はてなキーワード: 自覚的とは
村田パンマンについてはずっと前から気に食わなかったけど、今回最新話でのタツマキとブラストの邂逅のシーンで完全にキレたわ
まずこのブラストの登場シーンが背景ホワイトになってるのが気に食わねえ。ここは、村田が意図的に原作との方向性を変えた部分だと思う。
原作においてブラストは趣味でヒーローとしての役割を貫徹する一種の異常者として描かれており、一種のダークヒーローとしての役割を持っている。一方で村田パンマンにおいて、ブラストはヒーローの化身として全てを救済する完全な理想図、言わばヒーローの青写真として描かれているのだけれど、はっきり言えばこれは村田の解釈の逸脱である上に、「とりあえず原作とは方針逆にして攻めてみました」くらいの浅い作品理解が見え見えになってて辛い
まず原作ワンパンマン106話におけるブラストのセリフ「いざという時に誰かが助けに来てくれると思ってはならない」を、村田は、「強者の心得として」という(余計な)一言を付けてダウングレードした解釈を行っている。
ちがう。全然違う。
第一に、原作ワンパンマンにおいてブラストは純粋に異常者なのである。主人公サイタマがそうであるように、ブラストは一介の人間が趣味でヒーロー活動をしているに過ぎず、その精神の根本には「趣味で楽しいからやってる」という以上の信念が存在していないことは、原作最新話に至るまでのサイタマの発言を見れば一目瞭然である。そして、ポイントはサイタマにせよブラストにせよ、自身が一種の異常者であることを自覚しているところだ。そう、普通の人間はヒーローに憧れて自分を血反吐ぶちまけるまでに鍛え上げて怪人とタイマンで戦ったりしないのである。誰かを助けるためにスタコラ駆けつけたりしないのである。じゃあ何でそんなことをするのか、ヒーローとしての義務感があるのか? 誰かを助けなければならないという強迫的な使命感に促されているのか? 違う。「趣味」なのである。
そんなあやふやな精神条件において何年もの間ヒーロー活動を行い続けることができているブラストとサイタマは根本的に異常者なのであり、また、サイタマ自身が述べているように、そのような常軌を逸した行動の反動として、そもそもサイタマは自分自身の空虚さを日々感じているのだ。強くなりすぎてしまった、と。
その辺の解釈が全く村田パンマンに通っていないことに俺は以前からかなりの怒りを抱いていた。勿論、村田のイラストレーターとしての技術や画力が業界随一のものであることは確かなのだけれど、彼はそもそもジャンプ編集部から何故自身が原作と作画双方を担当する漫画を任せてもらえなかったのかを根本的に理解していない気がする。そう、作品理解や構成が根本的に浅いのだ!
多分村田雄介という漫画家は努力と才能の二本の柱によって自己をブラッシュアップしてきた人間だから、ある種の才能の無い人間の葛藤とかそういうものに無理解なんだろうなと思う。ある種の人間の心の動きとか細かい心の機微といったものに無知なんだろうなと思わざるを得ない。才能がある人間に特有の浅薄さが彼のアイディアからは漂ってしまう。彼にはそういう意味で編集から仕事を受け渡しづらかったんではないかと思う。ハァーーーーーーーーーー。
とりあえず一番最初に違和感を抱いたのは「海人族編」である。同編のクライマックス、自分の腕の中に倒れ込んだ無免ライダーに対して、サイタマがポツリと言うシーン。
村田版と原作ONE版においてそのシーンの描き方の差は顕著である。
村田版:サイタマは笑顔で無免ライダーを受け止める。まるで部活のコーチが選手を褒めるかのように。
ONE版:サイタマは無表情に無免ライダーを受け止める。感情の動きは伺えない。
この時点で二人の作品の理解の深度が全く異なっていることは明らかである(ONEは原作者なのだから当然なんだけど)、そう、先に述べた通りサイタマは日常に空虚を抱えているのでそもそも根本的には無免ライダーの奮闘に感動していないのである。それは、同編ラストシーンにおける「つまんねえな、今回は期待したんだけど」というセリフからも明らかである。
村田に対して言いたいのは、何でそんな感情豊かやねん、という話である。勿論、これと同趣旨のツッコミは散々浴びせられてるだろうから村田にとってはこういう意見は今更なんだろうけれど。でも、それにしても作品の解釈が雑すぎんかね? という話なんです。
