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はてなキーワード: 軽蔑とは

2021-06-07

『せっかくいい大学を出て教養ばっちりなのに専業主婦におしこめられて専門知識いかせないんですぅ~』

っていうのを悲劇だとおもっているクソどもには我慢ならんな

いまこの国には家庭の事情などで端から大学進学という選択肢をあたえられていない人間がどれだけいるとおもっているんだ

そういった恵まれない貧乏人、田舎者を前にしても文頭みたいな寝言が言えるのか?

……でもまあ言いそうだなあ。どうせ貧乏人とか田舎者大学に通えないのは当たり前だと思ってんだろうからなあ。

まったく軽蔑すべき連中だよ。

anond:20210607213919

軽蔑してる可能性があるのは謙遜に使う人の側であって、謙遜であることを理解した周りにその罪を着せるのはなんか違うくないか

2021-06-04

映画アニメ感想が人によって違うと荒れるから嫌だ

受け手によって解釈が違う表現って、視聴者間のレスバトルが引き起こされて嫌な気分になるんだよね。

作品自体面白かったとしても、その後のネットコミュニティが荒れまくると、うんざり気分に上書きされちゃう

人類史もっと一般人推し活とレスバが盛んなこの時代揉め事の種にならないようにはっきり説明してくれる作品解釈の幅が少ない作品が求められるのは自然だね。

まりカップリング論争なんて最早うんざりから公式正史における本命CPは明示されてる方がありがたいってことよ。

そしてCPオタクジャンル以外でも近いことが言える。




現代では、作品のもの効用と、その作品に対してネットお祭りすることの効用が、同じくらい重要になってる。

オタクジャンルでは以前から公式が新情報を追加し続けて、オタク二次創作限界萌え狂い芸やトレンド乗りといったファンコミュニティの活気を絶やさないことが大事。それってまるで作品よりもコミュニティを作ってるみたいではあるけど」なんて言う人がいたけど、映画ドラマでも割とそうなってる。

友達映画見た後の感想会が楽しいのは昔からだが、今はその感想会の重要性がめちゃデカくなったんだな。

そんでここから本題だけど、友達同士の感想会ですら評価が別れるとやや気まずくなるのに、何万人とやりあうネット関係評価が分かれてるとコミュニティが荒れまくってしんどいんだわ。

(ここで友達同士の違う感想を聞きあうのがいいんだろとか言おうとした人もいるだろうが、それは心身が健康かつ信頼関係のある友達とたまにやる時だけ言えること。一時的には議論面白く感じても、やっぱり疲れるから、好みの合わない相手とは次第に一緒に見なくなるぜ。)

人によって受け取り方が違うのは文学性かもしれんが、はっきりしないものについて語り合うのって耐えられないほど疲れるんだよ。

なんなら作品鑑賞時間より、その後のネットコミュニティに入ってる時間の方が長いくらいなんだからさ。

大昔なら他人感想を見るのなんて批評家の本くらいだし、ネット時代もしばらく前であればブログに長文書ける限られた人のものしか目に入らなかったから、我々は自分vs作品孤独に向き合う時間が多かった。

そこで一応自分の中でまとめた自己解釈は、二つ三つの他人感想と違ってても辛くなかった。

でも今は世界と繋がってんだから解釈が固まらないうちに、他人の何千という意見を目にするせいで「私が間違ってるのか?」という不安や「あいつら、読みが浅いくせにそれが正当みたいな顔してやがる」みたいな怒りが沸いてくる。

自分と近い解釈の【仲間】も沢山見つかるが、それは自信を補強するというより、陣営に別れての対立を激化させる効果が大きい。

SNS日常のスキマ時間に入り込んだ現代、スキマ時間対立を目にするのはマジでキツいんすわ~。

から近頃は萌えカプ重視のオタク作品ですら、カップリング論争が激しくなりそうな関係描写敬遠されて、公式CPはほぼ明示、ハーレムでも正妻ポジションがわかりやす作品が、安心できる福利厚生としてウケるんだよ。

シン・ゴジラエンタメ性のバカ高さで内閣総辞職ビームwwwつって盛り上がったが、もしも流行初期にもうちょっと原発比喩か否か」「日本官僚への期待か否か」「庵野政治的主張をしたがらないんじゃないか」みたいな議論厨がファン内の主流になってたら、疲れそうだから人がこなかったと思うわ。


この増田は以下の記事に触発されて書いている。

わかりやすさを求める人への軽蔑トーンが強すぎるぞ、煽ってアクセス集めるのはやめろ、と思ったが、興味深い部分はある。

映画ドラマを観て「わかんなかった」という感想が増えた理由

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/83647

逃げ恥』『シン・エヴァ』…「リテラシーが低い人を差別しない」作品時代を制する

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/83706

リテラシーへの思いやりでわかりやす作品が増えており、それは低リテラシーへの差別予防であり、反差別ポリコレと通ずるブームだという指摘は面白かった。

だが、それだけじゃない。

作品から視聴者への差別防止だけでなく、視聴者間の差別も防ぐ効果が、わかりやす作品にはある。

視聴者も他の視聴者差別したり、憎んだりしたくないんだよ。ファンコミュニティ内で荒れたり議論になったりしてほしくないし、自分荒らしたり議論を吹っ掛ける誘惑にかられたくない。

たとえば意味深表現があると、それを誤読した低リテラシーな人に対してどうしても「あーあ、バカな奴ら」って差別的なこと考えちゃうじゃん、そんな感情を誘発させないでほしいんだわ。

しかも本当に誤読してるのがどっちかはわかんないしね。

自分誤読してるのに、ちゃんと読めてる高リテラシー側に対して「バカな奴ら」って差別的なことを考えてるのかもしれないと心配になる。そんでこういうぐちゃぐちゃした思考自分うんざりする。

とにかく「解釈の幅が生まれやす表現」てのは、皆が繋がってコミュニティになってるこの時代には揉め事の原因になるからやめれっつーことよ。

仕草だけで好意を伝えるなんてやったら、それは本当に好意を読みとれるかどうかで揉め、作者が意図してるかしてないかで揉め、仕草から感情勝手解釈して判断するのはデートレイプかに繋がるんだから性交同意書が提案される現代には許されないとかで揉め、言外の意味を察することを求めるのは発達障害に厳しいとかで揉めるんだぞ。だったら好きか嫌いかはっきり言わせよう、となってあたりめーだよな。




だいたいさ、はてなーツイッタラーも5chもふたばも、主語デカい、比喩を使うな、皮肉は伝わらないからやめろ、意味が一意に取れるように書け、みたいなツッコミをする人がすげー増えたじゃんね。

だったら、物語もそれに合わせてわかりやすく直接的で解釈の幅を狭くする描き方をして当然だよな。

そーゆー批判有名人発言ブログに対してだから物語に対しては別だと思う? 物語比喩や間接性こそが価値から明確さなんて求めてないって?

いいや、時代感覚としては根が一緒だと思うよ。

事実半分物語半分みたいなエッセイブログエッセイツイートですら「誤解を招く表現はやめろ」「曖昧さを利用して分断と偏見を煽っている」なんて言われてんだからさ。

受け手によって解釈のブレが生まれやす表現は混乱の元だからやめとけやめとけってのが、ネット発言についても物語表現についても当てはまる時代なんだわ、今は。




追記

ブコメで「他人感想を見るな」などのアドバイズをしている人いるけれど、この記事では困ってるなんて全然書いてないっすよ。

しろ逆で、わかりやすくてSNS受けしてみんなで同じノリがしやす作品が増え、応援上映だのイベント配信だの実況ハッシュタグだのも公式が準備して、モノ消費よりコト消費なんてスローガンも広まって、対人交流好きな人間にはどんどん都合がいい世の中になってるぜ、と言っている。

それなのに、なんでわざわざ我が世の春を捨てるような、古の単独ムッツリオタクとしての生き方回帰せよってブコメつくねん! そもそもオタクだけの話をしてるわけじゃないし!

あとどっちかっつーと、いま助言される立場オールスタイルオタクの方じゃない?

作品と鑑賞者がタイマンで向き合うのが本義で交流共感二の次三の次というの、今の時代では逆風で大変そうですね。もっとコミュニケーションやってみんなで盛り上がる方が生きやすいですよ」ってな。

私はそんなこと言わんけど。

だってこの記事は周囲を見て考えたことを書いたものであって、私自身は6:4くらいでオールスタイルオタクに近いから。本文で一人称を使ってないのは、私の価値吐露じゃないからだよ。

2021-05-30

最初の5年くらいだけ聞いてたおっさんがサブスク解禁で作ったB'zのプレイリスト

B'zがようやくサブスクにやってきたわけだが,アーティストのページに並んでる曲のリストを見たら半分以上知らない曲ばかりで驚いた.

