はてなキーワード: ながら見とは
よく考えたらアニメの画面だけに集中して見るってことがないことに気づいた
基本家事とかなんか作業してる時にしかアニメは見なくて、作業の方に意識がいって音しか聞いてない時もある
だから作画崩壊がどうとかそういう話題もついてけないし(そんなに集中して画面見てない)、テレビ持ってないからアニメは動画配信サービス使ってパソコンかタブレットか古いスマホでそれも通信量節約したくて画質落として小さい画面で見てるし(よく引っ越すから光じゃなくてWiMAXなんだけど3日で10GB制限はクソ)
アニメ映画とか普通の映画なら部屋暗くして画面だけに集中して高画質・大画面で見ることもたまーにあるけど、アニメにはそういう気にならない
それでもたまにアニメ見て泣いたりすることはあるし、常に適当に見てるわけじゃないけど(最近は電脳コイルを見直して最終話で案の定涙ボロボロ出た)
なんかこうやって書き出して見ると普通のアニメ好きな人に比べたら自分はアニメに対して真剣味に欠けるというか、ほとんど作業BGMみたいな扱いしてるからアニメそこそこ好きとか言っちゃいけない気がしてきた
もちろんそれも見たかったが、その世界線が今よりもよかったとは一概には思わない。
視聴者に媚びていく姿勢はハルヒの反骨精神に反するもので、ただでさえブームが終わりかけている作品に一層の陳腐化や、現在一部で行われているような「売れただけで実のところ目新しくもないありふれた作品」という過小評価を招く危険もあっただろう。
一期ほど売れてないから二期失敗とか決めつける人がいるが、絶対数から言えば決してそんなことはない。エンドレスエイトはうんざりしながら見たし、「溜息」もいわゆる鬱展開的なやつなんだがハルヒ一期から深夜アニメに入った自分はここでそういうアニメの楽しみ方を知れたと思っている(そもそも一期からしてそんな明るく楽しい感じの話ではない、コメディ調だがタイトルからして「憂鬱」だし、ハルヒの根源にはモラトリアムの鬱屈がある)。
違法動画が流行った一期であったが、二期に関してはYouTubeで一週間無料の公式チャンネル配信がなされ、アニメのネット配信の先駆けになったという点も再評価されて欲しい。
ラジオ「Session-22」書き起こし。https://www.tbsradio.jp/319359
"大学生のデート経験率は過去最低" 草食化とも報道された「青少年の性行動全国調査」その結果から読み取れる本当に大事な事とは?
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南部広美:
先月、若者の性行動や性に関する意識を調査する青少年の性行動全国調査の結果が公表されました。
この調査は日本性教育協会が1974年からおよそ6年に一回行っているもので、8回目となる今回は去年、全国の中高生と大学生合わせて13000人ほどを対象に本人が記入する方式で実施しました。
今回の調査では、デートを経験したことがある大学生の割合は男子が71.8%、女子は69.3%でいずれも過去最低に。また性交の経験もピーク時の2000年代半ばに比べ大幅に減少していて、大学生の男子で47%、女子は36.7%でした。
この結果を受けて草食化が進むと報じたメディアもある一方で、調査の結果を見てみますと中学生のデート経験は男女ともに過去最高で、日本性教育協会では性に積極的な層とそうではない層の分極化が進んでいると分析しています。
今夜は調査委員会の委員として青少年の性行動全国調査に携わった社会学者の永田夏来さんをお迎えして、この調査結果から読み取るべき本当に大事なこと、そして今後の社会的なアクションについても考えていきたいと思います。
荻上チキ:
このように同じような項目について長年取り続ける調査というものは、社会の変化を浮き彫りにする上でとても重要であると同時に、いろんな社会政策の提言とか社会教育のポイントとかそんなことまで浮き彫りにしてくれるものなんですね。
だから今回の性に関する調査ではあるんですけれども、性を通じて社会が見えてくるという点もありますし、性を通じて課題が見えてくるという点もあります。なので、今回はどんな調査結果になっているかということに加えて、その報じられ方の問題や、一方で具体的なデータの読み解き方、そして課題、そのあたりをですね、今日は伺っていきたいと思います。
南部:
改めまして社会学者で兵庫教育大学大学院学校教育研究科講師の永田夏来さんです。
永田夏来:
荻上:
永田:
とっても楽しかったです。ありがとうございます。
荻上:
改めてなんですけれども、この調査というのは一体どういった調査なんですか?
