はてなキーワード: 官能とは
そして最初に言っておくが私自身は男で、LGBTではないのと、かなり勝手なことを書くので
本物のLGBTの方々が読むと不快になるかもしれないし、ストレートの人が読んでも不快なところ
があるかもしれない。
なので、そういうものを読みたくない人は、以下の散文を読まないことをお勧めする。
またコメントには返信をしないと思われる。
以上の点をどうかご了承頂きたい。
エンドロールが終わって、ダラス(エリカ・リンダー)の美しくも儚げな表情になるべく
長く浸り、官能で高揚した気分を持続させるために、伊勢丹の上のビストロで羊食って
赤ワイン飲んで、地下鉄の雑踏に混ざりたくなったので、タクシーで都内の自宅に帰ってきて、
すぐに書斎にこもり、愛用のキーボード HHKB Pro BTを叩いてこの散文を書き始めている。
これを誰に向けて書いているのか。それははっきりしていて、まず間違いないのは、
私は男性に向けてこれを書いている。
ただし全ての男に書いているわけではない。
家計のやりくりの都合上、この10月中劇場に足を運んで映画を観るためのポケット
マネーが映画一本分しかないときに、世界的に有名な日本人の監督が作ったヤクザ映画と
このビアン映画とを比べて、迷うことなくこっちを選んでしまうような、そういう嗜好を
持った男に向けて書いている。
あるいは、谷崎潤一郎の「細雪」や「痴人の愛」はもちろんいいけど「卍」も
捨てがたいよね、と思ってる男と言い換えてもいい。
そう。
そこのお前、お前のことだよ。心配しなくてもいい。お前は一人じゃない。というのも
俺もお前と同じだからだ。
で。この映画だけど。良かったぞ。
どのくらい良いかと言えば、俺と同じ趣味のお前なら、こう言えば分かってくれるかな。
マーク・ドルセルのポルノにおける、クレア・カステルとアンナ・ポリーナのビアンプレイ、
あるいは、今は亡き写真家ステファン・ヒックスによるDigitalDesire のビアン作品と同じか
それ以上に興奮できる。ましてや、最近クオリティが落ちたと言われてるTwistysの、単に
ズボズボやってるだけのWhen Girls Play の数々の動画よりも断然、萌えてしまうはずだ。
なぜならば、ビアンについてお前は俺と同じ願望を持っているからだ。
俺たちの願望とは何か。
それを説明する例として、まずはこういうものではあり得ない、という反例を挙げると、
たとえば六本木発の最高級の(もちろん本番までできる)デリヘル嬢を二人呼んで、店に
「お前らがレズってるとこ、見せろ」
と命令して、男としての自分の欲望を煽らせる目的でビアンプレイを鑑賞したいという、
では、お前や俺みたいな男がこの映画に託す願望とは何かといったら、ダラスまたは
ジャスミンになりたいという、どうやっても実現しない夢想、これに尽きる。
ということで、ダラスまたはジャスミンになりたいという願望を、お前と俺は
共有した。メデタシ、メデタシ。
いや。
ちょっと待ってくれ。
話はここで終わらないんだ。
というのは、ビアン小説や映画が好き言っても俺は男だから、映画に出てくる主役じゃない男、
特に不遇になって終わる男のその後の人生が気になるんだ。たとえば、LEGALLY BLONDE の
レビューには、負け犬で終わるワーナーって野郎のその後が気になるって書いたしね。
だから、この映画なら、ダラスに自分の婚約者を寝取られたライルって男のその後が気になるんだ。
ダラスみたいな超美形な女が、ガッツリぶっ込む気マンマンでビンビンなペニバンで、自分の
婚約者の女のことを後ろからバッコンバッコンやってるのを観てしまったら、ストレートの男の
精神はどうなるのか。
この映画自体は、ダラスとジャスミンが結ばれることを予感させるハッピーエンドで終わるけれど、
そうなると、邪魔者としてはじき出されたライルはどうなるのか。
もしかすると、あの後ジャスミンは自分の担当する雑誌で、モデルとしてダラスを起用する企画を
やってそれが大当たりして昇進し、ライルは意気消沈して降格どころか仕事が手につかず、ウツ病に
なりクビになるかもしれない。恋人の女を男に寝取られたならまだ正攻法で見返したり、立ち直る方法
はあると思うが、ダラスみたいな女に自分の婚約者の女をズコバコやられたら、男としてはもう、
どうにもならないんじゃないか。
「(タチのスキルが高い)女に自分の恋人の女を寝取られたら、男は取り返しがつかないぜ?」
みたいな台詞を、ある男が、女に恋人の女を寝取られた男に言うシーンがあった気がするしね。
この映画で、ライルが出てくる最後のシーンは、ジャスミンに気を取り直してセックスしようと
するのをやんわり拒まれるところだが、ああやって拒否られて、ライルは相当傷ついたと思う。
それでその後、その傷心はやがて女性全般に対する憎悪となって肥大化し、ライルは何か極端な
ことをしでかす気がする。
たとえば考えられるのは、こうだ。
いよいよ米国が北朝鮮に宣戦布告してライルは徴兵に志願する。それで北朝鮮の首都に空挺
部隊として降り立ち、何ら罪もない婦女を手当たりしだい強姦したあとに、全裸の女を火炎
放射器で丸焼きにするとか、軍用のごついナイフでメッタ刺しにして、膣とクリトリスを切り
取って食っちゃうとか、なんかそんな方向に彼は行くんじゃないか。
そんな風にしてミソジニーの極北としての殺人鬼となったライルは、そうやって婦女暴行を
やり尽くした後、こんどは逆に、そうやってライルに妻を殺された北朝鮮の男たちからアシッド
アタックされて両目を失明させられ、かつ両手足を面白半分に切断されたのち、豚小屋に鎖に
つながれ、北朝鮮の総統専属の高級娼婦の糞を食わされたり、パゾリーニの「ソドムの市」の
ようにガラスの破片をしこまれたパンを食わされて、口の中血だらけにして一生を終えるんだ。
どう?
まあ、ここまでいかなくても、女への憎悪が高じて、「アメリカン・サイコ」 のパトリック
みたいになる可能性はあると思う。
いずれにしろ、超美形な女に婚約者の女を寝取られた彼の人生は、湯山 玲子氏のいうところの
「男をこじらせ」まくって、ショボいものになって終わるだろうから、一応男として同性のよしみ
での同情はするものの、ダラスのような美しい女には、平凡な男の精神や人生をそうやってメチャ
メチャに踏みにじってよい権利があるような気がするんだがどうだろう? それはつまり、美しい者
だけが特権的に行使できる暴力みたいなものだ。その種の暴力に酔う快楽が、この映画には
潜んでいる気がする。
この映画の感想は以上なんだけど、ところで、お前、次は何観る予定?
