできる。それなら結局、オークション出品分も転売屋が買い占めて転売してしまうのでは?と思う人がいるかもしれないが、そうはならない。考えてみてほしい。オークション実施時の市場の需給均衡価格は5万円なので、転売屋が入手後すぐに転売しても、そのときに期待できる転売益は0円なのだ。
さらに時間経過によって、商品の市場供給の総量は確実に増え、財の希少性が解消されていくので、仮に転売屋が在庫を抱え込んだとしても、それは必ず不良在庫になっていく(時間が経つごとに、入手価格と再販価格の差損(逆ザヤ)が大きくなっていく)。これにより、原理的に転売屋による商品抱え込みが発生しない。
転売屋による買い占め・抱え込みが起こらないということは、オークションで販売される商品が確実に実需を満たしていくということでもある。これにより、発売初期の供給難は、(転売屋の介入余地がある)通常価格での販売よりも、オークション販売の方がずっと速く解消されていく。これも市場の仕組みだ。
オークション形式を取ることで、メーカー側は想定小売価格を超える超過利益が出る。その超過利益は、初期にプレミアム価格で買ってくれたユーザーに、購入時の登録アカウントと紐づけ、特別なバッジやゲーム内決済クレジット付加などゲーム体験に関わる形で(≒転売屋が転売時に付加価値化しにくい形で)還元すれば、ユーザーの満足度も更に高まるだろう。あるいは何か慈善的活動に寄付するでもいい。超過利益を何らかの形でユーザー自身あるいは社会に還元するというポーズを取ることで、メーカーは「強欲」という批判を回避できる。そもそも超過利益を生むことがオークションの目的ではなく、転売行為を抑制して流通上の目詰まりを早期に解消できればそれでいいのだ。
そしてオークション販売サイトでの平均約定価格が本来の想定小売価格に近づいた時点で、メーカーはオークション形式を辞めて通常流通に切り替えればいい。その頃には、その商品の転売行為で利ざやを取れると期待する転売屋は誰もいなくなっているはずだ。
オークション販売はネット通販でないと難しいから、小売店など既存の流通チャネルはどうすんだというのが課題になるが、本体そのものではなく購入権やアクティベーション権だけをオークション販売する、などの迂回策は取れなくもない。転売屋の跋扈を倫理ではなくシステム的に抑え込むという点では、これが一番効果的な対策のひとつだと思う。転売屋の意見を聞いてみたい。
それが日本社会の基本
逃げるが勝ちみたいなところがあり過ぎる
独紙「南ドイツ新聞」では、東京特派員のトマス・ハン記者が、東京五輪について「課題に充分対処しない日本の姿勢を多く露呈する。その姿勢は、日常のなかでは気づかれないものだ」とコメントしている。
体育大嫌いだったなあ
①
②
そのまま皆の前でテストをやらされて、みんなできるのに自分だけできなくて惨めな思いをする
③
試合をやらされ、自分と同じチームの人に申し訳ない気持ちで参加する。私と同じチームになってしまった子に「うわあ…」みたいな反応をされる
④
ここまで受けてきた惨めな気持ちと恥ずかしさと諸々で体育をどんどん嫌いになっていく
(おまけ)
発育が早く高身長だったので初対面で「バスケ/バレーやったら?」と言われまくるも実力を見られがっかりされる
同様に例えば自転車の練習をするにあたり「こんな大きい子がまだ自転車なんて練習してる…」なんて思われてそうな気がしてくる(被害妄想ではあるかもしれない)(逆に誰にも見られない場所で反復練習できる勉強は好きだ)
そりゃあ練習しろよって言われたらそれまでなんだけど、とにかく皆が当たり前にできることが自分はできないこと、それが周りの皆に知られてしまうこと、さらに私なんかと同じチームになった子に不利益を与えてしまうことが辛かった
あと上記の話とは全然違うけど持病で水泳に参加できなかったとき、体育の時間は代替で持久走をやるのに加えて課題として運動に関する資料(ピッチ走法がどうとかストライド走法がどうとか)を原稿用紙30枚くらいにまるまる書き写す課題が出されて教師のあまりの脳筋ぶりに引いたこともある(ちょうど受験シーズンだったから本当に時間の無駄で辛かった)
https://hochi.news/articles/20210714-OHT1T51146.html
五輪・パラリンピックの開閉会式の演出チームは波乱万丈だった。17年12月に野村氏、椎名林檎氏ら名だたるメンバー8人で発足し、当初は映画監督の山崎貴氏が五輪の演出で主導的な立場だったが、18年7月には狂言師の野村萬斎氏が総合的なトップに就任。19年途中からは振付師のMIKIKO氏が実質的な責任者へと変更された。
