はてなキーワード: 仮想戦記とは
東南アジアに出張してつい先月に爆弾テロ起きた現場近くのホテルやレストランを利用して戦々恐々としていると、本当に日本はそういう問題が無くて良かったと思う。
ブリカスはじめとする欧米宗主国の植民地政策が悪んだけど、その尻拭いさせられてる独立後の政府に同情する。
でも日本だって、19世紀に北海道がロシアの領土にされて、アイヌが間接統治の尖兵になってヤマトを虐めて、ソ連時代は民族対立が抑えられていたけど、冷戦後に吹き出してアイヌとヤマトで殺し合いして、んで当然ヤマト寄りの日本政府への反感からアイヌ過激派が東京の地下鉄でテロやって通勤中の俺が死ぬ、
なんてことになってた可能性はあるんだよな。明治政府グッジョブというか。
そう言えば、こういう「現実とは違う歴史を辿った日本」というフィクションのジャンルってなんて呼ばれてるの? 戦争しないなら仮想戦記ではないよね? 単にSF?
『伝奇』とは「普通には起きようもない話」が辞書的な定義みたい。
エロゲでいうとこのちょいファンタジー要素のある鍵作品は伝奇に入るか? の回答は厳密にはYesなんだろうけど
奇の部分をメインに語ってる訳じゃないし。
要は「それまでの日常に、非現実的な非日常が持ち込まれる話」みたいな定義なのかもしれない。
たぶん夢枕貘とかの「伝奇バイオレンス小説」が流行ったあたりからイメージが変わってきたんだろうけど、「竹取物語」とか「日本霊異記」とか、そういうのが本来の伝奇ですな。
ホラー的なものもあるけど、もっと広い意味での「空想物語」っつうか。
ついでに英語でいうとromanceなんだけど、こっちはこっちでまた意味が変っちゃってる。
【1】伝説、伝承(神話など)あるいは、伝説上の存在(魑魅魍魎の類、鬼とか)をストーリーに絡める
2.が分かりづらいかもしれないけど。なんていうか、気がついたら異世界に 片足突っ込んでいたという感覚、自分が正しいと信じていたものが実はそうではないかもしれないという感じを登場人物が抱くといったら少しはわかりやすいかな。
伝奇エロゲーには人ならざる者が出てくるゲームは結構あるけど、 周りの人間があっさりとそれを受け入れていて、2.の感じが出てないのは伝奇とは違うかもしれない
■『伝奇』
gooのネット辞書あたりで引くと「怪奇で幻想的な物語」とかナメた反応が出る。
これを言葉通り捉えてしまっては頭に述べたように本当に何でもアリになってしまうので少し、伝奇モノの歴史を
語っちゃおう。
そも、伝奇というジャンルの開祖としてよく挙げられるのは半村良です。
70年代のことですね。
無論、国枝史郎等の先達があってはじめて彼が浮かび上がるわけですが、
それまで単に荒唐無稽な物語として埋もれていた伝奇というジャンルを復興し、
HMにおけるブラックサバスみたいな存在なのです。(ちょっと違うか)
そこに科学的な(というよりSF的な)メスを入れることをその切り口としています。
「現代に起こる怪事件を、神話や伝説にその因を求め、解決していく」というものが、
YU-NOなんかにも通じるスタイルです。
(もっともあれはワイドスクリーンバロック的な造りをしているので、伝奇の枠に入るとは思っていませんが)
その、半村の引いたレールの上に乗ってきた後続者たちが荒巻義雄、志望田景樹、谷恒生といった人々です。
推理小説であったり、冒険小説であったりする色を添えて、独自の作品を作りました。
伝奇が半村一人のものではなく、一つのジャンルとして成長を遂げた瞬間です。
前者が格闘技の要素を、後者がスプラッタ・ホラーの要素をぶちこむことで生まれた
「伝奇バイオレンス」というジャンルは凄まじいまでの人気を誇りました。
おどろおどろしくも官能的な美女の絵で彩られたノベルズの表紙に、まだ小学生だった私は、
「バンパイアハンターDの人の本だけどエッチな表紙すぎて買えないよぅ」とか思ったものでした。
数多くのフォロワーを生み、まさしく時代の寵児となった伝奇バイオレンスですが、
80年代後半の黄金期を最後に、ノベルス界王者の椅子をミステリや仮想戦記ものに譲ったばかりでなく、
幾つか理由はありますが、一つには伝奇+バイオレンスだった筈の作風が
バイオレンスの側に大きく傾倒してしまったことが言えるでしょう。
殊にセックス描写等に関しては、ポルノ同然の有様であったといえます。
伝奇的な設定の妙にしたところでオカルティックな、とってつけたような設定をもってこなされ、
粗製乱造がなされていったのです。
まあジャンル全体の質が低下してしまったことで、ブームの終焉が訪れるのはやむをえなかったのでしょう。
さて、こうして伝奇モノは数ある中の一ジャンルに帰ってゆくのですが、