両方ですか、そうですか。俺も多分、そう。
みんなに読んでもらいたい作文を書くために映画って観るもんじゃないしね、
追伸
ふと思ったが、この映画をストレートの女性がご覧になる場合、一番の女友達と行かれと
よいと思う。それも、本命の彼氏と東京カレンダーに出てくるような店でデートするときの
ように、バッチリお洒落して観に行く。それで映画が終わって劇場内が明るくなったら、
周りにこれ見よがしにその友人と腕を絡め合ったり、わざと周囲の客たちに見えるように、
ほんのシャレでキスなんかしてみると、無駄に優越感に浸れると思う。
逆に、本物のLGBTの女性はこの映画を一人でご覧になり、一番のセックスフレンドの
「アレ観たんだけど。エリカ・リンダーの出てるやつ。くだらなかったー。だってエロいだけなんだもん。
『アデル、ブルーは熱い色』のほうが絶対いいよー」
みたいなことを話すのではなかろうか。
ということでここ10年のノーベル文学賞受賞者の受賞理由をご紹介します。
ドリス・レッシング 「女性の経験を叙事詩的に描いた。懐疑と激情、予見力をもって、分裂する現代社会〔分断された文明〕を吟味し、題材にした」
ジャン=マリ・ギュスターヴ・ル・クレジオ 「新しい旅立ち、詩的な冒険、官能的な喜びの作家であり、支配的な文明を超越した人間性の探」
ヘルタ・ミュラー 「韻文の濃密さと散文の率直さをもって疎外された人びとの風景を描き出している」
マリオ・バルガス・リョサ 「権力構造を明確に描き出し、個人の抵抗と反抗、挫折を鋭く描写した」
莫言 「幻覚を伴ったリアリズムによって、民話、歴史、現代を融合させた」
8月29日、思ったより拡散したため追記。自分ではネタバレなしのつもりで書いて、ツイートにもそう明記してしまったが、ネタバレという言葉には個人差があることをすっかり忘れていた。ネタバレ見たら死ぬタイプの風上にも置けない。地雷を踏んでしまったら申し訳ない。配慮したつもりですが、どうぞご注意ください。太ももの話以外もします。
サンダンス映画祭直後、賞賛と祝福の声とともに、あまりの刺激のために悩殺されてしまったという感想ツイートが散見されて、映画祭参加の幸運に預かれなかったファンはもどかしさに身悶えしたのであった。
Call Me By Your Nameは1983年の北イタリアのとある町のひと夏を舞台にした、二人の青年のあいだの恋を描いた映画である。くわしくはimdbを参考にされたい。
http://m.imdb.com/title/tt5726616/
この映画は2016年5月に世界中の一部界隈にて話題になった。言わずもがなアーミー・ハマーファン界隈である。そのあまりに蠱惑的なあらすじにつられて手に取ったのが原作小説である。
そんなごく軽くかつ不純な動機で読み始めたAndré AcimanによるCall Me By Your Nameだが、回顧体で描かれた物語に一瞬で虜になった。
あまりにも印象的な出会い、一生を変えてしまうたった一言から語り始められるその物語は、意識の流れを実に巧みに取り込んだ、プルースト研究者でもある著者ならではの文体で読者を陶酔させる。やがて語り手であるエリオと一体化した読者はオリバーの冷淡さに苦しみ、意外な素顔を見せられはっと息を呑み、ただ呆然と結末を迎えることになる。
ツルゲーネフの「はつ恋」やらナボコフの「ロリータ」やらをこよなく愛するわたしにとっては好み直撃ど直球であり、そのうえアーミー・ハマーの太ももがやばいとあってはなにがなんでも映画を見なくてはという気持ちになった。
しかもネタバレ見ると死ぬタイプのオタクにつき、どうしても世界公開より先に見たいという気持ちを抑えられない。はたしてMIFF(メルボルン国際映画祭、8月3〜20日、CMBYNは4日と6日上映)に飛んだのである。
笑ってほしい。
かなり早い段階でチケットも売り切れ(一度キャンセルが出たが、最終的に上映日までには両日完売!)ていたため、予想はしていたが、当日は冬のメルボルンにて1時間前から長蛇の列である!
席は早い者勝ちなのでみんな普通に必死だ。特に二度目の上映での、劇場をぐるり半周する列は写真に撮らなかったのが悔やまれる。みんなが手の端末にQRコードを表示させ、南半球ならではの冷たい南風に身を縮めながら待機している。
2度のCMBYN上映の他は同じくアーミー・ハマー出演のFinal Portraitに参加したばかりだが、それに比べるとやや平均年齢が下がるかなという感じ。
それでも、老若男女ということばがふさわしい、実に幅広い客層。
そんなことより映画だ。ここからはネタバレはなるべく避けて進める。なにせネタバレ見ると死ぬタイプなので安心してほしい。後日一部シーンバレ感想もあげるつもりでいる。万全の態勢です。
劇中曲について、MIFFのQ&Aにてルカ・グァダニーノ監督が語っていたことだが、基本的には登場人物が耳にした音楽……エリオの弾くピアノ曲、ギター、オリバーが身を委ねて踊るダンスミュージック、家族が耳を傾けるラジオやレコード……に限った、とのことである。それを知らされるまでもなく、最初の楽曲から没入感があり、一息に世界に引き込まれる。
そしてオリバーが現れる。イタリアの太陽である。明るい陽光は主人公エリオのいる部屋の暗がりを際立たせる。
エリオを演じる当時弱冠20歳のティモシー・シャラメは終始少年の健全さと病的な魅力をひとしくたずさえて美しいが、とりわけ夜、ベッドでのシーンでの肌は内部から光を放つようだった。
アーミー・ハマーが、その見せ場においてはつねにイタリアの太陽に照らされて灼けたなめらかな肌とあかるい金色に見える髪を輝かせているのと好対照で、一場面一場面が絵画を見るようだった。あるいは、冒頭でわれわれを一息に映画の世界に引き込む、連続的な彫刻群のショットのようだ。
エリオがオリバーに魅了されるのはかならず真昼の屋外だし、エリオがオリバーを室内に引き込むと、オリバーは初めて(ようやく、と言ってもいい)エリオに見とれるのだ。
野外と屋内、昼のシーンと夜のシーンが交互にさしはさまれて、われわれ観客はふたりのうつくしい青年に2時間超の間目まぐるしくも目移りしてしまうのだった。
しかしいざ太もも談議をするとなると血で血を洗う戦争になるにちがいない。
短いショーツか、あるいは水着でのシーンが大半で、太ももは終始晒されているので各人のフェイバリット太ももがあることだろう。
マイフェイバリット太ももはとある場面にてエリオとともに床にぺったりと座るオリバーの太ももである。だが自分が多数派である自信はない。これについてはまたあとで。
オリバーは原作よりもなお複雑で謎めいたキャラクターになっていると感じる。
原作では物語がすすむにつれ、読者はエリオとともにオリバーの知らなかった一面に驚かされるのだが、映画ではむしろ序盤からオリバーの大人の男としての魅力と奔放な子どものような無垢さが入れ替わり立ち替わり現れてエリオないし観客を翻弄するのである。
(シーンバレありの記事にでも書くつもりだが)序盤からオリバーはエリオよりも幼い子どものようないとけない振る舞いを見せ、グァダニーノ監督の言葉を借りるなら、エリオより「なおイノセント」だった。
(アーミーハマーファンの同志は心してかかってほしい。奇声を発するか原作のエリオの言葉を借りるならswoonに至らないよう上映中握りしめるなり揉みしだくなりできる柔らかい布など持っていくことをおすすめする手ぬぐいとか)
そのような差異こそあれ、アーミー・ハマーのオリバーは原作を読みながら夢想していたオリバーにほとんど完璧に一致していた。
この結論にはアーミーハマーのじつに感情ゆたかな目の表現が大いに寄与しているのだと思う。たとえば「J・エドガー」でのクライド・トルソン役において彼が見せたような目つきだ。沈黙の場面で熱っぽく目が話す。このものを言う目がとくに生きるのは、逆説的だが目の映らない場面で、たとえば映画の中でもひとつのクライマックスにあたる戦争慰霊碑のシーンがその一例だ(トレーラーにも引用されていた)。
もうひとつ、結末に近い重要な場面でピントを外したカメラがオリバーをとらえる。オリバーの顔が長く映されるのだけれど、けして鮮明な像を結ばない。観客は食い入るようにスクリーンを見つめてはじめて、自分がエリオと同じようにオリバーの目に浮かぶ表情を読み取りたいと熱望していることに気づかされる。
目について語るならばティモシー・シャラメにも言及しなくてはならない。
