8月29日、思ったより拡散したため追記。自分ではネタバレなしのつもりで書いて、ツイートにもそう明記してしまったが、ネタバレという言葉には個人差があることをすっかり忘れていた。ネタバレ見たら死ぬタイプの風上にも置けない。地雷を踏んでしまったら申し訳ない。配慮したつもりですが、どうぞご注意ください。太ももの話以外もします。
サンダンス映画祭直後、賞賛と祝福の声とともに、あまりの刺激のために悩殺されてしまったという感想ツイートが散見されて、映画祭参加の幸運に預かれなかったファンはもどかしさに身悶えしたのであった。
Call Me By Your Nameは1983年の北イタリアのとある町のひと夏を舞台にした、二人の青年のあいだの恋を描いた映画である。くわしくはimdbを参考にされたい。
http://m.imdb.com/title/tt5726616/
この映画は2016年5月に世界中の一部界隈にて話題になった。言わずもがなアーミー・ハマーファン界隈である。そのあまりに蠱惑的なあらすじにつられて手に取ったのが原作小説である。
そんなごく軽くかつ不純な動機で読み始めたAndré AcimanによるCall Me By Your Nameだが、回顧体で描かれた物語に一瞬で虜になった。
あまりにも印象的な出会い、一生を変えてしまうたった一言から語り始められるその物語は、意識の流れを実に巧みに取り込んだ、プルースト研究者でもある著者ならではの文体で読者を陶酔させる。やがて語り手であるエリオと一体化した読者はオリバーの冷淡さに苦しみ、意外な素顔を見せられはっと息を呑み、ただ呆然と結末を迎えることになる。
ツルゲーネフの「はつ恋」やらナボコフの「ロリータ」やらをこよなく愛するわたしにとっては好み直撃ど直球であり、そのうえアーミー・ハマーの太ももがやばいとあってはなにがなんでも映画を見なくてはという気持ちになった。
しかもネタバレ見ると死ぬタイプのオタクにつき、どうしても世界公開より先に見たいという気持ちを抑えられない。はたしてMIFF(メルボルン国際映画祭、8月3〜20日、CMBYNは4日と6日上映)に飛んだのである。
笑ってほしい。
かなり早い段階でチケットも売り切れ(一度キャンセルが出たが、最終的に上映日までには両日完売!)ていたため、予想はしていたが、当日は冬のメルボルンにて1時間前から長蛇の列である!
席は早い者勝ちなのでみんな普通に必死だ。特に二度目の上映での、劇場をぐるり半周する列は写真に撮らなかったのが悔やまれる。みんなが手の端末にQRコードを表示させ、南半球ならではの冷たい南風に身を縮めながら待機している。
2度のCMBYN上映の他は同じくアーミー・ハマー出演のFinal Portraitに参加したばかりだが、それに比べるとやや平均年齢が下がるかなという感じ。
それでも、老若男女ということばがふさわしい、実に幅広い客層。
そんなことより映画だ。ここからはネタバレはなるべく避けて進める。なにせネタバレ見ると死ぬタイプなので安心してほしい。後日一部シーンバレ感想もあげるつもりでいる。万全の態勢です。
劇中曲について、MIFFのQ&Aにてルカ・グァダニーノ監督が語っていたことだが、基本的には登場人物が耳にした音楽……エリオの弾くピアノ曲、ギター、オリバーが身を委ねて踊るダンスミュージック、家族が耳を傾けるラジオやレコード……に限った、とのことである。それを知らされるまでもなく、最初の楽曲から没入感があり、一息に世界に引き込まれる。
そしてオリバーが現れる。イタリアの太陽である。明るい陽光は主人公エリオのいる部屋の暗がりを際立たせる。
エリオを演じる当時弱冠20歳のティモシー・シャラメは終始少年の健全さと病的な魅力をひとしくたずさえて美しいが、とりわけ夜、ベッドでのシーンでの肌は内部から光を放つようだった。
アーミー・ハマーが、その見せ場においてはつねにイタリアの太陽に照らされて灼けたなめらかな肌とあかるい金色に見える髪を輝かせているのと好対照で、一場面一場面が絵画を見るようだった。あるいは、冒頭でわれわれを一息に映画の世界に引き込む、連続的な彫刻群のショットのようだ。
