はてなキーワード: 感情移入とは
ハリルの解任を悲しむサッカーファンの1人です。
解任そのものについては様々な見地からの記事がありますが、解任に至った理由の1つとして挙げられることのある「代表人気の低迷」についてなぜ起きたか、どうしたら回復するかはあまり語られていないと思うので、1人の意見として書きます。先に結論をいうと、本田・香川を起用したら回復する、華麗なパスサッカーを体現したら回復すると、もし万が一協会が思っているのなら、こんなに人を馬鹿にした話はない、という話です。
まず、私はハリル時代の代表人気は、ザックや岡田監督の時代より低迷していたと考えています。(異論のある人は少ないでしょうが、念のため。)
私の周りで起こった事象としては、まずコアファンが代表戦(特に親善試合)を楽しめなくなり、それによって特にサッカー好きではない一般層も徐々に離れていきました。もう少し具体的にいうと、代表戦のたびに実社会やSNSでお祭り騒ぎをしていたコアファン層(試合中にずっとスタジアムかスポーツバーかtwitterで叫んでいるような)がお祭り騒ぎをしなくなって、そこに混じるのを楽しみにしていた一般層が「あれ?今日お祭りじゃないの?お祭りどこ?」となったという話です。「オフサイドとかよくわかんないけど、代表戦の日はコンビニでビールを買って帰ってテレビで観てtwitterでみんなと盛り上がるのが楽しみ」という友人が何人かいましたが、彼らは一様に「あれ??いつもすごい盛り上がってる人達がみんな急に静かになったんだけど、なんで?今日サッカーの日だよ?」と戸惑っていました。コアファンが盛り上がらなくなって、「お祭り」という一般層の楽しみが奪われたのです。それが視聴率の低迷に結びついていると私は考えています。だから、「普段サッカーを観ない層にも浸透しているスター選手が出ていれば視聴率は上がる」という意見には納得し難いと感じます。
ではなぜコアファンは一歩引いてしまったのかというと、それは(1)世代交代の失敗、(2)協会・監督・選手の関係への失望、(3)選手(や協会)の思う「面白いサッカー」がファンの思う「面白いサッカー」とずれていたという3点があると考えています。
(1)世代交代の失敗
過去のW杯で日本はセンセーショナルな世代交代に成功してきましたが、今回は失敗しました。岡田監督が「外れるのはカズ(三浦知良)」と発表したり、南アの本戦前に台頭した本田が中村俊輔からポジションを奪ったり、同じ頃にキャプテンが当時まだ若かった長谷部に交代したり。あるいは中田英や内田がまだまだ惜しまれながら代表引退を宣言したり。サッカーファンはそうやって、一時代を担った中心選手の席がニューヒーローの物になるストーリーを見てきました。それは去った選手のファンから見れば遣る瀬無い、苦しい思い出かもしれませんが、ファンの大部分にとっては寂しさと共に、新たな時代への期待を抱かせるシーンだったと思います。時に寂しさが勝る時もあったでしょうが、その一方で先に世代交代を失敗していたオーストラリア代表を見て「まだケーヒルが主力なの?平均年齢も高いし大変だね」と「あれは無いわー」と思っていた人が多いのでは無いでしょうか。しかしそれが今、南ア、ブラジル、ロシアと3大会続けて、私たちは「本田、香川、岡崎、長友」のサッカーを見ることになろうとしています。彼らが良い選手か悪い選手かに関係なく、単純に選手が変わらないことは飽きるのです。一時期、原口や浅野がニューヒーローとして台頭するのかな?とワクワクしてハリルジャパンを見ていたこともありますが、結果としてはそんなことにはなりませんでした。
(2)協会・監督・選手の関係への失望(繰り返される失敗への失望)
兵隊が指揮官の言うことを聞かず好き勝手に動く軍が強いと思う人は少ないと思いますが、日本代表チームにその問題があることを知らしめたのはザックジャパンでしょう。予選や親善試合の頃から「なんで試合の序盤は面白いことやってるのに、いつの間にか狭いところを通そうとしてボールロストってシーンばっかり繰り返してるの?」と不思議に思っていたファンは多かったと思いますが、W杯後にザッケローニの通訳をしていた矢野さんが出した「通訳日記」という本(元々はNumberの連載)がその答え合わせになっていました。どういうことかというと、そういうサッカーを好む選手がいて、違うサッカーをしようとする監督に「これがやりたい」と直談判しにくる。ザックの世界では戦術は戦術の専門家である監督に裁量権のある物なので、戦術の専門家でない1プレイヤーから口出しがあることに驚き却下する(当然だと思います)、選手の不満が溜まる、選手が勝手をしだす、という話です。そこまでは100歩譲ってまだ理解できるものの、度重なる選手の陳情を一応は聞いて帰してを繰り返していると、そのうち協会の偉い人がやってきて「選手の主張を取り入れてほしい」というようなことを言ってくる。それを読んでギョッとしたサッカーファンは多いと思います。選手に監督のいうことを聞くようにと諭すのではなく、監督に選手の言い分を飲むように伝えるのが協会の技術委員の仕事なんです。選手と協会が戦術を決めるなら、なんで優秀で高年俸の監督を引っ張ってくる必要があるのでしょうか。今回協会が「次も日本人監督で」と言ったのは「監督はお飾りでいい、選手と協会が戦術を決めて監督が反対しなければ成功するはず」と考えているとすれば整合性があるのでしょう。ばーかばーかそんなわけあるか!って感じですけど! ともかく、最高の頭脳を外から呼んできて、彼が最高のパフォーマンスをできるように協会がサポートして、彼の戦術が選手たちによってピッチに表現される、その先に成功がもたらされる、という絵からは非常に遠いところに実態があったわけです。これもまたファンにとっては失望であったと思います。
(3)選手(や協会)の思う「面白いサッカー」の感覚がずれている
当たり前ですが、サッカーは点を取り合うスポーツです。大多数の人にとって一番面白いのは得点が入るシーンでしょう。次点は「決定機を作れたのにあと一歩で入らなかった」「決定機を作られたのに最後の最後で防げた」シーンになるはずです。それ以外は各々の趣味で順位が決まる話でしょう。ある選手は南アの大会後に「勝つために仕方がなくあんなつまらないサッカーをしていたが、自分が観客ならあんな退屈な試合は観ない。もっと華麗な見せ場を作らないと」というような発言をしていました。見せ場というのはつまり華麗なパスワーク、華麗な突破なのだと思いますが、私はこの発言がファンの思う「面白いサッカー」と大きくずれていると思っています。一番観たいのは得点シーンで、彼のいうその「つまらない試合」ではそれが観られなかった。でも、最後の最後で点を入れさせないように決定機を防ぐシーンは沢山あって、沢山の人が手に汗を握って、感情移入しながらそれを観ていた。華麗な見せ場はなかったかもしれないけれど、あれはつまらない試合なんかじゃなかった。以降、一部の選手たちが拘っていく「自分たちのサッカー」がこの「華麗なパスワーク」「華麗な突破」と同じものだと私は認識していますが、少なくとも、点が入るシーン以上に華麗なパスワークのシーンが面白いわけがないので、「戦術のプロである監督が考えたもっとも点が取れそうなプラン」を阻害してまで華麗なパスワークをしようとされても、フラストレーションが溜まるファンが多かったと思います。
これらが合わさって、10年近く君臨する主力選手が、監督の言うことを聞かずに、華麗なパスワークをしようとしてうまくいかない、というシーンをファンは見せられ続けているのが代表人気の低迷の本質だと私は考えています。なのでもし一部で言われるように、協会が「本田・香川を起用」「日本らしいサッカー」で代表人気が回復すると考えているならば、こんなにふざけた話はないと思うのです。そして、世代交代をしようとして何らかの原因でうまくスパッとやれなかったことはハリルのミスと言えばミスなのかもしれませんが、サポートがあたかは疑問ですし、それ以外は彼に責任があるものとは全く思えません。なので、世代交代終わったら応援する、まだかなまだかな、と思っているうちにハリル解任の報を聞いた1サポーターとしては本当に悲しい気持ちになりますし、人気が低迷したからハリルが切られたという言説を見るたびにさらに悲しく感じるのです。私がサッカーにハマったのは20歳前後ですが、80まで観戦を楽しめるとして、生涯に楽しめるW杯は全部で15回くらいでしょう。その貴重な1回が今回こんな形になったのは残念でたまりませんが、残りが全滅しないように、できれば次回からまた熱狂できるように願ってやみません。