ティモシー・シャラメは今後少なからず目にする機会が増える役者だとつくづく思いしった。身体の使い方が素晴らしく、手足の隅々まで神経を張り詰め、あるいは意図的に脱力し、髪の先まで演技していると感じさせる。(この先エリオの面影を振り払うのが難しいのではとも感じるが、むしろその印象を己に利するものとして使ってほしいしこの期待は報われるにちがいない)
だがなによりも、その目つきである! トレーラーにも含まれていた、踊るオリバーをじっとりと見つめるあの目が全てではない。映画からは小説に通底する一人称の語りが省かれているものの(あれば安っぽくなり得たと個人的には思う)それを補って余りあるティモシー・シャラメの目つき。
まさに小説が羨む技法で、文字で書かれたフィクションを贔屓しがちな身としては、こういった映画化を見せられるとただひたすらに喜びを感じてしまう。
さてトレーラーといえば、あの実に夢見心地で幻惑的で、緊張感とせつない予感に満ちた映像を、わたしだってリリース直後には再生する手が止まらなかったほど熱愛しているが、 本編とは少しトーンが違っているとも思える。
トレーラーから、そして原作から想像していたものにくらべると、より明るく、ユーモアがあり、笑いだしてしまう瞬間がある。
かなりの頻度で笑いが起こっていたが、これは映画祭だったのと、おそらく英語圏中心とおもわれる観客層も関係してくるのかもしれない。
ただ、エリオ家食卓でのとあるシーンについては国内の映画館でも笑いが起きると予想できる。そしてその直後におとずれるエリオとオリバーの官能的な接触に息をのむことになることも。(さてくだんのマイフェイバリット太腿はこの場面で登場する。すくなくとも個人的にはこの場面はお祭りだった。細いのに肉感的な大腿部に釘付けになるあまり台詞をごっそり聞き逃したのだ……)
こういった感覚の急激な転換は映画全体を通して言えることで、一瞬たりとも気を抜けないと感じた。ほほえましく口元を緩めた直後に、心臓が指でひっつかまれるように締め付けられる。
ところどころに埋め込まれた、笑える箇所について、今ふと思ったが、これは原作にて重要な役割を果たしているが本来映画だと表現しにくい「時間性」をどうにか持ち込もうとした結果なのかもしれない。
10代のころの恋愛とか、恋愛でなくてもエモーショナルなやりとりは当時は必死で真剣なんだけれど、そのときの行動を大人になって振り返ってみると、わがことながらおかしくて笑ってしまう、あの感じがよみがえるみたいだ。
そのようなノスタルジーを引き起こす展開に身を委ねるうち、二度の上映は割れんばかりの拍手でしめくくられた。自分も同じように手を叩きながらLater、と軽やかな別れの言葉を脳内で繰り返していた。原作で読んで想像していたよりもなおあっさりと、冷淡で、なのに奇妙に耳に残るオリバーの声。
一夏の客人のその挨拶を、エリオが、母が、父が真似たように、自分もつい口にしたくなるはずだ。
じつは原作を読んだ時から、自分は最適な読者じゃないと思っていた。
小説として心から好んではいるものの、「この物語は自分の物語だ」「この物語によって救われた」「こういう物語が描かれるのをずっと待っていた」と感じる人がいることを、一行読むごとに、確信し続けたからだ。
この映画が現代を生きるごく若いセクシュアルマイノリティに届くことを願っている。
『キャロル』がそうであったように、相手の性別が特別なのではなく、ただその相手が特別だっただけ、ということを描いた映画。だが一方で、両親という存在の描かれ方において、この作品はこれまでのクィア作品と一線を画している。
そして、『ムーンライト』があまりにも普通の恋愛映画であるという事実が特別だったのと同様に、Call Me By Your Nameのエリオの一夏の恋愛は美しいと同時に「ごく普通の青少年が悶々とする」という部分が色濃くて、その事実をとにかく祝福したい。
自分はこの映画をクィア映画だとは思っていないのだとグァダニーノ監督がQ&Aで語っていたが、この言葉がすべてだと思う。
10代の頃に出会ってたら人生が変わっていたなと確信を持つ映画はいくつかあるけれどCMBYNはそのトップに躍り出た。
現在のところレーティングはR18のようだけれど、そこまで直接的なショットはなかったように思う。
何かが起こったこと、そして何が起こったか、から目をそらすという悪い意味での曖昧さは無いが、物語を破綻させないように、そして必要以上にセンセーショナルに煽らないと努めての結果なのかもしれない。
だからこそ、PG12かR15バージョンが作られるといいなと思っている。エリオと同年代の、この映画の肯定感を本当に必要としているひとたちに見てもらいたい。
キャストをきっかけに興味を持ったCMBYNだが、自分の中にそびえる金字塔を打ち立てた。日本に来た時にも従来の俳優や物語やファンに愛されるのはもちろん、新しい映画として多くの観客に愛してほしい。そして本当に必要としているひとにぜひとも届いてほしいと思う。
ちょうどこのレビューを書いている最中(8月23日)にMIFFの観客賞が発表され、Call Me By Your Nameが晴れて1位を獲得した。http://miff.com.au/about/film-awards/audience#
もちろん自分も最高点の星5つで投票したし、あの盛り上がりを考えると納得の結果だ。
アジア内では台湾映画祭での上映が決まっているCMBYN。東京国際映画祭に来ないはずがない、と信じている。
お願いします。
邦訳本もどうぞよしなに。
先日ひどく情けないことがあった。
今まで家族以外の女性との触れ合いや関わり合いがほとんど無いままでここ数年で成人になった私に女性と二人きりという状況が訪れた。
その女性とはその日初めて会ったのだけど、二人きりになるのは私がアプローチしたとか誰かの計らいとかでもなく
とあるイベントに参加し終えた後の自然な成り行きで帰宅までの時間潰しでしかなかった。
お相手の女性は私と同世代で、容姿は客観的評価ではおそらく普通の女性だった。
私の好みではすこし可愛らしいと感じる人だった。
昼食をとった後解散した。
それだけしかしていないのに
私には女性と二人で食事をしたり、相手の目を見てお話をしたりするのはとても新鮮でドキドキした。
話しをするときに相手と目を合わせるのはマナーとして当然とはいえ、
向き合ってしばらく話し合うというのは私は滅多にしない経験だった。
お互い目を見るという行為が健全なものであるはずなのに、私には官能的に感じられてそれがまた背徳的だった。
恋愛の対象とする性別の相手と目を合わせるということは、エロいことだとつくづく思う。
食事を終えて解散するとき私は股間に妙な感触を覚えて内心、んなアホなと思ったのだけど、
後でトイレに入って性器を確認すると案の定カウパー液で濡れていた。
ちょうど仕事の谷間も時期だったので、衝動的に有休を取って平日の昼間に六本木の国立新美術館まで行ってミュシャ展を観に行った。
連休にぶつかると混雑は必至なのはわかっていたので、そうなる前に観に行きたいと思って行ったのだが行って正解だった。
とはいえ、平日にも関わらずそれなりに人が多かった(ちょうど草間彌生展も同時開催してたので、そちらの客入りの影響もあったのかもしれないけど)。
少し前のNHKの特番を見て予習したのだが、やはり生で観るのとでは迫力が全然違った。
まず、ミュシャの画風がスラヴ叙事詩とそれ以前(パリでポスターとか広告絵を書いてた頃)で全くの別人のようで大変驚いた。
スラヴ叙事詩はそこに描かれた苦難の時代を生きるスラヴ人の眼力の凄まじさに、まさに射竦められる心地がした。
「残りの人生はスラヴ民族のために捧げる」というミュシャのの真摯な姿勢が感じられた。
一般的なミュシャのイメージといえば、パリ時代のサラ・ベルナールの舞台のポスターに代表される作品群だが、これはこれでもちろんよかった。
花と女性の四部作に描かれる女性は官能的だけど、決して下品ではないエロティズムが魅力的だった。
「花と女性」だけでなく、宇宙的なモチーフ(太陽・月・六芒星・星座)も取り入れられてるのも特徴的だった。
故郷のチェコ(当時はチェコスロヴァキアか…)に戻ってからもパリ時代のポスター画みたいな作品をいくつか描いているが、
そこに描かれる女性は少し趣が異なる、スラヴ系特有の丸顔が特徴的だった。