ところがコロナ禍による大会の1年延期に伴い、昨年12月には演出チームは解散、クリエイティブディレクターの佐々木宏氏が総合統括に就任していた。しかし佐々木氏はタレント・渡辺直美への侮辱的演出のアイデアが大問題となり、結局3月に辞任。MIKIKO氏の辞任に至る経緯も問題視され、表向きには責任者不在の状態が続いていた。
東京五輪・パラリンピック組織委員会は14日、大会の開閉会式制作・演出チームのメンバーを公表し、式典のコンセプトを発表した。
演出の実質トップとなるエグゼクティブプロデューサーに就いているのは元博報堂で、アイスホッケーの日光アイスバックスのGMも務めた経験を持ち、国際スポーツビジネスの場で活躍してきた日置貴之氏。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210714/k10013139621000.html
ことし3月から東京オリンピック・パラリンピックの式典の統括を担当する大会組織委員会の日置貴之エグゼクティブプロデューサー
http://www.smg-world.com/management#hioki
1974年生まれ。大学を卒業後、株式会社博報堂に入社、その後FIFA Marketing AGに転職し2002FIFA WORLD CUPKOREA/JAPANのマーケティング業務を行う。
https://www.nikkansports.com/olympic/tokyo2020/news/202107140001278.html
「この状況での五輪。人によっては反対する人もいる。バラバラになった状況だ。大会の基本コンセプトに『ダイバーシティー&インクルージョン(多様性と調和)』とある。この時代に『国民は』とか『世の中の人々は』という表現は完全な時代遅れだ。国民って誰? 人々って誰? という時代。その人々とは日本人のこと? ということ。これを多様にイメージしていく。受け手の気持ちになって考えることが唯一、コミュニケーションの今後のあり方だ。それを考え開閉会式をつくってきた」
-その「ダイバー…」
「それを言えない段階でだめ。僕が大事にすべきは、みんながそれを言える、理解する開閉会式にしなければいけない」
-東京五輪招致の起源だった「復興五輪」という言葉をコンセプトに盛り込まなかった意図は
「省いたつもりはない。たまたま書いてないだけ。演出には復興の観点もあり、1ミリも忘れていない」
「見てもらえば分かる」
「受け取り方をこちらが定義してはいけない。医療従事者の代表としてとか、そういう考え方自体がこの時代にそぐわない。日本の人は、同じような生活をしてきちゃっている人たちの考え方と、世界のいろんな考え方を認めていくことが大事。まあ、皆さんは日本人しか読まないメディアかもしれないけど(笑)。僕自身、海外でずっと生活してるので、やっぱりすごく不思議に思うところも日本にはある(笑)」
https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/598439
「開閉会式の制作チームの約7割が女性で、LGBTの方や外国人もいる。3月に再出発して最初に取り組んだ課題がジェンダーのバランス。常に大勢のチームの中で議論している」
https://olympics.com/tokyo-2020/ja/news/news-20210714-03-ja
プロデュースチーム
https://www.nikkansports.com/olympic/tokyo2020/news/202107190001222.html
任命した組織委の責任はないのか問われると「(組織委が)この人選の最終責任を負っていると認識しています。(昨年の制作チーム変更という)一連の流れの中、新たな開会式運営のためのチームをつくりました。(日置貴之)エグゼクティブ・プロデューサーという立場の人がおられ、ここに(オンライン会見に同席して)いる中村英正(大会開催統括)がおられ、その上に事務総長である私がいて、さらに橋本聖子会長がおられるということ。この体制が責任を持っております」
https://twitter.com/Zangiri_mono
2011年3月11日に発生した東日本大震災における全世界からの支援に対する返礼や震災復興、震災時に示されたスポーツの力、1964年東京オリンピック以来56年ぶりの日本開催を掲げ、施設面や財政面で優れている東京で五輪を開催することを目指している。また、震災から復興してきた姿を見せることや、戦後60年以上一貫して平和を貫いてきた日本で五輪を開催することで、世界で起きている災害や紛争で苦しむ人々を勇気づけることも理念に掲げている。
