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小山田 信茂(おやまだ のぶしげ)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏の家臣で譜代家老衆。甲斐東部郡内領の国衆。武田二十四将の一人に数えられる。
信茂の勝頼離反から滅亡
天正9年12月、織田信長・徳川家康は武田領攻めを開始し(甲州征伐。総大将織田信忠、副将滝川一益)、信濃木曽郡の国衆・木曾義昌が離反する。また、これに伴い相模の後北条氏も武田領への侵攻を開始した。義昌の離反を契機に信濃領国は動揺し、翌天正10年(1582年)2月2日に勝頼は信濃諏訪上原(長野県茅野市)に出兵し、『甲乱記』に拠れば信茂もこれに従ったという。2月29日に織田信忠は伊那郡高遠城の仁科盛信(信盛)を攻め、信忠は矢文で盛信に降伏を促し、信茂らが勝頼から離反したと伝えているが、この段階で信茂が勝頼から離反していることは虚報であると指摘されている[15]。
勝頼は天正9年に新府城(山梨県韮崎市)を新たに築城し甲府から本拠を移転しており、『信長公記』によれば同年3月3日に勝頼は新府城を放棄し、小山田氏の郡内へ逃れたという。『甲陽軍鑑』によれば勝頼嫡男の信勝は新府城における籠城を主張したが、これに対して信濃の国衆・真田昌幸が上野岩櫃城(群馬県東吾妻町)への退避を提案した。しかし勝頼側近の長坂光堅が小山田を頼り郡内の岩殿城(大月市賑岡町)へ逃れることを主張したという。一方、『甲乱記』では信勝や昌幸の提案を記さず、勝頼が信茂に対し郡内への退避を諮問したとしている。
なお、岩殿城は小山田氏の詰城とされているが、小山田氏の本拠である谷村城(都留市谷村城)からは距離があることから、岩殿城を小山田氏の城とするか武田氏の城とするかで議論がある[16]。なお、天正9年3月20日に岩殿城へ武田勝頼が在番衆を派遣している事実も注目されている[17]。
武田勝頼一行が郡内領へ退避するさなか信茂は勝頼から離反。勝頼は田野(甲州市大和町)において織田方の滝川一益の軍勢と戦い、武田宗家は滅亡した(天目山の戦い)。
信茂離反に関して、武田側の史料では、まず『甲陽軍鑑』に拠れば勝頼一行は郡内領への入り口である鶴瀬(甲州市大和町)において7日間逗留し信茂の迎えを待っていたが、3月9日夜に信茂は郡内領への道を封鎖し、勝頼一行に対して木戸から郡内への退避を呼びかけると見せかけ、信茂の従兄弟・小山田八左衛門と勝頼の従兄弟・武田信堯(のぶたか)が信茂の人質を郡内へ退避させ、信茂は勝頼一行に虎口から鉄砲を放ったという。信堯は正室が御宿友綱の妹で、信茂とは相婿の関係にある。なお、『武田三代軍記』『理慶尼記』でも同様の話を記し、『理慶尼記』では信茂の離反を7日の出来事とし、信茂が郡内への入り口を封鎖した地を笹子峠(大月市・甲州市)としている。一方、『甲乱記』では信茂離反の日付を記さず、勝頼は柏尾(甲州市勝沼町)において信茂を待ち、駒飼(甲州市大和町)に移動したところで信茂の離反を知ったとしている。
甲斐善光寺
一方、織田・徳川方の史料として、『信長公記』では勝頼は小山田の館まで辿り着いたが、信茂は勝頼の使者をはねつけたと簡潔に記している。『三河物語』では小山田八左衛門が登場し、勝頼が郡内領へ逃れる途中に小山田八左衛門を信茂のもとに派遣したが帰還せず、信茂離反を知ったという。
織田氏・徳川氏勢により甲斐が平定された後、信茂は嫡男を人質として差し出すために信長に拝謁しようとしたが、織田信忠から武田氏への不忠を咎められ処刑された。