エリオがオリバーに魅了されるのはかならず真昼の屋外だし、エリオがオリバーを室内に引き込むと、オリバーは初めて(ようやく、と言ってもいい)エリオに見とれるのだ。
野外と屋内、昼のシーンと夜のシーンが交互にさしはさまれて、われわれ観客はふたりのうつくしい青年に2時間超の間目まぐるしくも目移りしてしまうのだった。
しかしいざ太もも談議をするとなると血で血を洗う戦争になるにちがいない。
短いショーツか、あるいは水着でのシーンが大半で、太ももは終始晒されているので各人のフェイバリット太ももがあることだろう。
マイフェイバリット太ももはとある場面にてエリオとともに床にぺったりと座るオリバーの太ももである。だが自分が多数派である自信はない。これについてはまたあとで。
オリバーは原作よりもなお複雑で謎めいたキャラクターになっていると感じる。
原作では物語がすすむにつれ、読者はエリオとともにオリバーの知らなかった一面に驚かされるのだが、映画ではむしろ序盤からオリバーの大人の男としての魅力と奔放な子どものような無垢さが入れ替わり立ち替わり現れてエリオないし観客を翻弄するのである。
(シーンバレありの記事にでも書くつもりだが)序盤からオリバーはエリオよりも幼い子どものようないとけない振る舞いを見せ、グァダニーノ監督の言葉を借りるなら、エリオより「なおイノセント」だった。
(アーミーハマーファンの同志は心してかかってほしい。奇声を発するか原作のエリオの言葉を借りるならswoonに至らないよう上映中握りしめるなり揉みしだくなりできる柔らかい布など持っていくことをおすすめする手ぬぐいとか)
そのような差異こそあれ、アーミー・ハマーのオリバーは原作を読みながら夢想していたオリバーにほとんど完璧に一致していた。
この結論にはアーミーハマーのじつに感情ゆたかな目の表現が大いに寄与しているのだと思う。たとえば「J・エドガー」でのクライド・トルソン役において彼が見せたような目つきだ。沈黙の場面で熱っぽく目が話す。このものを言う目がとくに生きるのは、逆説的だが目の映らない場面で、たとえば映画の中でもひとつのクライマックスにあたる戦争慰霊碑のシーンがその一例だ(トレーラーにも引用されていた)。
もうひとつ、結末に近い重要な場面でピントを外したカメラがオリバーをとらえる。オリバーの顔が長く映されるのだけれど、けして鮮明な像を結ばない。観客は食い入るようにスクリーンを見つめてはじめて、自分がエリオと同じようにオリバーの目に浮かぶ表情を読み取りたいと熱望していることに気づかされる。
目について語るならばティモシー・シャラメにも言及しなくてはならない。
ティモシー・シャラメは今後少なからず目にする機会が増える役者だとつくづく思いしった。身体の使い方が素晴らしく、手足の隅々まで神経を張り詰め、あるいは意図的に脱力し、髪の先まで演技していると感じさせる。(この先エリオの面影を振り払うのが難しいのではとも感じるが、むしろその印象を己に利するものとして使ってほしいしこの期待は報われるにちがいない)
だがなによりも、その目つきである! トレーラーにも含まれていた、踊るオリバーをじっとりと見つめるあの目が全てではない。映画からは小説に通底する一人称の語りが省かれているものの(あれば安っぽくなり得たと個人的には思う)それを補って余りあるティモシー・シャラメの目つき。
まさに小説が羨む技法で、文字で書かれたフィクションを贔屓しがちな身としては、こういった映画化を見せられるとただひたすらに喜びを感じてしまう。
さてトレーラーといえば、あの実に夢見心地で幻惑的で、緊張感とせつない予感に満ちた映像を、わたしだってリリース直後には再生する手が止まらなかったほど熱愛しているが、 本編とは少しトーンが違っているとも思える。
トレーラーから、そして原作から想像していたものにくらべると、より明るく、ユーモアがあり、笑いだしてしまう瞬間がある。
かなりの頻度で笑いが起こっていたが、これは映画祭だったのと、おそらく英語圏中心とおもわれる観客層も関係してくるのかもしれない。
