はてなキーワード: 夏休みとは
スポーツ科学不在の、このカネ儲けと浪花節と集団主義的運動部活動を眺めていつも思うのは
独仏は参考にならなかったので英国や米国の学校内運動部方式を参考にした。
あくまで仕組みを参考にしただけで、英国のエリート養成学校のいわゆる嗜みとしてのスポーツという精神や、米国のスポーツ参加の平等性や公正性は無視された。
戦後の高度成長時期からは、学校の運動部活動は、一部私学のマーケティングとして利用され、公立学校では非行防止の一環と位置付けられた。
しかしそういった真の目的はウラの話としてささやかれるだけだったため、合理的で科学的なスポーツ環境は育つことはなかった。
十年以上前から、国民のスポーツする権利を保障するため、地域スポーツの強化が国の計画で打ち出され、ヨーロッパ型の地域総合型スポーツクラブを推進されてきたがうまくいかなかった。
そこに教員の労働時間短縮をカネをかけずにやり過ごしたい国が、教員の代わりに地域に押し付けようとという発想で生まれたのが、今回の運動部の地域移行である。
地域移行にあたっては、国民の健康や文化的な生活向上にスポーツを活かすという本当も目的がお題目として掲げられる。だが、真の目的が不純だからだ。
本当に地域移行しようとするなら、
本気でスポーツを国民に根付かせ健康や文化的な生活向上につなげたいなら、
まずは大学や実業団の運動部を廃止することから始めないといけない。
大学や大企業では、もっぱら一部の者だけが利用するために、体育施設や運動場が整備されている。
それらは、新法をつくり、無償で地方自治体に贈与させたらいい。
大学の運動部も結成自体は結社の自由があるから設立や活動自体は自由であるが、彼らのために特別な優遇措置を図る必要はない。いわゆる文化系サークルと同様の扱いをしておけばよいだろう。
私学にも国の助成金で運営されているのだから、運動部活動優遇措置を継続させたい私学には、助成金ゼロにしたうえで、固定資産税はじめ高額の税を課せばよい。
大学一般教養の体育の授業で利用するためだけなら体育施設の整備は認められようが、せいぜい大学共同利用施設として整備されれば十分だろう。
もっとも一般教養で実技としての体育の授業をすること自体に大いに疑義がある。なぜなら同年代の大学進学をしていない者は、年に24コマの体育をする権利が保障されておらず、大学生と職業人との間でスポーツ権に差が生じるからである。
大学で実技体育を必修科目とするなら、労働関係法を改正して雇用者に対して従業員のスポーツする時間を有給保障させる義務を負わせるべきであろう。
中学校の運動部活動は、中学校が義務教育機関であるため、大学や高校とは異なる視点が必要だろう。
12~15歳の者にとって、推奨されるべき運動量が、授業の体育だけで十分なのかは科学的に検証すべきであって、授業時間だけで不足するなら、それはやはり学校教育の場で対応するのがよいだろう。それも、運動部活動の形態を取るべきではないのは言うまでもない。
そして、推奨運動時間を超える部分は、学校が行うべきではなく、他の行政機関が社会体育として実施するべきものであろう。
高校や中学の運動部は無料で利用できたが、地域移行により保護者負担が増加することや、地域移行の受け皿に企業が進出することを懸念する声もある。
しかし、学習塾や進学塾にはカネを出すが、必要以上のスポーツ活動にカネを出さないのは理屈が通らないので、そういう声は無視すればよい。
企業進出については現状やむを得ないだろうが、企業と利用者(生徒・学生の保護者)が直接契約するのでなく、あくまで自治体の教育委員会社会教育部門が業務内容を決定し、それを企業に委託し、利用者は教育委員会に申込む、というスキームにすべきだろう。
そして、十年以上かけて、徐々に地域スポーツ指導員を育成し、市の正職員として雇用するなり、自治体出資のスポーツ振興事業団職員として採用するなりしていけばよい。
まあ、いままで無償で教員に押し付けていたものを、他のスキームでやるのだから膨大なカネがかかる。
そこはビッグデータやAIを活用して、国民の健康力がアップして医療費総額が何兆円減りますと計算させればよいし、米軍思いやり予算をゼロにして軍事費をGDP1%程度のままにしておけば何とか財源は確保できるだろう。
フツーにおまとめしたり、1年くらい夏休みしてた期間をフリーランスしてたことにしてる
つかみんなそうしてるで
20年以上の実質終身雇用の企業勤めを入れても令和2年の労働者の平均勤続年数は11.9年やで
マジで言わない・書かない(テキトーにいい感じに誤魔化してる)だけ
日本においてリファレンスチェックは一般的やないし、せいぜいしても前職くらいやし
とはいえ、学歴詐称は、公的文書偽造・私文書偽造罪になるしコピー求められたら困るのでやめといた方がいいと思うぞ
大手アンケートサービス、グマートが4箇月前からログインボーナスとして毎日1〜1000円分のマアゾンギフト券の配布を開始し、大盤振る舞いに湧いた今年の夏(現在は終了)。
しかし3箇月前よりマアゾンアカウントが理由も判らないまま停止されたとのツイートがちらほら現れ出し、アカウントを停止された人の一人「アカウント返して(泣) @kougi20」さんが新規アカウントを作成して検証した所、どうもグマートの配布しているマアゾンギフト券を追加したアカウントが停止されているのではないかという疑惑が浮上した。
その疑惑を受けて株式会社グマートが昨日15時に発表したのが以下の報告書だ。42ページの中から一部を抜粋しよう。