他にも、同場面において、背後から一撃を加えたにも関わらず何らダメージを受けたようには見えないサイタマに対して、海人王が沈黙の後に名乗りを上げるシーン。ここも明らかに原作の意図を掴み切れていない浅薄な描写となっている。本編において海人王はサイタマの生物としてのポテンシャルの高さを如実に感じ取っており、やや苦戦したジェノスと比較してさえなお「今までのゴミとは明らかに違う」と述べている。このことからして、海人王はこの時点で自身の敗北を些か覚悟していた可能性が高い。その上で、これまでどのヒーローと相対した時にも発さなかった「名乗り」を上げるのである。
つまりこの名乗りは、自身の敗北の予感を覚えつつも、目の前の強者(推定)に対して敬意を表した「名乗り」だと言えるのだ。自分と同等かそれ以上の生命体を目の前にして、戦闘を開始する前に礼儀を尽くそうとしたのである。敵役ながら天晴な心理描写に俺は感動してしまっていた。でも、当然ながら村田パンマンにおいてはそのような感情の機微が捉えられている様子はない。ガッカリ。
そういった村田パンマンと原作との齟齬は全体的にはそれほど多くないものの、時折というペースで伺えてしまうのである。
例えば地獄のフブキとサイタマが最初に邂逅するシーン。フブキは戦闘においてナイフを取り出しサイタマに切り掛かる。その目尻には涙が浮かんでいる。
この涙は、フブキのナイーヴさの表現であることは明らかなのだけれど、その解釈がONEと村田では幾分異なっているように見える。
村田版:子供が自分の願いを聞き届けられなかったかのような悔しさを滲ませた涙
ONE版:目の前の相手に対する恐怖、そしてナイフという直接相手を傷つける武器によって相手を殺傷することへのストレスを含んだ涙
やはりこの描写からも二人の作品に対する深度の違いが現れているようでならない。村田は普段の仕事はきちんとしてるんだけれど、こういう見せ場みたいなシーンでしょうもない解釈をドヤ顔でブツけてくるからホント辛い。上記の通り、フブキはナイーヴであるため根本的に他者を傷つけることにストレスを感じていることが前後の流れから読み取れる。更には、相手を武器で傷つけてまで自分の地位を守ろうとすることへの葛藤さえもその表情から伺える。一方で村田……ヘイ村田
上記の通りフブキの涙についての解釈が、その表情に関する解釈が、村田パンマンには希薄であるように思われるのだ。
というわけで作品の解釈がところどころ浅いっつーか、キャラクターの人格の根本の部分について村田は読み違えているように思えてならないのだ。いやまあ大体は大丈夫なんだけど、原作ファンとしては「ここが見せ場!」ってなってる場面でやらかすのが村田って感じなんだよな。例えば無免ライダーをナイーヴなファンボーイ的なキャラクターとして描写してるきらいが村田にはあるけれど、無免ライダーはヒーローに対して明るい観念ばかりを持ってるファンボーイじゃなくて、ヒーローとしての自分への失望とか周囲の人間が自分に向ける視線への恐怖(タンクトップタイガーの発言「C級1位の座寄越せ!」などに代表される)と日頃戦っているキャラクターの筈なのだ。つまり、根本的に暗くて弱い人間の筈なのだ。それでも、信念に従って倒されても立ち上がって戦い続けているから彼は魅力的なのだ。
なのに村田ときたら無免ライダーのことを「スパイダーマンに憧れたのでとりあえずスパイダーマンのコスプレしてみた」的なファンボーイとして描いている。ハァー、バカチンが。
まあ勿論繰り返すように全体は丁寧で、仮に褒めるとすればボロス編とかは全面的に良かったと思うんだけど。でもところどころやらかしてんだよなあ村田は。
長くなったけど今回の最新話での蛇足描写もそうで、「強者の心得として」っていうセリフはいらなかったの。
これは俺の作品解釈なのでONEの想像と合ってるかどうか分からないけれど……、恐らく「いざという時に誰かが助けてくれると思ってはならない」というセリフは、根本的にブラストの優しさと厳しさの混じったセリフっていうところは当然村田が解釈しているのと同じなんだけど、根本的にそこには齟齬があるようでならない。
つまりあのセリフは「人を助けるってことは普通の人間にはできない」という意味が籠もってると思うんだよな。
だから、普通の人間にはできないことを期待しちゃいけない、って意味なんだと思う。そしてここで述べた解釈もまた表面的な解釈に過ぎず、裏を返してみればブラストが言いたかったのは次のことだろう。
「人を助ける人間は異常者だ」
ってこと。
