はてなキーワード: 大阪芸術大学とは
敢えてキツいこと書くけど、
と俺は思ってるんだけど
というか、宮崎駿氏にしても坂本龍一氏にしても安易に、原発なくせ、だの「たかが電気」だの、
人類なんか滅びちゃえばいいんです、だの、コンピュータとかゲームは頭がおかしい人が作ったもんなんです、だの、
マクロスやアクエリオンの河森正治氏も地球少女アルジュナみたいなエコでロハスでスピな新興宗教のアニメ?みたいなの作っちゃうし、
例えば、オネアミスとかロケットの話だけど、やっぱり庵野氏というかガイナックスというかアニメーターなわけで、
自分のような理系の視点から見た宇宙やロケットの壮大さに対する感動とは同じようで異なっているのではないか、
つまり、彼らは理系というより文系視点というか、センス・オブ・ワンダーなところに惹かれているのであって、
一からピラミッドのレンガを積み上げるような泥臭い本当の開発現場感が、
アニメーターはアニメ制作に関しては当然あるのだろうけど、別の世界のそういう地に足のついた視点には欠けていて、
というのも、リアルな研究や開発を脚色なく描いてもドラマがないというか物語として面白くなくなる可能性がある
つまり、天才的な科学者とか理系の女性が登場したり、こんなこともあろうかとでミラクルな超兵器がいつの間にか登場したり、
実際の研究や開発は、たしかに歴史的な天才、偉人と呼ぶべき人々も存在するのだけれど、
ほとんどは凡人、サラリーマンの集合であって、地味でつまらない日々の仕事がベースになっていると自分は思っていて、
ちょっとした思いつきや閃きで壮大な宇宙艦隊戦の形勢が逆転したりとか、そんなことはありえないと思うのです
でも、リアルすぎる研究や開発、リアルすぎる戦争を描いても面白くならない
だから、ビジュアルとして美しい部分だけを切り取るのはアニメというか映像を作る側としては当然の選択なわけです
しかし、敢えてキツい言い方をするなら、アニメ作ってる人もスタジオの中に閉じ込もって、その世界しか知らないのではないか
恐れ多いのだけど、宮崎駿氏だって朝から晩までスタジオにこもってアニメを作ってる
もちろん、通勤の途中に障害のある人に出会って云々みたいな話もあった気がするのだけど、
電気なくても構わないから原発なくせみたいな主張をされても、電気なければアニメは作れない、作曲や録音もできない、
アルジュナには水中分娩の話があるらしいけど、なんの資格もない助産師が水中分娩をさせて死亡事故が起きたりしてたと思うのだけど、
そういった左翼的というか、極端な自然回帰というか、そういったエコでロハスでスピリチュアルなのに走っていってしまうのは
そういえば最近だと膣にパワーストーンだのジェムリンガだのもあったけど、膣の声に従って、仕事辞めて、孤島に集まってしまうとか、
SFというか、どちらかというとSF寄りのファンタジーを描いてる人たちってオウムみたいなのと親和性がある気がするんだよなあ
SF寄りのファンタジーって何のことを言ってるのかというと、スターウォーズ、そしてガンダムのことだったりするのだけど、
宇宙や宇宙船が登場してるけど、一方で超能力とか、それが宇宙空間で開花するとか、
こういった話はLSDとかアイソレーションタンクとかアルタード・ステーツとか、ジョン・C・リリー、ティモシー・リアリー、
それとジョン・レノンとかヒッピー、メリー・プランクターズ、フラワー・チルドレンとかサマー・オブ・ラブとか、
LSDのような幻覚剤がなにか人類の発展に寄与するのではないか、そういう時代背景だったというのもあるけど、
結局は理系の研究者でさえ幻覚剤に溺れ、なんでか自然を超常的なものとして扱うスピリチュアルな方向へ走ってしまう
人間には何か根源的にそういうところがあるのだろうか
考えてみればユナ・ボマーことセオドア・カジンスキーも天才的な数学の能力がありながら、
世捨て人のように山奥で自給自足の生活を送るようになり、しかしながら当然その生活は長く続かず、
将来的にテクノロジーが人類を破滅的に不幸にすると思ったことから、
だったら将来性がある科学者を爆弾で○せば、悲劇的な未来は回避できるんでないの?と考えたんだかどうなんだか定かでないが、
これはターミネーター2のストーリーのベースになっているが、フィクションなら面白いが、現実なら単なる爆弾魔の犯罪である
話が大幅に脱線したが、エヴァは終わっても就職氷河期が救われない、というのは言い得て妙であって、
エヴァをリアルタイムで放映していたときが就職氷河期近辺ではなかっただろうか
その時期に庵野氏は、今は飽食の時代なので心の問題を描いた、アニメではなく現実を見ろ、みたいに語っていたわけだが、
こちとら現実の就活戦線は異常ありというか悲惨な状況だったわけで、
庵野氏はエヴァを作っているとき、ちゃんとニュースとか新聞とか世相を眺めてましたか?
なんだかんだ、バブル世代の自分の価値観でアニメを作ることしか考えてなかったんじゃないですか?
