はてなキーワード: 天保の改革とは
江戸時代では寿司は庶民のファ(ー)ストフード、という文言、耳ざわりいいけど嘘です
現在の一般的な生寿司がファ(ー)ストフードよりかはちょっと上に位置してるのと同様、当時もちょっと高級な食べ物でした
解説終わり
んで天保の改革のちょっと前、江戸で現行サイズに近い握りずしが大ヒットしてあちこちの店で過当競争が起こり良くも悪くも江戸っ子相手なので見栄えが競われた
ひょっとしたら聞いたことがあるかもしれないけど例えば松の鮨
女性は「あたけ 松のすし」と書かれる木箱を持つ。松鮨とは『甲子夜話』巻十八によると、天保頃流行した二重に盛られた寿司、松とは販売者の名前で、大変高価であったとのことである。
松の鮨はキレイで有名、浮世絵の時点でめっちゃうまそうではないか
卵の黄色い寿司の上に海老(たぶん)の赤白の寿司である。完璧である。こんなのお金倍払っちゃう
なおやり過ぎてお上に目をつけられて天保の改革の贅沢禁止によっていっぺんまんべんなく潰されたというオチがついてる
まあそんなわけで当時から"職人"による細工の余地はあって、高級化する理由はもともとあったのよ
ちなみにブランドによる高級化でブーストされたのは冷蔵冷凍運搬技術が発展した昭和から
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(湯女風呂の様子)
江戸時代の銭湯は朝から沸かして、タ方六つ(午後6時頃)の合図で終わります。銭湯は上下の別なく、裸の付き合いができる庶民のいこいの場所でした。やがて、銭湯で客に湯茶のサービスもするようになって、湯女(ゆな)が大活躍します。というのは、この湯女たち、昼は客の背中を流していますが、タ方を境に、三味線を手に遊客をもてなします。この湯女風呂は、商家の旦那衆や若者たちの間で大評判になります。
そんな中でも特に人気の高かったのが「丹前風呂」。堀丹後守の屋敷前にある銭湯というところから名付けられましたが、ここの「勝山」という湯女がたいへんな人気で、「丹前の湯はそのころ皆のぼせ」と川柳によまれたほどです。また、このあたりに集まる男たちの風俗を称して「丹前風」と呼び、歌舞伎にまで取り上げられました。
こうして湯女風呂は栄える一方で、全盛期には吉原遊廓がさびれるほどのにぎわいだったといいます。
一方、幕府は風紀上の理由から、たびたび禁止令を出しますが、ほとんど効き目はない状態でした。しかし、明暦3年(1657)、幕府は湯女風呂を徹底的に取り締まり、湯女600人を強制的に吉原へ送りました。こうして江戸の湯女風呂は廃止されました。
その後、銭湯は江戸庶民の憩いの場として親しまれました。かつて湯女が客をもてなした2階の広間は浴客に開放され、茶を飲んだり菓子を食べたり、囲碁・将棋を楽しむ社交場として利用されるようになりました。
石榴口内部
江戸の銭湯は「入(い)り込(こ)み湯」といわれ、男女混浴でした。これは江戸末期まで続きました。石榴口の中は暗く、風紀を乱すものも少なくなかったのでしょう、何度か禁止令が出されます。しかし、実際はなかなか改まらず、天保の改革(1841~43)の際、厳しく取り締まりが行なわれました。その結果、浴槽の中央に仕切りを取り付けたり、男女の入浴日時を分けたり、また男湯だけ、女湯だけという銭湯も現われました。
時代は移って明治の世になると、明治政府は幕府以来の旧弊として、男女入り込み湯は特に厳しく禁止し、たびたび通達を出します。しかし、長年の風習はそう簡単には改まりません。実際に混浴がなくなったのは明治中頃でした。
アニメなんてなくても生きていける。
そう論じるのは簡単なことだ。
だが
人間はそもそも不完全なものであり、合理性のみで人生を全うすることは難しい。
それが出来る人間もいようがその数は決して多くない。
アニメに限らず、ゲーム、酒、タバコ、異性、ギャンブル、車、ゴルフ、音楽、アイドル、スポーツ観戦、特撮、映画、小説…
多くの人間は一見非生産なものにひと時その身を浸して癒やしを得、日々の暮らしにおける心の糧にしているものだ。
まずこういったものに批判をすること自体禁酒法時代のアメリカや天保の改革の風俗取締令のようなナンセンスさがある。
すでに多くの批判が寄せられているが、大阪芸術大学の純丘曜彰教授の例のコラムの改稿前のものを長くなるが引用し、思うところを述べていきたい。
