はてなキーワード: 自然現象とは
いや「ホモ」って言わず「ゲイ」って言った方がイイんだけど、アイキャッチ的に…。
※以下、下ネタを含むので要注意※
で、本題なんだけど…
・ノンケ男子ってビラビラ見ておっきするの?顔なしビラビラでもおっきする?
・ノンケ女子って棒見て…女子はおっきしないか?…変化あるの?顔なし棒だと?
いや、ずっと疑問で、下ネタ話せるノンケに会ったら聞こうと思ってたんだけど、増田があるじゃん!と思って。オッパイやケツ、キャメルトゥあたりなら理解できるんだけど、ビラビラってどうなの?
で、お前はどーなんだって言われると、俺はゲイでも多分ちょっとズレてて、顔なし棒だとあんまり、顔あり棒だと多少は…、モロ棒ってそれほどでもないんだよね。一番おっきするのは、立体裁断系のローライズビキニのモッコリだとムクムクするかな。あと、そーゆーコンテンツでいうとタイプ同士のキスシーンが一番イイかな。掘られながら別の人とキスだと最高かも。割と顔重視というか、前述のビキニも顔映ってないと半減かな。ただゲイの中でも主流派ではないと思う。
知り合いはスマホの中に棒(顔なし)の写真コレクションがあったから、やっぱり棒単体のビジュでおっきするゲイの方が多いのかな。つまるところ人それぞれに尽きるんだけど。
よくある誤解で「ホモを選択して…」みたいな言説を見るので、否定しておきたいんだけど、思春期の頃、いつか女子と結婚して子供…みたいに考えていた頃、おっきする条件が男だって認識して愕然としたよね。当時は差別当然って感じだったし。男は見ずに女子でおっきする訓練したりね。自然現象なので訓練でどーにかなるものじゃなかったけど、それって逆の立場で考えれば分かるでしょ?
そうそう、なんかちゃんと思い出せないけど変な理屈を考えていたような…。成長過程でおっきを練習するため、お手本となる男になぞって…だから自分は本当のホモではなくて…みたいな。あと、ゲイあるあるで女子と付き合えば…って考えるけど、当然ダメだよね。一人だけ女子と付き合って、その子が軽い子だったら若さの勢いで童貞捨ててた可能性あるけど、身持ち堅めの子で結局別れちゃった。仮にやってても、ノンケになることはなかったと思うな。当時からゲイ雑誌、しかもサムソン!愛読してたし。
そんなこともあって、ゲイやレズビアンを差別するのは楽しいかもしれないけど、むしろゲイはゲイ同士、レズビアンはレズビアン同士、よろしくやってって風潮を作った方が、同性愛者と付き合ったり、結婚したりする、異性愛者を減らせると思うんだけどね。自分の子供の結婚相手がって考えたら、どう?差別助長するのって、そういうことだと思うんだけど。
あと、もしよかったら、↓こちらの件も見て意見もらえたら。世界のニュースを見てる感覚だと、これ一発で社会的地位失うやつじゃん!と思ったんだけど、どーやら世間と俺はズレているようで。
それが腕時計ができて懐中時計を持ち歩く必要がなくなったから「じゃあコインでも入れとくかあ」ってなった。
現代では、その名残すら風化したせいもあって、こういうディティールに「どういう神経してたんだろう」と思う人が憚るわけだが。
大抵、衣服にはルーツがあり、それらに内包するディティールにはコンテキストがある。
それらを“ファッション”っていう側面からみると“オシャレ”の一要因とかにもなるからデニムには現代でもコインポケットが残っているわけだ。
その他にもダメージ加工とかヴィンテージのジーンズとか、衣服を機能性や利便性重視で評価するならそんなものいらないんだけどな。
以下、雑多な話。
そういえば、男性の洋服に大きいポケットが服数あるのも、それらが大抵ミリタリーやワークなどがルーツだからってのもあるかもな。
そもそも機能性や利便性重視で施されたディティールだから、そのルーツを丁重に扱った結果それがファッションとして現代に昇華している形。
女性ものの服はそういうルーツで作られていなくて、初めから“ファッション”というレイヤーから作られていたものが多いから、それにポケットつけるのって基本的に“後付け”になる。
そういう“後付け”って「ファッションのルーツやコンテキストを軽視している」と受け取られがち。
半袖のシャツ/ブラウスとかできたけど、あれも界隈的にはウケが悪かった。
近年はデザイン性が高いものも増えたけど、当初は「暑いんだから仕方ないだろ!」ってな感じで長袖をぶった切っただけのようなものが多かったからなあ。
シャツ/ブラウスをファッションの文脈から評価している人からすれば「なんてことを……」って感じだったんだろうな。
まあ「ファッションと機能性の両立」って「野菜ジュースをより飲みやすくて美味しいものに」みたいな話で、「できなくはないけどさあ……」ていう感じ。
制約は増えるし限度もあるから、ファッション視点からみると選択を狭めるので面白くない。
それは単純な足し算引き算じゃないため「ポケットないよりあったほうがいいじゃん」って話ではなく、オシャレの観点からポケットの皆無を評価する。
ファッションに対する意識の高い人は、ポケットがたくさんあるファッションをしていても、それらにモノをほとんど入れなかったりする。
ただ、そういう視点を知ろうとも思わない、知ったところで理解できない、する気がないって人も一定数いるわけで。
でも、それって是非善悪の問題じゃないというか、仕方ないよな。
パクチー駄目な人に、パクチーの美味しさや良さ、パクチーの歴史とか豆知識を語っても「知ったこっちゃない」って話だろうし。
「衣食住」の「衣」のレイヤーで服を見ている人にとって、服のポケットひとつとっても現代的かつ実用的な“意味”が欲しいに決まってる。
そのレイヤーから外れた時点で「必要ないから、なくて当然」と考えるし、あるなら「必要なんだから、あって当然」という前提でモノを考える。
だから服それぞれがもつルーツやコンテキスト、そこからくるディティールは二の次なわけだ。
そして「衣食住の衣」でモノを考える人と、「ファッション」でモノを考える人だったら前者の方が圧倒的に多いから声も大きくなりがち。
あるtogetterに「皆求めてるのはモールやファッションビルでどれ手にとってもポケットがあることでしょ」とかいうブコメに星が集まってるのが好例だな。
ファッションビルに店を構えるようなブランドまでポケットつけるのが当たり前になるってのは、ファッションというコンテキストやディティールを軽視する向きが強くなるってこと。
「ファッションビル」と謳っておいてそんなことやりだしたら「ファッションって何なん」って話になる。
だからユニクロあたりのマス向けブランドに頑張ってもらうのが落としどころだと思うけどな。
でも、そうすると今度はインフルエンサーとかが「最近のユニクロってダサいよなあ。これだから量販店ブランドは……」みたいなこと言い出すから厄介だよなっていう。
相対的剥奪の問題を考えている。相対的剥奪とは、例えばこのようなものだ。専業主婦Aがママ友と一緒にランチに行ったとする。そこで、他のママ友から、夫の職業が医者だとか、いつも家に居てくれるだとか、そういう話を聞かされる。オマケに、家事も手伝ってくれるのだという。専業主婦Aは今まで幸福だったが、それら全て持っていなかった。なぜ私の旦那は年収が500万ちょっとしかないのだろう。家にはいないし、家事も手伝ってくれない。不幸である。これが相対的剥奪と、相対的不幸である。そして、ママ友とのランチとは比べ物にならないレベルでこれが日常的に発生している。SNSである。