坂元裕二脚本のドラマの面白さを知ったのは「カルテット」からで、その後、最新作の「anone」を見たのみの私はレイトマジョリティーです。先日加入したんですよ、Netflixに。「アナイアレイション」というSF映画を観るために。「全滅領域」「監視機構」「世界受容」というジェフ・ヴァンダミアによるサザーン・リーチ三部作があり、これがここ数年読んだ小説の中で私的には大ヒットで、2015年の年末から年始にかけて帰省した実家の二階の洗濯物たたみ専用に使われている部屋に敷かれた布団の中、風邪をひいてしまって熱っぽいのに、一心不乱に読みふけってしまいましたよ。SFというよりもホラーや幻想小説に近い内容なのですが、非常に面白かった。で、小説を読み終わってしばらくして、これを映画化するという情報をTwitterで知り、期待していたわけです。しかし、時がたつにつれてそんなことも忘れたある日、再びTwitterで映画の題名は「アナイアレイション」といい、映画化されたが米国以外はNetflixが独占公開するという情報を見たのでした。動画配信サイトは、Dアニメストアは毎月500円払って契約していたんだけど最近あんまり使ってなくてね。もう解約してしまおうかと思ってたんだけど、アナイアレイションを観たいだけでNetflixを契約して、とうとう観ましたよアナイアレイション。観たんだけど、正直言うといまひとつだったんだよなあ。どうやら三部作の第一作「全滅領域」が発表された段階で映画化が決定されたようで、映画も第一作を中心にした内容で、個人的には中編、後編で展開される現実世界がおどろおどろしく変容していく過程が描かれるところが好きなんだけど、そこがないからかなあ。特に気の弱い研究者の引きこもり部屋でのやりとり、あそこは読んでいてぞぞっと鳥肌が立ったよなあ。で、ナタリー・ポートマンは少ししわしわになったけれど綺麗だし、スターウォーズ最新作で脳筋肉のパイロットを演じたオスカー・アイザックがポートマンの旦那さんだったり、それなりに良いところもあったんだけれどいまひとつで星3つというところでした。で、この話がどうやって「最高の離婚」に結びつくかというとですね。アナイアレイションを観た後、無料期間の1ヶ月が終わったら解約するつもりだったんだけど、まあ折角契約したんだし、しばらくタダだしということで、無料で観れるだけ観てやろうと観たい映画やらドラマやらを探し回ったんですね。で、アメリカの連ドラ「ミスト」と「ストレンジャー・シングス」を観ました。ミストはいまいちでしたねえ。あれは脚本の問題でしょうねえ。登場するキャラクターがなぜそこでそういう行動を選択するかがよくわからない。で、観客として登場人物に感情移入ができない。また、ネタバレしちゃうと、ラストでイケメンキャラがどうしてあんな最期にならなくちゃいけないのか。かわいそすぎる。観ていた人はみんなそう思うと思いますよ。で、ミストはいまいちだったんだけど、ストレンジャー・シングス、こっちは面白かったなあ。ストーリーも登場するキャラクターもオリジナル要素はほとんどなくて、70年代から80年代にかけてのSFドラマやホラー映画の要素を抽出して映像を含めてアレンジしなおしたようなドラマなんだけど。けど、面白いんですよ。とても、面白い。まず脚本が秀逸で、毎話、伏線を貼っていって最終話に向けて徐々に盛り上げていって、どどーんと回収する、というドラマや映画における王道的ストーリー展開、これがとてもうまくまとめられていてね。更に、登場するキャラを演じる役者さんがそれぞれ魅力的。イレブンもかわいいし、行方不明になる少年のお母さんはウイノナ・ライダーだし。で、このドラマの最初、ウイノナ・ライダーってプロンプトされるんだけど、私、ドラマを終盤くらいまで観てもよくわかってなくてね。ウイノナ・ライダーって名前が出てくるけど、本編には登場しないのでプロデューサーとして名前があがってるのかなあってずっと思ってたのね。そしたらね、たまたまWiki見たら、行方不明になった少年のお母さん役がウイノナ・ライダーって書かれているじゃないですか。もう、驚きました。あの、美少女が、あの、ヒステリックに訳のわからない発言と行動をやりまくるおばさんなのかと。ウイノナ・ライダーもいつの間にか、演技派女優さんになったんですね。で、なんだっけ。ああ、で、ストレンジャー・シングスは面白かったんだけど、更に面白いドラマはないかと探していたらあったんですよ「最高の離婚」。坂元裕二脚本のドラマで評判が良かったというのは知っていた、正確に言うと「カルテット」があまりに良くて「anone」も良かったので脚本家の坂元裕二のWikiを見ていたら過去のドラマで最高の離婚が上げられていて、ああいつか観たいなと思っていたらNetflixにあって、観たら面白かったんですよ。ああ、そろそろ出かけなくてはいけないので、なぜ面白いかとか色々言う時間がなくなってしまったんで、申し訳ありませなんが兎に角、言いたいのは「最高の離婚」面白いから、みんな観るといいよってことで。では。
初投稿、下書き無しなので文に乱れがあったり読みにくかったりすると思うけど許して欲しい。
友達と「彼女がいるのにエロ本を買うのはダメか?」と言うことを話していて考えたこと。
個人的な性と半生の話が出てきてあまり公には話せないのでここに書くことに。もしかしたら似たようなこと考えている人がいるのかなって希望も少し。
性の目覚め
最近、どうもエロいので自分の中にあるエロのかたちを一つ一つ考えている。
その体験っていうのが幼い頃見た夢なんだけど、その説明のために一応当時のことを書いておく。
当時保育園の年長組だった僕は、おゆうぎかいで確かダンスを踊ることになっていた。男女別で、女子はモーニング娘。の「ラブマシーン」だった。衣装は黄色いフリフリの服だった。
夢の内容は、その「ラブマシーン」を自分が女の子に交ざって踊っている夢だった。
そしてそれを見る両親を僕が見ている夢だった。
「あれ、○○(僕)じゃない?」と母が言い「そんなわけ無いだろ。○○は男の子だよ。」と父が言う。それを僕が見ている。
そんな夢。
あまりに強烈だったので起きてからも夢の内容を覚えていて、そしてその事を考えているとなにかドキドキすることに気がついた。
何となく床に下腹部を擦り付けると言い様の無い快感があって、そこからは特に話すこともない。
ともかく、学校で性教育を受けるまで、僕のエロのすべてがその夢だった。というわけでもない。『ぷよぷよ』の「アルル」も、『ワンピース』の「ナミ」もエロい!と(感覚的に)思えたし、事実それらの女性キャラクターでオナニーもした。なんなら同人誌を調べるために新しいマンガに手を出した。乱暴だがその辺から性教育を受けたと言えるだろう。行為や言葉の意味はわからないけど何となくおっぱいはエロかった。
小学生のころ「オナニー」とか「セックス」の意味を辞書で調べるノリがあった。自分の「オナニー」とは違ったのでピンと来るのに時間がかかった。自分のしている(た)「オナニー」がおかしいと感じ、“あの夢”は悪夢になった。
時は流れて大学生の頃の話。
親元を離れて独り暮らしを始めた僕は、おそらく多くの童貞がそういう道を通っているように、ただれた性生活を始めた。片端からエロサイトを見て、pixivと2ちゃんねるとTwitterを行き来した。エロ本やオナホールを買ってきては友人たちにレビューを聞かせた。よくいるエロいやつだ。多分普通と少しだけ違ったことは、いくつかの特殊性癖にも精通したことだと思う。
ケモノ、男の娘、ペドフィリア、みたいなある程度メジャーな特殊性癖でヌけるようになったところで、大学の先輩から「なんでそんなもんでヌいてんの?」と聞かれた。
しばらく先輩の「なんで?」が引っ掛かっていた。先輩には悪いが、遅効性の毒みたいだった。最初はただの好奇心とちょっとした虚栄心だったと思う。自分の知らないエロの世界に触れて、粋がりたかったのだろう。男の子の世界には「面白いやつとエロいやつが強い」という不文律がある。特殊性癖は「エロくて面白くなる」上で大きな武器だった。
「なんで?」の毒が回りきった頃、自分の性癖の分析を始めた。その性癖を初めてエロい!と感じた画像や動画を覚えている限りもう一度インターネットから探してきた。そしてそれらの要素を抽出して、どこがエロいのか?を考察していった。
すると大学に入ってから意図的に開発した性癖に関して興奮のポイントに二つの共通点を見つけた。
・犯される側に感情移入している
・弱さ、危うさを無意識に感じている
心理学とかはやってないので精神分析とかではないけれど、当時はただドMなだけだと思っていた。
ふと思い出すと“あの夢”は女装と両親との関係の崩壊を“エロく”感じる夢だった。
「女体化」にであったときに強い憧れに似た興奮を覚えたのも、露出・赤面した少女の画像ばかり集めていたのも、当然の成り行きみたいにMに目覚めたのも多分深いところであの夢に繋がっているような気がした。
今思えばエロくなろうとしたのは仲間内の地位をあげるためじゃなくて、あの夢から逃げていたんだと思う。でも結局お釈迦様の手のひらの上で飛び回る孫悟空みたいに、僕は“あの夢”に囚われていた。良くも、悪くも。
まとめ
性癖に故郷があるなら僕は女装とか羞恥とかの村に生まれたんだと思う。少し一般から外れてはいるが“なんとかなる”部類だ。
これが食人とかスカトロの村だったら、多分とっても大変だったんじゃないかなって感じる。
最近は同性愛が認められててうれしいけど、性的指向と比べ性的趣向は未だに犯罪者枠だ。