朝の10時半頃から昼過ぎの14時までゆっくり鑑賞することができて満足した。
帰りは遅めの昼食を東京ミッドタウンの中の店で採った、新宿にもあるだし茶漬けえんで冷汁を食べた。これは美味しかった。
『伝奇』とは「普通には起きようもない話」が辞書的な定義みたい。
エロゲでいうとこのちょいファンタジー要素のある鍵作品は伝奇に入るか? の回答は厳密にはYesなんだろうけど
奇の部分をメインに語ってる訳じゃないし。
要は「それまでの日常に、非現実的な非日常が持ち込まれる話」みたいな定義なのかもしれない。
たぶん夢枕貘とかの「伝奇バイオレンス小説」が流行ったあたりからイメージが変わってきたんだろうけど、「竹取物語」とか「日本霊異記」とか、そういうのが本来の伝奇ですな。
ホラー的なものもあるけど、もっと広い意味での「空想物語」っつうか。
ついでに英語でいうとromanceなんだけど、こっちはこっちでまた意味が変っちゃってる。
【1】伝説、伝承(神話など)あるいは、伝説上の存在(魑魅魍魎の類、鬼とか)をストーリーに絡める
2.が分かりづらいかもしれないけど。なんていうか、気がついたら異世界に 片足突っ込んでいたという感覚、自分が正しいと信じていたものが実はそうではないかもしれないという感じを登場人物が抱くといったら少しはわかりやすいかな。
伝奇エロゲーには人ならざる者が出てくるゲームは結構あるけど、 周りの人間があっさりとそれを受け入れていて、2.の感じが出てないのは伝奇とは違うかもしれない
■『伝奇』
gooのネット辞書あたりで引くと「怪奇で幻想的な物語」とかナメた反応が出る。
これを言葉通り捉えてしまっては頭に述べたように本当に何でもアリになってしまうので少し、伝奇モノの歴史を
語っちゃおう。
そも、伝奇というジャンルの開祖としてよく挙げられるのは半村良です。
70年代のことですね。
無論、国枝史郎等の先達があってはじめて彼が浮かび上がるわけですが、
それまで単に荒唐無稽な物語として埋もれていた伝奇というジャンルを復興し、
HMにおけるブラックサバスみたいな存在なのです。(ちょっと違うか)
そこに科学的な(というよりSF的な)メスを入れることをその切り口としています。
「現代に起こる怪事件を、神話や伝説にその因を求め、解決していく」というものが、
YU-NOなんかにも通じるスタイルです。
(もっともあれはワイドスクリーンバロック的な造りをしているので、伝奇の枠に入るとは思っていませんが)
その、半村の引いたレールの上に乗ってきた後続者たちが荒巻義雄、志望田景樹、谷恒生といった人々です。
推理小説であったり、冒険小説であったりする色を添えて、独自の作品を作りました。
伝奇が半村一人のものではなく、一つのジャンルとして成長を遂げた瞬間です。
前者が格闘技の要素を、後者がスプラッタ・ホラーの要素をぶちこむことで生まれた
「伝奇バイオレンス」というジャンルは凄まじいまでの人気を誇りました。
おどろおどろしくも官能的な美女の絵で彩られたノベルズの表紙に、まだ小学生だった私は、
「バンパイアハンターDの人の本だけどエッチな表紙すぎて買えないよぅ」とか思ったものでした。
数多くのフォロワーを生み、まさしく時代の寵児となった伝奇バイオレンスですが、
80年代後半の黄金期を最後に、ノベルス界王者の椅子をミステリや仮想戦記ものに譲ったばかりでなく、
幾つか理由はありますが、一つには伝奇+バイオレンスだった筈の作風が
バイオレンスの側に大きく傾倒してしまったことが言えるでしょう。
殊にセックス描写等に関しては、ポルノ同然の有様であったといえます。
伝奇的な設定の妙にしたところでオカルティックな、とってつけたような設定をもってこなされ、
粗製乱造がなされていったのです。
まあジャンル全体の質が低下してしまったことで、ブームの終焉が訪れるのはやむをえなかったのでしょう。
さて、こうして伝奇モノは数ある中の一ジャンルに帰ってゆくのですが、
エロゲーライターにおいてもそれは同様で、「痕」の高橋龍也なんかの(エロゲーにおける)先達は、
間違いなく彼らの血を引いていると言えるのではないでしょうか。
これを読んでくれている皆さんの方が詳しいだろうと思います。
ここまで言って結局私が何を言いたいのかというと、一つには伝奇の歴史を紐解いて分かるように、
このジャンルはあらゆる別ジャンルのものと化学変化を簡単に起こすということです。
エロゲーにおいてもやはりそうで、因をクトゥルフ等に求めるものは「伝奇ホラー」、
さっきから板違いっちゃ板違いで扱いにくい痕なんかは「伝奇SF」に本来ならカテゴライズされるものでしょう。
そういう意味では寧ろ物語構造の方にその特色が強いジャンルだとも言えます。
アザーン(اذان adhān)は、イスラム教における礼拝(サラート)への呼び掛けのこと。
ユダヤ教のラッパ、キリスト教の鐘と同じような役割をしているが、肉声で行われることに特徴がある。
「神は偉大なり」という意の句「アッラーフ・アクバル」の四度の繰り返しから始まる。
イスラム教国旅行記ではしばしばアザーンを指して「一日5回モスクから流れるコーランの朗誦」といった記述が見られるが、
アザーンは礼拝への呼び掛けであって、コーランの朗誦ではない。
イスラム教ではアザーンと一緒に音楽を流すことは禁じられている。
そもそも、イスラム教正統派は、教義上、音楽を官能的快楽をもたらすハラームとして容認してはいないからである。
聖典の読誦であるキラーアやアザーン等の詩歌は、音楽的な要素を加えられても音楽では無い物として扱われる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%B3
「99.99%の男は汚い。汚いから、女の子がやると官能的だったり、幼さが際立つことも、男がやると不愉快なだけ。だから、男は女の子が化粧とダイエットに力入れるぐらい面白い・頭いい・すごいにステ振りして殴りつけないと幸せになれない」
萌えは罪悪感を許すこと。
萌えとは「神道における大祓の人形代」と同じで、男性自身の穢れた性格・愚かさを「でも、美少女なら許せるよね」と押し付けてしまう。
といわれたら、この2つのツイートに書いてあることを投げつけたらいいと思うよ。 (キモイとしか思わない。キモイ)
同じ所に、年月と一緒に消費されるだけで何も残らないところに突っ込んでいく女の働き手が群がった結果として、産業単位で、ギャラリティ単位で地盤沈下していくあの業界と、その業界を見てると
「え?女って消費されたい生き物なの?」
簡単にできるもの、誰にでもできること、みんながやってることは消費されるだけで何も残らないんですよ。 (消費されるだけの最たる例のブロガーがなんか言ってる)
冷静に考えてみたら、美容院で女性誌読んで、友達と異性の話をさんざっぱらしてる女子に恋愛のことで勝てるわけないことぐらい気づこうよ。
床屋に行ったことない女性のために補足しとくと、床屋だと髪切りながら雑誌読めるない。あと、置いてあるものもティーン雑誌的なものじゃなくて多くの場合マンガ雑誌だからオタク力はつくかも知れないけど…恋愛力はつかないよね〜 (自分で服や美容院に行くようになってから言えよ豚)
女子会じゃなくて、君の観測範囲…つまり、お友達との共通項がそれって話でしょ?女子全般そうだというのは確認したことではなく憶測ですよね(マジレス) / “女子会の9割は下ネタと男の話。これはガチ。 - まじまじぱーてぃー” ただ、女子会の中では男が100%悪いという結論に関しては割と同意。でも、女子の難しいところは男や友達は「別れれば」が禁句で、「いい人そうなのに」とかフォローしないといけないこと。…はぁ〜 (女性にだめだしした後同じことを自分がさも新しいことを言ったかのように言い出す男ってモテなさそう)
前にゲス女問題の記事を書いた時にちらっと指摘したけど、「あなたがモテないのはあなたが気持ち悪いからです」を言い換えると、「女の子のイエスマン、女の子を悪く言わないポジションに陣取ると気持ち悪いと思われないからモテます」なのよね…。事実、提唱者の二村ヒトシ自体がフェミっぽいし(二村ヒトシ=フェミと定義してるだからトートロジー)
逆に言えば、フェミニストになればモテるんですよ。(なぜモテたくてモテる方法もわかっているのにそうしないのか。フェミニストぶってみてもモテないことを本当はわかっているのにそこから目をそらす醜い豚)