「人と比べない」のは極めて難しい。これを堂々と掲げている人の多くは、人と比べても大概は勝てる地位にいるが、一部には負けるぐらいで、「比べても仕方ないよな」となっている人である。そして、大概の人は人と比べる。それでも、昔は、上位20%ぐらいの人間は、このマウントゲームに勝てたし、もしくは、上位50%の人間は争わずに済んだであろう。問題なのは、インターネットにおいて、身近に人生の勝者が跋扈している現代である。この時点において、少なくとも99%は敗者である。もしくは、勝者がいない可能性すらある。レペゼン地球、青汁社長、HIKARU、コムドット、幸福なのだろうか。幸福そうではあるが、実際の所は分からない。
この相対的剥奪によって何が起こるかを考えてみよう。まず、男は今まで以上に男性的魅力を求められる。なぜなら、インターネットを見れば、それを持つ男性が多くいるからである。SNSで身長が180cmの男を見た。よって、男の身長は最低でも170cm以上。SNSで年収が1億の男を見た。よって、年収は最低でも1000万は欲しい。あと、超絶イケメンの自撮り上げてる男とFF。フツメン(つまり、ほぼイケメン)でなければ却下。学歴はMARCH以上。これは昔からそうかもしれない。なんにせよ、
ここまで酷くはないかもしれない。もしくは、女性について書かないのはアンフェアかもしれない。女性は容姿のハードルが上がっている。でも、上がったハードルに適応して、皆可愛くなっている。当然、男性が女性に求めるものは、性格や容姿ぐらいなので、その二つは対応可能である。男性は対応不可能である。これが尋常でない少子化の一要因になっているのは、言うまでもない。
とはいえ、カップルが成立しない訳ではない。しかし、強者男性と強者女性以外のカップルは、大抵メンヘラカップル化する。何を隠そう、私も、数年前までメンヘラカップルを営んでは、破綻して別れる事に定評があった。SNSで周りを見れば、メンヘラがゴロゴロといて、皆で不幸を分かち合っている。弱者男性は基本的に発狂し、相対的剥奪の影響をあまり受けていない女性は、ごく一部のみメンヘラ化しているが、大半は幸せそうにチー牛を煽っている。
ここが分水嶺である。ここで、女性に憎しみを燃やすのは、自然現象ではあるのだが、正気を保っている弱者男性の多くは、この欲求に抵抗し、自分の幸せを探し求める道を選ぶ。これが正しい道である。なぜなら、ここからは推察だが、チー牛煽りをしている女性も、恐らく大して幸せではないからだ。そんな女性に憎しみを燃やすのは、不幸なもの同士で刺激しあっているに等しい。全部忘れて、他で幸せを作った方が良いに決まっている。結局のところ、最終的な解決策は仏教的である。女に対する執着を捨てるのだ。その上で、空から女が降ってくるのを待とう。弱者男性はもう、自らの努力で女性を手に入れるのを諦めるべきだ。それで、自らが幸せになったら、当然、幸せな人には人が寄ってくる。まずは幸せになるべきだ。女性なしで。男も勝手に幸せになろう。
音楽は好きなんだけど、サブカル寄りの人間だから、いわゆるJ-Popや流行り曲は日頃全然聞かない。
でも去年色々あってめちゃくちゃ落ち込んだとき、流行の曲(米津玄師とかVaundyとかYoasobiとかマカロニえんぴつとか)(このラインナップがどのくらい的確に「メジャー感」を捉えてるかもいまいち自信がないくらいには疎いんだが。っていうかこのミュージシャンたちを好きな人はごめん。)の存在にめちゃくちゃ助けられた。
カルチャーのマニアにとっては意外で、アーティストにとっては皮肉かもしれないが、感情の繊細なひだに入り込んできて「自分のために作られたんだ」と感じられるような芸術的な作品体験は人の心を癒すどころか、かえって人の精神をさいなむことがあると私は思う。なぜか。それらは自分という「個人」のもつ考え、感じ方から自分自身を解放してはくれないからだ。むしろそれらを「意識し続けろ」と要請する。芸術作品が伝えている含蓄を咀嚼できる程度には余裕があり、繊細であることを強要する。むろんそれができるのが芸術作品の素晴らしさだとも言える。でもそれがつらいのだ。ごめん芸術。
一方、いわゆるヒット曲は私にとって、自分の生とは全く関係なしに鳴り響いている自然現象みたいなものに近い。それは自分の繊細な感情や言い表せない感情の機微などお構いなしに流れ続ける。変に気持ちに寄り添ったりせず、肯定したりせず、何も心を動かさない(少なくとも私は)。そして自分の生の細やかさに関係なく動き続ける巨大なシステムや、社会という幻想の共同体の中に、うやむやに自分を紛れ込ませてくれる。その徹底的な無関心さによって、むしろ包摂される。そのことに救われたのだった。
・学問、幅広い知識、精神の修養などを通して得られる創造的活力や心の豊かさ、物事に対する理解力。また、その手段としての学問・芸術・宗教などの精神活動。
・教養とは,一般に人格的な生活を向上させるための知・情・意の修練,つまり,たんなる学殖多識,専門家的職業生活のほかに一定の文化理想に応じた精神的能力の全面的開発,洗練を意味する
・実利主義的,立身出世的,政治的な明治の〈修養〉概念に対して,大正の〈教養〉には内面的,精神的,非ないし反政治的,人格主義的等々のニュアンスが強く帯びさせられているわけである。
・人間の精神を豊かにし、高等円満な人格を養い育てていく努力、およびその成果をさす。とかく専門的な知識や特定の職業に限定されやすいわれわれの精神を、広く学問、芸術、宗教などに接して全面的に発達させ、全体的、調和的人間になることが教養人の理想である
・精神文化一般に対する理解と知識をもち,人間的諸能力が全体的,調和的に発達している状態。
・教養教育を意味するLiberal Artsは、近代大学のルーツといわれる中世ヨーロッパ大学においては、聖書を読み解くための能力(論理、修辞、文法)と神の摂理による自然現象を理解するための能力(天文、算術、幾何、音楽)から構成されていました。つまり教養とは、キリスト教世界において「神につながる」力を意味したのです。
・生きていく上で価値判断の基準となる自分なりのものさしを持っている人のことを教養があると表現しています。
・自分の力で「いかに生きるか」を考える人々が出現しました。彼らは古典語(ラテン語)を駆使して「いかに生きるか」に思いを巡らしました。教養とは古典語に精通することでもありました。
https://kotobank.jp/word/%E6%95%99%E9%A4%8A-53100
https://www.cshe.nagoya-u.ac.jp/nu_stips/sub2_colum_2.html
色々定義はあるが教養は単なる知識に留まらず、文化理解や精神的な豊かさなどの非実利的な意味合いを含む定義が多くある。
これらの意味合いを含める定義に従うなら、知識量あっても知識マウント取ったりする人間は人格に問題があるので教養がないし、知識量等は平均レベルでも精神的に円熟してる人は教養があると言えよう。
https://anond.hatelabo.jp/20240817215752
興味深い増田だったのだが良く分からない点があったので書く。なお本文章は山田太郎議員を擁護する意図を持たないが、結論としては「ワード規制を行わないと言質を取ったこと自体は、やはり暫定的に正解だったのではないか」になってしまうこと御了承頂きたい。もちろん私の書いていることが全部間違っててトンチンカンな可能性はある。