永田:
この調査は、1974年から6年おきに全国の中学生高校生大学生を対象にしている、継続的な調査というところが一番のポイントですね。
継続調査であるということはどういうことかというと、調査項目を基本的に変えないっていうことです。相手は入れ替わっているんですけれども、同じ項目について、同じ訊き方で、同じ手法で、同じ選び方で訊いているので、社会の変化を見ていくっていうことを前提にした調査になっているっていうところが一番の特徴になりますね。
荻上:
最初の設計が当然大事になってくるというのはもちろんのこと、たとえば同じ調査項目でただ変化しただけでなくて、もしかしたら答える側の解釈が変わってくるかもしれないとか、単にデータの結果を文字どおりに読むわけではなくてテクニックが必要になってくるというのが、こうした継続調査の難しさでもあり面白さでもありますよね。その中で永田さん、今回の調査ではどういった役割をされたんですか?
永田:
今回は代表でお話しますけど、もちろん分析も含めてチームでやってるっていうのが大前提ですね。私も基本は家族社会学で若者の恋愛、妊娠、結婚、出産ぐらいのところを専門にしてますが、私以上に学校教育について詳しい方であるだとか、階層研究について詳しい方であるだとか、いろんな立場の研究者が集まってそれぞれの知恵を出し合って分析しているっていうことになります。
荻上:
永田:
そうです。
私がやった事っていうのは、その調査の設計、それから実査、それから分析ですね。入力なんかは他の研究分担者がやってくれてますけれども。
この調査、実査が非常に面白くて、実際に学校に行ってやるんですよ。
この間このニュースを22日ですか、木曜日のデイリーニュースセッションで取り上げて頂いた時に、ツイッターのハッシュタグ見てたら「どれぐらいちゃんと答えてるんだろう」って。
「なんか性行動の話とかちょっと答えにくいじゃない」「サバ読んで答えてるんじゃないの?」みたいなことがツイッターで議論になってて、そうだよね、って思いながら見てたんですけど、自分で書いてもらってるっていうのがこの調査の特徴です。
実査は学校に行って、学校の教室でやるんですけど、ちょっと席を空けてもらって、見えないようにして、封筒に入れて配布し、自分で書いて封筒に入れて回収すると。完全に匿名ですね。
学校の先生も基本教室から出てもらってますので、そこまで行ってサバ読まれたらしょうがないけど、極力サバを読まなくても大丈夫な工夫はかなりしているっていう自負はありますね。
荻上:
研究として論文にするための手続き、最低限これくらいしなきゃいけないっていうものがあるわけですけれども、そうしたことを行いながらしかも同じ方法で続けているということなので、それでどう変化するのかが見えてくるわけですね。
この研究の意義は、僕なりに解釈したものはさっき言ってみましたけれども、永田さんはこの研究の意義をどうお感じになりますか?
永田:
継続調査であることの意義は何なのかって言うとそれは時代効果、加齢効果、コーホート効果っていうふうに我々社会学者は言うんですが、この三つを分けることが可能だっていうのが継続調査の一番の強みなんですよ。
時代が変わったことによって生じる変化、たとえば携帯電話の利用率なんかそうですよね?携帯が普及すると年齢かかわらず全員が使うようになった、これが時代効果です。
それと加齢効果っていうのは、例えば通院の頻度とか。歳取ったら、どんな時代に生きている人であっても病院に歳とともに行くようになるとか。そういうのは時代関係ない年齢による効果ですよね。
それともう一つがコーホート効果。それはどんな世代によっていろんな経験の仕方や社会的背景が違うから行動に変化が出てくるコーホート効果。
この三つを分けることが可能だっていうのが継続調査の一番の強みなんですよ。
そこをどういう風に見ていくのかっていうことで議論ができるっていうところが、一番のおもしろさかなという風に思いますね。
荻上:
例えば、よく若者の政治離れ、みたいなことを言われたりするわけですけれども、今の三つの分類で言うと、本当に政治離れしてるのか?