繰り返すように、ブラストは趣味でヒーロー活動をしている自分の異常性について幾分自覚的である。「普段は働いていて、これは趣味なんだけどね」と原作において付け足している部分からも明らかであるように、「自分はこんな異常者じみた活動をしてるけど、普段は普通の社会人なんだ」という、既に解消され消化されたであろう葛藤の、単なる痕跡としての「後ろめたさ」を匂わせているのである。そう、ヒーロー活動なんて本来は異常者の行うことなのである。サイタマしかりガロウしかり、本当にヒーロー活動に真面目に取り組んでいる連中なんて皆まとめて異常者なのだ。
そしてブラストは自己意識においてもソフィスティケートされているので自身の異常性を認識している。彼はこう言う。「(自分はちょっとおかしいから趣味の一環で君を助けたりはするけれど、そうじゃない普通の人が君を助けることなんてまずないのだから、)いざという時に誰かが助けてくれると思ってはいけない」と。そしてここには更に裏の意図が込められていて、つまり「誰かを助けるなんてことを考えるのは、誰かに助けてもらいたいという弱者の望みを叶えようとするのは、根本的には異常者の仕事だ。君が、そういう弱者の望みを叶えたり、あるいは、『誰も助けになんて来てくれないのが普通の世の中』に対して忸怩たる感情を抱いているなら、君自身が異常者になって、つまりはただ助けを待ち望むだけで誰かを助けることのない普通の人間から抜け出して、誰かを助ける側に回るしかないんだよ」と。
ブラストはそういうヒーローなのだ。異常者としての、しかしサイタマやガロウと同じく善なる傾向を持つと同時に、冷徹な感情をも持ち合わせるダークヒーローであるのだ。その辺のしっかりとした解釈を、村田は自分の仕事に持ち込んでもらいたい。以上一読者からの意見でした。
これをあなたが見つけて読んでいる頃、私は遠い、遠いところに行っているでしょう。そうすると決めた後でも、あなたの寝顔を見ていると決心が揺らぎます。それでも私は行かなくてはならないのです。わかってくださいとは言いません。裏切り者と言われても仕方がないと思っています。いままでの月日がすべて嘘だったと考えないでください。ただ忘れてください。私のことなど、どうかはじめからいなかったものと思ってください。結局のところ、私は神の定めに従って生きることを選ぶ運命だったのだと今では思っています。思いなしが解けた後、とりかえしのつかないことをしてきたという恐れと、これからの生きる道を自覚的に選ばなくてはという両方の思いに引き裂かれるようです。このようなことをする私に何が待っているのか、私にもわかりません。地獄に落ちるものと思っていただいても結構です。それに値することを私はしたのですから。ただ、唯一神フェニミに従って生きるしか私にはすべがなかったと、今では思うのです。おいしい食事をありがとうございました。どうか元気で。
今春、東海道新幹線のニューステロップが廃止されるという報を聞いたときには、少なからぬショックを受けた。というのも、もう10年以上前の話だが、あの文字ニュースを書く仕事を担当していたことがあるからだ。
新幹線のニューステロップというのは、車両前方、ドアのすぐ上に据え付けられた電光掲示板に流れていく、50文字程度のあれである。当時はまだ、社会人となって日が浅かったことと、もともと鉄道が好きだったこととがあり、地味な仕事ではあるのだが、担当できていることがとても嬉しかったのをよく覚えている。業務の内実についてはあまり書けないが、それなりに長くなった社会人生活の中で、今でも思い出深い仕事の1つであることは事実だ。そうか、あの仕事はもう無くなるのかと思うと、ほんのりと寂しさがあった。
無くなる前に、最後にもう一度だけ、この目に焼き付けておきたいと思った。発表があったのが2月21日で、廃止は3月13日。1か月もない。そしてこの頃は、ちょうど新型コロナウイルスが徐々に国内でも広がり始めていた時期で、旅行に行こうという気分になれるものでもなかった。やめておこうかどうしようかと随分迷ったが、会社に午後だけ有給を取り、平日日中帯の比較的人が少ない時間帯で、東京から名古屋まで日帰りで往復することにした。他県にお邪魔することすら憚られたので、滞在は1時間程度の弾丸日程だ。もう少し遅い時期であれば緊急事態宣言のさなかであり、さすがの私も旅を躊躇したかもしれない。そう思うと、ギリギリの時期であった。
決行したのは廃止の直前にあたる平日だった。午前だけ出勤して、午後に新幹線に飛び乗るつもりでいたが、なかなか仕事の切りがつかず、本当に「飛び乗る」勢いで乗り込んだ。ニューステロップはまだそこに、きちんと流れていた。名古屋までは1時間半程度。往復するので3時間はある。食事がまだだったので、息を整えてから崎陽軒の弁当を開けた。弁当を食べるのにせいぜい15分。その後まだ悠々と時間はある。ニューステロップをただ眺めるだけの目的にしては、ずいぶんと贅沢な時間で、贅沢なお金の使い方をしたものだなと、このときになって初めて思いながら、筍を頬張った。