性被害を受けた人や性癖を持たない人が訳のわからない性癖を気持ち悪く思うのも理解できるし、特殊性癖をもろ手をあげて歓迎しろ!なんて言うつもりはない。だって気持ち悪いし。
でも痴漢の村に生まれたおじさんはお金を払ってイメクラに行くべきだし、ネトラレの村に生まれた兄ちゃんはエロ本を買うべきだと思う。それだけじゃなくて彼らが村から出ようとするなら恋人がそれを助けてあげてもいい。でもその努力って絶対隠れてするし、なんなら持ってることすら気づかれたくないから「エロ本を買った」「風俗に行った」だけが表面に出て崩壊しちゃうんじゃないかな。
普通にグラビアのおっぱいで目覚めて、部活のマネージャーと付き合って、大学の後輩と結婚するタイプの友達には理解されない話だけど、僕みたい(いわゆる「普通」の)異性愛者の村に上京することができた、そこ以外の村の人ってけっこういると思うし、「彼女がいるのにエロ本を買うのはダメだ」という人は一夫一妻の異性愛者村に生まれた人の価値観なんじゃないかなぁ。
帰ってきた。すごく嬉しい。
2002年の話。
ワールドカップが日本であって、地元の会場で日本代表の試合があった。
会場の外にいたから試合は見てないんだけど、入場してくる有名人を見てウキウキしたり、お客さんの歓声や悲鳴を聞いてた。
試合が終わるころ、先輩が「もう一生見れないんだぞ」的なことを言ってくれて、ホントはダメだけど試合を覗かせてもらった。
おお、中田浩二ってロングパスうまいんだなとか思ってたら、敗戦のホイッスルが鳴って、持ち場に戻った。
日当10000くらい?もっと少なかったかも。これがサッカーとの出会い。
同じころ、友人関係でいろいろあって、自己嫌悪と罪悪感に押しつぶされながら将来への不安がはっきりと見えてきてた。
1年か2年くらいヒキニート的な生活をしたり、社会にご迷惑をお掛けする形ではありながらも、
バイトやなんかでそれなりに社会復帰を果たした。社員になろうかとも思った。
それでも大人になり切れなかったので、モラトリアムとかいう知ったばっかりの概念を求めて海外へ飛んだ。
周りにはかっこいいこと嘯いても、逃げだというのは周知の事実だったと思う。歳も歳だし。
あっちに行ったら行ったでちっちゃい日本人コミュニティの中で自己顕示欲をまき散らしてて、
将来がぽっかりなんにもないことをひた隠すように、社会の細々したことを権威を持ち出して知った風なこと言って過ごした。
たくさんのかっこいい人に出会った。その中でも、一人、仏像のような人に出会った。
言葉に惚れて、逸話に惚れて、仕事ぶりに惚れた。親や先生や学校やバイトでは教わらなかった行動規範を見つけたような気がした。
地元を離れての初めての一人暮らし。と言ってもルームメイトは常にいたけど。友達はすぐにできるけど、
それでも心細さはあった。お酒とセックスに逃げた。あと、地元のとあるプロスポーツチームにはまった。
地元にいる間は、できてすぐ名前が変わったり、区が違ったり、やってたスポーツも違うから親近感もそれほどなかった。
それが、貪るように情報をあさるようになった。
海外からネットで地元のスポーツニュースやハイライトを見た。2ちゃんのスレに入り浸った。
時間が合えばストリーミングで試合を見た。チームの一人一人の顔やプレイぶりや練習風景が分かるようになると、
愛着がわくようになった。スタに足を運べるサポに比べたら、頭でっかちのふぁん(藁)だというのは理解してるんだけど、
それでも自分にとっては心細さを埋めてくれる存在になっていた。
チームの監督がコロコロ変わって、ブラジル人頼みのクソサッカー笑のあと日本人監督になった。
将来ある若手が移籍していく中、生え抜きの選手や元日本代表のベテランが活躍して、昇格争いをするようになった。
生え抜きの中に、やんちゃなやつがいた。スーパーサブ的に使われた後、チームの軸になった。
高校時代のクズエピソードのデマも、ああこいつならやりそうって思えるところが、なんとなく自分に重なって、
いろいろあって心機一転帰国する年に、チームは一部への昇格を決めた。
チームの挑戦と自分の挑戦が重なって、涙が出るほどうれしかったし、心強かった。
1シーズン目、ワールドカップイヤー。うちの10番が代表に選ばれた。試合には出なかったけど。
ワールドカップのあと、新生日本代表にあいつが選ばれて、試合に出た。出ただけだったが。
新社会人1年目の終わり、1部での2シーズン目が始まったころ、震災が起こった。
地元ではみんながあんな思いをしているのに、自分には募金することしかできない。
地元のニュースでは、チームの選手たちが自身が被災しながらもボランティア活動をしていることを伝えていた。
あのやんちゃなあいつも、いろいろとやっていたようで、心の底からうれしかった。
自分にできないことを、やってくれている。それも自分にはできないくらい大きな影響力で、
たくさんの人の支えになってくれていた。おこがましいけど、誇りに思った。
時間が流れ、なんとかシーズンが再開して、チームは好成績を残した。震災の笛wとか書かれても気にならなかった。
次のシーズンはずっと首位を走り、終盤まで優勝争いをした。その年の終わり、あいつは移籍していった。
さみしさと呆れと、ステップアップだったからうれしさもあった。
その後、チームは何とか残留し続け数年が経った。
自分にとってのチームは、2部時代は海外の、1部での躍進期は歯がゆさの、外部記憶装置みたいなもんだ。
特に2部時代の選手たちは、当時の心細さと相関して愛着が強い。妻と出会ったのもそのころだった。
当時のチームの中心にいたのが、あいつだ。
あいつは初めての移籍の後、さらに移籍したり2部でプレーしたりしつつ、昨年末で戦力外になっていた。
それが、今日、うちに帰ってくることが決まった。
海外に逃げていた自分を励ましてくれた、震災後の地元を支えてくれた、あいつが帰ってきた。
うちのバンディエラと笑顔で映ったツイッターの写真を見て、涙がこらえきれなかった。
つい先日、イナズマイレブンの新作である「イナズマイレブン アレスの天秤」が放送された。
それに伴い、今朝、「イナイレ好きの友人がパラレルは無理、と強く否定していた。何故か理解できない。」というような内容のツイートが回ってきた。
私も今作のパラレルは受け入れられていない。改めて考えると何故なんだろう。具体的にどこが受け入れられないのか、文字化できない。ので、下に考えをまとめるために自分の考えを書いてみた。
イナズマイレブンはそもそも超次元サッカーと言うだけあって、現代が舞台のファンタジーみたいなものだ。サッカー自体が超次元なのは勿論の事、神(笑)や宇宙人(笑)に始まり、河童に天使に悪魔、GOに行くと未来人に恐竜、宇宙人(本物)…なんでも出てくる。
その中に新作とはまた違うパラレルの話も実際にある。サッカーがない世界を元に戻す、という内容だ。
個人的にそこの話は大好きだ。最高。
では何故今回のは受け入れられないのか?わからん。強いて言えば、すでに見終わったあるべきストーリーが歪められているから。かもしれない。
それだ。今書いて思った。多分そこが原因だ。
イナズマイレブン元々の主人公である円堂守が出会うべきであった人との出会うべきシチュエーションがないものとされている部分が納得できないんだ。
それが原因で大切な思い出がないものとされているわけだ。そこが嫌。
もしこうだったら?という話は大好きだ。もし双子の片割れが生きてたら?もし本当の子供が生きていたら?最高だ。凄く気になる。二次創作ならな! そう、二次創作なら最高だ。ぜひとも見たい。
しかし、それを公式にされると「???」となる。何故公式でそれをやる? おとなしくGOの後とか、無印とGOの間とかの世界観で新作作って。
自分は面倒くさい女オタクにプラスして腐女子でもあるが、公式で狙ってる描写をされると萎えるタイプの腐女子だ。隣に並べておいてくれる程度が一番好き。下手に何かさせようとしないでほしい。
今回の話もそれに似ているのかもしれない。
あれだ、イナズマイレブンGOはもう広げられないからイナズマイレブンに戻ろう、みたいな感じも気に食わない。イナイレもGOもどっちも大好きだが、GOをそういう扱いされると腹が立つ。
いや、もちろんそんな意図じゃないのかもしれないけど。
まあ、確かに宇宙まで行ったあとに何するんだっていうのはあるかもしれないが。天空にでも行けばいいんじゃないかな。なんかそんな話も出てたんだっけ。知らないけど。
とにかく、公式に好きな作品が邪険にされている感じがしてしまうのだ。面倒くさいオタクを舐めないでほしい。
多分これ、私がストーリー、キャラクターに異様に感情移入してしまうせいもあるのではないだろうか。
可哀想な過去があったにしても、それがそのキャラクターを形成する要素の一旦であり、なくてはならないものだという認識をしているんだろう。
手軽にいじってはいけない部分だと思っている。
そこに触れられているから、新作に嫌悪感を感じているんだろうな。
嫌悪感?とはまた違うだろうか…?