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/夢の作り手と買い手。そこに一線があるうちはいい。だが、彼らがいつまでもおとなしく夢の買い手のままの立場でいてくれる、などと思うのは、作り手の傲慢な思い上がりだろう。連中は、もとより学園祭体験を求めている。だからファンなのだ。そして、連中はいつか一線を越えて、作り手の領域に踏み込んでくる。/
あまりに痛ましい事件だ。だが、いつか起こると思っていた。予兆はあった。たとえば、16年の小金井事件。熱烈なファンが豹変し、本人を襲撃。アイドルやアニメは、そのマーケットがクリティカルな連中であるという自覚に欠けている。
もとはと言えば、1973年の手塚プロダクションの瓦解に始まる。同じころ、もう一方のアニメの雄、東映も労働争議で多くの人材を放出。かれらは、それぞれにスタジオを起こした。だが、これらのスタジオは、アニメの製作ノウハウはあっても、資金的な制作能力に欠けており、広告代理店やテレビ局の傘下に寄せ集められ、下請的な過労働が常態化していく。
そんな中で74年日曜夜に放送された『宇宙戦艦ヤマト』は、視聴率の低迷以前に予算管理と製作進行が破綻して打ち切り。にもかかわらず、時間帯を変えた再放送で人気を得て、77年に映画版として大成功。当初はSFブームと思われ、78年の『銀河鉄道999』や79年の『機動戦士ガンダム』が続いた。しかし、サンリオ資本のキティフィルムは、80年に薬師丸ひろ子主演で柳沢きみおのマンガ『翔んだカップル』を実写化し、SFではなく、その背景に共通しているジュブナイル、つまり中高生モノの手応えを感じており、81年、アニメに転じて『うる星やつら』を大成功させる。
このアニメの実際の製作を請け負っていたのが、手塚系のスタジオぴえろで、その応援として、同じ手塚系の京都アニメーションの前身が稼働し始める。そして、その後のアニメ業界の大勢の方向を決定づけたのが、84年、この監督だった押井守の映画版オリジナルストーリー『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』。SF色を取り入れた学園コメディで、学園祭の準備が楽しくて仕方ない宇宙人の女の子ラムの夢に世界が取り込まれ、その学園祭前日を延々と毎日、繰り返しているという話。
アニメには、砂絵からストップモーションまで、いろいろな手法があり、セル画式だけでも、『サザエさん』や『ドラえもん』のようなファミリーテレビ番組はもちろん、『ドラゴンボール』や『ワンピース』のような人気マンガを動かしたもの、『ベルサイユのばら』『セーラームーン』のような少女マンガ系、『風の谷のナウシカ』や『AKIRA』のようなディストピアSF、さらにはもっとタイトな大人向けのものもある。
にもかかわらず、京アニは、一貫して主力作品は学園物なのだ。それも、『ビューティフル・ドリーマー』の終わりなき日常というモティーフは、さまざまな作品に反復して登場する。たとえば、07年の『らき☆すた』の最終回第24話は、『BD』と同じ学園祭の前日。エンディングでは、あえて『BD』のテーマ曲を下手くそに歌っている。つまり、この作品では、この回に限らず、終わりなき日常に浸り続けるオタクのファンをあえて挑発するようなトゲがあちこちに隠されていた。しかし、「エンドレスエイト」として知られる09年の『涼宮ハルヒの憂鬱』2期第12話から19話までとなると、延々とほとんど同じ夏休みのエピソードが繰り返され、『BD』に悪酔いしたリメイクのような様相を呈する。
もっと言ってしまえば、京アニという製作会社が、終わりなき学園祭の前日を繰り返しているようなところだった。学園物、高校生のサークル物語、友だち話を作り、終わり無く次回作の公開に追われ続けてきた。内容が似たり寄ったりの繰り返しというだけでなく、そもそも創立から40年、経営者がずっと同じというのも、ある意味、呪われた夢のようだ。天性の善人とはいえ、社長の姿は、『BD』の「夢邪鬼」と重なる。そして、そうであれば、いつか「獏」がやってきて、夢を喰い潰すのは必然だった。