と恐れ多いながらも思ってしまうのが正直なところであって
まあ、たしかに現実を見ずにアニメだとかフィクションに没入しているだけの人というのもいるのかもしれない
というか、そういう人たちに人生で出会ったこともあるが、自分がいうのもなんだが、たしかにちょっとおかしいというか、
差別的になるけど軽度の知的障害?ケーキを切れない非行少年少女?みたいなタイプも多かったし、
そういうところで昨今のDQNやヤンキーの方がアニメと親和性がある状況というのを理解できる気もする
自分で言うのもなんだが、昔は良かった話みたいになるが、
SFとかサイエンスなフィクションなわけだけど、どちらかというと理系との親和性というか、
理系からするとそのフィクションに野暮なツッコミを入れるのがネタとして話が盛り上がるというか、
自分は大学時代にみんなで誰かの家に集まって、アニメとか映画の上映会というか、
どちらかというと映像を流しっぱなしにして、各自やりたいことを黙々とやるみたいなことをやってたわけだけど、
「このディスクには地球誕生からの全てのことが記録されてます」
とか言うと、「すっげー、どういう原理だよw」みたいにツッコミを入れる奴が現れ、
その後に真面目な記録媒体の話とかネタが続いたりするという、そんな日常だったわけだけど、
多分、大阪芸術大学とか偏差値も低いし、そういう視点では観てない気がするんだよなあ
やっぱり根底にあるのはビジュアルとしてのセンス・オブ・ワンダーであって、それはチャイナさんみたいなもんであって、
電子工学科、情報工学科、機械工学科、バイオなどのオタクが集まって話すツッコミとはちょっと異なるのだと思う
まあ、ストーリーの本質は技術ではなく、結局は人間関係なわけで、
今回のケンケンとアスカではないが、そういうところにツッコミを入れるのは理系文系偏差値関係ないのだけど、
まあ、でも、やっぱりなんか違う世界に生きてるんだなあ、
当たり前だけど、恐れ多いけど、庵野氏と自分の関心の距離感みたいなのがあるとしたら、
リアルタイムでエヴァを観ていたときは近いのかと思っていたのに、
シンエヴァは未見だけど、シンゴジラ観たときでも、意外と遠いというか、同じものを見ているようで違うものを見ていたのではないか、
つまり、庵野氏と自分が同じ赤いバラを見ているのに、互いに赤いと認識しているのに、脳内の赤はまったく異なっていた、
みたいな、まあ、勝手に自分が同じような価値観を持ってるのかな、と思って勘違いしていただけなんだろうけど
そんな感じで、最近の自分はアニメやゲームへの興味が皆無になりつつあるし、
それは東日本大震災だったり、原発事故だったり、コロナだったり、自分の個人的な人生のイベントだったり色々なわけだけど、
そう考えると、シンエヴァは未見だけど、同窓会みたいなもんなんだろうかと思ったり、
自分は死んでも大学、大学院以外の同窓会には出ないと心に決めてるので、
アニメなんてなくても生きていける。
そう論じるのは簡単なことだ。
だが
人間はそもそも不完全なものであり、合理性のみで人生を全うすることは難しい。
それが出来る人間もいようがその数は決して多くない。
アニメに限らず、ゲーム、酒、タバコ、異性、ギャンブル、車、ゴルフ、音楽、アイドル、スポーツ観戦、特撮、映画、小説…
多くの人間は一見非生産なものにひと時その身を浸して癒やしを得、日々の暮らしにおける心の糧にしているものだ。
まずこういったものに批判をすること自体禁酒法時代のアメリカや天保の改革の風俗取締令のようなナンセンスさがある。
すでに多くの批判が寄せられているが、大阪芸術大学の純丘曜彰教授の例のコラムの改稿前のものを長くなるが引用し、思うところを述べていきたい。
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/夢の作り手と買い手。そこに一線があるうちはいい。だが、彼らがいつまでもおとなしく夢の買い手のままの立場でいてくれる、などと思うのは、作り手の傲慢な思い上がりだろう。連中は、もとより学園祭体験を求めている。だからファンなのだ。そして、連中はいつか一線を越えて、作り手の領域に踏み込んでくる。/
あまりに痛ましい事件だ。だが、いつか起こると思っていた。予兆はあった。たとえば、16年の小金井事件。熱烈なファンが豹変し、本人を襲撃。アイドルやアニメは、そのマーケットがクリティカルな連中であるという自覚に欠けている。
もとはと言えば、1973年の手塚プロダクションの瓦解に始まる。同じころ、もう一方のアニメの雄、東映も労働争議で多くの人材を放出。かれらは、それぞれにスタジオを起こした。だが、これらのスタジオは、アニメの製作ノウハウはあっても、資金的な制作能力に欠けており、広告代理店やテレビ局の傘下に寄せ集められ、下請的な過労働が常態化していく。
そんな中で74年日曜夜に放送された『宇宙戦艦ヤマト』は、視聴率の低迷以前に予算管理と製作進行が破綻して打ち切り。にもかかわらず、時間帯を変えた再放送で人気を得て、77年に映画版として大成功。当初はSFブームと思われ、78年の『銀河鉄道999』や79年の『機動戦士ガンダム』が続いた。しかし、サンリオ資本のキティフィルムは、80年に薬師丸ひろ子主演で柳沢きみおのマンガ『翔んだカップル』を実写化し、SFではなく、その背景に共通しているジュブナイル、つまり中高生モノの手応えを感じており、81年、アニメに転じて『うる星やつら』を大成功させる。
このアニメの実際の製作を請け負っていたのが、手塚系のスタジオぴえろで、その応援として、同じ手塚系の京都アニメーションの前身が稼働し始める。そして、その後のアニメ業界の大勢の方向を決定づけたのが、84年、この監督だった押井守の映画版オリジナルストーリー『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』。SF色を取り入れた学園コメディで、学園祭の準備が楽しくて仕方ない宇宙人の女の子ラムの夢に世界が取り込まれ、その学園祭前日を延々と毎日、繰り返しているという話。
アニメには、砂絵からストップモーションまで、いろいろな手法があり、セル画式だけでも、『サザエさん』や『ドラえもん』のようなファミリーテレビ番組はもちろん、『ドラゴンボール』や『ワンピース』のような人気マンガを動かしたもの、『ベルサイユのばら』『セーラームーン』のような少女マンガ系、『風の谷のナウシカ』や『AKIRA』のようなディストピアSF、さらにはもっとタイトな大人向けのものもある。
にもかかわらず、京アニは、一貫して主力作品は学園物なのだ。それも、『ビューティフル・ドリーマー』の終わりなき日常というモティーフは、さまざまな作品に反復して登場する。たとえば、07年の『らき☆すた』の最終回第24話は、『BD』と同じ学園祭の前日。エンディングでは、あえて『BD』のテーマ曲を下手くそに歌っている。つまり、この作品では、この回に限らず、終わりなき日常に浸り続けるオタクのファンをあえて挑発するようなトゲがあちこちに隠されていた。しかし、「エンドレスエイト」として知られる09年の『涼宮ハルヒの憂鬱』2期第12話から19話までとなると、延々とほとんど同じ夏休みのエピソードが繰り返され、『BD』に悪酔いしたリメイクのような様相を呈する。