『弊社サービスグマートにて配布したマアゾンギフト券についての調査報告』
「弊社アンケートサービスグマートでは「グマート生誕10周年!夏休みから誕生日まで気分もギフト券もアゲアゲあげちゃおうキャンペーン!」と題し今年7月21日〜10月16日の88日間にログインボーナスとして、利用者全員に1〜1000円の範囲のランダムな金額分のマアゾンギフト券を毎日提供するキャンペーンを行って参りました。
(中略)
本キャンペーンはグマートのサービス10周年を祝ったものであり、本来はサービス開始記念日である10月29日迄続ける予定でしたが、マアゾンギフト券への疑惑を受け、予定を切り上げた上で急遽終了に至りました。」
「配布総額は4億4116万700円。総受け取り回数はのべ7169万回。受け取りアカウント数は90万1155アカウント。一度でも受け取ったアカウントはグマート利用者の26%。」
会計調査と既に退職した本キャンペーン担当者からの聞き取りで、予算6億円の内、マアゾン社から直接買った分が5億8500万円。他1500万円分を、2割程安く売っている中国の大手ECサイトマリババ等から購入していた事実が判明しました。
(中略)
前回のキャンペーン担当者から今回のキャンペーン担当者へ、過去のプレゼントキャンペーンでのマアゾンギフト券購入手順が正しく引き継がれなかった事、直属の上司2人による確認が不十分であった事が本件の原因であると結論付けました。」
「マアゾンアカウントの利用停止措置につきましては、マアゾン社とご利用者様との話し合いで解決して頂くしかないものと認識しております。」
この発表を受け本日グマート社の株価は前日比12%安の急落。用意された金額の2.5%がアカウント停止の原因に成りかねないマアゾンギフト券だったという事だが、キャンペーン中にログインした参加者90万人で計算すると2.25万人。この2.5%の凶運の持ち主はマアゾン社の温情に期待するしか無さそうだ。
正月もキビキビ動いて部屋の片付けなどしたいのだが、何か雰囲気的に、こたつ入ってみかんでも食べてテレビ見てなくてはいけないような気分になってしまう。
その理由はよくわからない(寒さと普段の疲れのせいなのか?)が、とりあえず、そういうわけなので、昔から正月が嫌いだ。
そういや昔は特に、親戚回りが苦痛だった(お年玉は親に、こちらから出した分の相殺として回収されていた)。
同じくらいの親戚と遊ぶのも、友達が居ない自分には、気を使うだけでつらかった。
他人の家は当然ながら、私の部屋が無い。トイレの回数と時間が増えた。
おせちのうんちく(黒豆は云々とか)を聞いたり、親の前で今年の抱負言わさせられたりの苦痛。
それに正月は、父親が長く家に居るので、部屋に戻りたいのに、トランプしたりして遊ばないといけないのも嫌だった。
そうか、その頃から、「正月はみんなで集まって、正月らしいことをしたりダラダラしたりしないといけない」みたいな習慣が刷り込まれたのだ。
それが嫌で、冬休みに入るのさえ嫌いだった(夏休みは長期に学校から離れられるし、父親も平日は居ないのでよかった)。
そして今は、実家に帰って正月を過ごす身となったが、それにしても、正月は苦痛だ。
今は、年々と複雑度を増す実家の物を片付けたくイライラする中に、結婚の話をされてなおイライラ。
未だに、おせちだとか餅だとか、何の感想もないのに、親の作った料理の評価を求められ。
そばとかすき焼きとかも要らない。大晦日たって、24時を待たずに早く部屋で寝たい。
初売りも買いたいものは無い。それでも親に、テレビは特番ばかりでつまらんと連れて行かれる。
他人の買い物は苦痛だ。食い物や服など興味が無い上に、人混みでは耳がキンキンする。
それに比べ、コロナ禍で実家に帰らず過ごした正月は、資格勉強が進み、コンテンツも計画的に消化できて満足度の高い回だった。
正月だけでも実家に帰らないと親に告げて、これを何回か繰り返したい気分になったくらいだ。
しかし、正月はやはり重要なイベントであり、夏休みの帰省を忙しくて休みが取れぬとサボれても、正月に帰省しないとは言い難い。
本当に、実家で過ごす正月がだるい。年末出勤のある職場なら、喜んでその任を受けたいくらいに。
こうして、スマホで無駄に増田を描きながら何の意味もないテレビ特番を見るくらいなら、実家にあるものを全て片付けたい。
もしくは部屋でこもって、持ってきた文庫本でも読みたい。
上記は私の場合の一例だが、私にとって正月は、無駄に人々の連結を強化して、無駄にダラダラを押し付けてこようとするイメージがある。
その私が勝手に抱く圧迫感が私には駄目で、正月なんて大嫌いだと毎年のように思っている。
来年の抱負は、私の持つそういう「正月観」の打開とでもしたいところだが、今夜にでもカバン持って実家を飛び出さなきゃ叶わないだろな。
今年書いた増田で、あまり反応をもらえなかった増田がいくつかある
今後の参考にしたいので、評価してもらえたら嬉しい
極道の組長かと思わせるようにミスリードを狙った。実際は町内会の組長
重言だけで書いた
はてな民はIT系が多いので「画像イメージ」や「HDDドライブ」に違和感があるかと思ったが、そんなことはなかったのかな
単純に知りたかった
志村けんのイメージによって「志村」の姓のイメージも変わるという、志村けんによって人生を翻弄される世の中の全志村さんの悲哀を描いたつもりだったが、共感を得られなかったか
単純に怒りが湧くので書いた。あるあるネタではない?