いや、しかしなるほど、自分はよくある二次創作っぽい公式と、好きな作品をないがしろにされている感じが嫌なのか。
今書いていて納得した。
元々二次創作みたいな公式は嫌いだったけど、確かに今回の新作のコンセプトがそういう風な感じなのかもしれない。主観だけど。
まあ、わかったところでどうしようもないわけだが。
私にできるのはイナズマイレブン アレスの天秤を視聴し続けるか視聴をやめるかの二択だ。
めんどくさいオタクではあるが、自分が気に入らないというだけであれこれと騒ぎ立てるつもりはない。この文章が騒ぎ立てていると思うなら訂正させていただきたいが、この文章は自分の感情を理解できないクソ腐女子が、自己の感情を理解するために書き出しているだけの独り言である。ご容赦いただきたい。凄く長いけど。
さて、戻ろう。視聴を続けるかやめるかという話だ。
私はイナズマイレブン、イナズマイレブンGO共に大好きなイナズマイレブンファンだ。そりゃあ、見るに決まっているだろう。そりゃあ見るさ。
少し上に戻ればあれこれと新作の気に食わない部分を言ってはいるが、逆に言えば上にあるところだけ気に食わないわけで、基本的にイナイレ大好きな私にとってはワクワクする内容ばかりだった。意地でも見るよ。
というか見た。
結果、最高に面白かった。きっと毎週見る。
内容に関してはネタバレになるため触れないが、イナイレらしいような内容だった。好き。ありがとう。上の部分は許さないけど。
簡単に言えば、少なくとも私のようなオタクはそんなものだ。面白ければ自分の不満点なんてどうでもいいのだ。もやもやして素直に楽しみづらいだけ。
イナズマイレブン アレスの天秤には是非、こんなめんどくさいオタクを黙らせるような素晴らしい作品になってほしいと思う。面白ければ何してもいいよ。と私は思ってる。
欲を言えば、パラレルであるということをこんなめんどくさい思考回路のオタクに納得させるような内容であってほしいとも思うけど。
ここまでノンストップで書いてきたわけだが、自身的には自己の考えがまとまって非常に満足した。こういう長ったらしい文章書くの大好きなの。とても満足。いい加減終わるか。
ここまでもし読んだ方がいたらお疲れ様でした。
表面的な行動ならいくらでもできる。
老人に席を譲ったり、同僚の仕事を助けたり、
病の友人に見舞いをしたり、落とし物を届けたり、
後進のためにできることをやっておく、
家族のためにサービスする、彼女にサプライズして喜んでもらう、
できるだけ楽しい思い出になるように「ニコニコ仮面」を被りお調子者を演じる。
思っていた通りの反応。
その繰り返し。
だけど、俺は人を愛せない。
俺を慕ってくれている家族や恋人、友人には本当に申し訳ないのだが、
愛する人のために命を捨ててもいいというような境地に至ったこともない。
あまりにも演技が上手くいってるおかげで優しいとか気が利くとか評価され慕われている。
けれども、それは全てただの行動だ。
そう学習し行動してるにすぎない。
もちろん、誰かが傷ついているところを見ると心が痛む。
だが、これは相手を思いやっているわけではないのだ。
誰かが傷つく可能性があるということは、いつか自分にその順番がめぐってくるかもしれない。
そういった不幸への恐怖心が俺の心を動かしている。
俺が募金をしないのは、募金を必要とするような大多数の不幸な人間のことまで考えてしまっては、
自分の心に生まれる恐怖心は膨大に膨れ上がり、日常生活を送れなくなるからだ。
だから当然アフリカの子供たちが何万人死んでいようが俺は救おうとも考えようともしない。
ただ己の範囲内でそういった人間がいると穏やかでいられないから、
他人の目からはそれは誰かを思いやった心から出た善意に見えるかもしれない。
しかし、俺からしたらストレスを減らすための自分のための行動でしかない。
どうすれば人を愛せるのか?
俺は人を愛したい。
だけど愛する心が無い。
こればかりはどうしようもない。
目が悪ければメガネをかければいい。
耳が悪ければ補聴器をつければいい。
足が悪ければ杖をつき、車いすに乗ればいい。
だが心が足りない人間はどうすればいいのか。
善意からくる行動をまねていれば、いつか答えが分かると思っていた。
誰かの喜ぶ顔を見れば、いつかこの冷めた心にも小さな芽が育つと思っていた。
だが、どれだけ待っても、芽はひとつも出ることがなかった。
元々そこに種はなかった。
俺自身、愛を信じていないのだろう。
本当に愛が素晴らしくこの世の真理であることが疑いのない事実であれば、
とっくの昔にこの地球は愛で満たされているはずだろう。
実際は今日も飢餓で死ぬ人間や殺される人間、貧困に苦しむ人間が
この地上には数えきれないほど存在する、今、この瞬間にも。
この世は地獄だ。
俺は単に、日本という社会、この時代に生まれ勉強することができ、
俺とアフリカの子どもの違いは、単に生まれた場所、境遇の違いだけだ。
俺がアフリカで彼らと同じように生まれたら、今のような生活は絶対に送っていない。
それは誰にも変えられなかったことであり、起きてしまったことだ。
愛せない人間はどうすればいいのか?
俺は必ず死ぬ。
産まれてきてよかったと一度でも思うことができれば、
自分も普通の人間と同じように趣味や仕事ややりたいことはもちろんある。
だが、それらは死への恐怖に打ち勝つだけの魅力にあふれる題材でもない。
愛だ。
人に愛してもらうのではなく、究極に人を愛する必要がある。
おそらくそれこそが死への恐怖に打ち勝つ唯一の手段であり、最も尊い行為だろう。
だが人を愛するには何が足りないのか未だに理解できない。
人を愛する人間と同じポジションに立てば何か分かると考えていた。
余計分からなくなった。
愛が素晴らしいのは分かる。
どうしても愛を手に入れたい。
親になり子を持てば分かるのだろうか?
表面上愛しているように見えて、子もそう思い信じている。
誰も知らなければいいというのは通用しない。
できる以上のことはやってきた。
何かを意図的に信じ込むことも試してみたがどうしてもできなかった。
愛はどこから与えられるのか。
愛を知る人たちが眩しい。
俺はこの先ずっと彼らに劣等感を持ちながら生きていくしかないのだろう。
俺は地獄にいる。
漫画やアニメのキャラで「こいつ、メアリー・スーだろ」って思うキャラはどれくらい居る?
ていうかメアリー・スーの概念の理解って日本でどれくらい浸透してる?
・地位/容姿/性格/人望の全てが完璧の上、人間らしい欠点/失敗の描写がなく、感情移入できない。
・作者に気に入られていることがストーリーに必要のない範囲であからさまに描写されてて同人誌を見ている気分になる。
・話の流れの全てが何故かそのキャラと必要以上に関連づけられている。まるで世界がそのキャラを中心に回っているような話の構成になっている。
最初から最後までほぼ泣いてたかもしれない。いい最終回だった。
終始笑顔で、それを見ただけで胸がいっぱいになる。まず髪切るときの報瀬。12話では、3人の前で躊躇していたときの報瀬は本当に曇った顔で「もういいから、じゅうぶんだから…」って言っていたのとは裏腹にすっごい良い笑顔になっていて、12→13における報瀬の成長が端的に現れている大好きなシーン。その後隊長とかなえさんに見せた笑顔はとても貴子に似ていて、「ああ、カーチャンがいた頃は、こんな感じに感情豊かな女の子だったのかな」とか「12話を経て報瀬がようやく本来の報瀬らしさを取り戻したのかな」とか思わずにはいられなかった。その、カーチャンの亡霊を象徴するノートPCを隊長に託す報瀬は本当に清々しく、12話で夢から醒めた彼女が悲しみではなく幸せで満たされていることが端的に現れてて「良かった・・・本当に良かった・・・」ってなった。その後カーチャンからメールが返ってきたときも、それまでの報瀬だったらどうなっていたのか分からないけれど、13話の報瀬は「知ってる!」と鼻にもかけず笑い飛ばした姿はすっかりカーチャンの背中に追いついていて、むしろ追い越している。どんだけ成長してんねん…。
加えて、今までの報瀬はどんな風景を見てもボケーっとしたようなシケた顔だったのだけれど、最後に満面の笑みでオーロラを見る姿はもう最高すぎた。
観測隊としての生活は相変わらず忙しそうなのだけれど、4人が「なんとなく、うまくやっている」という姿に感動した。報瀬も言っていたけれど、南極での生活はむき出しの感情がぶつかることもあるわけで、それでも4人は仲良くやっているので「何も大きなトラブルが起きない」ことで彼女たちの成長を表すという演出が最高すぎた。個人的にアイスオペレーション中のゆづ「死にますFOOOOOOOO↑↑↑↑↑」がツボだった。自分のことをネタに出来るって結構すごいことなんだよね。これだけでゆづが大きく成長していることが分かる。アドリブなんだろうけれど。
ラスト30秒。ここだけでずっと語れそう。
キマリが「帰ったよー」を送ったとき一瞬で既読がついてて、「ああ、めぐっちゃんは家族あたりからキマリの帰国日を事前に聞いていて、今か今かと待っていたのかな」とか「10話でキマリが「既読付くタイミングだけでめぐっちゃんが今何してるのか分かるんだよ」って言ってたし、キマリはめぐっちゃんの心情に気づいてるのかな」とか。
また、行き先が北極だった件について。10話における「南極にいるんだけど、SNSを通じてなんとなく(日本にいる)めぐっちゃんの気持ちがわかるキマリ」と立場が逆になっていて、かつてキマリが「めぐっちゃんの庇護のもとぬるくやってないで、自分の力で強くならなければ」と思ったように、めぐっちゃんも6~13話でキマリが日本→南極で経験した様々な出来事を、キマリのこと考えながら裏でこっそり通ってきたのかな、と思わせる。
