はてなキーワード: 子供会とは
やあ。年末に場末の家電量販店でプリンタを売るバイトをしている者だよ。
ITmedia さんのプリンタ記事がちょっと雑だったんでツッコミを入れてみるね。 https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2204/29/news070.html
一方家庭用として、年賀状やラベル印刷に活躍したプリンタは今やほとんど需要がなくなっている。筆者宅でも、月1回、部活動の練習計画をプリントアウトするぐらいで、出番がほとんどない。ほとんどない割にはかなりの重量と場所をとっている。
先日、久しぶりに東京に行くので名刺を刷ろうと思ってプリンタを起動したところ、黄色が印刷されない。これまでモノクロプリントしかしてこなかったので気がつかなかったのだ。何度ヘッドクリーニングをかけても全然出ない。ヘッド自体がもうダメなのかもしれない。
これはインクジェットプリンタあるあるだね。売り場では「故障を避けるために月1回は印刷してくださいね〜」と案内しているよ。小寺さんはモノクロがメインということだったから、黄色が詰まっちゃったんだね。
こうなるとインクを替えてもだめだから、買い換えるしかないね。インクがヘッド一体型のやつか、インクヘッド交換型だったらなんとかなったんだけどね。
最初は1万円内のシンプルなプリンタ専用モデルで検討した。ドキュメントスキャナーは別途ScanSnapがあるので、複合機でなくてもいい。ただ、妻が時々スマホからプリントしたいという要望があるので、スマホから直接プリントするという機能は必須である。
エプソンにもキヤノンにも、1万円以下のエントリーモデルはあるが、スマホからのプリントに非対応ということで早々に断念。もうちょっと上位のクラスでないと、その手の機能は搭載されないようだ。
これはちょっと語弊があるね。というのも、家庭用プリンタの主戦場は複合機で、プリンタ専用モデルはそもそも種類が少ないんだ。
価格コムで調べたけど、1万円以下のプリンタ専用モデルでスマホに対応してなさそうなのは "TS203" "PX-150" "PX-105" の3種類。そのうち PX シリーズはビジネス向け、 TS203 はそもそも Wi-Fi に対応していないね。
複合機だと "TS3530" とか "EW-052A" は1万円未満かつアプリに対応しているよ。
これはもう1年以上こんな感じだね。
真ん中の島に、今年発売の新モデル、それも3万円以上の複合機が決め打ちで山積みされている。つまり急ぐ客には全部それで対応、というわけである。ポップに値段を記しておらず、値段で引かないようにということだろう。
これは店舗さんによって差異があるからなんとも言えないけど、値札の貼り忘れなんじゃないかな? 写ってるのは TS8530 だから、だいた3〜4万円の主力商品だね。
店員さんを捕まえて、スマホから印刷できるカラー機で、複合機じゃなくていいんだけど、と伝えると、1台だけエントリー機で在庫があると出してくれたのが、Epson「EP-714A」だった。2022年2月発売、値段は税込み2万円ちょっとだったので、ネットの最安値と700円ぐらいしか違わない。
"EP-714A" は複合機だよ。そもそもプリンタ専用モデルの在庫がなかったのかもね(増田が働いていた12月も常にそうだった)。家電量販店とネットのプリンタの値段はほぼ変わらないのは確かだよ。
「EP-714A」は最大がA4なので、サイズ的には以前の「EP-976A3」より一回り小さく、軽い。10年ぶりの新プリンタなのですっかり浦島太郎状態なのだが、セットアップはPCに接続することなく、ディスプレイ部に表示されるQRコードを読み取って、スマホを使ってオンラインで可能である。
よって電源コードは付いてくるが、USBケーブルは付属しない。スマホでセットアップできない、要するにネットがない環境の人向けに、ドライバやソフトウェア等が入ったCD-ROMは付属するが、今どきTypeBのでっかい端子のケーブルなんてなかなか持ってないのではないだろうか。
ちょっと意味不明な内容になっているね。USB ケーブルは前使っていたプリンタから流用できるから、高級機種でもついてこないよ。むしろ CD-ROM がついてこない機種もあるよ。CD ドライブのないパソコンも今や多いからね。
以前Epsonのプリンタは、Epson Printというアプリからスマホ印刷に対応した。だが本機はEpson Printは使えず、LINEの特定のアカウントに対してファイルを送るとそれが印刷されるようになっている。メール添付でも同様だ。コンビニ向けのネットワークプリントサービスを利用した方はご存じかもしれないが、やってることはそれと同じである。
印刷するのに専用アプリを使わないので、スマホのバリエーションやOSのバージョンに逐一対応する必要もない。プリンタ全盛の頃は開発もメンテナンスコストもかける意味があったのだろうが、今となってはすべてクラウドにまとめられた。
"EP-714A" はスマホアプリ "Epson Smart Panel" に対応しているね。プリンタによって OS 対応が違ったりするから、売るときは気を遣うよ。
コロナ直前まで、家にPCがない、あっても古いという家庭が増えて、PTAや子供会などの活動に支障が出るようになった時期があった。なぜ支障が出るかというと、紙の書類の更新や手直しができないからである。
だがコロナ禍でテレワークが主流になると、そこそこ新しいPCが家にあるという状況が戻ってきた。ところがプリンタの立ち位置は、前と同じポジションではいられなくなった。今どき紙の書類を保護者に配付する方法がなく、PDFを作ってLINEで流して終わりになったからだ。
むしろコロナ禍で学校や塾のプリントを印刷する機会が増えた、という理由で買うケースが増えたよ。それまではプリンタの買い替え需要が多いのは12月だったんだけど、コロナ禍でそれ以外の月でもよく売れるようになったんだ。だからプリンタ各社はインク大容量モデル(エコタンク、ギガタンク等)を売り出しているんだね。
今回のプリンタは、名刺を印刷するために買ったようなものだが、その習慣もいつまで残るだろうか。このプリンタもあと10年使うと考えたら、もはや人生最後のプリンタがこれ、なのかもしれない。
在庫がなかったから仕方ないけど、名刺を刷るならブラックは顔料インクのモデルにしたほうがよかったね。染料インクは発色はいいけど、水ぬれに弱いよ。
最近は給湯器みたいに「故障したら数ヶ月入ってこない」みたいなものが増えたけど、プリンタもそんな感じだね。長く使いたいなら定期的な印刷を、そうでなかったらもう割り切ってコンビニプリンタにしちゃうのがいいかもね。12月にプリンタを買いに来るお客さんの半分以上は「しばらく使ってなかったら壊れてた」だよ。いっそ大容量モデルにして、付属するインクで元取っちゃうのもありだね。
あと店員さんには優しくね。
同和地区に生まれ育ち、多分『それなり以上の同和教育を受けた最後の世代』だと思っている私。
私は昭和の終わりかけに、関西の大都市に生まれた。自営業の父と専業主婦の母のあいだに生まれ、1歳児の頃から公立保育所に通った。
現在は幼児をもつ親でもあり、『保活』『保育園落ちた』などのワードをネットで見るにつけ、自分の育った地域や時代か現代のどちらがおかしいのかわからなくなるのだ。
まず、私の母は専業主婦だ。母方の祖父と同居だったが、その祖父が要介護だったとか、母自身が病気だとか何もなかった。1ミリも『家庭での保育に欠け』てなどいない私が、普通に公立保育所に通った。
母は私を幼稚園に入れたいと思ったそうだ。しかし、親族を含む周りの多くの人たちが、いつ保育所に預けるのか、保育所の申し込みをまだしてないのかとものすごくうるさかったらしい。『保育所が当たり前だった。同じ小学校に行く子は町内のどこかの保育所出身で、幼稚園に行く子なんていない』と言われたらしい。
母は心配しながらも私を保育所に入所させた。まず、町内に公立保育所がいくつもあった。1学年1クラス、私が通った保育所はその中でも人数が少ないところだったので、年長クラスで一緒に卒園したのは12人だった。最近の『保育所が足りない』どころか、どう考ても当時の子供の数を考えれば保育所が多すぎるくらいだった。
運動会や宿泊保育、遠足、卒園式などは合同で行われた。保育士さんはどうだったか忘れたが、市の公務員である給食調理員さんたちは、その町内の保育所のどれかにしか転勤しない。(当時給食調理員だった知人が近所にいたため、知っている)