まだ怒りが収まらない
単純に疑問
はてなに登録されているあらゆる男性自身の説明を見てみようという企画
増田が水曜日のダウンタウンに出たら、というネタ
実際に引けるくじ引き。反応が少ないと悲しい
おちんぽ売りの少女 anond:20220812234157 と同じシリーズ
多すぎると思うのだが、共感は得られなかった
Apple製品を買うと付いてくる、いつも持て余してしまうシール
増田に貼ってみた
増田に切り取り線を取り入れてみた
(おまけ)直近でバズった増田
今年はいろいろ出かけることができた。
娘も父親とふたりで出かけるのもそろそろいやがる年頃だろうから思い出として書き残しておく。
学校行事や、母親や友人もいっしょに参加したイベントはのぞく。
日本有数のレジェンドアパート、トキワ荘を復元したミュージアム。ミュージアムというほどものがいろいろあるわけではないが、当時の入居者の部屋を再現した展示はおもしろい。部屋によっては中に入って写真も撮れる。日本を代表する大漫画家たちがこんなせまい部屋で暮らしてたの?とビックリできる。トキワ荘自体というより、まわりの街並みもちょっとレトロな住宅街で良い。「まんが道」に出てくる中華屋「松葉」とか、入場無料の漫画図書館、グッズショップとかもまわりあって楽しめる。区立だからか、ボランティア?のおじいちゃんやおばちゃんが一生懸命説明してくれるのもほっこりする。おすすめのおみやげは4コマ漫画用ノートと、サイダー飴。
ついこの前だけど。入場券は抽選で当たったけど、ステージのチケットは当日券含めて全部外れた。ブースの整理券もアプリから取得するんだけどいつから配布するかよくわかんないし、ほとんど取れず。でもタイミングあったら並ばずにも参加できるステージやブースもあるから、うろうろしているだけでも楽しかった。同じく幕張メッセでコロコロコミックがメインでやっている「ワールドホビーフェア」という似たようなイベントは、娘がコロコロ好きなのでコロナ前にはよく行っていたが、客層がだいぶちがった。家族連れよりも若い女の子が多かった。なぜかポケモンのブースもあった。怪獣8号のブースは行列ができていたのに、ダンダダンはがらがらだったのが悲しかった。やはりアニメ化なのか?
夏に実家に帰省した際に行った。ちょうど娘が『進撃の巨人』を読んでいたんだけど、進撃の巨人アトラクションはトラブルのため休止してた。でもそのせいでスペースに人がいなくて、エレンやミカサ、リヴァイの人形とかといっぱい写真撮れた。お目当てはハリーポッター。金に物を言わせてなんとかパスを買い、いろいろアトラクションも楽しんだ。ハリーポッターのところには杖を動かしたらいろんなアクションが起きる仕掛けがあるんだけど、ボロボロのTシャツ着た小汚いおじいさんがめちゃくちゃ上手にそれをやっていて、たぶんダンブルドアだと思う。楽しかったけど、とにかく暑かった。ニンテンドーのところは入れなかった。残念。
これもつい最近行ったやつ。娘が学校の理科の先生に勧められたらしい。日本橋のコレド(三越のほう)やその周辺でやってるイベントで、ISS(国際宇宙ステーション)をVRでみるやつと、衛星間のレーザー通信の研究開発をやっているワープスペースっていう会社が子供向けにやっているワークショップにも参加して、どちらもとても楽しかった。ISSのVRはヘッドセット(たぶんMetaのやつ)をつけてやるんだけど、実際のISSの位置をリアルタイムで追随していて、上昇してISS見下ろしたり、地球の風景や夜明けを見たりとかすごいきれいだった。ワークショップもPCから出した音声をLEDで光にして、それを太陽光パネルで受けてスピーカーから音を出すというレーザー通信の原理を学ぶものだったんだけど、そういえば「なんでイヤホンんから音が出るのか」とか深く考えたことなかったなーって思った。たしかに全部電気信号なんだよね。全部無料どころか、セッションに参加してアンケートに答えたら周辺で使える商品券(1人200円)ももらえて、お昼安く食べられたり、嫁さんにお土産も買えてうれしかった。先生ありがとう。
https://www.hellospacework-nihonbashi.jp
USJとおなじく、帰省したときに行った。サブクエストとかもぜんぶ載せでやった。炎天下の中4時間近くかけずり回されたけど、すごいおもしろかった。5年ほど前にUSJでもドラクエのアトラクションやってそれも参加したけど、比べ物にならないくらい凝ってた。人によってクエストの中身が微妙に変化するので、前の人にくっついていったらクリアできるというものでもなく、けっこう工夫されているなーと感心した。夏休みで混んでたので、ちょいちょい行列があったりしたので、もうちょい時期をずらして空いてるときだともっと楽しいと思う。中身をリニューアル(ラスボスがゾーマじゃなくなるらしい)するみたいなので、来年も行ってみたい。
https://nijigennomori.com/dragonquestisland/
来年もいろんなところにいけたらいいな。
両親は高校の頃落ちこぼれ組だったって話をよくしてたからそんなに賢くないんだと思ってたけど
両親の通ってた高校は今でも県下屈指の進学校で同級生に東大卒がいっぱいいるような高校だったんだよね
両親も大学進学率が30%もない時代に有名私立大学を卒業したから十分高学歴だった
経済面でも家は普通のマンションだったし公立小学校にいってたし父親は社長だったけど会社はオンボロな工場だったし
お小遣いが周りより多いわけでもゲームをいっぱい買ってもらえるわけでもなかったから
お金持ちでも何でもない普通の家だと思ってたけど祖父が亡くなった時の相続税で父が長者番付に乗るくらいの資産家だった
近所に仲が良くて家族ぐるみで付き合ってる家族が3家族いてみんな自分と同じくごく普通の家庭だと思ってたんだけど
そこのお父さんたちみんな子供でも知ってる一部上場の有名メーカー勤めだったんだよね
地方の小学校のちゃらんぽらんな子でも小5までには検索エンジン、データマイニング、リレーショナルデータベースに関する論文とか雑誌は読破してるし、Oracleか Microsoftか Googleで夏休みに有給インターンは当たり前。それができてないとネグレクト疑われるな。それが最近の小学校。
夏休み明け数日督促され叱られるが、諦めてくれるのを待つほうがコスパ高い
そんな人間だから、ワクチン接種券が届き説明書を眺めていたら目眩がした
予約して会場行って注射を打てと、自宅まで来てくれないのだ
超絶面倒くさい
だがさすがに命には代えられない
面倒だが説明書を読み進める、専門用語だらけで頭の悪い俺は内容が理解できん、クラクラしてきた
俺はある行で躓いた
「本ワクチンの成分に対し重度の過敏症の既往歴のある人」
仮に俺がその成分に過敏症があり、今までたまたまその成分を接種したことがないから顕在化しなかっただけで
今回このワクチンで初検証をする、という事になるのか、いやだ怖い
成分を見る
トジナメラン、
ALC-0315:[(4-ヒドロキシブチル)アザンジイル]ビス(ヘキサン-6,1-ジイル)ビス(2-ヘキシルデカン酸エステル)
ALC-0159:2-[(ポリエチレングリコール)-2000]-N,N-ジテトラデシルアセトアミド
DSPC:1,2-ジステアロイル-sn-グリセロ-3-ホスホコリン
コレステロール、塩化カリウム、リン酸二水素カリウム、塩化ナトリウム、リン酸水素ナトリウム二水和物、精製白糖
うんわからん
かろうじて分かるのが塩化ナトリウム、塩だろ?