まず元エントリは(うがった読み方で恐縮だが)CSAMなら自動的、いっそ自然現象的に止められるようにも読めてしまうが、それは違う。誰かが声を挙げなければどんなCSAM(か何か)でも野放しにされてしまう。
だからある人は声をあげ、またある人や組織は声をあげられる面倒を怖れて自発的に規制する。空気や忖度(この言葉は好きではないが)、大企業が勝手にびびるのもGoogleがなんか言い出すのも、「現実的には野放しになるわけねーだろ」も、立派な「声の結果」なのだ。
言い換えれば、VISAだろうがアクワイアラーだろうがなんだろうが堂々と「fanzaやDLsiteはCSAMを扱いまくってるので抑圧します!」といくらでも公言していいはずなのだ。人を助けたり守ったりすることの一体何が問題なのか。もちろんVISA本社はやってないんだから公言もクソもないだろというのが正解なのだろうが、だとすれば誰が具体的に声を挙げた(あるいは架空だが重要な声をおそれた)のか。
とらのあなの例では『決済会社様より』と、VISA本社ではないにしてもプラットフォーマー側から文句が来たことは明言されている。だから我々が本当に要望しなければいけないのは、『犯罪とみなす基準を変えろ、である。』ではなく、『お前らのやってることは犯罪だから諦めろ、という主張を、隠さずきちんと署名入りで公言してほしい。』ということなのだ。生活や尊厳のために匿名性を必要とする個人や集団なら、そのような暴きは許されない場合も多く強くあろうが、クレジットカード関連のプラットフォーマー側企業なら署名入りでいいはずだ。
結果としてホッブズ的なつまらん万人泥試合が起きるかもしれないが、本来「話し合おう」とか「相互理解」とか「対話を拒否するな」ってそういうものである(そして繰り返すが相手は企業であり人間ではない。人間の集合体ではあるにせよだ)。まあ単に理念面ではなく実装面で難しいということもありそうだが(なんせクレカでお金を直接やりとりする界隈なれば、守秘義務はいろいろ大変だろう)。
もうひとつ気になったのは、CSAM(か何か)の具体的な抑圧方法についてこそ、ワード規制が十分有効と思われていることである。思われているってまあ私とかその辺のオタクが勝手に思っているだけかもしれないが、少なくとも「あいつらワード規制してるに違いねえ!」と推測(あるいは誤解)するに至った経緯ははっきりとある。DLsiteの用語言い換え問題だ。
https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2403/27/news095.html
元エントリの例えと推測を借りて言えば、DLsiteは「コカインを”雪だるま作ろう”に、LSDを”TB-303なかよし”に……と淫語じゃなかった隠語に置き換えればなんとかセーフでは?」とあくせく努力していた訳だ。そもそもそういう手段に至ったことからも、ワードとCSAM等が密接に関連していた(あるいはDLsiteがそのように勝手に判断する事情が生じた)ことは伺える。
そもそも、あるコンテンツや表現がCSAMやそれに類する要規制表現であると——どちらかといえば理念より実装的レイヤーの話として、また基準が甘くなる売り手側ではなく厳しくあるべき規制側として——断定するにはどうするのか。いちいち一個ずつ動画やCG集を開いて確認するのか。確認者の価値観や倫理観(あと健康)はどう担保するのか。もちろん世の規制や確認には、マジで人力頼みでやってるケースがかなりあるそうだし(本当に健康を崩す人もいるという)、これをAIに代替させようという話は(2024年8月現在の日本国内では)実例あろうともまだまだ発展途上で「話を逸らすな」になる。
確実性はある程度妥協するとして、素早くCSAMっぽいものを一網打尽にするにはどうすればいいのか。というとやはりタグ、タイトル、それらに紐づく検索性……言葉を狩るのがもっとも効率的だろう。素早く、というのは社会に於いてクソ大事であり、表現で傷つく人を一刻でも早く助ける必要もあれば、その辺の暗黒メガコーポ風情の株価が分単位で傷つけられるのを防ぐ必要もある。
以上から、とりあえず心当たりのあるところ、のそれも上位から、「お前ワード規制した?」と聞きに行くこと自体は、そこまで無意味やナンセンスではないと考える。二次元CSAMが規制されて当然というのなら(まあ当然っちゃ当然だとは思う。程度問題に留めたいところだが)、堂々と「この基準と理由により我々が規制してやりましたぁ!!!」と首を獲った旨叫べばいいのであり、そうでないから我々オタクが「えー、基準が不明瞭ですと、CSAM以外の表現の自由も危ういのであり……」などとダラダラと騒いではいるのだ。
腐敗した死体が活動するもの。肉が残っていることが多い。人間以外のゾンビもいる。
アンデッドの中でもっとも映画化されており人気がある。放送コードなどの兼ね合いで服を着ていることも多い。
死体の活動を再開させる方法はいろいろある。「ゾンビに噛まれたらゾンビになる」というものが多く、その伝染性が恐怖を増幅する。
ゾンビパウダーというものが実在するとされるが仮死状態にした肉体から意識を奪っただけのものもあり、そうして作られたものは腐敗はしておらずゾンビではないのかもしれない。
人骨が活動するもの。ゾンビとの違いは肉があるかどうかくらいしかない場合が多い。広い意味ではゾンビの一種なのではないだろうか。
骨女
骨の形をした女性。生前愛した男性を訪れて戯れる。ターゲットにされた男性は骨女を骨だと認識できないようで、
美しい女性だと思って骸骨と毎晩のように絡み合う姿が他人に目撃されたりする。
中国生まれ。活動する死体という点でゾンビと似ている。が、死体が新しいので「死後硬直」のせいで動きがピョンピョンしているのが特徴。
マミー
ミイラが活動するもの。ただ乾燥した人体の場合と、包帯でぐるぐる巻きの場合がある。包帯を武器にして麻痺攻撃をしてくる。
「ミイラ男」として表現されがちだが初期のマミーは女性が多くラブロマンスの対象でもあったようで、ホラーでの登場が定番化した後も恋愛対象なマミーがたまに現れるそう。
ミイラといえば豪華な副葬品のイメージがあるが、倒した時の所持金額はそうでもないことが多い。それもそのはず、古代エジプトでは王族貴族に限らずあらゆる人や動物がミイラにされていたそうだ。
ワイト
これといってイメージが定まっていないがアンデッドとされることが多い。
語源をたどれば「人間」とか「あらゆる生物」など広い意味を持つ言葉だが、中世以降「超自然的なもの」という意味を持つようになったようだ。
ゾンビのように、「ワイトに殺されたらワイトになる」とされることも多い。
レヴナント
語源は「戻ってくる」とか「帰ってくる」といった意味を持つ。多くは蘇った死体や骨の姿。「アンデッド」の総称のように使われることもある。
倒すためには「首を切り落とす」、「聖水をかける」など作法が定められていることもある。正しく行わなければ再び「戻ってくる」のだろうか。
ドラウグ
ルーツは北欧のようだ。「顔色が悪く、無力で、頭の回転が遅く、足を引きずって歩く人」のようなものが語源らしいが、
アンデッドとしてはむしろ超人的な力を持つ凶悪な存在とされることが多い。死んだら本気出すタイプ。
レヴナントと同じくアンデッドの総称のような意味を持つことも多かったが、墓守りや守護者のような役割を与えられていることが多い。