自分は40台半ば,B'zがデビューした頃中学生だった.その頃大好きで聞いていた(今は聞いていないとはいわない)TM NETWORKに関連したグループがでてきたよと教えてもらったのを覚えている.高校卒業するくらいまでは新曲も聞いていたが,だんだん洋楽聴くようになってJ-POPパクリの塊として軽蔑するようになってB'zを聞いていたことを黒歴史として封印するようになった.あの頃の若者っていつかは洋楽に行き着くものでそれが正当な成長とみなされていたものだったよな?最近若い人には洋楽への憧れをみたいなものがないようなのでびっくりです.

自分が聞いているかどうかに関わらず彼らは活動を続けていたので時々耳に入ってくる曲に対して「なんか男くさい曲ばっかりになったなー」「まだやってんだな」と感想もつくらいの関わりで過ぎてきた.CDレンタルしてテープダビングして聞くという時代だったので,往時に聴いていた音源はとっくに処分し,ふと懐かしくなって聴いてみようかと思っても,サブスク音楽再生することに慣れきってCD再生することすらできなくなっていたので中古CDを買うわけにもいかず,デジタルミュージックを購入してまで聴く気にはなれなかったので,実はB'zがサブスクにやってくるのは心待ちにしていた.ようやく愛用のApple musicに彼らが登場して,喜んでアーティストのページを開いたら冒頭のように半分以上は知らない曲が代表曲として並んでいるのに遭遇したわけだ.

そんなわけでデビューして最初の5年くらいにポップソングの主要購買層だった人間が作ったB'zのプレイリストに入れた曲に思い出話も付け加えた.昔はこの手の文章個人ブログにたくさん書いていたものだが,今となっては検索してもそういうページがヒットしなくなった.

孤独Runaway

この曲はちょっと過小評価なのではないかと思う.MARSというミニアルバムの冒頭に収録されているが,残りの曲は過去曲のリミックスなので実質的孤独Runawayのシングルのような構成になっている.そういえばこの頃シングルよりちょっと曲数の多いミニアルバムっていう形態流行ったよね.歌詞はもろにB'z的な「すべてを投げ出してどっかに行ってしまう男」の歌である.昔誰かがB'zはどこかに行こうと歌い続けながら,ずっとどこにもたどり着かない歌を作り続けている,みたいなことを書いていたが,その典型の歌といっていいだろう.ある意味彼らは20代の頃からずっと中年危機を歌っているのだ.

BE THERE

今の若い人たちはモノラルっていっても意味がわからいかもしれないが,30年前は音楽ステレオ環境再生するのは当たり前じゃなかったんだ.だからこの曲の出だしで「Be be be…」とヘッドホンスピーカーの左右から交互に音が出てくるのにびっくりした人たちがたくさんいたんだよ.スピーカーが壊れたと思った人もいたとかいないとか.ちなみに自分はこの曲よりも前にTM Networkの「Come on everbody」の冒頭で音が左右にふられるのは経験済みだったのでそこまでは驚かなかったが.

太陽のKomachi Angel

少なくとも最初の数年はB'zといえばこの曲だと思っている人が多かったんじゃないかカラオケでは「あのこは太陽コマチ,」のあとの「エーンジェール」でみんなで一緒に手を挙げて歌ったものだ.90年代に勃興したCMタイアップという曲の一つだった.この頃はまだ日本が豊かだったなーという感想がでてくる.いわゆる失われた20年だか30年だかに入る前の時代の明るさとポップソングが激しく商業化していく時代の流れを思い起こさせる.

LADY NAVIGATION

これもタイアップ曲だった.強く美しい女の人を称える歌を彼らはよく作っているがその典型といってもいいだろう.カップリングの曲の方が明らかに彼らに気に入られているように思われるので,タイアップ曲をA面に持ってこざるをえなかった大人の事情でもあったのだろうかと邪推する.当時は考えなかったことをおっさんになると考えるようになる.これを聴いて見えてくる女性像も90年代というか少しバブルの残り香があるように感じられるね.

LOVE PHANTOM

自分にとっては新しめのB'zの曲…と思ったら1995年発表だった…まだ前世紀だとは思わず.つまりこの時点ではほとんど自分からは追っかけなくなってヒットしたら耳に入ってくるという状態になっていたわけだ.記憶を掘り起こすともともとのB'zらしい曲がひさしぶりに出たなあと思ったような気もする.これは「誰かとずぶずぶの関係になってしまたことを打開したい願望」を歌った曲で,彼らの曲に似たようなテーマが頻出する.これの派生で「自分の狂おしいまでの相手への執着(性欲?)をもてあましている」みたいなテーマも頻出しているように思う.あとは関係ないけど不倫らしき恋を歌った歌も多い.

ultra soul

えーと2001年なんでギリギリ21世紀の曲ですか.もはやこれがB'zの代表曲ですね.さすがにこれは世代を越えているようで,小学生ですら知っている.「ウルトラソウッ!」のあとにちゃんと「ハァイ!」が入れられる.運動会で使われることも多い.(以前サンプラザ中野くんRunnerはずっと運動会で使われ続けているので今でも小学生が知っていると言っていた)ラテンの要素が濃いめで,後年サンタエスメラルダの「悲しき願い(Don't Let Me Be Misunderstood)」を聴いたときに,ああB'zには日本人の好きなラテン歌謡の要素がいれてあるんだなと理解できた.結局僕たちは哀愁をおびたメロディロック風のアレンジをされた歌謡曲が大好きなんだ.そういうことを考え出すとJ-POP聴くのが恥ずかしくなるのが大学2年生くらいだったんだけど,今となってはもうどうでもいい.子供と一緒にウルトラソウッ \ハァイ/ で超楽しい

ALONE

当時のカラオケ流れる背景がこの曲専用で,「仲の良いカップルがいて女性交通事故で突然死んでしまう」というベタベタストーリーだった.その頃はまだカラオケの背景動画は曲のイメージに合わせて適当なやつがランダム流れるものが多かったのでじっと見入ってしまって,悲しい曲調と歌詞にあわせた展開にちょっと涙腺を刺激された覚えがある.関係ないが徳永英明カラオケ映像に本人が登場するのですごく自分のことが好きなんだろうかという話をしていた.

BREAK THROUGH

タイトルアルバムタイトルチューンだった.「新しい理想のために 上々の現状捨てたい 瞬間が来るだろういつか」と後年のポップ・ミュージック界のモンスター存在になることを考えるとまだまだ駆け出しだった彼らはこの初期のアルバムにして既に「うまくいっている現状を放り出してどこかに旅立つこと」を歌っている.男は現状に満足してはいけない,常に新しいフロンティアを探して旅を続けなくてはならないのだ,というのはある種の強迫観念であろう.B'zには女性ファンもすごく多いけれど,そういう男の気持ちを歌っていることを女性たちはどのように考えているのだろうか?

FRIDAY MIDNIGHT BLUE

アルバムの隅っこの曲だが,個人的に好きなのでいれた.若い頃に聴いて好きになった曲は年をとっても好きだということだ.最近は誰かにアルバムを通して聴くこともほとんどなくなったし,聴いたとしてもシングルカット(これも死語か…)にならないような曲を記憶にとどめるようなこともない.売れない画家タクシー運転手をして日銭を稼いでいることを愚痴る歌,という他にはあまりないテーマユニークな曲.売れないミュージシャンだった頃の心情を投影しているのだろうか.

RUN

これもアルバムタイトルチューン.一緒にやってきた仲間たちとの,今ならホモソと呼ばれてしまいそうな連帯感を歌っている.どこかへ走り出そう→走っているときの高揚感→走ってきた俺たちの回顧,という流れの概ね後ろ半分が歌われている.B'z的世界の中では男の人生はこれの繰り返しなのだ.一番最後だけ歌うと別アルバム収録の「相変わらずなボクら」になる.

OH! GIRL

今回始めてMixtureというアルバムリミックスされているのを聴いたが,元のバージョンの曲の印象を損なわずに,パワーアプしている感じがしてこの曲だけ新しいバージョンの方をリストに入れた.この曲を聴くとなぜかとても失礼なことをしてしまった女の子のことを思い出す.思い出すといってもその子にはほとんど会ったことがないのだけど.(会わないという失礼をしてしまった)

Pleasure'91

一番最後に挙げたが,B'zがサブスクにやってきて最初検索した曲はこれ.シングルB面曲だったが,その後もツアー名になったり韻を踏んだTreasureベストアルバムタイトルになったりで,本人たちも気に入っているのがよくわかる.その後95,98と歌詞違いが生まれて,男の人生年代記みたいになっているのは知っているが,やっぱり91が一番だ.

