はてなキーワード: 癌治療とは
今年本厄。
全く信じてなかったところ、6月に仕事と健康の両方に瑕疵があった。
さすがに思うところあり、ここでぼやく。
これまで出てた手当の範囲が狭まって適用外になり、年収1/4減になった。
これはまあ分かる。
財務を少し見てたけど持ち直し無理そうだったし、ちょっとでも事業費削りたい会社にとって無用な人件費削減は定番だもんな。
この手当制度作った管理職も現役員の元愛人に追い出されて辞めてるし、近いうちになくなるなーと思って心構えはしてた。
適用外になった手当って転勤手当なんだよね。
転勤自体が滅多にない当社、手当狭めた直後に転勤命令?内勤職で動く必要性もないのに?
聞くと先の役員がいる都市部に転勤で、今いる部門をまるごと手元に置きたいらしい。
知らんがな〜。
癌になってたのが発覚。
幸い該当の臓器を取れば死なずに生き残れるステージらしい。ただ年齢的に罹患すること自体怪しいと検査を勧められる。
類似はリンチ症候群だそうな。フラジャイル読んでたから、該当エピソードを思い出しながら担当医の説明をぼんやり聞いてしまったのをちょっと後悔している。
医療の発展により一連の検査治療は健康保険適用だそうな。本当に足向けて寝れない。医療の方々、ありがとうございます。
本厄があることを知ってしまったので、とりあえず縁深い神社に厄除けに行ってきた。
調べたら厄年って不幸が降りかかる歳じゃなく、普通に生きてても健康が損なわれやすい年齢をそう呼ぶんだと。
自分じゃん。
仕事は治療優先として(役員に中指を立てながら)別会社に出向となった。
母は痴呆でほぼ空気、ていうか、成人病でカラダ壊して実家に戻った弟がそれから数年して両親の痴呆と末期癌に降りかかられて独りで奮闘している
ワイふくむ兄連中は地理的に遠すぎるためスルーてか世話は押し付けてお任せしとる
消化器系の癌切除をしたあと味覚がほぼ失くなり食事が摂れず体力が落ちた父にリンパ腺癌がみつかり再入院したが治療の苦しみに嫌気がさした本人が緩和ケアにしてくれと要望すると病院側は家族の同意を得てくれとのこと
弟としては何年も面倒をみて世話(食事を作るのが生き甲斐のようだ)をして来ているので諦めきれないらしくまだ頑張ろうといい、父と平行線
父からは弟を説得しろと電話がかかってくるし、弟にそう突き付けるのは彼の人生を否定するようでしたくない
父はちゃんと兄弟で話し合ってるのかと電話でツメてくる、医師からは家族で統一見解を持って来てくれないとどちらにも進められないと言われているそうな
お互いに地理的に離れて生活も離れてなん十年間、それって家族かねぇ…
身近なひとがしんでいくのってなんてめんどうなのか
ホルモン療法して今ちょうど半年くらいであと5年はやらないといけないんだけど太るし筋トレしまくっても痩せないし
なんなら筋トレの量を増やすほど体重も体脂肪率も上がるので好きな服も着れないし馬鹿らしくなってきてもう治療やめたい。
癌のくせに太る?笑みたいにしか思われないのも癪。そういう奴らをひとり残らず引っ叩いて肝がんステージ4にしてやりてえわ。
学生時代は服飾系の学科の子にモデルを頼まれるほどにスタイル良かったのにさ、BMIは今日20を超えた。
今まで着てた服が一つ残らず着れなくなってんのに悲しくないわけないだろ
お前が私のために全部服買い替えてくれるわけじゃないのに「それでも痩せてるほうだから」じゃねえんだよ主治医。てめぇも引っ叩いてやろうか。
今着たい服は今着たいのであって5年後に着たいわけじゃないし
ホルモン療法なんかやめて女性ホルモン(乳がんのエサ)増やして痩せやすい体にして運動しつつ好きなもの食べて好きな服着て好きなメイクして過ごしたい。
好きでもない体型を強要されて好きなことできない5年間なんかで寿命延ばすより
好きなことしてステージ4のどうにもならない状態の再発してとっとと死にたい
どうせ子どもも産めないし、そもそも生みたくもないし、パートナーもいないし死んだもん勝ちじゃん。
でも実際こういう選択した人ってどんくらいいるんだろうと思う
闘病記とかはあっても治療やめて人生楽し~!満足!死んだ!みたいな記録って見ないんだよなー
本人死んじゃうし、あまりおすすめする内容じゃないからだろうけども
あとこうやってイライラしたり落ち込んだりするのも薬のせいだとは思うけどそれも込みでとっととやめて死にたーい!