やたら愚痴っぽい女性の心理は「私、悪くないよね?ね?」だと思ってる - かくいう私も青二才でね (やたら愚痴っぽいブログを書く豚の心理は「僕悪くないよね?ね?」だと思ってる)
僕がMARCH以上入ってヤリサーに走ったり、お水の女王になってみたりして「社会に反発する私ってロックでしょ」とかやってるのを見ると「いや、君ら学歴でキャラ立てたり、ちやほやされてるんだから、君らほど体制的で権威主義な人達もそうはいないと思うよ。それも人の金を無駄遣いして」と思う (日本語がおかしい)
私の仮想敵は勝って当たり前な人が更に勝つためにしか才能を使わない人です。ほんとうは、そういう人達に「業が深いですね」といえばいいのかもしれないけど、そもそもカルマという概念に自覚のない人らだから…会話が成立せず一方的に苛々する (自己紹介乙)
つぶやきの内容が腹黒くなってきたから、離れるか…。(いつもはもっとまともな発言をしてると思っているらしい)
オレにしてはよくできた(むしろ、できすぎた)恋愛記事がかけてしまいました。女の子に愚痴られた経験、ブッチされた経験がここに生きていれば、次の恋が近々芽生えるんじゃないかな?と思います…はい。(ない)
汎用えりりさん @eririsan_usagi 18時間18時間前 滝ニ臭を感じた (これだけわかりやすく自分の内面暴露してたらそりゃ出身校バレるよな)
続いた躁状態にようやく終わりが見えてきた。やっと人並みにつかれたというか、ちゃんと体内時計が働いて眠いというか…。体内時計がおかしいと、ほんと良くない。人間が壊れる。 (これだけ好き勝手わめいて、躁状態が終わって鬱になったといっても全く同情の余地ないしこいつの躁状態はひたすらに迷惑だからずっと鬱でいればいいのに)
この間、DeNAのイベントで見てきたものと、最近感じていることから「これから先どうなるだろう?」というものを書いてみました。/これから起こる『ライター業の衰退』と『ブロガーの台頭』について|三沢文也|note(ノート) (斬新すぎるnoteの使い方)
なんか、kanose周辺の人は過激さでも、問題に突っ込む意味でも役割がtogetterに取って代わられたから、あの人達から完全にネット民的な強さが消えちゃったよなぁ〜。はてなダイアリー時代はネット民的にニュースやおかしな人を三枚おろしにしてきた連中がことごとく弱くなってる (ネット民的な強さって今じゃただのニート)
最近は増田というだけで脱糞が許されたり、ことによると誇るべき勲章だと考える似非増田が増えている。
なげかわしい。
本来増田が蔑まれるべき対象であるのと同様に、脱糞もまた蔑まれるべき行為だ。
我々は人間なのだから、うんこは当然便器にするべきであり、それ以外の場所でぶちまけるなどしつけのなっていないネコ以下の畜生である。
自分から積極的にその下劣さを憎みつつも、波打つ括約筋の秘すべき快楽に抗えない、
そういう隠微で官能的な行為であるべきなのだ、脱糞とは。本来は。
だというのに、なんだそのざまは。その有様は。
まったくもってひどすぎる。
すき家の新作メニューにも劣るフランケンシュタインのモンスター的生ごみ、
ネット社会の恥部オリンピック日本代表のはてな匿名ダイアリーの利用者、
純然たる無為、
増田なのか?
四六時中どこでもウンコをもらして許されるといった風情じゃないか?
だが、逆なのだ。
おまえが世界を所有しているのではない。
おまえが世界に所有されているのだ。
誰にも支配されなかったお前の胃腸を、お前の肛門を、お前はやつらに捨て値同然で売り払ってしまった。
ブクマという悪銭と引き換えに。
思い出せ。
あの恥じらいを。
忘れるな。
あの屈辱を。
噛み締めろ。
あの劣等感を。
堂々と脱糞するな。
自慢気に脱糞談を書くな。
俺たちはクソみたいな存在だ。
だが、クソそのものではない。
俺たちには常に脱糞がついてまわる。
おまえは増田だ。
おまえは脱糞ではない。
おまえは増田だ。
おれたちは増田だ。
だが安易すぎる自由は、安価すぎる自由は、やがておまえを殺す無為に満ちた自由の刑と成り果てる。
おまえはいつでもどこでもクソを漏らしていい社会に直面したとき、もはや何者でもなくなる。
おまえが初めてクソを漏らしたときのことを思い出せ。
それが俺たちの原点だったはずだ。
俺たちは十一人。
互いに交わらず、互いに傷つけず、互いに愛さない。
誰からも賞賛されず、誰からも顕彰されず、孤独にdatの海に散っていく。
綴る言葉の価値はbotがランダムに打つワードサラダと等しく、
拠って立つアカウントも肉体も何もない。
それを忘れるな。
俺たちは増田だ。
大きく分けて見分けるポイントは2つ。
・1つは、かわいいアピールが女性向けであるか、男性向けであるかということ。
なぜそれが違ってくるのかというと、満たされる欲求が違うから。
女性に認められたいときは自己実現欲求だし、男性に認められたいときはずばり性的欲求。
当然本人もある程度コントロールしているものだけど、性的欲求を知らずに求める=セックスの快感を忘れられないでいる可能性が高い。
つまり、男性向けにかわいいをアピールする女は、処女でなくなっている可能性が高い。
・もう1つは、エロアピールが露出であるか官能的であるかということ。
だからエロアピールしようとするときに、どうしても裸や下着を露出しようとしてしまう。
でも、非処女は当然セックスで得られる官能を知っているので、エロいことを想像しようとするときに行為や実際の快感をイメージしてしまう。
当然セックス相手の反応も学習しているので、自分が感じている時に男性が喜ぶことも知っている。
つまり、エロアピールするときに思考停止して露出するような女性は、まだ経験したことがない可能性が高い。
逆に、セックスを経験している女性であればあるほど、さり気なく官能的な姿を折り込んでくるものなのだ。
おそらく男性諸君は、エロいしかわいいけどそうじゃないを感じたことが過去に幾度なくあるはずだ。
それに、特定女性のSNSを追いかけていて、ある時期を境に何となくその女性に対して(もしくはその女性に対する自分の感情に対して)嫌悪感を抱くようになったこともあるのではないだろうか。
それはつまり、同じエロで同じかわいいなのにもかかわらず、アピールしたい対象が変わったことを感じ取ったからに他ならない。
SNSは危ういところは、その女性の過去と現在とをアップされた画像によって簡単に行き来できてしまう点だ。
それともう一つ、女性は処女を失った直後に妙に達観した態度を見せたがることがある。
絶望感に近いような無感動さや無関心さを見せたがるのだ。
ぜひ自身がフォローする女性のアップする画像の変遷を確かめてみてもらいたい。
過去と現在とを大きく行き来している間に、いつの間にか変化していることに気がつくはずだから。
そうしてその時期を追い込んでいくと、必ずと言っていいほど無感動な自分を見せようとする姿をアップしているはずだ。
その時期こそが、その女性が処女を失った時期といって間違いないだろう。
その女性の身につけているものや普段の格好、羞恥心の傾向など幾つかのポイントを抑えるだけであるが、それはまた別の機会にしたい。
豚まんって今本当に26歳なんだろうか。どう考えてもロスジェネの35歳すぎのおっさんの非モテ語りなんだが。
99.99%の男は汚い。汚いから、女の子がやると官能的だったり、幼さが際立つことも、男がやると不愉快なだけ。だから、男は女の子が化粧とダイエットに力入れるぐらいには面白い・頭いい・すごいにステ振りして殴りつけないと幸せになれない
こういうこと書くと、ネトフェミから「男だってイケメンになったらモテるんだから、女の子みたいにキレイにする努力をしたらいいじゃないか」と言われそうだけど…男のキレイ枠ってもっと狭き門だと…いや、説明しなくてもわかるだろ?そんぐらい
合コンで高学歴以外に「女子大」といえば、お株があがるけど、男は東大・早慶以上じゃないとお株が上がらない。(しかも、文系でお誘いをウケる程度に見てくれがいい人しか上がらない。)キレイ枠の狭さをそこからも感じ取ってほしいと思う限り。
いい意味・チヤホヤする意味での「○○女子」は多いけど、「○○男子」はものすごく少ないことからも、「女子の枠の方が多い」ことをいい加減に理解して欲しい。
(99.99%の才能があるわけでも、キレイ枠でもない男は)みんな死ぬしかないじゃない!