被災地である宮城県の宮城スタジアムでサッカーの予選を開催するほか、三陸沿岸で聖火リレーを行い、事前キャンプを被災地に招致する計画を打ち出している。開閉会式や陸上競技などを行うメインスタジアムは改築予定の国立霞ヶ丘競技場陸上競技場とし、晴海埠頭に建設する選手村を中心とした半径8km以内に8割の会場が収まるコンパクトな会場配置計画となっている。
東京は強固な財政力と良好な治安、インフラ面で前回2016年五輪開催地選考における1次選考では、立候補都市の中で最も高い評価を受けた。今大会の開催地選考でも東京の計画への評価は高く、2012年5月の1次選考でも総合評価のコメントで立候補都市の中で唯一「非常に質が高い」と記述され、正式立候補都市に選出された。課題として挙げられているのは、IOC の報告書で指摘された夏季のピーク時における電力不足と都民の低い支持率である。招致ロゴは友好の印として世界中に送られてきた桜を使用して「再び戻る」を意味するリースを模り、震災からの復興や経済の復活、半世紀ぶりの夏季五輪開催をイメージしている。
2020年夏季オリンピックの開催地選考 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 https://ja.wikipedia.org/wiki/2020%E5%B9%B4%E5%A4%8F%E5%AD%A3%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF%E3%81%AE%E9%96%8B%E5%82%AC%E5%9C%B0%E9%81%B8%E8%80%83
五輪開会式と、『ルックバック』についてをむりやり結び付けた話です
「サイモン・ウィーゼンタール・センター」(SWC)の副代表のコメントが朝日新聞に出ており、とても驚いた。
東京五輪で開閉会式のディレクターを務める小林賢太郎氏(48)が解任されたことを受け、米国の有力ユダヤ人人権団体「サイモン・ウィーゼンタール・センター」のエイブラハム・クーパー副代表は22日夜(日本時間23日午後)、朝日新聞の電話取材に応じ、「適切な動きだ」と語った。
問題の動画は、小林氏がお笑い芸人だった1998年に発売されたビデオに収録された。20年以上経って問題視されたことに対し、クーパー氏は「それでも責めて、責任を取らせるべきか。イエスだ」と語る。
その理由については「彼には自分の行いについて自省する時間があった。だが、不適切だったと認める声明はこれまで出てこなかった。3、4カ月前でも『私は若かった、考えが浅かった』と言えばよかった。それこそが彼の問題だ」と説明する。
自分が驚いたのは、同副代表が、2017年、欅坂46の「ナチス風衣装問題」でこのような発言をしていたから。
「ソニーは適切に対応した。すぐに人を(SWCの本部がある)ロサンゼルスに派遣し、私は東京に来た。こういったことも踏まえて、その数か月後にまた東京に来た。我々の本当の関心事は、不幸な事案を学びの機会にすることだからだ。」
「我々の本当の関心事は、不幸な事案を学びの機会にすることだからだ。」
今回の小林賢太郎氏への声明においても、SWCは決して解任を求めているのではなく、あくまで謝罪と教育が求められているのだと思っていた。
昨今の「キャンセルカルチャー」とは一線を画すものだと思っていた。
この数年で、趨勢が変わったのだろうか。
ここで『ルックバック』の話になる。
ルックバックの犯人像が統合失調症に対する偏見であるという批判、それに対する反応。
そして、不当だと突っぱねるでもなく、謝罪して引き下げるでもなく、
ただ意見として受け入れればいいのでは、そう思っていた。
しかし、このように今「批判・抗議」がただちに辞任や解任、引き下げに直結している現状があるために、
正当であるかどうか強く判断され、単に受け入れることができない、といったことが起きていやしないか。
「何も要求しない、ただ批判であるだけの純粋な批判」があると思う。
これが昨今難しくなっている。
表現規制問題について、「お気持ち」と呼ばれ始めたそれについての話が特にそうだ。
ただちに規制に繋がらない限りは、不快感の表明は当然あるはずのものではないか。
「お気持ち」は、単に「お気持ち」である以上は、完全に正当なものではなかったか。
個人の感情から一足飛びに規制論へ飛ぶからこそ、「それは単なるあなたのお気持ちだ」、という批判ではなかったか。
それが今では、単に何も要求しないものについても、「お気持ち」という言葉が飛び交っているのを見ている。
現状では問題とはされていない、かくれた課題というのは無数にあるのだと思う。
それに光をあてていくには、まず知ってください、認識してください、と主張していくことが必要と思っている。
主張は不当と突っぱねられてしまう。
それまで完全に突っぱねてきたものが、急に変わるのか?