ゾンビのような実態を持たない霊体だけの存在。肉体が別の場所にあることもある。スコットランド出身
フェッチ
その人間がもうすぐ死ぬ前兆とされるが、朝方に現れた場合はむしろ長生きする前兆とされたりする。
霊的な存在ではあるが、アンデッドとしての正体があるのか、単なる自然現象なのかは不明。
お化けや幽霊といった存在のなかでも幻影や幻、錯覚のようなあいまいさと共に語られる。
肉眼で見えなかったりする。
霊体としてのおばけといった意味を持つことが多い。
幽霊や霊に惹かれる性的倒錯のことをスペクトロフィリアと言ったりする。
首なしの騎士。首を抱えていたり首をどこかに落として探していたりする。
本来はアイルランドの妖精で、厳密にはアンデットではないとされる。
バンシー
これもアイルランド・スコットランドの妖精だが、人の死を予言して叫んで回るというイヤミな性格からアンデッド扱いされることが多い
老婆の姿をした妖精であり、バンシーの垂れたおっぱいを吸えばバンシーの養子になり、望みが叶うという。
強力なアンデッドとされ、生前の人格や能力を維持しているなどチート気味なことが多い。
優れた魔法使いが禁術でリッチになるなどの場合、回想シーン込みで3話くらい使って語られたりする。
ニンニクに弱かったり光が苦手、十字架が苦手など、どう考えても弱そうな設定モリモリであるが、基本的にイケメンであり強いとされる。
ヴァンパイアと人間との子供。普段は人間社会に溶け込んでいるがヴァンパイアを見分けることができ、
その血は吸血鬼にとっては酸のようなもので噛まれる心配がないため、ヴァンパイアハンターを稼業にするものもいる。
ヴァンパイアと違い血を飲まなければならないということはないが、飲めば寿命を延ばすことができる。
体が柔らかい。柔らかすぎて真のダンピールは骨が無いなどといわれる。
グール
アラビア出身。人を食うというのが特徴。墓を漁って死体を食うもの、生きた人間を家に招き入れて襲うものがいる。
女性の姿で男性の旅人を騙して食うタイプもいる。女性の場合はグラというらしい。
最後に食った人間の姿になれるらしく、真の姿は男でも女でもない、野獣でも人間でもないなどとされる。
日本生まれ。本来は「無機の王」という意味だが不死の王という意味が定着しておりアンデッドの仲間とされる。
アンシマイエン
アキイニ
イヌイットに伝わる骸骨の幽霊。音楽を好み年中踊り続ける陽気な幽霊だが、彼が踊る振動で地震や津波が起き大勢が死ぬ。
ドレカヴァツ
夜になると墓から出てきて、金切り声をあげて誰かの死を予言する。人間の姿といわれたり鳥や猫、犬の姿といわれたり、
光る眼をもつ一本足の人間だったり、まだら模様の細長い紡錘形の体と不釣り合いに大きな頭を持つ生き物の姿だったりする。
隣人の土地との境界に置かれた石を動かして所有地を広げるズルをしたもののなれ果て。境界石をもとに戻すまで魂の安寧は得られないが、
石に触れようとするとつるっと滑ってしまい永遠に元の位置に戻せず悲痛な叫び声を上げ続けた。
フェクスト
戦場や飢餓など、大量死が発生した場所に発生する。その正体は死んだ者たちの怒りの総体とも。
ジェンガンガー
北欧出身。「再び歩き出すもの」というような意味。殺されたものや自殺したものなど、未練があるものがなりやすいようだ。
葬儀の際に棺を持ち上げて教会の周りを3周するというのがジェンガンガー化の予防策とされた。
ルガット
アルバニア出身。日光が当たらない場所を好み、空を飛ぶこともできる。死者の皮を被り、長い爪をもち、凶悪な顔をしている。
闇に隠れて子供を攫ったりする。基本的に不死身だが墓の中で焼き殺すことはできるようだ。
ククド
守銭奴の亡霊とも、ペストを運ぶ亡霊ともされる。ルガットを焼き殺す際に焼きが甘いとククドになるとも。
ランスヤール
妊娠中・出産中に死んだ女性の幽霊。生まれたばかりの赤ちゃんを好んで食べるが、とくに男児の血が好きなようだ。
死体の口にガラスビーズを入れ、脇の下に鶏卵を入れ、手のひらに針を入れることで、死んだ女性がランスヤールとして戻ってくるのを防ぐことができる。
最近死んだ人が墓から出てきて、生きている知り合いなどを死に引き込もうとする。ドイツ出身のアンデッド。
埋葬の時に故人の衣服に名前が書かれている場合にはナッハツェラーになりやすい、死体の目や口が開いているとなりやすい、死体の唇が赤いとなりやすい、
死体が柔らかいとなりやすい、死体の手が反対側の手の親指を握っているとなりやすいなどとされ、なりやすすぎるアンデッド。
親の所有物である子供が「他の大人に怒られない」ようになったのとバーターだよね現状って
親の自由に子育てできる局面も一方で増えてるのに不寛容な部分ばかりクローズアップしてしんどいしんどい言ってるの
たぶんバカなんだろうな
あとブコメで面白かったのが「他人の体臭に耐えられないアホがデカい口叩くな」ってのは痛快だった
加齢臭や汗って制汗剤消臭剤他の対策をとっても臭うのは臭うわけで。それも子供といっしょの自然現象だよね
そっちには耐えられずにお気持ち撒き散らす側の動物が「子どもの自然現象についてはオマエが我慢しろよ」って言っても道理が通らねえよってのはその通り
タイの保健当局によると、虚偽の投稿で共有された画像は、法医学で分類される死後血栓と同じものであり、新しい現象ではありません。
死後血栓
タイ国立ワクチン研究所は2024年2月21日に声明を発表し、画像に見られる白い血栓はmRNAワクチンとは関係ないと明言しました(アーカイブリンク)。 「この主張の画像は、mRNAワクチン接種によって引き起こされた血液障害を示すものではありません」と声明には書かれています。「これは、死後に発生するフィブリン(血液の主要なタンパク質成分)の凝集に過ぎません(死後血栓)。」 同じ声明は続けて、「これは、死亡した人の体に一般的に見られる自然現象です。これは、Covidの発生やCovid-19ワクチンの使用以前から観察されてきました。」と述べています。 バンコクのブミボル・アドゥラデージ病院の法医学病理学者であるアッタシット・ドゥルアムヌアイ博士も、白い血栓は自然なものであり、死亡した体に一般的に見られると同意しました。 「私は解剖を行うときに常にそのような血栓を見つけます。それはmRNAワクチンとは関係ありません」とアッタシットは2月27日にAFPに語りました。 同様に、ハーバード医科大学の教育病院であるブリガム・アンド・ウィメンズ病院の肺専門医であるタニー・タニヤヴァーンも、虚偽の投稿に掲載された血栓の外観を典型的な死後血栓と同じように説明しています。 「その外観はまさに死後血栓のようです」とタニーは2月23日に述べました。「それは生前血栓のように表面が粗くないので、その主張には疑問があります。」 タニーはまた、死亡した体に白い血栓が存在する原因として、肥満、糖尿病、喫煙、さらにはCovid-19感染などが考えられると付け加えました。
1. 血管内皮の損傷や異常が発生
5. 白血球(主に好中球)が集積
6. 血小板とフィブリンのネットワークが形成され、白色血栓が完成
白色血栓は主に動脈系で見られ、血流が速い部位で形成されやすいです。
1. 死後、血液の凝固が始まる
3. 白血球(主に好中球)が集積
白い死後血栓は死後に形成される特殊な血栓で、生前の白色血栓とは異なります。主に大血管内で観察されます。
テレビ側の手のひらで踊らされてるって気付かないのかな?
