はてなキーワード: 自覚的とは
あえてカッペと言う見下した言い方をするのは
やつらが「自分の価値観以外のパラダイムを認知するための脳の容量がゼロだから」な。
でさあ、
「あっふーん(察し) 相当貧しかったんだ?」みたいな反応が返ってくるわけ。
え?いや親父は慶応卒でいいとこ勤めてて年収はかなりだったよっていうと
もう「嘘だ!」ってブチギレて発狂してくるわけ。
何にキレてるのかさっぱりわからなかったけどなだめながら話を聞くと
「車を買えないならしょうがないが、車を買えるのに買わないということはありえない、認められない」
っていう話らしいのね。
当人も何にキレてるのか整理できてないんじゃないかってぐらいキレてくるんだけど
要するに車マスト価値観を否定されたことに対するショックがすさまじいっぽいわけ。
俺もさすがに
いやなんでそんなに怒るのかわからんし
特に不自由も感じずそれで育ったし(「休日に出かけるときに電車!?みじめじゃないか!」って言われた)
嘘だっていうけど顔も知らないあなたにそんな微妙な嘘をついてなんになるの
っていうんだけどまあ信じないし落ち着かない。
要するに田舎でしか暮らしたことがない人と首都圏で暮らしてる人間の断絶な訳よ。
俺は生涯首都圏だけど、地方で車がマストだし便利なんやろな―っていうのは想像は出来る。
震災後に福島に観光に行ったときはあーレンタカー借りればよかったんだなって思ったし。(まあペーパーだから知らんとこ運転する自信なかったけど)
首都圏だとあなたが日々実感してるような自家用車の有難味が全然感じられないし
駐車場代とかも田舎とは比べ物にならないし、かわりの交通機関も発達してるし、
ライフスタイルにもよるけど自家用車持たない選択も全然あるんですよ
ってことがどうしても認められない。
この「認められない」ってのが重要なんだけど、
単に想像できないって言うのを通り越した「認められない」の気配を感じたのよね。
車が要らないっていうのは別のライフスタイルの示唆をされるという以上に
自分の価値観や人生に対する根本的な否定として受け止めてるんだなって
何度かその種のカッペとやりとりするうちに段々わかってきた。
どっかの砂漠の民に「ラクダは持ってねえし要らないですね」って言ったら
「我々の生活と魂と祖先を根本から否定したな!」ってなるかもしれない。
カッペに自動車要らねえって言ったときのあいつらの激烈な反発はそういう感じの作用が心の中で起きてる。
https://anond.hatelabo.jp/20201017180336
こいつは俺が過去に遭遇した砂漠の民族的カッペよりは知識的には「外の世界」を認識してるんだけど
それでも根っこの部分で自動車に対する心理的な何かがあるよね。
こいつらのそういうぶぶんを察知せずに「自動車のツールとしての便利さ」「環境の違い」だけで話をしようとするとどこまでも荒れるのよ。
カッペが本当に認めてほしいのは自分達の車に対する愛着とその文化なので。
そこを自分で客観化も出来てないので一方的にこっちが察知・洞察して配慮してあげないといけないのがめんどいんだけど。
baikoku_sensei これだから 田舎のゲイは嫌いなんだ! 人口密度低くて ゲイ人口も少なくて 人と接する機会が少ないから コミュニケーション 能力が育ってない!
あれはむしろエスコートマナーや会話のとこでお前のそれ未熟やんてなってるだけだから
異文化コミュニケーションとしてはむしろ圧倒的に「通じ合えてる」方なんだよな。
同じ尺度や同じ欲望の中であなたはまだまだですっていうだけ。まるっきり同じ輪の内側。
ゲイという独自文化や男のチンポと言う強い目的が他の色んな差異を埋めてしまえてるんだ。
Tmr1984 都内乗用車めちゃめちゃ走ってるのに。さてはテメエ東京エアプだな笑
2020/10/18
テメエはまず日本語読めるようになれ。
Yutorigen 都会に住んでて車持ってない側だけど、この価値観と同一だと思われたくはない
あのさあ
俺自身は車に乗らない(必要としてないし車へのフェチズムや憧れも全然ないペーパードライバー)けど
自動車を持つことについて否ともなんとも言ってないよね
「田舎では自動車は必須だろうけど首都圏ではなしという選択も有り得る」ぐらいしか言ってない
俺の文章が偉そうなのは認めるけど何らかの価値観の話なんかしてねーのよ
mayumayu_nimolove 内容がひどくて3行読んでやめた。せめて読ませる文章作らないと誰も読まないよ。
読んどるやん
で、お前はカッペって言う差別用語に拒絶反応を感じたからやめたんだろ?
それはまともな感覚だけどその自分が何に拒絶を感じたのかっていうのを客観的に把握して正直に表現してほしいわけよ
nenesan0102 そういう人いるけど、あまりに想像力がなさすぎて会話が成り立たないよね…。増田大変だったろうな。都心部だと電車、たまにタクシーが一番安い
2020/10/18
この文の主旨は「カッペは自分の文化の外を想像できない」じゃなくて「カッペにとっての自動車はツール以上の精神的な何かだよね」だ
sakuragaoka 東京は自動車の運用が著しく不便な土地なので仕方なく公共交通機関使う場所、と思ってる。保有はしてたけど普段の移動はやっぱり電車が早いし。
そうね
東京で車乗る人は多かれ少なかれ車の所有とか運転体験とかなんかしら趣味性を持って好きっていうのはあるでしょ
そしてそれはたぶん田舎在住者の無いと死んじゃうツールとしての切実さや砂漠のラクダとしての愛着って言うのとは重なる部分はあっても全く異質な部分もあると思う
うん
そのうちにああこいつらにとっての車はなんか侍の刀とか牧畜民族の羊とかそういう市民権や豊穣を象徴する何かなんだなっていう気付きを得た話なんだよね
sangping 要するに都会暮らし自体が不便なんだよな。どう考えたってドアtoドアの車の方が便利だもん。自らの気の毒な境遇を自覚していない都会人の価値観が他者に理解されにくいのは当然だが、当人はその方が幸せなのかも。
ごめんそういう話はしてないし全然興味もないから賛成も反対もしないし勝手にやってくれ
俺自身はそんなに都会のメリット享受してないし田舎暮らしいいなーって思うこと多いよ
人間関係とかうざそーみたいな消極的理由で移住までは出来んけど
differential “俺は生涯首都圏だけど”都民じゃないのか笑(マウント)/うちは使用頻度低いから売ったけど実家(都心)も車持ってたし周囲も車持ってる人多いよ。通勤圏の県住みの人はもっと保有率高いと思う。
土地に対するコンプレックスとか全くないのでそういう感じの(笑)やマウントが全くわからない
それをやる人はかなりそういうコンプレックスがあるのねー、としか…
一番愛着感じてる町は小学生の時住んでた江東区だよ 夢の島(ゴミの島)とかに隣接する人気のない感じが好きで好きで
hyoutenka20 地方民も仕事や大学等で東京に行く人は多く、地方にいても東京マスコミの情報ばかりで東京の生活を認識できてる人が大半
東京の生活は東京に住まずにメディアの情報だけ見ててもやっぱりわからない。(逆も同じ)
なのに地方に居ながら東京の情報を見せられ続けてるとどうなるか?