今、雨の日でもお昼寝布団セットを自転車で運んでいる保育園パパママさんを見かけるが、私が通った保育所ではお昼寝布団の他、給食で使うスプーンや箸など、肌に触れるものや口に入るものも持参する必要はなかった。かばんに入れて持って行ったものは連絡帳以外思い出せない。
私は二人の子供を私立幼稚園に通わせた。ひとりは卒園し、ひとりは在園中。まあ、これでもかというほど指定用品を買わされ、毎日スライド式のカトラリーセットを始めあれこれ通園鞄いっぱいに持って行く。最初は自分の子供時代とのあまりの違いに驚いたが、『あ、こっちのほうが普通なんだ』と最近では思うようになった。
保育所時代はほぼ同和教育はなかったが、小学校に入ると一変した。
まず、入学時に必要なもののほぼ全てが無料支給だった。ランドセルまでタダだった。母と一緒に入学用品を近所の『会館』に取りに行ったことを覚えている。鉛筆や消しゴムまであった。筆箱は自分のものを使えたかな。それが最初の一回だけではなく、『とくしゅうひ』というものがあって、冊子が配られて必要な学用品に丸をつけて提出すると支給された。これはいつの間にかなくなった。高学年になる頃にはもうなかったかと思う。
私の実家は貧乏ではなかった。後に書くが、学用品を無料支給してもらわないと就学できないほど生活に困窮している同級生などいなかった。
ランドセルはデザインも何もかも皆同じ。ほとんどの学用品が全員同じだった。出どころが一緒だからそうなるんだろうけど、他の学校のことを知らないのでそれが普通だと思っていた。給食で使うお箸、食後に使う歯ブラシまで皆同じ。歯ブラシの色選びでじゃんけんをしたことも覚えている。
それから『子供会』というものがあった。放課後に行くところで、別に親が働いているからとか何もなく、ほとんどの同級生が在籍していた。行くか行かないかは自由だったが、小学校の下校時に集団になって歩いて行ったことを覚えている。おやつが出たり、遊んだり、土曜日は昼食も出た。学童保育のような感じだったが、違いは『(ほぼ)全額無料』で『まあまあゴリゴリの同和教育機関でもあった』こと。そこで働く人たちのことは、先生やさん付けではなく、『指導員』と呼んでいた。(例 田中指導員)
主に教えられたのは狭山事件のことで、歌まであった。私はその歌をなぜか今でも覚えている。小学校1年生のときから教えられる。それから、何の日だったかは忘れてしまったが、5月23日と10月31日が近づくと、狭山事件のことをいつもより色々聞かされた。
大人は集会もやっていた。たまに祖父について行ったことがあったが、集会の最後はシュプレヒコールがお決まりだった。後になって祖父はその集会になぜ参加していたのか母に聞くと、『お父ちゃん、その年確か町内会の役しとったからちゃうかな』そんな理由だった。
小学校の名札のところに『差別裁判をゆるさない』とかワッペンをつけて登校する期間があったりもした。『ワッペン登校』と呼ばれていたが、今考えるとすごい。小学生の制服に、別にその子の意思でもなくそういうワッペンをつけさせていたのだ。
学校の道徳の授業は、同和問題を始め、とにかく何かと差別を絡めた内容だった。在日コリアンの問題とか。私の子供が入学して教科書に名前を書いていたとき、道徳の教科書を何気なく見ると、『金の斧 銀の斧』の話が載っていたりして、自分のときとの違いにまた地味に驚いた。
小学校1年生に狭山事件のことを話してこれは差別だ!とか言われても正直よくわからなかったし、狭山がどこかもあまりよく知らなかった。『かなり昔、遠い関東で無実の人が逮捕されて、裁判が何か差別らしくて………』といった感じで記憶している。
他にも後で特殊だと気づいたことがある。天皇制の否定、国歌を教えない、卒業式の定番『仰げば尊し』はなぜそこがダメなのか忘れたが『我が師の恩』のところに文句がついていたっけ。
ある日の子供会の集会のとき、『天皇制はおかしい』という話を聞いたのをおぼろげながら覚えている。『天皇誕生日が祝日なのはおかしい』と力説されたが、子供心に『学校が休みになるんだし祝日にまで差別とか言うのか』と思った。
洗脳レベルの教育だったが、低学年頃にはなくなっていった(後述)こともあり、『差別に負けない大人になってほしい!!』だとか『(何にか忘れたが)誇りをもってほしい!!』と言われても全くピンとこなかった。
ワッペンをつけたり、子供向けの集会があったりというゴリゴリの同和教育は私が高学年になるより前くらいから一気になくなった。そのため、冒頭に『最後の世代』だと書いたのだ。
理由は、狭山事件の容疑者とされた人が仮出獄となったからだと思う。学用品がタダとかそういうのも、その頃からだんだんなくなっていった。
一世代上、私の母世代は、狭山事件が起こった頃に小学生くらいなので、大人になり、子育てをする頃までずっと続いたということになる。
母は私立高校を卒業しているが、『タダだった』らしい。無料だから私立高校を選んだわけではなく、公立高校に行く学力がなかったかららしい。高校の無償化なんてつい最近一部の地域で始まったことだが、これも『同和特権』のひとつだろうか。それよりも驚いたのが、自動車教習所の授業料も『タダだった』と言うのだ。私も運転免許をもっているが、確か教習所に入るときは30万円くらい払ったと思う。それもタダ?
それから、これは自分の家族にはいないが、市の公務員になれるルートみたいなものもあったそうだ。失礼な話だが、『この人、どうやって公務員になったんだろう?』と思うような人が、市の職員だったりした。
母も私と同じで、そういう環境で周りもそれが普通だったし、他のところのことを知らないので、疑問をもったことがなかったらしい。大人になってから、『あれは普通じゃなかったんだ』と思ったという。
江戸時代の身分制度の名残で同和問題や差別があるわけではないと、成長するにつれわかった。私が背負ったランドセルも、入学試験で特待生だったわけでもない母がタダで通った高校も、税金から…と考えたら、嫌われるようなこともしてるよなあ、知らなかったとはいえ…といつからか思うようになっていった。
その後、高校、大学と進むうち、部落差別っぽいものは時々あった。というより、特に悪気のない、同和地区に対するイメージを誰かが話しているのを聞くことがあったというくらい。
まず、『あのへんは治安が悪くて行くもんじゃない。どんなやつがいて何をされるかわからない。最寄駅で降りないほうがいい』と言っていたバイト先のおじさんとか。
確かにイメージとして、ガラ悪いとか治安が悪いとか思われがちだが、これが意外とそうでもない。麻痺してるのか慣れきってるのかとも思ったが、夜になると人通りはほぼなく、ガラの悪い人や治安を乱しそうな人もいない。夜の町は、『ここ?本当に関西の大都市?』と思うほど人通りもほぼなく静か。逆にそれが不思議だとか怖いだとかで動画サイトに載っていたりするが。
確かに治安がよくて人が住みたいイメージではないよなと長年思っていたが、最近では転入者も増えて、昔はボロボロの団地ばかりだったところに一戸建ての家が建ち並ぶようになった。相変わらず市営住宅が多く、整備されているものの見た目がほぼ同じ。スマホのマップが普及するより前は、宅配ピザの配達員さんが迷って電話をかけてくることもあるくらいだった。
そういう街はここだけではない。似たようなところをたまたま電車などから見ると、『あ、ここ…同和地区かも』とわかるようになった。
人生で、『あ、これが部落差別?』と思ったのは一度だけある。結婚のときだった。目の前でやりとりしたわけではなかったが、夫の両親は同和地区の嫁が来るのは嫌だと言っていた。私に直接言ったことはなかったが、義母から夫へのメールを見たら結構すごかった。
結局結婚したのだが、10年経っても『ほら、同和地区の人となんか結婚するから』みたいになったことはない。結婚を反対されたことを知った両親も、『まあ、そりゃ、どうぞどうぞ大歓迎ですってことはないよな』というような反応だった。従姉妹たちも同和地区出身でない人と結婚している。親である伯父と伯母は、娘の結婚相手の両親に出自を話したらしいが、それを理由に反対や差別はされなかったという。
私が昔受けた同和教育の題材にもよく結婚差別が出てきたり、同和の子は貧乏でいじめられて排除されて…みたいな内容が多かったが、思い出してみれば小学校の同級生には食べるのにも困るような生活をしている子は誰一人いなかった。それでも色々支給されたり…あれは何だったんだろう?と思う。