『信長公記』では3月7日条に成敗した「小山田出羽守(信茂)」の名を記し、『甲陽軍鑑』では武田信堯や小山田八左衛門らの名も記している。一方、『甲乱記』、『甲斐国志』に拠れば、3月24日、甲斐善光寺で嫡男、老母、妻、女子とともに処刑されたという。享年44。長生寺『月日過去帳』・森嶋本『甲斐国志草稿』に記される伝存しない同寺所蔵の位牌によれば戒名は「青雲院殿武山長文居士」。信茂の命日は『甲乱記』、長生寺『月日過去帳』に「24日」と記され、『甲乱記』では3月11日の勝頼自害から13日後としている。
武田家において信玄の「弓矢の御談合七人衆」に両職の山県・馬場ら重臣と共に名を列ねている。
武田の小男と恐れられた山県昌景に「若手では小山田信茂、文武相調ひたる人物はほかにいない」と評される。
設楽ヶ原の戦いにおいては、早々に撤退して戦線を崩した武田信廉・穴山信君ら一門衆とは反対に、山県昌景隊の後備として最前線で戦い続けている。
鉄道唱歌(作詞:福山寿久)には「川を隔てて聳ゆるは 岩殿山の古城蹟 主君に叛きし奸党の 骨また朽ちて風寒し」と詠われており[20]、小山田信茂は「奸党」とまで蔑まれている。
茅野市民館の平面図を見て、併せて「市民館管理運営計画」を走り読みして推察してみた。間違ってたらごめんなさい。
組織計画の基本方針で「3部門」=ホール機能、美術館機能、コミュニティ機能が挙げられており、図書室は挙げられていない(設計概要の建築用途には図書室の記載あり)。
美術館部門には、付属する収蔵庫があり、展示室と同じくらいの面積が確保され、コンクリートらしき壁で閉鎖されている。対して、近い機能が求められる閉架式書庫は(作ろうと思えば可能だったはずが)見当たらない。
普通の図書館では、日焼けや虫食いを避ける貴重本は閉架式の書庫で保存し、貸し出しも制限される。また開架式の書庫でも、閲覧ゾーンは日当たりの良い窓辺に計画されることも多いが、本棚自体は空間の中央付近に固められるのが一般的。
美術館には収蔵庫という似たような機能の設備を付属させたのに、図書室にまともな書庫が見当たらないのは、発注者・設計者とも書庫は不要だと判断したと考えられる。というか、そもそも図書館を造るつもりが無かったのだと。
図書「館」の機能:収集・整理・保存・提供のうち、ココの図書室では提供だけが行われている、つまり図書「館」の機能は当初から求められていないと考えられる。ガラスの箱の部屋に本棚を作っている時点で、図書館としての保存機能は切り捨てたのだろう。
開かれたコミュニティを目指し、開放感のあるガラスの箱が造られ、その中で本に自由に触れられるスペース=図書室が設けられた、と考えるべき。
当時まだ出来立てだったこの図書コーナー(図書館って感じではなかったので自分はこう思ってた)によく行ってた
近くの大学に通ってたんだけど友達ができなくて、大学内の図書館にいてもよかったんだけど1人でいるのを見られたくなかったからわざわざ車でここまで来てた
開放感あるし、近くにご飯食べられるところもあるし、平日の昼間なら人もそんなに居ないしで居心地よかったな
レポートとかもよくここで書いてた
あー懐かしい
写真一枚で色々思い出すもんだな
大学生活は友達ができなくて苦しかったけど、こういう1人で心地よくいられるスポットを探すのか上手くなったのは良かったかもしれない
ただの思い出書き出し
やってないだろ。
漠然と「心地良い」「愛されている」とか言うくらいで
「受験生や市民が多く利用している」「自分の家の様な気持ちになれる空間を提供してくれる」
このあたりも「この建物ならではの魅力」をまったく言えていない。
やはり主観的でまったく参考にならない。
茅野市民館の本の背が退色するとかで騒いでるけどさ
どうも納得行かないんだよな。
紙の本なんて消耗品やん。
あえて「日本人は」って言うけど
日本人、消耗品をめちゃくちゃ大事に大事にしまっておいて死蔵してほぼ誰も使わないみたいなムーブ好きすぎ。
いや、そういう扱いしたほうが良い本があるのはわかるよ?
でもそれより、有限の寿命の中で沢山の人間の目に届くのが役目っていうこともあるだろ?