麻原彰晃の写真を見せて20歳の女の子が「根は良い人そう」ってテロップ付きの映像をスクショしてXで「無知って怖い」というポストが数万いいねされて、その引用リプを見ると
「伝えなかった大人が悪い」「同い年だけどそのくらい知ってる」というリプばかりだったけど、
誰1人このインタビュー自体仕込みのヤラセ、もしくは意図的にこの発言を切り取ったと考える人がいなかった。
テレビ局側がこれを流すと言うのは何かしら意図があるって思わないの?
例えばテレビ視聴者は中高年が多いから若者にバカな発言させて「そんな事も知らんのか!けしからん!」と言いながらテレビ視聴維持率を上げるために、インタビューを装って役者に台本通りの演技をさせたとか。
もしくは数多くの若者がまともな回答をしている中でその女の子だけが「根は良い人そう」というトンチンカンな発言をした部分だけを放映することで中高年の説教欲を掻き立ててるとか。
いずれにしろ、テレビで放映するってことは作為があるのに自然現象として捉えている無知な大人が多い。
でもそういう奴らに限って普段はマスコミは悪だ!と言うんだろうな。そのくせ自分らがマウント取れる餌をマスコミから与えられたら飛び付いちゃう何も考えてない動物
観測してる人物の中で一番「検証可能な事実」を出してくれるから
裁判所、事件番号、カンパ金の額、使途、本人の生い立ちから思想に至るまで
個人レベルでは100%裏取りはできないが、はっきりいって信用できる
自然科学に多少のかかわりがあるもの、いわゆる理系ならなんとなくわかると思うが、自然現象を観測するような気持ちで見ている
自然科学では、宇宙の「真実」に人間如きがたどり着けるわけがなく、あくまで「第三者が再現しても同じになるかどうかで、否定しようがなければ一時的に真とする」という思考になる
「第三者によって検証可能かどうか」という観点で文句のない結果を出力している
興味ないことに対する解像度(例:保育士の給料と補助金の関係)が粗すぎるとか、幼稚な全能感と見下し癖がクソほどウザいとか、そういう人格の問題は枝葉末節と言えてしまうくらい単純に成果物が凄い
で、別に他の奴がそれを信用できない、成果物は嘘であるとか思うのも勝手だが、そんなに信用できないと思うんだったら好きに調べて虚偽である証拠をつきつければよろしい
たとえばひまそらの言った裁判が実際には起こされていないとか、ことさらアピールしている東京都への勝訴は嘘であるとか、そういう確たる証拠を1個でも出せば奴の勢いは万分の一にもなるだろう
なんでしないの?
被害者にとって問題なのは電磁波は目に見えへんから自然現象や病気だと思わされるんや
テレビ番組で、こんな病気が流行っていると取り上げて、真実味を刷り込んでいると思われる!
痛みを感じる加害を繰り返す事で苦痛を与え、精神的に追い込む!
差別行為や傷害行為をバレないようにできるのが電磁波を使った犯罪
もし犯罪がバレそうになると加害者が大勢で連携してお前を精神疾患だと言って貶めようとする
電磁過敏症が不可抗力によると判断できるのは、電磁波が発生時に発生源に接する状態で暮らしてるんや
高圧送電線の下で暮らしているなどの場合に暴露する場合があるで
使用中に電子レンジに近づかなければ人体に影響を及ぼすような暴露はしないと言われちょる
だから普通に生活をしている範囲では電磁波の影響で電磁過敏症になることは考えにくいと考えられる
周囲に電気製品や磁石がないのに針が南北以外の方向に振れることがあれば、そこに磁場があると分かる
それがあちこちで確認できたら、電磁波を使った加害をされていると分かるというわけや!
携帯電話にもコンパスが搭載されている場合磁力を計測するセンサーが搭載されてる
磁力を確認するアプリをダウンロードして磁力の方位や強度を確認できる
磁石と同様に南北以外の方位から強い磁力が計測できたら電磁波を使った加害をされてると判断できるんや!
電波が飛んできている方位にアンテナを向けると受信感度が高くなるから警報音が高くなる
部屋のあちこちで警報音がなったら電磁波による被害にあっていると判断できるやで!
百均や家電の文具売り場で販売されているLEDのブラックライトを電磁波を操作している所に照射するとライトが電磁波に反応して点滅し、消えます
手を1回大きな音が出るように叩くと、僅かに共鳴しているのが聞こえたら、そこに電磁波を操作する細工をされとる
集団ストーカー・テクノロジー犯罪は、主に音を使って電磁波を操作しとるんや!
集団ストーカー・テクノロジー犯罪がバレないように使われている電子機器は
一般的な製品の形やのうて目視では分からないナノサイズのICチップと磁性素材が多様されとる
コンピューターが何をするかを指示する画像が現場に描かれちょる
それがキズや汚れに見えるように描かれとる!
集団ストーカー・テクノロジー犯罪では異物を飲食物に混入させたり磁性素材を人体に塗りつけたりするために室内に隠し置きされてるで
例えば木製家具の木目に合わせて、木目に見えるように装備されてたりするんや
木目を爪楊枝で擦ると粉状の素材が剥がれ落ちたら電磁波加害されてる証拠やで!
空洞は高音から低音まで異なる音が出るように細工されとる
窓枠やドアーが接する部分に隙間を作られとる
電磁波で身体に加害されているならば、歯にチップをつけられとる
ターゲットの目鼻口に液滴を運び入れるため操作をするためにICチップが皮下に埋め込まれとる
目安はホクロ、シミ、おでき
チップのアンテナになる磁性素材でこれらを演出されているのが理由や!
飲食時に手を口に近づけた時の電磁波の移動ルートやモーション操作に使われとるで
ホクロ、シミ、おでき、ケロイド状に見えるものがチップの特徴や!
そこに磁石がくっついたり反発する箇所があるやん
磁石がくっついたら最悪の状況になっとるで!