めぐっちゃんから送られてきた写真には綺麗なオーロラが写っていたのだけれど、オーロラはその仕様上南極と北極同時に出現するので、キマリたちが南極付近でオーロラを見ていたちょうどその時、めぐっちゃんが北極でオーロラを見ていた可能性がある。そう考えると色々シンクロして考えちゃって、胸がいっぱいになった。
一方キマリのメッセージに速攻で反応するめぐっちゃんは、5話でキマリが絶交無効したあと(一方的に?)めぐっちゃんのことを親友だと思っていたように、めぐっちゃんもまたキマリのことを大切に思い続けていたんだろうなぁということまで伝わってきて、5話における2人の想いが両方とも叶った最高のハッピーエンドだった。締めのセリフ「なんでーーーーーーーーー!!!」も、5話にあった同じセリフとのニュアンスの違いにグッと来た。
「もし続編があったら~」という発言を各所で見るけれど、めぐっちゃんの旅を見たい、という人が多くて嬉しかった。最後の写真「オーロラをバックにめぐっちゃんがカメラを覗き込む構図」は公式のキービジュアル「4人がオーロラをバックにカメラを覗き込む構図」と対になっていて、つくり手がめぐっちゃんのことをもうひとりの主人公として描いてくれていたのかな。
主人公たちの成長を描く物語では、どのキャラクターに(精神的な)導き手の役割をもたせるのか、というのが重要なのだけれど、本作では(子どもたちだけで完結せず)大人たちが多かれ少なかれ寄与している。私はこういう「かっこいい大人」が描かれる作品がとても好きなので、本作もそういう意味で大好きだ。特に隊長とかなえさんはすごい良いキャラクターだった。何が最高って、13話で「実は大人組も4人の心意気に背中を押されてここまでこれたんやで」っていう心の変化が描かれてて、大人組も4人と同じ人間味あるキャラクターになっていたこと。物語におけるメンターが、物語の中で自身も成長するとか最高すぎる。
観ながらアホほど笑って泣いた作品だった。こんな経験は殆ど無かったのでとても新鮮だ。「病めるときも、健やかなるときも変わらず泣き笑いすることを誓う作品」っていうとちょっと大げさだけれど、私は疲れているほど自発的に笑ったり泣くことが出来なかったりしていく人間なので、こういう「心を奪われる作品」を大事にしていきたい。
以前ツイッター界隈で「各話において、クレジットされる作画監督の人数が多いほど現場は火の車になっている可能性が高い」という言説を見た。たまたま知り合った元アニメーターの方に聞いた限りあながち間違いではないらしい。そこで本作なのだけれど、グロス回で作監が3人クレジットされるくらいで基本1人か2人という感じだった。終始作画も安定していて、スケジュール的にうまく行っていたのではないだろうか。
また、公式ラジオで言っていたのだけれど、本作のアフレコでは完成された映像を見ながら声を入れていたらしく(最近は絵コンテ段階の映像で声を入れることのほうが多いそうな)、その点でも本作はある程度余裕を持って作られていた可能性が高い。
要は無理せず良いものを作って欲しいよね、という話。
元々はコミュ障。
だが、タイトルのように言われることが増えた。
自分で話すのが上手くなったとかは思わないけれど、誰かと話したい、話すのが楽しい、話を聞いてほしい、と思うことは多くなった。
①コミュ障の頃
②話すのが苦痛だけどまぁ話は出来るかなという頃
③人と話すのが楽しいと思う今、
それぞれ、思考に大きな違いがあるので書き留めておきたい。
9回面で「2−3」から「4−3」に逆転し、広島の瀬戸内を下すという逆転劇があった。
これに関して、どういう感じ方をするのかということを上記の3パターンに分けて書いてみる。
①コミュ障の頃
そこが逆転したのか
「→感情の起伏に乏しく、興奮にも欠けている。他人事を自分の中でただ消化する感じ」
②話すのが苦痛だけどまぁ話は出来るかな、という頃(この頃は、もっぱら聞き役だった。)
そこが逆転したの??9回の面で、2−3を4−3!!? 凄いなやるじゃん!
「→感情移入したり、自分のことのように興奮して喜んで共感することは出来ていて、それが相槌にもなっていたけれど、やはりどこか消化的」
明秀日立?? 高校野球そこそこ詳しいんだけどな聞いたことないわ、茨城のチームなんだ!
そこが初出場で、しかも9回面での逆転勝利?? 凄くない??凄いわ! やっぱり高校野球ってドラマあるよね!
「→自分で情報を整理したり、自己開示なんかも自然にしている。
しかも、何か情報を得ると、それを誰かに話すようなセリフが自ずと出てくる(ここで言えば、「凄くない??」がそれに当たる)」
何が言いたいかというと、自分の話を誰かに聞いてほしいと思うことが多くなって、そうすると情報も自然とそういう形で整理されていく。
些細なことなんだけど、自分に向けて受信するのか、外に発信するような形で受信するのか、この違いがとても大きい。
ちなみに、
、、、、、とこういう自分勝手にベラベラ喋るだけの、会話のキャッチボールが成立しないタイプのコミュ障に関しては分かりかねます。
(https://anond.hatelabo.jp/20180322081336 からの続き)
めぐっちゃんと、「南極行きの荷物整理中に見つけためぐっちゃんのゲーム」を「(昔は2人でプレイしていたのに)キマリが一人だけでプレイ」しながら「めぐっちゃんの知らない、キマリの友達」の話をするという流れが端的にめぐっちゃんの心境を表している。めぐっちゃんの心境は各話で少しずつ描かれているが、ここで一気に「めぐっちゃん…」ってなる非常に強烈なシーン。
めぐっちゃんがキマリにすべてを打ち明けるシーン。以下自分語り。
私には小学生時代に知り合った友人がいた。友人はきっかけはよく覚えていないが、小学校高学年になる頃にはほぼ毎日一緒にいたと思う。ただ友人は変に気の強い性格だったのか、私が他の子と遊んでいると鬼のような形相ですっ飛んできて私をそこから連れ出そうとしたり、一人にされることを極端に嫌がったりした。それに振り回されるうち、私は一日中その友人とセットで行動するようになり、中学生になる頃にはその子以外と一切遊ばなくなっていた。
私が当時その状況に甘んじていたのは、一つは友人といて楽しかったと思ってたから。友人はいろんなゲームや漫画のある家庭に育ったので、友人の家に行けばわりと満たされたからだ。そして二つ目は、私が友人から距離を置こうとすると全力で拒否するようになったからだ(暴力込み)。はじめのうちは喧嘩もしたけれど、そのうち「あまりに近くなりすぎないよう距離を置きつつも、概ね抵抗せず、常に機嫌を伺う」というぬるま湯に浸かる術を身につけた私達の仲は、大学時代まで続いた。
その当時の心境を端的に言うと「友人には私が必要だが、私はそうでもない。でも友人から得られるものもある。適度に利用しながら、距離をとっていこう」みたいな感じだった。
別々の地方大学に進学したあとはコミュニケーションを取る頻度が劇的に落ちた。たまに友人からヒステリじみたメール等が飛んできたけれど、物理的な距離のおかげで友人の拘束から逃れることが出来た。そして一人になって初めて、孤独というものを強く思い知らされた。サークルに入っても上手く人に合わせられない。ワイワイする方法がわからない。大学生同士の話題についていけない。同じ趣味の人を見つけることが出来ない。何もかもが上手くいかない。そしてその悩みを共有する相手がいない。本当に空虚だった。案外、友人を縛り付けていたのは私だったのかもしれないな、と今は思っている。結局友人とは音信不通になった。
だから、面と向かってキマリがめぐっちゃんにこの話をしたのはキマリの鋼メンタルを物語ってる。言わば「いっつも面倒見てくれて、それにずっと甘えてきたけれど、もうやめにしよう」とめぐっちゃんを突っぱねたんだから。「いつも面倒かけて申し訳ないから…云々」という消極的な理由ではなく「ゲームの相手になれるくらい」の関係を築きたいというキマリの想いは絶交を宣言しためぐっちゃんと対照的なのだけれど、どっちの気持ちも分かる。私がずっと抜け出そうとしなかった不幸のぬるま湯に、めぐっちゃんもキマリも気づくことが出来て、しかもそこから抜け出そうと一歩を踏み出したのだから。私には二人が眩しく見えた。
でも一方、5話におけるライティング演出が二人の「ここではない、どこかへ」という勇気について非対称性を感じさせる。簡単に言ってキマリ=陽 めぐっちゃん=影 なのだけれど、出発のシーンでは
「絶交無効」…陽
となっていて、「友達と4人で」一歩を踏み出すキマリの明るい予感と、「そうではない(一人で)」一歩を踏み出すめぐっちゃんの暗い予感という対比に見えた。私自身めぐっちゃんルートだったから、最後にキマリが絶交無効したシーンで二人に陽が当たる演出は、「めぐっちゃんにキマリは必要」であることを肯定的に描いてて本当に好き。そう考えると、5話におけるライティング演出の狙いはすべてこの「絶交無効」に収束している気がする。
19:00頃~
日本編と航海編をつなぐ回。シンガポールのメジャーな建物が現地民も納得のハイクオリティで描かれていて、めっちゃ行きたくなる。本作における聖地巡礼は、館林(群馬)→歌舞伎町(新宿)→極地研(立川)→シンガポール→フリーマントル(オーストラリア)が無難か。