完全未体験なのによくよく知悉してると勘違いするようになるんだよ。
これはどのジャンルでも恐ろしいことよ。
たとえばオタクって空手と合気道が戦ったときの相性について得々と語れる奴いるのよ。
どっちも自分でやったことすらないんだけど、刃牙とか格闘漫画でよく出てくる構図だから。
空手の打撃はこういう風に合気道にさばかれちゃうって「知って」るわけ。
そんな感じで格闘技とか筋トレに関する事って全く未経験なのに一家言持ってる男は結構いる。
漫画をはじめとしたメディアで変な情報は沢山載るので、それを見てるうちに「ちょっと、いや結構知ってる」って気分になるの。
バーベル触ったこともないくせにウエイトトレーニングのアドバイスしてくる奴マジでいるからね。
もっとすごいのだと、スポーツクラブでどこにも筋肉がない体の奴が明らかにやってる身体の人に何か助言してるのを見かけたりする。
何が言いたいかと言うとメディアの情報では実態を知ることどころか想像力すら養われないし
「何も知らないのに知ったような気になる効果」に自覚的で気を付けない人には小さくない害ですらあるということ。
土地に対するコンプレックスがある人も憧れがある人も、知らないんじゃなくて「中途半端によく知ってる」状態なんだよ。
俺はどの土地が恥ずかしいとかどの車が恥ずかしいとかそういうコンプレックスが全くないけど、それはそもそもあまりにも興味がなくて知識が全くないからなのよ。
そういう格付けとかを気にする奴は土地のランクや車のランクに滅茶苦茶詳しい。
住んだこともない土地や乗ったこともない車についてメディアから大量の情報を取ってる。
summoned 雑に広範に刺さる蔑称を使っておいて、「これはこういう意味で言ってるのでありまともな人には言ってません悪しからず」って面倒臭い注釈で反撃封じる言説は卑怯かつ放置すると本来の蔑称の意味で広まるんだよな
そりゃ俺だってリアルではこんな常識疑われそうな言葉は使わんけど
はてなはジャップだのマイルドヤンキーだの始めいろんな蔑称が常用されて許されてる治安の悪い場所じゃん何を今更って感じ
人の言葉遣いに突っ込むよりも自分の口や自分のいる場所に注意力持った方がいいぞ
kamezo わかりあいたいなら「カッペ」とか言ってケンカを売るようなことをしなければいいのに/それでもわかりあえないこともあるが、それはまた別の問題よな。 コミュニケーション
分かり合いたいなんてどこに書いてんだ
本当に文章の読めない奴が多いよな
俺はこのエントリで「カッペの生態や精神世界はこうなのではないか」という観察所感を発表してるんだから
元々カッペに対して失礼な文章であってこれはカッペと言う言葉を「地方在住者の中の一部の我の強い方々」とかにしても本質は変わらん
つまりこの文章でカッペに語り掛けたり分かり合おうとしたりしてないわけだ
この文章でカッペと分かり合おうとしてるつもりだとか言ってたらそっちの方が傲慢なやべーサイコパスだと思うぞ
HEXAR 増田が都内以外の地域で車を所有している人たちの暮らしや価値観が分からないのはもったいない気がする…相手は決して見下す対象ではないし車があるとどういうところに遊びに行くの?とか聞いてみればいいのに〜
あのさあ
だからさあ
俺は車に乗らんけど車必須な人や車が好きな人や車がラクダな人の生活を否定はしておらんの
というか意味わからんぐらい車好きな叔父とかいてなんか有名らしいオープンカーに乗せてもらったりするの(けどそれの名前も全然覚えられん)
興味はないけど別に車を嫌ってはいないしただ運転には自信がないしそんなに車で出かけたい場所がない生活なだけだよ
誰が「自動車好きの奴うぜーわー 車なんか買う奴バカだわー」とかいう話をしてんだよ
そんな話は一ミリもしてねえわ
ちゃんと読んだうえで俺に突っかかってくる奴(こいつらには何の悪感情も持てない)とかよりはるかにウザいんだわ
お前みたいなのはほんと、ちゃんと人の話を理解する能力付けた方がいいよ?
俺の今回の話も「全く予想外なわけわからんキレ方をする異文化の人をなだめながら話を聞きだしてその人の背後の生活や精神世界を探って言語化してみた話」なわけ
お前はレベル3もねえよな
そりゃお前は表面的にはスマートで行儀も悪くないのかもしれない
けどそうやって攻撃的じゃないポジティブな感じの口調で飾ってたって
関心や理解のレベル3未満ならそれは無能だし、会話してて面白くねーし、もっと端的に言えばバカって言うんだよ
カッペみたいな差別語使う俺よりお前みたいな行儀がいいだけの無能の方が対人関係においてはよっぽど無礼だし見るとこなしだと思うのよ
あっ
これは全然違う
「えっ車がなかった…(察し) 貧しかったんだね」っていうのは
そのカッペ氏はほんとにそういう風に察してただけでこっちを気遣うニュアンスの発言だった
煽りだなんてとんでもないしそこまでは普通に和気藹々と会話してたの
カッペ氏が突如猛烈にキレだして険悪になったのは
俺が「全然貧しくはなかったけど自動車は持ってなかった」ことを理解してから
俺が別に貧しくはなかったよってのもただそれだけ言っても信じない(自動車持ってないのに貧しくないなんて!)勢いだったから
作り話では用意しにくいディテール付きでむしろ裕福だったよって言う説明をしたわけ
カッペ氏の様子が激変したのもそういう説明の中で「裕福なのは嘘じゃない」「でも自動車は持ってないらしい」ということを理解してからだった
そのキレるタイミングやキレかたが不思議過ぎたからなんじゃこれって印象に残ったし、なだめながらなんでキレてんのか探っていったのよ
その後似た感じの相手に数回遭遇して仮説を立てて確信を深めていった
…っていうこれもなあ
なんで家が裕福だとか言っただけで煽りだとかマウントだとかに直結するんだ
読解力がない上に発想の貧しい人達だな
dogear1988 この手の摩擦にはグラデーションがあってな。本当に一方的に発狂されたなら同情するが、車や地方の欠点を論った上で自分の文化圏を正当化する人間は都会側にもいるんで、そういう可能性を考慮すると何も言えない。
俺が「貧しくはないけど自家用車はなかった」と説明して、それが事実だと悟った瞬間にカッペ氏はキレた
つーか俺は車について興味も知識も全然ないから利点も欠点も語りようもない
よく積極的自家用車不要派が言う維持費がどうのこうのの話だって、いくらかかるのかとか全く知らねえんだからさ俺は
そういう車文化や土地文化の衝突に何の興味もねえって何度も何度も書いてんじゃん
dogear1988 価値観の押しつけなどへの反発には賛同するんだが、結論や追記で「車への愛着」自体を揶揄してるのはアンフェアじゃないかね。寧ろそこを認めないなら「ライフスタイルとしての尊重」とは言えんのでは。
えっ どこがよ?
そこを揶揄だと思うのはお前の自覚の方が足りてないだけだよ お前は武士やベドウィン族より何か進歩してるつもりなのか?