これもまた同和地区特有の話だと知ったのだが、とにかく近所の人達の情報を何でも知っている。私達世代はそうでもないが。今時隣の家の人のこともあまり知らないのが普通みたいな世の中だが、母より上くらいになると、『全くの他人のことを何でそこまで知ってるの?』と驚くほどだ。
私は聞いているだけのことが多いが、たまたま何となく会話にAさんという人が出てきたとする。たとえば私が『Aちゃんのお母さんが入院したんやって、Aちゃん大変そうで心配やなぁ』とか言ったとする。
すると母と伯母が、
『A?ああ、あの子な!うちの一学年下の子で旧姓増田やろ?増田のおっちゃんとこは立ち退きなる前は◯◯に住んでて、今団地入ってるやろ?おばちゃんは滋賀から来た人やったわ。Aは高校出て化粧品屋に勤めとって、学会の男の人連れてきて結婚して西宮のほう行ったけど、結局別れて娘二人連れて帰ってきてたなぁ。増田のおっちゃん怒ってたわ。あの子入院したんや、それは心配やな』
『増田のおっちゃん覚えてるわぁ、Aちゃんて姉ちゃんの一個下やったら、うちの二個先輩やろ?その子の弟がうちと同級生やねんけどな、中学の同級生のCと結婚して、夫婦で市に勤めとったから、お金持ってんで。団地出て関空とかあの辺りに家買うたらしいわ。増田のおばちゃん不倫しとったん覚えてる?近所同士でようやるわぁとかみんな言うとったなぁ』
こんな感じ。一体何の話だったかこちらが忘れそうになるが、私の友人の母親の実家事情を、同学年で仲が良かったわけでもない二人が知り尽くしている。
これは、同和地区出身者同士の結婚が多かったこともあるからかなと個人的に思っている。大人になってからは、では近所に住む誰かの会話に『私』が出てきたとすると、ここまで知られているのかとゾッとして、母に聞いたこともある。
『まあ、このへんやったらそうやろうな。でも、若い子らはそこまででもないと思うけど。うちの娘ていうことはみんな知ってるやろうし、行ってた学校ぐらいは知ってるやろな』
と、当たり前のことのように言われた。
同和地区も、私のように町並みでわかる人でなければあまり他の町と変わらないようになってきた。それに、顔を見たら同和地区出身者とわかるわけでも、戸籍を見たらわかるわけでもない。有名な同和地区が現住所や本籍であった場合はわかるかもしれないが。
解放会館も人権センターとか名前を変えた後、いつの間にかなくなった。『部落差別をなくそう!』『差別落書きを見つけたら云々』という文言が書かれた町内会のポスター掲示板もなくなった。私が少し通ったあの子供会もなくなった。
今でも、『住まないほうがいい町』とかググると私の地元が出てきて、理由に同和地区がどうのこうのと書かれているが、外から人はたくさん来ている。市営団地の入居者は全員知り合いだとか、市会議員や解放同盟のコネで団地に簡単に入れるという話も聞かなくなった。
実際、24年ほど住んだが、事件らしい事件のひとつも見たことがない。通り魔やひったくりに遭った人が近所にいようものなら3分で噂になるはずだが、これも聞いたことすらない。いや、別に『B地区とか犯罪がとかヤクザがどうの、治安悪いとか言われてるけど、全然怖くないですよ、町も綺麗で平和で、他のとことそんな変わりないですよ』とここで主張したいわけはない。
イメージしかない同和地区と、そこに生まれ育った私とでは、全く違うだろうなと思って書いたに過ぎない。
改めて、自分の生まれ育った場所を考えてみたとき、そこがたまたま特殊なところで、確かに差別されたり嫌われたりしても仕方のない面をもっていて、でも何だか『普通の生活の中で出さないほうがいい話題』のひとつであって…
何かそんなことを思って書いてみた駄文だ。
自分の両親は仲が悪い。
仲が悪いと言っても口喧嘩をしたり暴力があったりというわけではないが、ただひたすら喋らない。
流石に全く一言も喋らないというわけではないが、予定の連絡や「ごはん!!」のような単語くらいしか相手に向けて発せられる言葉がない家庭だった。
何が原因でそうなったのかも自分には定かではない。
バカみたいに短気で気に入らないことがあるとすぐ殴る・蹴る・肘鉄を食らわせてくる、挙げ句壁に穴をあける反抗期の兄や、中学卒業して遠方の私立高校に通うために家を出た姉など単体ではきっかけと思えそうな出来事もあるが記憶が曖昧なので、夫婦仲が最悪になったから反抗期が苛烈になったり姉が家を出たのか、姉が家を出た結果家計面が苦しくなって夫婦仲が悪化したのか、色々考えられるが結局の所因果関係は未だによくわからない。
いつからそうだったのかは正確にはもう覚えていないが、最後に親戚宅等以外で家族イベントとして出かけたのが小学校4~5年くらいだったと思うので、おおよそ自分が中学に上がる前にはすでにそうなっていたのだと思う。
自分は大学進学と同時に家を出たのだが、実家にいた頃は母が家のことは家計管理から家事まで全てやっていた。
そのため、子供心にこれは良くない流れだと思いつつも、食事や金銭面など生命線を握られていたのもあり母とだけ会話をする生活を送った(父と会話をすると、というより父が喋っているのを聞くと母が露骨に機嫌悪くなるので、結果的に父と喋る機会が無くなった)。
大学に入って周囲の家庭環境を耳にしたり実感の環境をある程度客観視できるようになってからは、父が家庭内で孤立していることもあり実家に帰省したときにはタイミングを見て少しは喋るようにしていた。
この頃は生命線を握られていた実家の環境から脱出できて自分で会話すべきかどうかを決められるようになり、両親の呪いから解放されたように思えた。
大学生だった頃はどんな理由かは知らないが現状は子供目線ではどっちもどっちだよなぁ、と感じていた。
就職して数年経った今でもどっちもどっちとは思っているが、一方で母が父に対して不満を持つのも当然だと思うようにもなった。
母はパートとは言え肉体労働系の内容で週5日9時~16±1時間勤務(繁忙期は土日勤務ありで9~19時過ぎまで仕事をしていることもあった)をしながら家事や休日に自分含めた子供の部活動の送迎・手伝いなんかも全て一人でこなしていた。
就職して家事を全て一人でやるようになって改めて分かるが、当時の母には全くと言っていいほど自分の時間など無かっただろうし休日も十分に休めていなかっただろう。
今思えば端的に言って母に負担が集中しすぎていたように思う。
それに対して父は正社員で出張が多いようだったが、それ以外では残業もほぼ無く18時くらいには帰宅する生活にも関わらず家事は一切せず、家ではひたすらテレビを見ながらガバガバ酒を飲む人だった。
休日も繁忙期などは父方の祖父母宅(農家)の手伝いをしに行くこともあったが、大抵は趣味のスポーツに出かけていることが多かった。
地域の行事や子供会などに積極的に関わっていた一方で、家庭内を蔑ろにしていたのではないかと思うようになった。
加えて父は率直に言って会話がズレていることが多く、食事もいわゆるクチャラーというやつだ。しかも最近はまだ軽度だが反ワクチン的な話題に傾倒しつつある。
こういった心境の変化があって改めて考えてみると、特に尊敬できる要素もなく「自分の父親である」という点を除くとお世辞にも積極的に関わりたい相手ではなかった。
こうしてみると、大学の時に父と会話する頻度を上げようと思った事自体が実家で母に強制されていた環境に対するただの反発や揺り戻しだったのではないか、という気もする一方で、今自分が父に感じているこの不快感もまた大学進学するまでの実家の環境で刷り込まれた思想や価値観が多分に影響しているのではないかと思ってしまうのだ。
金銭的にも精神的にも自立してなお自分の価値観は自分のものだと思う反面、解放されたと思っていた呪いが実は解呪不可能なほど自身に染み込んでいるのではないかという自己のアイデンティティに対する不安を感じている。
ついでにいうと、あと5,6年もすれば両親ともに60歳を超えるのだが、今の関係性のまま老後やっていけるのかも非常に不安だ。
現状では、両親が祖父母のようにお互いにある程度助け合って一つの家で生活を共にするというのが、どうしても不可能ではないかと思えてならない。
一応兄は実家暮らしだが父同様で一切家事をしていないし、昔に比べてマシになったとは言え相変わらず短気で不機嫌になりやすく、とても介護が必要な状態になって実家の生活がまともに回るとは思えない。