キマリ&ゆづの部屋と報瀬&ひなたの部屋でダボーベッドの広さが異なって見える(報瀬ひなた部屋のベッドの方が距離を感じる)。計測したらどっちもほぼ2m幅になっていたので、2組それぞれの心の距離に差があることを非常にうまく対比している、すっげえ大好きなシーン。
無理ーってなってる日向を、自分のわがままで引き止める報瀬。このやり取りは、3話で報瀬が自身の性格について自己嫌悪していた時、日向が「思いの強さとわがままは紙一重である」とアドバイスするとても尊いシーンと対になっている。あのとき日向が報瀬のパーソナリティを肯定したからこそ報瀬が成長し、その結果として6話があるのだと考えるとこんなに幸せな話は他にない。
シンガポールの街並みを見ながらそこに住む人々の生活に思いを馳せ、
同時に過去(日本での生活)を思い出しつつ未来(人々の生活が存在しない大陸)を暗示させる印象的なシーン。
19:35頃 ビジネスクラスのチケットを持ってムッフーなってるキマリ
前回の観測船→今回の観測船の対比(減ったトラックや物資、前回は多くの取材陣に囲われていた隊長、前回は一緒だった貴子)
アバンだけで「観測隊の船出が順風満帆ではないこと、また隊長、かなえ、貴子の関係」を回想と現実の対比によって簡潔に表している。
本作を支える「緻密な取材に基づく描写」がこの辺りから本領発揮する。砕氷艦報瀬の内部構造がしっかり描かれていて、話の内容関係なく観てて楽しい。
ここまでの伏線として「先行き不透明」とか「カネがない」とか「南極ってめっちゃ過酷やねんで」等重大な問題が示唆されているのだけれど、それに対して「一発逆転(一攫千金)の方法」とか「やってみなきゃわかんない」等の非現実的な展開によって解決せず、「これから先いろんな困難が待ち受けている」のではなく「いろんな困難があったけれど、強い覚悟で3年間戦ってきたからこその今がある」っていうもう一つのドラマとして丁寧に大人組を描いていて、主人公の4人よりむしろ大人組に感情移入してしまった。隊長の「この船は、そういう船」っていう言葉で胸がいっぱいになる。
だからこそ、その観測隊員の前で自己紹介をするキマリ、ゆづ、ひなたの晴れやかな顔を見ると「ああ、この子たちはそれでも主人公なんだな」って感じさせるくらいのドラマがあったことを思い出す。大好き。
ここまで「南極にとらわれているお姫様」という舞台装置でしかなかった貴子の「星を見る船を率いていた一人」という側面を知ったことで、報瀬が抱く(手放しで仲間と呼べない)観測隊への複雑な想いが伝わってくるし、自己紹介のとき「小淵沢…報瀬です…」という言い方からも彼女にとって、そして隊員たちにとっての「小淵沢」という姓の重さが伝わってくる。だからこそ、敵or仲間相手じゃないと普通に喋れないポンコツ報瀬が(日向のフォローもあって)あのセリフを言えたことは彼女の成長を強く感じさせたし、「報瀬のコールに応える隊員たち」というシーンだけで、セリフもない隊員達含む全員の想いを完璧に描いた演出は控えめに言って最高すぎる。
8:40頃 物資を運ぶのが大変すぎて、疲労のあまり原型を失ったキマリ
氷海域へ到達!波濤を進む砕氷船「しらせ」での艦内生活【南極観測隊シェフ青堀力の南極紀行2】 https://serai.jp/tour/141947
船内のシーンでは声の反響がシチュエーションごとに異なっていて、反響を聞き分けるだけでその部屋の大きささえもわかるくらい細かい。
「特に荒波に揉まれる砕氷艦の船内」の音がすごい。どうやって作ってるんだろ
キマリの前髪という話題に触れるのは8話が初めてであり、言ってみれば「主人公のキャラデザ(キービジュアル)に個性的な伏線を張り、それを8話まで引っ張る」というマネをしている。「なんやこのキャラ、あんま可愛くないやんけ」って思われたらどうしようとかそういう不安をぶっ飛ばすストロングスタイルな戦略である。前髪の理由を聞いて「あー、だから・・・」って思った私は見事術中にハマっていたらしい。キャラデザ最高かよ。
Bパート以降ずっと画面がゆらゆらしている。公式ラジオでキマリの中の人こと水瀬いのりが「アフレコの時ずっと見てて軽く酔った」と言っていて、たしかに大きい画面で観ると結構きつい。むしろそういう効果を狙った演出だったら笑う。
大人の一人として扱われ、荒波に揉まれる(物理)姿は新社会人を思い出す。観測隊としてやっていくためにはもっと多くのことを出来るようにならなければダメだし、そこに「やる、やらない」という選択肢はなくて、ただ与えられる業務を淡々とこなすことが求められるのも社会人の一つの形なのかもしれない。そしてそういう姿に青春は宿らない。「宝石の国」(2017)12話のフォスフォフィライトを「入社3ヶ月目の俺」と評した人がいたけれど、この4人ももしかして…と思わせるような心境が「頑張るしか無いでしょ…他に選択肢はないんだから」という報瀬のセリフによって描かれている。
これと対になっているのが4話ラストのシーンで、4人が観測隊(あるいは報瀬の旅)についていくのではなく、「みんなで南極に行く」という覚悟が対になっている。だからこそキマリの「この旅が終わった時にはぜったいにそう思ってるもん!」はその鋼メンタルに痺れたし、その後4人のやらかす姿は相変わらず青春しててめちゃくちゃ眩しかった(夜なのにね)。また4人が水平線に流氷を見つけた時の顔は出港時の4人と全く同じ構図になっていて、彼女たちの「変わらなさ」を象徴している気がした。
南極の大変さにビビってたキマリたちがかなえさんに昔の観測隊が何度も何度も南極に挑み続けた話を聞いて、あるいは同じ話を幼い報瀬に話していた吟隊長、そして今の報瀬が砕氷艦のラミングを繰り返す姿に「行け!」って前のめりになっている姿がすごく良い。時代を超えてそれぞれに受け継がれてきた魂のようなもの(作中では「吟の魂」と表現されててかっこいい)の強さがラミングしながら進む砕氷艦の勇ましさや音響とシンクロしてて、控えめに言って最高。
あと、「吟の魂」がなかった3人組は吟と想いを共にする隊員たちより縄跳びが下手で、一方それを幼少期に受け継いだ報瀬は縄跳びがうまいっていう文脈良いよね。そういう意味で3話Cパートの「貴子と、縄跳びを手に持つ報瀬の写真(撮影者はおそらく隊長)を手に持つ隊長」のシーンは非常に印象的。なお現実の観測隊でも縄跳び大会があるみたい(娯楽大会と称して、アウトドア競技やインドア競技で盛り上がるらしい)。
「その貴子はもういないのよ」というかなえのセリフが刺さる。吟は強い信念を持って前回の南極観測に挑んだ結果貴子を失ったことを非常に悔やんでいたし、加えて報瀬を強く傷つけた。しかも自分の信念をロリ報瀬が受け継いだからこそ今の報瀬は母の亡霊と決別するために、あろうことか「宇宙よりも遠い場所」を目指しちゃって、しかも成功しちゃって今目の前にいるというのは吟のカルマそのもので、もはや「自分のせいで報瀬の人生めちゃくちゃ」なのか「報瀬は報瀬なりに一歩を踏み出す勇気を持った子に育ってくれた」のか分からないよね。両方か。そのくせ自分は過去に囚われてるままだし。ラミング→貴子の回想っていう構成で胸がいっぱいになる。
だからこそ最後の「ざまーみろ!」を最初に報瀬が言う演出は最高だった。おまけに大合唱だし。泣くやんあんなの
ラミング(2回め)の氷が割れる音がすごいので、ぜひ爆音で聞いてほしい。あと氷にまつわる音で思い出すのは「宝石の国」(2017)7話の流氷の音。あっちもすごい。
11:55頃 甲板で会話する報瀬と隊長の二人を、下からこっそり見守るキマリのアホ顔
南極のあらゆるシーンで息が白くない。これは気温が低くても息が白くならないリアル南極の仕様を再現してるのだけれど、「白い息を描かない」ことで「ここが南極であることを再認識させられる」っていうのがなんか良い。
「ヘリの音がうるさくて会話が聞こえない」というシチュエーションをアニメで表現しているところを見ないのだけれど(当たり前か)、このシーンはガチでヘリの音がうるさくて好き。ぜひフラットな出力の(人の声を強調しない)スピーカーで大音量にして聴いてほしい。
朝の「ご安全に」、ついつい復唱したくなる。あのシーンだけで「この基地においては隊員たちがああやって生活している姿がメイン」であることを再認識させられる。南極だから彼らが毎日特別なことをやっているわけではないんだよ、というメッセージになってて好き。
「友達とはなんぞや」という話を中心に、それぞれのキャラクターを描く回。10話から本格的に基地での活動や生活を中心とした物語になる関係上それぞれのキャラクターが「友達とは」に言及する尺が結構短い。なのにすごく説得力があるのは、うまくこれまでの物語で彼女たちの心を描いてきたからこそだなぁ、と感じる。
ゆづが「友達誓約書」を出してきて、もしこれが3話とか4話だったらただの笑い話なのだけれど、あれから7ヶ月も一緒だったからこそ3人が曇った顔をしていた気持ちもわかるし、5話があるからキマリが泣いちゃう気持ちがわかるし、一方笑顔でめぐっちゃんの話をするキマリを見てると胸がいっぱいになるし、1話やカーチャンのことがあるから報瀬の友達論は重みがあるし、6話があるから日向が「友達って」をうまく説明できないのが辛い。そして何より、3話で自分から「友達になりませんか!」という宣言とともに獲得した2人の友達(察しのいいゆづならきっとその2人がなんで友達になってくれたのか分かるはずなのに)にすごくこだわっていたゆづ故の「友達誓約書」って思うと、すごく切ない。だって7ヶ月間ずっと待ってたんだぜ?友達宣言。