我々はみんな刀やラクダの代わりの何かに執着して生きてるんだよ
でも現代ではそういうのはだんだん内面的な対象に引っ込んでっているから今回のカッペのように外部的なものに生活や魂や権利概念がこもってる感じの執着のあり方は予測がつきにくかったし面白かったわけ
お前もお前のラクダは何なのかを考えてみるといいよ
memoryalpha しょうもないマウンティングなんて頼まれてもないのに隙を見せてるようなもんだから可愛いもんです。愛でてあげましょう。ただしルサンチマンこじらせてるやつは相手してはいけない(´・ω・`)
違う
自分の生活や魂を根本否定するような異星人に遭遇して驚愕し混乱しキレてた
って、もう何回書いても無駄だなこれ
読めない奴はどう説明したって読めねえんだ
kyo_ju まぁ日本社会の貧困化がさらに進むと、公共交通が死んで自動車保有が必須な状況をいいことに"クルマにかかる金(税・保険その他を含め)を払うために1ヶ月働く"ようなところまで搾取が深刻化するかもしれない。
こういう「元からどんな話題でもそこから何も受け取らず自分の言いたいことを繰り返すだけ」みたいなidの方がよほどムカつかずに見れるよなそういうコオロギみたいで
りーんりーん あべしねー にほんしねー
みたいな
秋も深まってまいりました
俺はあいつ嫌いだったけどよく知ってみると確かに考え方は似てるかもしれない
id:ruin20さん。どうもありがとうございます。
id:tyoshikiです。
・そもそも論カナメが神崎のことを上に見てるかっていうと見ていない、と読むのが普通だろう。見込んではいるし、あわよくば仲間に引き入れたいと思っているだろうが上には見ていない。神崎が降りれば別の人間を探すだろう。それぐらいの態度である。
・大学生が(社会人相手に)初めて仕事を請けるという勾配もふくめて、大前提として、作者は両者の関係を「美大生の方が立場が強い」という態で描いていると私は思うというのは盛大な解釈違い
うん。ぶっちゃけると、ここの部分は貴方のおっしゃる通りだと思ってます。カナメさんは相手を特別に上だとみていない、と読むことは可能だと思います。(ただし神崎さんが欲しいという気持ちは「あわよくば、程度ではない」という認識ですが)
元々あの文章は「悪堕なんちゃら研究会」の語りをうのみにしている人へのカウンターとして書いていますので、「カナメが神崎を上だとみていると解釈すべき」は意図的に誇張して書いてます。実際は「お互いに」、こいつがだめなら他にあたろうが検討できるため、カナメさんの意識としては「対等」でしょうね。ただし、多くの人が指摘されているように「たとえ東京藝大だろうがなんだろうが、自分が経験があり、相手は経験のない新人なのだから下に扱う(その代わりに丁寧にコミュニケーションをとる)べき」であるという意見が強いにも関わらず、「対等に扱ってる」ということ自体、相当評価している、くらいの認識です。(なので「強く欲しがっている」という認識は変わりません。「あわよくば程度」という解釈は私は採用していません。)
じゃあ「上」って書くなよって言われそうですが、私が「上」という言葉を使ったことに対してはカウンター以外にもう一つ目的があります。
表現したかったのは「カナメ」さんの言動、動機の部分です。神崎さんに普通に仕事をして作品を出してもらうだけなら別のやり方はいくらでもできたでしょう。ですが彼女は「自分たちの仲間になってもらいたい」という気持ちがあったからですね。 これは難易度が高いミッションであり、これを達成するためには普通のやり方ではできないということです。 なので正確にいうと「上に見ている」というのは神崎さん自身ではなく「神崎さんを仲間にするというミッション」のことですね。
-
ところで記事ではすごい断言的に、挑発的に書いていると感じられたかと思います。あれはこういう「別の意見・解釈」が欲しかったからというのがあります。
なので、ruin20さんのご指摘って、何気にすごくうれしかったりします。 「ああ、この人ちゃんと私の記事を批判的に読んでくれて、ここ違うだろって言ってくれた」って感じるので。
単に反対とか賛成、ではなく「お前はこう解釈したらしいが、俺の読み方はこうだ」って書いてくれるのすっごいうれしいです。こういう反応してくれたのあなたが初めてです。本当にありがとう。
-
私も受け取ってばかりでは申し訳ないので、あなたの増田で気になったところ返しておきますね。
この辺りの論理展開は同意できないので追加で説明してくださるとありがたいです。
①
カナメが策略をもって神崎を落とそうとしているのなら、「言い方考えよ?」というミノリ(音楽担当)との会話で「あれは作戦ですよ」ぐらいの話があってしかるべきである。
→「めっけもん」とは思っているけれども、わざと圧力をかけて籠絡しようとはしていない。「ふつうすぎます」と言うのは作戦ではなく単に要求クオリティを満たさなかったからである。
なんで??
カナメが策略をもって神崎を落とそうとしているのなら、「言い方考えよ?」というミノリ(音楽担当)との会話でミノリ(音楽担当)との会話で「あれは作戦ですよ」ぐらいの話があってしかるべき
なんで? 貴方が「ミノリとそういう会話をするのが当たり前」と判断した理由はどこですか?説明してほしいです。
②
「めっけもん」とは思っているけれども、わざと圧力をかけて籠絡しようとはしていない。「ふつうすぎます」と言うのは作戦ではなく単に要求クオリティを満たさなかったからである。
「カナメが裏表のないキャラクタだということは終始一貫している」も意味が分かりません。「裏表がない」という言葉をどういう意味で使っているのかわかりませんが、神崎さんに対する態度がすべてカナメさんの素だと判断されたということですよね?だとすると、「裏表がない」は本心を包み隠さずストレートに表現するっていう意味ですか?
ここを自明の部分として語られていますが、なぜそう判断されたのか教えてほしいです。私はカナメさんがそういう人物だと全く思えませんでした。 むしろ「かなり出力を自覚的にコントロールするタイプ」だと思っています。前回の話が顕著ですが、少なくともミノリに対して「直接感情をストレートに見せるタイプ」だとは思いません。
https://note.com/tetsunatsu1/n/n0964b399e680
このあたり、ruin20さんはどの部分を持ってそう判断されたのか教えてほしいです
こちら。
あれがチヒロさん(美大生)の物語だという分析があったので気になって書いてみた。
自分の考えではそれは違う。視点はミノリさん(もう一人の社員)から常に描かれていて、彼女が見たプロの現場というテーマが貫かれている
それは同作者の前作を見ても明らかで、この漫画ではチヒロさんは出てこずミノリさんとカナメさん(社長)で構成されている
https://note.com/tetsunatsu1/n/n0964b399e680
今回炎上した話と違い、前作では自分の実力に自覚的でないミノリさんにカナメさんが助け船を出して承認欲求を満たす内容になっている
作者は恐らくずっとミノリさんに近い立場の存在だったんだろう。神の視点(このシリーズではカナメさん)から力を認めてもらい、救われたかったのだ
この観点で本作を見ると作者の思うところが伝わってくるはず
作者の分身たるミノリさんは美大出身の、それもエリートコースを歩んだ存在に頭があがらなかった
彼らが不遜な態度を取るも、誰もが認める実力があり、その立場を覆すことができなかったのだが
神の視点たるカナメさんから、絵の実力があってもプロジェクトの内容によっては上には立てないことを自覚させられ
カナメさんから扱いが不遇なチヒロさんと対比してミノリさんが妙に持ち上げられているのもこう見ると納得できる
つまり、作者としては今までの自分のコンプレックスを癒す鎮魂の話を書いたつもりだったのに