ただ意見として聞いてもらって、少しずつ変わっていくことはもうできないのか?
小山田氏が辞任した際に、「謝っても許されないのなら、みんな謝らないで無視することになる」というような意見が複数あった。
「許さない人がいるのは当然だろう、何言ってるんだ」、最初そう思った。
個人の感情として、許す、許さないがあるのは当然のことと思うから。
「許す」、「許さない」はそのまま「突っぱねるか」、「降りるか」の対立構造に限りなく近づいてしまっている。
自分は「謝っても許されないのなら」を、100%は否定できなくなってしまっている
矢面にたって集中砲火を食らえばいいと思っていた。
「ただ批判を受け入れる」ことは、場合によっては、降ろされるよりも厳しい場面があるのではと思う。
高校生以下はそろそろ夏休みの時期ですね。大学生は来月くらいかな。
例年と違って休みになっても大手振って外で遊べないし皆で集まれないし、素直に喜べないだろうなあとぼんやり思います。
ところで僕は学生時代、大人たちに「いま夏休み?学生はいいよな~!社会人に夏休みなんてねえからよ~」みたいに言われるのが嫌いでした。
なぜって、余程のことが無い限り、どのおっさんにもおばさんにも等しく学生時代の夏休みはあったと思うからです。(なかったとしたらそれはごめんなさい。)
自分も甘受してきたものなのに、なんで通り過ぎて何十年も経ってから勝手に上から羨んでくるんだろう。
もちろん時代の流れで土曜日半ドンだったりそうじゃなかったり、祝日の数自体が少なかったり、そういう差異はあるだろうけど大筋の休みとしては大差ないはずです
「学生に戻りてえよ~」、分かります。じゃあ課題もやってくれますか?毎日10kmチャリ漕いで通学してくれますか?というと急に黙るおっさん、休みとか勤労の義務がないとかそういう旨い部分しか見てないのを子どもに見透かされて恥ずかしくないのかな。
いけねえ、話が逸れちまった。
とにかく僕は大人たちが都合の良い部分だけ拾って大人はガキと違って大変なんだマウントをとってくるのがめちゃくちゃに嫌いだったので(まだ大人になったことないガキにマウントとって楽しいか?)(アンタも元々そのガキだっただろ)自分はそうならないようにしようと心に決めて社会人になりました。
社会人になってみると、さすがに「気楽でいいよな~」と言われることはなくなりました。が、代わりに別の部分で変な自虐?風マウントをとられるようになります。
たとえば今日、7月22日。僕の勤務先は基本カレンダー通りの祝日やすみになるので今日も明日もお休みです。世間一般でどっちが多いのかはわかりませんが、今日明日がお仕事の会社もたくさんあるでしょう。
他の職種の友人たちに今日明日休みだということを伝えると、もれなく羨ましがられます。「休みがいっぱいあっていいな~」なんていう見当違いのことを言ってくる人もいます。年間休日お前のとこと同じだけどな。
職種は自分で選べます。(これは学生より選べない人が多いかもしれないので選べない人はごめんなさい)
人が休んでる時に働いて、人が働いてる時に休みたかったらその職種を選べばいい。人が休んでる時に一緒に休みたい人はその職種を選べばいい。
そんな取捨選択すらしてないくせに勝手に人の芝生の青いところだけ見るなんて卑屈なひとたちだなあと常々思います。
あとこれを読んで「ホワイトはいいよな。俺の会社なんて~」みたいなブラック勤めマウントをする人がいるのか楽しみにしています。
https://hochi.news/articles/20210714-OHT1T51146.html
五輪・パラリンピックの開閉会式の演出チームは波乱万丈だった。17年12月に野村氏、椎名林檎氏ら名だたるメンバー8人で発足し、当初は映画監督の山崎貴氏が五輪の演出で主導的な立場だったが、18年7月には狂言師の野村萬斎氏が総合的なトップに就任。19年途中からは振付師のMIKIKO氏が実質的な責任者へと変更された。
ところがコロナ禍による大会の1年延期に伴い、昨年12月には演出チームは解散、クリエイティブディレクターの佐々木宏氏が総合統括に就任していた。しかし佐々木氏はタレント・渡辺直美への侮辱的演出のアイデアが大問題となり、結局3月に辞任。MIKIKO氏の辞任に至る経緯も問題視され、表向きには責任者不在の状態が続いていた。
東京五輪・パラリンピック組織委員会は14日、大会の開閉会式制作・演出チームのメンバーを公表し、式典のコンセプトを発表した。