ただ、エリオ家食卓でのとあるシーンについては国内の映画館でも笑いが起きると予想できる。そしてその直後におとずれるエリオとオリバーの官能的な接触に息をのむことになることも。(さてくだんのマイフェイバリット太腿はこの場面で登場する。すくなくとも個人的にはこの場面はお祭りだった。細いのに肉感的な大腿部に釘付けになるあまり台詞をごっそり聞き逃したのだ……)
こういった感覚の急激な転換は映画全体を通して言えることで、一瞬たりとも気を抜けないと感じた。ほほえましく口元を緩めた直後に、心臓が指でひっつかまれるように締め付けられる。
ところどころに埋め込まれた、笑える箇所について、今ふと思ったが、これは原作にて重要な役割を果たしているが本来映画だと表現しにくい「時間性」をどうにか持ち込もうとした結果なのかもしれない。
10代のころの恋愛とか、恋愛でなくてもエモーショナルなやりとりは当時は必死で真剣なんだけれど、そのときの行動を大人になって振り返ってみると、わがことながらおかしくて笑ってしまう、あの感じがよみがえるみたいだ。
そのようなノスタルジーを引き起こす展開に身を委ねるうち、二度の上映は割れんばかりの拍手でしめくくられた。自分も同じように手を叩きながらLater、と軽やかな別れの言葉を脳内で繰り返していた。原作で読んで想像していたよりもなおあっさりと、冷淡で、なのに奇妙に耳に残るオリバーの声。
一夏の客人のその挨拶を、エリオが、母が、父が真似たように、自分もつい口にしたくなるはずだ。
じつは原作を読んだ時から、自分は最適な読者じゃないと思っていた。
小説として心から好んではいるものの、「この物語は自分の物語だ」「この物語によって救われた」「こういう物語が描かれるのをずっと待っていた」と感じる人がいることを、一行読むごとに、確信し続けたからだ。
この映画が現代を生きるごく若いセクシュアルマイノリティに届くことを願っている。
『キャロル』がそうであったように、相手の性別が特別なのではなく、ただその相手が特別だっただけ、ということを描いた映画。だが一方で、両親という存在の描かれ方において、この作品はこれまでのクィア作品と一線を画している。
そして、『ムーンライト』があまりにも普通の恋愛映画であるという事実が特別だったのと同様に、Call Me By Your Nameのエリオの一夏の恋愛は美しいと同時に「ごく普通の青少年が悶々とする」という部分が色濃くて、その事実をとにかく祝福したい。
自分はこの映画をクィア映画だとは思っていないのだとグァダニーノ監督がQ&Aで語っていたが、この言葉がすべてだと思う。
10代の頃に出会ってたら人生が変わっていたなと確信を持つ映画はいくつかあるけれどCMBYNはそのトップに躍り出た。
現在のところレーティングはR18のようだけれど、そこまで直接的なショットはなかったように思う。
何かが起こったこと、そして何が起こったか、から目をそらすという悪い意味での曖昧さは無いが、物語を破綻させないように、そして必要以上にセンセーショナルに煽らないと努めての結果なのかもしれない。
だからこそ、PG12かR15バージョンが作られるといいなと思っている。エリオと同年代の、この映画の肯定感を本当に必要としているひとたちに見てもらいたい。
キャストをきっかけに興味を持ったCMBYNだが、自分の中にそびえる金字塔を打ち立てた。日本に来た時にも従来の俳優や物語やファンに愛されるのはもちろん、新しい映画として多くの観客に愛してほしい。そして本当に必要としているひとにぜひとも届いてほしいと思う。
ちょうどこのレビューを書いている最中(8月23日)にMIFFの観客賞が発表され、Call Me By Your Nameが晴れて1位を獲得した。http://miff.com.au/about/film-awards/audience#
もちろん自分も最高点の星5つで投票したし、あの盛り上がりを考えると納得の結果だ。
アジア内では台湾映画祭での上映が決まっているCMBYN。東京国際映画祭に来ないはずがない、と信じている。
お願いします。
邦訳本もどうぞよしなに。