これを聞いていたのは10代半ばでまだ何も始まっていなかったのに,自分人生を振り返りながら「止まれないこの世界で胸を張って生きるしかない」と歌うのに共感していたのは今考えると不思議だ.もちろんそこから30年経って,子どもたちを乗せた車で「怖いものはありますか,守るものはありますか」と歌っているのを聴く自分もずいぶん遠くまで来たと感じる.あの頃の友達と今年は集まる予定だったけどコロナのせいでいつ会えるかもわからなくなってしまった.下らなかったあの頃に戻っていつも同じ思い出話をしたい.

2021-05-24

犠牲必要だ」の発言侵略or宣戦布告ではないか?真面目に

外国による他国への「犠牲必要だ」の発言侵略or宣戦布告ではないのか?

別に俺は左翼ではない。

俺はそもそも五輪反対派ではなかったし、

ましてや五輪反対からすぐ自民党罵倒が始まるようなヒステリック人種軽蔑していたが、

犠牲必要だ」の発言正当性は、いくら考えてもわからない。

日本政府のように、嘘でも「対策をとって安心安全な開催をする」ならわかる。建前上は発言の筋が通っている。


これは、他国による蹂躙と、政府によるその甘受ですよ。

歴史用語でいう屈辱外交である

ちなみに俺は右翼でもない。

2021-05-23

母親日本語不自由すぎ

普段はまあまあ普通に会話が成り立つんだけど、たまに気が抜けるのか疲れてるのか知らないがメチャクチャ日本語で話しかけてきて困惑する。

しかも「どういうこと?」「どういう意味?」と訊くと「もういい!!」と一方的に会話を打ち切るのでどうしようもない。

先日も「〇〇(母の好きな歌手)の曲って保存されるの?」と質問されて全く意味理解できず、かろうじて保存という単語から、サブスクか何かで音楽ダウンロードしたいのだろうと解釈して「どこで配信されてる曲なの?」と訊いた。

そこからのやり取りが

母「どこで配信?よくわからないけど、〇〇の曲を買ったらどこに保存されるの?」

私「デジタルで曲を買ってスマホに入れたいんでしょ?」

母「そう。」

私「だからどのアプリで曲を買うかによるでしょ。アプリかもしれないし本体かもしれないしSDカードかもしれない。」

母「だからデジタルで曲を買いたいんだって(笑)」(母は自分の話が通じないとまず私を馬鹿にしてくる)

私「うんそれはわかってるよ。だからどんなアプリで曲を買うかによって保存される場所が違うかもしれないから私にはわからないよって話。」

母「???

私「てか私は普段デジタルで曲聞かないからよくわからんわ。」(ここで面倒になって放棄)

母「ふ〜ん。」(何故か不機嫌)

Siriのほうがよほどマシなレスポンスしてくるわ本当。

また、私のノートパソコンHDMIテレビに繋いでYouTubeを見ていたら母が自分スマホ繋ぎたいというので交代したときのやり取り。

私「(テレビの近くに行った母に対して)入力2のところに刺さってる線を抜いてくれる?」

母「コレ?抜いていいの?」

私「そうそれ。そんでスマホ用の線を同じとこに刺して。」

母「えっ、コレ本当に抜いていいの?パソコン消えない?」

私「消えないよ。」

母「なんで?電源抜いていいの?」

私「それは電源の線じゃないよ。電源はこっち。」

母「えっコレ電源じゃないの?電源はどれ?」

私「だからこれ。」

テレビから電源引っ張ってるわけないだろが。

年々、母への嫌悪感軽蔑気持ちが大きくなっていく。

もちろんこれまで何不自由なく生きて来られたのには感謝してる。でも絶望的に相性が悪い。

母は、家族には多少投げやりや態度や適当文章で話しかけても許されるし分かってくれると思っている節がある。

しかも母はかなり情緒感情を優先して動くタイプなので始末が悪い。

私は自分感情客観的事実は切り離して考えたいのでここも合わない。と思っているが、私も上のやり取りの中でイラついたら適当なことを言って会話を中断させているのでかなり情緒感情を優先して動いていると思う。

早く一人暮らししたいのは山々だが、学校が忙しくてバイトする暇なんぞなく、学校の近くに住もうとすると家賃だけでとんでもない額になる。

本当に早く家を出たい。

2021-05-22

LGBTやイキリロリコンのような性癖アイデンティティかうぜぇ……

なんなんだろうね?

自分アイデンティティって能力によって決めるべきじゃね?

何が好きかじゃなくて何が出来るか何が分かるかでしょ。

ガンダムアニメは全部見たから語れるだけどプラモゲームしか出てこない設定は知りません」みたいな感じでさ。

つうかせめて性癖キャラ付けはやめようや

「拙者子供が好き好きでござるからして~~オスガキにわからさせられたさ~~」みたいなの、マジでアホかよ……。

個人的には「巨乳サイコー!一番好きなおっぱいです!増田くんはAKBで誰が好き?」みたいなのでもう無理ポ……「ジャニーズ誰が好き?ウチはJrの~~マジちっちゃくてかわいい~~」みたいなショタコンアピールとかもマジ結構すわ勘弁してクレマチス

こういうと安易反論する奴いると思うんすけど、ちょっと考えてほしいのが、「銭湯に入ったら同性の美男美女に興奮して、逆にきったねえオッサンバサンを見るとキッズブサイク同級生に抱くような殺意に包まれる」ってのがLGBTだって気づくトリガーなら、それって結局性癖しかないんじゃないっすかって話をしてるわけですよ。

なんつうのかなあ……結局精神的な性ってようは何に欲情するかでしかねえってことだと思うんすよね。

いいやそこに愛が云々っつー奴は、これは単に恋愛至上主義っつー別の病気なんすけど。

「俺さ……男だけど男が好きなんだ」って話を男二人きりの状況でするのって、オッサンJCに「俺さ……ちっちゃい子でオナニーしてるんだ」って言うのと変わらないじゃないっすか?

まあ一応は「子供意思決定のための知能が足りてない社会付属物でしかないので、可愛そうなクソ雑魚脳みそを守るために恋愛禁止にしよーぜ」みたいな風潮があるんでそこがちょっとちゃうんすけどー。

でもそれも眉唾っつーか、要するに社会が「子供は親のおまけなんだよ」って価値観を補強したいっつーかそれが当然っつーか、まあ内心クソほど小馬鹿にしてるところからスタートしてるわけなんすよね。

流石に幼稚園児に興奮して手まで出しちゃったような奴らは金玉子宮摘出して脳にチップ埋め込んでよくねなんすけど、14歳ぐらいからはもう大人と同じ扱いにしてよくね?つーか少年院とかもそこら辺からナシでよくねって思うんすわ。

話が横にそれたんすけど、よーするにワシが言いたいのは「子供好きで変態アピールしてる奴らと、同性愛者で特別アピールって何がちゃうんすか?」なわけっすよね。

まあでも結局の所、ゲイレズが嫌われるのって、爆発寸前になってから同性愛者なんだ!やらせてくれ!キスだけでもいいから!ミサトさんシンジくんにしてたほう!」ってカムアウトしてくることに問題があるのかなって。

まあその点では、イキリロリコン共がネットアカウントではワイワイ騒ぐけどリアルじゃおとなしいのに近いっすよね~~つーわけで同類だと思いまーーー。

まあでもそれに対して「うるせー性欲爆発宣言したら許されると思うな。キメーんじゃ」ってのは一緒でー、ちな巨乳好きとかに対しても同じように人前で性癖暴露コーナー始めるのはやめーやって思うわけっすわ。

んでなー異性婚や異性愛特別視してる奴らも結局はネットによくいる「お前も、ロリ巨乳が好きなんだろ?」とか「お前も、鬼畜メガネ反転総受けが好きなんだろ?」と同じような、性癖暴露同類認定イキリの一種だと思って軽蔑してまーす。