演出の実質トップとなるエグゼクティブプロデューサーに就いているのは元博報堂で、アイスホッケーの日光アイスバックスのGMも務めた経験を持ち、国際スポーツビジネスの場で活躍してきた日置貴之氏。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210714/k10013139621000.html
ことし3月から東京オリンピック・パラリンピックの式典の統括を担当する大会組織委員会の日置貴之エグゼクティブプロデューサー
http://www.smg-world.com/management#hioki
1974年生まれ。大学を卒業後、株式会社博報堂に入社、その後FIFA Marketing AGに転職し2002FIFA WORLD CUPKOREA/JAPANのマーケティング業務を行う。
https://www.nikkansports.com/olympic/tokyo2020/news/202107140001278.html
「この状況での五輪。人によっては反対する人もいる。バラバラになった状況だ。大会の基本コンセプトに『ダイバーシティー&インクルージョン(多様性と調和)』とある。この時代に『国民は』とか『世の中の人々は』という表現は完全な時代遅れだ。国民って誰? 人々って誰? という時代。その人々とは日本人のこと? ということ。これを多様にイメージしていく。受け手の気持ちになって考えることが唯一、コミュニケーションの今後のあり方だ。それを考え開閉会式をつくってきた」
-その「ダイバー…」
「それを言えない段階でだめ。僕が大事にすべきは、みんながそれを言える、理解する開閉会式にしなければいけない」
-東京五輪招致の起源だった「復興五輪」という言葉をコンセプトに盛り込まなかった意図は
「省いたつもりはない。たまたま書いてないだけ。演出には復興の観点もあり、1ミリも忘れていない」
「見てもらえば分かる」
「受け取り方をこちらが定義してはいけない。医療従事者の代表としてとか、そういう考え方自体がこの時代にそぐわない。日本の人は、同じような生活をしてきちゃっている人たちの考え方と、世界のいろんな考え方を認めていくことが大事。まあ、皆さんは日本人しか読まないメディアかもしれないけど(笑)。僕自身、海外でずっと生活してるので、やっぱりすごく不思議に思うところも日本にはある(笑)」
https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/598439
「開閉会式の制作チームの約7割が女性で、LGBTの方や外国人もいる。3月に再出発して最初に取り組んだ課題がジェンダーのバランス。常に大勢のチームの中で議論している」
https://olympics.com/tokyo-2020/ja/news/news-20210714-03-ja
プロデュースチーム
https://twitter.com/Zangiri_mono
逆にこれ、増田が超ラッキーな職場にいるんじゃないかって気がする。すくなくとも公的セクターでときどきある
一字一句字起こししないと「あの発言のココが落ちてる」とかいう指摘を受ける重箱の隅と戦わなくて済む。
実は会議は、①連絡共有会議②整合会議③決定会議④アイデア出し課題出し会議の4つ位に分けられるので、
①は「別添資料を連絡、了承いただいた。」で完了、②は〇〇を××するという件について、△部長に説明し、概ね了承された。条件として〇〇、③は、〇〇を審議し、XとYの得失を定性的に評価した結果B案で決定した、
みたいな感じで。この辺習熟すると早い安い美味いという評判がもらえるし、たぶん会議取り回しの役目が回ってくるようになる。
ステップアップだ。
M2です。
最近研究が楽しくて楽しくてしょうがなくてD進をしたくなってしまう。
もし会社と環境が許すならばこのままあと3年研究を続けたくなってしまう。
内定を取った後の今年の5月に、ずっと全く出ていなかった成果がポッと出てしまった。
めちゃくちゃ嬉しい。このままいけば論文化するが、今年で私が卒業するならFirst Autherは教授になるだろう。論文を書く時間が足りない。
成果が出てしまったものだから、続きでやりたい実験も膨大に出てきたし、頓挫させていたテーマも、これがうまくいくならいくんじゃない?と私が思い始めたから、また再開させたくなってしまう。