塩化カリウムも具体的にどの食品に入ってるか意識したことはないがミネラルの一種か?しらんけど
たぶん食うたことはあるだろう、食うのとダイレクトインは違う気がするが面倒なので考えるのはよそう
細かい事は気にしない
トジナメランとかALC-0315に過敏症があるかとか聞かれても知らんがな
既往歴が無ければいいんだと
あったらどうするんだ、誰が責任とるのだ、残された家族はどうする
家族は安泰、4000万円くれるんだとか、ぜんぜん安泰ではない。
これらの成分がなんであるのかすらわからず既往歴を判断しようがない事前にアレルギー検査できんか
回答を要約すると、「そんな事気にするな、嫌なら打つな強制はしていない、事前検査などしない」
。。。。。
どうすればいいのだ、俺はコロナで死にたくない、ワクチン打ちたいよー
激しいジレンマ
ぴこーん、そうだ、様子見しよう
過敏症が沢山報告されたら政府も対策するだろ、接種前に各成分のアレルギー検査ができるようになるとか
いやいやいや、それ以前に接種したら感染しないらしい
あっという間にコロナ禍が終わるらしい
みんな打ってくれれば俺一人くらい打たなくてもよくね?
うひひひひ
2021年秋頃には一気に接種が進み、さぁコロナ禍は終わるぞと眺めていた
あれ?
あれれ?
2022年突入、謎の感染爆発が起きて未接種者が糾弾され始めた、肩身が狭い俺。
未接種はこの世で俺一人だと思ったら同類の偏屈が国内だけで数百万人
なに拗らしてんださっさと打て、ボケ
街行く人が白い目で俺を睨んでいる気がする
家族からも「意固地にならずにさっさと打ちなさい」と叱責、辛い
妻は呆れてなにも言わない。
(ちなみに高齢両親の接種予約は俺がしてやった、PC2台スマホ2台を駆使し市の一般高齢者接種開始の初日分で2人分ゲットしたった
ドヤ顔で打ちに行ったそうだ、接種会場で予約は無いが打たせろとゴネてた老人がいたと嬉しそうに語っていた、その後周りが予約すら取れず混乱とパニックの中、一抜け自慢ドヤって周ってたらしい、可愛い)
発熱外来、救急で運び込まれるのはほとんど未接種者だと報道があった。
面倒くさいが予約し、インクの出るペンを探し、接種希望書にレ点を書き込む超面倒くさい作業をして
クソ面倒くさいが徒歩1分の病院に行って、ダルい問診を受けて、痛い注射してもらい、黙って5分間待機してトボトボ帰宅するのを二回我慢するだけで死なずに済む
面倒くさい言うてる場合ではない、命だぞ命
と思ったが寝たらどうでも良くなった、まぁたぶん俺は大丈夫、根拠は無いけど、
面倒くさいが勝った
俺だって打てるなら打ちたいが面倒くさいのだ。
なぜそれがわからん
自宅まで来てくれて各成分のアレルギー検査して安全が確認され、打ってくれて、
数日間経過観察に付き添ってくれるなら打ちましょう
なんでそんな事がわからんのか
こんなアホみたいな理由で打ちたくても打てない人間がいるのだ。
面倒臭い症候群は病気だ、俺が悪いのではない、脳のどこか、何かが壊れているのだろう
えーんえーん
家族全滅
3ワクの妻、ノーワクの俺、3歳の息子(当時はまだ打てない)、ちーん
ほぼ同日で症状も同じ
金曜日の昼に軽い自覚症状があった、あぁこりゃかかったな、俺死んじゃうな
気休めに葛根湯を飲んで寝た。
俺の感染がわかっているのに息子を保育園に入れておくわけにはいかない、妻に仕事を切り上げてもらい引き取りにいってもらう
てか妻もしばらく休まなきゃしょうがない
この時点で息子は平熱(高め)だった、妻平熱、
息子はミャオーみゃおーと叫んでいる、幸せそうだな奴
だが息子よ、パパは余命いくばくも無い、面倒臭がって未接種のまま発症した愚かなパパはもすぐ死ぬ
ワク信のママと二人で強く生きてくれ、キミを育てた三年間は最高に幸せだった、ありがとう
なんて妄想しつつ、土曜日の夜に39℃まで上がり、記憶T細胞、キラーT細胞、B細胞の発動を確認し
予め準備していたカロナールを飲んだ。
普段薬を飲まないのですぐに効く、37℃後半まで下がる
だがすぐに上がり始める、39℃を超えなければ良かろう、体が痛いが我慢する
息子は3歳だが大丈夫だろうか、はちみつはダメなんだよな、喉が痛そうだが、まぁ我慢せぇ
走り回っているから大丈夫だろ、咳しながら俺のベッドで飛び跳ねてる、アホだ。
飛び跳ねるなと叱りつけるとジャンプ力がアップする謎のシステム
日曜日、感冒症状がほぼ消える、息子は平熱でピンピンピョンピョン。
暇だ遊びに行きたいとゴネる。状況がわかってない、ヤレヤレ
妻は38℃ちょいでカロナールを飲みまくってる、愚かな。まぁ好きにせぇ
超絶ホワイト勤務先から司令、10日間特別休暇だから会社出てくるなと
元からフルリモートじゃん、モリモリ元気な10日の休暇をゲット。
バカ息子が公園に遊びに行きたいとゴネる、アホかと、キミの口から膨大な毒毒ウイルスが放出されている
1週間は自宅待機である。
と説諭したものの、パワー溢れる3歳児、説得は不可能。人がいない秘密の公園を知っているので連れてった
桜が綺麗だった。
ちなみにブースター打ってから1週間目である、効いてねぇじゃん
おかゆを作る、生姜をたっぷり入れてやるが発熱したら解熱剤飲んじゃうから意味ねぇよなぁとか思いつつも
そこは愛である。
まぁ翌日には治っていた。
息子の白組さんはパンデミック、学級閉鎖があったが息子はノーダメージ
夏が過ぎ、秋が終わり、もうすぐ2023年
年明けにはワクチンを打ちたくても打てなくなるらしい
あら残念、打ちたかったなぁ
時間は止まらない。ハレルヤ・チャンスは来なかった。一度だけスポットライトを眩しく感じて、もしかして、と、一縷の希望を抱いてみたりしたけれど、キザなシルクハットの初老の妖精が私の前に現れることも、テーブルの芽キャベツを摘んで飲み込み、私の過ちを揶揄することも、「後悔しているか」、と問われてどうしようもなく狼狽える瞬間も、ついに空想のままで終わった。当たり前だ。