予めお断りしておくけれど、アドバイスが欲しいわけではないし、同情が欲しいわけでもない。
はてなブックマークやコメントツリーでなにかを言って欲しいわけでもない。
妻とは30年近く一緒にいる。
妻を手伝う、といえば聞こえは良いが私はそれまで漫画の「ま」の字も手掛けたことがなく、手伝いはしたものの、今だに作業の大半を妻がやっている。
私は凡人を絵に描いたような存在で妻に出会った頃も何をやっても上手くいかない人生だったから、妻と出会っていなかったら野たれ死んでしまっていたかもしれない。
いずれにせよ、妻は私と出会ってすぐにプロデビューを果たし、30年近く漫画を描いてきた。
・・・と言っても集英社や講談社のような有名な出版社ではなく、所謂レディスコミックと呼ばれるジャンルで描き続けてきた。
売上は、青色申告止まりの自営業、喧嘩も絶えなかったけれど、それなりに食べてゆくことが出来た。
そんな妻の仕事が、去年の秋に、ふつりと途絶えた。
30年近く仕事をし続けてきて、マンションを買える程ではないにせよ、数年間は何もしないで食べていけるだけの蓄えはある。
妻は仕事をするのは嫌いだが仕事をしていないと不安で仕方ないタイプの人間なので休むことを極端に恐れていたが、コロナが落ち着きを見せている状況の中、少し休もうよ、と説得をした。
普段味わうことのないゆっくりとした時間を満喫し、そろそろクリスマスの準備を、と思っていた矢先、妻が病院にいってくる、と言い出した。
聞けば胸に違和感があるのだという。
健康診断は毎年受けているし、心配のしすぎとも思ったが、検査を受けて何事もなければそれが一番だと思った。
だか、予想に反して大きな病院で精密検査を受けることとなった。
予約をしているのに長時間待たされ、時に部分麻酔を打ちながら数日間、検査を受けている。
乳がんのみならず、肺、肝臓なども「問題があるかもしれない」ということでチェックを受けた。
結果は来週以降だし、最近の癌治療はステージ1くらいなら数日の入院で治療を終えることが出来る場合がある、とも聞く
(聞いた話なので曖昧で申し訳ないし、この部分への「指摘」はしないで欲しい。まだ結果は出ていないのだから)
検査を終え、帰宅し、休んでいる妻の寝顔を見ると、今までのこと、そしてこれからのことを思う。
妻は今までのように働けるのだろうか。癌は再発しないのだろうか。
もし、妻が倒れたら私が働くしかない。
30年近く、妻の「手伝い」しかしてこなかった私が働けるのだろうか
もし・・・
もし妻が逝ってしまったら。
今回は「そう」でなくても、いつか「その日」は来るのだろう。
妻が私より先に逝ってしまった後、私はどうするんだろう。
死にたくない、という思いもあるが、生きている「意味」を見いだせるのだろうか。
生きるとは、働くとは、一体何なのだろう。
元増田です。こんなに反応があるとは思わなかった。コメントも、Twitterでの言及も色々読みに行った。「生きろ」と言ってくれる人が多くて驚いた。本当にありがとう。もうダメだなと思ったら、ここのコメントを見直しに来るよ。
実際にも多くの人が(特に医療関係者はそれが仕事とはいえ)自分を生かす為に動いてくれているんだよな。それだけでも生きないとならないのかもしれない。
ここに書いた話は友人知人にはしていない。癌になり、治療中だということだけを一部の人に告げたに過ぎない。こちらの希死念慮がずっとあることに気づいている奴はいるんだろうが、敢えて話題にはせずにいた。こんな話を一対一のメッセージでわざわざやり取りするのは、相手への負担が重たすぎるから。
それでも自分の中では、どうしてもどこかで吐き出しておきたかった。「転職活動より癌治療のほうが人扱いされるだけマシ」なんてリアルでは言えないからな。癌だとわかった時、転職活動をしなくて良い理由が出来て、ほっとした自分すらいる。そのくらい辛かった。
