はてなキーワード: 夏休みとは
「夏休み、パパが東京にミュウの配布会連れてってくれるって!」「いいな!てかポケモン青、いつ届くんだろ」チャイムの音と共に騒がしくなる教室で、目を輝かせる友人達。小学校の話題の中心はいつもポケモンだった。僕は一人、いつも下を向いていた。ウチにはゲームボーイも、スーファミもなかった。
「ファミコンは目が悪くなるから」。僕と弟がゲームをねだるたび、母は困った顔をして、でも決して折れなかった。図鑑、世界名作全集、蟻の観察セット。サンタさんは毎年、僕のリクエストを無視して高島屋の包装に包まれた立派なプレゼントをくれた。嬉しくないのに、喜んだふりをするのが辛かった。
銀行員の父が毎晩遅くまで働く中、短大卒で専業主婦の母は気負っていた。お菓子は手作りで、床にはチリ一つなく、洗濯物はいつも綺麗に畳まれていた。彼女の信じる理想の子育てとはつまり公文とスイミングとピアノのローテーションであり、ゲームボーイみたいな退廃的な娯楽が入り込む余地はなかった。
大人にとっての理想の息子は、子供の世界では異物でしかない。ポケモンの話題についていけない僕を待っていた疎外感。クロールのタイムが早くても、小学生で因数分解を解けても、誰も僕に関心を持ってくれなかった。みんな、放課後は通信ケーブルを持ってる田中君の家に集まり、通信対戦に夢中だった。
ドラクエもFFもクロノトリガーも、テレビで友達のプレー画面を見てるだけで我慢できた。でも、ポケモンは違った。ゲームボーイの画面は小さく、見ようとすると「近いんだけど」と邪険に扱われた。通信対戦で盛り上がる友人達のそばで一人、本棚の古いコロコロを読んでた。涙をこらえるのに必死だった。
お小遣いを貯めて、ポケモンの攻略本を買った。隅から隅までボロボロになるまで読み込んだ。技マシンの番号と技名を全部覚えた。全ポケモンの進化パターンもそらんじた。でも、そこには僕が動かせるピカチュウもミュウツーもいない。むしろ虚しくなるだけだと気づくのに、そう時間はかからなかった。
大人になった今だから分かる。健全な物に囲まれ、誘惑に負けることなく健やかに育って欲しいという母の想いは世間では愛と呼ばれるものだ。僕が社学とはいえ早稲田を出て、それなりの企業に勤めているのは母の愛のおかげだ。でも、幼少期に満たされなかった想いは、渇きは、今もまだ確かに残っている。
「うわ、バイオレットだ!やったー!パパ、ありがとう!」朝、リビングでAmazonの箱を開けて大はしゃぎの息子。「誕生日でもクリスマスでもないのに。まだSAPIXの宿題も終わってないのよ」としかめっ面の妻。これは息子のためでなく、僕の傷を癒すための儀式なんだと言っても理解して貰えないだろう。
「そういやα1のケンタ君、家にSwitchないんだよ。ママが厳しいんだって。可哀想だよね」息子の何気ない一言に、動悸が早まる。子供の世界の共通言語を持たず、母親の監視の下で偏差値を上げるためデイリーサピックスを黙々と解く小学生男子。顔も知らないケンタ君の日常を思うと、胸が締め付けられる。
深夜、家族が寝静まったタワマン低層階のリビングで1人、Switchの電源を入れる。ニャオハがマスカーニャまで進化しても、チャンピオンロードでオモダカを倒しても、驚きや喜びを共有できる友人はどこにもいない。プレミアムモルツを一口飲む。僕が本当に欲しかったものは、もう二度と手に入らない(完
嫌いじゃないけど・・・w
どうせ新海誠のことだから、キモい性癖を散りばめて RADWIMPSで無理やり感動させる雰囲気作るいつものやつだろ、くらいの気持ちで臨んだ。
冷やかしの気持ちだ。
そうしたらあれですよ。
映画の中盤には東北道の北上して、物語の舞台が東北のあの辺になってきて
放射能で住めなくなった荒れ果てた街があって
ただ、ばあちゃんの家が福島にあって、小さいときに夏休みに泊りがけで遊びにいってたところ。
地元の駅は津波で流され、ばあちゃん家は放射能で住めなくなって、野生動物に荒らされて?ガラスが割れ草ボーボーになって
両親が防護服を着ながらそういう状態を写真に撮ってたんだけど、それにそっくりだった
呼吸が浅くなった
映画の描写は、津波の被害で家屋がぐしゃぐしゃ、船がおかしなところに乗っかっちまってるようなそんな街を映していて
これには本当にびっくりして涙が止まらなくなり、口のところまで流れてきてしょっぱかった
あの日俺は海老名で仕事してて、小田急止まって家に帰れなくなって
びっくりしてまた涙がぼたぼた落ちてきた
原発の仕事をしていた別の親戚は、仕事がなくなって引っ越したらしいが、まあそんなところだ
幼い日のすずめが、お母さんがいなくなった事を一生懸命に説明する描写がある
あの日、3月の冬の夜、帰る家も無く、たくさんの人が声を枯らして人探しをしたんだろう
そういう悲しさで辛くなって、手を合わせて祈りたい気持ちでいっぱいになってしまった
PTAに加入しないでください。
すでに入っていたら退会してください。
でも現実はそうなっていません。
強制的に加入させられているだけです。
PTA規約を見ても、会員は「○○小学校に通っている児童の保護者とする」というような書き方しかしていません。
これが現実です。
本来PTA活動は、必要と思う人、活動に協力できる人が任意で活動すればいいとだけ思っています。
ただ、家のこと、子供のこと、生活のことでいっぱいいっぱいなところに、PTAの役員が回ってきて、悩みに悩んで苦しい思いをしている人(特に私と同じ母親)が1人でも減ってほしい!
子供は1人で、小学校に入学する前の秋、学校説明会でPTAについても簡単な紹介がありました。
PTA。
活動に協力できるか不安で、規約をみてみると会員は「○○小学校児童の保護者とする」としかなく、それ以上何をするでもなく、子供は小学校に入学。
入学すると、1年生のときはほかのお母さん(100%母親でした)がこぞって役員に立候補していました。
何でも早いうちに役員をやっておけば楽なんだそうです。
子供が6年生になったときに、1度も役をやっていない人はほぼ確実に役員に選ばれますが、
そうなると重たい役をやる羽目になったり、卒業関係の仕事などで大変だそうです。
(初めてなので、仕組みがさっぱりわかりませんでした。退会したので今もよくわかりません)
でも、できる人はいいですよ。
私は低学年のうちに役をやることすらできなかった。
でもほかのお母さん方にはPTAの役員になっておこうと考える余裕があったようです。
どっちが大変とか偉いとか、そういう話では断じてありません。
ただ、ともかく私には役をやる余裕がなかった。
日中は仕事。毎日仕事して帰ってきて生活をまわすのが精いっぱいで、休日もぐったりしていました。
それから5年生まではずっとそんな感じで過ぎました。
6年生になる前の冬、まず子供会の役決めがありました。
なぜか勝手に役に選ばれていました。
あと、資源ごみ回収のための市役所への手続きをしたり、通帳を管理するとか。
平日は無理です。
窓口の開いている時間に市役所と農協の金融機関の支店にはとても行けません。
私がその役になったら夏休みも企画はしません。企画はなしで終わるでしょう。
そもそも前任者も忙しいお母さんで、役決めの集まりの連絡ができず、私はその場にいないので勝手に決まっていたそうです。
そのことにも納得できず、引き受けられないと伝えつづけ、その間に不快なやり取りがいくつかあり。
結果、見かねた別のお母さんが役を引き受けてくれました。
そうです。
やれる人、やりたい人がやればいいじゃないですか?
やれる人、やりたい人がいないなら、無理に活動する必要ありますか?
その間に私も相当嫌な思いをしました。
他人に望まず嫌な思いをさせてしまっていることもストレスでした。
何のために?