車内はそれほど人が多くはなかった。平日日中ならば、という見込みは当たったようだった。もうあと数日で廃止になる、というタイミングだったので、1人ぐらい同好の士が乗り合わせていないものかと、あたりを少し伺ったが、ニューステロップを凝視するような人はさすがに見当たらなかったし、この時間に乗るビジネスマンは、そんなものに興味もあまりなさそうではあった。そもそも、あのニュースが無くなることを寂しがる人というのは、どれだけいたのだろうか。インターネットを眺めていれば、そういう声は自ずと可視化されるものではあるが、多くの人にとっては大きな関心を呼ぶものでもないのだろう。緩やかに、少しずつ、静かに人々の記憶から消えていくだけなのだろう。そのことが特段むなしいというわけでもなかった。すでに私の手を離れた仕事に対して、むなしさを覚えてしまうこと自体がおこがましいとも思うし、メディアの仕事というのはインフラと同義であり、まるで空気のような存在であるということも自覚していた。いや、その「空気」が不要だ、ゴミだと強く批判されていた時期もあったか。最近はそういった批判も一時期よりは落ち着いたように感じているが、実際のところメディアが多くの「街の風景」を作ってもいるということに、自覚的な人はあまりいないのかもしれない。
名古屋に近づくと、中日新聞のニュースが流れるようになる。大相撲の本場所があれば、取り組み結果が流れることもあるし、プロ野球もまた同様だ。代わり映えのないように見えて、実は時や土地の影響をある程度受けるものであるのだが、そういったことにもあまり気付かれてはいないのかもしれない。このときはそういった定期的な変化のほかに、赤く毒々しい文字が定期的に踊っていた。新型コロナウイルス感染症に対する注意喚起である。新聞社が配信するニュースではなく、JRが独自に流しているメッセージだ。これはこれで特別感があってよかったのだが、ニューステロップが流れる数が減ってしまうではないかと、ウイルスに対して少しだけ、妙な怒りを向けた。
時間は当然のように余った。幾度かカメラを向けて,静止画と動画で撮らせてはもらったが、さすがにずっと撮り続けているのも不審者じみている。3時間の旅のうち、ほとんどの時間はただテロップを眺めたり、車窓を眺めたりして過ごしていた。ニューステロップの流れる新幹線旅はこれが最後であると思うと、それをただ普段通りに満喫したいという思いが、乗っているうちに徐々に強くなっていた。名古屋で降り、予定通り1時間ほど滞在し、折り返す。名古屋駅周辺を少しだけ歩いたが、まだ感染症に対するアンテナはそれほど高くないようで、思っていた以上に多くの人が街を行き交っていて、少々面食らった。あまり人混みの中にいるのもよろしくなかろうと引き返し、駅直結の百貨店地下で、妻へホワイトデーのプレゼントとして地元の洋菓子を買い、あとは駅の待合室で過ごし、予定通りの上り新幹線で引き返した。
帰りの車内にも、当然ながらテロップは流れていた。テロップのない新幹線というのはどういうものだろうか。もちろん、普段からずっと見ていたわけでもないのだが、ふとしたときに目を上げると、そこにニュースが流れていることが、新幹線における「自然」であった。それがなくなったとき、上げた目には何が映ることになるのだろうか。ニューステロップ廃止後のことについては、そういえば把握をしておらず、想像ができなかった。そしてこのとき以来、感染症予防のこともあって、新幹線には乗っていない。テロップが流れていない新幹線というものを、私はまだ知らない。私の頭の中では、まだあのテロップが流れ続けている。また大手を振って新幹線に乗ろうと思える日が来ることが待ち遠しくもあるし、どことなく、まだ来てほしくないような気もしている。
経営者なんて大体自民党支持だろうし、てことは今苦境に立たされてる飲食や観光のやつらは自民支持者なわけで。観光なんて二階担ぎ上げてるんだから当然自民支持者の集まりなわけで。
で、自民党は自己責任を標榜する政党なわけで。ガースーも自助って言ってたしね。維新も同様だけど。
だから、飲食のオーナーや観光のやつらが今コロナで苦しんでいるのは自己責任wwwwwwざんまああああああああああああああああああwwwwwwお前らが自民党に入れた結果だよ?
選挙棄権してるやつも同罪だから。組織票で勝る自民をアシストしてるにすぎないから。野党に議席を少しでも奪わせていればよかったのにね?