どの世代も若者の時が一番政治離れはしてるわけだけれども、だけど二十代三十代四十代と歳を重ねていくにつれて投票に行くようになったり支持政党ができてきたりということを経験していくと。
だからこれがその世代独特のものなのか、それともこれからもずっとそうなのかというのは、加齢効果なのか、コーホート効果なのか、時代効果なのか、追って行かないと分かんない点もあるので、一個のデータだけ、その年のデータだけでは解釈できないものもたくさんあるんですよ。
永田:
そうなんですよね。その辺をやっぱりしっかり議論していくっていうことにつなげていくというところが一番の継続調査の強みかな、って私は考えてますね。
荻上:
そうした中で若者の性行動調査、ということなんですが、今回その結果が一部メディアで、6年前もそうだったと思うんですけど「草食化が進んでる」というワードで報じられたりもしていましたが、実はこの調査、数多く行われている調査で、性行動だけじゃなくていろんな調査が行われているんですよね。プラス、分析の仕方も色々あるんですけれども、まず草食化という括りと、そこが注目されることについてはどうお感じになりますか?
永田:
そうですね、あのね、若者の調査って割とそうなんですけど、レッテル貼りたがるっていうのがあるんですよね。
特に、大人にとって若者はこんな何か変わったことをしているとか、逸脱行動に走っているとか、そういうふうに、若者は変だよっていう風な話を作りたがっててるっていうのがそもそもメディアの状況として若者研究でも指摘されてるんですけど。
荻上:
ゆとり世代だとか、さとり世代だとか、お金がなくてもなんか絶望してないヤツらだとか……
永田:
そういう風なレッテル貼りに使われるんじゃないのかな、というのが一番危惧しているところです。
草食化というと草食系男子みたいに思いがちなんですけど、実際このあとデータ見ていくと思うんですけど、経験率下がっているのは女子の経験率が下がってるっていうのもあるんで、なんか単純に草食化って言われて勝手に皆さん想像されたら困るっていうことありますし、より正確なところは分極化、先ほどお話あったようにバラエティに富んできているというのが正確なところなので、そこをきちんと理解していただいた方が、社会の見取り図としては正確になるよねと思ってますね。
荻上:
今の言葉の「分極化」なんですけども、これ「二極化」ではないんですか?
永田:
ポーラライザーションの訳なんですよ。二極化と言ってもいいんですけど、分極化っていうことで意味されるのは、全然違う要素が同時に起きてるっていうことなんですよ。二極化って言うと、パカっと二つに分かれるって感じなんですけど。
荻上:
二極化のイメージは格差、分断、すごくコミットする人そうじゃない人に分かれる、みたいなイメージありますけど、分極ってもっとこうぐねぐねして、いろんな人たちがいますよねというようなものが、なんとなくでもこういった集団、こういった集団という風に見えてくるようなもの……
永田:
という感じです。
なので二つにパカっと分かれるわけではないというところがこの含意になりますね。
荻上:
今日はですね、統計、読み解き講座も兼ねられるような構成にしていますので、まず肝心のデータを見ていきたいと思います。
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ラジオ「Session-22」書き起こし。https://www.tbsradio.jp/319359
"大学生のデート経験率は過去最低" 草食化とも報道された「青少年の性行動全国調査」その結果から読み取れる本当に大事な事とは?
