2020-12-25

仏教徒からクリスマスプレゼントを貰ったことがない

別に親は他宗教を熱心に否定するというわけではないのだが、かといって取り入れるというつもりもない。

バレンタインハロウィンクリスマスエイプリルフール、他宗教由来のイベントはウチでは尽く無関係として扱われた。

あるとき子供会クリスマス会に参加しないかという誘いが来たとき、うちの親は「他の家とクリスマス話題になると却って辛い思いをするから」と断ったことを人づてに聞いた。

そういった包み隠さずに自分たちの異常性を認識した有り様は、私にとっても有り難かった。

実際、ウチはおかしいと親に伝えると、たしかにそのとおりだ普通とは違うだろう、と素直な返答が帰ってきた。

だが、普通と同じでなければいけないなんてことはないし、私達もお前に何でも普通と同じかそれ以上を求めるつもりもない、と言われてしまうと、自分が今まで親に許されてきたような諸々が浮かんできてなんとも気まずくなりそこからは何も言えなかった。

クリスマスプレゼントを貰ったことがないことを不幸の象徴のように言う人がいるが、私は特にそうは思わない。

結局の所、不幸が先にあって、そこに象徴としてクリスマスプレゼントの不在が触媒として機能するだけなのだ

私は親からそれなりに愛されて育った自覚があるし、誕生日プレゼントだとかも辞書知育玩具のような親のエゴ無理解象徴のようなもの押し付けられることもなく、その時に欲しい物を普通にねだれば普通に買ってもらえる環境だった。

我が家教育方針は、とりあえず自分に素直になれというものだった。

きっと私が本気で「クリスマスケーキが食べたいから買ってほしい」と頼めば親も買ってくれただろう。

だが、ケーキぐらいなら親が時折買ってきてくれる分で十分に感じたし、大きいところから切り分けるという事に対して特段憧れを抱くこともなかった。

これは貧乏とも裕福とも遠い家で育った人間なりの素直な偏見なのだが、クリスマス特別に感じるのは、きっとそういう時でないとケーキが食べれなかったり、プレゼントを貰えないような人なんだろう。

それか、物凄い盛大にクリスマスを祝う文化に触れた人達だ。

私のように、ただ漠然とそれなりのものを与えられ、それなりに暮らし、それなりに愛され、結果としてある種の無感動な人生を生きていくと、クリスマスの不在なんてものになんら意味は見いださなくなるのだろう。

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