ばーかばーか自分ちんちんくりまんがどうすりゃ固くなるのかでコミュニティ形成しようとすんじゃねーよダンゴムシみてーにアングロの中でひっそりやってろばーか

Perlおじさん、子供部屋おじさん、どうして「おじさん」というだけで

Perlおじさん、子供部屋おじさん、どうして「おじさん」というだけで、軽蔑的なニュアンスで見られるの? 弱者男性をねらっているの? ということを熱く語ってみました。

https://www.youtube.com/watch?v=WkuhsSlD9T0

2021-05-21

anond:20210521141451

弱者男性論はもともとフェミニスト嫌いがフェミニストへの当てつけで始まったものから

論者=弱者男性じゃないし論者は弱者男性を救おうと思ってないしむしろ論者自身弱者男性軽蔑してる

2021-05-20

母が死んで思ったこ

去年の秋に母親が亡くなった。

大まかに言うと9年前に発症した乳がんが原因だった。

2019年年末から抗癌剤治療を辞めて終活をする」と言われていたので、ある程度覚悟は出来ていたしそこまで引きずらなかった。

でも母が亡くなって今まで母が守ってきたものって何だったのだろうと思うようになった。

母子家庭一人っ子祖父母は母が若い頃に他界父親DV気質だった為、私が物心つく前に離婚

お金持ちという程ではないが、不動産収入があったので幼少期から苦しい思いはしてなかった。

田舎だったのもデカいと思う。

小4の時母から「親戚の何人かにお金貸してる」と告げられ、それがおばあちゃん代わりになってくれていた人やお姉ちゃん代わりに遊んでくれた人だったのでショックだった。

その頃から親戚に対して少し軽蔑していたし、そんな親戚と仲良くしてる母親理解できなかった。

大人になって母はこの親戚との関係を断つと孤立してしまうんだと気づいた。

祖父方の親戚とはとうの昔に縁を切ったらしいし、残すは祖母方のこのろくでもない親戚しかいなかったのだと。

私は田舎が嫌で16歳で家を飛び出して都会で一人暮らしをし、癌治療中の母をその親戚に任せっきりにしていた。(とはいえ母もずっと入院していた訳ではないので、任せっきりというのはおかしいかもしれないけど語彙力がないので何と書けばいいかからない。)

なのでろくでもない親戚とは言えど感謝申し訳ないという気持ちはある。

でも母が死んでしばらく親戚にお世話になっているとやはりろくでもないなと思った。

祖母代理を務めていた人の家に泊まっていたのだが、日数が経つにつれ「父親に似てる」「お前の父親は最低だった」なんて話をされた。

私は内心「遺書で母からまだ100万借金してんの分かってんぞ。けど母の良心に命じて何も言わんだけだからな。」と思っていた。思ってるだけでチキンなので何も言えないまま苦笑いしてた。悲しい。

また実家を売るとなった際に、その祖母代理の息子から「いい不動産屋を何件か紹介する。その代わり日給をくれ。」と言われた。

こちらは相続税バカ高くて、泣く泣く思い出の実家を売るのに金せびるんかい

しかもお前の母親、うちの母親から借金してるんですけど?どの口が言ってんの?

と内心思ったが、チキンなのでまた何も言えないまま苦笑いして丁重お断りした。

母が亡くなって一気に親戚関係が崩れた気がする。というか私が壊したのか?

相続手続きもひと段落して、一人暮らしの住居に戻って約半年経つがその親戚からは何の連絡もない。

母の同級生の方がよっぽど連絡してくれている。

親戚からすれば私が身勝手に飛び出して母を任せたんだからお金をせびったり、嫌味を言ったりしてもいいと思っているのだろうか。

でも任せた分、お世話代として借金はチャラにしてくれと遺書に書かれていた。

年2回は毎年帰省していたし、高校卒業社会人になった後は親戚にもお礼としてご飯や買い物に連れて行ったりしていた。

うそこはイーブンなのではないか

私は母が守ってきた親戚との関係を壊したかった訳では無いのに、母というストッパーを失った事によってどんどん崩れていく気がしてならない。

幼い頃の親戚との幸せ記憶も、全て母の犠牲の上に成り立っていたのだと知ると居た堪れない。

母が守ってきたものって何だったのだろう。

それは私も守らなくてはいけないものなのだろうか。

この親戚と今後も付き合っていかなくてはいけないのだろうか。

2021-05-19

anond:20210518195105

俺の親戚は大工とか農業林業ばっかりだけど、妻の親戚は公務員ばっかりだったわ。

警官とか税務署員とか航空管制官とか。

親戚に芥川賞作家かいたし。

妻のイトコが一人、弁護士目指していて失敗してニートになってたけど、そのイトコのこと妻はすっごい軽蔑してたな。

2021-05-18

ナリタブライアンディープインパクトどっちが早いのか

という話に熱を上げ、最後には怒り出すような人間にだけはなりたくないものだ。

「やってみなければ分からない」「だがやれない」「だからからない」で終わりだろう。

もしも「いいやそれでもコッチの方が強い」と言いたい奴には言わせればいいし、せっかくだから楽しく競馬論でも語ってみようじゃないか

たまにいるんだ……「○○は俺達世代代表、○○をバカにされると自分までバカにされたような気分になる」とか抜かす頭のイカれた人間が。

何を言ってるのか全く分からないのだが、彼らの中ではそういう感情は当たり前のものらしい。

たとえばこれが「ウサイン・ボルト黒人代表から、彼が活躍することは黒人可能性を証明する素晴らしいものだ」という意見ならまだ分からなくもない。

だが、馬だぞ?

それも、たまたま自分競馬にハマっていた時代活躍していたという繋がりしかない馬だ。

なんでそれと自分をそんなにも重ね合わせてしまうのだ?

さっき、「ウサイン・ボルト黒人代表だ」という意見なら受け入れると言ったが、これが「○○は俺達の時代代表から」と言うならそれも軽蔑対象だ。

たまたま自分と同じ時代を生きた人間が結果を出したというだけで、自分まで凄い人間であることが証明されるなんて言い出すのは脳がイカれているとしか思えない。

ハッキリ言うが、「ウサイン・ボルト活躍した。俺は黒人だ。俺は凄い」というのなら、そんな黒人軽蔑対象だ。

黒人であっても白人に劣りなんてせず、人種の違いで人を差別するのは馬鹿馬鹿しい」という意味で、ウサイン・ボルト栄光を称えるのなら理解できるだけで、他人の成果を笠に着て自分が偉いなんてふんぞり返るようならタダの気狂いに他ならぬ。

なんでその例に競馬を上げたのかだが……まあ競馬ってのにはどうにもそういう奴が多いんだよ。

理解に苦しむのだが、自分が熱を上げていた時代活躍した競走馬が褒め称えられると自分まで立派な人間だと思いこんでしま人種が殊更に多いのだ。

まあ、「そんな時代競馬を楽しんだ俺は勝ち組」ぐらいならいいのだが、いつの間にかその時代ヒーロー自分を同一視して、やたらと繊細であることが人格の清らかさを証明するとさえ勘違いしている。

野球ファンサッカーファンにもそういった人種は多いな。

よく問題を起こしてときには殺し合いまで始める。

信じられないことだ。

彼らにとってはよっぽど自分人生のものが誇れるものじゃないらしい。

そうでなければ、「自分ヒーロー」のために自分自身の人生や、他人人生を平気で投げ捨てたりはしないだろう。

ヒーロー名誉のためなら、普通人間価値なんてゴミに等しいと信じているのだろうか?

天皇のためなら玉砕することこそが幸福だと信じていたあの頃の帝国軍人のように。

まったくもって気が知れない。

2021-05-17

コロナって若者に残された最後のチャンスなんじゃね?

経済的に困窮する若者と、たっぷり貯金を蓄えた上に年金まで受給している高齢世代との対比を見るたびに、そんな考えが頭を過ぎる。

日本オワコンだとずっと言われているが、かねてからその原因は高齢世代にあると思っていた。

デジタル分野でこんなに遅れをとっているのも、年寄り連中の事なかれ主義問題があると感じている。

高齢者がITをうまく使えないとか、能力的に不足している点がある部分を責めたいわけではない。

問題本質は、高齢者が、意欲ある若手が現状を変革することの邪魔をしているという点にある。

DX(デジタルトランスフォーメーションIT活用して業務のやり方を見直すこと。)という言葉が注目を浴びるようになって、自分職場でもDXを勧めたいと声をあげる若手が増えた。

しかし、「今までのやり方を変えたくないから」などと言うくだらない理由高齢者がそれを阻む。

結果的に古くて非効率な仕組みが継続する。

このままではいつかジリ貧になると焦る若手。どうせ自分は逃げ切れるから現状のやり方に甘んじたままあぐらをかく高齢者。社会での発言権が強いのも、長く生きているからという理由だけで年寄りの方だ。

そんな光景を見慣れてしまって、いつしか学習性無力感に取り憑かれている自分に気づく。

本当はこのままじゃダメだってみんな気付いているくせに、誰も声を上げられない。

少子化はすごい勢いで進んでいて、もう止められない。

年寄り揃いの政治家は、少子化を本気で解決する気なんてない。

数が多いのは圧倒的に年寄りの方だから若者高齢者に選挙でも勝てない。

大昔、天動説地動説のそれぞれを唱える学者対立をした際、最終的には地動説が正しい学説として認められた。

天動説を唱える古い学者が、地動説を唱える若い学者の言うことを受け入れたわけではない。

天動説を唱える古い学者が全員死んで、地動説を唱える学者への世代交代を発生しただけだったそうだ。

現状を変えるには、世代交代が実現されるしかないのかもしれない。

からどうしても、タイトルのような考えが頭をよぎってしまう。こんなことを考えてるなんて知られたら軽蔑されるなんて分かり切っているけれど。

けれど、このまま経済の低迷が続いて、困るのは若者だし、守られるのは高齢なのは明白だ。

だったら、若者はいったいどうすればいいの?