年齢が上がった時にしんどくなるのは女性の方なんですよね。(若いころに「枠」に救われる人が多かったとしても、中身をつけるか、争いから上がらないとしんどくなるのは女性だから、そこはとっても難しいですよね…)
男の場合、「結果」がお金のことになるから趣味の先駆者・名人は人間扱いされづらいんですよね…。頭がいい人、ニッチな分野ですごい人はいるけど、その位置だと、社会的にもモテ的にも報われないのが難しい所。一方で、「モテ」に関しては、お金を貰わなくても、何十人に評価される必要もないから抜け道がある。女性の場合は「男だらけの趣味・仕事・学問に行くとモテる」とか。ただ、女性特有の難しさはその後。モテてるうちにあがるか、実力をつけないと積み上げたものも失う危険が。
しゃべってるうちに気づいたけど…これって男の場合は受験とか試験の年齢と同じような競争・序列の世界に生きてるしんどさで、女性の場合は寿退社の時代のしんどさ(ゴールは自体できるけど、ゴールは強制。タイムアップ=ゲームオーバー)という別のしんどさなんでしょうね…
結婚しない選択・そういうことに配慮がないぐらい女性が少ない場所にいたら、男並みに仕事を求められていきなり、男的な競争に巻き込まれてしんどそうな気が…。うーん…
言葉足らずだったから補足。年を経るごとに競争に慣れたり、逆に競争に勝てばいくつになってもチャンスがある男にはない辛さが、「いきなり男並みの競争に投げ込まれるか、モテてあがるか」の二者択一になることなんですよね…そこを配慮した言い回ししないとダメだなぁ…僕が
ガチのヤリマンは男に依存してるから、男にやさしい&優しくされると一時的に本当に転ぶ心のやさしい人がいるけど、ヤリマン気取りは経験を振りかざして「ゲスな話できる私、素敵」とかやります。実際のところ、後者は「いい肉」ってだけ。前者は共依存して両方ダメになる程度には魔力がある
今だと、ちょうど 第1回 日本官能ノベル大賞が 12/14 に締め切りしたところなんだよね、笑。
http://compe.japandesign.ne.jp/nihon-pornographic-novel-2015/
フランス書院文庫官能大賞は毎年5月末、11月末締め切りで、年2回の募集がある。
http://www.france.jp/c/etc/f_0181.html
http://ktcom.jp/wanted_illust.htm
・二次元ドリームノベルズ・ドリーム文庫に相応しいテーマ性(エロさ)を内に秘めている方。
・エッチシーンの少ない小説を書きたい方は本レーベルには向いていないかもしれません。
http://anond.hatelabo.jp/20151201143130
メールを受け取った私がまっさきに行ったのは、ムダ毛周りの処理であった。
風呂には入り終わっていたし、施術の前にも入ることになっていると言うが、毛については自宅で処理をしていくほうが賢明だろう。
忘れちゃいけない脇の下も処理。
どこをどれだけどうされるかはわからない。
施術者をげんなりさせる要素はひとつでも減らしておきたいではないか。
ムダ毛を刈りつつもメールのやり取りを数回行い、1時間後に最寄りの駅で待ち合わせ、ということになった。
そこから車でラブホ(ファッションホテルという呼び方はいまだに馴染めないものを感じる)へ向かい、めくるめく春の世界へ、というわけだ。
殺されるかもしれないと少しだけ思ったので、ノートPCをつけたままにし、マッサージ店のサイトを開いておいた。
そしてふと思い立ち、はてなのアカウントを作り、今から出かける旨を書き記した。
リアルの身分をトレースされないため、バッグの中には必要最小限のカードしか入れていない財布と、がっちりロックしたスマホと、部屋の鍵、ミンティアだけをぶち込む。
そしてコンビニへ向かい、ホテル代込みのゆとりを持った予算3万円をキャッシングする。
性のためにこんなにもお金を使うのははじめてだ。
(ちなみに、今までのエロへの最大支払い額は、官能ドラマ的なものを聴くダイヤルQ2に払った8000円程度である)
「はじめて」。
駅に向かうバスの中でしみじみ思う。
本当に好きな女の子とヤレるか、というのはお金の問題ではないかもしれないが、好みの容姿の若い女の子に中出し、くらいであればソープで10万も払えばイケるのではないだろうか。
私の定番オカズAV(しかもサンプルを使っている有様だ)「しろうと関西援交」など、ピチピチ女子高生2名を一気に買い、ひとりに挿入しつつももうひとりにアナル舐めをさせるという幸せそうなことを当たり前のようにやっている。
しかし、アーイグイグ~~とうめく映像の中の彼はとても気持ちが良さそうだし(その声が大変にヌケるのだ)、あれがリアルな援交なのだとしても、きっと1人につき5万も払ってはいないように思う。
羨ましい。
私も若い女にチンポをハメてみたい。
処女を優しく、かつ荒々しく奪い、キツいマンコに耐えきれず中出しなどしてみたい。
私にそれをしたあの親指チンポの彼のように(中出しではなかったが)。
若い童貞ならどうだろう?
お金を払えば買うところまでは行けるかもしれない。
ただ、買った男の子が私に勃起してくれなくては全く意味がなくなってしまう。
ホストなどでもそれは同じことだ。
「私に欲情して」というようなことを書いた作家は誰だっただろう。
まったくもってそれなのだ。
私が好いた誰かに欲情されて、イかされたい。
だって私が触れてきたエロメディアの女性達はそうだったのだから。
好いた誰か、は諦めた。
欲情される、なんてこの年齢と顔と体ではおこがましい。
イかされたい、が最後の砦といえた。
待ち合わせの駅に着くと、少しだけ雨が降り始めていた。
「到着したらメールします」と知らされていたが、メールはまだ来ない。
手持ち無沙汰に、普段のようにTwitterを、LINEを見て、何気ないツイートや、返信をする。
ここで「今から回春マッサージしてくるよ」と入力したら私の何かが変わるだろうか。
最後の彼には連絡してみようかな。
思わなくもなかった。
そこにメールが届く。
「自販機の前に着きました」
小さくて丸っこい車がそこに待っていた。
車内はよく見えない。
「あ……トウヤマです」
メールで名乗った偽名を告げる。
思い切ってその丸っこい車のシートに身を委ねた。
なぜマッサージを呼ぶことにしたのか、その経緯などを話した気がする。
おそらく私は饒舌だった。
オッサンも饒舌であった。
そう、回春マッサージの施術者は、おそらく50代くらいであろうオッサンであった。
小柄、メガネ。不潔そうではないが清潔とも言い切れない。
私が「今日の予約がダメなら縁がなかったと諦めるつもりだった」と告げると、たまたま今日に限って「通常の」マッサージの常連からドタキャンがあったため受けたのだと言われた。
日頃から「持ってる女」だと自負していたが(ならなんでイケないのか?きっとそれは多分、別問題だ)ここでそれを発揮するとは思わなんだ。
車は、オッサン推薦のホテルに滑り込む。
うっすらと見覚えのあるホテルであった。
週の頭にしては混みあっているそのホテルに、空室は3つしかなかった。
5000円代の部屋は安いのか高いのか。
今まで数多のラブホに入ってきたが、値段はあまり意識せず部屋を選ばせてもらっていたなぁと申し訳ない気持ちになりつつ、もちろん選んだのは安い部屋である。
小さなエレベーターに乗り込むとき、少し身体がこわばるのを感じた。最後の彼に、よくエレベーターでキスをされていたからだ。
しかし当たり前のことだが、オッサンが私にキスなんぞするわけがない。
自分の警戒心に苦笑しつつ部屋に入る。
激しい既視感が駆け抜けた。
この部屋、入ったことがある。
厳密に言えば全く同じ部屋ではないかもしれない。フロアが違うかもしれない。
でもこの内装は見覚えがあった。
最後の彼と1度来たことがある。
この部屋でしたセックスも思い出せる。
一緒にサッカーを観た帰り。デブの私がレンタル衣装を無理やり着て、制服プレイをした部屋である。
………つくづく「持ってる女」だな、私。
一気に覚悟が固まった。
冷蔵庫からサービスの水ペットボトルを取り出し、ひとくち飲む。
車の振動でまたマンコが濡れていた。
下着はつけておいて下さい。
そう言われたのでガウンの下にはブラジャーとパンツをつけてあった。
ベッドにうつぶせになるように促すオッサンに従い、ラブホの大きなベッドに横になる。
他の女性専用マッサージはどうなのかわからないが、このオッサンの手法は普通のマッサージを施したのちの性感マッサージなのだという。
罪悪感が軽減される、いいシステムだと思った。
例えば誰かにオッサンと一緒にいる場面を見られたとしても、あくまで「普通のマッサージにお金を払いました」、という顔ができなくもない。