そもそも母方の祖父母も夫婦2人暮らしで生活しているし、自分には自分の、兄には兄の、両親には両親の人生がある以上、多少金銭面の援助はするかもしれないが少なくとも自分は直接介護をする気は全くないのだが、そういった将来の話も現状では全く聞くことが出来ていない。
今半分くらい
1行でいうなら「グラフィックはすごいが、それ以外すべてnot for me」
ダメなところ
ストーリーもキャラもよくわかんないまま進む(メイン目的の一番高いとこから遺灰をまくってのはわかってる
音楽も頭に残らない
ロードないといいつつ、FF7リメイクみたいに露骨に強制歩きするシーンがあって、ここで裏でロードしてんだろうなってはある
もともとゴッド・オブ・ウォーシリーズの謎解き嫌いだったけど、今作は謎解きメインだからほんとめんどくさい
ただでさえめんどくさいのに、リアルさを損なわないよう意識してか、動かしたり進むためのポイントが、背景と同化しててすごくわかりにくい
斧なげて当てるパターンばっかだし
最序盤はどっちに進めばいいかさえわからなくてほんとイライラした
わりと序盤で魔女の道標みたいなの手に入れてからは目的地の方向と距離が見えるようになったけど
魔女とあったときのそのアイテムについて話すことも全然なくて知らん間に入手してたくらいだし
ミニマップもないから立体的なマップで今どこにいるのかとかわからんくなるし
敵もゾンビもどきと羽はえてるのとウィル・オ・ウィスプみたいなのとあとたまに巨人とかでワンパターン
クレイトスも終始ぶすっとしててまともに子供会話しねーしイライラさせる
子供はがんばってるのに
昭和の頑固親父みたいな
せっかく宝箱みつけても、鍵がわりの紋章を3つもこわさないと開けられなかったりするし
攻略みながらやったら取り逃しアイテムとか気になりそうだから、とりあえずズンズン進んでさっさとクリアする予定
これまでのゴッド・オブ・ウォーなら何をどうすればいいか直感的だったのに今回はすげーわかりにくい
あと、これまでのゴッド・オブ・ウォーなら一度通った道を二度と通ることないから気にせずに進められたけど、今回は同じ道を行ったり来たりするのがすげーめんどくさい
まともなファストトラベルもないし
あーはやくクリアしたいなー
何も心が動かされない
敵倒しても感動しない
一番嫌なのはムカデで、身近さと実害を併せ持っていて最悪 父が寝てるときに刺されたという話を聞いたときはしばらく落ち着いて寝られなかった
ゲジゲジはとにかく見た目が本当にキショい 益虫らしいが、外見がゴキブリの8倍くらいキショいのでそんなこと言ってられん ホンマにキショい
スズメバチは家の外にしか出ねえが、怖さのレベルが違う 幸い刺されたことはないが、やっぱ「刺されたら死ぬ可能性がある」ような生き物がその辺をブォンブォン飛んでるのはホンマに怖いですよ
俺の田舎にいたのはスズメバチのなかでもデカい、その名もオオスズメバチで、ガチでデカい 5センチとかある 超怖い ほんで近づくと顎をカチカチならして威嚇してくる 警告してくれるだけ有情なのかもしれないが、俺は家に帰ろうとしてんだから威嚇されたって困る
毛虫とかも多い 春になると毛虫に覆われて真っ白になる超キショい木が近所にあって嫌だった
というよりは、都会の交通網が優れすぎなのか
田舎から大阪に出てビックリしたのは、隣接する都道府県に片道1000円もかけずにすぐ行けてしまうこと どっか出かけようぜ!となったときに、大阪・京都・奈良・兵庫くらいが候補に入るのはすごい 淡路島にも行ける
俺の田舎じゃ隣県まで遊びに行くなんてことは考えられなかった 時間もかかるし、なにより金がかかる
田舎云々じゃなくて地元だからかもしれないが、その辺を歩いてて謎のジジババが話しかけてくる頻度が高い
しかも何言ってるかガチでわからん 訛り+フガフガ声によって本当に理解不能な領域に突入している そんで話長い 助けて!と思いながら曖昧な返事をし続けるしかない
子供の絶対数が少ない上にヤンキーが多い 少なくとも俺のところはそうだった
特に小学校が酷くて、同級生は9人 女子がひとり、ヤンキーが7人、そして俺だった 嫌いなタイプの人間と嫌いじゃないけどヤンキーなので怖い(カジュアルに殴ってくる)タイプの人間しかいなかった
小学校時代の思い出を楽しげに語っている人をみるとちょっと悲しくなる 9人しかいないのでさすがにぼっちって感じじゃなかったけど、じゃあ「友達」がいたかというと、いなかった気がする
ほとんどのイベントは東京・大阪でやっているもので、自分には縁がない感じがしてしまう
まあ地方開催のやつだって時々はあるし、本気で行こうと思えば行けたのかもしれないけども、やっぱハードルは高いよな
でも俺これに関しては都会育ちでも行ってない気がするな そういう意味で実害は多分被ってないんだけども、それはそれとしてなにかのイベントの詳細を見るたびに東京東京大阪大阪なのは疎外感があった
ーーー
「都会のリベラルが田舎暮らしに憧れて、田舎に住んでみた!」というのが俺の家庭だった
ホンマ何してくれとんねん 殺すぞ 田舎に住むな という気持ちは正直あるが、「田舎特有の閉塞感」というものは感じなかった つか子供会とか参加した記憶がないし、多分浮いてる家だったんだろうな
いや、しかし、そもそも地縁みたいなモンがある土地柄ではなかった気がするぞ 昔からここに住んでるんですって感じの家庭は全然なかった
多分滅びすぎて地縁が消え失せた謎の地域だったのだろう そういう意味では一般的な田舎とはまた違う雰囲気だったんだろうな
でもニュータウンではないんだよなあ!タウンじゃなかったもんあれ 道沿いにしか家ないし、「山を切り拓いた道沿いに家々がへばりついた場所」って感じだった 町とか村以下の存在だった
稀有な体験だった気もするんだが、やっぱ都会で育ちたかった感じはどうしてもある
今都会に住みたいって話じゃなくて、都会で育ちたかったって話なんだよな
成人式に行ってきた。
たくさんの元同級生と再会することができた。
皆それぞれ成長していて、普段ドライな俺も、思わず涙が出そうになった。
さて、俺には一人厄介な敵がいた。
そいつは俺と同じくらいの運動神経で、部活のレギュラー枠を奪い合って以来、こちらを目の敵にしてくるようになった。
住んでいる家は結構近い。子供会も一緒、部活も一緒、分団も一緒。
仲良しだった友達が突然、嫌がらせをしてくるようになってきたときの気持ち、想像つく?
そいつは大して勉強できるわけではなかったが、人を扇動するのがうまかった。
あることないこと言われたよ。それを信頼する方もどうかと思うけど。
信頼できる友達を何人も失った。
結局俺は部活を辞めて、生徒会活動に舵を切った。意外と楽しかったけどね。
高校は別々のところに進学することになった。
ようやく解放される、そう思うと清々した。
それから五年。
駅で顔を見かけることはあったけど(何しろ近所だ)、遠くの高校に行っていた俺は、ほとんど彼と交流することがなかった。
それは大学に上がっても同じだった。
まー正直調子に乗りまくってたね、内心では。
でも、医学部を盾にイキるほどみっともないことはない。
成人式当日。
いつもの通りはぐらかしていたが、隣にいた友人がこう言った。
「こいつ医学部なんだよ」
途端に周りの態度が豹変。
特にマイルドヤンキー予備軍の女子ね。例のあいつとグルになって、さんざん俺を陰キャってdisってたはずなのに。
先生も同性も異性も、目をキラキラさせて、医学部の生活を聞いてくるんだ。
悪い気はしなかったし、正直面白かったね。
文字通り褒め殺しって感じだった。
そして、あいつも近づいてきた。
「写真撮ろう」「久しぶり」「元気してた?」
そんな言葉は期待してなかったけど、どういう反応してくるか楽しみだった部分はある。
それ以上に驚いたことがある。
かつてあれほど憎かった奴が、全然怖くなかったんだ。
自信は人を変えるんだなって思ったよ。
結局そいつと話をすることはなく、会場をあとにした。
多分一生関わらないんだろうなー、そんなことを思いながら、今この文章を書いている。
何が言いたかったのかというと、努力すればするほど自分を武装できるってこと。
勉強でもいいし、スポーツでもいい。頑張っていい結果を得ることができれば、必ず将来役に立つ。
受験生の皆、とりあえず共通テスト応援してる。全力出してくれよな。
ワンチャン俺みたいに逆転できるかもしれないぞ!
[追記]
分団というのは分団登校の略称で、小学校へ行く時に一緒に行動する班みたいなもの。
東京にはこういう仕組みないのかな?