そのことで気づきました。
今まで忙しかったのと、よくわかっていなかったのですが、
本当にできないんです。
この間、ものすごく悩んで追いつめられて、段々鬱っぽくなっていたように思います。
子供のことでこんな苦しい思いをするんだったら、子供と一緒に心中する!とまで思い詰めていました。
でもある日ふと思いつきました。
じゃあ、抜ければいいじゃない。
退会すれば役員はまわってきません。
こんなに子供のことで思い詰めて嫌な思いをするくらいなら、抜けてやる。
ただしそれは、ほかのお母さんに白い目でみられることと引き換えです。
それでもいい、と思いました。
どうせ生活のために働きづめで、ほかのお母さん方と交流する機会もありません。
元々誰かとつるむことがなかったので、抜けやすかったのかもしれません。
さて、抜けるときめたはいいけれど、その方法がまったくわかりませんでした。
ネットでの経験談を読むと、校長?とPTA会長?に退会届を出すとか。
退会届の見本もネットに載っていました。
「PTAを退会したいのですが、どちらに退会届を出せばいいでしょうか」
するとまず、校長先生から「PTA会長がお話したいと言っている」旨の返事が来ました。
聞いてはいたけど、「退会したい」と言ったらまず、
と説得して退会を防ぐ腹積もりらしいです。
とかいうんです。
何よりも休みの日にそんな不愉快な電話を受けたくありませんよ。
こっちは話すことはないし、そちらの都合でかけてくるのに。
すでに退会することは決めました。
話し合うことはなにもないんです。
私はただ、どこに退会届を出せばいいのか知りたいだけなのに、それに対する返事はありません。
退会する人、電話は避けましょうね!
特に気の弱い人、遠慮がちな人は、直接話すと丸め込まれたり、けむに巻かれたりしますよ。
私は連絡帳にて、
平日は仕事中だし、休日も都合が悪いので、文書にしてくださいと伝えました。
「できる人ができることをできるときにやればいい」ものだという、呆れたことが書いてありました。
「できる人が、できることを、できるときに」
やることになっていたら、私は退会しなくて済むわけです。
でも現実にそうなっていないから、私は苦しんだし退会することになった。
現実は、
だけじゃありませんか。
最近は父親も保護者会に参加したり親父の会とか作って子育てに積極的にコミットしていますが、それでもPTA役員にまでなって活動する父親は、やはり圧倒的に少数派です。
なぜか。
そんなこと明らかじゃありませんか。
父親は一家の稼ぎ頭として、日中会社で働いているからですよね。
父親で役員やる人は自営業とかで、妻より時間の融通がつく人だったりします。
無理もありません。
別に父親が育児に関心ないとか、家庭にコミットしないとか思わない。
家庭内分業として、父親が主たる働き手として生活費を稼ぎ、子育て期の子供の面倒を見るためにも、母親が家のことを行いつつ、パートに就いたりするのは、家族内の協力体制で自然なことだと思います。
単に家庭内で母親の方が時間的に融通がきくから、PTA活動をになっているのではないでしょうか。
そして私の場合、私が生活費のため日中仕事に出て、家にいる間は家庭をまわす主婦になっているわけです。
到底自慢なんかじゃありませんよ。
大変さアピールでもありません。
働く父親にがPTA役員をやれないなら、私も同じ理由でやれないんです。
なんせ、朝出勤してから往復通勤時間を含めて12時間程度は家に帰ってこないんですよ。
有給休暇もあるけど、顧客都合で休めない日もあるし、休んだらその分休日出勤しないといけない仕事量でしたし。
何よりも仕事の責任を果たせないのが恐怖で、ずっと綱渡りでした。
ふざけんな!ですよ。
この校長先生は、そういう母親の現実をわかっていないと思いました。
そこで手紙に対する返事をこちらは便箋に縦書きで手書きしました。
何も私は対立したいのではなく、ただ退会したいだけなので、退会という目的さえ果たせばあとはどうでもよいわけです。
返事には、
「PTAの意義はよくわかりました。活動に協力できず大変心苦しく思っています。」
というようなことを書きました。
会費を出し渋ってると思われるのが悔しかったので、PTAには入らないけれど、
「会費相当額を学校へ寄付させていただく」とまで申し出て、後日実際に寄付しました。
この際、校長先生とPTA会長宛の退会届を添えてさっさと連絡帳にたくしました。
さらに、退会届には、退会が認められたのか確認したかったので、
「年度内に退会したことの承諾書類をください」と書き添えました。
それで終わりです。
退会届に対する返事は来ませんでした。
子供が6年生に進学しても、誰も何も言ってきませんでした。
そして。
新学期に入って、学費・給食費の引き落とし時期になり、通帳を確認したところ。
どういうわけか、PTA会費が一緒に引き落とされていました!
退会してないの?
確かに退会届を出したのに??
酷いですね…。
再び連絡帳の出番です。
すると。
この校長先生は、退会届を出した校長先生とは別の人で、当時の校長は異動したので、電話が来たのは別の校長先生です。
この先生はとてもよい人でした。
私が連絡帳に書いた要件について、「確かに退会している。会費は返金する」と、ちゃんと回答してくれました。
それでもちょっとだけ、願望めいた恨み節をひと言言われました。
私には言いたいことがたくさんありました。
そもそもPTA活動がどんなに忙しい保護者(主に母親)を苦しめて、母親同士の分断まで生み出しているか。
子供会の役員ですら、そのときの役員だった人からは夜中の1時にメールが来たりしていました。
そんな人が役をやらなくちゃいけない状態を知っていますか?と逆に聞きたかった。
でも会社内だったので大っぴらにしゃべれなくて、言いたいことの半分も言えませんでした。
お礼だけ言って電話を切りました。
以上が私の退会経験です。
これ以降、PTAは決定的に私にとって「近づかない方がいい」ものとなり、
高校でも、入学説明会前にPTA名簿用に情報を提出する用紙があったので、
それに換えて非加入届を提出しました。
中学のときはきっと小学校から連絡が行っていたせいか、特に咎められませんでしたが、高校では加入勧奨されました。
すでに嫌な予感。
まあ何かあるかもとは思ってたけど。
そして案の定「あ、ちょっとお母さんすみません、お話しが…」と教頭先生が登場。
何てのたまったと思います?
「役はやらなくていいから、会費だけ払ってくれれば…」
これ本当に言われました。
「それって入会してるってことですよね?」って。
何よりもまず、そんな不公平なことをしたら、ほかの真面目に加入してくじ引きで当たって役をやる会員に失礼じゃないですか!?
役をやらなくていいなら、多くの人がやりたくないでしょう。
ただ入会した以上、システム的にくじ引きで当たったら3年間役をやるようです。
役に当たって「嫌だ、やりたくない」と思う人は、どうぞ退会してください。
むしろ、退会すべきですよ。
※なぜこれほどまでに退会者を引き留めるのか。
私はよく知りませんが、なんか会員1人につき、上から降りてくるお金があるような?
あと地区とか上位組織に加入者を減らさないようなプレッシャーがあるらしいですね?
だからもれなく無条件加入させることに校長やら教頭はこだわるようです。
そんなことのために苦しむのがアホらしいですよ…。
私はPTA不要論者ではありませんが、PTA活動はあまりにも時代と合っていないことは確かです。
私が声を大にしていいたいのは、
ということです。
シングルマザーに限らず、共働きだったら毎日生活をまわすのに精一杯だと思います。
別に外で働いてない人でも、パートの人でも、フルタイム労働者より時間の融通をつけやすいだけで、忙しいことは変わらないと思います。
だって理由があって専業主婦だったりパート労働者なんでしょうし。
子供が小さくて送り迎えがあるとか、障害を持ってて世話が大変とか、それぞれの家庭の都合が色々あるでしょう。
朝の登校の旗振りをしたとき、ペアとなったお母さんは、赤ちゃんを家に置いてきたと言っていました。
早く帰ってね、と言ったんですけど、そもそもそういう理由があるなら無理にやらなくてよいではありませんか?