で、オッサンのマッサージは上手かった。流石にこちらが本業だけある。
特に良かったのが二の腕のマッサージ。二の腕なんて揉まれたことがなかったが、存外に疲れていたのだとしみじみわかった。
相変わらず二人とも饒舌だった。
それと、オッサンのスンスンという鼻すすりが気になった。
寝てもいいですよと言われたがそんなもったいないことはできない。
気持ちいいことをされているあいだは気持ちよさを全力で感じていたいのだ。
今まで行ったマッサージ屋の話、高速バスの話、最後の彼によくマッサージをされたが正直いつも痛かったという話など、美容院でもマッサージ屋でも「黙ってやって欲しい、ほっといて欲しい」と思う私なのに、よく喋ったと思う。
なのに、1度でいいから人に触られてイキたかったからあなたを呼んだのです、ということはどうしても口に出せなかった。
いっぽう、オッサンはスンスンとよく鼻をすすった。
「普通の」マッサージからだんだんと、尻たぶを揉み、横乳に触れ……というものに切り替わってきた。
来たか。
マッサージでほぐれた身体ではあるが、内心の緊張は隠しきれない。
うつぶせのまましばらく触れられていると、鼻をスンスンさせながら、オッサンの手が太ももをそっとひらく。
下着の上からつうっ……と、マンコをなぞられた。
舌!?
そう思うほどの繊細な触れ方にまず驚いた。
AVを見ていても、パンツ越しにマンコを触るシーンとマンコにパンツをくい込ませるシーンはイラつきながら飛ばす私が、少し感じてしまったことに衝撃を受ける。
舌のような指がマンコを這う。パンツの上からだからこそのもどかしさが襲ってくる。
これは、気持ちがいい。
うっとりとかよりも、驚きが先に立った。
オッサンはうつぶせの私に対してどうポジショニングしているのか、よくわからない。顔にタオルをかけられているからである。
オッサンの姿勢を想像してしまい気が逸れるが、「身体を起こして下さい」と言われてぼんやりそれに従った。
ベッドに座ったオッサンに身体を預け、もたれかかる。
オッサンは後ろから私の乳をそっと触る。
もともと胸は私の性感帯である。心地よさを感じて目をぎゅっと閉じて感覚を味わう。
オッサンが私の手をそっと握ったのである。
本当に申し訳ない。こんなデブスババアの体なんて触りたくないだろう。万券もらったって、ボランティア同然だ、そうわかっている。
オッサンは汚くはないし無臭である。マッサージもうまい。マンコを上手に触ってもくれた。
でも、手は握られたくなかったのだ。
なんとまあお綺麗なことである。
「娼婦だけど唇は許さないの」の逆バージョンだ。「男は買うけど手は握らないで」。
そっと、オッサンの手がブラのホックに触れる。やりにくそうに肩ひもを落とし、ガウンを脱がす。
直接触れられると声が抑えられないほどの感度の乳首なのに(ブラ越しでも机などに擦れると感じてしまうことがある)、その時はオッサンの手つきにあまり興奮を感じなかった。
このまま冷めてしまうのだろうか。
ふたたびうつぶせになるように促される。
今度はパンツを脱がされて、指で直にマンコを触られた。
普通のマッサージの時から思っていたが、オッサンの指はすべすべしている。
すべすべの指が私のマンコのぬめりを掬い、縦に撫でる。これは気持ちがいい。マッサージされている時から、気持ちいい部分では声を上げていたので、その延長で私は声を出した。
クリトリスを撫でられる。うつぶせのままで触れられたことは多分ない。変な感覚だがイヤではなかった。イケそうかと言われたらまだまだ遠いが、気持ちがいいので声を上げる。何度もそこを擦られる。
そこにまた不快感が襲う。
オッサンの指がマンコに侵入したのだ。
電マを友としているくらいだ、私はクリトリス至上主義、マンコの中には何ら感動を感じない人間である。
AVの激しい手マン、その果ての潮吹きには憤りすら感じる人間である。
そういう意味での怒りなのか。
手を握られた時の感情と同種の怒りなのか。
そういえばNG行為的なことは全く確認されなかったなとふと思う。
指入れないでください、と言っておけばよかった。
あいにく私はこういう時(たとえば、飲食店でオーダーミスをされた時、たとえば、ネイルサロン側のミスで2時間待たされるハメになった時)、強く出ることができない人間だ。
そんな女だが、もちろんここでニコニコ笑いはしない。今日はイキにきたのだ。払う金の単位も違う。静かな抵抗として、クリトリスを触られていたときは自然に上げていた声をむっつりと潜めて、オッサンの手マンを批難した。
手マンはそれほど激しいものではなかった。入り口をクイクイ、指先をヌプッ、その程度だ。鼻をほじるのと何ら大差はない。
それでもさっきまでの気持ちよさは飛び散り、まさかこのまま手マンで終わるつもりじゃないだろうな?という暗雲が脳裏によぎる。
私の温度が明らかに下がったことに気がついたのか、オッサンが「足がむくんでましたから、オイルマッサージしておきましょうか」と囁く。私はそれを承諾した。
オイルをぽたぽたと体に垂らされるのは実に官能的だった。
「Oh」もしくは「Ah」という表記が相応しいだろう。
背中から腰にかけてを指でソフトに撫でられると、くすぐったさに声が出た。
まずはうつぶせた背中側を。肩、ふくらはぎ、足の裏。オイルで滑ることによってオッサンのマッサージ技は数割増に心地よく感じられた。
イカなかった。イカなかった。けどまぁ、クッソ高いマッサージを買ったと思えば……そう落としどころを見つけかけた時、鼻をすすりながら、オッサンの手が再びマンコに忍び寄った。
オイルでぬるついた指が再びマンコに侵入する。
うつぶせのマンコに人差し指と中指を入れているため、ケツの穴に親指が当たるのが大変に邪魔くさい。気が散る。つくづく私はクリトリスだけを触ってほしいのだと思い知る。オッサンは人差し指に中指を絡ませるアレでもってマンコを攻めはじめる。チンコ脳特有のアレである。イクぜ!俺の指技!と思っているのかもしれない。大変に迷惑であるのであれを言い出した奴は終身刑を食らうべきだと多くの女が思っているはずのアレ。Gスポットがあると信じている(あるのだとは思うが私にはそれはガンダーラでしかない)男のユートピア、Gスポット手マン。ゼイ・セイ・イット・ワズ・イン・ヴァギナ。
もちろん私は無言である。
痛みすら感じて枕に顔を埋め、黙り込んだ。
オッサンは指技が通用しないことに焦りを感じたのか、鼻をすすりながら、私に体を仰向けるように指示した。
オイルでぬるついた乳輪を、オッサンの指がこねくりまわす。
オッサンがどうやら指のみしか使わないものと読み、言い出さなかったが、心の奥底では激しく乳首を吸われ、噛まれることを望んですらいた。
大きく声をあげる私に安堵したのか、オッサンは鼻をすすりながら再度、マンコに指をのばす。
もう同じなので省略するが、手マンに対して私は無言を貫いた。
反応するのはクリトリスにのみ。そう決めて黙り込むと、オッサンはようやく察してくれたようだ、指でクリトリスを撫で始める。
電マほどの安定感がないことに対する、嬉しくない焦燥。
ああ。
親指チンポの彼の苛立ち、今ならわかる。
愕然とした。
でも、だけど仕方ないじゃないか。はじめて私をイカせたのは電マ、私を一番多くイカせたのは電マ、文句を言わず、何も求めず、私がデブでもブスでもババアでも、黙って奉仕してくれるけなげな電マ。
電マじゃなきゃ、多分。だれとしても同じだ。
私は人とのセックスでイクことが、多分できない。
マジかー。
今、こうやって赤の他人にクリトリスをなぶられながら、こんなことに気がつかなくたっていいじゃないか。
こうなったら意地でもイってやる。
中イキじゃなくていい。クリイキでいい、でいい、というかそれが私のイキ様だ。いつも通りイッてやる。オッサンは2時間14,000円の、ちょっとテンポの狂った電マである。本来業務であるマッサージはうまい、単なる電マである。
オッサンは鼻をすすりながらクリトリスに集中している。私はタオルで顔を隠されているのを良いことに(それでも恥じらい、ためらいはあった)自分の胸をわしづかみにした。
ぬるついた胸は自分で触っても最高にエロい感触で、乳首を撫でると腰が浮いた。
左右の乳首とクリトリス。ここだけ触られれば十分なことを再認識する。いつものように足をピンと伸ばせば、オッサンの手ももうマンコには侵入できないだろう。私は3点の快楽に集中した。何分経っただろう、多分5分はなかったと思う。イキそうになる。ここでやめたら許さねぇ!という気持ちと、マンコに指入れるなよ!という気持ちを込めて声を大きめに上げる。
「スンスン(鼻)」
「イクゥゥウゥ!!」
イッた!!!!