あと、勝手に悲しい結末匂わせないでw
まあ信じるか信じないかはあなた次第って感じでお願いします。
別に親は他宗教を熱心に否定するというわけではないのだが、かといって取り入れるというつもりもない。
バレンタイン・ハロウィン・クリスマス・エイプリルフール、他宗教由来のイベントはウチでは尽く無関係として扱われた。
あるとき、子供会のクリスマス会に参加しないかという誘いが来たとき、うちの親は「他の家とクリスマスの話題になると却って辛い思いをするから」と断ったことを人づてに聞いた。
そういった包み隠さずに自分たちの異常性を認識した有り様は、私にとっても有り難かった。
実際、ウチはおかしいと親に伝えると、たしかにそのとおりだ普通とは違うだろう、と素直な返答が帰ってきた。
だが、普通と同じでなければいけないなんてことはないし、私達もお前に何でも普通と同じかそれ以上を求めるつもりもない、と言われてしまうと、自分が今まで親に許されてきたような諸々が浮かんできてなんとも気まずくなりそこからは何も言えなかった。
クリスマスプレゼントを貰ったことがないことを不幸の象徴のように言う人がいるが、私は特にそうは思わない。
結局の所、不幸が先にあって、そこに象徴としてクリスマスプレゼントの不在が触媒として機能するだけなのだ。
私は親からそれなりに愛されて育った自覚があるし、誕生日プレゼントだとかも辞書や知育玩具のような親のエゴと無理解の象徴のようなものを押し付けられることもなく、その時に欲しい物を普通にねだれば普通に買ってもらえる環境だった。
我が家の教育方針は、とりあえず自分に素直になれというものだった。
きっと私が本気で「クリスマスケーキが食べたいから買ってほしい」と頼めば親も買ってくれただろう。
だが、ケーキぐらいなら親が時折買ってきてくれる分で十分に感じたし、大きいところから切り分けるという事に対して特段憧れを抱くこともなかった。
これは貧乏とも裕福とも遠い家で育った人間なりの素直な偏見なのだが、クリスマスを特別に感じるのは、きっとそういう時でないとケーキが食べれなかったり、プレゼントを貰えないような人なんだろう。
私のように、ただ漠然とそれなりのものを与えられ、それなりに暮らし、それなりに愛され、結果としてある種の無感動な人生を生きていくと、クリスマスの不在なんてものになんら意味は見いださなくなるのだろう。
多分他人からしたらめちゃくちゃ些細なことだろうが、家の食器が全てプラスチック製なのが気持ち悪い。
安くて軽く、割れることもないので雑に使える
でも考えても見て欲しい。ペラペラのプラ皿でカレーを食べる気持ちを。味気なさすぎる。子供会の催しかと突っ込みたくなる。小さい食器棚にスタックされた皿々のみすぼらしさと言ったらない。料理は好きでよくするが、プラ皿に盛り付けるのではテンションが上がらない。
それから弁当。これは毎朝交互に作っているんだが、妻はおかずを使い捨てのスチロール容器に入れる。おかずと言っても茹で野菜1つと焼いた肉1つという簡素なものだが。俺の職場では弁当はみんなで食べるので恥ずかしい。しかし、これも忙しい妻だから仕方ない。使い捨て容器は1つ10円そこらの容器で弁当箱を持って帰って洗う手間が省けるなら安いものだ。合理的だ。
それから報連相。夫婦の報連相はGoogleカレンダーを駆使して行なっている。合理的だ。言った言わないの水掛け論などない。が、予定について報告するついでに本来あるような会話がなくなる。とても味気ない。「今度職場でBBQが…」「ああ何日の何時ね」といった調子で悲しい。本当は無駄が多くても無駄な会話をして無駄なすれ違いをしたりしたい。
買い物も合理的だ。通販、セールを駆使して安くなった時に買う。消耗品の在庫管理も得意なようで、(妻は意外とアナログな人間で)ノートに鉛筆で詳細を書き記しきっちり管理する。財布は俺の浪費癖もあって共同で、(実質妻が握っているようなものだが)衝動買いが許されない。買い物がストレス発散だった自分にはとてもストレス。コンビニスイーツを買いたくなったり、なんとなく高い方のベーコンを書いたくなったときでさえ、あっちのケーキ屋の方が美味しいし安い、とか、そのベーコンを買うなら〇〇スーパーで、とか言う。確かに今は節約しようと決めている時期だし正しい。正しすぎる。
その他にも、彼女はともかく一から十まで合理的な判断を下す。例えばもし育児などでどちらかが仕事を辞めねばならないときはあなたがやめてね、など。妻の方が給料が高く復職が難しい仕事だからこれは正しい。俺の方が家事も好きだ。「私が仕事を辞めることのメリットは〜、デメリットは〜あなたが仕事を辞める場合は〜」などと紙に書いて説明してくれる。妻が合理的な判断を下しているのは明らかだ。
妻はともかく合理的で、それは長所でもあるが結構息苦しい。妻の判断は正しい。それは俺には肯く他ない。妻が判断を下し俺が従う形にも納得している。単なる価値観の相違もあるが、合理的な妻に合わせたほうが基本的にうまく行く。
でも「お皿がペラペラで嫌」「でも弁当が貧相で恥ずかしい」とか俺がくだらない(自分でもそう思う)わがままを言うと、妻が「陶磁器の皿を使うメリットデメリットは〜今の皿は〜だけど、あなたはどっちを選ぶの?」と聞いてくる。これが辛い。こんなに合理的な説明をされて「でも嫌なんだもん」とか言いづらい。それに妻は「人と違って恥ずかしいから嫌」みたいな感情をあまり持ち合わせていない人種だから、俺がそういう風にいうと「?……気にしなきゃいいじゃない」ときょとんとしてくる。もちろん「あなたがこれだけのデメリットがあるにも関わらず、どうしてもそうしたいならそうして。その意思は尊重する」といってくれるがそういう問題ではない。
妻の尊重は俺を同等の権限を持つもう一つの意思決定機関とみなしているような、そんな感じの尊重だ。友人にするような、顔色や感情を伺い、探り合うような種類の尊重はない。それはお互い愛し合っていて、信頼しあっているという確証から来るものだろう。妻が人間関係の探り合いや暗黙の了解を苦手としているのも理由の一つだろう。けど、自分は少し嫌だ。
妻はどこまでも合理的だけど、俺の感情的問題を計算に入れない。それは多分正しい。でもやっぱり感情的にはそれが嫌だ。
叩かれるつもりでぼやいた増田だったので皆同情的でびびった。皿については、諸事情あって引越しが多いのと、ラップかけてそのまま他所に持ってくことがちょいちょいあるから軽いのと捨てやすい安さなのは多分理にかなってる。でも特別な日用にちゃんとしたのを買うって案はいいと思ったので提案してみようと思う。家事は完全折半だが、仕事量は妻の方が多いので弁当は作ってもらってるだけありがたいのでやっぱりわがままだと思う。お小遣いは交渉してみようと思うが、自分で使うより妻に任せたほうがお金の有効活用ができるだろうと思う。多分言えばくれるので、小額から貰ってみる。
普段から妻の判断に従うのは多分そんなに嫌じゃない。それが難しいところで、妻の合理的な判断を覆すほど強く嫌かというと……みたいなことが多いからなかなか嫌だと強く言えない。結局愚痴ってるから自分を納得させきれてないんだろうが。自分の判断には自信がないから、妻のロジカルな説明を聞くとその時は妻の言う通りにしようと思える。自分さえ納得できれば完璧なのにうまく不満を解消できないことで悩んでしまう。頭では妻の言い分に賛同しているのに、感情的には不満を持つ自分がノイズのように感じる。「男女逆ならありそう」と沢山言われていたが、うちのような夫婦はどうやって上手くやってるんだろうか。
以下蛇足
なんで結婚したの?と言われまくってるが、交際してた頃からこういう人で、優秀でしっかりしてるところに憧れて好きになった。自分にないものを持っている。独特な感性と倫理観の持ち主ではあるが、親切で人格的にも立派な人だと思う。スペック的には向こうが上で、ちょっと変わってるにも関わらず引く手数多な人だったからコンプレックスとか負い目はある。
妻が俺を選んだのも合理的判断か……っていうのは俺にはわからない。妻は目標を決めて逆算する人だから結婚もその一部なんだろうなという気はする。妻からプロポーズされたとき「貴方と結婚することでキャリアに影響を及ぼすけど、そのデメリットを考慮しても貴方と結婚しようと思った」と、「〇〇さんと比較検討した結果貴方の方が〜という点で良かった」みたいなことを言われた。前者は単純に嬉しかったが、流石に後者は凍りついた。〇〇さんは遠距離恋愛だったころに妻に言い寄ってた男(馬鹿正直で嘘が下手な人なので浮気はなかった筈……)。「好きな人と結婚して仕事をしながら子育てしたい」と交際前の遥か昔に言っていたのが真実ならいいなあ。