論文化するならば出さなければいけないデータもたくさんある。正直データ収集なんて面倒くさい作業は後輩にやらせたくない。全て私がやりたい。
そして新しい助教先生が本当に本当にいい人で、私に自己肯定感を植え付けてくれた。私は十分研究者の素質があるとの肯定感を養ってくれた。
あと助教先生は私に論文誌の読み方を教えてくれた(逆に言うと今まで教わっていなかった。)。論文誌というのは、雑誌なのだから、雑誌のように全部眺めて、気になった論文を読むスタイルが一般的なのだそうだ。助教先生に教わってから、JACSとAngewandteの最新号は全て目を通している。サムネしか見ていない記事も多いけど。そのうち1報は精読してA4 2枚に要約する作業を毎週行うことにした。楽しい。まだまだ読みたい論文がいっぱいある。時間が足りない。
時間が足りない。今でも時間が足りなくて週2で研究室に泊まっては実験したり論文読んだりしている。今日も泊まって論文の整理をしていた。
あと、研究室の運営的にも、ラボにドクターが一人はいた方がいいと思うんだよね。私がB4の時はドクターが4人もいて、メンバー全体のレベルが高くて、目標とできるロールモデルが沢山いて本当に有難かったのだけれど、今はドクターがいないから、後輩たちを引っ張る人がいなくて、可哀想だなと思うときが時々ある。
あと私一人だけ学年が上だと、色々と自由に過ごせてよい。
とまあまだまだ研究室にいたい理由は沢山あるのだが、懸念点も沢山ある。
まずさ、いまさら内定辞退するのは企業に悪いよなあ。とても好きな企業なので、会社にご迷惑をかけるのは避けたい。
あとDでもう一回就活するのが非常に嫌。というか今の会社に3年後D卒として入れたら理想なのに。
あともううちの大学の博士の入試は終わっているのでは?博士は遅めだからまだかな?いけるかな?
あと教授はいい思いをしないかもしれない。教授は、私に早く出てって欲しいいと思っているかもしれない。
あと後輩たちもいい思いをしないかもしれない。特にM1なんか出てって欲しいと思っているかもしれない。
あと、ちゃんと卒業できんのか?卒業の為には論文を3報出す必要があるが、出せるか?1報をArticleにして2報ならどうにかできるか?いやーーー結構厳しいのではないか?
諸先輩方は口を揃えて、「弊ラボでDに行くのはおすすめしない」「というかうちの大学でDに行くのはおすすめしない」と言っていたし、Dなんてやめるべきでは?
懸念点をつらつら語ったよ。
書き捨てなのに非常に真剣なご助言を頂いてありがとうございます。
助教にも軽く相談し、自分も考えましたが、やはり修士で就職しようという決意が固まりました。
しかし私が書きたいので、自分の中での整理も含めて、情報をさらに提供しておきます。
・専攻
専攻は有機化学です。細かく言えば構造有機化学・超分子合成分野の端くれで、その界隈でもかなりマイナーなおもしろ分子合成法の開発研究をしています。ド専門そのままでは就職先は無いでしょう。
しかし有機化学自体は学術領域の中でもかなり「食える」方の分野です。化学メーカーという大きな受け皿があります。医薬・農薬のような天然物合成方面か、樹脂のような高分子にまで食指を伸ばせば、働き口は多くあります。私の修士での就職予定先も樹脂系材料メーカーの研究職です。
私はこれまでに、人並みの有機合成技術は付けてきた自負はあります。弊ラボは構造有機化学の研究室の割には分析はちっとも強くないのですが、最近個人的に分析の知識をつけたくてその辺を論文を読んで勉強しています。
あと実験大好き、研究大好き。今まで誰も分かっていなかったことを知ることは嬉しいですし、研究上の課題に対して解決策をあくせく検討する過程はとてもやりがいがあって楽しいです。「この条件ならうまくいくのでは?あーキタわこれ勝ち申したわ今すぐやろう。これうまくいったらどうしちゃおうか、あれもしてこれもして…」(まあ実際は結構な確率で失敗するのだが)と夢想することは至上の快楽です。
事実を述べると、約15年の研究室運営において、私の知っている中で博士は6人出ています。
単純計算で、まあたまにいない期間もあるけど、ラボで1人くらいは博士がいたりするかな…?という感じの研究室です。外部から院生が来たり何人も博士やポスドクがいるようなつよつよ研究室ではないです。
そのうち私の知っている5人は、2人は3年で卒業し大手化学メーカーに就職、1人は3年で退学して公務員就職、1人は6年で卒業し特許系の会社に就職、1人は6年で卒業しおそらく研究派遣に就職、といった進路でした。