自己責任論者はこの機会に叩く。トラウマ植え付けるぐらい叩く。徹底的に叩く。考えが変わるまで叩く。その過程で当事者が「消え」たとして、それは日本から自己責任論者が一人消えたことになるんで歓迎しまっすwww
なんでもかんでも自己責任って生きづらくね?今お前らが味わってると思うけどwww
つーか政府は自己責任論者を助けるなよ?氷河期世代を見殺しにしたみたいにさ。時代が悪いんじゃない、おまえが悪いんだって言ってたよね?こんなコロナなんかで立ちいかなくなるような経営してるおまえが悪いんだよ経営者。時代のせいにすんな。他の人のせいにすんな。甘えんな。
いいか、同情が欲しいんならせめて今までどこに投票してて今どう思っててこれからどこに投票するのか言え。野党支持者バカにしてたくせにこんな時だけすり寄ってくるな。左派はお前らのママじゃない。おれは自己責任論者じゃないけど、お前らがそういうフィロソフィを持ってるのなら理想に殉じろよw
左派は心を鬼にして叩け。安全圏から無自覚に困っている人を見下し、叩いていた奴らを許すな。おれは今自覚的にそういうふるまいをしているから。おれは自己責任論者じゃないから。なんならお前ら飲食や観光のために生活保護の拡充叫んでやるよwww
毎度言うけど感じ悪いから野党に入れないわってやつ。別にいいからw最初からあきらめてるからw
森加計桜で安倍が池沼作戦のごはん論法でのらりくらりとやってたときに、お前ら野党叩いてたよね。「いつまでやってんだ!」「もうあきた」「野党は国会を空転させている!」「国会さぼり3週間目www」とかさ。おまけにやられたらやり返せとばかりに「野党不信任案だ!」みたいなツイートに一万超えるくらいいいねつくし。そんなアホどもを相手にするのは疲れたし、アホが野党に入れるとも思ってないから。実際感じ悪いからって言う感情だけで投票先決めてるわけじゃん。どうでもいいよ、もうw
森加計桜で安倍が至らんことしてたから国会が空転してたんであって、野党のせいじゃないから。シュレッダーかけました~書類どっか行きました~改ざんしました~みたいな、明らかに不正してんだろっていうような政権に今現在進行形で危機対応任せてんだからグダグダになるの当たり前じゃん。一万歩譲って、「使えない」よね。そんな奴ら。
そもそもこの感染者数も本当に正しいの?日本の統計とかって信用できるの?PCR検査もあんましてないけど。改ざんしました~とかやってんじゃないの?
まあ、いいんだけどねw
つーわけで、お前ら自民党信者が野党のことを不当にたたいてたことは忘れてないし、自己責任論者が日本から死滅した結果野党に票が流れる可能性をちょっとは信じたいけれど、票が流れなくても別に構わないし、感じ悪いと思ったんならそれでいいからwただ、今苦境に立たされてる飲食や観光のやつらは思いっきりぶっ叩くからwwww自己責任だからwwwwww
差別が何であるかや許される状況や許容度は人によってまちまちなのに差別を好んで差別している「主義者」だと糾弾すると問題がややこしくなる。
反差別主義者(多分反差別に誇りを持っているから主義者と言っていいだろう)は穏便に解決するより社会問題化することを好むから
単なる誤解レベルの話を盛ってしまうことはある。皆がそうかはわからないけど自覚的に盛っている人は嘘つきと呼ばれても仕方ないだろう。
誰が本当の差別主義者で誰が差別主義者ではないのかは分からない。差別主義という主義が不明だからだ。
例え主義が明確になったとしても社会的な評判悪いだろうし、内心の自由というものがあるのだから、自己申告に任せるのが穏便だと思う。
「差別」という言葉が一体何を指しているのか、共通認識として厳密に定義しないまま対話や議論を重ねるとほぼ破綻する。差別に限った話でもないけど。いわゆる過激な差別・反差別主義者相手だと一対一でもおそらく難しいし、不特定多数相手のネット・SNSだとますます不可能だろう。それでも自分の中での「差別」に対する認識の再確認の意味も込めてきちんと考えておきたい。
まず「差別」は
・差別行動
に分けられる。
差別感情は内心の自由によって守られる。思ったり感じるだけなら自由だ。
差別行動はそれが法に抵触するならば法的に許されないし、道義的に間違っている(と他者・大衆が判断した)なら炎上する。