でも、小さな赤ちゃんを独りにしてまで、優先させる活動なのか?
あともっというと、
そもそも仕事や家庭の都合とか理由がなくちゃ断れないんですか?
単にやりたくないから、でもいいじゃないですか。
自分は向いてないとか好きじゃないとか、そういう人もいるじゃないですか。
特に「自分は大変な思いで役をやったのに!」という人は批判的だと思います。
私だって、大変な役員がまわってきたけど我慢して引き受けたのに、って。
役員がまわってきたとき、我慢して引き受けるって決めたのはあなたじゃありませんか?
やりたくないと思った、あるいはどうしても引き受けられなかったなら、私のように退会すればよかったんですよ。
自分がやったから、やれたからって、できない人、やらない人を批判しないでください。
PTAのこともそうだけど、様々な家庭がある。
これ以上、色々比較して分断するのは、お互いにとってよくないです。
ともかく、PTA活動は、現実問題「できる人ができることをできるときにやって」いないです。
自分は家族の朝ごはん作って食べて片付けてトイレ掃除してお米研いで炊飯器にセットしてから出勤したり、
退勤したらスーパーによって夕食の食材を買って、帰宅してご飯作って食べさせて片付けて洗濯して干して、
寝るまで子供の面倒をみる生活したことないでしょうね。皮肉ですが。
これでいいたいことは全部ぶちまけた。
私のように苦しんでいる人がいるのではないかと心配するからです。
せめて、PTAで悩んでいる人、辛い思いをしている人が1人でも減りますように。
PTAに加入しないでください。
入っていたら退会してください。
終
ASDとADHD持ち、躁鬱の大学生。何度も留年を重ねています。夏休みが明けてからまともに登校しておらず、人生数度目の不登校なうです。中学、高校ではなく大学です。やばいよね。ずっと私に投資してきてた親からも流石に愛想を尽かされて、ごめん、私まともになれそうにないからもう死ぬね、って伝えたら死ぬなら樹海に行ってくれと言われました。というわけで行こうかと思うのですが気持ちの整理のため、というかスッキリするため?全部吐き出す投稿です。使い方合ってるのかなこれ
親のお金で買ったゲームや漫画などの別次元の空想話に逃避している時だけが幸せです。でも私は多分、2次元が好き、というわけではないんだと思います。現実を見ないで済むのならなんでも、睡眠でも、アルコールでも。どんなものであってもいいみたい。
人と関わるのが苦痛です。どうして目を見て話さないといけないのか、声をかけられたら応答しないといけないのか、興味がなくても楽しそうにしないといけないのか、分かりません。高校の現代文のテストはクラスで1番優秀だったのに、現実の人間がなにをどう感じるかを、私の頭はどうしてか結びつけてくれない。ずっと分からないままです。
忘れ物をします。無くし物をします。道が覚えられません。熱しやすく冷めやすいです。人からの連絡を返すのに1ヶ月かかります。よく吃るし、失敗するし、打たれ弱くて、あらゆる能力が低くて、初めてのバイト(単発)で初回にこっぴどく怒られて辞めてから1度も働いたことがありません。
大学に行けなくなったのは自分でもなんでだか分かりません。自分が何考えてるのかも分からん。私はそもそも大学に進みたかった訳じゃないのに親に学校も学科も勝手に決められたせいでやる気が…とはいえ、まともな神経してたら学校嫌でも行くと思うんですよね。ダブったら学費勿体ないし、就職もきつくなるし。だからなんだかんだ言って結局全面的に私が悪いんです。将来のこと考えられてない愚か者は私。
このままじゃやばい、変わらなきゃ、明日からは切り替えてちゃんと学校行こう、人としてちゃんとしようって思って毎晩寝ます。でも起きると、自分は何も切り替わってないし変わるために何したらいいのか分かってないんです。で、なんとなくゲーム始めて一日が終わって、うーん明日の私が頑張るはず!って考えて寝て、無限ループです。結局私の深層心理的には変わる気がないんだろうなと思います。
発達障害と、それを認識していながらも甘く見ていた青年期の自分のせいです。ずっといつかはなんとかなるはず、って思って処世術も人生設計も模索せずぼーっと生きてきました。結果、取り返しつかないほどの諸々低スペのゴミになっていました。
やらない言い訳ばかり探している人生が恥ずかしいです。変わるための努力が、自分を好きになるための努力がどうしてできないんだろう。 1日1日を大事にして、真面目に生きている人達に申し訳ないです。もう終わりにしたいです。欠陥だらけの自分は、人間として産まれてくるべきでなかったのだと思います。期待を抱いて何かを始めて、そうして失敗する度に自分の能力の低さを思い知らされます。いっそそれを自覚できないほど鈍感だったら良かったのに。人に迷惑をかけて、それでも気にせず図太く生きられたら良かったのに。糖質の人、重度の障害を持つ人を見る度に羨ましい、なんて最低なことを考えてしまいます。
健常者でないけれど異常者にもなりきれない、まともじゃないのにまともになろうと頑張ろうともしない、自分が本当に嫌い。世界で一番嫌い。
大学行けなくなって。この程度のことでつまづくなんて、どう考えてもこの先生きのこれないだろうって思うようになりました。そんなふうにならないように、今までどうしておけばよかったのかも分からない。人間絶対向いてなかったと思うので来世があったら頼むからカニとかに生まれたいな。本当に、本当に私として生まれてきたくなかった。人生の中で楽しいと感じた瞬間が全く思い出せない。
高校入学前から精神科に通って、カウンセリングで話を聞いてもらって、薬を処方されて。高いお金を月に何度もかけてきましたが、効き目がありません。薬は、大分前から現状から目を逸らさせて問題を先延ばしにするよくない道具です。生きてればいいことあるって先生もカウンセラーさんも言ってくれた。もう聞き飽きたよ。なかったよ。てかいいことって何か、私結局ずっと分かんないままだったよ。
最近は動けなくて、水を取りに行く気力がなく薬を飲めていません。何をどうやったって私のポンコツぶりは治らないと思ってるから飲む気がないのもある。当然お風呂入れてなくてあちこちかゆいし臭い。何も生み出せない自分が生きていたら地球全体の損失なのではないか、資源の無駄遣いなのではないかと感じたから、そういう理由なら勇気出して死ねるかな…という言い訳を気を抜くと考えてしまう。結局自死の動機を他人のせいにして自分の背中を押そうとする自分。嫌い。
太宰治の『人間失格』を初めて読んで、私は1人じゃないんだって励まされた中学1年生のある瞬間(大分厨二病w)から、いつかまともになれるから、ちゃんとした大人になれるから、って信じて死ぬのを先延ばしにしていたけれど、私にはいつかなんて訪れないんだって最近気が付きました。どうしてか変わろうっていう努力ができない。1度決意しても、気持ちも行動も持続しない。全部私が悪いです。20数年生きて、親の金で色々なことにチャレンジさせてもらって、結局分かったのは私は何も向いていないということ。自分のやりたくて、好きなことがなんなのか分かりません。そして、好きじゃないことを頑張れる根性がありません。生き恥を晒していると思います。
何度も何度も死のうと決意して、その度に怖くて何も出来ずに先延ばしにしてきたけれど、そろそろ、いや、今がその時なのかな。
私の悩みも生き方も道端の石みたいにちっぽけだってことは分かっています。もっと苦しい人がいる。世界が私の把握できる範囲よりずっと広いことを知っているから、余計に絶望する。こんなくだらない悩みで死にたい、って思ってしまっているって、本当に生きる価値がない。