いわゆる教授のコネみたいなのがある研究室ではないです。こじんまりで好きに研究したいという教授ですし、企業と共同研究とかする分野じゃないし。進路自体は自分で探す必要があります。ただ先輩は多く出ているので、そこのコネが運よく使えなくもないかもしれない。
分野的にポンポン論文を必ず出せるという訳ではないので、頑張らないと3年で卒業は厳しいかな…というのが正直な感想。
アカデミアみたいな稼げない進路はとりたくないので、仮に博士を出ても企業就職がいいです。
就活を通じて感じたが、うちの大学は学歴で言えば「上の下」じゃないかな。
学年で各社1-2人くらいかな、三ケミとか信越とか超大手に就職する人だって全然いるから、十分「上」の学歴ではあるのだが、逆に我々以下の学歴の学生なんてほぼ見ないし、「上」の領域では一番下になるよな…といった感覚を、インターンの選考とかを通じて思った。
まあ以上余談。
私が「どうしても博士に行きたい」と言えば両親は許可してくれると思うんだよな…。
以下よしなしごと。
・日本のメーカーは博士をそんなに優遇しないし、やっぱり修士就職が一番コスパがいいよなという結論に達しました。
・狭い研究室で井の中の蛙をするよりも、社会に出て早く企業研究者となった方が、最も私のためになるだろうと考えました。
・あと半年思いっきり好きな研究して、満足して卒業すればよかろう。時間が無いとはいえ半年もあるので、まだまだやれることはあります。まあ終わらなかったら今後入ってくる優秀な後輩に任せましょう。
・ファーストオーサーで論文を書きたい欲は納めることにしました。ぶっちゃけ手間だしね。2-3番目の著者にしてもらえれば万々歳。その分の時間でデータをもっと集めます。
以上。
【追記】
【縁故採用のこと】
予想外に反応がきていたので
よく内部者が言うのは、国立の機関なのにレベル低いよね、って言ってる。
でも、他の独法は知りませんよ。
小山田圭吾をネットリンチするのはいじめと同じだからやめろって意見が、冷静な良識派を気取るやつらから出始めてるね。
違うんだよ、小山田圭吾のやったことを「いじめ」と捉えるからそんなエセ良識派になっちゃうんだよ。
あれは刑事事件に相当する陰惨な暴力。それも圧倒的な力の差で反撃できない弱者に対する直接的な傷害なんだよ。
たとえば小山田圭吾が「あるクラスメイトをみんなで無視したり悪口言ったりした」といういじめ行為を告白したのなら、ネットリンチはそれと同じなのでやめろという論も成立する。
今回は違うだろ。直接的な暴力行為に対する言葉による批判だろ。
ルックバック、普通に面白かったし内容的に人に考えさせることができるのは素晴らしいなと思ったけど、内容はクリエイターとしては刺さらなかった。
同じく刺さらなかった人、いる?
もちろん、京アニ事件を指していて、そうあってはいけない、あんなことがなければみたいなことを浅く解釈して楽しんではいるのだけど、
クリエイターとしての生き様やすべてを語っている、あの情熱こそがすべてと言われると……???となる。
自分語りをすると、自分はクリエイターと呼ばれる領域の仕事をしていて、それで糊口を凌がせてもらっている。
理由として考えられるのは、
・自分が仕事でものを作るときには、誰のために、何のために、が明確としてあって、顧客の幸せっていうものを明確に定義して作るので、なぜ「自分が」作るのか、という哲学に至らない。もちろんそれを提起するのも自分。自分がやらないと作る人いなくて顧客が困ってるから仕事をもらえると認識している。
・クリエイターというよりはデザイナー思考。人の課題を見つけて、人の課題を解決することがなぜ作るのかの理由になっている。「なぜ」より「どう」作るのかが関心事だし、他人が作りたいものを作る手であることを認識している。
・悔しい想いをしたのは、予算/自分の制作物の出来に対してであって、他人と比較してどうというのが今までなかった。他人の作ったものを見るときに良いところを見つけて、取り入れようとするけどそれ自体に劣等感は感じない。
・夢を達成したことで夢は夢じゃなく目標として達成するものだと思っている。
ということがあるからだと思っている。
趣味でやってることもそういう分野だけど、自分のために娯楽としてやってるのもあって(作る過程が楽しい/あるいはすでにある創作物を自分が再解釈することが楽しい)、他人はどうでもよかったり。
良くない傾向なんだろうか。