もっと言ってしまえば、京アニという製作会社が、終わりなき学園祭の前日を繰り返しているようなところだった。学園物、高校生のサークル物語、友だち話を作り、終わり無く次回作の公開に追われ続けてきた。内容が似たり寄ったりの繰り返しというだけでなく、そもそも創立から40年、経営者がずっと同じというのも、ある意味、呪われた夢のようだ。天性の善人とはいえ、社長の姿は、『BD』の「夢邪鬼」と重なる。そして、そうであれば、いつか「獏」がやってきて、夢を喰い潰すのは必然だった。
なぜ学園物が当たったのか。なぜそれがアニメの主流となったのか。中学高校は、日本人にとって、最大公約数の共通体験だからだ。入学式、修学旅行、学園祭、卒業式。教室、体育館、登下校。だが、実際のファンの中心は、中高生ではない。もっと上だ。学園物は、この中高の共通体験以上の自分の個人の人生が空っぽな者、いや、イジメや引きこもりで中高の一般的な共通体験さえも持つことができなかった者が、精神的に中高時代に留まり続けるよすがとなってしまっていた。それは、いい年をしたアイドルが、中高生マガイの制服を着て、初恋さえ手が届かなかったようなキモオタのアラサー、アラフォーのファンを誑かすのと似ている。
夢の作り手と買い手。そこに一線があるうちはいい。だが、彼らがいつまでもおとなしく夢の買い手のままの立場でいてくれる、などと思うのは、作り手の傲慢な思い上がりだろう。連中は、もとより学園祭体験を求めている。だからファンなのだ。グッズを買い集め、「聖地」を巡礼し、そして、連中はいつか一線を越えて、作り手の領域に踏み込んでくる。それが拒否されれば、連中がどう出るか、わかりそうなものだ。
『恋はデジャブ』(93)という映画がある。これもまた、同じ一日をループで繰り返しながら、主人公が精神的に成長するという物語。この話では、主人公だけでなく、周囲の人々も同じ一日を繰り返す。つまり、主人公の成長を待ってくれる。だが、映画と違って、現実は、そうはいかない。終わりの無い学園物のアニメにうつつを抜かしている間に、同級生は進学し、就職し、結婚し、子供を作り、人生を前に進めていく。記号化されたアニメの主人公は、のび太もカツオも、同じ失敗を繰り返しても、明日には明日がある。しかし、現実の人間は、老いてふけ、体力も気力も失われ、友人も知人も彼を見捨てて去り、支えてくれる親も死んでいく。こういう連中に残された最後の希望は、自分も永遠の夢の学園祭の準備の中に飛び込んで、その仲間になることだけ。
起業する、選挙に立候補する、アイドルやタレント、芸人になる、小説やマンガの賞に応募する、もしくは、大金持ちと結婚する。時代のせいか、本人のせいか、いずれにせよ、人生がうまくいかなかった連中は、その一発逆転を狙う。だが、彼らはあまりに長く、ありもしないふわふわした夢を見させられ過ぎた。だから、一発逆転も、また別の夢。かならず失敗する。そして、最後には逆恨み、逆切れ、周囲を道連れにした自殺テロ。
いくらファンが付き、いくら経営が安定するとしても、偽の夢を売って弱者や敗者を精神的に搾取し続け、自分たち自身もまたその夢の中毒に染まるなどというのは、麻薬の売人以下だ。まずは業界全体、作り手たち自身がいいかげん夢から覚め、ガキの学園祭の前日のような粗製濫造、間に合わせの自転車操業と決別し、しっかりと現実にツメを立てて、夢の終わりの大人の物語を示すこそが、同じ悲劇を繰り返さず、すべてを供養することになると思う。
まずはこの業界全体、作り手たち自身がいいかげん夢から覚め、ガキの学園祭の前日のような粗製濫造、間に合わせの自転車操業と決別する必要がある。もう学園祭は終わったのだ。休もう。番組も、映画も、穴を開けて休もう。あれだけの京アニの惨事を目の前にしながら、よりタイトな状況で黙々と規定の製作スケジュールをこなそうとしていることこそ、異常だ。こんなときくらい、京アニにかぎらず、業界の関連全社、いったん立ち止まって、仕事や待遇、業界のあり方、物語の方向性、ファンとの関係を見直し、あらためてしっかりと現実にツメを立てて、夢の終わりの大人の物語を示すこそが、同じ悲劇を繰り返さず、すべてを供養することになると思う。
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「京アニは学園ものだけ」という言説に対し、傷痍軍人の女性が戦後を生きる「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」の存在意義が改めて燦然と光り輝いているという事実。劇場版も企画されており以降もシリーズ化されればそれはもう「学園ものだけ」という批判にはあたらない、はずだったのだが…。
また京アニオリジナルの源流をたどればMUNTOという異世界ファンタジーもあり、今後何が飛び出すか、その可能性は無限に満ちていた。
日本のオタク作品の大半が確かに学園ものなのは事実であるが、それは世界観の説明が容易であること、多くの視聴者が経験していて没入しやすいこと、といったアドバンテージがある、いわば「手堅い」ジャンルゆえ。
京アニは決して裕福な会社であったとは言い切れないし、またアニメ業界自体流行り廃りが激しく、そんな中で一定の収益を手堅くあげる選択をとっても批判されるいわれはあるまい。
エンドレスエイトがいまだに物議を醸す存在であるのは事実だが、話題性が1期よりは希薄になりがちな2期ハルヒを「語る」上で大きな要素になっているという点では意義のある存在ともいえるのかもしれない。
終わりなき学園祭としてひとつの象徴となった「ビューティフル・ドリーマー」、
うる星やつらが漫画版で約9年、アニメ版で約5年もの長きに渡り「途切れることなく」続いた学園ものであった記憶もあって、ことにアニメに対して古い感性の人間ほど「終わりなき青春」を延々続ける印象もあるが、
近年の製作ペースは1クール12話、月にならせば3ヶ月ほどのスパンが基準で、シリーズが続いても2クールか長くても4クールあたりが殆どで、1年を通して続くことはもはや一部の例のみで、1クールないし2クールベースの途切れ途切れの発表ペースになっている。しかもうる星が3年を超えて学生生活を描き続けたのに対し、妥当な時間経過とともに終わり即ち「卒業」があるのも近年の特徴。
しかもアニメファンは常にコンテンツの新陳代謝にさらされる中で、コンテンツの完結を一区切りとして、同じ制作会社だからといって次に提示される新コンテンツを必ず追い続けてくれるとは限らない。
1期で好評だったシリーズ物の2期ですら、1期以上に人気を得るのは実際難しい。
そしてこの御仁が憂うまでもなくアニメ自体卒業していく人間も確かに存在する。
そういった熾烈なレッドオーシャンで波間の泡のように浮いては消えていくのがアニメ制作会社の非情なる現実。
そんな熾烈な世界にあって健気に誠実に作品を作り続け、また大きな落ち込みもなく良質な作品を供給できる会社を存続させてきた、業界の良心の要石のような会社が京アニであって、それはこういう批判の俎上に上げるべき存在ではそもそもない。