彼女は数少ない私の貴重な友達の内の一人だった。そしてそんな私とは反対に、彼女にはたくさんの友達がいた。学生時代というのはこの世で最も尊く煌めいて、同時に最も残酷な数年である。特に女の人生にとって。
女の子は可愛ければ自然に友達ができる。綺麗な女は同性の好意さえ簡単に集める。綺麗でなくては、女の子の特別にはなれないのだ。というのは、私が散々惨めな高校生活を経て脳裏に刻み込んだ偏屈極まる私見である。器量が悪くても幸せな女など無限に存在していることに薄々いや割合はっきり勘付きながら、私はなんとブスであることに諦めがつかないとんと哀れなブスだった。要するに学校で一番痛ましい存在である。悲劇はブスに生まれた所からではなく私だって美人になりたいと望み始めたところから始まる。一軍になりたい二軍、美人になりたいブス、男にモテたい喪女、目立ちたい陰キャ…………。
そんな救いようのない私の目前に彼女はまるで天使のごとく現れた。今で言う「たぬき顔」みたいな甘たれた顔立ちで、柔らかく日焼けしたセミロングの髪を緩やかに編んで両耳の下から下げ、私より背が高かった。本当にかわいい子だと思った。入学と同時にバスケ部に入部し、放課後はいつも臙脂色のハーフパンツを履いていた。
私の何を気に入ったのか知らないが、彼女は私に本当に良くしてくれた。二人で写真を撮ってくれたし、連絡もマメに取り合った。ビタミンカラーのペンケースは色違いでお揃いだった。勉強で多数の上に立つことにしか一生懸命になれない私だったが、彼女に誘われればテスト前だろうと遊びに出かけた。
当時の私は所謂一軍グループに属することしか考えていなかった。そしてその野望は結論から言えば5割方は達成されていた。要するに、キラキラグループには入れたが当然自分自身がキラキラにはなれず、なぜか一軍にいるぱっとしない子、という塩梅にそれでも自分の立ち位置にそれこそしがみつくようにして生きていた。自分自身の最も忌むべき点は、身の程知らずに一軍になりたいと望んだことより、そこにいる友人たちをステータスとしか捉えていなかったことにある。
7人グループは8年の時を経て解体し、彼女の式に呼ばれたのは私を入れて3人だった。
何人かで約束した日は良かった。でも二人きりの日は不安だった。なんのために私と二人で会い、何を求められているのかまったく不明だったからだ。私にとって、彼女がかわいいというだけで彼女を好く理由は有り余るほどにあった。だからその逆が本当にわからなかった。けれど、顔を見れば不安は消えた。彼女はいつも本当に楽しそうに笑う。
好きな人がいるの、と、仲良くなってすぐ彼女は私に打ち明けた。あいつに可愛いって思ってもらえたら、他の誰に思われなくても構わない。校外学習に行くバスの中でひっそりと告げられた声の温度も、一緒に口ずさんだ阿部真央の曲も、午後3時半頃のあつい夕日も全部はっきり憶えている。
私も気になる人がいる、と、口から出まかせのように呟いた。そうしないと彼女がどこかに行ってしまう気がした。彼女に好きな人がいたから、私にも男の子が必要だった。彼女と恋話をするために必要だった。クラスメイトを脳内で全員スキャンして一人の名字を口にした。彼女のくりくりしたタレ目がおおきく見開いて、絶対いいよ、とひどく嬉しそうに笑った。
咄嗟に名前を上げた男の子のホームベースのような顔の形がバスの前の方に見えていた。彼女の「絶対いいよ」、を聞いて、私もなんか、そんな気になった。
同じ教室で過ごしたのはたった一年のことだったが、その後の文理選択で教室棟ごとクラスが離れたあとも、彼女と私の友人関係は変わらず続いた。休みの日には二人でカラオケに行ったし、相変わらず毎日のようにラインも続けた。何でも話せるふたりだった。けれども、いつまでたっても彼氏ができない私に気を遣ってか、いつしか恋愛の話だけはしなくなった。
高校3年生の頃、私が隣町から通っていたその市で一番のお祭りに一緒に行こうと誘われた。テレビ取材もくる大きなお祭りで、5月の連休という時期的条件もあり、受験の年を迎えた同級生たちが最後の楽しみにと、こぞって一番の関心を寄せるお祭りだった。その高校生にとって特別な1日に、彼女はどうしてか私を選んだ。彼氏でも気になる人でも他の多くの華やかな友人たちでもなく、私を。やはり意味がわからなかった。
彼女がお揃いにしようと言ったから、一緒に服を買いにいった。その頃の私は醜形コンプのまさにピークにいて、服屋の商品に触れるときすら手が震えた。それでも、明るい彼女に悟られたくなくて我慢してひょうきんに振る舞った。
当日のことはよく覚えていない。彼女が知り合いとすれ違って挨拶するたび居た堪れない気持ちになっていた気がする。その日もやはり最後まで、彼女がどうして私なんかといたかったのか、ほんの少しもわからなかった。ただ、群衆を避け、駅前の寂れかけのイオンの屋上で見た小さな花火だけはなんとなく覚えている。幼い日の名残りか、彼女はいつまでもその建物をダイエーと呼んでいた。いつ行っても盛れないプリクラ機のある小さなショッピングモールだった。
いいのか、と問うと、いいのだと答えた。疲れたからいいよと。彼女にとっては、十数年住んだ街での最後の祭りだった。それなのに、小さな花火でいいと言った。暗がりの中の少し眺めの顎先まで好きだった。
長く続いた私達の友情がぷつりと途切れたのは大学に入学してすぐのことだった。互いに遠く地元を離れたあとも私達はまめに連絡を取り合っていたと思う。夏休みに私が彼女の家まで行き、二人で遊園地に行った。例のごとくおそろいのワンピースを着て、髪を染めてまた綺麗になった彼女はとても目立っていて、キャストによく声をかけられた。それっきりだった。