変な所にヒットして炎上してしまったというのが今回の騒動の全体図だと思う
少しかわいそう
酷い性犯罪事件のトピックのたびに「こんなゴミカスはゲイに掘られろ」という怒りを表明するコメントに対して増田みたいな発言が必ず出るから、増田のような人は今回も必ず出るだろうと思っていたよ。
自分は認知のゆがみきった人間がある属性に対してヘイトを吐いた時に『お前の言い分が正しいとするなら』こういうことになるな。お前もそうしろよ。『嫌だってんならお前の言い分は大嘘』ってことになるな。つまりテメーの認知は歪みきってんだよ」という意図をもって、あえて増田がさす「誤った他者を矯正する装置としての何某」を使用する事にしている。女性差別的な意味で認知のゆがみきった非モテを自称するヘテロの男に己の論理の誤りを映して刺し返す効果的な装置として、増田の指摘する通りゲイという存在は非常に効果的だから(というより他の属性では実在性のなさ、抵抗可能な腕力等の問題で全く刺さらないから)だ。
なので「己を『人間で、ヒトの男を愛する事ができる』と称し、大抵のヒトの男より力が強く、ヒトの男の肛門を介して直腸に卵を産みつける生態をもった生物」が実在していればゲイでなくそちらを使う。そのほうが効果的だからだ。「なにが産後うつだ、子供を産めるだけ有難く思え」と非モテの女が暴れていれば「なら金稼ぎと家事と育児とセックスと同居と介護全部やれと抜かしてくるDVカス男の奴隷になってこい」と返す。認知のゆがみきった非モテ女にはゲイではなく嫁を奴隷だと思っているDVカス男の方が効果的だからだ。増田がそれを嫁を奴隷だと思っているDVカス男差別だというならそうなのだろう。
なので自分に関しては「件のブコメそのもの」が差別的なものであることは認める。それでも「元増田のようなヘテロのミソジニー男と望んで性行為を望むだろう層」を想定してかなり予防線を張ったつもりではいるが。
増田は「ゲイを女が捨てた残飯のゴミ箱にするな」と書いている。
しかし先に「どんな残飯でも口に食物を突っ込んでいただけるだけお前は恵まれている。飢死するよりマシなので選り好みせずありがたく思え」と言ったのは元増田の方だ。
「ならばお前も残飯を突っ込まれろ」と言い返されるのは当たり前の話だ。先に「男の承認欲求を満たす穴として機能するゴミ箱はそれだけで恵まれている」と他者をゴミ箱扱いしたのは元増田である。「『お前の論理が正しいならば、』お前もゴミ箱になれば幸せになれるのだからそうなれ」と、『元増田の論理を引用した側の者』ばかりが差別者扱いされるのはおかしな話ではないか。誤っているのは、望まないものを押し付けられて嫌がる他者を「恵まれているから有難く思え」と決めつけて被害者ぶる卑劣な者の論理の方なのだ。
論理の誤りを指摘する装置として使用しただけの者の属性に考慮しろと言うならば、男の承認欲求を満たすための装置としてあてがわれるべきだと心を持たないモノのように取り沙汰され、望まない関係を強いられれば相応に傷つき、不用意な性行為をすれば相応に妊娠し、相手が逃げれば相応に独りそれを抱え込み、その結果がどうであれ歩く殺人現場だのカスに股開いたバカ女だのと他者から罵倒される「女」という存在はどこまで考慮に値しない存在なのだ。
おそらくこの増田のブコメには「そうだそうだこれだからクソフェミはLGBT差別を平気でするゴミクズの集まりだ」と大喜びで尻馬に乗るミソジニストが山ほど湧くだろうから「私は差別したつもりなんてありません」なんて素知らぬ顔で綺麗事をぬかすつもりもさらさらない。
自分は「お前は差別者だ」と指を差してくる者がいると承知であのブコメを書いた。「認知のゆがみきった者にそいつの論理を最も効果的に刺し返すための装置」として特定の属性を自覚的に使ったことを、実際に差別者であると指差す者がいるならば自分はそうなのだろうし別にそれで良い。
イギリス人のブルマーの調査から、ずいぶん遠くまで来た。脱線に脱線を重ねてきた結果だ。しかし、昔から気になっていたので、バレエのチュチュ(ふわっとしたスカートみたいなあれ)についても調べておこうと思う。子どもの頃に、やっぱりこれがエッチだと思ったからだけではない。どんなことでも、疑問を持ったならば調べることは大切だからだ。それに、こういう素朴な疑問だけれども面と向かって聞きにくいことについて調査し、書き留めておくことは、誤った憶測に対抗する上での価値があると信じている。
これは、単純にお尻フェチだとかパンチラ萌えだとかだけの話ではない。僕たちの欲望がどのような仕組みになっているのか、そして欲望を喚起するシステムがどのように働いているのかを理解することは、逆説的に欲望の暴走をコントロールすることにつながるはずだ。言い換えるならば、社会が求めている女性像/男性像から自由になる手段であり、政治や広告から発せられる都合のいいメッセージから身を守るすべにもなる。
前置きが長く、堅苦しくなってしまった。どうか肩の力を抜いて読んでいただきたい。
https://tutusthatdance.com/blogs/faq/parts-of-a-tutu
これは、クラシック・バレエのチュチュの基本的な構造である。pantyと書かれている項目に、「ここにフリルが縫い付けられる」と書かれている。要するにお尻の曲線はそこまで丸見えにはならないのである。
しかし、このフリルにもいくつか種類がある。英語版wikipediaのtutuの項目には、現代のチュチュとして、次の4つが挙げられている。
短く硬い、釣り鐘状のスカートを持ったチュチュ。通例、パンケーキ・チュチュより長い。ドガの作品で多く見られる。
これだけを調べるのにも、意外と時間がかかった。当たり前だが、カタログの写真では普通、スカートの中まで写さない(というか、写すべきでもないだろう)。「inside pancake tutu」では、こういう資料は見つけたが。
https://www.pinterest.jp/pin/560487116124411506/
http://4.bp.blogspot.com/_Ozo7z2zkqWs/S-i2wVfcR1I/AAAAAAAACYQ/zDek9ewzWno/s1600/platter.jpg
世の中には私と同じような疑問を持つ御仁もいらっしゃるようである。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11205496201
さて、ウィキペディアのチュチュの項目を見ると、「ツン」というパンツ部分を指す言葉が出ている。引用すると「ツン(Tune)はスカートと一体になったチュチュのパンツ部分。……(中略)……構造的にロマンティック・チュチュには存在せず、ロマンティック・チュチュではバレリーナは下着としてステージ・ショーツを別途着用する(広義では、これもツンと称する場合もある)」となっており、幾分ややこしい。
また、その下着の項には「チュチュを身に付ける際は下着として薄手のキャミソールレオタード状をしたバレエ・ファウンデーションを着用する……(中略)……色はほとんどの場合ベージュ系である」との記載がある。
要するに、レオタードみたいになっている場合は普通に下着を身に着けるし、パンツ部分がチュチュと分かれているものでも、オーバーパンツをはいているわけである。当たり前ではあるが。
ロマンティック・チュチュは1832年、「ラ・シルフィード」で初めて案出されたらしいので、先ほどのツンについての記述と比べれば、現代につながるフリル付きの見せパンの起源はそこにある、と判断できそうである。ただし、英語版wikipediaには「ツン」の項目はなかった。
また、興味深いのは注釈の「ただし、アンダースコートとは異なり、ツンのフリルは横方向よりも縦方向に付けられる場合が多い」という個所だ。確かにさっきの画像でもそうなっていた。フリルの趣味の時代的変遷だろうか?