事件前からかねがね用意されていたであろう「ぼくのかんがえた日本アニメ概論」をここぞとばかりに持ってきたのだろうが、世界的に見ても比類なきほど理不尽な、そして悲惨な事件に対して論じるにはあまりにも適さない代物であったと言わざるを得ない。
このケースは犯人の特性も含めて極めて異常であり、安易な因果応報的論説にははめ込めないほどの歪さ不条理さがあるのだ。いやしくも大学教授を名乗る立場にふさわしくない浅薄さであったと言わざるを得ない。
この御仁が禄を食んでいる大阪芸大は早くからサブカルチャーに特化した今やオタク御用達の大学であり、辺境にありながら高い人気を持ち続けているのはそれ故もあるのに、そこからオタク批判をすること自体、あたかも親の庇護を受けながらヤンキーやってるイキリ中学生のようであり甚だ滑稽でしかない。
まぁ一方で確かにアニメ作りすぎなのは事実であるが、それは業界全体レベルの話であり京アニを論って言う話ではない。それは数を作らないと食えないという業界構造にこそ問題があり、是正されるべきものであるのは論を俟たない。だが、かつて勇名を馳せた会社ですら粗製乱造なものも見受けられる中、ひとつひとつの作品を売れる売れないに関わらず本当に誠実に作ってきた会社を取り上げて言うことではない。まして「麻薬の売人以下」とまで蔑まれるいわれはない。
あとアニメうる星はその後綺羅星の如く多くの俊英を生み育てる土壌になり、アニメ産業及びアニメ文化の嚆矢ともなったという意味で意義深い作品であり、とりわけビューティフル・ドリーマーはアニメ制作班の若き野心とオリジナリティに溢れた傑作であったことも付け加えておく。だがそれに内包されている批判精神は今や一周回って定番になってしまい、それをもってアニメ批判オタク批判をするには「今更感」で一杯で陳腐化していることも。
最後に
人的物的、そして心理的にも大きなダメージを負い再起すらも危ぶまれる中、これからの再起を表明した八田社長と京アニには、深い敬意を表しつつ、事件前に比肩する制作体制を整えるのはおそらくまだ時間がかかるであろうとも、その行く末を見守っていきたいし、微力であれ力添えもしていきたいものである。
そして、亡くなられた方のご冥福と、負傷された方のご快癒をお祈りしつつ、件のコラムのような浅はかな批判論を払拭する新たな可能性に満ちた作品群を期待したい。それがいつになろうとも。
40人以上の死傷者が出た京アニ放火テロ犯を擁護し、被害者である京アニを誹謗中傷した大阪芸術大学 純丘曜彰 教授の自宅や大阪芸術大学がガソリン放火されないか心配だ。
今のうちに大阪芸術大学はサイコパス、人格破綻者の 純丘曜彰 を懲戒解雇したほうがよいのではないか?
それが純丘曜彰自身やその家族を助けることにつながる。そうしないと純丘曜彰への憎悪が無くなることはないだろう。
京アニ放火テロで死蔵した者の遺族や、助かったが重い全身やけどで一生が台無しになった負傷者の無念や苦しみを想えば、純丘曜彰を厳罰に処するべきだ。
そして京アニが重大な人的被害を受けたすぐにあのような醜悪な記事の公開を許した「インサイトナウ」運営会社に対してのバッシングも積極的に展開したほうが今後の人道的な言論の為になる。
京アニ放火テロを正当化する考えの大阪芸術大学 純丘曜彰 教授のせいで大阪大学や純丘曜彰の家が放火テロされないか心配だ。
30人以上の死者を出した放火テロを正当化するような人物に対して多くの人がどういう感情を抱くか想像できなかったのだろうか?
熱心なアニメファンはいくらでも居る。自衛隊のなかでも警察官にも大勢いる。そして京アニ放火テロ犯のようなポジションの人も居るだろう。
京アニ放火テロを正当化する考えの大阪芸術大学 純丘曜彰 教授のせいで大阪大学や純丘曜彰の家が放火テロされないか心配だ。
実行されないことを祈るばかりだ。
【京アニ】大阪芸術大学の純丘曜彰教授「京アニは偽の夢を売って弱者や敗者を搾取…麻薬の売人以下」 放火事件めぐるコラムで
https://news.biglobe.ne.jp/trend/0724/blnews_190724_2479254717.html
放火事件に見舞われた京都アニメーションを「麻薬の売人以下」などと表現したコラム「終わりなき日常の終わり:京アニ放火事件の土壌」に批判の声が相次いでいる。
ビジネスメディア「INSIGHT NOW!」に掲載されたこのコラムは24日、非公開にされた。取材に対して運営会社は、内容に「一部不適切な発言があった」とコメントした。
このコラムは、大阪芸術大学の純丘曜彰教授が「INSIGHT NOW!」に寄稿し、21日に掲載されたもの。
1970年代からのアニメ業界の歩みやトレンドを解説し、京都アニメーションの前身が「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」に携わったことが、同社の後の方向性を決定づけたとしている。
その後の京都アニメーションの作品については、「一貫して主力作品は学園物」で、「らき☆すた」や「涼宮ハルヒの憂鬱」など、「似たり寄ったりの繰り返し」とのこと。
また、学園物は「中高の共通体験以上の自分の個人の人生が空っぽな者、いや、イジメや引きこもりで中高の一般的な共通体験さえも持つことができなかった者が、精神的に中高時代に留まり続けるよすが」だと考察している。
そして、こうした人たちをファンにすると、「いつか一線を越えて、作り手の領域に踏み込んでくる。それが拒否されれば、連中がどう出るか、わかりそうなもの」とのこと。
最後には、京都アニメーションを「偽の夢を売って弱者や敗者を精神的に搾取し続け、自分たち自身も中毒に染まるというのは、麻薬の売人以下だ」と断じた。
このコラムは24日に非公開になった。運営会社は取材に対し、問い合わせが複数寄せられたことから利用規約に照らし合わせて内容を確認したところ、「一部不適切な発言があった」とコメント。
また、純丘教授へ危害が加わることも懸念されたことも非公開にした理由の一つとした。
「INSIGHT NOW!」では、寄稿された記事の確認は掲載後に行っているという。
https://news.biglobe.ne.jp/trend/0724/2479254717/20190724194647294_thum800.jpg
大阪芸術大学教授・純丘曜彰氏の発言への疑問を述べた記事に、氏から応答があった。
元の記事
「五輪エンブレム問題についての純丘曜彰氏(大阪芸術大学教授)の発言」
http://anond.hatelabo.jp/20150903062450
純丘氏の応答
http://www.insightnow.jp/article/8644?page=6
もう佐野研二郎氏に関わるような話題は終わらせたほうがよいと考えているので、
議論がふたたび活発になるようなことは望まない。
筆者から疑問を投げかけ、氏がそれに答えてくれたので
パンチ一発ずつ(?)ということでこれ以上の応酬はやめようと思う。
なぜか筆者が「チャレンジャー」ということになっているが……
ただ、わざわざ返答をくれた氏に対してこちらからの感想とちょっとした考えを述べておきたい。
加えて、幻となってしまった佐野氏のエンブレムへの所感を残して旧エンブレムについては最後とし、