エロゲーライターにおいてもそれは同様で、「痕」の高橋龍也なんかの(エロゲーにおける)先達は、
間違いなく彼らの血を引いていると言えるのではないでしょうか。
これを読んでくれている皆さんの方が詳しいだろうと思います。
ここまで言って結局私が何を言いたいのかというと、一つには伝奇の歴史を紐解いて分かるように、
このジャンルはあらゆる別ジャンルのものと化学変化を簡単に起こすということです。
エロゲーにおいてもやはりそうで、因をクトゥルフ等に求めるものは「伝奇ホラー」、
さっきから板違いっちゃ板違いで扱いにくい痕なんかは「伝奇SF」に本来ならカテゴライズされるものでしょう。
そういう意味では寧ろ物語構造の方にその特色が強いジャンルだとも言えます。
http://anond.hatelabo.jp/20160805000418
私の意見を要約すると。
・シン・ゴジラって3・11の震災と福島第一原発事故の政府対応に重ねてるよね。
・シン・ゴジラではイケメンエリート官僚や科学者がでてきてかっこよく科学的?に処理したけど
・つまりシンゴジラって福島第一原発事故処理に成功した日本政府のIFものだよね。
・これは「第二次大戦で米軍に勝利する日本軍」を書いちゃう、こっ恥ずかしい仮想戦記の類の何かだよね。
・しかもシンゴジラでは自衛隊がゴジラに冷却材(凝固剤)のホースを突っ込むために特攻して全滅しちゃうんだ。
・でも実際の福島第一原発事故では、よくも悪くも戦後民主主義で人命第一の日本政府はそんな事はさせなかったよね。
退避を繰り返し非正規労働者を大量に投入してゆっくりと泥臭く処理したね。
(状況が進捗しないし、かっこわるいね。でも現実はそういうものだよね。
そんなものを描いちゃったら政治的意思表示が必要なんじゃないの?
格好いいから描いたですまされないんじゃないの?
というところです。
「僕達の楽しいエンタメ作品であるシンゴジラ(虚構)」を(現実)フクイチに重ねるのはやめて下さい!!派
上記はつまり「こども(庵野)がウルトラマンごっこ、ゴジラごっこで遊んでるだけ」
なのに政治的意味合いを見出したり回答求めるのはヤメてよ!っていうことなんだろう。
エヴァなんかは「沖縄決戦」パクってごっこ遊びしてもなんでもいいけど。
震災から5年しかたってない2016年に、フクイチを取り扱って子供のふりして許されるわけがない。
逃げまわるつもりかもしれないが、なんらかの政治的意思表明が必要でしょう。
(はどうでもいいです)
シンゴジラでは泥沼感や絶望感や虚脱感がなかった。これを指摘するのは飽きるけどエリートばかりだった。
「軽トラから載せられた日雇い労働者がゴジラに特攻させられる描写」があったらば強烈な皮肉にはなっただろうなと思う。
これにはフクイチという重いテーマを扱ったのに、リアリティに寄せることがなかったことへの苛立ちがある。
とくにラスト。
次期大統領候補云々について、いちゃいちゃしながら喋ってる」
『ボロボロの感じで虚脱状態で「延々続く収束作業を無言で見守る」』みたいなエンドなら伝わったかもしれない。
もしくは、どこかのブコメに「あのまま核攻撃されて東京まるごと吹き飛ばされればよかったのに。」
ってのがあったけど、そうなったらホント庵野信者になったかもしれない。
だがしっくりくる。途中まではフクイチに寄せたが、最後はアニメ演出で完結させる。
「虚構でした!」「この映画はフィクションです。実在の人物や団体などとは一切関係ありません」
というオチで締める。
なんだろうかこれは。結構毎回やってるような感じがする。夢オチに限りなく近い何かみたいな。
これは「息の長い芸人・TVのコメディアン」のテクニックとか処世術とでもいうのかな。
ここ2日、創作者ってほんと大変だなと思った。
現実を切り取ってそれを虚構化して、針の穴を通すようにすりぬけて、
「ポリティカルコレクト」から上手く逃げ切る。
最後の感想はやっぱり「シンゴジラはいい、素晴らしい、シンゴジラはいいけど、でもね…。」
に戻るんだな。
ちょっと頭を整理したらまた見よう。
http://anond.hatelabo.jp/20160804171358
自称「中二病を脱した23歳増田」に乗っかる感じでシンゴジラ批判エントリーを書きたくなったおっさんです。
(あたしも10年前の20代の頃はてなのサブカルおじさんが怖かったからねw)
シン・ゴジラは「日本の実写映画」にとってエポックメイキングになりうる最高に素晴らしい作品だと思うが
この大絶賛の嵐に怖くなってきました。左側からのまっとうな批判が見られない。
まずはじめに私の感想とすると「シン・ゴジラ」は素晴らしい映画なのは確かです。
「日本の実写アクションエンタメ映画」でまともな人間ドラマを描けるでしょうか?