2021-05-15

メモ選手応援したいがオリンピック続行はヤバいというジレンマ

これはある意味典型的認知的不協和なんだろうな。

あるいは、オリンピック続行に反対だが、選手応援したい、というジレンマ

全国的感染が急拡大する中、こうしたジレンマに悩んでいる人、多いと思う。

wikipediaによると以下。

認知的不協和とは、人が自身認知とは別の矛盾する認知を抱えた状態、またそのときに覚える不快感を表す社会心理学用語アメリカ心理学者レオンフェスティンガーによって提唱された。人はこれを解消するために、矛盾する認知定義を変更したり、過小評価したり、自身の態度や行動を変更すると考えられている。

オリンピックに反対であるがゆえに、応援もしない、さらには選手軽蔑する、という形で自分自身の内心の一貫性を持たせようとする心的な傾向は、まさに日的不協和典型例なんじゃないだろうか。

しかし、近代社会というのは、個々人の内心が一貫していることを求めるものでもなく、むしろ個人の好みと社会にとって正しいと思うことがぶつかり合うことを前提とした制度設計がなされている。

例としては、うなぎ大好物だが、乱獲は抑止すべきだ、とか、プラスチックは便利だがプラスチックごみ規制すべき等も思いつく。

自分欲求社会のありようが完全に一致しているひとはまずいないだろうし、ありとあらゆる社会問題は、自分なかに矛盾した形である、個々人の選好と個々人の描く社会の在り方(正しさ、善)を調整する営みなんだろう。

うなぎの例でわかるように、「したいこと」と「よいこと」が矛盾した認知的不協和というのはごく当たり前の心理状態であり、大好物という認知と乱獲防止への政策支持の不一致を解消する必要はない。

うなぎは好きで食べるけれども、乱獲防止政策に賛成という態度はあって当然のこと。むしろこの二重性がなければ、公共判断は成立しない。

うなぎを食べながら規制に反対する、というのも、認知的不協和の解消方法ひとつといえる。人々が矛盾を抱えたままで「正しいこと」に合意し、公共判断を下せるのは、とても合理的制度設計だ。

しかし、人間心理矛盾をなんとか解消

公共的な意思決定は、決して個々人の選好の集合や多数決ではない。

そう考えると、現代民主政が直接ではなく間接民主制なのか、納得がいく。

個人的には好きではないけど自分社会の在り方として正しいと思っていることを代表者が討議し、社会として選択する、という場が必要になる。

そうなると、意思決定者にも、討議に参加する代表者にも、欲望だけに囚われない、人間的にも理性的にも分別のあるマトモな人間であってもらいたい。

近代民主主義を築き上げた初期の人たち、例えばアメリカ建国者のひとりジェファーソンは、

公共的な討議の場を設定するためには、市民としては、そういう矛盾する認知を整理し、公共課題自分欲求から分けて考えることができる分裂症的気質こそ、民主政必要市民資質だと考え、他方、代表者議員)に必要資質アリストクラシー自然的貴族)と呼んだ。

しかし、一般市民としては、自分のなかの矛盾に耐えられない、というのが当たり前。

社会はこうあってほしい、という思いと、自分はこれが好きだ、という、ふたつの矛盾する認知に直面したとき

ふつうの人々は、自分内面を整理するために、どちらかの認知一貫性を持たせるよう、知らず知らずに認知修正してゆくことになる。

今回のオリンピックの例でいえば、特に運営側の闇の側面をいやというほど見せつけれられてきたので、人々のオリンピック嫌いが加速し、中止または延期の世論は7割以上になった。さらに、自分のなかでの論理的一貫性を保つために、選手にも賛同しない、という考えすら生まれてきたのは周知のとおり。

オリンピック選手に対するある種の攻撃的な感情は、こうして醸成されてゆく。

社会規範に合わせて自分に対して一貫性要求しがちな日本人特に自分欲求我慢するのはストレスなので、場合によっては、自分だけではなく、他人にも一貫性を強く要求するようになるからだ。

別の例を挙げれば、60年代セクト化が加速したサヨクの動きが典型例。

エスカレートした「総括」要求など。

また、原発反対するなら電気使うな、オリンピック反対するなら、テレビをみるな、といったよくある論法も、同じ認知一貫性他人に求める一例。

サヨクのみなさんは、極端に走り勝ちで、じゃあ電気をつかわない、といって原始人のような生活を始めたりもしてしまう。

自分のなかで一貫性を持たせようとして、あえてオリンピックをみない、応援しないといった姿勢を貫こうとする人も少なくないようだ。

まさにこれが心理学が扱う認知的不協和テーマなのだろう。

党派性それ自体は、個々人の選好が異なれば自然発生的なものだろうが、

それが過激化するのは、認知的不協和へのストレスのほかに、もうひとつ社会的な原因がありそうだ。

ますます両極化が進んでいき、相手方一貫性のなさを批判し合うようになるまでには、認知的不協和を解消しやす立場の人とと

そうではない人たちとの分断が背景としてあるのかもしれない。

認知的不協和を解消しにくい人々。解消しやすい人々。

コロナ対策では人流の抑制課題なので、パンデミックが始まった一年前、ステイホームが大きく取り上げられた。

しかし、ステイホームできない、したくない人たちの現実、そして経済再開を望む多くの圧力を前に、

次第に言葉の力は失われ、今では行政政治家も口にしなくなってしまった。

もっとも同時に、自粛警察あんまり姿をみなくなったのは喜ばしいこと。

ステイホームができる人と、できない人の立場の差。それを声高に叫べば叫ぶほど、軋轢を生み、社会の分断が加速する。

思い出すのはベトナム反戦運動ベトナム反戦真っ盛りの60年代アメリカブルーカラーと呼ばれる労働者階層が、ベトナム反戦に熱を上げる若者たち

反感を抱いたのは、自らは徴兵されず、安全場所から口だけ反戦を叫ぶやり方が気に食わなかったからだ。

コロナ禍でのステイホームムーブメントでも、それと似たような分断が生じたように思う。

自粛、在宅など社会に貢献できる人々と、ステイホームという形では絶対に貢献できず、むしろ足を引っ張ってしまうようにも見られてしま業界

それが特に浮き彫りになったのが、エッセンシャルワーカーというカテゴリからこぼれ落ちた飲食業界だ。

オリンピック選手もまた、一般人以上に、社会安全自己実現との間の認知的不協和に引き裂かれ、なおかつ、オリンピック反対派の標的にされるという意味では、深刻な犠牲者だろう。

以上の話は、人々のジレンマ構造的にとらえたらどうかな、という試みだけど、

自分自身が考えた正しさは、オリンピック賛成であれ、反対であれ、現在自分社会立場のなかで認知的不協和を解消しやすい形で論理化されたものであり、

自分自身党派性無自覚であってはいけない、

知らず知らずに自分の都合のいいように、正しさの論理的一貫性アピールされているに過ぎない。

しかし、そんなふうにと口でいうのは簡単だが、ふつうはそんな悟りを開いたようなことはいえないし、そんなもの誰とも共有されない。

重要なのは、こんなふうに構造化して達観する、というか、悟りを開け、ということじゃなくて、

相手立場を知る、という機会自体重要なんじゃないかな。

オリンピック観戦は選手の思いを知る絶好の機会。オリンピック反対がトーンダウンした、という論調もあるようだけど、

そうではなくて、自分的には反対は反対だけど、選手たちの置かれている立場もわかって、攻撃性が選手に向きにくくなったということだろう。

飲食でも、これまではタレコミにも怯え、苦しめられてきたけれど、最近は、ある意味、腹を括ったお店も多い。

タレコミも減ってきたという声もきかれる。

こうした寛容さは、行政飲食業界への不十分な手当が報道されたり、飲食の場で実感することで、人々の認知が再修正された結果だと思う。

人々の認知には多様性が生じるものの、異なる立場の姿が可視化されることによって、自分のなかで矛盾する二つの認知をよりクリアに整理することにつながる。

しかし、人々の寛容が進めば、自粛警察抑止力を期待した政策は効力を失う

こうして考えてみると、自粛要請ベースとした日本流政策は、人々の認知が多様になるとかえって不都合なのがわかる。だからこそ政権与党は、人々が同じ方向を向きやすタイミングを狙って、オリンピック直後の選挙を好機とみたりするのだろう。