次のエンブレムについての思いを記そうと思う。
「ニーチェの綴りが2ちゃんねるでどうこう、ということだが、なんのことやら」(純丘氏)
炎上という非常事態に対してまさにこの「なんのことやら」という意識で臨み、
周辺に挙がっている言葉(火種)をそのまま拾って記事を作るということが、
■色の件
一般の人が読むことも考えて説明を加えたのだろう。
残念だがこちらの疑問に答えたものではなく、新たな論点もない。
この項を借りて…
氏の表象論などを用いたデザインに関する言説は(半分以上フィクションとしてだが)みな
■純丘氏の社会的影響力
非常にあったと考えている。
それは、(失礼だが)純丘氏の所論が正しく、力強かったからではない。
識者の言質さえ取れればいい、このフリップのこのスペースが埋まればいい、
そんなノリでコメントを拾っている。
8月10日、純丘氏のこの一文を読んでびっくりしたのをよく覚えている。
「このデザイナーがpinterest、その他、ネットのかなり奥深いところから
巧妙に素材を拾ってきていることが完全に明らかになってしまった」
Pinterest ついては、この時点では「完全に明らかになった」といえるような
証拠は出ていなかった(強く紐づけられるものがせいぜいニーチェの件で、
結局、最後まで確たる証拠といえるようなものは出てこなかったと考えている)。
しかし、この記事は一気に広まり、その後のムードを作っていったように思う。
純丘氏には、「佐野エンブレムを下ろしたい」というご自身の希望を
初見でロゴだけを見たときはあまりいい印象をもっていなかった。
が、明滅するアニメーションを見て選ばれた理由がわかった気がした。
その後は、騒動の最中ではあったものの見慣れていき、黒がよい主張と映ってきた。
CM でスポンサーロゴの両脇を固めたオリンピックとパラリンピックのエンブレムにはリッチで崇高な印象をもった。
黒のことがよく言われるが、プラス方向に見ればゴージャス、フォーマルな色である。
もちろん、この強い色の使用はチャレンジだった。
桜のリースのようなデザインもすばらしいが、今回の選考委員の半数はチャレンジを選んだ。
オリンピックでこれまでに使われたことのない「黒」も、
選ばれた主な理由だと考えられる「組み替えアイデア」も、チャレンジであったと思う。
選ばれることがすなわちよい結末になるとも限らない、そんな不安がある。
何か思い当たるふしなどなくてもだ。
コンペではよく「勝った」「負けた」という言葉が使われる。
新国立競技場のコンペについて伊東豊雄氏もはっきり「負けました」という言葉を使っていた。
「芸術も、学問も、勝った、負けた、の話じゃない。なにが本当か、
どうすればより美しくなるか。みんなで知恵を絞るにこしたことはない」
この一連の騒動の中で気になったのが、大阪芸術大学教授の純丘曜彰氏である。
反「佐野エンブレム」の急先鋒としてメディアで派手に〝活躍〟した人物だ。
エンブレム問題の経過をつぶさに見てきた者、デザイン周辺の知識をもっている者で
純丘氏の発言に疑問を持った人も少なくないのではないだろうか。
筆者の感じた純丘氏への疑問とは、
そして「独りよがりなデザイン論」「デザインに関する知識不足」である。
http://www.insightnow.jp/article/8591
瞬く間にメディアのあちこちに取り上げられ、反「佐野エンブレム」への動きを活気づけた記事である。
デザインに関して識者といえる人物がここまであからさまにエンブレム下ろしを唱えたのは初めてであり、
純丘氏が五輪エンブレム問題の御用コメンテーターになるきっかけともなっている。
以下は、佐野氏のデザインしたトートバッグに関する部分である。
ニーチェの独文の警句を英文で引用して、名前の綴りがコピー元のままに間違っていたり
(page:2 より)
Pinterest に一枚の画像として存在していたニーチェの一節、
その最後の名前部分に綴り間違いがあり、佐野氏が孫引きしたために同じ箇所で間違えている、
すなわち佐野氏が Pinterest を利用していた証拠である、という論旨だ。
Pinterest に綴り間違いの画像などなく、佐野氏のほうだけがたまたま書き間違えていたのだ。
ここで問題なのは「佐野氏が Pinterest を利用していたかどうか」ではない。
この純丘氏の記事が出たころにはもう2ちゃんねるの当該スレは自らその事実誤認に気づいており、
ニーチェの一件は「佐野氏が Pinterest を利用した証拠」としては除外の方向へ向かっていた。
純丘氏は、佐野エンブレム下ろしに使えるものはなんの検証もなく使っていたのである。
最低でもその誤字があるとされる Pinterest の元画像をその目で確認してから記事を書くべきだろう。
「大阪芸術大学教授」の肩書きで公にされてしまえば、何も知らずに読んだ人は事実と思い込んでしまう。
論文というのは人文科学であろうと事実を積み重ねなければならないものだが
こんなお粗末な方法で文章を書いている人物が学生に論文の指導をしているのはいかがなものだろう。
あんな黒いゴキブリ印は、生理的に無理。とても嫌な感じがする。汚らしい。穢らわしい。なにより不潔だ。あまりに不吉で、自分まで不幸に呪われそうな黒いゴキブリ。金と銀の足が夜中にカサコソと動き出して、きみの手の上に登り、パジャマの中にまで入り込んで来る。きみに、多種多様の救いがたい病原菌をなすりつけ、触覚をピロピロさせる。おまけに、突然に羽を広げて飛び上がり、きみの顔をめがけて襲い掛かる。考えただけでも寒気がする。あまりに気味が悪い。
およびそこに貼られた画像は、読む者をいやな気分にさせる。
まるでいやな気分にさせること自体が目的のひとつにもなってしまっているようだ。
純丘氏の「佐野エンブレムが嫌いだ」「黒が嫌いだ」という気持ちはよく伝わってくる。
だがそれは個人的な感情であり、公にするにしてもせいぜい個人のブログにとどめるべきだ。
大学教授、美術博士という肩書き付きでオピニオン系サイトに開陳するようなものとは思えない。
識者なら事実を元に冷静に分析し、問題を明らかにする役割を担うべきだろう。
騒動の中、感情のほとばしる文章で純丘氏は何を訴えようとしたのか。
これ以降、掲示板でもエンブレムをゴキブリ呼ばわりする人が一気に増えていった。
http://www.insightnow.jp/article/8644
ひたすら駄作である、見るに堪えない、と力説している。
疑惑があるとはいえ、多くの人が関わって世に送り出されたものを
「超弩級の駄作」「ゴキブレム」「梅干」と品なく形容する姿勢にもあきれてしまうが、
デザイン制作とは無関係な経歴(専門は哲学)と関係あるように思う。
むろんそれ自体は問題ではないが、次章の「デザインに関する知識不足」も含め、
己の手にあまるデザインに関する解説を、あたかも〝識者〟として発表するのは
この一文の含まれる段落を「デザイン論」として理解できた人がいたら
「9分割を元にフレキシブルな組み替えが可能」というアイデアを否定するのが目的のようだが
9分割の真ん中に必ず弧の中心が来なければならないデザイン上の理由とは?