その後私は整形をし、地元に顔を出さなくなった。加えて、正しくいなくても済む大学での人間関係に夢中だった。何より、また性懲りもなくその内の一人のことをしごく特別に感じていた。その子もまた、私には釣り合わないくらい可愛い子だった。
たまにインスタで見る彼女はやはりあの本当に楽しそうな顔で笑っていた。気がつけば同じ高校の別の友人とおそろいの服を着て旅行していることもあった。もしかしたらそこにいたのは私だったかもしれない。そういう写真を見るとき、私はいつもそういうことを未練がましく考えた。自分から手を離しておいて全く自分本意な話である。けれども横に写っているのは私達の高校で一番かわいかった女の子で、その方がずっと彼女に釣り合っている気がした。
彼女から招待状が届いたのは、それから数年後、すっかり社会に出て2年が経つ頃だった。
式は、まったく素晴らしいものだった。
私のイメージにあるステレオタイプな挙式とは全く違って、カジュアルで、愛に溢れ、来てくれるすべての人に楽しんでもらおうという新郎新婦の人柄がこれでもかというくらい詰め込まれた温かな数時間だった。遊び心とホスピタリティに溢れ、ほんのひと時も漏らさず楽しめる、本当にいい式だった、と、思う。円卓に集められた同じ高校の友人たちは皆美しく、ドレスの中で綺麗だった。
数名の友人代表が立ち上がり、彼女のために手紙を読んだ。どの子もとても綺麗で、どの子も同じように泣いていた。泣いていたのだ。チャペルのドアが開いた瞬間、披露宴に現れた瞬間、新郎が亡き父親に手紙を読む瞬間に、その場にいる大勢が泣いていた。
ついに私は親友にもなれず、それでもなぜかここに呼ばれて、のこのこ顔を出しては無理に笑って突っ立っていた。
ありえないほど似合わないドレスに妙な頭に、他の友人達とはとてもじゃないが釣り合わない不器量な面構えで、たった一度も笑顔で手を振る花嫁の目を見れないまま。
久しぶりに会いたくて、と、彼女は電子招待状と一緒に添えてきた。思い切って招待状を送ったのだと、だから、こ断ってくれても構わないのだよ、と。
そういうところが好きだった、私の臆病も偏屈も一息に飛び越えてなんでもないような顔で笑うあなたの、正しいところが好きだった。数年言葉をかわさない友人を、同窓会もキャンセルするような私を、逢いたいと言う一言で誘ってくれるような貴方のその身軽さが、屈託のなさが、あなたのことが好きだった。
"嬉しいときは私より喜んで、悲しいときは自分の事のように泣いてくれる"
知っている、と思った。
知っている、そんなこと。だから好きになったのだ。そういうあなただから、私はあなたを好きになった。
もしも私が男だったら、と、百万回近く考えた。もしも私が男なら、私はあなたと付き合いたい。
本当は違った。本当は、女のままでも、私のままで、私はあなたと添い遂げたかった。真っ白なドレスを着たあなたの、あなたの立っているのは私が良かった。スポットライトの当たるソファに私と一緒に腰掛けて、私の物語に泣いて欲しかった。
名前の知らないたくさんの参列者が、かつて同じ制服を着ていた友人達が、あなたの幸せを願って涙する中でたった一人わたしが、私だけが、私のためだけに泣いていた。あなたのことが好きだった。たった一つ、その気持ちだけで泣いていた。ピンクグレーのカクテルドレスに身を包んで笑う、彼女は世界一綺麗だった。
性格の悪い私は、あわよくばこれを読んでくれないだろうかとさえ思っている。ほんの小さな爪痕でも残せたら。
それでも、正しい彼女ははてぶなんて見ない。だからこのまま私の恋はここでゆっくり死んでいく。
ご祝儀袋に手紙を入れた。マナー違反かもしれないが、知るかと思ってぶち込んだ。「あなたのことが大好きだった」「今も、そしてこれからも」
大好きだよ、愛してるよ。
高校時代、彼女はよくハグをしながらそう言った。大好きだよ、愛してるよ。
何でもないことのように付け加えた、大好きの意味はきっと伝わらない。それでも、私はあなたが好きだった。今も変わらず、好きだった。
私は、修士課程のころ、指導教員の印鑑を勝手に買って使ったことがある。
他人の印鑑を勝手に使用することは有印私文書偽造罪と立派な犯罪だが、なぜかバレなかった。
その研究室は、専攻分野の中でも際立った研究をしており、かなりの実績を出していた。
担当教員もかなり力のある人物で、設備も充実していたことに魅力を感じた。
研究テーマも、他の学生と全く異なるものを任せてもらい、やりがいもあるだろうと思っていた。
そこで論文執筆や国際学会発表をたくさんこなして博士課程まで進み、アカデミックに残りたいと思っていた。
だが、研究室に入ってすぐ、そんなことはできるわけがない現実に直面した。
まずコアタイムが厳しく、コアタイム外のゼミ会が毎週あったり、それ以外の時間も暗黙の了解で残らせるところだった。
夏休みも学部生が1カ月以上あるのに対しこちらは長くて1週間、春休みはなし。
書かれていないことは暗黙の了解に過ぎないと無視していたら、指導教員直々に「お前やる気なさすぎ」とまで言われた。
雑用当番や研究室行事も頻繁にあり、ただですら研究で疲弊しているところに追い打ちをかけるようだった。
また、研究室が優秀ならメンバーも非常に優秀ですぐについていけなくなった。
そんな中、研究成果をうまく出せず、指導教員に叱責される毎日を送っていた。
指導教員は言うことが頻繁に二転三転するうえ、こちらの意見は全く聞き入れられず、ストレスが溜まっていった。
うまくいかない実験に関しこちらが改善案を出しても一切認めず、ただやり直せと言うのみでにっちもさっちもいかなくなった。
学生相談制度で別の教授と会ったときも「ここまで緩い研究室すら無理なら退学すべき。就職も今は人物重視だから問題ない」と言われた。