差別感情が理由で差別行動をするとは限らないし、結果としての差別行動に差別感情が伴うとも限らない。つまり両者の因果関係を完璧に判定することは不可能であり、法もそれに基づいて判断している(と思う)。
例:ある人が家族を人質に取られて「〇〇人はしね!と叫びながら〇〇人をころしてこい」と言われて実行したらその人の行動と〇〇人への差別感情は関係ない
が、この「差別感情と差別行動の因果関係は見えない」ということを理解できない人たちが一定数いて、理解できる人との間に軋轢が生まれる。さらに差別感情そのものを持ってはいけないという人までいる。特に自分の中の差別感情を認められず劣等感を持っている人は防衛機制として差別行動をしている(ように見える)他者に自分の差別感情を投影し批判している場合が多い。防衛機制ゆえに自覚的では無いので対話を重ねても理解を得るのは難しいだろう。
次に「差別行動」は
・積極的差別行動
に分けられる。
差別対象を避けたり、関わらないようにするのが消極的差別行動。
差別対象を物理的・心理的に攻撃したり排除するのが積極的差別行動。
後者はこれぞ差別という感じだが、問題は前者である。これは法に抵触しない。差別対象には何もしていないからだ(未必の故意は除く)。道義的にも、議論は分かれるだろうが問題ない場合も多いだろう。だが少数の差別対象に複数の個人がこれを行った場合、差別対象やそれを見た第三者が「差別が起きている」と感じる場合がある。別にいじめられてるわけではないけどハイ二人組み作ってーで毎回余る、みたいなものだ。
いわゆる「日本の差別」はこの「複数の個人による消極的差別行動」に当たる場合が多いのではなかろうか。対象を認識したときに差別感情は起きるかもしれないが、積極的差別行動にまでは出ず、見て見ぬ振りをしたり離れたりする。そしてその対象とは単に「見知らぬ人」「見慣れぬ人」などである。それが結果的に被差別者からすれば「自分は〇〇だから差別されている」という認識になるのではないだろうか。これは対話によって解消できる余地がある。実際地域に馴染んでいる「元・見慣れぬ人」たちも大勢いるはずだ。だが対話する前に「差別が起きた!差別だ!この人たちは差別してます!」と声を上げてしまう人もいる。その中には積極的差別の結果として排除されている人もいるだろう。だが結果として似た行動でも意図や理由が異なっている可能性があるものを十把一絡げに批判されたらそんな気がなかった側が「一緒にしないで欲しい」と思ってしまうのも道理ではなかろうか。
誰にだって差別感情はある。ネガティブだろうがポジティブだろうが感情の発生は止められないからだ。自分の中のそれをできるだけ分析して制御したうえで行動に移していきたいと思う。感情と論理の共存だ。
Spotifyで2020年に海外で最も再生された日本の楽曲10曲のうち、8曲がアニメのOP
アニメが上位に来るのは外人も「アニメは見てる」ってことを意味してる。
同時に、「ドラマは見てない」ってことだよね。
日本人は洋ドラ見てるけど、外人は日本のドラマは海外ドラマとして全く興味ないってわけ。
そりゃそうだよね。
俳優ネタばっかだし、最近受けてるのは「バブル時代は~」「日本はすごかった~」「最近の若者~」ばっかで日本に住んでなきゃ微塵も面白くない。
そもそも単純な話として日本の実写ってアキラ・クロサワ以外は海外じゃ全く評価されてないから。
オサム・テヅカ、カツヒロ・オオトモ、ハヤオ・ミヤザキとアニメ映画に関しては海外でめっちゃ評価されてる。
でもそりゃそうだよね。
「バブル経済期の日本にいたパワハラ野郎に土下座の強要を倍返ししたらあ」とかそんなん言われて盛り上がるの日本のオッサンだけじゃん。
サウスパークやシンプソンズの日本人が「は?ちょっと今のついてけんかったわ」ってなるシーンだけでドラマの全パート構成した究極の身内ネタよね。
つまる所、日本製の実写は日本人向けの蛸壺の中でしか生きられない訳よ。
そしてその実写文化や日本のテレビ文化に寄生した日本でしか受けない番組群と、アニメ・マンガっていう海外でも生息できるクールジャパン群があるわけ。
その差が如実に出たよね。
別に悪いとは言ってないよ。
実写で海外と真っ向勝負なんてしても、胴長短足の日本人が主役で予算もろくについてないんだから返り討ちにあうだけ。
だから細々と日本人向けの日本でしか受けない作品を作ることで同じ物差しの上に並べられることを回避します。
でもそこに自覚的にはなるべきだと思うわ。
おかしくない?