なぜ学園物が当たったのか。なぜそれがアニメの主流となったのか。中学高校は、日本人にとって、最大公約数の共通体験だからだ。入学式、修学旅行、学園祭、卒業式。教室、体育館、登下校。だが、実際のファンの中心は、中高生ではない。もっと上だ。学園物は、この中高の共通体験以上の自分の個人の人生が空っぽな者、いや、イジメや引きこもりで中高の一般的な共通体験さえも持つことができなかった者が、精神的に中高時代に留まり続けるよすがとなってしまっていた。それは、いい年をしたアイドルが、中高生マガイの制服を着て、初恋さえ手が届かなかったようなキモオタのアラサー、アラフォーのファンを誑かすのと似ている。
夢の作り手と買い手。そこに一線があるうちはいい。だが、彼らがいつまでもおとなしく夢の買い手のままの立場でいてくれる、などと思うのは、作り手の傲慢な思い上がりだろう。連中は、もとより学園祭体験を求めている。だからファンなのだ。グッズを買い集め、「聖地」を巡礼し、そして、連中はいつか一線を越えて、作り手の領域に踏み込んでくる。それが拒否されれば、連中がどう出るか、わかりそうなものだ。
『恋はデジャブ』(93)という映画がある。これもまた、同じ一日をループで繰り返しながら、主人公が精神的に成長するという物語。この話では、主人公だけでなく、周囲の人々も同じ一日を繰り返す。つまり、主人公の成長を待ってくれる。だが、映画と違って、現実は、そうはいかない。終わりの無い学園物のアニメにうつつを抜かしている間に、同級生は進学し、就職し、結婚し、子供を作り、人生を前に進めていく。記号化されたアニメの主人公は、のび太もカツオも、同じ失敗を繰り返しても、明日には明日がある。しかし、現実の人間は、老いてふけ、体力も気力も失われ、友人も知人も彼を見捨てて去り、支えてくれる親も死んでいく。こういう連中に残された最後の希望は、自分も永遠の夢の学園祭の準備の中に飛び込んで、その仲間になることだけ。
起業する、選挙に立候補する、アイドルやタレント、芸人になる、小説やマンガの賞に応募する、もしくは、大金持ちと結婚する。時代のせいか、本人のせいか、いずれにせよ、人生がうまくいかなかった連中は、その一発逆転を狙う。だが、彼らはあまりに長く、ありもしないふわふわした夢を見させられ過ぎた。だから、一発逆転も、また別の夢。かならず失敗する。そして、最後には逆恨み、逆切れ、周囲を道連れにした自殺テロ。
いくらファンが付き、いくら経営が安定するとしても、偽の夢を売って弱者や敗者を精神的に搾取し続け、自分たち自身もまたその夢の中毒に染まるなどというのは、麻薬の売人以下だ。まずは業界全体、作り手たち自身がいいかげん夢から覚め、ガキの学園祭の前日のような粗製濫造、間に合わせの自転車操業と決別し、しっかりと現実にツメを立てて、夢の終わりの大人の物語を示すこそが、同じ悲劇を繰り返さず、すべてを供養することになると思う。
まずはこの業界全体、作り手たち自身がいいかげん夢から覚め、ガキの学園祭の前日のような粗製濫造、間に合わせの自転車操業と決別する必要がある。もう学園祭は終わったのだ。休もう。番組も、映画も、穴を開けて休もう。あれだけの京アニの惨事を目の前にしながら、よりタイトな状況で黙々と規定の製作スケジュールをこなそうとしていることこそ、異常だ。こんなときくらい、京アニにかぎらず、業界の関連全社、いったん立ち止まって、仕事や待遇、業界のあり方、物語の方向性、ファンとの関係を見直し、あらためてしっかりと現実にツメを立てて、夢の終わりの大人の物語を示すこそが、同じ悲劇を繰り返さず、すべてを供養することになると思う。
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「京アニは学園ものだけ」という言説に対し、傷痍軍人の女性が戦後を生きる「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」の存在意義が改めて燦然と光り輝いているという事実。劇場版も企画されており以降もシリーズ化されればそれはもう「学園ものだけ」という批判にはあたらない、はずだったのだが…。
また京アニオリジナルの源流をたどればMUNTOという異世界ファンタジーもあり、今後何が飛び出すか、その可能性は無限に満ちていた。
日本のオタク作品の大半が確かに学園ものなのは事実であるが、それは世界観の説明が容易であること、多くの視聴者が経験していて没入しやすいこと、といったアドバンテージがある、いわば「手堅い」ジャンルゆえ。