学内の相談員も同様に、遠回しな言い方ではあったがやたらと退学を勧めてきた。もしかしてそういう校風だったのだろうか。
そしてある日、ついに限界を迎えてしまい、半ば喧嘩別れの形で研究室を飛び出してしまった。
その後は好きな講義を受講するなど学部生に準じる生活を送っていた。
ところで、私は学内で国際教養を認定するプログラムに入っていた。
それは対象の講義をいくらか受講し、さらに留学すると大学から認定証とともに国際教養のお墨付きがもらえるというものだ。
もちろん国家資格とかじゃないからこれで食えるわけではない。ゆく先々話のネタにはなる程度だ。
ちょうどお金もたまっていたのでそれに応募しようと思った。
しかし、大学院生は何をするにも教授の許可がいる。授業の履修だけでなく休学・退学ですら例外ではない。
もちろん留学にも指導教員の許可が必要で、願書には指導教員の記名押印をもらう必要がある。
しかしその時の私は指導教員と仲違いしており、のこのこと研究室に出て「ハンコ下さい」なんて言うわけにもいかなかった。
実際、これまでのことを謝罪しに行ったことはあるのだが、取り付く島もなく追い返された。
となるとどうにかして印鑑を押してもらったことにするしかない。
研究室へ行くとバレてしまう。ならば指導教員と同じ苗字の印鑑を買って押すしかない。
ダメで元々店に赴くと、かなりメジャーな苗字だからか簡単に入手できた。
指導教員の名前はWordで印字し、買った印鑑を押したら問題なく受理された。
(後で知ったが「記名押印」は印鑑さえ押していれば氏名は印字やハンコでもOKだという。氏名も手書きが必要なのは「署名捺印」)
申し込むとすぐに「学内選考合格。返済不要の奨学金付きで先方に推薦するので応募手続きを進めるように」という返事が来た。
そのまま応募手続きを進めたところ、留学先による選考にも合格してしまった。
ちなみに、一番大変だったのは英文の履歴書と志望理由書の作成だった。インターネットで調べて何とか出来たが。
留学担当部署へ合格を報告すると、選考だけでなく留学にあたり書く申請書にも指導教員の印鑑が必要だとわかった。
ここまできて引き返すわけにはいかないが、同じことをすればいいので良心の呵責はなかった。
こちらの行動がバレるきっかけはいくつかあったが、追及は全くなかった。その原因を考えてみたい。
まず印鑑を使った段階についてだが、これは簡単だ。印鑑を買って押したところは目撃されていないのでわかるわけがない。
書類を受理した側についても、建前上指導教員の許可が必要としているが、実際は印鑑の有無を事務的に見るだけだからだ。
銀行ではないのだから印鑑登録をしたり、その真正性の判定や所有者への確認はしない。
もし不備が見受けられるのなら書類を突き返して作り直しを命令するだけでよい。
受理された後も、書類は関係する諸手続きにしか用いない。つまり用が済んだら即時破棄が普通だ。
そこで一番バレる原因になりそうなのが教授会だ。
国際教養プログラムの担当教員によると、プログラム修了認定の議題を教授会に出したという。
となると、配布資料または口頭で私の名前が出ており、それを指導教員が認知しているはずなのだがなんの追及もなかった。
不思議に思ったので原因をいくつか考えてみた。
私としては、ありそうなのは順に③、①、②だと思う。
確かに指導教員の許可を要する物事は数多く存在するが、そうでないものも多い(証明書の発行、通学定期の購入など)。
従って、国際教養プログラム参加には指導教員の許可は不要と思っていた。
当然、私が無断でやったことにも気づいていない。
講座の受講や留学には指導教員の許可として記名押印が必要である。
指導教員は許可などした覚えがないのに私が勝手に受講を始めてプログラム修了まで至っている。
しかしながら、それを立証する証拠がない。留学の応募書類などを開示してもらうことはできるがこれでも立証は難しい。
(なお、卒業生については事務局が学位・単位の修得状況だけ保有し他は破棄するため、現在は教員による立証は不可能)
私を呼び出して話を聞こうにもいくらでもすっとぼけられてしまう。教授会の開催も私の修了間近と追及する時間的余裕もない。
もし事前に立証できているなら、学科内のエライ教授に話をつけて懲戒処分に持っていけるはずである。
とはいえ、私がこんなことをしていようとも指導教員自身や研究室には何の実害もない。
それに、ヒエラルキーの非常に強いアカデミックの世界だ、こんな不確かなことで騒ぐのはもったいない。
下手に騒いだせいでお偉いさんに目をつけられるとキャリアが台無しだ。
特に、私を大学から追い出さないといつまでも居座られる。ならば研究成果が不十分でも修了判定を出すしかない。
(一応、学生を放置することで在籍可能期間を満了させて除籍に持ち込むことはできそうだが、問題になるのだろう)
大学教員は如何に予算を取ってきて研究成果を出し出世するかが大事。
こんなことどうでもいいし、私がやったことについて調べるのも面倒。
帰国後は残りの単位を修得し、国際教養プログラムの認定要件をクリアした。
学内カウンセラーの方に仲裁してもらい、無事研究室にも戻れた。
研究室には指導教員とは別にもっとエライ教授がいたが、私が不在にしている間、何の前触れもなく退職した。
私以外のメンバーにも退職日や理由などを事前に知らされなかったそうだ。
そういえば私が研究室に入る前、その教授は「近い将来指導教員を独り立ちさせる」と言っていたので、それ絡みだろうか。
研究室に来なくても研究を進められるようになった。連絡は口頭でなくチャットソフトを使うことになった。
研究や生活面、あらゆることでこちらを詰めてきたはずの指導教員も対応が事務的になった。
今までは研究報告でさんざん貶されていたところを、提出したらすぐに「よいと思います」と言われるようになった。