いやほんと生きるモチベないわ。そろそろ樹海行くか。死ぬ前日にどうしてもしたいことってなんだろうってずっと考えてたけど結局何も思いつかなかった。私が人生で1番大事に思ってたことってなんだったんだろうか。これだ!って思っても、1週間も続いたこと多分なかったな。本当にろくでもない人生だった。樹海に行く、って、もしかして人生初の前日の私が明日の私のためにしてあげるいい感じのことなんじゃないかって気がしている。
全然関係ないけど、大学入って一人暮らしを始めて最初の夏休みに友達と何かやったりサークル活動したりもせず実家に帰って丸々1ヶ月か2ヶ月か過ごした苦い思い出を思い出してしまった。
発達が遅くて精神年齢が全く追いつかず、(勉強以外は)大学生らしいことが全く何もできなかったんだよなあ。後から思えばそれは生まれつきの遺伝子の問題と育った環境の両方に原因があったと思う。
その後色々頑張って20代半ば以降くらいからは表面上は何かと問題なくやってきた社会的にまともな人と見られるようになったと思うけど、それは所詮後から取り繕ったものでしかなくて、
あの頃のどうしようもない思いや体験が人生に消えない陰を落としていて、最終的にうまくやり切れないことはだいたいそこに根本的な原因があると感じる。
うちの小学校の夏休みの宿題がコンクールの何十もあるうち複数選んで提出っていうことになっていて、どこもそうなのか気になっていた。
自由研究も絵も工作も何らかのコンクール向けにやらなければならない。
20年は前の話なんだけど。弟が小学校低学年のとき、夏休みの自由研究で賞をもらった。
全校集会の際に表彰された。自分のことのように…自分のこと以上に、私はうれしかった。
私の弟だよ!!すごいよ!!って叫びたいぐらいうれしかった。叫ぶ代わりに手が痛くなるくらい思いっきり拍手したのを覚えている。
っていう、ほのぼの話をさぁ……両親にしたらさぁ。実はその裏話が過酷だったらしい。
セミが脱皮する様子を一晩中見守って、写真にとって感想と一緒に提出したものだった。そこまではいい。
「写真だけじゃなく絵に描き直してくれ。もちろん本人の手書き」
「文字も(略」
「家でやってくれ」
突如発生する夏休み1ヶ月並みの(は過言だけどまあそれなりの)作業量。
低学年の元気男児に。共働き家庭で、学童保育、食事や風呂…のあと寝るまでの時間。
「毎日、(弟)につきっきりになって。あなたには、ごめんねごめんねって言いながらやったのよ」といわれた。お、覚えてない…。
割と校風良かったのに……そうか……自由研究の賞ってそういう、大人ウケ・コンクールウケのために組み直されることもあるんだね。そりゃそうだ。
…いやまて。そりゃそう、か?それでいいのか教育よ。しんどいわぁ。
件の日、私は先に寝たけど、脱皮したてのセミの写真はとてもきれいだった。見知ったセミが、真っ白だと別の生き物みたいに見えた。覚えてる。
弟と両親で固唾を呑んで、カーテンに留まらせたセミを見守っていた背中も、覚えてる。
まあ貯金あるし余裕だろと思って休職した。傷病手当の交付は休職期間+申請から交付までの期間(組合による)っていうのは理解してたんだけど、ここに更に「申請する気力が湧く期間」が必要だっていうのは盲点だった。
結果、休職し始めてから3ヶ月遅れで入金される事になって一時的とはいえ貯金の目減りが凄かった。そして金が無くなることへのストレスも凄い。普段と同じように買い物してたら金が飛ぶ飛ぶ。
しかも年末調整でかえってくるとはいえ社会保険料なんかは会社に振り込まなきゃいけないから貯金無しで休職してたら病みが深まっていたと思う。
ふたつめ思ったより遊べない
適応障害で休職したんだけど、ぶっちゃけ「朝から晩まで好きな事してやる!長い夏休みだ!!!」って気持ちで休みに入ったのに、蓋を開けてみればベッドから殆ど出ない日々。一応人間の姿でいるために毎日風呂に入るようにはしてるけど、お腹がすいても食べる気にならないし適当に麦茶飲んで過ごしてる。
たまに美容室行って馴染みの美容師さんと話したり食料品買いにいってみたりするけど、外から帰ってくるとどっと疲れてそのままベッドで踞る始末。当然飲みに行く元気もないのでちゃんと食事した日に缶チューハイを飲む程度。
次女の誕生日のあと、長女の誕生日があって、その直近の祝日、二人に誕生日プレゼントと服を買ってやるために買い物に出た。トータルで三万円くらいかかった。はぁ。
服を買う時に、ついでに長女に今のうちに生理用品とかブラを買っとこうぜ、と言うと、長女は思いの外喜んだ。
長女は11歳になったのだが、最近爆速で身長が伸びると共に体型も大人に近づきつつある。彼女は小さい頃から今に至るまで安定の痩せ体型だ。身長に合わせてズボンを買うとウエストがブカブカだったのが、今は150のズボンを履いてもずり落ちなくなった。痩せているなりに身体の厚みは増しているのだ。
最近の長女は胸が急に育って来ているのが悩みらしい。そういう事をぽつぽつ言うのだが、ブラが欲しいと自ら言う事がないので、親であるこちらから提案した方がいいんだろうなあと思った。
長女を子供の下着売り場に連れて行くと、彼女は種類の多さに圧倒されていたが、ぼくが
「ステップ1とか2とか3とかタグがついてるな。まずはステップ1でいいんじゃないか?」
と言うと、それらを物色しはじめた。
「すごーい、いっぱいあるー。こんなのが欲しかったの!」
などと言うから、可愛い色のやつを買うのかな? と背後で見ていたら、スタンダードな感じの、キャミソールと一体型の白いのを二枚選んだ。黒や紫もあるし、ブラだけ独立していて、同色のショーツとセットになったものもあるよとぼくが言っても、「絶対これがいい!」と長女は譲らなかった。まあ、白無地はアウターに響かなくていいよな。もし、ぼくがユニクロの白のエアリズムばかり着てることに影響されたのだとしたら、なんかすまないなと思うけれど。
今時の小学生女子は、他の子がどんな下着を着けているのか、気になりはしないのだろうか? ぼくが子供の頃は、女子はそういう事についてはかなり煩かった。白い「初めてのブラ」なんか着けていると、露骨に馬鹿にされたものだ。
ぼくが子供の頃、ぼくの母親はどういう訳か我が子の二次性徴について捻れた考えを持っていた。だからぼくはなかなかブラを買ってもらえなくて、確か中学に上がってしばらくはノーブラで過ごしていた。部活の時以外は胸が目立たないよう猫背で下を向いて歩きがちだったように思う。
当時はぼくの母親だけでなく、世の母親達の考えは大抵いい加減かつバラバラだったので、胸が既にかなり大きいのに「子供だから」という理由でノーブラな女子というのはしばしばいた。ぼくはそれが好きじゃなくて、自分はそうはなりたくないと思ったのだが、無駄に性に対して厳格な家庭でしかも鈍感な母親にブラが欲しいなんて強請るのはあり得ないと思って我慢していた。ただ、ぼくの場合は胸が発育しかけだとしても限りなく俎板に近い胸をしていたので、ブラを着けていないことを誤魔化すのはそんなに難しいことではなかった。
だが、体育の授業や部活の授業の前後に更衣室で着替える際だけは誤魔化しなどは利かない。
体育の時の着替えはまさに針の莚に座るような心地だったが、部活の時はそうでもなかった。更衣室では先輩達が下着姿で悪ふざけをしていたし、彼女達の下着はみなカラフルでまるで見せるためのもののようだった。たった一、二学年違うだけでどうしてこんなにも文化が違うのか不思議だった。ぼく達の学年はいつまで経っても白いペラペラの下着で、誰が一番先に「色気づいて」大人のようなブラを使い始めるのか、監視し合い足を引っ張り合っているのに。