出羽守扱いされるかもしれんけど
ヨーロッパだとペーパーバックの本とか、めちゃめちゃ扱い雑に、無造作に公共圏においてあったりする。
でもそうすることでより多くの人間が本に触れられるっていう面はある。
例えば(本を読んだ人数)=(本の耐用年数)*(本を手に取る機会)を最大化したいと思えば
茅野市民館について、確かに本の背が焼けてしまうような場所に本棚を設置したのは完全に設計ミスで、配慮すべき問題だったとは思う。でもそれをもって、はてなでもTwitter上でも「だから建築家はダメなんだ」「建築家なんてオナニーばかりしてる傲慢な奴らは消えろ」「プロとして失格」と鬼の首でも取ったかのように建築家叩き(この設計者だけではなく、建築家という職業叩き)が行われているのを見て、近所に住むものとしてすごくモヤッとした気持ちになった。
茅野市民館は、建築家がオナニーで建てた建物じゃない。基本構想策定の段階から茅野市民が携わり、市民と何度も何度もワークショップを重ねて出来た建物だ。https://www.city.chino.lg.jp/soshiki/shogaigakushu/899.html
市民がどのような場所が欲しいのかを一緒に考えただけあって、地元ではきちんと愛用されている建物になっているし、実際私もすごく心地いい空間だと感じる。近所にこんな建物があってよかったなと思っている。
「受験生や市民が多く利用している」「自分の家の様な気持ちになれる空間を提供してくれる」
「市民が憩いやすい環境を整えて、多くの学生が勉強に励む姿も見られる」「地域の集まる場所として良く考えられている」
「地域住民の創意をなるべく回収/発露させる場となっている」「図書館ライブラリーは最高です。半日は過ごせます。」
「随所に、茅野市は芸術文化に前向きだというメッセージを感じる建物だと思う」
と、この建物についてポジティブに捉える人の声がたくさん集まっている。私の周りでも市民館を利用する人は多い。これは設計者の「この建物を地域の人が交流する場にしたい」という思いが見事に機能した結果だと思う。
もちろんレビューの中には「本の背が焼けている」「西日が強すぎで図書スペースは春先ですでに暑い」というネガティブな声もあるし、その部分についてはさらなる考慮が必要だったと思う。確かに館内が暑いなと感じる日もある。でも、その一点のみを取り上げて「これだから建築家は」と断罪するのが果たして好ましいことなのだろうか。みんなに利用される交流の場としてきちんと機能するものを作った、地域に愛されるものを作ったという点だってきちんと評価されるべきなのではと思ってしまうのは、おかしいことなのだろうか。なにより自分が好きで愛用している建物や、それを考えた建築家がクソ味噌に言われるのがこんなに悲しいとは思わなかった。
本を守るという機能面だけを考えたら、行政が一方的に計画しゼネコンに投げただけの建物の方がずっと好ましいのかもしれない。でもそうやって出来た建物に、このgoogleレビューのような声が集まるだろうか。なにより地域住民に愛される建物になりうるのだろうか。私は建築家が必要な理由は、時に哲学的に、人が建物の中でどのように過ごし、どのような交流を発生させるかを考えることができるからだと思っている。建築家と言うと外側のデザインを考える人みたいなイメージがあって、実際そういう人も多くいるとは思うんだけど、優れた建築家ってどちらかと言うと建物を利用する人の動きをしっかり考えられる人なんじゃないかと思っている。ただ機能を整えることの先に、人が建物に触発されて新しい何かが始まる...そんなことを考えることが出来るからこそ、建築家という職業に価値があるんだと思う。
ここまで建築家が叩かれるのって、これまで好き勝手やってきた人達がいたことの蓄積があるんだろうなと思うし、実際建築家業界での馴れ合いや選民意識みたいなのもあるからなんだろう。そういうのと今回のような分かりやすい失敗がかけ合わさって、建築家全員死ねみたいな空気が作られてしまうんだろうけど、私は目に見えない豊かさを提供してくれる(こともある)建築が好きだし、そういう価値がより理解される世の中になって欲しいと思う。そのためにも建築家の人は反省するところは反省して欲しいし、私たちも分かりやすい点だけで建築家を一方的に叩くことはやめていけたらいいなと思う。ダメなところはダメと言い、いいところはいいと言う。そうやって世の中を豊かにしていけたらいいのに。