いずれは戻らないとならない。また履歴書にブランクがひとつ空いた。その理由を話せば企業はいい顔をしないだろう。これまでだってそうだった。
そうそう、会社員じゃなくても、健康診断や癌検診は自治体のものがあるからな。同年代のフリーは気にしておくと良いと思う。
自分は寛解まで何年かかるのか、たどり着けるかもわからない。それまでずっと癌とは付き合って行くのだろう。その度にこいつは自分に問うんだろう。「もう楽になりたくないのか」と。本当に自分の中の悪魔なんだな。
もうそういう年頃なんだよな。ご同輩よ、久しく近況聞いてないやつに聞いてみるといい。意外といるもんなんだよな。
2020年にクソ職場を辞めた。幹部からの恫喝が酷くて労基に相談行ったり色々やったけど、金と訴訟する根性がなくてズルズル続けていた仕事だった。コロナ対策などもないに等しく、テレワークなどの苦言を呈した直属の上司は裏切り者呼ばわり。心身ともに疲れ果て、このご時世に就活はきついと分かっていたけど辞めた。このまま続けていたら、どこかで感染してそっちで死んでいたかもしれない。
1年ほど、過去の職場繋がりで仕事を紹介してもらいながら、失業保険もろもろでなんとか食いつなぎ、転職活動に明け暮れた。しかし内定はない。
最近、身体に違和感を感じて検査に行ったら、癌が発覚した。去年の健康診断ではなんともなかったのだがな。今やただのフリーランスだからもっと早くに検査しとけばよかったのだが、感染症が蔓延る中、病院に行くこと自体のハードルがそもそも高かった。今となっては言い訳だが。
転職活動はいったん打ち止めにして、今は治療に専念することにしている。(もちろん標準治療一択だ。体験するとわかるが、あれは本当によくできている)
そもそも、自分の死因には自殺があるんじゃないかと昔からずっと思っていた。新卒時は卒業前ギリギリで地元の中小ブラック企業になんとか内定し、ド残業で心身ボロボロ。その後は何度か転職もして、いい職場もあったが、リストラや倒産もあり、その度に「死んでもいいかな」と思っていた。ここまでやってきてようやく40代半ば。履歴書なんてとっくに汚れまくっている。
その割に、いざ自分が「放っておけば死ねる」病になったとき、「いや生きたいぞ?」と思った。治療を選んだ。おかしなものだ。
病院は生きようとする人に答えてくれるんだ。前を向こうとすればちゃんとそのための手段を一緒に考えてくれる。人間扱いしてくれるんだよ、この自分をな。
今までの転職活動みたいに、これまで生きて積み重ねてきたことを否定されたりもしない。前を向こうとしている言葉を鼻で笑われたりしない。正直、転職活動やこの先の人生よりも、癌治療の方がずっとマシなんじゃないかとすら思う。久しぶりに連絡を取った友人知人も心配してくれる。こんなによくしてもらえると、病人としての身分に甘えて、自分が増長しないかどうかは常に気にしてしまう。
今は治療の途中だ。様々な公的補助は使わざるを得ない予定だが、それでも正直、カネはない。治療中は収入が途絶えているから。
「こんだけ治療を頑張って、その先どうするのだろう」と、夜に天井見ながら自問自答することがある。またあの、人を薄笑いして品定めしたり、時間も気合いも入れた応募書類を丸無視したりされる転職活動に戻らなければならない。今度は健康リスクを背負った中高年という肩書きがのしかかる。自分に仕事は、未来はあるか。
そうまでしてどうして自分は生きたいのだろう。生きる道を選んだのだろう。生き延びたことを後悔はしないとは言い切れない。
癌が見つかったとき、こいつがじわりと自分に問いかけた気がするんだよな。「お前、本当に生きたいの?」と。
なあ同世代。自分がこうなったとき、頑張れるか? この先、生きていたいと思うか?