ただこれは、アニメ制作側が悪いというよりも原作のストーリーや世界観に起因するものだと思う。
ゲーム内だと、アビドスがあそこまで砂の災害でどうしようもなくなっているということまでは描かれていなかった。
何分背景は共通で使えるような街中の背景画像ばっかりだったから「砂に覆われた街」ということがいまいち想像できていなかったのだろう。
砂嵐が年数回吹き荒れて、都市のほとんどは砂に覆われている。しかも流入する砂を片付けるために既に多額の借金をしている。その額9億。
利息だけで毎月支払うのがやっとで、返済の目途はたっていない。
そもそも返したところで、アビドスを元の姿に戻すのは大体不可能だろう。砂害は自然現象なんだから。
ぶっちゃけ再建するんなら全面的な防砂対策した都市が必要になってくる。
そして、借金を作ったかつてのアビドス生徒会は、この手の根本的対策を行わずにひたすら「砂を片付ける」だけの対処療法を行っていた。
こんな状態で、長くても三年しかいないアビドス高等学校で、「この場所が 私たちのたったひとつの居場所だから」と、ほかの自治区に移りもせずに砂害に対する対策も打ち出せずにひたすら借金を返してる消耗戦を行っているのが「アビドス対策委員会」。
なんなん?
3年のホシノは分からなくもないが、一年の連中がここにこだわる理由何?
既に他の自治区の学校に転校した連中を薄情者だのなんだの言ってるけど、普通に考えてどうしようもないでしょ?こんなん。
しかも、自治区の土地のほとんどがカイザーローンによって買収されている。
あら、詰んでるわこの学校。
もうさ、ぶっちゃけ一時的に他の自治区に移って再建計画練ったほうがいいと思うよ。
借金返すのに手間とられてて何もできないじゃん?
住民のほとんどが他の学区に移住しているのに、なぜアビドス対策委員会の連中は、あきらめもせず返せない借金を返してるのか。答えは簡単、連中が異常者の集まりだからだ。
いや本当に理解できないんだけど。なんでそんなにこだわる?
仲間たちと一緒にいればそこが「居場所」にならないの?
正直、借金返すためのプラン考えるとか無駄なことに時間使ってないでスパッと、他の自治区に移ることを提案するのが最良だと思うが?
でもそんなことで諦めてくれるなら、はじめっからここに残ってないということを理解しているのかひたすら生徒のわがままに付き合う先生…涙が出ますよ…
確かにこんな異常者の考えを転向させるとしたら、完全に味方であると取り入って、メンバーの意見がそれとなくアビドス自治区売却に向くように仕向けるしかないと思うが。
なんにしても気の長い話だ…
そんなことしている間にホシノ卒業するだろ…
そういや卒業した生徒はどこに行くんだ?
これらの設定やらは話が進むにつれてだんだんと明らかになってきて、もうその時点で「もうこれどうしようもないじゃん?」って見てる側からすると思ってしまう
なんとなくこれらを解決するには
・諦めて他の自治区に移る
・その時、他自治区に移ったハズの生徒会メンバーが借金を返せるほどの金を稼いで戻ってきた。
・連邦捜査部権限でカイザーコーポレーションに立ち入り検査をして借金の件を有耶無耶にさせる
のどれかしかない気がするのだが。
果たして一体このアニメはどのようにして借金問題を解決するのだろうか?
結果としてはなんも解決してない。
歴戦の戦士ぶってるけど頭が悪いホシノが「借金の一部を肩代わりする」という条件で騙され鹵獲されたので、それを救出しに行って、なんとなく終わった感出して終わり。
なんも解決してねぇじゃなん。借金の問題も、砂害も、変に理想論唱えたがるホシノも
盗んだ金で借金返すのはだめでも、暴力で解決するのはいいのか?
あ、ダメだわこれ。
なんか少しでも事態が好転する展開を期待してたんだけどなんも解決してない。
ていうか、先生ゲヘナに応援頼みに行って、性格悪い風紀委員のくっさい足まで舐めて懇願したのに即決してくれないし。先生ホントかわいそう。
というわけで、ぶっちゃけ話としてどうしようもないレベルの何かでしたね。以降も続くのは確定だから、とりあえずの区切り作りたかったんだろうけど。
もう、作中の問題解決は正攻法では無理なんで裏から手をまわして何とかしろよって思うのだが、ブルアカの方針観てるとどうしようもなさそうね。
Disclaimer: 刺さる人に刺さればよいので、「こうすれば良かった」「ここが悪かった」という意図はありません
『トラぺジウム』が連日満員になるには、見終わった人が満足し、リピートしたり口コミでおススメ!と広めたりする必要があった。なぜそうならなかったか。
主人公の欲望が冒頭では謎、なのは構わない。東西南北集めたい、というのは観客を引き付ける謎だろう。
だが、なぜその欲望が生まれたか、源がわからない。 アイドルになりたいという表層の奥に、原始的・普遍的な欲望が存在する必要があった。
”すべての登場人物には、一杯の水でもかまわないので、何かを欲しがらせること。” という格言に含まれているのが、水を欲しがるというの原始的な欲望であることに注意すべき。
オフチョベットしたテフをマブガッドしてリットにしたい、という欲望の奥に、他人を幸せにしたいとか、自己実現したいとか、生き残りたいとか、そういった欲望がなければ観客は共感できない。
主人公は努力をしていない。計算ノートを書いたりテニスをやらされたりC言語の勉強してる人と会話できる知識を身に着けたりプールを借りたりダンス練習するのは努力にカウントできない。正確には葛藤・選択をしていない。
文化祭でライブを3人に見せアイドルに興味を持たせることを失敗するのも、ボランティアでグループが分かれてしまうのも、メンバーの恋愛バレも、失敗は天災のようにやってくる。(成功も青空のように自然現象のように迎えにくる。)
南の高校にダサい制服で入ったら死ぬ、テニスをやらされたら死ぬ、プールを借りられなかったら信用を失う、高専の萌え袖に付け焼刃の知識がばれたら仲間に入ってもらえない、アイドルになれなかったら〇〇しなくてはいけないとタイムリミット付きで母親に迫られる、メガネ男子に協力と引き換えに何か犠牲を払わなくてはならない…
そういった成功するかしないかわからない場所に立たされないし、選択もしない。観客が応援するポイント、ハラハラするポイントがないのだ。失敗は選択の結果であるべきだ。
そして成功したと思ったらさらに悪い事態に結び付くエスカレーションが望ましい。
1-C:悪人だった
東も完全な悪人ではなく、最後の方の回想で「小学生のころいじめられっ子を助けた」という観客には開示されていなかった過去が明らかになる。これをもっと前倒しし拡張する。
例えば、最初のガラガラのローカル線で(そこそこ露悪的な要素も入れつつも)困っているおばあさんを助けるシーンを入れておけば、いじめられっ子を助けたシーンも生きてくるだろう。
主人公が悪人の作品でもヒット作はある。主人公よりもっと悪い人物を出すという手段もある。芸能事務所とかテレビ局の大人にその役割をあてるとか。
仮説2:主人公が成長しなかった
誤った欲望が潰えて、正しい欲望に気づくというのが王道シナリオであろう
アイドルになりたかったのは子供のころ見たアイドルAさんが素晴らしかった>私もあんなアイドルになりたい>東西南北(仮)を踏み台にしてなるアイドルはAさんとは程遠いものだと気づく>間違いだった>初心に帰る とか
仮説3:
ハッピーエンドではなかった
囲碁最大の問題は情報が届いて欲しい人に情報を届ける手段がない事だと思う
はっきり言って何度も何度も同じ事を書いているが未だにぷよ碁を知らない人がいるし、入門コンテンツから先に入るべき人がいきなり対局を初めて挫折している
ブクマを見ていて、そいつに情報さえ届ける事が出来れば解決するのにそれができずに毎回もどかしい思いをしているのである
そこは俺に任せろと言いたい。全部俺に聞けと
自分は囲碁を覚えた瞬間から普及活動に携わっているから入門指導のプロフェッショナルである。数々の人間を囲碁に入門させてきた。
囲碁の入門書を読み終わった瞬間にどうしてこのシンプルかつ楽しいゲームがこんなに広まってないんだろう、という想いに駆られた。
このシンプルでかつ面白いという両輪の部分が重要だ。面白いけど複雑だったり、シンプルだけどつまらなかったら、そりゃ広まらないよねとなってここまでの普及意欲が湧くことはなかっただろう。
簡単で面白いのになんかみんな難しく考えて挫折してるし広まらない、このもどかしい想いが私のリビドーとなっているのである。
ここで疑問をブクマしてるやつらはわからない事は全部おれに聞け。ボイチャでもなんでもわかるまで付き合うし初段まで手助けする所存だ
この増田もリビドーに任せて書き綴っている。囲碁普及のためにはいても経ってもいられないのだ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/note.com/gouponline/n/nedbf64883c00
囲碁もしてるよ!