Wikipedia英語版のballetの記事でバレエの歴史を振り返ると、拾い読みだが、次のような流れになっている。
まず、バレエの起源はルネサンス期の宮廷でのダンスにさかのぼる(ルイ14世も踊ったほどだ)。それが徐々に劇場で公演されるようになった。
17世紀の頃は、女性の衣装は重たい生地と膝丈のスカートで構成されていて、動きやしぐさを出すのが難しかった。しかし、これでは動きやジェスチャーに制限ができてしまう。これが18世紀になると、スカートは地面から数インチの高さになる。色はパステルカラーが主流となり、さまざまな飾りが華やかでフェミニンなスタイルを強調するようになる。現在踊られているバレエでは一番古いものがこの時代で、「ラ・シルフィード」「ジゼル」が知られる。以下は18世紀の絵画だ。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/49/MarieSalle.jpg
19世紀初頭には、身体にぴったりとフィットした衣装が用いられるようになる。具体的にはコルセットが導入され、身体のラインが見えるようになった。また、花冠、コサージュ、宝石などの小道具も導入された。クラシック・バレエでは「眠れる森の美女」「くるみ割り人形」「白鳥の湖」がよく知られる。次の画像では、少しスカートが短くなっているのが確認できる。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/72/Giselle_-Carlotta_Grisi_-1841_-2.jpg
そして20世紀、バレリーナのスカートは膝丈のチュチュとなった。正確なポワント(足の技)を披露するためである。舞台衣装の色も鮮やかに変わった。20世紀の作品としては、「牧神の午後」「春の祭典」が名高い。1910年の写真を貼る。
https://en.wikipedia.org/wiki/Ballet#/media/File:Agrippina_Vaganova_-Esmeralda_1910.jpg
https://en.wikipedia.org/wiki/Ballet#/media/File:Grace_in_winter,_contemporary_ballet.jpg
画像をご覧いただければ、スカート丈がどんどん短くなっていくのがよくわかる。
さて、結論を述べよう。Wikipediaによれば、衣装が重いと細やかな表現ができないのと、脚を使ったテクニックを見せるようになったため、スカートが短くなったようである。
ちなみに、海賊というバレエでは、へそ出しの衣装も存在しているらしい。確かにbunkamuraに食事に行ったとき、バレエの衣装を展示していたが、そこにへそ出しファッションの衣装があったことを思い出した。バレエにしては大胆だと思った覚えがある。
ブックマークのコメントはありがたく読ませていただいており、不快だというお叱りも真摯に受け止めたく思っている。確かにパンツじゃないのにパンチラに見えてしまって欲情する人がいるってのは幾分デリケートな話題であり、増田ではないとやりづらい。また、どの程度ユーモアを交えて描くか匙加減も難しい。それを受けて、少し考えておきたい。
僕は割と美術鑑賞が好きで、ドガの作品も好きなのだが、その背景を知っていると、手放しで褒めることはできない。再びウィキペディアから引用しよう。日本語版からだ。
エドガー・ドガがバレエダンサーを描いていた頃、バレエダンサーは現在と違い地位の低い人が身を立てるためにやっていたため、バレエダンサーは蔑まれていた。主役以外のダンサーは薄給で生活しており、パトロン無しでは生活するのが困難だったとされる。パトロン達は当然男性が多く、女性ダンサーを娼婦の如く扱っていたと言われる。かくして、フランスのバレエ界から男性ダンサーはいなくなり、フランスのバレエは低俗化することになる。
もちろん、どんな事情があったとしても、弱い存在を表現しようとしたドガの作品の価値は損なわれない。しかし、僕は問わねばなるまい。スカートが短くなったのは、果たして本当にダンサーの意志だったのか、と。そして、女性が身体を見せるようになった流れの誕生は、観客も共犯だったのではないか。こうして性的好奇心を持ってしまう僕も、同じではないか。
もちろん、過去のことだからわからないことが多いし、究極的には真相は明らかにならないかもしれない。女性が美しい肢体を見せたいと思ったとしても、それは男性が主流だった時代の文化の中で育ったからそう思っただけなのかもしれず、どこまで本当に主体的に判断したかの判断は難しい。とはいえ、過去の人間が何を考えていたのか、それはどの程度自分だけの決断によって決められたことか、証拠が不十分なままでこちらが断定するのは越権行為だろう。
しかしながら、現代に生きる僕らは、自分が主体的にしていると思っている行動の多くも、無意識のうちに同時代の文化に支配されていることには、自覚的であることが求められるだろう。欲望の仕組みを知るとは、そういうことだ。読者諸氏も、自分のフェチの起源を考えてみると、きっと得るものがあると思う。
身体を使った表現と性の問題は扱いが厄介だ。ただでさえスポーツは厳しい師弟関係でパワハラになる危険があるうえに、新体操などの身体表現のあるスポーツでは、性暴力にまつわる訴訟は絶えない。
スポーツではないが、芸術と性も深い関係にある。どちらも人間の根源に根差しており、安易に善悪を論じることが困難だ。バレエも例外ではない。師弟の間で身体が親密に触れあい過ぎて恋愛関係になってしまう例がある。美しさへの憧れが恋愛感情や欲望と混同されることだってある。現に、男女だけでなく、ディアギレフとニジンスキ―の同性愛関係もよく知られている。こうしたことが、後から振り返ってみれば不適切な関係だった、師弟の力関係を利用していた性暴力だった、と判断されることにもなるかもしれない。とはいえ、これらは個々の具体例によって判断すべきだ。正直なところ手に余るし、多くの人の人生について書くことになる。ここでは語りつくせない。
今までこうした社会的な側面から女性のファッションの歴史に触れてこなかったのは、元々は衣装そのものの歴史を書きたかったのであり、社会の反応まで行くと本題がその中に埋もれてしまうことを恐れてのことだった。しかしながら、ドガが好きな自分としては、いい機会なのでここで一言断っておく必要がある、と感じた次第である。
何を好きになっていいし、対象にはどんな感情を抱いてもいいと思うけれど、歴史や経緯は知っておきたい。それが、芸術やスポーツに励む女性に性的な魅力を感じてしまう僕なりの折り合いのつけ方だ。そして、盗撮などの犯罪には断固反対する。
今回の調査では、見せパンの起源と推測される年代までは確認できた。しかし、細部は依然として明らかではないため、何らかの形で補完したい。
そこから、メイド服、またはロリータ服における、見られても恥ずかしくない下着について調べるかもしれない(知識がほぼないのでとんでもない誤解かもしれない)。または、キャバレーでのラインダンスやバニーガールについて、になるかもしれない。あるいは、再びブルマーに回帰するかもしれない。それは明日の気分次第だ。
とはいえ、しばらくは休みたい。自分の欲望やその起源について考えることは有意義であったし、文章化することで過度のブルマーへの執着やフェティシズムは手放すことができたからだ。一段落した感じがある。この言語化は妖怪に名前を付けて対処法を見つけたようなものだろうか。どろどろ、もやもやした不可解なブルマーに対する欲望が、知的なものとして把握できるようになった。
つまり、増田に欲望を垂れ流すことで、落ち着くことができた。知識が増えて勉強になったという肯定的な意見、ねちっこく不快だという否定的な意見、どちらも自分の姿を客観的に見せてくれた。すべての意見に対して、ここに感謝の言葉を述べたい。
ttps://en.wikipedia.org/wiki/Miss_La_La_at_the_Cirque_Fernando#/media/File:Edgar_Degas,_Miss_La_La_at_the_Cirque_Fernando,_1879.jpg
申し訳ない。愚痴だし、八つ当たりなのでみなさんには関係がない。
とあるイベントのライブ配信(モノを伏せるのは許してほしい。イベントに迷惑をかけたくない)で自分の姿が映った。その間俺はいつもどおり髪をいじり、落ち着きのない挙動をしていたらしい。
それを見たとある知人が Twitter に書いた。『"俺"さん髪いじりつづけるしうろつくし ADHD の人ってみんなあんな感じなのねwと嫁が失礼なことを言ったw』だそうだ
いやぁ失礼だろ。 ADHD に人の謝れ。
俺自身自覚的に髪の毛をいじいじする癖もあるし、じっと座ってるのが下手でそわそわする人間なのでまぁそれがみっともないという話ならわかる。超わかる。
それをあげつらってなんで俺ごと ADHD の人が無様みたいな笑われ方された上にそれが楽しい夫婦の会話の一部にされて、ほっこり(?)エピソードとしてインターネットにばらまかれにゃならんのだ。しかもイベントのキーワード入れて参加者・主催者に見つかりやすい形で?わざわざ?ご丁寧に?