大好きなのは日向と報瀬がゆづを励ますパーシャル丼のシーン。BGMが3話等の挿入歌「ハルカトオク」のアレンジになっている。BGM聴いただけで「なんて温かいシーンなんだろう」って思わせるくらい優しい空間になっていて、(ゆづの悩みとは裏腹に)明るい予感に満ちている。メッチャ好き。
現代風の表現を用いる時の問題として、時代の変化によってその意味が変質したりするという点がある。これは意図して変質を招くことは少なくて、大抵は無自覚に発生する問題である(ex,宇多田ヒカル”Automatic”の歌詞に出てくる「受話器」)。今作で言えばSNSアプリでのやり取り。もしSNSがポケベルと同じ運命をたどった時、その未来においてこの作品の意図はどれくらい伝わるんだろうか…と心配になるのだけれど、10話の18:30頃において、「既読が付くこと」を「”ピッ”って、読んだよーってサインが付いたり」と表現していて、思わず「おおっ」ってなった。現代風に言うなら「既読スルーしてやんの」とか言いそうな所だけれど(キマリは言わないけど)、「”ピッ”って、読んだよーってサインが付いたり」という言い方は向こう20年くらいは伝わる表現なんじゃないだろうか。風化しにくい表現を選んだ、と言う意図があるかどうかは分からないけれど、すごく好きな表現だ。
1~12話まで観たけど、とても刺さった。私なりの観測範囲でよく話題に上がっていた作品なので、便乗して感想を書く。まだ観てない人向けにネタバレなしレビューも書いたので、リアルタイムで13話を観るキッカケにでもなれば。
あと私はあまりリアルタイムでアニメを見るのが得意ではない方の人のだけれど、コレはコレで楽しいな、と思った。制作者のインタビュー探しやすいし、それに対するファンの反応見れたり、各話ごとに視聴者の反応をリアルタイムで知ることも出来てより深く作品を知る機会に恵まれてる。何より楽しい。この感想もそういう色んな人達の発信した悲喜こもごものお陰で書くことが出来たので、日々感謝するばかりだ。ありがとう。
2018年冬アニメ「宇宙よりも遠い場所」を12話まで観た感想 その2
2018年冬アニメ「宇宙よりも遠い場所」を12話まで観た感想 その3
ノゲノラスタッフによる作品というキャッチコピーだが、内容的にはいしづかあつこ作品「ハナヤマタ」に近いものを感じる。ハナヤマタが中学生たちの優しい世界とするなら、こっちはもう少し、冒険をするときのワクワク感がある作品。両作とも「ギャグのテンポが良い」「1話毎に話がまとまってる」「女の子がみんなかわいい」「すごく救いがある」と言う共通点がある。特に1話毎の完成度が非常に高く、好きな話を何度も見返したくなる作品だなぁ、と感じた。メインキャスト4人のメンツで既にざわざわしていたのだけれど、なんてことはない、高レベルの喜劇を演じられる実力者揃えたからっていう。
協力:文部科学省、国立極地研究所、海上自衛隊、SHIRASE5002(一財)、WNI気象文化創造センターとあるように、すっごい詳しく取材した上で作られているアニメ。「JKが南極を目指す」という触れ込みは軽くSFチックなんだけど、現実に即した物語と美麗な背景美術で描かれる世界はとてもリアリティがあって、それ目当てだけでも観ていて楽しい。小ネタも満載で、「昭和基地の施設内にある厨房の戸棚に書かれている落書き」まで再現していたりする。そういう世界の中で描かれるキャラクターたちは、監督がメインキャスト4人の演技を「それぞれのキャラクターが本当に生きている」と評したように(公式ラジオ第11回より、水瀬いのり談)すごく活き活きしていて、本当に生きた人間の成長過程を見ているようである。キャラデザも緻密に作られていて、鼻の形にまでちゃんと意味が込められているんじゃないかと思わせるくらいのクオリティに仕上がっている。バカみたいに表情豊かなので、同じ話を何度観ていても飽きない。そんな彼女たちの心の機微が徹頭徹尾とても丁寧に描かれている作品なので、非常に感情移入のハードルが低い。また絶妙な音楽による演出はより作品への没入感を加速させるので、そのうち彼女たちが何気ないことでヘラヘラ笑ってるシーンでさえつられて笑ってしまうくらいシンクロ率が高くなる。もはや音楽に心を委ねているだけで自然と、面白いシーンで笑い、悲しいシーンで泣き、嬉しいシーンで泣けるようになるので、そこら辺に意識を向けながら観てほしい。ただハマりすぎると「むせび泣きながら大爆笑する」という稀有な体験をすることになるけれど。
この作品を観ていて強く感じたのは「何度も見返したい」という点。一つ一つのシナリオが高いクオリティで完結している、というのもあるのだけれど、加えて本作では「4人の成長」が大テーマになっていて、各話には彼女たちの成長を如実に感じられるよう伏線をたくさん張り巡らせてあるので、話が進めば進むほど彼女たちの行動一つ一つに宿る物語を思い出しては強く感動する…という構成になっている。なので、「このシーンでこの子がこういう行動を取ったのって…」と気づく度に過去回を見返したくなるような、非常に完成度の高いエンターテインメント作品だと思う。
(物理)という意味もある。物理的に行くのが困難な場所を目指す物語としてすごく完成された作品だし、「リアリティがあって、かつほんとに行けるか分からないくらいハードルが高くてワクワクするような目的地」というつくり手の戦略はすごくハマってると思う。
一方で心因性の「宇宙よりも遠い場所」ってあるよね、というもう一つの意味も丁寧に描かれている。例えばそれは誰かにとって「メッチャ高い目標」、あるいは「何も変えられない自分から、何かを変えられる自分への転身」、「誰かに依存し続ける自分との決別」、「まだ見ぬ友達のすぐ隣」なのだけれど、大切なのは勇気を持って最初の1歩を踏み出すことだよね、ということを描く物語がこの「宇宙よりも遠い場所」というタイトルに込められていると感じた。私が1~12話全部が好きな理由は、すべての話が「最初の1歩を踏み出す物語」になっているから。ED曲「ここから、ここから」もそれを象徴している。ちなみにED曲タイトルは、作曲者が近所の散歩中に[ここから~]という道路標識を見つけたことが由来らしい(本人ツイッターより: https://twitter.com/higedriver/status/968006184413249536 )。
とにかく笑って泣ける作品なので、イッキ見をすると顔中が痛くなる。普段表情筋を使っていない私のような人は体調に気をつけて観たほうが良いかも。
上記の通り何回も見返したくなる作品なので、私なりに観る順番を決めてみた(数字は話数、その右にある()内は注目するポイント)。少しでも楽しむネタになれば。
4-1(キマリの想い)-2(報瀬、日向、観測隊の想い)-3(ゆづの想い)-
5-[1-2-3-4(キマリ一家)](めぐっちゃんの表情)-5-
7-1(キマリの想い)-3(ゆづの想い)-4(報瀬と隊長)-5(冒頭撮影シーンのつながり)-
8-1(キマリ)-4(4人)-5(4人)-7(4人)-
9-[1-2-3-4(報瀬と隊長)-5-7(報瀬と隊長)](ほんとに南極行けるの?だって南極だよ?)-9-
10-1(報瀬にとっての友達)-3(ゆづにとっての友達)-4(4人の仲)-5(4人の仲、めぐっちゃん)-6(4人の仲、報瀬と日向)-8(4人の仲)-10-
11-2(日向)-3(日向)-4(日向)-5(日向)-6(日向)-7(日向)-8(日向)-9(日向)-10(日向)-11-
12-1(報瀬)-2(報瀬)-3(報瀬)-4(報瀬)-5(報瀬)-6(報瀬)-7(報瀬、隊長)-8(報瀬)-9(報瀬、隊長)-10(報瀬)-11(報瀬)-12-
13
私事になるのだけれど、ほぼおんなじことを言われた経験がある。何年か前に高校の同窓会に行ったのだけれど、その中に青年海外協力隊に参加した経験者がいた。元々興味があったのでかなり前のめりに話を聞いていたのだけれど、そんな私を見た彼が「じゃあ、行く?知り合いに話してあげるよ」と言ってくれた。けど私は行かなかった。その場であれやこれやと行けない理由を話した覚えはあるけれど、要はそういうことなんだろう。だからこうして一歩踏み出そうとして出来なかったり、そのくせ踏み出そうとしてる友達を応援してみたり、そんな自分が嫌いなったりしているキマリの姿を丁寧に描く1話は私に刺さりすぎた。
アニメを含むコンテンツに触れているとよく、「スカートで体育座り」というシチュエーションを見る。…けど、私は「そそそそのスカートで座ったらパンツ見えちゃうよ!?」ってなってしまって結構苦手である。最近のアニメ作品では絶対にパンツが見えないような工夫がされていることが多いけど、その多くは「神様視点では見えない(脚でパンツ隠すやつとか)」あるいは「重力を無視したスカート」のどちらかである。どちらの手法でも非常にもやもやしてしまうので、「どうやってスカート履いてる女の子が座る姿を自然に描くか」という表現技法にずっと興味があった。
そこで1話 14:05頃を見て欲しいのだけれど、キマリがスカートの下に手を回してる座り方がすごいかわいい。自然な仕草かつ可愛いだけでなく、キャラクター自身が見られないよう意識している事がわかり、それも含めて可愛い。とてもよく出来ているシーン。
この手法は、監督いしづかあつこが絵コンテを担当した作品「ハナヤマタ」(2014年)の1話 13:40頃でも見られることから、監督のこだわりなのだろう。些細な事だけど、私が監督を好きな理由の一つである(余談だけど、同氏が絵コンテを担当したノゲノラ1話ではワンピースを着た”白”が自室でベターっと座ってパンモロしていて、彼女のだらしなさを簡潔に表現している。座り方一つでキャラクターの性格を描くという点では一貫していてすごく好き)。