民族やイデオロギー宗教対立のない日本。殺人を含む強烈なDISの激突による止揚や
「個人のエゴがイノベーションを起こす」ことを良しとしないし信じない日本社会では
欧米式の人間ドラマなどは描けないのです。大抵は「もののあはれ」みたいなものに落ち着きます。
そこで庵野監督です。庵野監督は人間ドラマが描けません。人間個人に興味が無いのです。
「電子回路、ニューロンのように情報が錯綜し、通電し、組織が機能する」という
(例えばオネアミスのロケット発射の「手続き」や、エヴァ発進の「手続き」、
さまざまな人間が連携して大きなことを成し遂げる瞬間のカタルシス、岡本喜八の沖縄決戦→ネルフ壊滅なら大組織の壮大な敗北
というものに執着している感じです。そして庵野監督はその演出で他を圧倒してきたのです。
通常は連携を2、3回で終わらせるところを、
7、8、9とどんどん数を増やし、しも連携のスピードを高速化する、
それが今回は最高に上手く行ったと思います。無駄な人間ドラマを省き、人の群れを
通常それでは作劇できませんが、ゴジラという巨大な災厄を扱うことによって可能になったのですね。
とまあ、褒めるのはこんな感じで。みんな褒めてるし。在来線爆弾最高です。
ここからは批判というか危惧を書いていきます。(ネタバレ含む)
「シン・ゴジラ」はゴジラを描くとともに、明らかに3・11の震災、
そして福島第一原発(フクイチ)のメルトダウンをなぞって描かれています。
原爆の子であることことからしてそれは避けられないことでありました。
・「想定外」という言葉が何度もでてくるシンゴジラとフクイチ(フクイチ)
・そしてその放射能を測定した市民から憶測が飛び交うシンゴジラとフクイチ
・自体の収集のため米軍が介入してくるシンゴジラ、事態の収集のため米軍が介入しようとするフクイチ
・シンゴジラにホースを突っ込んで冷却材を流すため特攻する自衛隊、
「自衛隊がゴジラを冷やすために特攻して死んでしまっている」ということなんです。
これは3・11の日本政府はやらなかった。フクイチに自衛隊を特攻させれば
「自衛隊員の命」と「福島の土地の数十年の汚染」を引き換えにはできないという判断です。
そこをシンゴジラはやった。映画的には、作劇的には正しいです。
自己犠牲の魅力に惹かれるところもあるんです。
正直「自衛隊がフクイチに特攻して冷却に成功していた」ら、私も絶賛したでしょう。
その特攻を庵野監督はやった。しかも恐ろしいことにあっさりと。
(1番隊が全滅したら「日本映画のよくあるパターンのように感傷にひたる」
ことなくあっさりと2番隊がすぐさま繰り出された。
おそろしいですよ。でもこれがかっこいいんですよ。/
この冷徹な決断力、かっこよさを恐ろしいと思わないとヤヴァイんですよ。
こんなことできるのはスターリンですよ。スターリンのかっこよさに酔うんですか?)
特攻した自衛隊のように、3、11のフクイチでも自衛隊を特攻させるべきだった。」
実際の日本政府はどうでしょうか?フクイチの凍結に成功してますでしょうか?