せめて俺の癖をよくないと笑ってくれる分にはいい。君は知人だし俺的には友人なので何を言われても『言ったなこいつーw』である程度 OK だが、
俺をダシにして ADHD なりなんらかの属性の人まるごと笑いの種にしていいとは一切思えない。その上重要なことだが、まず俺は ADHD であると自称したことすらない。俺は診断も受けたことがなければ、彼らほど自分の有り様について悩んだこともない。友人に診断・公表している人がいるので、彼らがいかに適材適所という言葉の似合う人種かは知ってるつもり程度のにわかでしかない。
君が俺を『彼はもしかして ADHD なのかもな』と思ってもらう分にはいい。それはもう、そういうもんだし、そういう印象を与えるようなことを俺がしているのだろう。
ただ、俺は医師に診断も(いまのところ)受けておらず、自発的に ADHD を名乗って彼らの一部として誰かに迷惑をかけたり、俺個人の悪いところが彼ら全体の悪い印象につながるのをよしとはしてない。
と、いうことで腹に据えかね、これをインターネットに撒く神経と今後やっていけるイメージがないと思い至りブロックし、ついでに発言元の奥方(正味俺にとっては彼女?の方が印象が悪い。気に食わない、あるいは奇異なものにレッテルをはって即座に差別を作り出すタイプに俺には感じられてしまったから)もブロックした。
結果としてもともとの Twitter の彼は該当の書き込みを消してくれはしたものの、その書き込みはわざわざご丁寧に俺の映っていたライブのイベントを追おうとする人々らが検索でひっかけやすいような書き方をされており、イベントに携わった、あるいはイベントに興味のあった人らの目に入り、望むところか望まざるかのところとして、俺の悪癖が"ADHD らしい仕草"として勝手に笑い話と共に閲覧者に偏見として植え付けられたのであろう。
狙ってやったなら凄まじいキャンペーンだと思う。俺の悪癖をあげつらい、俺が自己認知しない病名を貼り付け、映像付きで俺("ADHD のヤツ")のダサい姿が閲覧できる(しかもイベント中なのでイベント参加者たちにうまく広まる検索用タグ付き!)。
苛立ちとブロック後の言動が知りたすぎてブロック後に少々閲覧したところ(こういうのが悪癖)、どうやら奥方は『なんでブロックされたかわからんけどブロックされてて不快だからブロックし返した』とのことである。実際ブロックされていた。当面解除しないままで居てほしいものである。
まぁすまん疲れも酔いもあって散文的だが、そういう経緯で腹が立ち、不快な気分になったという話である。
彼が優秀なエンジニアであり、インターネット上の有名人であり、影響力のある人には違いないので、インターネットの片隅で愚痴を言う(だって真っ向から言うと夫婦のかわいいエピソードに "ADHD" のやっかみ入れるなとか言われるんでしょ)が、与太話だと思って関係ない方々には流してほしい。
ニュースを見ていると、そんな疑問が浮かぶのだけれど、いくら空気を読まない私だって、それを口に出す勇気はなかった。これは、そんな私が一冊の新書によって、正義のために物を破壊するのにも、道徳的・理論的根拠があるのかもしれない、と知った経緯だ。
増田に入りびたっていると、世の中にはいろいろな立場があって、さまざまな正義があることがわかる。残念ながら、複数の正義の間でぶつかり合いがあることもまれではない。表現の自由と見たくないものを見ない権利で、レスバトルが毎日のように起きている。あるいは、外国人・移民の権利を尊重したら、女性の安全をないがしろにしてしまったケースもある。2015年のケルン大晦日集団性暴行事件なんかがその例だ。弱者をいたわろう、財産はみんなで公平に分けよう。そうした基本的な原理では同意できるのに、個別のケースでは意見の一致が見られることはめったにない。工学部出身の私としては、実験すればすぐに答えの出る理系の学問と勝手が違い、社会の複雑さに戸惑うばかりであった。
そうするうちに、結局のところ正義の根拠ってかなり曖昧でいい加減なんじゃないか、みたいなことを思うようになった。正義の論理的な根拠がわからなくなったのである。もともと正義についてはサンデル教授の本くらいしか読んだことがなく、哲学は専門外だ。
たとえば、大日本帝国が中国北東部に傀儡政権を作るのが悪だとすれば、アメリカがイラクやアフガニスタンを空爆したり、親米政権を樹立したりするのとどう違うのか。アメリカが中東に派兵するのならあまり気にならないが、ロシアがクリミアを占領・併合したときに動揺してしまったのはなぜなのか。本質的な違いはほとんどないのに。
日韓関係だってそうだ。たとえば、国家の間で解決済みであるはずの補償問題を、個人が請求することは可能なのだろうか。それとも、個人の権利が拡大する世界的な流れのなかでは、必ずしも不合理な話ではないのか。大統領が変われば民意が変わったことを意味するので、前政権の約束を反故にすることは許されるのか。
他にも、裁判員制度で、発達障害のある犯人に厳しい判決が下されたことがあるけれど、市民感覚は医学の最先端の知識と乖離していることも多い。専門家ではなく、偏見もある市民を本当に裁判に参加させていいのか、心配だ。
で、直近の例で特に印象的だったのが、冒頭に述べたように、BLMで無残に引き倒される銅像だった。革命直後に独裁者の像が倒されるのには全く違和感がなく、それどころかほとんど何も感じない。しかし、歴史上の偉人がこうして再評価されるのを見ると、これは正しいのかどうか、よくわからなくなった。現代の価値観からすれば、彼らの過ちは確かに明白だが、こうして公衆の面前で侮辱に近い目に合わせていいのか。法の不遡及の原則、という聞きかじった知識を思い出してしまう。
道徳的には、人種差別は絶対的な悪である。しかし、それに抗議する過程で必ずしも公共のものを壊す必要はないのではないか。撤去を求める署名運動を起こせば十分なのではないだろうか。銅像を破壊する意図は正しいが、間違いなく違法な行動だ。違法であるならば、BLM運動の正当性に傷がつくのではないか。結局、正しさには根拠などやはり存在せず、その場の大衆の熱狂しかないのではないか。そんな次々と浮かぶ懐疑に苦しめられた、反差別運動に対しての恐怖まで感じるようになってしまった。
そんな自分に困惑しつつ、久々にリアル書店に足を運ぶと、「あぶない法哲学」という新書を見つけた。法哲学の本らしい。つまり、どうして法律や道徳が正しいのかを理論的に分析する学問だ。
これだ! と私は膝を打った。私のもやもやはこれで解決するかもしれない。早速購入し、一気に読了した。著者はオタクらしく、ところどころ漫画やアニメのたとえが出てくるのでわかりやすい。しかし、レベルを下げたり読者に媚びたりするようなことはしていない。そして、実在の事例や過激な思考実験を見せることで、常識を疑ってかかることを、私に教えてくれた。
この本で学んだ重要な概念として、法実証主義と自然法論がある。
法実証主義というのは、ざっくりまとめると、法律が正当性を持つのは、定められた手続きに従っているからという理由しかなくて、そこに道徳的な価値判断は介在しない、というものだ。そして、どれほど内容がおかしな法律であっても、正当な手続きで撤廃されない限りは、それは守られるべきものだ、とする。