トラバのディストピア嫁は笑った。ほんと言い得て妙だ。AIみたいなんだよね。考え方もそうだし、食べ物なら栄養価と食べやすさ、服装なら周りからの評価と温度調節、みたいな選び方をする。正直メシは不味くはないが旨くない。味付けが簡素なので不味くなりようもないんだが、絶妙に美味しくないんたよな。薄味で健康的だが。AIみたいだけど、AIの中に可愛らしさがあって、それを見つけると嬉しくなったりもする。
性生活は普通だと思う。妻は淡白っぽい印象を与える人だがそうでもない。ただ精神的な繋がりの強化とストレスの軽減ために性的な交流は〜とか言うから合理的な行動の一つなのかもしれない。わからないが。あれはそういう冗談なのかもしれない。妻の冗談は丸2年気づかなかったこともあるほどわかりにくい。営みについて、妻が2人の一ヶ月の予定を見て日程を決めて前日と当日朝にリマインドされるところはちょっとおかしいと思うが、妻が忙しいので仕方ない。ただ、以前やけに奉仕してくれるなと思って尋ねたら「前に貴方がそうしてくれたからバランスを取るため」みたいなことを言われて、五分五分になるようにしなくてはみたいなプレッシャーはある。何書いてるんだろうね。
私はもう老人である。新型コロナで死ぬかも知れないので、その前に年金を貰いたい。死ぬ前に昔の話を少ししよう。
小学校の頃、イジメられた。田舎の同じ集落(大字)に一つ年上の男の子がいて、そいつとその取り巻きに、ズボンとパンツを下げられて、チンコを見られ、立たせろと言われたが立たなかった。一緒に同じ年男の子もイジメられて、私のチンコをその男の子の尻の穴に入れろと言われた。しかし立たないので挿入は無理だった。入らないなら、ケツにチンコを当ててそのまま小便をしろと言われて小便をした。
そのイジメっ子の家はお父さんがいなくて、お母さんも何をしているのかよく分からなかった。学校などで交通事故の話をよく聞いたので、お父さんは交通事故で亡くなったのかと勝手に思っていたが、大人はその話をするとはぐらかす。お母さんは美人だった。
その集落には大きな古い屋敷があって、地方の有力者が住んでいた。なんでも江戸時代には庄屋をしていた家らしい。屋敷も江戸時代に建てられたもので、県の重要文化財化なにかそんなものに指定されているという話だった。家の主人は県庁で働いていて、課長だか部長だかなにか偉い地位にいたと後で知った。子供会なんかでは「奥様から」という名目でお菓子などが振る舞われたが、名前のないただの奥様というのが、その有力者の奥様ということらしい。
どうやらイジメっ子はその有力者の家の妾の子だったようだ。それも県庁で働いている当代の主人ではなく、その上の代のお祖父ちゃんの妾らしい。お祖父ちゃんは車の運転が出来ないので、屋敷の近くに妾を置いていたのだろう。庶民も車を持ち始めた時代だが、お祖父ちゃん世代では運転できない人も多かった。田舎の有力者の妾の子では性格も歪むというものだ。有力者のお祖父ちゃんが生きている間はそれなりの庇護もあろうが、死んだらただの厄介者になる。
不思議なことにその有力者は、県には影響力があって、農地改革とか農業用水とかで地元に便宜を図ってくれたが、町には影響力が少なかったようだ。町長や町議たちは新興勢力の建設業者で、古い庄屋の影響を受けなかった。
小学生のころ、子供会かなにかの行事で、近所にある通称「400年窯」っていう場所(地元は陶芸が盛んで窯がたくさんあった)で祭りみたいなのがあったんだよ
冬場で、けっこう人が集まってんだけど、これと言ってスペクタクルはなく、なんとなくウロウロしつつ遠くから聞こえるマイク越しの声を聞く、そんな感じのゆるい祭り
で、なんか分かんねえけどぜんざい配ってたんだよな ポリ容器に入った小さめのポーションでさ
俺は当時わりとアンコ嫌いで、受け取ったときはウゲッとすら思ったんだけど、寒い中口をつけてみるとバツグンにうまかったんだよな
あったかいし甘さが染みるしモチの食感は快いし、会場の片隅に立って田舎には珍しい人混みを見つつぜんざいを啜るのは本当に良い体験だった
たぶんぜんざいそのものが特に良いものだったってことはなく、ふつう程度だったとは思うんだけど、それにしてもうまかった
ありゃ何だったんだろうなあ 祭りが大事なのか野外であることが大事なのか
どっちもかなあ それとも子供時代特有の何かが作用してたのかな
定食屋とかによく貼ってあった、水着のおねえちゃんが写ってるやつである。
何であれが嫌いだったのだろうとさっき5分考えて、あ、あれに似てるからだ、と思い付いた。
あれとは。
あれだ。
うちの地域だけかもしれないが、子供会の会議だと称して親たちが公民館に集合し酒盛りをしていた、ということ。
お前ら酒盛りしたいだけじゃねーか!子供の為とか大義名分こじつけてんじゃねーよバーカ!
と、大人の汚なさにめっちゃ唾を吐きかけたかった、あの頃……。
ビールのポスターもそれと同じで、ビールの宣伝をしなきゃ!という名目だが実は単に美女を水着にしてセクシーポーズを取らせたいという欲が駄々漏れだったから嫌いだったのだ。
大人って汚い。
だが、宇崎さんの例のポスターは、ビールの宣伝ポスターの美女ほどの嫌悪感を私は感じなかった。大人って汚いとは思わなかった。あれはあれでそこそこ性的だったにも関わらずだ。
何故か?
それは、あのポスターがあの生意気な巨乳の女を見たいが為に作られたものというよりは、あの生意気な巨乳女を好きなオタクの一本釣り狙いのポスターだと、私は思ったからなのだ。
なんというか、ビールのポスターはビール会社のお偉いさんだか広告会社の人だか誰だかは知らんが誰かの欲が経費で消化されたものの残り滓みたいな感じがするけど、献血ポスターの生意気な巨乳女はただのエサにしか見えないのである、私には。
残飯とミールワーム……というと、どっちもどっち感あるなぁwと思いつつも、私の中ではそんな感じで分けられている、ということなのである。
最初に"聲の形"を見た時に重なる部分が多くて具合が悪くなった。
昨日何度目かの視聴をした。
かなり醜い話と懺悔になるが思うことを書いていく。
なんというか、人間の記憶は主観的だし恣意的だ。見たいものを見たいようにしか見ていない。
ファクトはあるが、どう見えているかはみんなバラバラだし、昔の事ともなるとファクト自体もあやふやになる。
少しぼかして書いていることもある。
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クラスの中でも小柄だったが、テストは毎回100点、頭が切れて口喧嘩が強い、悪ガキで面白い遊びを思いつく。
何やっても要領が良い、どうするのが正解か知っていても大人に媚びるのが大嫌い。
喧嘩っ早くて体格が上だろうと年上だろうと取っ組み合いしてぶっ飛ばされたり怪我もしょっちゅうしていた。
私には2つ上の兄と3つ下の弟がいる。お陰で交友関係が広かった。
そうした背景もあってか小学校に入ってからずっと、誰に対しても物怖じせずにあれこれ言ってきた。先入観をあまり持たずに人と接してきた。
男の子、女の子、年上、年下、昼休みにドッチボールをする人、本が好きで静かな人、お金持ちの家の人、幼稚園上がりの人、保育園上がりの人、勉強が苦手な人、ゲームが好きな人、ゲームを買ってもらえない人、野球をやっている人、サッカーをやっている人、わがままな人、音読で閊える人、発達障害っぽい人、同学年の女の子全員からキモがられていた「小1の時に教室の真ん中で***を漏らした人」とも。
カーストのどのTierの人とも話せるのが私の強みだったし、(今思えばやりすぎているが)笑わせたり弄ったりできた。
小学校5年生の時だった、私のいた小学校では各学年に4クラスあって3年生と5年生でクラス替えが行われる。
5年生のクラスのメンバーには1年生の時からの友達も3年生からの友達も多く、割と見知った顔に囲まれ結構安心した事を覚えている。
登校班や子供会なんかが同グループだった友達が多かったこともかなり幸運だった。
いつだったか時期は詳しく覚えていないが何度目かの席替えの後、私の隣の席にはクラスの冴えない女の子がいた(以降Yさんと呼称する)
私が教科書を忘れて「見せて」と言った際だったか、消しゴムを忘れて「借して」と言った際だったか、あからさまな態度と嫌味をもって拒否された。
初めて同じクラスになった私とそのYさんの間が、構築前から突如として誰にも知られずぶち壊れて険悪になった。