私からすると今回のシンゴジラ、演出のエポックメイキングであるとともに、
「3・11の災厄に勝利した日本」の「仮想戦記」にみえてしまうんです。
(昔よくあった「第2次大戦で日本軍が勝つシミュレーション小説」の3・11バージョンですね。)
このシンゴジラを見て「日本はまだやれるんだ」と思った人がたくさんいたと聞きます。
いや、やれてなかったでしょ。と言いたい。3・11で負けたでしょ。無残に。情けなく。
仮想戦記で「日本はまだやれる」って酔ってたらだめでしょ。反省しないと。
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↑というような批判が欲しかったのに全く無くて困ってたので自分で書いてみた。
実際庵野監督はどうなんでしょう。「政治的意志表明」と書きましたが
ガルパンのプラウダ戦にしろアイシールド21の白秋ダイナソーズ戦のような
主人公チームが相手チームからの降伏勧告に対して突っぱねるシーンはよくあるけど、
たくさんのブコメどうもです。
そもそも思いついた発端がガルパンのプラウダ戦で、トーナメントという1敗もできない状況での降伏勧告を想定してしまったから他が思い浮かばなかったけど(それでも話が止まることはないな)。
戦争物とかは負けてもそこで終りじゃないか。
質問の件に触れる前に前回の補足と今回の質問に関係する部分をお話ししたいと思います。話が長くなって申し訳ないです。くどかったら飛ばして下さい。
ものには何でも「値ごろ感」とでも言うべきものがあり、それはその値段の歴史でおおざっぱに決まっているようです。原価や需給のバランスというのは経済学的には価格決定の要素として解説されるのですが、マクロにはともかくミクロや日常レベルではそこまでビビッドは要因にはなりません(人間の目は店頭で需給バランスが可視化して見えるというわけではないですからね)。書籍で言えば文庫本って500円から1000円弱くらいだよなあ。ハードカバーって2000円から3000円くらい? そういう肌感覚です。もちろんこれは永遠不変のものではなく、値上げしたり値下げしたりがおこなわれ、受け入れられ日常化する繰り返しです。いまから10年ほど前、おそらく文庫本の平均価格は50円ほど安かったと思いますし、僕たちが子どもの頃(というとばらつきがありますが)週刊少年ジャンプは200円を切っていました。
前回はなした「ハードカバー3000円ほどで売り出して、後に廉価版で700円ほどの文庫で出し直す」というのも、この値ごろ感が関係した結果です。最初から3000円の文庫でだし、部数が伸びるに従って値段を下げることは(少なくとも法制上や原理上)不可能ではありませんが、みなさんの「値ごろ感」が邪魔をして、3000円の文庫は購入してもらえないのです。なかには「いいや俺は本棚圧縮のために喜んで金を払うね」という方もいらっしゃいますが、それは少数派です。
さて、値ごろ感の話ですが「ハードカバーって2000円から3000円くらい」の本は売れます。多くは売れません。しかし少なくとも、その規格の本が現在でも毎月出る程度には、世間に受容されているわけです。「この大きさの商品に2000円から3000円くらいは払うよ」というのが一定読者層からは理解を得られていると考えられます。それは文庫も同じです。文庫サイズで500円から1000円弱(じりじり値上がりしています)は世間に「まあ、そんな値段のアイテムだろう」と思われているわけです。パッケージと値段のセットはセットであって、たとえば「ハードカバーと文庫の間の大きさで、値段も真ん中くらい」とか自由に決めてもなかなか浸透しません。書棚のサイズの問題や整理の問題もありますし、なにしろ値ごろ感は皆さんの内部の常識ですからそれを固定化するのに時間やコストがかかります。
角川ホラー文庫とかあとハヤカワとかの、
さてやっとこの話が出来るのですが、「B6程度のソフトカバーで1000円~1500円程度の小説を売る」というのは、最近「発明」されて「根付いた」新しい値ごろ感なのです。
いやいや昔からあったよ、という指摘もあるとは思いますが、いまほど安定できたのはごく最近のことだと思います。(さらに以前はカッパノベルスなどのノベルス判型があった地位なのですが、仮想戦記没落のあたりで徐々に廃れて行ってしまいましたね)
この新しい値ごろ感は、Web小説などをきっかけに広まったように思います(ここは私見です。きちんと統計などを蒐集すれば別の経緯かもしれません)。
新しい値ごろ感の発見というのは、そのまま、新しい読者層の発見でもあります。いってみれば「文庫しか買ってくれないと思っていたライトノベルユーザーが、少し大きめの判型であれば1200円だしてくれるのだ!」というエウレカでした。はっきりとした統計データなどはもっていませんが、現場の肌触り的な感覚で言えば、a)初期ラノベを読んでいた読者の皆さんが年齢を重ね可処分所得が増えた結果、1200円程度のレーベルでも購入してくれるようになった。b)すべての国内大衆小説が多かれ少なかれラノベの影響を受ける中で、文庫判型ではないライトノベル(の隣接したなにか)が要請された――などの実感を持っています。
日常的に書店に行く皆さんであれば判ると思うのですが、ここ数年の間に書店ではB6判型ソフトカバーのライトノベル的な書籍がふえていませんか? Web小説が主流ですがそれ以外の参入や、ボカロ小説と呼ばれるものや、自動文学的なもの、推理小説とライトノベルのハイブリットのようなものも見られると思います。それはこの「新しい値ごろ感」=「新しい判型と価格のバランスポイント」が皆さんに受け入れられ、希望があると出版社が判断したからです。もちろんそれが全面的に善だとはいいません。まだ固まっていない規格でぼったくってやれ、というような出版社やレーベルがあるかもしれませんし、読者的には「文庫で良かったのに」と思われるかもしれません。
とはいえ、新しいチャレンジなど10して1つか2つ成功すれば万歳ですから、この「B6ソフトカバーで1000円~1500円」というチャレンジは、最近の出版業界では(かなり)成功した部類だと言えます。