もう一つの自然法論は、大まかにいえば議会で定めた法律よりも優先すべきルールがある、というものだ。さっきと違って道徳がかかわってくる。もちろん、人間の良心や常識は、時代や地域で一貫したものではありえない。しかし、法律が追い付かないほど変化の激しい現代にあっては、法が整備されていない状態での一つの指針・根拠とすべきではないか、と著者は述べていた。
ここで大事なのは、法律を正当化するのは手続きのみであり、それが人道に則っているかどうかは、実は関係がない、という考え方が存在することだ。
ソクラテスの最期はよく知られている。アテナイの若者を堕落させたという不当な罪を着せられ、死刑となった。弟子たちはソクラテスに逃亡をすすめた。というか、当時は死刑判決を受けたらその都市国家から逃亡するのが当然だった。しかし、ソクラテスはあえてその判決に従った。悪法であろうともそれを守る義務がある。私はここで死ぬ。悪法を制定した市民はその結果を引き受けよ。ソクラテスは命を賭して法を制定した市民たちに、自分たちがどれほど愚かな法律を無自覚に作ってしまったか、を訴えたのである。
一方で、市民的不服従という考えもある。キング牧師はアラバマでの激しい抗議活動のゆえに逮捕された。彼の方法は、多くの人々の抗議の模範となった。つまり、自分が良心ゆえに受け入れることのできない法律は自覚的に破るが、国家を尊重しているという姿勢を示すために、甘んじて法の罰も受ける。これを繰り返すことで、逮捕している国のほうがおかしいのでは? と多くの人が考え、行動するようになる。確かに法律を破ってはいるが、法律に従って罰を受けることで、遵法とは別の手段で正義への敬意を示しているわけである。
道徳とは関係なく、法律を制定することは可能である。そして、不正な法律や、放置された不正義に抗議する手段として、法律を破るという方法が理論化されている。よって、違法な手段で正義を追求することは可能である。この結論は、良くも悪くも定められた手続きを重んじるタイプの私としては、非常に大きな驚きであった。
人種差別に抗議する方法として、銅像を引き倒すのは、確かに器物損壊罪だ。しかし、それが正しいと考える人々は、単純な感情で動いている暴徒とは限らない。正しいかどうかはともかく、彼らの立場をサポートする理論化された法哲学が、実際にあるのだ。
自分は、法学部の一年生が学ぶことを、この年齢になってやっと知ったのだろう。だが、こうして知識が増えたことで、自分の感じていた違和感を少しだけ言語化できた。今後は、何らかの形で国際法とその背景の思想について学び、先ほどの例に挙げた、大国の軍事行動の背後にある理論を理解したい。
本論では法律の有効性に対して一定の疑問を投げかけているが、積極的に法律を破ることを推奨する文章ではまったくない。また、法に関しては無知も同然なため、誤解があるかもしれない。ご指導ご鞭撻のほどを乞う。
最近のブコメを見ると「ネトウヨ」や「自称中立」という人間の方が自分の差別意識に自覚的だと思う
ポジションとしてのマジョリティ、マイノリティにおける差別の正誤だけを見て、
相対主義は問題はあるのだろうが、相対的に構造をメタ化する努力はしたほうがよさそうだ
あれを読んで「わ、分かる~~~!!!!」と思った人間なんだけど、色々な批判意見見ていたら「なんか論点違くない?すり変わってない?」と思った
あの漫画や、それを見た人達によって児童を狙った犯罪が助長される可能性がある以上、我々は慎重にならねばならない
というのがnote主の一番言いたいことだと思う
現実で犯罪をするわけない!混同していない!と言い切るのではなく、そういった可能性はあるのだと認識しなければならないよって事ね
貴方は犯罪しないかもだけど、もし他のぺドフィリアが犯罪をした時に「ほらぺドが犯罪したじゃねーか」って言われて一気に立場が悪くなるじゃん
あのnoteはけしてフィクションを真似する人を馬鹿にしているわけでも、貶めているわけでもないと思う
だからあれを読んで「フィクション好きは全員犯罪をするってことか!暴論だ!」ってキレてる人はちょっと落ち着いて欲しい
日本は表現の自由という曖昧なものが存在しているので、何を言っても何を表しても良いという建前ができてしまっている
私は表現の自由を規制すべきだ!と言わないし、規制されたら困ると思う部分もあるのでそこに関しては追求しないよ
ただ、だからといって何をしてもいいの?
黒人を差別し、それを揶揄するようなことを言っても許されるの?
人を殺したいけど捕まるのでゲームで人を殺していますと言う人に何も思わずにいられるの?
多分これらは、私たちが当事者ではないから笑って誤魔化し、茶化し、のうのうとダブルミーニングを語っていられるんじゃないかな
他国の"展示"に日本の国旗を使用された時に憤怒し苛烈な言葉を投げた口で
「殺人犯が人を殺すゲームをやっていた」と報道されるや否やフィクションと現実を同じにするなと語る口で
「表現の自由だからw」と色々なものを踏みにじってはいないかな
あのnoteを読んで、それでも暴論だ極論だと思う人とは絶対に話が合わないよ 社会的なものに対する考えが違うから
でも、何事も極端に結びつけるのではなく、ここは同意できるけれどここは同意できない、と様々な意見を並列に考えてみたらどうだろう
何事も白か黒かで判断できる訳では無い。だからこそnote主は何度も「ケースバイケースだ」と言っているんじゃないかな
犯罪をする人もいればそうでない人もいるし、フィクションを規制しなければならない時と、しなくてもよい時とがある
それこそ表現の自由も同じで、
正解が無いしどこまで許されるのかの線引きもない。
ただ、「これを公表したらまずいよな」という人間の善悪に基づいているだけ
だからこそ、茶化して誤魔化すのではなくダメな時はダメだと言わなければならないよ
今回の「ぺドのショタドール購入漫画」を公表すべきだったのか、そうではなかったのか
批判的な意見に対しとにかく噛み付くのではなくて、ここはダメだった、ここは良かったんじゃないか、と考えなくちゃならない
正解を探るためには、そうやって社会に生きる当事者の「私たち」がボーダーラインを少しづつ引いていくしかないんだ
そして、そのボーダーラインを引く事をサボり、適当に誤魔化していればいつか強制的に法によって規制されてしまう
「あれは良いけどこれはダメ」ではなく、力づくで「全てダメ」と言われてしまう
それは、フィクションを好む人々からすればあってはならない事でしょ
現実を脅かしかねないフィクションを誤魔化さずにセーフとアウトを考えていこうよ
ってことだと思うんだけどなぁ
色々読んでて、ある一点だけを見て「ムキーッ!」ってなる人が多いんじゃ…と思った
「倫理観の無いものを好むのであれば、社会的な倫理観を持っていなければならない」という話でしょ
別にぺドが悪いとかそのうち犯罪をすると断言してもいないじゃん
ただ「犯罪の可能性があるからそこは自覚的でいようね」ってことでしょ
note主も私も、元のドール購入漫画に対し批判的ではあるので偏っているとは思うんだけど
(購入への批判ではなく、「手を出す前に」の一言が余計だったし公に出すものではなかったよなという批判
あの一文があると、「この人は現実とフィクションの区別が着いていないのでは…」と思われてしまうじゃん 現にそうだし)