先輩の一人が日曜日に買ったばかりだというグリーンのチェックのブラを見せびらかしている時、ぼくはホワイトボードの下にレイジと二人で潜り込んでぴったりと身を寄せ合って先輩達の馬鹿騒ぎを眺めたり、今週のジャンプの話したりしていた。ブラの自慢をしていた先輩がぼくらの所にやってきて、
「今日も二人、異様に仲がいいよね」
といい、ぼくはそこに含みがある事に素で気づかず、
と答えた。
レイジとは中学に上がってすぐの部活見学期間のある日に出会った。レイジは武道館の片隅に一人で体育座りをして、先輩達の稽古の様子を眺めるでもなく膝の上に顔を伏せていた。最初にレイジがぼくを見たが、話しかけたのはぼくの方からだ。当時のぼくは既にはみ出者気質を全開にしていたが、今よりは社交性があったのかもしれない。
レイジの第一印象は、大人しそうな男子、といった感じだった。目が合って、一言二言交わしただけですぐに気が合いそうだと思ったのと、ぼくと同性である事に気づいたのとは、どっちが先だったろうか。立ち上がれば性別を間違いようはない。レイジはぼくよりずっと背が高く、正面から相対すると迫力のある胸が視界を圧倒してくる。まるでモデルのように手足が長く、メリハリのある体型をしていた。
そんなレイジだが、ほとんど大人同然の背格好をしていたにも拘わらず、ぼくと同じくまだ「子供」というカテゴリーに押し込められていた。つまり中学に上がってもしばらくはノーブラで過ごした。その点でぼくにとっては類友でもあった。
いつだったか、先輩の一人がそんなぼくらを見かねて声をかけてきた。ブラをしないと恥ずかしいとか乳が垂れるぞとか、そんなことを言われ、ぼくらは「はーい」と返事をしたが、すぐに他愛ない雑談に戻った。レイジは先輩に言われたことなど全く意に介していないようだったけれど、ぼくは内心かなり気にしていて、やはり母親にブラが欲しいとお願いしなくてはならないのだろうか? と考え、まだ何も行動しないうちから屈辱に打ち負かされたような気になっていた。
記憶に間違いがなければ、ぼくらは少なくとも一年の夏休みまでは「子供」カテゴリーのままでい続け、それぞれ親の方針通りに子供の肌着を制服の下に着続けていたと思う。そのことによってレイジがどんなデメリットを被ったかはぼくは知らないが、ぼくの方には人には言えないようなデメリットがあった。
ある日、竹刀を振った瞬間に身体の内側から「ぶちっ」と音がした。腕のつけ根辺りがヒリヒリと痛くなった。家に帰ってから服を脱いで見てみると、鎖骨のすぐ下辺りに赤い皹が入っていた。まるで鋭利な刃物でひと突きしたような傷は薄い表皮で繋がっていて、出血はない。どうやら急に大きくなった胸の重さに皮下の肉が負けて裂けてしまったようだった。奇妙な傷はその後いくつも増えていき、白い痕になって残った。
肌にいくつもの傷が残るほどに、ぼくの胸はお荷物になりかけていたのだが、だからといって目立って大きいのかというと全くそんな事はなく、服を着ている限りは相変わらずの俎板に見えるほどだった。なのに、ただ普通に生活していくだけで服の下に隠れた部分が傷だらけになっていく。その原因がさして膨らんでいるようには見えない胸であるなど、親に相談出来る訳もなく、ぼくはひた隠しにした。
その件はレイジにも話した事はない。そもそもぼくとレイジは「親友」だと言い合っていたのにも拘わらず、お互いに相手の内面には踏み込もうとしなかった。ぼくらは校舎の内外を、ひとの目も気にせず手を繋いで歩き、座る時にはスズメのきょうだいのように身体をくっつけた。部活の合間の休憩時間には互いの背中を背もたれにしたり、膝枕をしあったりした。
ぼくがレイジの太ももを枕にしている時、ぼくの鼻先にはレイジの胸があるのに、そのぼくの胸の何倍も大きな肉の塊はレイジにどんなダメージを与えたのか与えなかったのかなんて知らなかったし、レイジはレイジで、ふざけて指でつついたぼくの貧相な胸がぼくにとってはけっこうな凶器だった事など知らないままだった。
レイジに対してのぼくの隠し事なんて大した数はないが、ぼくにとってレイジは謎の多い奴であり続けた。真面目そうに見えてちゃらんぽらんで、部活だって、ぼくとレイジとはたった二人だけの新入部員なのに、レイジはよくサボり、ぼくを一人にした。夏休みの部活に、レイジは半分も顔を出さなかった。なのに試合に出ればそれなりに勝つのが不思議だ。何故レイジはそんなに休むのか、ぼくはしばしば先輩達から聞かれたが、わかりませんと首を振るしかない。
親友の癖にぼくはレイジの個人的な事をほとんど知らない。そのことが気にならない訳ではなかったのだが、いざレイジと顔を合わせると、数々の謎の解明などどうでもよくなってしまう。レイジとする話は好きな漫画やアニメの話ばかりで、端からみればそれは終始うわべだけの話をしつづけているだけで、それのどこが親友なのか不思議だったかもしれない。
ぼくとレイジは心が遠くにあるのを補うかのようにスキンシップだけは過剰に行った。一日の中で最初に会ったときは、相手の存在を視認したらどんなに遠く離れたところからも全力で駆け寄り、
「カーラミーア!」
「モンシェ!」
と叫ぶとひっしと抱擁し合う。隙あらば、学校内のどのカップルよりも密着して過ごした。
夏の間、ぼくはろくに飲食をせずに部活でしごかれていた。これ以上身体に無駄な肉がつくのを止めたかったし、生理の出血をなんとか止めたいと思って行った無謀なダイエットだったが、消耗したわりに効果はいまいちだった。ひと夏で顔だけげっそりしたぼくだったが、片やレイジは夏休み前と少しも変わらず飄々としており、健康そのものに見えた。実際、心ない男子がぼくらに対して目障りだ死ねと罵倒を浴びせるやそいつを蹴り倒しプロレス技をかけて泣かせるなどワイルドに暴れることもあった。
ぼくは安心した。実はぼくの母親がぼくとレイジが仲良くなったのを知り、ぼくの同級生の母親達の情報網を使ってレイジの個人情報を仕入れており、聞いてもいないのにぼくにそれを話したのだ。ママ友ネットワークをもってしてもレイジの事で確かな情報は得られず、噂程度のことしか仕入れられなかったようだ。それによれば、レイジは何らかの病気で定期的に通院しているという。だがその病気が何であるのかは誰も知らないらしい。
ぼくが知っているレイジの個人的なことといえば、レイジには兄が一人いて両親も健在で、四人家族で仲良く暮らしているということくらいだった。
「レイジのジは二番目のジってこと?」
「そそ」
「納得した」
きょうだいの二番目だから「レイジ」と名乗るレイジとぼくとは部活つながりの親友。クラスと出身小学校が違うせいでお互い相手の事で知らないことが多いかもしれないが、そんな事は関係なく、ぼくらはとても仲がいい。
秋になった。ある日、学校から帰るとぼくの部屋に大きな買い物袋が置かれていた。母親が開けてみろというので中身を見たら、「はじめてのブラ」と書かれた厚紙つきの白いブラが三着ほどと、その他下着類が入っていた。母親によれば、「ぼくに必要だから買った」というより「みんなが必要だと言うから買った」ようだ。母親は他人の言う事になにかと流される。
しかし、断られる可能性が高いと思いつつこちらから羞恥心を堪えつつ頭を下げてお願いすることもなしに、必要なものが手に入ったのは良いことだ。ぼくは「はじめてのブラ」を着けてみた。ところがサイズが全然合っていなかった。それはAカップだがアンダーが85cmもあって、上半身だけは骨の浮くほどガリガリだったぼくにはユルかった。
翌日から「はじめてのブラ」を着けて登校したが、いざ日常生活を送ってみると、ユルすぎるブラはぼくの助けになるどころか邪魔で邪魔で仕方のないものだとわかった。ちょっと身体を動かしただけで背中のホックが外れる。これまでの習慣通りに猫背にしていると外れるし、かといって背筋を伸ばしてもまた外れる。走るとどんどんブラが浮いてきて胸の上までずり上がってくる。それを狼狽しながらも誰にも気づかないよう適正な位置に引き下ろさなければならない。