20240204144432(←参照。トラバになっちゃうから数字だけ)
この手の疑問がある人はまだ「二眼」や石の生き死にの概念に出会っていないだけの可能性が高いです
自分も囲碁がわからなかった時代があったが、二眼を知ったことでようやくこのゲームが腑に落ちました
一部で試みられています
https://youtu.be/_BgY0QVJgRo?t=5799
あるいは、そのヒカルの碁の監修をしている梅沢由香里先生監修の『囲碁であそぼ』で覚えましょう
『囲碁であそぼ』で覚えましょう
韓国ではめちゃくちゃバズってたりするので日本でもこのくらい注目してほしい
https://x.com/lexifdev/status/1799998059029594489
ちなみに毫釐千里というサイトで仲邑菫の対局情報が網羅されていてYoutube中継へのリンクも貼られてます
シンジンソ(世界最強棋士)、崔精(女最強棋士)、金恩持(韓国天才少女)、仲邑菫の4人が韓国囲碁界の視聴率四天王と言われており、仲邑菫の対局は高確率でYoutube配信されます
ぜひチェックしましょう
ちなみに今日も中継されてますね。半目を争う熱い勝負中です(2024/06/14 15:46)
→K바둑 LIVE [스미레vs김주아] 2024 Dr.G 여자최고기사결정전 | 8강 4경기
すでにあるある!そうなってる!
NHK杯は一手30秒(毎週日曜日のお昼にEテレでやってるよ!)
https://shochian2.com/wp-content/uploads/2023/12/IMGP2726.png
シン竜星戦は一手+5秒
https://youtu.be/d7dwt4hXioU?t=631
これも「二眼」や石の死活の概念に出会う前に終局を覚えようとしている可能性があります
二眼がわからないとこの石この後どう打っても死ぬから続ける意味ないよね、ってのがわからないので先に二眼を覚えるべきなのです
そしてそれよりもっといい方法がまずは『純碁』から入ることです。
オセロと同じで盤上に置いた石のみが得点です。それ以外は囲碁と同じ
得点を高めるために盤上に石を埋めていく過程で否が応でも石の死活と直面し、この石最終的にどうやっても取られるよねという場面に出くわします。
石の集団は二眼がないと必ず将来的に取られる現象に気づきます。攻め合いで負けてたら取られることに気づきます。
その運命の決した石こそ『死に石』であり、それらが確定して点数が変動しなくなった局面が囲碁での終局の場面です。
なのでそんな石の運命を見極めなくても、石の運命が決するまで打って死んでるとわかるのが、純碁のいいところです。
まずは純碁から入り、囲碁が純碁の無駄な時間を省略したバージョン、今風に言えば「『純碁』のタイパを上げたバージョンが『囲碁』」であることが理解できるまで純碁を続けましょう
純碁はぷよ碁か純碁公式サイトのWebサイトがよい。後者は教育コンテンツもかなり充実しています
https://www.jungo.games/#/intro
つまりやりようがあるということであり、囲碁のゲーム性の問題だけではないということです
https://i.imgur.com/byM8nFI.jpeg
https://i.imgur.com/Xq0U6Wv.jpg
こういう人はむしろぷよ碁みたいな小路盤じゃなくて19路やるのがいいと思う
小路盤でもシチョウやゲタの手筋とか覚えて戦略の奥深さに触れるのがいいと思う
ちなみに9路盤ではYoutubeに『桜ゴルフ杯』という9路盤のプロの大会が上がっているのでそれを見るとよい。解説も昔から初心者向けの解説に定評がある石倉昇九段だ(『ヒカルの囲碁入門』という書籍もこの人)
難しく考えすぎ!
言ってしまえば石をいっぱい置いたほうの勝ちのゲーム、お互いの石がどっちのHPを0に先にするかという競争(攻め合い)をしてるだけのゲームだ
オセロの角を取ったらそこに連結してる石の集団が二度とひっくり返されないのと同じで、二眼できたらその集団はHP減らし合戦から離脱できる、人生上がりになるというだけの話だ
この原理原則を肌で感じ取れるようにまずは純碁、あるいは中国ルールから入ることをオススメする
日本ルールなんて最後でいいしなんなら別にそのまま覚えなくても囲碁は理解できる
そしてここまで読んだきみ、せっかくなのでブクマして行ってくれ
ブクマしないと届かない、また届かない。書いただけ!情報が必要な人間に必要な情報が届かないんで終わるんだ
そしてそいつは必要な情報にありつけずに一生同じこと言ってるんだよ
でかいところに打ちたい(大場)、敵陣がでかくなる前に抑制したい(消し)、
敵の弱い石を攻めたい、あるいは自分の弱いところを守りたい(急場)と言ったいろんな欲求の元に打たれていると思う
で、このでかいところとか攻めとかの感覚はは一朝一夕で身につくものではないがヒントになる情報は提示できる
自分の石でも敵の石でもすでに生きている石の周りは価値が小さい
自分の生きている石の近くに打っても、すでに地のある所から少ししか地が増えないし効率が悪くこれは終盤のヨセで打つ手だ
相手の生きている石の近くに打つのも同様、すでに生きているため何の脅しにもならず、生きている石は無敵なので逆襲に遭うだけだ
コンビニ出店、あるいは漁場を想像しよう。すでにいっぱい店のあるところ、漁師のいるところに出向いても効率が悪いのだ
これも上記と似ているが、相手の強い石(生きている石含む)に近づいても旨味より逆襲される可能性が高い
囲碁は現実と同じで石同士の”相対的な”力関係が大きな影響を及ぼすゲームです
強い石には遠慮し、弱い石には優位に立ちます
弱い石(眼形のおぼつかない石)を見逃さず急所に接近して眼形を脅していくことで相手に逃げるだけの地にならない手を打たせ、自分は攻めながら地を稼いでるので効率がいいよね、というのが攻めの基本。
場合によっては大石をまるごと仕留めることもできるが殺しにいくのは自分もキズだらけになるためリスキー
・有段者のための囲碁学
そして何よりこの辺の一番の教科書はトビサキの囲碁実況動画である
彼女よりわかりやすく囲碁の作戦、手の意図を喋りながら打ってる人は他にいないのでぜひ見ることをオススメする
一問一答なので各々のセクションによってターゲットが違うのでターゲットの知識に合わせて用語や補足の度合いは調整してある
あまり用語は使ってないはずだがわからない部分はターゲットではないのでわからなくてOK
二眼という言葉の事を言ってるのならそもそもその単語に辿り着かせるための記事なので使用は必須事項
アタリを見落とすのはプロでもあるので気に病むことはない(検索→アタリに突っ込むプロもいる)