高圧的に命令してきたところが、丁寧語で提案するような口調になった。
「どんなことよりも研究を優先せよ」だったのが、「やりたいことがあるならそちらを優先した方がよいです」と言うようにもなった。
ただ、「発言が二転三転する」と言われたのが心外だったのか、何度も「研究ですので変更もありえます」と言うようになった。
発表資料も何度も突き返されたところを、指導教員が大枠を作り、こちらはデータだけ書き加えればよいことになった。
雑用当番やゼミ会、研究室行事も免除となり、学部生に準じる夏休みももらえた。
修士論文は序論として先行研究に続いて自分の研究背景をまとめ、あとは研究報告書を要約していけば完成した。
その代わり、
・私の研究ポスターや発表実績を外部(研究室ホームページや研究棟の廊下など)に公開しない
・修了間近に私のデスクを片付けに行ったら、そこが荷物置き場になっていた(最も、研究室を飛び出す前からよくこうなっていたが)
など、私をいなかったことにしたいようだった。
学位記授与式を過ぎ離籍しても、就職先への出社日前日まで研究をさせるところだったが、私は修士論文を出した時点で解放された。
(本当はこれ、部外者を研究に従事させているので万が一のことがあった時を考えるとマズいことなのだが…)
結局、修士の学位記と認定証、そして「修了おめでとうございます。さようなら」とそっけない言葉をもらい大学から去った。
(なお、博士課程については、1年次後期の時点で指導教員直々に「テメーはダメだ」と言われたので断念していた)
何のつもりか研究室からの寄せ書きもくれた。数人はメッセージなしか当たり障りのない内容だったけど。
一応研究ノートとかは返してないが、こちらも特におとがめなし。まぁ「門外不出にする価値もない」ってことなんだろうけど。
研究室に感謝する義理もないので、研究室のパソコン内のデータや研究実験用ソフトなどを全消しするプログラムを仕組んでおいた。
バレにくくするため、研究室を去ってから数か月後に全消しプログラムを作成してから消えるパッチファイルだけ入れておいた。
全消しプログラム生成からさらに数か月後、そのプログラムが作動しパソコンがダメになるというわけだ。
今頃どうなっているか気になるが、今は部外者で研究室とも仲が悪かったため覗きに行くことができないのが残念だ。
ところで、私が去った後の研究室や専攻の方針がどうなったのか気になるところである。
私のような学生のニーズに最大限配慮した研究・進路指導をするようになったのか。
有機化学系の研究で、この化合物にこの試薬を加えたらこういう化合物ができそう、最終的にこの試薬でこういう骨格が作れたらいいよね、っていう研究
もう夏休み前には結果出なそうってのを確定するべきだったのに12月までずるずるなんか構ったりしている(溶媒かえたり、温度変えたり、原料合成しなおしたり)
一つのこと結果が全く出ていないし全くやる価値のないことだっていうのは客観的に見ても明らかだ だって何一つデータが出ていないからでもどうしたらいいのかわからない
ずっとこの反応に囚われている
でもそれは何か新しいことを見つけたんじゃなく、単に再結晶行ったから論文通りの結果が再現できたってだけのこと
でもそれまでろくな成功体験がなかったからかなりの喜びが刻み込まれてしまって自分が考えたテーマ(それでも先輩のテーマの基質を拡大しようとしてるだけ)に固執してしまうことに
それを捨てた後に何をすればいいのかわからないってこともある
指導教員からは退学した先輩のテーマをやったらって言われてて基質検討を少しやってるけど、そのテーマだってもう反応機構も基質だって大体検討し終わってて修論なんかには到底なりそうもない
もうどうしたらいいんだろう
今から新しいテーマなんて思いつけないし、知識もない、こんな状況にあるのもお察しの通り頭が硬いし、成績は最悪
パッと退学したら全ての悩みからは解放されそうだけどそのあとはまあ地獄(学歴もないし発達障害あるし不器用)
八方塞がりすぎる、テーマさえ間違わなければこんなことにならなかったのか?
自分の将来ずっとこんな感じになりそうだ……
本当は美術が好きだった
見た??!!
最高だったんだけど!!!
マンガは大ファンで、スラムダンクきっかけでスポ少入ってたし、
結論、最高だったんだけど!!!
声優は正直気になったけど、こんなの子どもの頃に見たものの刷り込みとの差分だから、あって当然。保留。
それを置いておいて最高だった。
3Dを使うところもよく考えられてたし(違和感はあったけど、必然性は感じた)
何より、内容に適した演出が極まっててヤバかった。汗、時間の感覚、細かい動き。すばらしかった。
内容も良かった。
自分の家も親が早くに逝ったり、離婚してたりで、弟が辛そうにしてた時、バスケを支えにしてた。
そう、バスケって人を支えてくれるんだよな…!って思い出した。
バスケにかける理由は様々だけど、それらがきちんと解像度たかたかで描かれてて震えた。
言いたいことは山ほどあるけど、
とりあえず
いまが一番楽しい時期、社会人はもっと辛いって言われたけど今でもめちゃくちゃしんどいです…
人生の夏休みなんて銘打たれてるけど毎日バイト課題で遊ぶ暇なんて無いし
親のことは嫌いじゃないけど自分ができちゃったで産まれたらしいという話を聞いて
ふざけんなよそんな軽々しく産むから自分はこんな苦しんでんだよという他責的な思考になってしまう
生物学的には間違ってると思うけどあれくらい考えて産んでほしい
人類80億人もいるんだしもういいよ
別に鬱病とかじゃないと思うし最近の若者は根性が無いのアレかもしれない
周りの人はみんな普通に出席して課題出してってやってるのになんでこんな事もできないんだ
こんなところでこんなもん書いてるからなのか