京アニは決して裕福な会社であったとは言い切れないし、またアニメ業界自体流行り廃りが激しく、そんな中で一定の収益を手堅くあげる選択をとっても批判されるいわれはあるまい。
エンドレスエイトがいまだに物議を醸す存在であるのは事実だが、話題性が1期よりは希薄になりがちな2期ハルヒを「語る」上で大きな要素になっているという点では意義のある存在ともいえるのかもしれない。
終わりなき学園祭としてひとつの象徴となった「ビューティフル・ドリーマー」、
うる星やつらが漫画版で約9年、アニメ版で約5年もの長きに渡り「途切れることなく」続いた学園ものであった記憶もあって、ことにアニメに対して古い感性の人間ほど「終わりなき青春」を延々続ける印象もあるが、
近年の製作ペースは1クール12話、月にならせば3ヶ月ほどのスパンが基準で、シリーズが続いても2クールか長くても4クールあたりが殆どで、1年を通して続くことはもはや一部の例のみで、1クールないし2クールベースの途切れ途切れの発表ペースになっている。しかもうる星が3年を超えて学生生活を描き続けたのに対し、妥当な時間経過とともに終わり即ち「卒業」があるのも近年の特徴。
しかもアニメファンは常にコンテンツの新陳代謝にさらされる中で、コンテンツの完結を一区切りとして、同じ制作会社だからといって次に提示される新コンテンツを必ず追い続けてくれるとは限らない。
1期で好評だったシリーズ物の2期ですら、1期以上に人気を得るのは実際難しい。
そしてこの御仁が憂うまでもなくアニメ自体卒業していく人間も確かに存在する。
そういった熾烈なレッドオーシャンで波間の泡のように浮いては消えていくのがアニメ制作会社の非情なる現実。
そんな熾烈な世界にあって健気に誠実に作品を作り続け、また大きな落ち込みもなく良質な作品を供給できる会社を存続させてきた、業界の良心の要石のような会社が京アニであって、それはこういう批判の俎上に上げるべき存在ではそもそもない。
事件前からかねがね用意されていたであろう「ぼくのかんがえた日本アニメ概論」をここぞとばかりに持ってきたのだろうが、世界的に見ても比類なきほど理不尽な、そして悲惨な事件に対して論じるにはあまりにも適さない代物であったと言わざるを得ない。
このケースは犯人の特性も含めて極めて異常であり、安易な因果応報的論説にははめ込めないほどの歪さ不条理さがあるのだ。いやしくも大学教授を名乗る立場にふさわしくない浅薄さであったと言わざるを得ない。
この御仁が禄を食んでいる大阪芸大は早くからサブカルチャーに特化した今やオタク御用達の大学であり、辺境にありながら高い人気を持ち続けているのはそれ故もあるのに、そこからオタク批判をすること自体、あたかも親の庇護を受けながらヤンキーやってるイキリ中学生のようであり甚だ滑稽でしかない。
まぁ一方で確かにアニメ作りすぎなのは事実であるが、それは業界全体レベルの話であり京アニを論って言う話ではない。それは数を作らないと食えないという業界構造にこそ問題があり、是正されるべきものであるのは論を俟たない。だが、かつて勇名を馳せた会社ですら粗製乱造なものも見受けられる中、ひとつひとつの作品を売れる売れないに関わらず本当に誠実に作ってきた会社を取り上げて言うことではない。まして「麻薬の売人以下」とまで蔑まれるいわれはない。
あとアニメうる星はその後綺羅星の如く多くの俊英を生み育てる土壌になり、アニメ産業及びアニメ文化の嚆矢ともなったという意味で意義深い作品であり、とりわけビューティフル・ドリーマーはアニメ制作班の若き野心とオリジナリティに溢れた傑作であったことも付け加えておく。だがそれに内包されている批判精神は今や一周回って定番になってしまい、それをもってアニメ批判オタク批判をするには「今更感」で一杯で陳腐化していることも。
最後に
人的物的、そして心理的にも大きなダメージを負い再起すらも危ぶまれる中、これからの再起を表明した八田社長と京アニには、深い敬意を表しつつ、事件前に比肩する制作体制を整えるのはおそらくまだ時間がかかるであろうとも、その行く末を見守っていきたいし、微力であれ力添えもしていきたいものである。
そして、亡くなられた方のご冥福と、負傷された方のご快癒をお祈りしつつ、件のコラムのような浅はかな批判論を払拭する新たな可能性に満ちた作品群を期待したい。それがいつになろうとも。