さまざまな大きさ・形でさまざまな場所に弧が立ち現れていた、
黒は、ほとんどすべての文化で、死や悪、権力、固着、腐敗、を意味する。同様に、赤は、血のシンボルであり、命や致命傷だ。それに金銀を加えるなど、まさに軍事配色のナチス的悪趣味。
解釈はさまざま可能なのでナチスフラッグとみる者がいてもいい。
エンブレムを仮に芸術のひとつとするなら、芸術はさまざまな解釈に向けて開かれたものだ。
しかし、これは誰もが知っているようにオリンピックのために施された「デザイン」である。
アートのように何ものからも束縛されない自由な意志で構成、配色したものではない。
見る者も「日本」で開かれる「五輪」の「エンブレム」であるという情報とともに接する、
そのような場、コンテクストにおいて機能するようにあつらえたものだ。
佐野エンブレムがスポーツを感じさせないとか、祝祭感が足りないとかいった批評は可能だ。
が、「ナチスフラッグ」である、「ゴキブリ」「致命傷」であるなどというのは
エンブレムの出自、コンテクストを無視した悪意のあるミスリードでしかない。
ゴキブリの画像同様、ナチスの絵まで用意して独りよがりな解釈を
強くイメージとして植え付けていこうとする純丘氏の手法には疑問を禁じえない。
どんな媒体でも、ほぼ同じような発色になるように考えておかないといけないのに、全体が印刷物無視のRGBベースで出来ていて一般フルカラー印刷のYMCKの四色のインクでは出せない「特色」の金銀が入っていたり
この部分を読んで頭の中が「?」でいっぱいにならない人がいるだろうか。
この2行だけでも純丘氏が自分の手にあまること、自分のよく知らないことを
結論ありき、佐野下ろしを目的に書いていることが明らかである。
純丘氏のこの不案内な言説はさまざまな場所で〝プロ〟のそれとして引用されてしまっている。
発表されたエンブレムは RGB ベースでできていて、CMYK ベースではないらしい、
佐野研二郎氏は、デザイナーとしてはひどく低いスキルのまま今のボジションに祭り上げられ、
あたわない五輪エンブレム設計者の大役もしくは影武者の役を任されたようだ……
RGB ベースというのはモニターなど映像における混合方式であり
CMYK ベースというのは紙媒体など印刷で用いられる混合方式である。
RGB と CMYK は、媒体に応じてふさわしいデータを用いる、ただそれだけである。
ポスターやプログラムに印刷するなら CMYK のデータを用意する。
純丘氏の中で佐野氏は、この知識としても初歩の初歩、
デザイン業務上、日々出くわしてはそれに従って作業している単純なことをまるで知らないという設定らしい。
特色というのは印刷インクの一種で、
通常のプロセスカラー(CMYK インク)で表現できない色をカバーするためのものである。
エンブレムに特色の指定がしてあったというのはどこからの情報かわからないが
(筆者は見たことがないので、まずはそのソースが問題である)、
それだけをとれば、企業ロゴなどにおいては珍しいことではない。
RGB/CMYK と同様、特色を用いるかどうかは運用の現場に応じて「自然に」決まるのであって
雑誌のカラーページなら金は4色分解(CMYK)で表現されるだけである。
金や銀を特色にすることも、黒や赤を特色にすることも可能だ。
特色で刷るならばここはこの色(PANTONE 、DICなどの番号)、
そしてディスプレイ用にはこの RGB 値というように、列記されているのがふつうだ。
・特色番号(印刷用)
純丘氏の言葉を再掲する。
以下のような色指定を同一の紙の上に記すデザイナーを想像できるだろうか。
すなわち、これが「ワンセット」になっていて、それ以外の指定(CMYK 値)のない、
純丘氏の作為の産物か、氏がまたネットかどこかで拾ってきてしまったデマではないのか。
このような「物理的に」とすら言っていいほど存在しえない〝キャラ設定〟をすることも
デマを拾ってきて書き写すとこともありえないのだが。
大阪芸術大学教授・純丘曜彰氏の言葉は、目くらましのように効果を発揮してきた。
「佐野五輪エンブレムは超弩級の駄作!」での、ルネッサンスからフラットデザインへ至るくだりなど
エンブレムとはデザイン論において爪の先ほども関係ないが(ゴール地点のフラットデザイン自体なんの関係もない)、
このペダンティックな解説や周辺タームは、氏の肩書きと一緒になって人々の目にもっともらしく映り、
芸術・デザインの「専門家」(日刊ゲンダイ)と目される社会的影響力のある人物が、
この混乱の中で、明らかに事実に反すること、半可通なことを、
己の求める結論「佐野エンブレム下ろし」に向かって品のない言葉と作為的イメージを用いて
流布してきたことには、疑問を通り越してあきれてしまった。
佐野五輪エンブレムは超弩級の駄作! - INSIGHT NOW!プロフェッショナル
大阪芸術大学教授という肩書きになっていて、一応美術の博士号は持っているらしいが、東大卒で専門は哲学。少なくともデザインの専門教育を受けた形跡はない。
佐野氏のオリンピックエンブレムがいかに駄作か、いかにも論理的に解説している風の記事を寄稿しているが、初めから批判ありきで筆を進めているから、展開している論理がむちゃくちゃだ。特に色の解説が酷い。
「黒は、ほとんどすべての文化で、死や悪、権力、固着、腐敗、を意味する。同様に、赤は、血のシンボルであり、命や致命傷だ」
・・・じゃあなにか? Jリーグのマークは、死や悪と血のシンボルを掛け合わせた、醜悪なデザインって事になるのか? とんちんかんにも程があるだろう。
紅白+金銀+黒なんて、日本の凡庸な伝統的配色だよ。何言ってんだ。
大阪芸術大学教授なんて肩書きで延々とピンぼけの思い込みを垂れ流しやがって。信じる奴が出ちゃうだろう。勘弁してくれ。
反応が感情論ばかりで、単にリンチを愉しみたい人だけなんだろうな。
>「失脚させるためにマンガを描きました、って言っているわけだから」そんなことどこにも書いてないのに、どんな“法的根拠”に基づいてそう断言されるのか。/「法は道徳の最低限」という言葉があってな…。
イラストレーターは、あのマンガによって岡田氏の所業が明らかになり、吉本興業と大阪芸術大学から解雇されることを望んでいると明言しています。岡田氏によほど明確な内容の違法性がない限り、これは名誉棄損に相当します。
公序良俗云々で中心的な判例となっているのは保険金殺人の被害者の同意をめぐる事件です。愛人契約それ自体が無効である可能性は高いですが、それとは別途に男女交際が成立することは可能です。イラストレーターが愛人契約に基づいて性行為を強制されない、そのサービスを提供しなかったからと言って損害賠償を請求されないとは言うことは可能ですが、自らの意思で、ホテルに同道し、性行為に及ぼうとする行為は、一直線に公序良俗に反するから、違法であると結びつくわけではありません。イラストレーターの性格や能力による判断能力の欠如は、酩酊状態などの心神喪失でもありません。性格が弱いと言うことは法律で保護されることではありません。しかも、実際には姓行為を拒絶し、それが受容されている以上、当人の判断を害して岡田氏が姓行為に及んだとするにはあたりません。
>その前に「傷つく若い女性が一人でも減る事を望み」という目的でなされた行為は、名誉毀損になるの?