ぷよ碁でもぷよ碁じゃなくても対局の数を重ねると目が慣れてくると思う
だからこそこういう記事や周知活動が必要ってわけ、そのために自分がいる
正しい情報にありつけない人がたくさんいるしGoUPのように日の目を浴びないプロダクトがたくさんある
現状、自分で両方打つのは他のを使うしかない。オンライン碁盤で検索すればCOSUMIのやつとかが出てくる
【入門02】攻略!ぷよ碁で勝つための「10のポイント」←この動画がいいんじゃないかな
囲碁、ぶっちゃけて言えば姉歯一級建築士になりきるゲームみたいな所あるからね。
石をつなげて陣地を囲むんだけど、効率よく囲むには「一見つながってないけど相手が邪魔しに来ても確実に撃退できるギリギリの強度で設計する」ことが求められる。
自分が作ったオンライン囲碁部で抜き打ちIQテストをしたところ面白いことにたしかにIQ高い人のほうが高段者である傾向があった
→20240613212420
どうして導線や引用じゃダメでワイが全てこの記事で説明するという手段にこだわるんだい
目的はその人に必要な情報を届けることなのに手段が目的化してる典型だよあなたたちは
しょういうこと
AI登場以後の囲碁は、序盤で三々に入る(陣地を取りに行く手)ことが主流になっているのだけど菫ちゃんはほぼ絶対にそれを打たない
陣地が多い方が勝ちのゲームなのだが、かつての宇宙流武宮正樹のように地を取りに行かず中央志向の手を打ち続けている
囲碁の攻めは、必ずしも相手を殺しにいくためではなく少しだけ相手より得をするために行うのだけど
上野愛咲美は少しでも相手の石を殺せそうなら殺しに行く、そしてそれが決まってしまう
それが豪快で楽しい
宇宙流の仲邑菫
全く天才ではないが、それまでに自分の中のボードゲームといえばMTGとか遊戯王の
「◯◯されたら◯◯の時、◯◯になる」「◯◯は◯◯の時◯◯してはならない」
みたいなカード一枚一枚がルールを持ってるようなめちゃくちゃルールに修飾されたゲームの世界を当たり前だと思ってたから
このシンプルなルールでここまでのゲーム性が成り立つのかって感動したよ
二眼の生きもTCGとかなら「眼が2つあったら生きとみなす、そこに打ってはいけない」みたいになると思うんだけど
着手禁止点というシンプルなルールから導かれるただの事実・自然現象、定理でしかないことに感動を覚えたね
囲碁を覚えるまでは、自分はオセロも将棋も弱々だったしこの手のゲームは苦手なんだと思ってたけど囲碁は石が動かないから読むのが簡単ですぐ手筋が覚えられたし、ただ学習法を知らないだけだった、書籍を読むということをしてないだけだったと知ったよ
囲碁を覚えた後は将棋も強くなった。オセロはからっきしだ。間違いなくオセロが一番むずい
ちなみに中原誠も囲碁をやると将棋が強くなると言ってるし将棋派の人間もやる価値はある。米長の書いた囲碁本もあるのでそれがオススメだ
棋力のことなら打ってればこの人は何級くらいってのはわかる。ネット碁サイトで申請した級で数局打ってみれば自分の実力がどのくらいなのかもわかる
局面の優勢具合のことなら最近は将棋と同じでAI評価値が当たり前になってるので数字を見ればわかる
一緒に教えられてるよ。そこに辿り着く前にふんわりした情報で囲碁わからん、陣地わからんって判断してる人が多いということ
そりゃわかるわけないよってのが現状
はっきり言って教える側も文章じゃつらい
いくらでも配信で図と音声を使って教えるので「kukulu 囲碁広めるマン」と検索して見つかるアカウントへDMして日時と要望を教えてください
はるかぜちゃんのママが昨年50歳の誕生日を迎える前に「もうすぐ女の子じゃなくなってしまう」とナーバスになっていたのが印象に残っている
加齢なんて自然現象でしょと特に気にしない女がいる一方で、老いておばさんになる恐怖に囚われている女は少なからずいる
中高生ぐらいからおばさんを自称しだして真におばさんになる前の心構えをし、ハタチには10代が子どものように見え、25歳ぐらいには新卒が幼く見え、
30前後に最大の葛藤をしつつアラフォーにはもうすっかり自他共に認めるおばさんになる、ってのが王道だろうか
49歳でも「まだ女の子」な人っているんだな
第二次世界大戦があるのなら、第三次世界大戦だってきっとあるはずだし、
第二次反抗期があるのなら、第三次反抗期だってきっとあるはず…
それが魔の52歳児である。
なぜ、50 + 2なのか?
50はなんなのか?
コンドラチェフの波とは約50年周期で景気が循環するという説である。
しかし、これは景気だけに限らない。
石ノ森章太郎のマンガ日本経済入門によれば、太陽の黒点の周期など、あらゆる自然現象に50年周期が見られるのである。
また、今50歳ぐらいということは、直球の就職氷河期世代であり、どん底を経験してきた世代である。
どん底を経験し、失われた30年、40年経った今もなお、どん底を経験している人もいるだろう。
何を隠そう、私がそうである。
これは第二のイヤイヤ期だと思っている。
第三次反抗期、社会に、世間に、世の中のしがらみや常識に対しての反抗期である。
今、50歳ぐらいのおぢさんの扱いに困っている、という人は、是非とも「イヤイヤ期」で検索してみてほしい。
また、イヤイヤ期は54歳ぐらいで落ち着くと思われる。
それまで我慢してほしい…😟
数学は宇宙が機能する言語であり、自然の仕組みを理解するための良い方法である。
それは、自然現象の解明の多くが、モデルがどれだけ優れているか、そして数学がどれだけ優れているかによって決まるからだ。
しかし、数学の研究は常に成功するわけではない。時には、単に失敗して、それに対して何もできないこともある。
しかし、その失敗こそが新しい研究アイデアのインスピレーションとなる。
それが数学研究の1つの大きなポイントだ。失敗しなければ、そもそも研究することは面白くない。
しかし、数学の研究や学習には言語の壁が存在する。同じ言語を話せなければ、つながりを持てない人がたくさんいる。
世界には言語の壁を抱えている人がたくさんおり、そのことが数学のコミュニケーションを非常に困難にしている。
例えば、英語に100パーセント慣れていない場合、英語で微分幾何学を学ぶのははるかに困難になる。
しかし、これはその人自身の責任ではない。大学で研究する人々にとっては、教育は研究プロセスの大きな部分を占めている。
数学の研究や学習は、自分のスキルを応用して何か良いことをしようとするだけでなく、他の人が自分自身でそこに到達できるよう支援することも重要だと思う。
数学は、個々の研究者だけでなく、全体のコミュニティの努力によって進歩する。それぞれの研究者が自分の知識と経験を共有し、他の人々がそれを利用して新たな発見をする。