色んなアニメで登場する「放課後の学校の音」を比較するのが好きなんだけど、よりもい1話の放課後の音がとても好きなのでぜひ聴いてほしい。男子生徒の会話する声、吹奏楽の音、陸上部あたりのホイッスル等、非常に音が豊か。
15:05頃 「宇宙よりも遠い場所」を読むキマリがかわいい。
めぐっちゃんの「南極に聞いた?」を見た報瀬がムッとした表情になり、キマリの心配に対してつっけんどんに拒絶してしまうという流れから、今まで散々「南極」とからかわれたり、あるいは仲の良い人から諦めるよう説得されてきて、その度に彼女はどんどん強情になっていった報瀬の過去を思わせる。それでもすぐに和解できたことから、いかに二人が1~2話の間に信頼関係を築けたかが分かる。また、二人が言い合った場所が敢えて交差点であることも強い印象を残していて(作品を通して交差点が登場するのはこの時のみ)、非常に好きなシーン。
目まぐるしく変わるシーンの背景がいちいちハイクオリティ。その中を複数のキャラが、文字通り縦横無尽に走り回る本作で最も激しいアクションシーン。コマ送りで見ると楽しい。アニメ作品において、キャラが奥→手前のように奥行きのある移動をする際、作画が安定してるって結構すごいことだと思う。
奥→手前
右→左
奥→右と左に分かれる
奥→手前
右→左
手前→奥
奥→手前
手前→奥
右→左
奥→手前→右
右→左 …みたいな。3人が歌舞伎町に来るまでは夜道=街灯もない真っ暗な道という描写だったけれど、このシーンでは対照的に明るい歩道、きらびやかなネオン、往来する人なんかが強調されてて、キマリの心象風景が可視化されてるみたいで好き。
加えて疾走感の演出がすごく良い。キマリは最初、すっげー速い隊員と日向に比べてヘナチョコ走りなんだけど、挿入歌の盛り上がりに合わせてどんどんフォームが良くなっていく。たった一人だけ笑顔で走ってるキマリの高揚感がすごく伝わってきて、胸がいっぱいになる。
1話の100万円…報瀬の並々ならぬ覚悟を象徴する舞台装置、またそれに応えるキマリの覚悟の大きさ
2話の100万円…スポンサー料として提示した金額。ハッキリ言ってゼロが足りない。その申し出を断ったかなえからは、大人組が報瀬の「絶対に南極へ行くという想い」を超えるくらい強い意志を感じさせる。
だからこそ、追い返された帰りの電車内で報瀬がちっとも折れずに「こいつ、ポジティブちゃんだ・・・」ってなるやりとりが非常に効果的な演出になっていて好き。
これ以降も重要な舞台装置になっていて、ただの札束をここまで丁寧に描く作品ってすごいと思う。
17:40頃 「私の青春、動いてる気がする!」のキマリがかわいい。
特に2~3話は「さもありなん」と思わせるシナリオになっていて、非常に面白い。この作品にリアリティを感じた人はよりもい公式ページの「南極チャレンジ」や、観測隊の日記等を見て幸せになってほしい。
報瀬家ではリーダーを解任された報瀬が不満を漏らすのだけれど、お茶を出しているところを見て「お茶くみに格下げか」と気づいた人はどれくらいいるだろうか。また、後ろにそっとおいてある南極観測船「宗谷」にも気づいた人って最低でも30代だと思うのだけれど、そこらへんがこの作品のターゲットなのかもしれない、と思った。私もアラサーだし。
同じく報瀬家でのやりとりにおける報瀬(CV.花澤香菜)の演技が抜きん出て面白い。本当に素晴らしいキャスティング&ディレクション&演技だと思う。
「変な夢…」→夢と違い、殆ど開かない窓→スマホを見て目を細める結月→バッジのないSNSアプリ(前日送ったチャットの返信がない)→退出しましたx2→後ろ姿→\コンコン/→一瞬窓を見る→\コンコン/→「おはよー!」
この間セリフがないのに、それでも結月の心の浮き沈みが痛いほどわかる演出がすごい。本作の特徴である、丁寧な心理描写や伏線の貼り方を象徴しているシーン。
07:20頃 こんな事もあろうかと用意しておいた”二人羽織”(書・キマリ)の、”二人羽”に比べて小さい”織”
高校生が主人公のアニメや漫画では学力をテーマにした回が定番だけれど、この作品ではキマリ家での悲劇が描かれるのみ。なぜかといえば、4人のうちちゃんと学校に通っているのが2人だけだから。加えてゆづは通っている学校と学年も違うので、学力テストをテーマにしにくい。てかそもそも女子高生を描くアニメで学校に通っていない子をメインにするという発想に惚れた。でも4人のスペックについてはうまく描かれていて、
キマリ…部屋の片付けが苦手、一つでも赤点取ったら南極に行けない、コンパサー→基本はできない子
報瀬…キマリに説教する日向に同意する、慎重に測量の訓練をする→できる子?
ゆづき…学校に行けない分ファミレスで自習、数学のノート(図形の作画が非常に丁寧、字が綺麗)→できる子
南極での作業フェーズではそれぞれがいろんな作業をするので、できる子なのかできない子なのか分かるっていうのはそれなりに意味があるんだけど、それを「勉強の出来不出来を数字で表す」という無意味な評価軸に頼らない演出にしてて好き。
「ここじゃないどこかへ」というモチベーションでここまで報瀬に付いてきたキマリ。それだけでもすごいのに、そのうえ報瀬の想いや大人組の想いを知った上で「みんなで行きたい!」と言ったキマリの鋼メンタルが描かれている。報瀬たちと同等の覚悟がないとこんなこと言えないはずで、物語の縦軸を担う報瀬ではなくキマリが主人公であることを再認識した大好きなシーン。
16:35頃
乃木坂春香の秘密の続編、乃木坂明日香の秘密が来る4/10に発売される。
涙は出なかった。
感動するには時間があまり経っていないし、そこまで人気のあるシリーズでもなかった。
作画は当時から見ても平均以下だったが、オープニングの曲が好きだった。
作品自体に思い入れはそこまでないが、俺の青春の1ページと言っていいだろう。
この情報を始めて知ったのが昨日であり、自らのアンテナの低さには呆れるばかりだが続編発表に寄せて思いの丈を吐き出したい。
乃木坂春香の秘密は電撃文庫から出ていたライトノベルで、記憶が確かなら2006~2012の間続いていたシリーズである。
当時狂ったようにラノベを読んでいた学生の俺は当然存在を知っていたし、当時のアニメ化発表の時点で全巻揃えていたはずである。
乃木坂春香の秘密のストーリーの大筋は隠れオタであるヒロインと当時流行っていたタイプの冴えない主人公のドタバタラブコメであり、隠れオタのご令嬢など身近に存在しない俺は特に感情移入することもなくしゃあ先生のイラストのためだけに買っていた。
ストーリーなどあってないエロ主軸の話ではあるが、当時の風潮としてオタクは比較的迫害されており、ヒロインの乃木坂春香も周囲の無理解に悩むような描写が多かったように思う。
その娘(おそらく)である続編のヒロインの明日香が言ってしまえばオタサーの姫ポジションであるというのは、時代の流れを感じずにはいられない。
乃木坂春香の秘密と似たようなテーマの作品は、浅学非才にして、俺妹ぐらいしか思い浮かばないが、俺は俺妹が嫌いなので多くは語るまい。
とにかく、時代が変わったということを強く実感したのだ。
ラノベも変わった。
今やメインストリームは電撃でも富士見でもなく、なろう書籍化系である。
いぬかみの完結から気持ちが離れだし、とらドラの9巻で決定的にラノベを読むことを辞めた自分も、ここ数年はなろうしか読んでいない。
オタクに対する風当たりが変わり、ラノベ界隈であまり存在感を示せていない電撃文庫で、今の時代を象徴するような続編が出る。
話の筋は好みではないが、作者もイラストレーターも続投と恵まれている方ではないか。
とりあえず、買って読むしかあるまい。
いくつか条件はあるのだが、はてなユーザは割とクリアしやすい条件だと思う。
普段は、遅いコンピュータを扱っているときは、フリーズしないように手加減して操作していると思う。
コンピュータからすると、普通に一つずつ処理をこなしており、自分が止まっているという認識は無い。
そこへ一瞬のうちに外界からコマンドが送り込まれるのだ。まるで、時間が止まっている間にコマンドが飛んできたような感じだ。
同時に「EXCEL動かせ」「Word動かせ」「ブラウザ動かせ」って言われるの。
加えて「USBメモリ挿したぞ」「USBマウス挿したぞ」「HDDも挿したぞ」ってな。承太郎が目の前にナイフ飛ばされてたような状態だよ。
もう、ヤバイだろ?
症状、状況、自分なりの対策がありましたら教えていただきたいです。
症状
●呼吸が浅くなって心臓の鼓動が1分間に170以上に上がる。
●誰にも見つからない場所に逃げたいと感じるが、誰にも見つからず死んでしまうのではないかと二重の不安に襲われる。
状況
●映画館で感情移入しすぎたとき。(初めての発作はコレだった)
●誰かに発作を起こしている自分を見られたくない状況にいる。(映画館の途中退席は誰かに迷惑かけちゃうのでは?とか)
●湿度が高い日や空気が浅い場所に入ると息苦しくなって呼吸が浅くなるとき
●就寝前の静けさ
(おそらく予期不安から来るので独自の入眠技を使って少し改善(気持ちを紛らわす方法))
私の場合70なので若干高め。
発作を起こした時は170(fitbitで計測)以上まで上がったのでこのまま心臓発作を起こすのではないかと不安になってたちまち発作が広がります。