【追記】
去年の秋に母親が亡くなった。
2019年の年末から「抗癌剤治療を辞めて終活をする」と言われていたので、ある程度覚悟は出来ていたしそこまで引きずらなかった。
でも母が亡くなって今まで母が守ってきたものって何だったのだろうと思うようになった。
母子家庭で一人っ子。祖父母は母が若い頃に他界。父親はDV気質だった為、私が物心つく前に離婚。
お金持ちという程ではないが、不動産収入があったので幼少期から苦しい思いはしてなかった。
小4の時母から「親戚の何人かにお金貸してる」と告げられ、それがおばあちゃん代わりになってくれていた人やお姉ちゃん代わりに遊んでくれた人だったのでショックだった。
その頃から親戚に対して少し軽蔑していたし、そんな親戚と仲良くしてる母親が理解できなかった。
大人になって母はこの親戚との関係を断つと孤立してしまうんだと気づいた。
祖父方の親戚とはとうの昔に縁を切ったらしいし、残すは祖母方のこのろくでもない親戚しかいなかったのだと。
私は田舎が嫌で16歳で家を飛び出して都会で一人暮らしをし、癌治療中の母をその親戚に任せっきりにしていた。(とはいえ母もずっと入院していた訳ではないので、任せっきりというのはおかしいかもしれないけど語彙力がないので何と書けばいいかわからない。)
なのでろくでもない親戚とは言えど感謝と申し訳ないという気持ちはある。
でも母が死んでしばらく親戚にお世話になっているとやはりろくでもないなと思った。
祖母代理を務めていた人の家に泊まっていたのだが、日数が経つにつれ「父親に似てる」「お前の父親は最低だった」なんて話をされた。
私は内心「遺書で母からまだ100万借金してんの分かってんぞ。けど母の良心に命じて何も言わんだけだからな。」と思っていた。思ってるだけでチキンなので何も言えないまま苦笑いしてた。悲しい。
また実家を売るとなった際に、その祖母代理の息子から「いい不動産屋を何件か紹介する。その代わり日給をくれ。」と言われた。
こちらは相続税バカ高くて、泣く泣く思い出の実家を売るのに金せびるんかい。
しかもお前の母親、うちの母親から借金してるんですけど?どの口が言ってんの?
と内心思ったが、チキンなのでまた何も言えないまま苦笑いして丁重にお断りした。
母が亡くなって一気に親戚関係が崩れた気がする。というか私が壊したのか?