二次創作同人ゴロって儲かりゃよくてモラル皆無のカスどもの癖にそういうのはチキるのかよ。
それとも気づいてないのかな。
アクタージュのキャラは痴漢されることに特化された性能をしてるって。
どれも突然後ろから胸をもみしたがれたとき、それぞれに応じた完璧な反応が帰ってきそうな造形をしている。
誰もが後ろから痴漢に胸を揉まれることに対する性能が高いのだ。
凄い……
「作者の人間性と作品は切り離して考えろ」なんて軽々しく人は言うが、作者の人格を知ることで紐解かれる作品世界は確かにある。
二次創作なんてグレーゾーンを平然と渡りつづけるモラルハザードの中にいながら、今更そういったことに目を逸らして、気づいた事実に蓋をして捜索の手を止める。
ASDって自覚すると自分は常に空気が読めていない前提でいるから、「いま空気読めてますか?」「いまどんな空気ですか?」ってつねに怯えて周囲に確認して神経尖らせ続けなければならないの、すごく気疲れする。しない?それが二次障害を生んだりする。不安障害とか。
それに、自信なさそうな振舞いになってしまう。女ならまだセーフだろうけど男だと相手に与える印象が致命的なんだよな・・男らしくないから。
だから開き直ってリラックスして空気読みをやめるときも作ったりもする。力の入れ方と抜き方をどうすればいいんだろうな。
あーあと自覚として、人と話したり説明をしているのに下向いて顔見ないで喋ってることがわりとあるの、それ自覚的に直さないとなんだよな・・。
精神疾患は病識と治療意思を持つことが難しい。問題が表面化した段階にはだいたい病気であることが当たり前になっている。特に思春期青年期に深刻な事態になると健康である自分のイメージが本人にも周囲にも分からない。
つぎに、自己・医師・(いれば)援護者が全体像を理解するのが難しい。二次障害に翻弄されることはもちろん、二次障害とその病歴・治療を軽視するのも良くない。治療の全体像を描いて、今何をしているのか自覚的にならなければ、患者に漠然とした無力感を与え治療からの離脱を招く。
最後に、環境を変えるのが難しい。家族や学校・職場の扶助を陰に陽に前提とする社会で、これらがむしろ原因になっているケースが多く、対処の手段が少なく助けられづらい。助けられなくて当たり前だと本人も周囲も思っている。特に、心理的環境は表面的な情報からは実態が見えてこないので、患者本人との接しづらさも相まって無視・無理解が至るところで生じている。
元増田さん。あなたがこのような問を立てたくなる気持ちはわかりますが、この問は無駄です。
本丸はモラルだけどマーケティングの話は絶対手放さない、2つは不可分である、が本音です。今回騒いでる人たちは、この2つを分けるつもりはさらさらないはずです。
男の人にはわからないと思うけど、女は一点でも明確に勝てる理屈があれば、極論全部それにつなげるというやり口を好みます。
今回の件でいえば、モラルの方で苦しくなったらマーケティングの話に誘導し、そちらで文句言われなかったらモラルの側も勝ったと言うことにするのです。
自分がちょっとでも不利になったら、流れぶったぎってでも「でもアツギのマーケティングひどかったよね?それを責めるのおかしい?」につなげます。都合の悪い話は一切付き合いません。
そして、何も説明できていないのに「は?モラルでも100%勝ってるんだが?」などと言い張るのです。これを相手がうんざりして自分の言い分を認めるまで続けるのです。
女なら大半の人はそうするでしょう。私だってそうします。 これは相手から愛されている間はとても有効な戦術だからです。
今回、企業がやらかしたことに対して批判の声が強い、批判する人がやたらと強気、なのはお気づきかと思います
これは、たとえモラル側での指摘が微妙でも、マーケティングの話なら絶対に勝てるとわかっているからです。
そして、女としてはこの状況なら必ずといってよいほどこの2つをわざと混同します。なぜなら目的は正しい議論をすることではなく相手を屈服させることだからです。それでもまだ相手を屈服させようとするならましな方で、ネットだとさらにひどいです。人と関わり合いにならなくてもいいことに自分の脳内で精神的勝利するためだけとか、相手への嫌がらせをするためだけにこういう態度をとる人もいます。
だから女同士の時はモラルの会話で盛り上がり、批判されたら「私達は企業のマーケティンを批判してるだけですけど、なにかまちがってますか?」としらばっくれます。 これは半ば自覚的にやってます。
実際にこういうしらばっくれたことを言ってる女の人をたくさん見かけたから増田さんは「どっちなんだよ。はっきりしろよ」と迫っているのでしょうが、はっきりするわけがありません。わざと一緒くたにしてるのですから。
女としては日常的にこの手を使います。とても効果的だからです。
なので、男性の方々は、なにか明確に負ける要素ができた時点で全面敗北を認めるか、このやり口をやってくる女性は最初から話をするつもりなどなく男を屈服させたいだけなのだということを理解してシャットアウトするしかありません。
くれぐれも、2つを切り分けた丁寧な議論ができることなど期待しないでください。わからなくてやってるのではなくて、わざとやってるんですから。
女はこういうやり口を好むということは知っておくとこの先の人生で理不尽にやり込められることは減るでしょう。
よく思い返してみてください。こういう人見かけませんでしたか?