なんなんだこれ……。母親に苦情を言うべきではないかと思わなくもなかったが、母親がぼくにブラを買い与えた時、牽制するように「デブで胸のないお前にはサイズがそれしかない」と言ったから、解決策は何もないとぼくは思い込んだ。デブは言いがかりだ。ぼくはチビの癖に肩幅と腰幅があり、脚も太かったから、セーラー服を着るとずんぐりむっくりに見えたが、上半身はガリガリに痩せていたのだ。
何でぼくだけこんな事に……と思いつつ、部活の際に先輩達がふざけながら着替えている間は、いつもの様にぼくは部室の隅っこにレイジとぴったりくっついて体育座りで待っていた。先輩達は相変わらず可愛いブラを着けていて、それらはぼくの「はじめてのブラ」のようにズレたりホックが外れたりはしない。どうしてぼくの「はじめてのブラ」はこんなにも役に立たないのか、すぐそこに何事にもあけすけな先輩達がいるにも拘わらず、ぼくは誰にも打ち明けられない気がして、勝手に孤独に浸っていた。隣のレイジは、元からそういう話をすべき相手ではない。
その時、ツンツンと脇腹をつつかれた。隣を見れば、レイジが膝の上に半分顔を埋めたまま、いやーな顔で笑っていた。
「お前、これなんなの?」
レイジはニヤニヤしながら、ぼくのTシャツの上からブラのバックベルトを引っ張った。
「何でもいいだろ!」
ぼくは小声で身をよじりながら言った。その反応がレイジには面白かったらしく、レイジは「なんなの、なんなの」と言いながらぼくのブラのあちこちを引っ張り、脇を擽ってきた。そんなぼくらの攻防戦を先輩達はいつものじゃれ合いだと思ったらしく、「今日も二人は仲良いよねー」と言った。
その日以来、レイジはぼくがブラを着けているのを面白がり、やがて服の上からブラのホックを外すという技を会得した。レイジが通りすがりにぼくの背中を叩くと、ホックが外れる。とんでもない悪戯だが、ぼくのホックは悪戯をされなくてもしばしば外れるし、ぼくとレイジはクラスが違うので、被害を受けたところで大した事にはならない。それでぼくとレイジの仲が決裂するという事もなかった。
ただ、レイジがぼくをブラのことでイジッてくるのは意外だと思った。同級生女子の中には、他の女子が「色気づく」のを嫌って意地悪をしたり他人の足を引っ張るような事をする奴が何人もいたが、レイジはそんな陰湿な女子どもとは最も遠い存在のような気がしていた。でも、その頃レイジはまだ「子供」カテゴリーの内にいて、それをぼくなんかみたいな貧乳の方がイチ抜けしたのだから、変に執着されるのはおかしい事ではないような気もした。
人の心理としてレイジの反応は特におかしいものではない。が、ぼくらの関係性の絶妙なバランスをレイジの方から崩して来ようとするのは……逆にぼくの方から壊しにかかるなら自業自得なのでまだしも……どうしていいのかわからない。わからなさすぎたので、ぼくは何事もなかったかのように過ごす事を選んだ。
二年からはぼくとレイジは同じクラスになった。一緒に過ごす時間は益々増えた。レイジが休み時間の教室ですれ違いざまにぼくのブラを外して遊ぶ事もあったが、ぼくは責任を取ってホックを元に戻せとレイジに要求し、レイジは「はいはい」と言ってぼくの制服の背中に手を突っ込んでホックを掛け直した。
その頃にはレイジは既に「子供」カテゴリーを脱していたのだと思うが、ぼくにはその件については全然記憶がない。少なくとも、ぼくはレイジからされたようにレイジがブラを着け始めた事をからかうことはなかった。
教室が一緒だと、友達同士なら休み時間ごとにお互いの机のところを行来するものだ。ぼくは授業が終わってもすぐに教科書をしまって離席することがないから、レイジの方からぼくの席にやって来がちだった。ふとぼくが顔を上げると、視界の全面をレイジの胸が塞いでいる。よく、胸の大きな女性が「(男は)私じゃなくて私の胸に挨拶をする」と言うが、レイジの場合はぼくに胸から挨拶して来るようなものだ。ぼくはレイジに知られないよう視線を外した。だからレイジの胸がしょっちゅうぼくの目と鼻の先にあったのに、ぼくはレイジのブラ事情など全く知らない。一方レイジはといえば、ぼくをからかえるだけからかって恥ずかしい思いをさせたのに。
レイジは狡いと思ったが、他の女子といがみ合うようにレイジと争うのは嫌だった。レイジと喧嘩する事があるとしたら、それとは全く関係のない、取るに足らない事が原因だ。そしてベッタリと仲がいい分喧嘩するのもわりとしょっちゅうだった。大体はぼくの方から吹っ掛ける。そこにレイジは狡いという思いがなかったとは言えないと、当時を振り返って思う。
レイジは胸が大きくて手足が長くてモデルのような体型をしていたが、女としてはある意味で無敵だった。ぼくはといえば、自分の身体がなにかとコンプレックスで、わざと身体に合わないダボダボな格好ばかりしているから、本当はガリガリに痩せていたのにすんぐりむっくりのデブだと思われがちだったうえに、貧相な体つきのわりにはきっちりと女であることのデメリットを受けた。すなわち生理が異常に重くて一月のうち絶好調なのは三日ほどしかなく、あとは瀕死。
レイジは不調知らずで常に元気いっぱい走り回っていた。何かの病気で通院しているという噂はデマに過ぎないのではないかとぼくには思われた。だがレイジはよく部活をサボった。同じクラスで親友のぼくにも何も言わず、放課後になるといつの間にか姿を消している。ぼくは既にレイジはそんなものだと思っていた。部活の顧問から、来年の女子部部長は消去法でぼくに決まりだと聞いて軽く絶望した。レイジの方がぼくよりもずっと強いのに、部長は実力よりも真面目さが大事だと顧問は言う。だがぼくは顧問が思うほど真面目ではない。絶不調ながら毎日律儀に部活に出ているのはほとんど、稽古でカロリーを消費しつくせば生理にかけるエネルギーが少なくなり、来月こそは体調がましになるのでは? と期待していただけに過ぎない。
そんな馬鹿な事をしていたせいで、ぼくはある日、体育の授業中に具合が悪くなった。その日のメニューは1000メートル走だったが、ぼくは運動神経がない癖に中距離を走るのが大好きで得意だったので、生理中だというのに無理をした。酷い目眩がして手足が冷たくなり、震えが止まらなくなった。爪が真っ青になり、顔色も青を通り越して真っ白だと、ぼくを見た体育教師が言った。体育教師は厳しい人で滅多な事では生徒を休ませないのだが、ぼくが芝生に座っても一向に回復しないので、保健室に行って休めと言った。ぼくは保健委員に付き添われて保健室へ行った。ベッドに寝かされた途端に意識が落ちた。
気がついたらベッドの側にレイジがいた。
「おはよー。今どんな気分?」
「どんなって、最悪だけど。でもさっきよりはましな気がする」
「ははっ、体育の時はヤバかったな。こいつマジで死ぬんじゃね? って感じの顔してて、先生がさすがに焦ってた」
そう言うとレイジはぼくのほっぺたをつまんで引っ張った。
「ほっぺぷにぷにー。すべすべで真っ白ー。でもさっきよりはましー」
レイジはぼくの肌をすべすべで真っ白だとよく言う。小学校時代は徒歩通学で、中学に上がってからは自転車通学で、それなりに日に焼けていたから、ぼくの肌も黒くて荒れているはずだと自分では思い込んでいたが、レイジに指摘されてはじめて、ぼくは色白で肌質がいいのだと知った。少なくともレイジのほっぺたよりはぼくのほっぺたの方がすべすべで白い。
「今どんな気分?」
「君が血色が戻ったというなら、思ったよりもいいんじゃないだろうか。確かに吐き気はしないし、頭痛もしない」