「オタク」という呼称は70年代生まれと言われるけど、それ以前からもオタクに類する人はいたはずだ。
マニアとかフリークスと言った単語も、「躁状態」「中毒者」といった「病気」と見なすニュアンスがある。
しかし時代をさらに遡ると、創作物にハマったり道具を集めたりというのは金持ちの道楽ということになり、富の証とされていたのではないかとも伺える。
数寄者や好事家というような言葉は、どちらかといえばそのような意味で、茶道のようなハイカルチャーの愛好家や、学者といったようなニュアンスのようだ。
それに対して「オタク」という言葉が指すのは「大衆文化の熱狂的消費者」であり、「オタク差別」も大衆文化が花開いた以降の時代の産物と言えるだろう。
そして、「オタク差別」は度を過ぎた趣味人を揶揄するようなものではなく、「趣味のジャンルそのもの」に貴賤をつけるものであると定義できる。
その意味で、調べると明治の頃に郷土玩具を集めるブームがあり、その収集家は大きな子供という意味で「大供」と揶揄されたらしい。
更にさかのぼって江戸時代ならば、水野忠邦による「天保の改革」。あれはオタク差別の走りではないか。
目的は倹約による物価の引き下げだが、たとえば寄席では滑稽噺を禁止して教訓性の高いものだけ残すというような娯楽の峻別が行われており、
物語シリーズで有名な西尾維新の原作を、シュタインズゲートなどで知られるWHITE FOXがアニメ化。
刀を使わない剣術、「虚刀流」の七代目当主である鑢七花が、幕府の命を受けた奇策士とがめと共に12本の「変体刀」を集める旅に出るというストーリー。
最初の放映された時は月に一回というアニメ史上でも珍しい放送形態だった。
それだけ時間をかけていることもあってか激しいアクションもハードなシナリオも丁寧な作り。
個性豊かな変体刀とその所有者や、愛すべき噛ませ役の真庭忍軍などのキャラクターも魅力的。
和柄のような画面も鮮やかで美しい。
個人的に西尾維新やライトノベルはあまり好きではないが、これは楽しく見れたので、そういう人にもおすすめしたい。
原作は劇団☆新感線による日本の演劇作品。作はアニメではグレンラガンのシリーズ構成などで知られる中島かずき。
アニメの制作はマッドハウスで、監督はハガレン一期やガンダム00の水島清二。
しかし圧政の中でも大きな夢を見る力強い庶民の人情物語であり、そういう意味では通ずるところもあるかも。
江戸時代、天保の改革によって質素倹約を強いられる中、もう一度でっかい花火をあげることを夢見る花火職人の玉屋清吉が、
宇宙からやってきた謎の少女ソラに依頼され長屋の仲間と協力して月まで届くロケットを作る……という物語。
基本的にコメディなノリで、江戸時代にはあり得ないような物や、パロディやメタネタも多々登場するが、江戸の生活の細かいところは妙に忠実な描写がでてきたりする。
みなもと太郎、椎名高志、竹田団吾などが手がけた、大分絵柄の違うキャラクターが一同に画面に登場するのも面白い、
昨年倒産したマングローブ制作のオリジナルアニメ。監督はカウボーイビバップなどの渡辺信一郎。
向日葵の匂いのする侍を探すフウが、粗暴な琉球出身の剣士ムゲンと、クールで謎多き流浪の剣士ジンと共に、その侍を探す旅に出る話。
舞台は江戸時代だが若者言葉やヒップホップカルチャーが「チャンプルー(混ぜこぜ)」になった独特の世界観。
基本的に一話完結で、余韻の残るほろ苦いストーリーが魅力。一方大麻回や野球回などのバカバカしい話も面白い。
刀語もそうだが、時代劇であると共にロードムービー的な面白さもある。
言わずと知れた忍たまの劇場版。監督は「おまえうまそうだな」や「トライブクルクル」の監督であり、アニメーターとしても有名な藤森雅也。
おなじみ忍術学園の面々が、戦に挟まれ危機に瀕する村を助けると言うあらすじ。
おなじみと書いたが自分が忍たまを見ていた頃より大分キャラが増えており、大半は知らない連中だったが、関係なく楽しく見れた。
子供向けアニメで時代劇映画の名作と言えばクレヨンしんちゃんのアッパレ! 戦国大合戦があるが、戦の描写はあれに迫るリアリティがある。
特に戦の背後にある政治、情報戦の描写は忍者の名に恥じないガチっぷりである。
ふわっとした正義や愛でなく、生活と権利を守る為の戦であったり、乱太郎が集団の中で自分の役割を見つける物語であったり、お子の情操教育にもよろしいのではなかろうか。