愛国無罪ならぬフェミニズム無罪でしょうか。テロを肯定するならばテロを是とする枠内ならば、テロも犯罪にはならないかも知れませんね。
モラルであればまずは法を順守するということから始めてはいかがでしょうか。
>世界に岡田があふれた場合にはそれなりの法の改正が入るでしょう。ようは良いあんばいを支えてる人達の頭を踏みつけて歩いているってことなのだよ。それがわからないとかチョット頭の悪さに落ち込んだほうが良いよ。
実際のところかなり難しいでしょう。と言うのは、岡田氏的な手法と、実際にはそれに近いけれども社会的には容認されている手法との区別がつけにくいからです。親同士の合意があって娘をあまりのりきでないうちに、嫁がせた場合、優越的な地位に基づく強制性自体はあるわけですが、それを違法とはしていません。つまり優越的地位に基づく強制性は少なくともそれを拒絶した場合に、報復を受けるという側面があり、その報復が心情的なものに留まる限り、そのソフトな強制性と「思いやり/老婆心/あなたのためを思って」云々と区別をつけることが非常に難しいからです。岡田氏の場合は、彼の意に沿わなかったとしたら、編集者を紹介しない、それはサービスを提供する義務がないサービスを提供しないというだけのことなので、それは報復ではありません。「断ったらおまえの作品を採用しないよう、圧力をかけるよ」と言うならば話は別です。
>「法律議論になったら、問題にはならないぎりぎりのところ」<<民事訴訟なら普通に「精神的苦痛」とか認定されうる=岡田が不利な事案だよ? オメコ一発ぐらいで法廷沙汰は無い、と高を括ってるだけの話で。
それが普通とは思えませんが相当する事例を提示していただきたいですね。
>あなたが『岡田斗司夫を叩いている人』たちを叩いている法的根拠がまったくわかりませんが?以下ループ。
私は岡田氏の行為には違法性はないと思っているので、その岡田氏を叩いている人たちが侮辱罪なり名誉棄損罪なりを構成している犯罪者だからだと考えておりますが。岡田氏の行為の違法性をもっときっちりと論じるべきではないでしょうか、それがあるというならば。
>おれはどっちかというと儒より法だと思う人間だけど、それでも法に反していなかったら、倫理的な批判は受けなくてもいいという人はさすがに理解できない。
そうはいっていませんけど倫理的な批判ならば「」付でなされるべきでしょう。
それは分かりますけど。岡田氏には幻滅したのは私も同じです。ホリエモンはまだ岡田氏のためにカネを払うであろうか。払わんだろうな。
>法的にも問題あるだろって反応は全部無視とかわろた 流石スルー力有りますね
あれ?言ってますけど。
岡田批判派の人が出した法的根拠って、公序良俗に反するから云々ってところだけでしょ?後、準わいせつとかなんとか(これはお話にならんですが)。
そもそも愛人契約があろうがなかろうが、セックスをすることはあり得る話です。この場合は、「これからセックスをしよう」と言われて断らなかった。ラブホテルに入るのを断らなかった。これは愛人契約を盾にとって脅迫されたからではないですよね。yellowbell さんがこれに犯罪性があると言うなら、判例を示してください。yellowbell さんがこれは違法だよと言えば違法になるわけではありません。
それとそんなに岡田氏の行為の犯罪性が明白だと言うならばイラストレーターの人はそれこそ刑事告発すればいいのではないでしょうか。
リソース・ベースト・ビューとポジショニング・ビューという経営戦略の中でも有名な2つの理論を通して、恋愛市場を見ていく。
簡単に説明すると、リソース・ベースト・ビューってのは自分の持ってる要素を活かして競争相手と差をつけましょうという理論。
ポジショニング・ビューってのは有利な市場を見つけ出して勝負しようってこと。
この2つの戦略は相反するものではないので、組み合わせて使うことができる。
2リソース型
3ポジショニング型
4非効率型
こんな分類だけでは良く分からないと思うので、岡田斗司夫を例に出して考えてみる。
オタキングは色々ポジショニングを変えているけれど、主に最大効率型かリソース型と言える。
彼の記録が正しいとするならば、メイン狩場の一つは大阪芸術大学。ここは男女比がやや女性多めで、社会経験の少ない大学生をターゲットにしていた。(ポジショニング)
そして、講師という立場や知名度、業界への繋がりといった自分の武器を使って学生を刈り取っていた。(リソース)
例えば彼が渋谷のクラブやストリートでナンパをしていてもあまり成果は上がらなかっただろう。
見た目は冴えないオッサンだし、彼の知識や業績やフォロワー達は異文化の人にとっては無価値となりうる。
去年話題になったサークラはポジショニング型で、男女比の偏りと恋愛経験の少ない市場で無双していた。
ここ数年は出会い系サイトからSNSへの転換やストリートナンパが地味な盛り上がりを見せている。
しかし、美味しい思いが出来る人はそう多くないというのが現状ではないだろうか。
その多くは市場がまずいかリソースを活かせていないか、その両方かであるように思う。
見た目に自信がない人や人見知りがストリートナンパをするのも、男女比が明らかに偏っているツイッターの裏アカウントにリプライを送るのも非効率と言わざるをえない。
私は2chというサービスが前時代的であると繰り返し主張してきた。そもそも2ch設立当初から別段新しいサービスではなかった。ただの掲示板。規模が大きいだけ。
規模の点で他に代わるサービスがなく人が多いから続いてるだけ。
まあひろゆきの運営理念が優れていたというのも多少はあるんだけど。それも最近のひろゆきを見ていると迷走している感がぬぐえない。2ch.scを作ってサーバー攻撃したり、なんだかなあと。
ひろゆきの2ch本には2chはフラットに情報提供するサービスと書いてある。ハッキングから夜のおかずまでというキャッチフレーズや便所の落書きという2つ名のとおり
何でもありの投稿スペースなわけだが、それはあくまで建前であるということに注意が必要である。
ピットクルーを始めとするプロ工作員の暗躍によりスレの流れが決まっている事実を挙げるまでもない。そもそもあのようなコミュニケーション形態自体とてつもなく閉鎖的で限界があることに
私たちはSNSやマイクロブログといった新時代のコミュニケーション形態を目の当たりにする中で繰り返し気づかされてきたのである。