とにかく”きっかけ”は存在した。それは本人の属性や変えようのない部分ではなく、本人の言動そのものに起因することだった。本当に瑣末な事だったが。
当時の私は、今よりもさらに「自分の損」に興味がなく、あけっぴろげの人間だったので、恥知らずでわがままこそ言えど、「消しゴムが無い」と言われれば、ちぎって半分あげたし「教科書忘れた」と言われれば、そのまま貸すような人間だった。
また、奔放なぶん蛮行を働いて教師たちの御用になる事や、真面目タイプの女の子のチクリポイント稼ぎの養分にされる事も多かった。
クラス替えをして、全然知らない、普段静かにしている、何の毒もなさそうな見た目の、ほとんど話をしたことが無いような人間からいきなり剥き出しの100%の敵意を出された事は私にとって苛立ちよりもまずはショックだった。そんなつっけんどんに拒絶されるものか?と思った。
多分Yさんも人付き合いがうまくなかったんだと今ならば思うし、人間の合う合わないはどうしようもない上に精神の未発達段階で大人の対応をできるわけがない。
もしかしたらどこかで知らないうちに嫌われることをしていたのかもしれない。
幼かった私は、Yさんから向けられた敵意を「あーなんか嫌われてるけどまぁいっか」とか「まぁそんなもんか」で処理することができなかった。
後にいじめと呼ばれるものになることの始まりは、あくまで個人間の諍いであった。
私はYさんの剥き出しの敵意に対して意地になって目に見える形で露骨に応答した。
給食の時間に同じ食器の運搬係になれば一人で給食室から食器を運んだし、Yさんが牛乳係の時には自分のぶんは自分で牛乳を配膳した。
大人であれば「なんやこいつ関わらんとこ」で済むような人間に対して、同じように敵意をむき出しにして徹底抗戦した。
当然相手も同じような態度を取り続けた。収束までずっと仲裁が入ることはなく、私とYさんの終わる事の無い喧嘩が始まった。
1人でやっているつもりでも教室内のピリついた空気は伝染する。
周囲が異変に気付き始める。
「何かあったの?」などと問われたことはなかった。当時の私はそう聞かれても、最初のきっかけをうまく言語化できなかったと思う。ただ「あいつはわけからないけどなんか自分のことを嫌っているからこちらも戦う」という態度だけは徹底して取り続けた。私はYさんのあだ名を命名した。キャッチーなあだ名で、「デブ」とかの悪口では無い。まだ私はこの後大事になると微塵も思っていなかった。
しばらくしてクラスの人間が真似をし始めた。地獄の始まりである。
子供は愚かだ。ストッパーが無ければ増長して行動はエスカレートする。みんながやっていると善悪の判断がつかないまま真似をする。
「仕掛けたのはあっちだ」とか「自分は嫌いな奴と1人で戦っていただけだ」と思っていたが、周囲がのってくると、自分もまたそれにつられて調子にのった。
「一緒にいじめよう」など口にせずとも、教室というフィールドの中で生じた歪みは波及していき、クラスメイトは不穏な空気を汲み取り同調していく。
当時意識していなかったが、不幸な事に自分にはそれだけの影響力があった。カースト上位に属するとはそういうことだった。アホアホが影響力を持つコミュニティは破滅に向かう。場面場面でお調子者キャラが目立とうとして度を超えてやりすぎる事があったが、私はそれを止めなかったし、時には一緒になって参加した。「結託して集団でいじめをしよう」などと言い出さなかったことだけは言えるが、言わなかっただけである。見えない鎖が教室に張り巡らされていた。
「〇〇菌」
誰が考えるのか、日本各地でいじめはなぜかいつもこの形に収束する。こうして個人間の喧嘩は、いつの間にか一見(というかどう見ても)私が主導したクラス全体のいじめの様相と化した。
ランダムにペアを組むワークではYさんはいつもあぶれ、男子はおろか女子も露骨に嫌がったし「Yさんの隣」や「Yさんを含む班」は席替えの度にハズレの席となった。いじられキャラは押し飛ばされてYさんとぶつけられるし、休み時間は「Y菌」で鬼ごっこが始まった。その頃には私がつけたあだ名は学年中に広まっていた。
愚かな私は、みんなが私の味方になった気がしていた。
今日の今日まで喧嘩の発端(前述)すら誰にも話した事がなかった。「弱者に一方的に」というつもりもなかった。私の中ではYさんが突如宣戦布告した戦争だった。
しかし結果としてやられたからやり返した「報復」という形をとって、一人の地味な女の子が得られるかもしれなかったささやかな小学校時代をぶち壊した。
わたしはその頃、一度受けた傷はオーバーキルで相手を倒しきるまで忘れない性格をしていた。一人で始めた戦いであって、自ら徒党を組むことはなかったが、加勢されることは私の正当性の現れな気がして拒否しなかった。その一方でこれは「いじめだ」とも頭のどこかでは認知していた。
私は私の始めた喧嘩に、意図せずともクラス全体が引きずられていっておかしくなっていく事を止められるほど精神が発達していなかった。
これは言い訳も虚しいほど完全にいじめだ。物理的な暴力や器物の損壊が伴わなかっただけだ。個人間の不仲から発展した空気はムードとなって場を支配し、カーストを動かし、もはや私の手で収束できる問題ではなくなってしまった。
6年生になる。いよいよ看過できないレベルにまでいじめが広がる。
高学年にもなると知恵をつけて、その方法もより精神をえぐるものになる。
他のクラスでは直接的に集団で殴る蹴る下着を脱がされるの暴行や、給食費を盗が盗まれる物が隠されるとかの、より凶悪な問題が顕在化しており、6年生になってからは同学年の4クラス中2クラスが学級崩壊していた。私のクラスでは、目に見えてYさんの村八分が酷くなっていた。Yさんがどれほど身の狭い思いをして修学旅行を過ごしたのか、私は想像もできない。他人事のように書いてしまっているが私の責任である。自分の手を汚さないやり方を望んでいたわけではない。私は私でYさんと相変わらず徹底抗戦していたのだ。
Yさんが給食係をやれば「あいつが配ったスプーンでご飯を食べたくない」という言葉が囁かれた。誰がどう見ても個人間の喧嘩では無い。
ある時、昼休みだったか「総合」の時間割だったかの時間に私はクラス担任から事情聴取を受けた。
私は「していない!」と訴えた。(それはいじめというのだよ、小学生の私よ)それでもそれ以上続く言葉出てこなかった。罪への意識は十分あった。
私がYさんにやられてる以上に痛めつけてしまっていたことも理解していた。
まずは「このクラスにいじめがあることを認識しているか」といった主旨の質問が全員に向けて発せられた。周知の事実だったが全員がすっとぼけた。
なぜこんなことになっているのか、原因がなんなのか誰もわかっていないにも関わらず、Yさんへのいじめを知らない人間は同学年に居ない。
全員の前で「先生は(私)さんが主犯格でやっているように見えている」と担任から名指しで名前が挙げられた。
「Yさんにきちんと謝りなさい」と言われた。体がロボットのように動いたがどうやって謝ったのか覚えていない。
いじめだと内心で思ってきた事をここまできてようやく裁かれた気がした。
「手から離れた問題が雪だるま式で大きくなり敗戦処理の段階になって、私はトカゲのしっぽとなって切り離された」という事実をもって。
私は確かにYさんと冷戦をして、原因も話さず、周囲が巻き込まれていくことを止めもせず、1人の小学校時代を壊滅させた。始めたのは私だ。止めなかったのも私だ。わかりやすい戦犯だ。私の後に「私も加担した」と続く者はいなかった。
誰かに「無視しろ」と命令したとか、「あいつのこと避けよう」とか私は言っていない。でも嫌悪感を態度で表して周囲はそれを忖度した。
「誰がはじめたいじめなのか」とか、「あいつはいじめに加担してない」とかはどこからを言うのだろうか。教室はお通夜になった。
「むしろお前らこそいじめてただろ」とも思った。普通に考えて悪いのは私だ。理解している。
醸成された空気に異を唱える小学生はいない。我関せずすらも難しい。せめて普通に無視してあげる事が関の山だ。小学生のカーストで一度つけられた烙印はなかなか消えない。玉突き事故を起こしたら自分の居場所が保てなくなる。
本来であれば穏やかに過ごせるはずだったささやかな生活を台無しにした。どれだけ胃が痛かったろうと思う。遠足も修学旅行も楽しくないものだったろうかと勝手に思う。向こうはなぜ私と交戦状態になっているかもわかっていなかったと思う。私も当時はうまく言語化できなかった。