ここで私によぎった喜びは「他人の指でイッた」ということに対してのものではなかった。
そういう、とてもがめつい喜びだった。
快感の度合いで言えば、ダラダラ1時間くらいクリトリスを電マで刺激したあとに味わう本イキのほうが断然上だと言えた。
それでも。イッたのだ!!!
達成感に包まれている私の太ももを、オッサンはそっと撫で、終わりですよ感を醸し出す。
おいおい、それじゃあ私がすっげぇ汚ねぇみたいじゃねーか、とは思ったが、実際汚らしい外見のマンコなので文句は言えない。
「あ〜〜〜〜、損した」
オッサンに14,000円を支払い、ホテルの部屋代を精算して、再び車に乗り込む。
どこそこのうどん屋が移転したとか、チェーンのマッサージ屋はテクニックがどうとか、そんな話で帰路は終わったと思う。
自宅にほど近い、さっき3万円キャッシングしたコンビニまで送ってもらうことにした。
「いいですよ、そういうの大歓迎」
なにが歓迎かよくわからないけど、オッサンはコンビニにするっと車を入れた。
「ボクここでタバコ1本吸うんでね。コンビニ出たら知らん顔して帰っちゃってください」
そう言ってオッサンは、さっき私のマンコの中に入れた指でタバコを取り出した。
その代わり心がずしんと重かった。
「汚れてしまった」みたいな後悔ではない。
万単位の出費に値する快楽が得られなかったことへの後悔、というか、失望であった。
それでも私には電マがあるじゃないか、という安心感と。
コンビニを出る。オッサンの車はまだあった。コーヒーのひとつも渡してあげるべきかと思ったけれど、他人のふりがスマートだろう、もうお金は払ったのだから。
シャカシャカとコンビニ袋を鳴らしながらアパートの階段を上る。
鍵をひねって、「ただいま」と言う瞬間、私はとてつもない多幸感に包まれる。
部屋に帰ればいつでも、電マが私を待っているのだから。
そう心から思えた夜だった。
1980年代に反解釈がやってきたころにも反権威主義だのを掲げる実際はただの反知性主義の人間たちが過剰に持ち上げ、そいつらの反解釈の実践がしょぼすぎて下火になったが、Charlotte擁護で見かけるとは思わんかった。あの時と同じようにやはり同じような反知性主義の人間が持ち上げていたのでもう苦笑するしか無い。
反解釈は何も考えずに豚になれっていう知的怠惰とは全く逆だ。自分が興味ない部分は全部解釈って枠に押し込めて無視し、自分が興味ある点については感性って言えばおっけーみたいなヌルい態度のやつがソンダクを引き合いにだして何かを悟ったかのように語ってるのマジで滑稽。ソンダクの理論がそんな簡単に実践できるようなものなら誰も苦労しないが、バカはすぐこの理念みたいなところに吸い寄せられて、わかった、俺の感性で勝負すればいいんだ、という勘違いを起こす。反解釈的態度というのであれば、「キャンプの奥の奥にある純真なもの」について自分が官能的態度で感じ取ったものを語るべきだ。だが殆どの人間はそれが出来ない。僕は反解釈的態度で見て楽しめましたって言ってる割に書いてる内容が全くそういう話じゃない。自分が好きだから好意的に解釈するって言ってるだけ。それはただのえこひいきであって反解釈とは程遠い知的怠慢にすぎない。Charlotte擁護してるやつも、"評価するべき点としては、綺麗な映像の数々、楽曲の質、不満を感じさせない人体の動き・アニメーションといった「作品外形」が高水準な所・そして「毎話楽しかった」ところ"などと書いているが、それはそれすべてCharlotteの本質に関係ない部分であってPAWORKSすげえアニメすげえという話しかしてない。これを今期終わった後のワンパンマンの評価に置き換えても何も変わらない。つまり何も語ってない。こいつは作品そのものについては何も語らず逃げたのだ。キャンプそのものは確かに語ろうとすると逃げていくようなものであるが、その輪郭を語ることはできる。それすらもせずにワンパンマンでも語れるようなことしか語れていない以上80年代によく見かけた「エセ反解釈信者」だ。。Charlotteという作品そのものについて語ることから逃げて、僕はこの作品楽しめました。なぜなら反解釈的態度を手にしているからですってアピールしてるけど、成果物が全くCharlotteという作品そのものについて語れていない以上オマエがそう思うんならそうなんだろうなって話にしかならねえ。ただの豚なら余計なもの持ち出してないでブヒブヒ言っていればいいのだ。
一昔前(と言っても10年前以前の、僕が高校生になる前ぐらいまでの)アニメって、変態的なぐらい小学生の萌えキャラと言うか、あの子どもっぽさと男の自意識過剰で勝手に気恥ずかしくなるなるような官能があるキャラいたよなぁ…。今は中学生ぐらいから垢抜けてない高校生と設定することが増えたが
超がつくほど今更感しかないけど、まどマギの1話ってカードキャプターの1話そっくりそのままなんやなぁ…。どっちがパクリとかって話じゃなくて、わざと「魔法少女ってこうでしょ?」という記号としてやったことだと思うけど
いいたくないけど、さくらが初登場シーンで制服を着るシーンの上着から顔を出した時の顔だけ切り取ったらエロマンガとかに同じ表情あるぞ!あの眠くてとろ~んとした顔ってむしろ一般のアニメよりも最近だと成人向け作品の方がよく見かけるようなきがするのよね…
小学生の寝ぼけ顔から始めるカードキャプターさくらは高度すぎる萌えアニメだと思う。最近の萌アニメをやれポルノだ、卑猥だと言ってるが、それは露出とかあざとさが増えただけで、萌えっぽいことはもっと昔のほうがやってるし、むしろシチュエーションや属性だけ見ると昔の作品の方が掘り下げてるよね
今まで人をアスペだのゆとりだの罵る人の気持ちがわからなかったけど、今さっきおでんを買いに行った時に、おでん種4つに対して、からしを4つつけようとしたお兄さんを見て流石に「ちょっと抜けすぎだろ!」と思った。それこそ、ゆとりとかアスペとかそういう言葉が頭に浮かぶほど…