私はフェミニズムにあまり興味がありませんが、たまに目に入ってくるフェミニズムに関する会話を見てると、議論の途中で流れぶった切って
「でも○○は悪いよね?」
みたいな話をしだす人必ずいますよね。
アツギの件でも、マーケティングの話する人はまだマシで、もっとひどいのになると「女性のレイプや痴漢の被害者の数が」とかみたいなことを言い出す人がでてきます。賭けてもいいです。絶対にこういうこと言い出す人がいるはずです。
似たようなことは私もしますが、ここまで来ると流石にオエッてなりますね。
こういう人たちは、人の話を全く聞く気がなくて、この「魔法のコトバ」で男を屈服させることだけが目的です。自分が魔法少女になったつもりなのですね。なので、こういうことを言ってる人を見かけたら、いい年して魔法少女ごっこやってる痛い人、位に思って優しくしてあげてください。 ※
※半数以上の女性がこういうことをやる、という話であって女性が全てそうではないですが、どう表現していいのかわからないので以下の主語は女、とさせていただきます。主語でかいと思ったら各自適切な主語におきかえてください。普段から主語がでかいってコメントで指摘してる人、当然適切な主語を当てはめられるから言っておられるのでしょうから。
※なお、この戦術は用法容量には気を付ける必要があります。 最初は愛情を盾にして理不尽な手段として使っていたはずなのに、有効だからと言って使いすぎるとだんだん感覚がマヒしてきてこれが当たり前になります。そしてしまいには「私のこの言い分を受け入れてくれないのは相手が私を大事にしてくれないからだ、バカにしているからだ」と考え出し、メンヘラになります。ネットでよく見かける、何に対しても過激にキレまくってしまう女はこの手法におぼれて魔法少女から魔女になってしまった人たちですから相手にしてはいけません。
/(^o^)\ この増田に「こんなの男女の問題じゃないわバーカバーカ」って一秒で返せない残念なコメントが多くてはてなくんさぁ、そういうとこだぞ。
……と考えれば、ジャンプに群がる腐女子の行動に全て説明がつく
いろいろ言い訳したところで、突き詰めていけばあれはポルノ的消費に他ならない
点の取り合いや命の奪い合いを性行為として、イデオロギーとイデオロギーのぶつかり合いをチンポとチンポのぶつかり合いとして消費しているのが腐の皆様というわけである
何もわざわざ同人誌で実際に掘らせるまでもない、そもそも原作の時点でポルノとして消費しているのだから
ただそれに自覚的な人と、そうでない人がいるだけだ
女性の貞操の危機をエンタメにすることに対してあれほど敏感な人たちが、なぜ命の危機は堂々とエンタメとして消費できてしまうのか
「現実的かそうでないか」というのがあの人たちの答えなのだろうが、それを言うなら命の危機にしたって割とそこら中に転がっているし
わざわざ男同士の戦いを好んで消費することに特別な理由がある、と考える方がよほど自然だ
だからこそ、他のメディアに対しては「女性も他のマイノリティも活躍しないと」みたいな意識高い系のことを宣っていても、自分の好きな作品になると結局は嬉々としてホモソーシャルの消費に走ってしまう
むしろ腐女子というのはホモソーシャルの聖域を乱す女性キャラクターをしばしば親の仇か何かのように敵視し、ヒロイン叩きを展開することが多い
BL界隈では「壁になりたい」というのがよく言われるが、おそらくこの言葉に答えがある
「自分たちはその場に存在しない」というお約束のもと、何の責任も負わず、ただそこにあるものを一方的に消費する
男キャラとくっついて自分の妄想を否定してくるから邪魔、男同士の感情を覗き見消費するのに邪魔というだけでなく
そもそも女性が「ただそこに存在する」こと自体、腐女子にとっては邪魔でしょうがないのではないだろうか
近代以降の総力戦であれば女性も否応なしに動員されるし、そうでなくとも属する集団が負ければ相応に悲惨な思いをすることになる
まあ女性に限っては勝った方の男にしれっと取り入り、なぜか自分まで勝った側のような顔をするという選択肢もあるわけだが、とりあえずはかなり悲惨だ
しかし自分が関わらない戦いであるとわかっていれば何の不安もなく消費できる
そこの毒を都合よく取り除いてやれば、めでたく女向けポルノの出来上がりというわけである
一応断っておくと、それが悪だと言いたいわけではない
好きに消費すればよろしい
十年前の自分を見ているようだ。
コミュニケーションには正解が複数ある。セクハラや差別発言が常用される正解もある。
法や論理的に瑕疵の無い、また、倫理的に瑕疵の無いことをキッチリキッチリ求める潔癖症である人間は実のところもの凄く稀だよ。
自分は禁煙や灰皿の無いの場所でポイ捨てする人間を見かけたら携帯灰皿をプレゼントす(押しつけ)ることもあるくらい規則が整ってないことにストレスを感じてた気狂いやASDだったけど、
もう人に期待すること(減点法の世界)は辞めたので、何か一つでも期待以上だった(加点法の世界)ら喜ぶようにしたらストレスが消え去った。
人に発言が意図通りに通る事なんて滅多に無いし、スムーズに意図通りに通したいときに掛かる労力というのは実際想像以上であるし、読解にだって労力は要る。雑談の範囲で読み取って欲しいというのは暴力染みているのは自覚的であるべき。