相続手続きもひと段落して、一人暮らしの住居に戻って約半年経つがその親戚からは何の連絡もない。
母の同級生の方がよっぽど連絡してくれている。
親戚からすれば私が身勝手に飛び出して母を任せたんだからお金をせびったり、嫌味を言ったりしてもいいと思っているのだろうか。
でも任せた分、お世話代として借金はチャラにしてくれと遺書に書かれていた。
年2回は毎年帰省していたし、高校卒業し社会人になった後は親戚にもお礼としてご飯や買い物に連れて行ったりしていた。
私は母が守ってきた親戚との関係を壊したかった訳では無いのに、母というストッパーを失った事によってどんどん崩れていく気がしてならない。
幼い頃の親戚との幸せな記憶も、全て母の犠牲の上に成り立っていたのだと知ると居た堪れない。
母が守ってきたものって何だったのだろう。
追記。今までずっと漠然と不満に想い続けたことを言葉にし、区切りをつけたいと思って増田を書いた。
小さい頃から常に、うちは貧乏なのだと思い知らされながら生きてきた。母や祖母が、他の親がしてくれるようなことをしてくれないことにずっと、子どもらしい、幼稚な不満をずっと抱えていた。中学生ぐらいになって、だんだん母の苦労や世の中の「仕方なさ」みたいなものを理解出来る様になってきても、どうしてもその不満は消えなかった。どうして俺だけ、と考えないようにしても考えずにはいられないのに、それを口にすることの無意味さもわかっていた。嫉妬や幼稚な不満への対処法は、そういった負の感情を出来るだけ抑え込み、「仕方ない」と自分に言い聞かせて現実を受け入れること以外になかった。
大学に行けなかったことを残念に思っている。今更行きたいとも思えない。高3のあの時から何年も、行きたくても行けず悩み続けていた頃のことを思うと悔しい。
大学に行けなかったのは「母のせい」ではきっとない。母が父親に養育費を請求していたとして、みんな言う通り、父親は払わなかったんじゃないかと思う。きっと1番悪いのは無責任な父親だ。でも、払われなかったとしても、母が養育費を請求したという事実だけでもあったらよかったのにと思う。
島の外のどこにいるかも知らない父親に、どんな感情を抱いても仕方なかった。手当の額も、母子家庭のあり方も、政府や世の中が決めたことで、自分達には仕方ないないことだった。でも、母だけは仕方ない存在であってほしくなかったと未だに思うのは甘えかもしれない。
母には、何を言っても仕方ないと思う。母は視野が狭く頑なだ。自分の考えたくないことは考えない。島ではそういう人間でいた方が生きやすい。世間的に見てもあまり頭の良い人ではないんだと思う。でも、気配りができて集団に溶け込むのがうまい。仕事を辞めて余裕ができてからは近所付き合いも良好だ。
父親みたいな人間を恨むより、たった20万に感動したほうが幸せだと思う。
でも、そんな母を残念に思う自分もいる。自分と同じ怒りをほんの少しでもいいから持っていて欲しかった。20万で許さないで欲しかった。
ずーっと、金がなかった。暮らすのがやっとの生活で、大学受験を目前にし、やっと貧乏を抜け出せると思ったの矢先に現実に引き戻されてさらなる貧乏で。貧乏が辛かった。
父親が俺の養育費を払わないことを、俺に貧乏させるのを許す人間でいて欲しくなかった。
本文
10数年前の話だ。
母は俺を妊娠した経緯について語らなかったが、俺は中学に上がる前には、親戚やご近所さんなどからの噂話からだいたいのことを知っていた。母は専門学校に通っていた頃に避妊に失敗し、彼氏に逃げられたらしい。そして1人で産むと決意し、実家(離島でど田舎)に帰ってきた。
田舎だったから、そういったことはかなり噂された。「増田くんのお母さんは……ねえ?」とうすら笑いを浮かべながら言われたこともある。自分以外にも、片親家庭はいくつかあったが、それでも居心地の悪さは感じた。
当然のように、学もない母と仕事もない田舎で、うちは貧乏だった。祖母の僅かな年金と母子手当とスーパーのパートで家族3人で暮らしていた。建てた時は立派だったんだ。大工だった曾祖父さんが建てたんだとたびたび祖母に自慢された家は、台風で半壊した後ろくに修理されておらず、ボロくてとても恥ずかしかった。
