音楽は好きなんだけど、サブカル寄りの人間だから、いわゆるJ-Popや流行り曲は日頃全然聞かない。
でも去年色々あってめちゃくちゃ落ち込んだとき、流行の曲(米津玄師とかVaundyとかYoasobiとかマカロニえんぴつとか)(このラインナップがどのくらい的確に「メジャー感」を捉えてるかもいまいち自信がないくらいには疎いんだが。っていうかこのミュージシャンたちを好きな人はごめん。)の存在にめちゃくちゃ助けられた。
カルチャーのマニアにとっては意外で、アーティストにとっては皮肉かもしれないが、感情の繊細なひだに入り込んできて「自分のために作られたんだ」と感じられるような芸術的な作品体験は人の心を癒すどころか、かえって人の精神をさいなむことがあると私は思う。なぜか。それらは自分という「個人」のもつ考え、感じ方から自分自身を解放してはくれないからだ。むしろそれらを「意識し続けろ」と要請する。芸術作品が伝えている含蓄を咀嚼できる程度には余裕があり、繊細であることを強要する。むろんそれができるのが芸術作品の素晴らしさだとも言える。でもそれがつらいのだ。ごめん芸術。
一方、いわゆるヒット曲は私にとって、自分の生とは全く関係なしに鳴り響いている自然現象みたいなものに近い。それは自分の繊細な感情や言い表せない感情の機微などお構いなしに流れ続ける。変に気持ちに寄り添ったりせず、肯定したりせず、何も心を動かさない(少なくとも私は)。そして自分の生の細やかさに関係なく動き続ける巨大なシステムや、社会という幻想の共同体の中に、うやむやに自分を紛れ込ませてくれる。その徹底的な無関心さによって、むしろ包摂される。そのことに救われたのだった。