自粛要請は、政策決定(ルール)に従う形で自分自身の好みという認知的不協和を解消しようとする日本人メンタリティと、同じ社会構成員にも同じ一貫性要求したがる相互監視ムラ社会的なメンタリティが合わさって発揮して初めて効果的だといえるけれど、昨今のオリンピック運営のゴタゴタにみられるように、公共的なルール判断への人々の不信感が強まると、必ずしも政策決定者に都合のいいような仕方で人々が一丸となって、認知的不協和を解消してくれるとは限らなくなる。

ましてや大阪市市長さんのように、それを体現たかのように

感染者がいなければオリンピックもやっている。一生の思い出に残る行事実施したい

などと、都合のいい解釈認知的不協和の解消を政策決定者自らが行うとなれば、

人々は、ルールへ従うことの意味不明瞭になり、ああ、結局、好きなようにやっていいんだな、という思いを強め、相互監視機能せず、自分生活を変えることなコロナへの懸念自分認知のなかで両立させてゆくだけだ。

しかし、現実には、2020年4月に実現した日本人一丸となったステイホームは夢のまた夢だし、飲食業界は我慢限界をとっくに超えているしで、

人々はデルタ株猛威の現実にピンときておらず、人によって温度差のある、かなり適当自粛をしつつ、コロナから目を背けられる絶好の機会とばかりにオリンピックに夢中になっている。

自粛に頼った政策は、結局のところ、オリンピックへの賛否が開催とともに揺れ動いてきたことに典型的に表れているように、認知的不協和の解消の仕方に多様性が出てきた瞬間、崩れ去ってゆく。「コロナ心配、、、」といいつつ普段通りに暮らす人々であふれかえるだけだ。

本来政策というのは、そんな人々の認知世論)など無関係に、討議されるべきであるし、人々は討議の結果に対して法的な拘束力を受け入れるべきだ。

例えば、自分の考えと相反していても、オリンピック応援しているし、これからもしたいが、もし中止という政策決定がなされるならやむを得ない、

あるいは、オリンピック懸念しているが、もし続行という政策決定がなされるならやむを得ないという態度でいられるほどに、政策決定者への信頼が重要になる。

「ほらみろ五輪楽しんでいる奴らが増えただろ」などという次元政策を決めるべきではない。

しろ個人としては五輪は楽しんでいるけれども、政府には感染対策として中止するなら、中止を決定してもらいたい」という、ジェファーソン流にいえば分裂症的な市民判断を見極めたほうがいい。

しかし残念ながら、いまの政権にはそうした信頼が全くといっていいほどない。

いつどんな判断をするか、全くわからない。データは出さない。モニタリングもしない。事実に基づかず楽観論でしか答えない。

将来シナリオを示さない。予測分析を共有しないから、いつも唐突首相が何かを決心したかのように物事が決まって、人々がついていけなくなる。

ある意味ガバナンスの基本ともいえる、こうした事柄に目を背け、

政策への信頼を、世論(最大多数の認知)で推し量ろうとする、その姿勢こそが日本ガバナンスのガンだと思う。

2021-05-10

弱者男性です。なぜ理解のある彼くんが叩かれたのかを書いてみます

anond:20210509075626

あなたの大嫌いな弱者男性です。

KKOとまではいきませんが、とっくに成人しているのにいまだ交際ゼロ人間ですから恋愛弱者としては上等かと思います

自分で言うのもなんですが、顔の造形の悪さには自信があります

性格の悪さにも同様に自信がありますが、性格が悪いゆえに仕事をする上で取り繕える程度には困っていませんし

それも自称しかないので、実態がどうなのか、それで生活が本当に上手くいってるのかはご想像におまかせします。


弱者男性に随分と憎しみを向けられていたようですが、真摯文章を読ませていただきました。

読んでいるうちに、以下の2点が頭に浮かびました。

・「理解のある彼くん」をあげつらって批判していたのは弱者男性だけに限った話ではない

そもそも理解のある彼くん」持ちは非難されても仕方のないことをしでかしている

今回は「望むところだ」ということで、後者を重視して書いてみます

あくまで、「理解のある彼くん」持ちとハンデを持つ女性は完全に同一では無いという見解であり、

以下はハンデを持つ女性全てを批判しているものではありません。

これから記載している内容に反論がありましたら遠慮なくご指摘ください。


理解のある彼くん」は当事者エッセイ漫画から可視化された

理解のある彼くん」は、何も最初から障害病気のハンデを持つ女性攻撃するために産み出された単語では有りません。


それは障害病気のハンデを持ちながらもそれらに向き合いながら生きている、ということを綴った女性達のエッセイから概念発見されました。

ネット複数の作者の漫画の「理解のある彼くん」が登場するページを1枚にした風刺画像を見たことがあるでしょうか?

まるで判を押したように展開が同じなのです。

エッセイということは実体験でしょうから、細かいところは省いたりフェイクを挟んでいる可能性があるとは言えど大筋はノンフィクションでしょう。

「なんだかみんな展開が似たりよったりだぞ??」と気づかれだしました。


この指摘については、何も弱者男性だけから発信されたわけではありません。

女性作家からカウンター的にエッセイ漫画で指摘されているものでもあります

この指摘で耳が痛かったならば、弱者男性だけを敵視するのは誤りであると言えるでしょう。

あなたがたが敵に回す範囲軽蔑すべき範囲本来もっと広いはずです。

それをすることができない、いや認知しようとしないのは何故でしょうね。


理解のある彼くん」そのものが、ハンディキャップ持ちの女性でも人生がイージーだと決めつけたわけではない

全ての女性が「理解のある彼くん」を得られるとは思っていませんし、

理解のある彼くん」を得ることが誰であっても簡単だとも思っていません。


今度はそのエッセイ漫画前後のページに問題がありました。

すぐキレる、情緒不安定になり周囲に当たり散らす、それらが病気障害によるもので苦しんでいる――――――。

いかにハンデを抱えて生活することが大変か、という点で綴られていましたが、

自分」が大変である、という視点のみで描かれていることが多いという感想を持ちました。

健常者視点で思いやりもへったくれもなくて大変恐縮ですが、

綴られているケースのうち、同情すべきものももちろんありましたが、

いくつか幼稚過ぎて理解できない行動も含め、都合よく正当化されているように見えました。

(それだけ的確な判断力を持ち合わせられないぐらいに根深病気である、というのを私が理解できなかったのかもしれません)

しかしながら、作者は過去のことを反芻しエッセイに仕立ててるうちに、再考して思うところがなかったのかなと考えています

ウソを書けということでなく、ぼかすなり内省の補足をするなりあるはずです。


上記は私個人の感想ではありますが、エッセイ漫画を通して「女性はハンデ持ちでもイージー」というネット上の共通見解が得られたのは、

私と同じような感想を持った人が多かったのでしょう、と勝手に推察しております

理解のある彼くんがいるから」ではなく、「理解のある彼くんだって出来る上に、そもそもこんな認識で生きているから」と思っているのです。


「私が弱者男性故に対象女性というだけで色眼鏡で見ている」、そう思われるかもしれませんが、

他で消化器系を長く患われている女性作家さんのエッセイではその苦労や辛さに深く同情し、何一つ批判的な感想を抱きませんでしたし、

精神を患われている女性作家さんでも「理解のある彼くん」に疑念を持っていた方のもの

特に前後でも病気理由にした問題行動の正当化を感じる部分もありませんでしたので、

やっぱり「理解のある彼くん」の登場があるエッセイ作家さん達だけが悪目立ちしているように見えました。


本来努力し、助け合い、思いやりを持ちつつも懸命に生きるハンデを持った女性たちという

決して揶揄物笑いの種にすべき存在ではないものについて、これだけマイナスイメージを持たれてしまったのは、ここにあります


ここでは「理解のある彼くん」に絞って女性の話をしていますが、

もちろん「甘ったれ男性」がいることも否定しませんし、弱者男性の中にそういった部類の人間がいることも承知しております

同じく非難されてしかるべきでしょう。


漫画のせいにするのか?という疑問もあるかと思いますが、

ハンデを持った女性リアル理解する上で、当事者の知り合いがいるという人もなかなか少ないでしょうし、

そもそも当事者はむやみやたらに打ち明けることは無いでしょう。

自分病気のことを顔を合わせる周囲の人間にベラベラ喋ることがありますか?