「ぺドは同性愛と一緒だから何も悪くないだろ!」とか「何でもかんでも規制しようとはするんじゃない」とか「ぺドが犯罪をした証拠を見せろ」とかちょっと話の内容から飛んだ意見が目立つので、いやいやそれは違うじゃん と思った
最近、インターネット上のアレコレを見ていても思うことのほとんどが、人間はカスみてぇな精神しか持ちえないということに帰結してしまう。
人間のほとんどが、自らの欲望をしっかり見据えられていないし、自他区別がしっかりできていない。自由などの抽象概念の理解も出来ていない。
俺個人は、もともと近代市民社会をくそくらえと思っているが、それはひとえに人間が精神だけで存在しているわけではないし、そもそもそれは無意識という素晴らしい領域の発見を考慮していないと考えているからだ。
そうした俺個人の思想とは関係なしに見た時、所謂リベラルな先達は、そうした近代市民社会を理想として戦ってきたわけであるし、それはある程度まで効果を発揮してきたということは認めるべきことだ。
が、しかしだ。
インターネットの普及と啓蒙活動が組み合わさって出来たものが、今の醜い自称リベラルのカスどもなわけである。
彼らは、やれ人権を守れだのと言いながら、自らが嫌いだと思う思想の自由を認めない。これを差別主義者といわずして何と呼べばよいのか。
彼らは自分が嫌いだと思うものを嫌いだと言わずに、くそくだらねぇ整合性のかけらもない屁理屈をつけて排斥しようとするのだ。カスだな。
それもそのはず、彼らは社会の残酷さを減らそうとしているから、残酷さそのものである自らの嫌悪感情をそのままに表明できないのだ。性格がひねくれてる。
まぁ、近所の居酒屋で管を巻いてるなら別にいいよ。キモイ奴だなって周りの人間が離れて終わりだからな。
でもインターネット、特にSNSの発展のおかげさまで、キモイ奴がキモイ奴とめぐりあってしまったわけだ。そうなると自らの思想未満のゴミの矛盾さを人数で覆い隠すわけである。
彼らは、自分の好悪感情を善悪にすり替えているし、そのことに自覚的でない。さらには、彼らは自身の欲望もまた自覚できていない。
リベラルな先達が何よりも相手取ってきたのは抑圧だったはずなのに、彼らは抑圧を生み出さないためにと欺瞞して抑圧を欲望しているのだ。
だから、彼らは革命家になれない。彼らは根本的なところで自分と異なるものを認めない態度を保持しつづけている。表面だけをリベラル風に取り繕った差別主義者なのだ。
とはいえ、我々は皆総じてカスだ。人間精神なんてそんな上等なもんでも高機能でも、ましてや神の代わりともなることが出来ない。
自粛生活が始まってから、個人的には仕事にもそんなに影響の少ない業種で、ほぼテレワークに移行。
いい歳してアレだけど一人暮らしだからテレワークに付きものの家族がいて集中できないとか、ワークスペースと今日中スペースの区別がつかなくてだらだら働いちゃうとかそういうのなくて、出勤がなく、働いてる最中に周りに「しっかりやってる風」を見せることに神経使わなくていいから、日常のストレスは激減。
それでストレス解消のために使ってた外食費やスーパー銭湯代が浮いてた。
台湾アジアデザイン好きって勝手な個人の印象で「サブカルのとっつき辛い人」って印象だったんだけど、最近のアジア、特に台湾って、IT化の加速でデザインがドンドン洗練されてきて、モダンなものはとことんモダンだし、それで元々の台湾的な「南国のユル感」と「レトロ感」をやってる人たちも自覚的にデザインのエッセンスとして採用してて上手い、っていうかイイ。
それに「漢字だから読めそうなのに読めない異国感」がイイんだよね〜。
日々を過ごすだけなら問題ないんだけど、実際この生活だと、人言関係が広がっていかない焦りもあるし、旅行好きなのにそれこそ台湾もいけないんだけどさ、せめてこういうのがあれば、この炎天下も南国っぽく感じるよね。
今日は啤酒Tシャツ着て、近所のホムセンに雑草を刈るための庭バサミを買いに行ってこよ〜。
追記)
ホムセンで庭バサミ弄ってたら、届きたての啤酒Tシャツにシミがついてしまった〜。
やっちまったーって思ったけど、白Tのシミの落とし方をすぐ検索したら、洗濯用石鹸でもみ洗いってあったので、庭バサミのついでにウタマロ石鹸も買って帰って、テイクアウトしたベローチェのサンドにかぶりついた後、もみ洗いしたらすぐ落ちた。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20200210094026
有性生殖によって意図的に個体差を作り出しているにも関わらず、個体差を無視し同一存在(クローン)として扱うことは明確に誤りである。
当然ながら個体差を理由として他者の生命財産を脅かすことも法治国家においては明確に誤りである。
当初は増太/増子としていましたが、このデフォルトネームは政治的に正しくないとツッコミが入ったので増田A、増田Bとしました
開始早々の祟り神戦は、アニメ映画の中でも屈指の爽快なアクションシーン。
激しい動きのようでいて人間の目の動きをよく押さえていて、ただ画面を揺らして画面酔いさせるようなものとはレベルが違う。
音楽も画面と完全にシンクロして印象的な金属音ともあいまって脳汁ドバドバである。
その後、アシタカが西国へ赴く場面は多くの人が言うように素直に号泣するしかない。
一見のどかな田舎の風景でも病や飢え、戦が絶えない非常に厳しい世界であること、シシ神の森の不思議さやタタラ場の異様さなどが自然と配置され、複雑な背景を解説無しですっと飲み込ませる演出はまた最高。
思うに、エボシは、高級遊女か何かで上流階級とツテがあり、そこから師匠連とつながって石火矢の技術や、もしかしたらタタラの技術も手に入れたのだろう。
ただし、おそらくきちんとした後ろ盾はなく、師匠連やその上の人たちから見て使い捨ての手駒でしかなく、地侍などと組んでも主導権を奪われかねない危うい立場であったと思う。
そこで、手っ取り早く勢力を築いて生き延びるための手段として、自分を裏切らない捨てられた女達と病人を利用し、そのことに本人も自覚的だったと思う。
だから、「曇りなき眼」発言で大笑いしたのには、意表を突かれたこともあり、また多少は青二才に対する嘲笑もあったと思うが、自嘲の成分もある気がして目頭が熱くなる。
結局、神々たる自然に向かっていくのは、人間の地から追われた弱い者たちであって、「最初に人が自然を侵したのだ」としたり顔でいう人間に限って、人間の地の真ん中でのうのうと生きているという欺瞞に気が付いたから、エコを前景から引っ込めたのではないかと疑っている。
ジコ坊というのも面白い人物で、徹底的に現実的な前線指揮官であるにもかかわらず、結構な遊びがある。アシタカのようにやけに戦闘力の高い不審な若者を、自分の関係先に送り込んだりする。
作中に天朝様の御文が出てくるが、基本的に師匠連の目的は神殺しとそれによる更なる権威の増大である。
ジコ坊のセリフで「神殺しは怖いぞ」というのがあるが、彼は以前にも神殺しに関わっているともとれる。
怖いのは神による祟りだけなのか。神殺しの英雄は、権威を求めるものにとって邪魔なのではないか。ジコ坊は神殺しに関わったために、いい年して最前線に送られているのでは。ことが済んだとき、エボシの立場は非常に危うい。
たぶん、ジコ坊が「神殺しは我々でやろう」と部下に言ったら、その時点でエボシは殺されてしまったかもしれない。