俺が10歳の頃に、父親がひょっこり母に会いに来たことがある。本土にいた頃の母の友人の友人を辿って、連絡先を得て会いに来たらしい。ある日学校から帰ったら知らない男がリビングで自分のコップを使って麦茶を飲んでいた。俺の父親だという男はいかにも育ちが悪そうな、ピアスをつけたスーツの似合わない男だった。
そのとき俺は既にそいつが妊娠した母と、お腹の中にいた俺を追いて逃げたことを知っていた。その意味はまだきちんと理解していなかったが、いい感情は持っていなかった。男は、今は結婚して子供もいると言って写真を見せてきた。「ほら〇〇くんの兄妹だぞ。かわいいだろう?」と猫撫で声。男の子と女の子で、3歳?と1歳だったと思う。小学生の俺には、怖そうな見た目なのに子煩悩丸出しな男が奇妙で気持ちが悪かった。父と息子の感動の再会なんてことになるはずもなく、その男はその日隣町のホテルに一泊して、島を離れた。
後から聞いた話では、子供を持つようになって過去の行いに反省し、謝りに来たらしい。元ヤンキーにしては立派なことなんだろう。母は当時それに感動していたらしい。「俺も家族があるからこれぐらいしか出せないけど」と20万円包んでくれたらしい。
中学を卒業して島を出る日に、そのお金を見せられた。島にも高校はあったが俺は本土の高校に通った。同級生より少し勉強ができたからだ。祖母は金がかかるから島の学校に通えと言ったが、母や担任の説得あって島を出ることができた(祖母の年金の一部は俺への仕送り代になった)。
本土の高校の側には、島や遠方からの学生の住む下宿があった。昔は賑わっていたという下宿だったが、当時から既にガラガラで、オンボロだった(今はもうないらしい)。例の20万円は高校の入学と新生活のスタートに使った。高1の冬に、そのお金の残りから抜いた諭吉で友達とバッセンに行った覚えがあるから、全部は使わなかったんだろう。まあ、20万円はそうやって高校1年のうちに使い果たした。
進学校で周りも勉強に打ち込んでいたお陰で、高校生活の殆どはうちが貧乏であることは忘れて過ごせた。一部の模試は受験料を捻出できなくて諦めたことはあるが。忘れもしない3年の冬、母に胃がんが見つかった。奨学金を借りて大学に行く予定だった俺の予定は見事に砕け散った。正直その頃既に母の頃はあまり好きではなかった。それでも、知らないふりするわけにはいかなかった。普通に「なんで今なんだよ」とめちゃくちゃムカついた。いっそ治療がいらないぐらい進行してろよとも思った。
仕方なく、高卒で本土で働き始めた。島から近い港の仕事だ。母の癌治療は2年で終わった。手術と抗がん剤治療を終え、再び働けるような体力はなかったが、一応治ったのだった。それでやっと、3浪したのだと思って受験に精を出そうと思っていた矢先に、祖母が倒れ介護が必要な状態になった。母子手当も母の収入もなく、祖母の少ない年金でやってくのは無理そうだった。仕事先で正社員にならないか?と持ちかけられていたのもあって大学進学を諦めた。
良い職場だったし、仕事も気に入っていた。今は同業他社に転職したが、収入は大卒と遜色ない。もう大学進学への未練もさほどない。
ただ最近になって、異母兄妹の兄の方と偶々飲む機会があった。大卒だった。それも自分の行きたかった学部だった。妹の方は海外の大学に進んだらしい。どうやらあのピアス男は自分の子供には金をかけたようだった。家族旅行の話なんかもチラリと聞いたから、なかなか余裕があったようだ。
うちが母子家庭で貧乏に苦しんでる間に、そう思うとかなり複雑な心境だ。
避妊に失敗したのも仕方がない。1人で産むと決意したのも怒っちゃいない。稼げないのも頭が悪いのも責めるつもりはない。ただ、どうして父を逃したのか。認知させなかったのか。養育費を請求しなかったのか。そして、のこのこ謝りに来た父を何故ほいほい許し、たった20万円で逃したのか。腹が立って仕方がない。養育費は俺の権利だった。母には俺の代わりに養育費を請求する義務があった。今まで父親の方も金がないのだと諦めていたが、あったじゃないか。母がきちんと養育費を請求していれば、18歳からの俺はあんなに苦しまずに済んだろう。
もう遅いし、今更母に何か言う気にもなれない。悲しきかな、基本的に話が通じる人ではないのだ。
だからここに吐き出す。どうか子供の養育費はきちんと請求してくれ。きちんと払ってくれ。親戚や友人にそういう親がいるなら説教してやってくれ。
俺の言いたいことは以上だ。