そんな「リアル」で認知されることが少ない状態では、ネットの発信力が強い現代において、

エッセイの「悪い意味で最もキャッチーな部分」によって認識を悪い方向に塗り替えられてしまった、というのが今の状況かと思います


本当に恨むべきは誰か、理解してきましたか


同情

それでも、結果的に「女性はハンデ持ちでもイージー」という結論

十把一絡げにして非難対象になってしまった「まともにハンデと向き合っている女性」への誤った非難があったことは否定しません。

大変不快な思いをされたことでしょう。心中お察しします。

何故止めなかったのか、何故助けてあげなかったのか。何故咎めなかったのか。

貴方が、貴方達が弱者男性を助けなかったのと同じ理由ですよ。

でもそれは「過去に助けてくれなかったから、同じように助けなかった」ではないです。

そもそも、「弱者男性を助けなかった理由」でなく「〇〇を助けなかった理由」というべきでしょうか。


ですから、「弱者男性精神障害女性サンドバッグにしてきた」という結論

十把一絡げにして非難対象にすることも咎めきれないですね。

それが誤った非難であるのか、今からでも再考するかは貴方自由にしてください。

ここまでで弱者男性だけへの恨みの炎が更に燃え上がったとしても、それも一つの結果かと思います

2021-05-09

いわゆる汚言症

ttps://b.hatena.ne.jp/entry/4703950585803320002/comment/takamasa9294

いや、最新のエアコンでも18度設定で最大風量にしたら同じかそれ以上に冷えるよ。くだらない懐古趣味で使い続けるのは自分の懐にはもちろん社会的にもマイナスしかない

くだらない懐古趣味マイナスしかない、ね。

「キャッキャ言ってるバカどもにはわからないだろうが」的な上から目線

古き良き時代思考停止している愚民の群れ。

本質的なことも何一つ分からない浅はかなクズ

そんな見下しと自意識がダラダラと漏れている。

社会的環境負荷をかけることを良しとしないのなら、もっと言いようはいくらでもある。

でもそれは手段であって目的でないのね。

社会マイナスなんて本当はどうでも良くて、

「くだらない懐古趣味」をしている奴らを蔑みたくて貶したくて仕方がない憎悪が一番の目的

吐き捨てるような軽蔑がありありと浮き出ている。

はてなはこうした憎悪巣窟なのだ。―――

2021-05-08

平清盛に置き換えてみた

池江 璃花子 on Twitter: "いつも応援ありがとうございます

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/rikakoikee/status/1390638021943316482

ブコメが酷いので平清盛に置き換えてみたりしといた。

出家できるのに太政大臣してる平清盛との対比。

平清盛置換バージョン

「そうか、君らアスリート国民がどんだけ死んでも自分たち競技勝利と栄達だけが大事なんだな」ってリプつけにいかないと

「そうか、君ら平清盛農民がどんだけ死んでも自分たち仕事生活と栄達だけが大事なんだな」ってリプつけにいかないと

自分利己的な小人物」との告白だね。辞退は金メダルよりも価値があると思うので、シンプルに勿体ないと思う。

自分利己的な小人物」との告白だね。出家叙勲よりも価値があると思うので、シンプルに勿体ないと思う。

軽蔑する。何もできない?太平洋戦争徴兵された兵士か何かか?拒否したら憲兵に殺されるのか?

軽蔑する。何もできない?源平合戦徴兵された足軽か何かか?拒否したら奉行衆に殺されるのか?

飲食演劇その他色んな職業の人だって人生賭けてて、コロナと戦うために色んな犠牲払ってる中で、アスリート無罪は俺は受け入れられない。自分意思も示さずってのは無責任すぎる。誰だって頑張っている。

飲食演劇その他色んな職業の人だって人生賭けてて、末法思想と戦うために色んな犠牲払ってる中で、平清盛無罪は俺は受け入れられない。自分意思も示さずってのは無責任すぎる。誰だって頑張っている。

競技団体が動くべきだとは思うが、選手も誰一人何も言わないのはオカシイと思うよ??スポーツ団体にも税金は使われてるし、ワクチン医療ボランティアの話に何も思わないと??

帝が動くべきだとは思うが、平清盛も誰一人何も言わないのはオカシイと思うよ??朝廷公家にも年貢は使われてるし、飢饉鎮護国家の話に何も思わないと??

矛盾するようだが、例えば池江選手個人」に「辞退しろ」と迫るのは絶対反対する。ただ、この五輪に全面賛成する選手は、俺は唾棄すべき存在だと思うし、仮にメダルをとっても軽蔑する。

矛盾するようだが、例えば平清盛個人」に「出家しろ」と迫るのは絶対反対する。ただ、日宋貿易に全面賛成する平氏一門は、俺は唾棄すべき存在だと思うし、仮に宋銭をとっても軽蔑する。

自ら行動してみろバージョン

平氏一門の官位上昇を物語として消費された上に源平合戦マスコットのような存在にさせられてしまたことはとても気の毒なのだが、「平家にあらずんば人にあらず」というのは自分の影響力を過大評価していると思う

アスリート朝廷でいえば平清盛に過ぎない、辞退したら食っていけない、というブコメには賛同できない。公家が反朝廷活動をしていたら出家すべきだ。しか日宋貿易朝儀ですらなく一つのイベントに過ぎない。

平清盛が「平家にあらずんば人にあらず」というのは自分の影響力を過大評価していると思う

匿名戒名晒すだけで出家になるかもよ?

出家できるのにしない平氏一門は「反朝廷活動」じゃないの?さっさと切腹してね。

最後に置き換える必要もなかったバージョン

平清盛なのはわかるけど、平清盛でもやれることはあると思うぞ。

そうだな


anond:20210508032456

オリンピック選手批判は本当に間違っているのか?

最初に断っておく。

今回の主題は「オリンピックを開催するべきか?」ではない。

いや、私はオリンピック開催には否定的なのだが、言いたいのはそこじゃない。

ここでは「オリンピック道義的問題があるときアスリート批判は間違っているのか?」について話す。

下衆の極み俺ら

池江選手ツイッターに長文を投稿したこと話題になった。

どうやら池江選手に「五輪出場を辞退して欲しい」とか「五輪開催に反対して欲しい」というリプライが届いて戸惑ったらしい。

おーけーおーけー。そりゃ確かに戸惑うだろう。

簡単に「じゃあ五輪辞退します!」とはできない。それだけ選手は多くのものを背負っているからだ。

この話題に対して俺らのアルピニスト 野口健が次のような投稿をした。



『下 衆 の 極 み』

凄まじい表現だ。普通は血の通う人間に向かってこんな言葉をチョイスしない。

アルピニストの強い怒りが感じられる御ツイートだが、ちょっと待って欲しい。

本当に五輪開催の有無についてアスリート意見を求めてはいけないのだろうか?

というかアスリート五輪開催について社会的責任を負うのではないだろうか?

少し考えていこう。

抗議のために試合を辞退した大阪なおみ選手

今回の報道を受けて思い出したのは昨年のW&Sオープンを辞退した大阪なおみ選手

彼女人種差別に抗議するために試合を辞退し、これを受けた大会側が正式人種差別に抗議することで一件落着となった。

当時も散々議論になった大阪選手のこの行動について強調しておきたいことが2つある。

ひとつは、これは大阪選手だけでなくバスケ野球など多くのスポーツ同時多発的に起きたムーブメントであること。

そしてもうひとつは、別に大会主催者人種差別を行ったわけではないということだ。

まり大阪選手を含むアスリートたちは「大会人種差別への抗議声明を出さないのは道義に反する」と考え行動を起こしたのだ。

もう少し視野を広げてスポーツの外も見てみると、このような話はたくさん出てくることがわかる。

例えば今年の3月に、グラミー賞会長女性蔑視発言人種差別的な審査基準理由に、3組のアーティストグラミー賞ノミネートを辞退した。

(元会長女性蔑視発言ときいて何かを思い出さずにはいられない)

主催者側に道義的問題があるとき参加者がその問題について黙っていていいのだろうか?

少なくとも海外アスリートアーティストは「No」だと答えるだろう。

沈黙したまま大会に参加するのは道義的問題肯定していると考えるからだ。

感染拡大におけるアスリート責任は?

森前会長が辞めたことで、女性差別という問題は(建前上の)解決となった。

寒々しい解決ではあるが解決解決。これで五輪に参加するアスリート差別加担者の誹りを免れることができた。

ならこれで万事OKだろうか?もちろんそうではない。

いま問題になっているのは五輪開催による感染拡大、つまり大会主催者側の人命軽視の姿勢

この感染拡大問題アスリートにとってより直接的な道義的責任が発生する。

なぜなら人々はあなたたちアスリート応援するために密になり、感染が拡大し、人が死ぬからだ。

アスリートはそのことをわかっているはずだ。わかっていて、しかし見てみぬふりをしながら大会に参加する。

そして、人が死ぬ

もちろんそうはならないかもしれない。

五輪開催時にはコロナはすっかり収まっていて、みんなで肩組んで国歌を歌いながら応援するかもしれない。

だがそんな馬鹿げた楽観論で行動するようならアスリート失格だと言わざるを得ない。

そもそもアスリートのための大会なはず

いまはすっかり寒々しい響きになってしまったが、五輪は「アスリートファーストである

建前上は頑張るアスリートのために五輪は開かれるのだ。

アスリートのための大会なのに、アスリート五輪開催について意見を求めるのが"下衆の極み"なのだろうか?