「ふーん。俺にはそういうのが無いからわからないけど、まあ無理すんなよ」
レイジはいいな。ぼくと性別が同じでもぼくのような思いはしないんだ。でもぼくみたいにひ弱なのはレイジには似合わないから、それでよいのだと思った。
トラバに続く。
今から25年前の1997年ののこと。当時小学生だった自分の1歳年上の従兄が、夏休みにお婆ちゃんの家にこのゲームを持ってきていたのが全ての始まりだった。
「タクティクスオウガっていうゲームがあるんだ。すげーから一緒にやろうぜ。」
従兄に勧められるままゲームを始めたのだが、タクティクスオウガが『すげー』ことはすぐに分かった。
中世ヨーロッパ風の権謀術数渦巻く世界観。重厚なBGMの中で敵味方がターン関係なく立体的なマップで繰り広げるリアルな戦闘。
背中に翼の生えたキャラクターが民家の屋根の上に移動して弓を射ると放物線上に矢が飛んでいくわ、ふわふわと宙に浮かぶ幽霊が魔法を唱え敵が炎に包まれると足元の草が焼けるわと細部までこだわったビジュアル。
とにかく衝撃的なゲームだった。いてもたってもいられなくなり、従兄がお婆ちゃんの家から帰った直後にお小遣いを握りしめて町のゲーム屋さんに走った。
お店のレジで商品を買うときにすごくドキドキしたのを今でも覚えている。スーパーファミコン版のタクティクスオウガの商品パッケージは英語でタイトルが書かれており、フォントが英語の旧字体みたいな形だったので、読み方があっているかな、間違って別のソフト買っちゃうんじゃないかなとすごく緊張したのだ。ぜんぜん自信が無かったが、店員さんにタイトル合ってるか確認して無事に買うことができた。
ワクワクしながら商品を持ち帰り、ゲームを始めたが小学生にとっては、難易度が高く難しいゲームだった。初回プレイ時にはキャラクターの強さを表すパラメータが多すぎてさっぱり分からなかった。
だけど作りこまれたチュートリアルとオンラインヘルプ等の親切な機能がたくさんついていたおかげで何とかゲームを進めることができた。一番助かったのは戦闘中の中断セーブ機能だ。小学生の時には、1日ゲームは30分までというルールがあったので非常に助かった。
さて、ゲームを買ってから2週間くらいの時のこと。難しいながらも俺はどうにかChapter1の終わりまでシナリオを進めていた。このゲームはプレーヤーが会話中の選択肢を選ぶことでシナリオが分岐するんだけど、途中で出てきた選択肢が衝撃的だったのは今でも忘れられない。ネタバレになるので詳細は伏せるが小学生には重たすぎる内容だった。無茶苦茶悩ましい選択だったが、片方を選んでゲームを先に進めてみた。だが、すぐにゲームに行き詰った。キャラクター育成をよくわからずに進めていたので自軍のユニットが弱く戦闘で勝てなくなったのだ。このまま先に進めないのも悔しかったので攻略本を買うことにした。
ここで話は少々脱線するのだが、俺の生まれ育ったのは日本海側の田舎町だ。町の本屋さんはあまり大きくない。なので、地元の本屋さんの攻略本コーナーにはメジャーな作品のものしか置いてないわけだ。ゼルダの伝説とか、ドラクエとかFFとかまあそれくらい。それらに比べるとタクティクスオウガはマイナーだった。苦労を重ねて隣町の古本屋さんで偶然攻略本を見つけて手に入れるまで1か月かかった。その後は攻略本を熟読してゲームシステムの理解を深めて1から再挑戦したのだが、家の方針で1日のゲーム時間が30分に制限されていたので、クリアするまでにはさらに2ヶ月ほどの時間を要した。だけどその分クリアしたときの達成感は大きかった。興奮冷めやらぬ俺は、小学校の同級生たちにタクティクスオウガのすごさを布教したが上手くいかなかった。俺がタクティクスオウガに出会った1997年当時、家庭用ゲーム機の主役はスーパーファミコンからプレイステーションに移行しつつあり、同級生たちはファイナルファンタジー7やファイナルファンタジータクティクスといったスクウェアの大作ゲームに夢中になっていたのだ。
同級生のN君に、「タクティクスオウガってファイナルファンタジータクティクスのパクリでしょ?」と言われたのは傷ついたなあ。なんていうか、自分がイケてると思ったゲームをディスられるという経験がなかったので。残念ながら、うちの地元では最初にタクティクスオウガを紹介してくれた従兄以外に周りでタクティクスオウガファンを見つけることができなかった。
それから2年後の1999年。俺は中学生になり、田舎町の我が家でもインターネットが使えるようになった。ネットが使えるようになってすぐに、以前はまっていたゲームのタクティクスオウガの攻略情報を調べてみた。地元の田舎町にはいなかったタクティクスオウガファンは、ネットの向こうにはたくさんいるようだった。ファンの集めた情報は膨大で、攻略情報にとどまらずゲームの舞台背景の考察やクリエイターの音楽の趣味までカバーしていて、中学生の俺の知的好奇心はガンガン刺激された。ディレクターの松野氏の名前もこの時に知った。余談だが、「タクティクスオウガとファイナルファンタジータクティクスは主要な開発スタッフが同じ」というのも同時期に知ったので、小学生の時にパクリ呼ばわりしてきたN君に対して「両方同じ人が作ってんだよ、適当言うなざまあ」という気持ちが芽生えたのはここだけの話である。
ネットの情報から刺激を受けた俺はゲームの世界観をもっと味わいたくなって、前作の「伝説のオウガバトル」もプレイしてみた。ディレクターの松野氏が好んでいたらしいQueenの楽曲を聞いてみたくなり、生まれてはじめて洋楽のCDを買いにも行った。コーヒーを飲めるようになった時のように、背伸びして少し大人になった気分がした。
そのうち自分でも似たゲームを作りたくなって、おこづかいでVisual Basicを購入したりもした。プログラミングの入門書片手にそれらしい画面までは作ったが、しょせんは中学生。体系だったプログラミング言語の知識がないためサンプルコードのコピペに終始し、1年くらいかかって紙芝居のようなものが出来て終わった。その後は、高校入試・大学入試で忙しくなったのでしばらくゲームから遠ざかっていた。
そこからさらに時が流れて俺は社会人になった。中学生の時のゲーム作りの経験から、ソフトウェアエンジニアの適性は無いなと思ったのでハード系のエンジニアとして就職した。タクティクスオウガから受けた影響は俺の人生を変えたのである。ゲームから遠ざかっていた俺だが、2010年にタクティクスオウガの1度目のリメイクのニュースを聞いて再び情報を集めだした。そこでたまたま開発者の松野氏のプロフィールを見つけたのだが、なかなかの衝撃だった。
まずはスーパーファミコン版のタクティクスオウガ開発時の年齢。発売日の時点で29歳なのである。ゲームの開発期間が2年くらいだとすると、開発開始時は27歳くらいだろうか。その若さであの革新的なゲームの開発指揮を執ってたのかよ!松野氏と面識のあるゲームクリエイターがインタビュー記事で天才という理由が分かった気がする。次に出身地。新潟県の妙高市となっている。地方出身であのゲームの重厚なシナリオを描くだけの知識を身に着けたのか!というのがもう一つの驚きだ。
先に俺の出身地が日本海側の田舎町だと書いた。地方で育ったからわかるのだが、地方はゲームの攻略本に限らずあらゆる情報が都会に比べて乏しい世界だ。タクティクスオウガの世界観を形成している中世ヨーロッパの歴史や文学の知識を松野氏はどこで得たのだろう?世代的にインターネットが無い時代なので、俺が田舎で育った時よりもさらに情報は手に入れにくいはずである。これは今でも気になっているので、今度出る予定のリメイク版の開発者インタビューでだれか聞いてみてほしいところである。