学級裁判の後、Yさんのいじめの件はクラスの黒歴史のように禁忌となり、「聲の形」の石田くんのような転落を味わうことなく、私は卒業した。Yさんもついぞ何がきっかけで始まったのか口に出さなかったが(というか引き金を認識していなかっただろうが)一人静かにかけがえのない青春の一部を失った。それは取り戻すことはできない。
その後、地元の公立中学校に進学した私はスクールカーストに属する事をやめた。
自分の意地や些細な喧嘩で人を壊すと思うと恐ろしくなった。中学では勉強マシーンになり、人と仲良くなりすぎる事も辞めた。
私の進んだ中学校は私の居たA小学校と、一回り規模の小さいB小学校から進学してくる生徒でほぼ100%になる。
大規模ないじめに発展する問題を起こした人間が言うのはあまりにおかしな話だが、B小学校から上がってきた人間は本当に問題児ばかりであった。母数が少ないのでA小学校出身者に舐められまいとして毎年こうなるのだと後で知った。
私は同じ中学校に進学したYさんの小学校時代の話は何も言わなかったし、Yさんとは一度だけ同じクラスになった記憶があるが直接会話もしなかった。
それでも誰かが広めたのであろう、私のつけたあだ名や過去はB小学校出身者にも簡単に広がった。何が起きたのか事実も発端も知らずに面白おかしく吹聴する輩がいる。
中学1年生の時、B小学校出身の友人から話があった。英語の授業で当てられたYさんは"How many friends do you have?"という英語教師の問いに"I have many frieds."と答えたそうだ。友人は笑っていたが私はとても笑えなかった。
それでもYさんにはB小学校から来た友達が少しだけできたように見えた。私にとってそれは少しだけ救いだった。
私は中学校生活の中で、2年生から入った塾関連で話しをする人は居たが新しい友達(と言える存在)は出来なかった。
入ったバスケットボール部でも当たり障りのない会話をする人は居たし、たまに一緒にふざける人たちもいたが、順番に繰り返される暴力や金銭授受の絡むいじめを見てから人間関係がわからなくなった。
どうしても同じ時間を過ごさなければいけないタイミングでは、それまでのキャラで場当たり的に属したが、残りの時間は勉強を頑張る人たちや、それまでの小学校から仲良くしていた人たちと細々とつるんだ。
兄の影響で2個上の先輩達から可愛がられたが、1個上の先輩からはその反感もあってかすこぶる嫌われた。はっきりいって居場所はなかった。あれこれ「自分に資格がない」と思って罰だと思って受け入れたし、居場所を作る気もなかったので当たり前だが。
私がおとなしくしている間にも悲劇は拡大・再生産されていた。問題児ばかりのB小学校の出身者は次々とA小学校の出身者を再起不能にして登校拒否にさせた。そんな中Yさんは大きないじめにあっていなかったように思う。あまり関わっていなかったので”多分"だが。
A小学校の時に明るかった人間やクラスのカーストでも最下層でもなかった人間が次々と再起不能にされていく様を見ると何か色々と惨めな気分になった。自分の愚かさにもしょげた。
私はミステリアスキャラになった。B小学校の人たちからちょっかいをかけられたり、体育祭の後の打ち上げで軽くハブられて悔しい思いをしたり、順番に巡るいじめの被害にあった人間に擦り寄られたりすることもあったが、そんなことはどうでもよかった。なんだかんだで助けてくれた人はいた。とにかく適当に過ごした。気持ち悪くてダサい人間関係から離れたかった。自分の黒歴史を見るようだった。
小学校時代を猿山の大将として過ごし、学級裁判でだんじりから見事に転げ落ちた私はとにかく静かに過ごしたかった。今更許される事でもないが悪いことはもうしたくなかった。被害者ぶる事は無かった。昼休みは一人で過ごす事が多かったし放課後に誰かと遊ぶことも極端に減った。自分の中身がそっくり入れ替わった気がした。
高校に入ってからはしょうもないことを言う人はいなくなった。とても楽だった。楽しかったし友達も沢山できた。
自分が変われた、受け入れられた気がした。でもそんなことを感じて良いのだろうか?被害者は忘れることはない。
大学ではもう完全にみんな大人になった。大学はもうそのまま社会だ。
アホはいるが当たり前の常識をわきまえた人間が多い。彼らの中にも私と同じような後悔を抱えていたり、するのだろうか?と思うことがある。
過去の過ちは消えないし心に負った傷や失ったものはもう取り返せない。
私は27歳になった。
人をいじったりすることは相変わらず得意だが、全然違う性格になっている。
職場で多くの人を見てきて、人に好かれる人間と人が離れていく人間について考えた。自分の悪かったところと向き合って見直せるようになった。
でも今の私がいろんな人に優しくしたり、何かを与えることでYさんには何かあるのだろうか?と思う。
これは償いか?罪滅ぼしなのか?何を?誰のために?自分が楽になりたいだけか?と思う。(申し上げにくいが今でもYさんと仲良くできるとは思わないが)
二十歳を超えてから仲良くなった人たちと話しをしていて、いじめを受けたことがある人間が多く存在することを知った。そうした話しを聞くと胸が苦しくなって呼吸がおかしくなる。都合のいい人間だ。いじめられていた人間は自分の話をするかどうかで済むが、いじめをしていた人間は誰かに言い出すことができない。懺悔にしかならないからだ。
いじめをうけたことのある人間は私を軽蔑するだろうか。憎むだろうか。
私は自分の身近な人や、大切な人がいじめを受けて苦しんだことに対して義憤を感じる。あまりに勝手すぎる。そんなことを感じることが許されない前科者だ。
Yさんは今、何をしているだろうか?高校生の頃に制服姿のYさんを見かけた事がある。そのあとは知らない。友達はできたか。大学に進学したのか。就職したのか。どこに住んでいるのか。小学校の頃の事など何処吹く風でどこかで楽しく生きているだろうか。自分に自信を持てただろうか。自己破壊だけが目的の人生を送らないでほしいと身勝手に思う。わたしは許されることは無いし、やったことが無かったことにもならない。だから私のことは怨み倒して構わない。
でもYさんはどこかで自己肯定して救いがあったと思える人生を送って欲しい。私は一生この罪を背負って生きていかねばならないと思っている。
精神が成熟していないコミュ二ティは悲劇だ。教員のせいにすることもできない。
とんでもないくだらない理由でいじめが生じる。生贄が生じる。あるものは一生消えない傷を、ある者は罪を感じて、大多数は何も覚えていない。
イニシエーションとして自分の大切な人がスケープゴートになったら?私は許せない。傷つけた人間をタダでは済まさない。
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今日、小学校の頃からの仲で、Yさんに関する顛末を知っている友人に連絡をしてファクトに関する認識合わせをした。
その友人はやはり「私が主犯格に見えた」と言った。と同時に「でも流された Permalink | 記事への反応(7) | 00:41
IDECOは事業やってる人がやってたやつを普通の人がつかえるようにしたやつ
なにが60歳までにという強迫観念を元増田にあたえた原因なのかはわからんけど(年金生活なら65では?)
ただ無職主婦と家事手伝いひきこもりの大きな違いは(元増田がわかりにくく書いてあるが)
NISA・IDECOだけ知ってるかどうかじゃなくて人的ネットワークの構築力にある
保育園、義務教育、PTA、子供会、自治会、税金のふよう控除、寄付、手当・・・
教育を受ける側から与える側(または与えられる子供を観察する程度でもよいが)
になるんだからある意味復習になってそこでようやく見えてくることが多い
どこかの団体で社会人教育をうけて「社会人」になれてるかどうかがキモだ。
仕事も子供会の役員の仕事も上手くいかなくて落ち込んでて、独り身で不安でしょうがないけど、
仕事や社会の場では、大人としてそれなりの演技をしなくちゃいけないけど、プライベートでも明るい自分を演じなくちゃいけないのかと思うと泣けた。
本当は再婚したいけど諦めていて、本心では一家の大黒柱をしたくないらしい。私だって、もし自分の配偶者と子供の食い扶持を私1人で稼ぐことになったら嫌だと思うし、落ち込むわ。
正規雇用でバリバリ働いて子供達を養ってるシングルマザーたちもたくさんいるけれど……
家族の中に大人が自分1人しかいなくて、つらいときに寄り添ってくれるパートナーもいないのはつらい。
子どももいなくて、独身で、自分1人なら自己責任で好き勝手できるけど。1人で自滅しても自分にしか迷惑かからないし。
家の外にも中にも逃げ場がなくて、ずっと演技するってキツすぎ