いつからアスリートはそんな特権的職業になったのだろう?

まだ幼い高校野球青年ならいざ知らず、いい大人自分の行動によって与える社会的影響について無知でいていいはずがない。

五輪あなたたちアスリートのために開催されるイベントだ。

そしてあなたたちアスリートには、海外アスリートがそう示したように、大会主催者を動かすだけの影響力がある。

その責任と影響力を認識しておきながら「自分たちはただ競技に集中するだけです」という態度は許されて、

アスリートにその影響力を行使して欲しいと願うことは"下衆の極み"なのだろうか?

私は"下衆の極み"だと切り捨てられた人々の気持ちがわかる。

もうすぐ90歳になる私の祖母はい東京に住んでいる。その東京にいま五輪という名の変異フェスがやってこようとしている。

それをなんとかして阻止したい。その気持ちが私には痛いほどわかる。

オリンピックは聖域

言いたいことは大体言ったので少し感情的なことを書き殴る。

ここまで読んでくれてありがとう。以下は読まないでもいいよ。

オリンピックのむかつきポイントは多すぎて何から言っていいかからないが、

ひとつには「オリンピックを聖域にしていること」が挙げられると思う。

私たちはこれまでどれほど「オリンピックから」と我慢を強いられてきたのだろうか。

オリンピックから」の一言で我々は楽しみを奪われ、ただ働きさせられ、汚職利権沈黙させられ、そしていま命までもが軽んじられている。

オリンピックを聖域にした結果がこれだ。

そして野口健の「最もやってはいけないのはアスリートにその刃を向けること」という発言も、その聖域の延長にあると私は考える。

はっきりいって、これがオリンピックでなかったら多くの選手が声を上げていたはずだ。

しかオリンピックからオリンピック特別しかたのないことだからアスリートは人命軽視にすら抗議しない。

それどころかオリンピック選手までもを聖域化して、それを批判する行為を"下衆の極み"だと断ずる。

アスリートがなぜそんな特権的地位にあるのか私は理解に苦しむ。

頑張っているから?頑張っていれば批判されない特権を得るのか?

ちがう。

アスリート経験的に、頑張ってさえいれば自分批判されにくいことを知っているのだ。

批判されないか五輪道義的問題があっても目を瞑る。

どうせ日本人馬鹿から始まってしまえば感動して自分たちを称賛するだろうとわかっているのだ。

だが、少なくとも私は、もしも五輪開催によって私の大切な人の命が失われたら、全てのアスリート軽蔑スポーツを強く憎むだろう。

追記(5月10日

読んでくれて、そしてコメントをくれてありがとう

上記文章最後に「全てのアスリート軽蔑スポーツを強く憎む」と書いたせいか

スポーツマンvsスポーツ苦手マンといった構図のコメントがついてしまった。

やっぱ軽率な書き方をすると良くないね反省

この構図は、当然ながら私が意図したものとは違う。

個人の話をするならスポーツは好きだ。素朴に体を動かすことを楽しいと感じる。

ではなく、私が言いたいのは「見る人に元気を与える」という名目の元で行われている産業スポーツ

それらスポーツに関わる者は本当に批判してはならない聖域なのだろうか?ということだ。

個人スポーツ好きだろうが嫌いだろうがそんなことはどうでもいい。

私は、普段は「見る人に元気を与えたい」などと吹聴しているアスリート

元気以外に与える自分の影響力には無関心であることを、たまらなく気持ち悪いと感じるのだ。

受験生に置き換えてみた

anond:20210508032456

池江 璃花子 on Twitter: "いつも応援ありがとうございます

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/rikakoikee/status/1390638021943316482

ブコメが酷いので受験生に置き換えてみたりしといた。

入試辞退できるのに受験する受験生との対比。

受験生置換バージョン

「そうか、君らアスリート国民がどんだけ死んでも自分たち競技勝利と栄達だけが大事なんだな」ってリプつけにいかないと

「そうか、君ら受験生国民がどんだけ死んでも自分たち学歴合格人生けが大事なんだな」ってリプつけにいかないと

自分利己的な小人物」との告白だね。辞退は金メダルよりも価値があると思うので、シンプルに勿体ないと思う。

自分利己的な小人物」との告白だね。入試辞退は合格よりも価値があると思うので、シンプルに勿体ないと思う。

軽蔑する。何もできない?太平洋戦争徴兵された兵士か何かか?拒否したら憲兵に殺されるのか?

軽蔑する。何もできない?太平洋戦争徴兵された兵士か何かか?受験拒否したら憲兵に殺されるのか?

飲食演劇その他色んな職業の人だって人生賭けてて、コロナと戦うために色んな犠牲払ってる中で、アスリート無罪は俺は受け入れられない。自分意思も示さずってのは無責任すぎる。誰だって頑張っている。

飲食演劇その他色んな職業の人だって人生賭けてて、コロナと戦うために色んな犠牲払ってる中で、受験生無罪は俺は受け入れられない。自分意思も示さずってのは無責任すぎる。誰だって頑張っている。

競技団体が動くべきだとは思うが、選手も誰一人何も言わないのはオカシイと思うよ??スポーツ団体にも税金は使われてるし、ワクチン医療ボランティアの話に何も思わないと??

大学が動くべきだとは思うが、受験生も誰一人何も言わないのはオカシイと思うよ??大学にも税金は使われてるし、ワクチン医療ボランティアの話に何も思わないと??

矛盾するようだが、例えば池江選手個人」に「辞退しろ」と迫るのは絶対反対する。ただ、この五輪に全面賛成する選手は、俺は唾棄すべき存在だと思うし、仮にメダルをとっても軽蔑する。

矛盾するようだが、例えば受験生個人」に「辞退しろ」と迫るのは絶対反対する。ただ、入試に全面賛成する受験生は、俺は唾棄すべき存在だと思うし、仮に合格したとしても軽蔑する。

 

 

今年の3月は何事もなく受験が執り行われましたね^^

何十万人もかかわる一大イベントだったわけですが、来年は中止すべきかな?

2021-04-26

anond:20210426202657

いじめ問題が明るみに出ないよう

教師隠蔽工作するから

今や教員聖職者じゃなくなった

教員ってだけで軽蔑しそう

婚活とか合コンとかよく参加できるね軽蔑するわ

わたしあなたセックスしたいです

セックスする相手をさがしてますってよくもまあ堂々と公言できるね?

人間じゃなくてもうケモノだよね

ケモナーになろうか

2021-04-25

選挙って分断を生むよな?

自分と違う投票行動をした人のことを馬鹿にしたり、軽蔑してお互い敵対しあうよな。

曖昧状態を許さず誰が味方で誰が敵をハッキリさせてしま選挙が怖い。

2021-04-23

anond:20210423221344

哀しく惨めな話だが、年齢の近い女で自分相手をしてくれるのは姉しかいなかったんや

それこそ負の性欲全開で俺を軽蔑してくるが、家族故の温情や連帯を感じる瞬間はあった

その一遍の煌めきが、世界のどこかに姉弟家族と男女の絆を同時に育んでいる、何よりも強い繋がりを持っている神に近しい存在があるに違いないという信仰を俺にもたらしたんや

故に姉弟モノにしか愛の存在を見いだせなくなってしもうた

  

最近はあらかたの姉弟相姦系の創作物自分の中で飽和してしまたか

理想の姉像を集約したお姉ちゃんを作り出し、その弟を新たな命を与えられた自分としたオリジナル同人誌を作り出している

しかしその願いも渇望も報われることはない、渇きが満たされることはないだろうという確信は常に心のどこかにあって、その焦燥感はかなりの苦しみや

だけど俺は姉弟に愛を見出し続ける生き方しか手に入れられなかったんや。故に今日姉弟モノに祈りを捧げながらしこってる。きっと明日も。

anond:20210423212752

多分私も同じ会社なんだけど、うちの会社の人「何でも気軽に言ってきていいよ!」「率直に仕事しよう!」みたいなスタンスなんだけど、ふとした時に気軽に「軽蔑するけど」みたいなな言い回ししてきて疲れてしまう時がある

何故か心理的安全性低いなと思ってたんだけど理由分かったよ

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