何らかのテーマのスレを覗いてみると立ち所にそのことが再確認できる。スレの「総意」という名のノイジーマイノリティが跋扈しており、決して「フラット」とは言えない代物であることが分かる。
しかも、その原因が単に日本特有の同調圧力といったものには帰着できないことも言う迄も無い。そもそもが、「閉鎖的になるしかない」ようにわざわざ作られているのではないかと勘ぐりたくなるほどに
"コミュニケーションアーキテクチャ"という言葉はこれからのITサービスを語る上で欠かせない新しい専門用語である。旧来の「情報アーキテクチャ」という概念はもっぱら情報をいかに整理して伝えるか、
という表現者の視点が暗黙の前提となっていたが、コミュニケーションアーキテクチャでは表現者をも超越したメタな視点でものを見る。言うなれば合コンのセッティングのように
いかに場を用意するかという視点とも言えよう。
実は同様の概念は芸術分野において1990年前後から存在した。"アートプランニング"という概念である。いかに芸術家たちが意匠に沿って気持ち良く表現しやすい展覧会を開催するかという超越的視点。
その開催者の視点に立って戦略指向を練るのがアートプランニングなのだよ。日本では大阪芸術大学の芸術計画学科が有名で多数の人材が輩出されているな。
ひろゆきも昔はアートプランニング的視点では群を抜くものがあった。少なくとも1冊目の2ch本を出した頃のひろゆきは高い視点で捉えていたし「フラット」などという建前を掲げて理想を語っていた。
それが2冊目ではゴーストライター使うわ、近年では2chというサービス自体を古いとみなしている節があるわで、これじゃもう2ch終わったなとしか言いようが無いわけです。
古いなら変えよう、あるいはゼロから新しいものを作ろうとすればいいのに、気にくわないことをやりだした現2ch運営に嫌がらせしたりと肝心な部分で悪い意味で保守的になっちゃってるのね。
2chの衰退の直接な原因はこうしたひろゆきの衰えであるが、もっと抽象化してみると誰一人としてコミュニケーションアーキテクチャを考えようとしない、そこに根本問題があるわけです。
「技術者はデザインを考えない」「使いやすさを考えない」という言い古された批判がある。ITアーキテクトの重要性が叫ばれて久しいが「使いやすさ」に配慮した製品がいかに稀少かは周知の通り。
でもこれはもっと高い視点を要する問題なんですよ。UXなんて言ってますけどそういうことばかり新しがって言ってる人はもう脳みそが古いの。
すみません、追加の方法が分からなかったので、別のブログでvol.2として投稿します。
今後もそのような形にしたいと思います。なんかてんぱってますが、ネット初心者なので、どうかお許しを・・・
さて、いろいろ検索してたら早速見つかったので、宮坂博志氏の情報を追加していきます。
http://person.naver.jp/1112507/detail
宮坂博志氏の活動内容。活動内容、経歴 大阪芸術大学 芸術学部経歴 Atelier Umi、公演 『MASS JACK SHOW』 出演、広告・宣伝 『イチロニッサン』 出演 CM
http://www14.big.or.jp/~hosoya/who/mi/miyasaka-hiroshi.htm
平成7年NTV「ムーン・スパイラル」(1~3)八股傑作、平成10年MBS「ウルトラマンダイナ」(31)グレゴール人 、平成10年VAP「ウルトラセブン 太陽の背信」ハタ
、平成11年バンダイ「ウルトラマンナイス」(regular)夢星銀河
http://cohga.net/picasa/%E5%AE%AE%E5%9D%82%E5%8D%9A%E5%BF%97/
また、追加されてませんが、宮坂の写真が掲載されていくサイトです。
http://cohga.net/flickr/%E5%AE%AE%E5%9D%82%E5%8D%9A%E5%BF%97/
こちらもまだ追加されていないようです。やはり、テレビ出演が増えないと難しいのかな・・・
Trans Pacific Capital Inc. - 宮坂博志
日本のバブル終了後不良債権の回収や運用を主に行っており、代表者は宮坂博志、アメリカに置いてのインベストメントバンカーとしての経験を生かして米国及び日本に数多く経験を持っております。
今回は、以上です。
まだまだ情報はありそうなので、引き続きリンクで繋がり検索していきます。
私立大学教職員の労働組合のサイトを見てたのだが、私立大学職員の年収ってすごいのね。
教授でも研究者でも何でもない普通の大学職員でこれっていう。びっくりした。
http://www.bekkoame.ne.jp/~kfpu/
大学名 | 35歳 | 45歳 | 55歳 |
---|---|---|---|
大阪芸術大学 | 970万 | 1167万 | 1245万 |
桃山学院大学 | 895万 | 1148万 | 1247万 |
神戸学院大学 | 884万 | 1096万 | 1194万 |
阪南大学 | 875万 | 1173万 | 1333万 |
同志社大学 | 865万 | 1058万 | 1099万 |
(中略) | |||
高野山大学 | 565万 | 690万 | 712万 |
大阪夕陽丘短期大学 | 510万 | 711万 | 868万 |
神戸山手大学 | 503万 | 584万 | 646万 |
【参考】 | |||
サラリーマン平均 | 482万 | 590万 | 573万 |
* データは「きかんし私大教連 大阪No48・京滋No133(2008年5月号)」による。35歳年収でソート。
* サラリーマン平均年収は賃金センサス(平成19年)に基づいて算出。
上位を見れば年収1000万越えがわらわらと出てきて、ここにリストされてる大学の中では最低年収の「神戸山手大学」でもサラリーマン平均を上回っている。「阪南大学」に至っては年収1300万以上まで伸びるという(ここって、オリンピック出た職員いたよね)。なんとうらやましい。全体的に見ても、地方公務員の平均年収をはるかに上回ってるのではないだろうか。
これから就職活動や転職活動をする人は、私立大学職員という仕事を覚えておいた方がいいかもしれないね。少子化で大学経営が大変とは聞いているけど、それでもこんなに職員に高給払えるってのはすごい。もちろん給料だけで仕事を選べるわけじゃないし選びもしないが、とりあえず参考までに。