最後になったが、今回出る2回目のリメイク版もすごく楽しみにしている。なんていうか2回もリメイクが出るだけでもすごいのに、2回ともオリジナルの開発メンバーがかかわっているのがまた驚きなのだ。
発売元のスクウェア・エニックスはFF・ドラクエ等の過去の作品をよくリメイクしているけど、オリジナルのスタッフが何度もかかわるケースは珍しくないだろうか?しかも開発者の松野氏はリメイク前にスクウェアを退社しているのだ。それでも声がかかるのだから、本人のカリスマ性がメチャクチャ高いのだろう。過去に会社を辞めた人が2回も開発現場に呼ばれるって相当なことだと思うんよね。
小さな頃から我が家では、「ご飯を食べた後家族みんなでリビングで勉強する」という習慣があった。地方銀行員の父は内部管理責任者や銀行業務検定などの勉強。薬剤師の母は薬事法管理者や新薬の勉強をしていた。俺は公文のプリントと進研ゼミ、英検、数検。俺がわからない所があると両親はリビングのホワイトボードを使って教えてくれた。駅弁附属の小学校、中学校に進み千葉県立千葉高等学校に進んだ俺は学年が上がってからも勉強に躓くことはなく、中学、高校でも成績をキープしながら部活や習い事に集中することができた。
このように勉強に苦手意識を抱かなかったのは両親のおかげなのだが、10代の俺は「俺ってすごい才能のあるやつなんだな」と勘違いを起こして努力を怠った。そして「将来の日本は俺が背負うぜ」と官僚を目指した。しかし大学受験ともなると流石に努力しなければどうにもならない。塾の授業を受けるだけでまともに自習することがなかった俺は、夏休み以降に急激に力を付ける同級生たちに追いつかれ始め、結局センター試験で早稲田大学、一般入試で慶應義塾大学に合格したものの東京大学文科一類には不合格。
一年間も追加で勉強するのは面倒臭く、浪人せずに現役で早稲田に進学。大学在学中はギリギリ単位取得のCを取り続けて卒業し、「日本を背負う官僚」となることはなく民間企業の歯車として働いている。
私と女の子の友達3人と、そのうちの一人の彼氏とその彼氏の男友達3人の計8人。
水着になるのも久しぶりで、男友達にも結構無遠慮に見られて恥ずかしかったけど、なんかそういうのも久しぶりで楽しかった。
みんなで遊んでいると、男友達の一人のアソコが大きくなってしまったらしく、他の友達にからかわれていた。
私たち女子も、それを聞いて、「いやらしー」とか言ってからかったけど、確か水着の上から分かるぐらい盛り上がっていた。
しかも、なかなか治まらないらしく、その男子は治まるまで海に使ってるわー、と言って、しばらくして治まったみたいだけど、なんか気まずそうだった。
でも、その後、女友達の一人がちょくちょくその男子に、「大丈夫?また大きくなっちゃってない?」とか聞いたり、脇腹とか背中とかつっついて、「いやらしいこと考えるとまた大きくなっちゃうよ?」とかからかってたら、その男子はまた大きくなっちゃったみたいで治めようとまた海に入っていった。
その時、その男子は手で押さえてたけど、かなり大きくなっていて大変そうだった。
その女友達は、その後もちょくちょくからかってたけど、もう大丈夫だったみたいで、海から上がってご飯食べてから解散したのだけど・・・・
そのからかってた女友達は、その男友達と解散した後合流して、そのままやっちゃったらしい。やっぱり大きくなってるの見てたらしたくなっちゃったのだとか。
その女友達はその時彼氏いたのだけど、今はその彼氏とは別れて、やっちゃった男友達と付き合ってる。
別れた理由は、男友達のことを好きになったのもあるけど、大きくて気持ちよかったのも理由らしい。別れた彼氏のは小さかったそうだ。
あるいはとにかく困り果てている奴。
今ベトナムにいる(いない。これは数日前に書いた)。シャレオツなチョコレートショップでこれを打っている。東京と変わらない値段のケーキを食べながら心を落ち着かせている。何って、陽キャ(推定)に遭遇したおかげで、Independence Palace (統一会堂)を見に行ったのにほとんど集中出来なくて参った。何かを取り戻さないとと思って集中力を欠いている分写真を撮ってみたが、大体こういうの見返さないんだよな。いつか漫画を描く時にでも資料として使いたい。
閑話休題。
午前中に「日本人ですか?」と声をかけられた。
とか客引きからの声かけにはすっかり慣れたし、夏休みという時期と観光地という場所柄も手伝って日本人っぽいなと思う人は今までも見かけたが、声をかけられたのははじめてだった。
彼は多分こんな匿名ブログなんて見ていないであろう今時の大学生ぽかったし、私も年齢と現在無職であることしか晒していないのでここに徒然なるままに書いてもどうってことないだろうから書く。普段(ブログ始めたいな〜けど書くこと別に無〜)ってネトフリで時間溶かしているのに、もやもやすることがあると吐き出したくて堪らなくなるのなんなんだろうね。
まあ何って、タイトル通りなんだが、それともうひとつ、自分が大学生に対してすごい『おばちゃんムーブ』をしたことにすごいもやっている。この「ムーブ」っていうのもいまだに新しい言葉として距離を感じるし、「それな」がようやく体に馴染んできたなと思うくらいに時代に遅れを取っているおばさんである。別に大学生と同じテンションで会話がしたかった訳じゃない。じゃあどうすればもやもやせず、なんか今時の若手俳優に似ているはっきりとした顔立ちの若者と「良い旅を〜」って別れることが出来たのか? また話逸れるけど、「AKB 48のメンバーの見分けがつかない」とか言ってる人みたいに最近肌が綺麗で清潔感がある人間は大体美女だしイケメンに見える。ブラックジャックに出てきた人格変わるアバタ面・素顔は犯罪者みたいな人間じゃない限り多分イケメンに見える。視力の問題か?
閑話休題その2。
取り敢えず心が落ち着くまでやりとりを書く。
「日本人ですか?」、と声をかけられる。なんやかんや話す。なんかの流れでおばさんが携帯電話をいじり始めたら「SIM買ったんですか?」って聞いてくる訳。するとおばさんは「楽天モバイルを使っててね……」と突然ヤクルトレディならぬ楽天モバイルレディに豹変して瓏々と楽天モバイルの宣伝が始まるんだから、多分若者も怖かっただろうね、ごめんよ(ご存じない方のために言えば、こういうのがおばさんムーブです)。若者が「へえ〜」って知らないような反応を示すから、(こんなん格安SIM選ぶかどうかはともかく海外行く前にさらっとググれば出てくる情報でしょ? もしかして)ってここは反省するべき点だが、【知らないことがある→若者か?】って思っちゃったんだよね。若い女性に物を知らない前提でマウント取りにくるおじさんと変わらないじゃん……って今書きながら猛省をはじめた。当たり前だけど、誰でも「なんでもは知らないわよ。知っていることだけ」なんだよな。引用する元も時代を感じるって? うっせえわ。それに、若者も別にそんなん常識だけど話の流れとして知らない風を装っただけかも分からんしな。で、なんかそこで年齢を聞いちゃったんだよな。なんで聞いたんだろう。(未成年かな?)とか思ったからかな。いやでも未成年だろうが赤ん坊じゃないんだしそれがなんだっていう話で。『女性に年齢は〜』とか言うけど、男性にも別に訊かないほうが良いんだな。こんなのL知っているか? だめだ、ふざけないと心が折れそう。
もう今後誰の年齢も訊かない、っていうか普段の生活では失礼にならないかとか地雷がないかとか石橋を叩くあまり相手の個人情報に触れること何一つ訊けなくて……夏。って感じで会話が終わるのにどうして今日に限って訊いたんだ。
はあ、こういうどうでもいい後悔のない人生がよかった。