M-1は最近あんまり見てなかった。テレビはスマホを見ながらのながら見がほとんどで、緊張感を持って漫才を見るのがなんだかしんどくて。
でも今年は見ることにした。塙と富澤が審査員だったから。塙が好きなんだ。富澤も結構好き。
全体的に面白かったし、最後はジャルジャルが優勝してほしかったなーとは思ったけども、納得のいく結末でした。
でも昔のM-1の方が面白かったと思って。アンタッチャブルとかチュートリアルとかオードリーとか腹抱えって笑った覚えがあるけど、今回はそんなこともなく。
でも、そう感じるのは自分が歳をとったからだと思われる。高校〜大学くらいの頃って本当に箸が転がっても笑えたからな。漫才というものを見慣れてしまったのも原因なんでしょう。
近所の商店に見慣れない箱(高さ 1.5m弱)が置いてあった。
通りながら見るでもなく目に入った文字が「スマホ」「クリーニング」だった。
なんとなく、勝手に「ふーん、スマホをキレイにしてくれるのかなー」と思っていた。
そして今日。興味本位でその機械を使ってみようかなと思って、その店に行った。
しかしスマホクリーニングじゃなくて、(衣類の)クリーニングのためのロッカーだった。
そこに預けておくとクリーニングして返しておいてくれるのだそうだ。(スマホアプリが鍵になっていて、自分だけが取り出せる)
参考になるか知らないが、適当に綴ることにする。
3歳になっても言語を全く話せず、クレーン動作を始めとした典型的な自閉症状を示していたため、児童センターを介して専門機関で受診したところ、聴力も問題なく知的障害(自閉症)との確定診断。
応募した私立保育園には全て断られたものの、自宅から少し離れた市立保育園へ無事入園。
「知的障害児」ということで、ほぼ専任のような保育士さんを増員していただき、時々奇声を上げて脱出を企むながらも、最後まで追い出されることなく何とか卒園。
保育園の間は、ずっと会話は不成立。
3歳でビデオデッキの操作(VHSカセットの交換・スロー再生・逆再生等々)をマスターしていたものの、毎日テレビの前でビデオ操作しながら、全く同じシーンを延々繰り返しながら奇声を上げて踊ってる有様。
確か「お母さんと一緒」のビデオだったと思いますが、キメのポーズのところで一緒にキメて、そりゃ見てて可愛いわけですが、親からの会話は理解できていない。
テレビに映った、いわゆる芸人さんの笑いを(意味も分かってないくせに)オウム返しし始めたあたりで、これはヤバいと感じ、(当人は知らない)裏のコンセントをコッソリ抜いて「テレビさん壊れちゃったみたい」ってやってやりました。
しばらくは寂しそうにしていたのですが、何ヶ月かしたら、直ったか試すこともしなくなったので、未練がなくなったのだろうとテレビごと廃棄。
たしか4歳か5歳の頃だったと思いますが、この時から自宅からテレビがなくなりラジオだけの生活になりました。寝る時に子守歌かわりの童謡のCDを流す習慣にしていたのですが、高校1年くらいまでは寝る時に自分で操作して鳴らしてましたね。(ずっと川の字です)
テレビがなくなると空いた時間を埋めるべく、絵本をめくったり、オモチャを手にしたり、パソコンに興味を示したりするようになりました。テレビは捨てて正解だったと今でも確信しています。(モニターでDVDは視聴可)
発語はあるが会話は成立しないのですから、小学校は当然にしてストレートで特別支援学級です。
集団登校には親の同伴を求められたので、6年間ずっと同伴通学でした。(とは言え、後半は列の後方から見守る程度ですが)
「環境の変化」と「予想しない事態」に極度のストレスを感じるのが自閉症児の特徴なのですが、特別支援学級の1年生~5年生まで、担当教諭の異動がなかったことが幸運。安心すると精神状態が落ち着くんですね。
特別支援学級の教諭って、ナニかワケありで左遷ポストみたいな雰囲気があると思うんですが、1年生~5年生まで担当して下さった教諭は全く違ってました。
言葉で書き尽くせないのですが、自閉症児では健常児以上に苦手なところが多いのですが、無理矢理に克服させようと正面突破させるのでなく、苦手なところを避けて歩く方法みたいなことを息子に伝授してくれたように感じます。
予期しないことが起きるとパニックに陥って奇行が始まるのですが、先に予定が分かっていて、その予定どおりに進行すればパニックは起きにくく、そういう特性を最初から見抜いて下さって、本当に上手に導いて下さいました。
伊藤先生、今でも感謝しきりです。(年賀状は欠かさず(息子に)出させてます)
息子にはとにかく外界からの刺激が必要だと思って、ほぼ毎週、公園だの何だの、とにかく外へ連れ出しました。200キロの距離にある実家へは毎月通ったり、とにかく土日2日とも家に籠もっていたことは年に数えるほどだろ、という位に連れ出しました。
電車が好きだったので、環状線一周(全ての駅で降りて看板と写真を撮る)みたいな、そんなオタッキーなこと喜ぶ児童がいるのか?みたいなことやってました。時効だから打ち明けますが、1区分の切符でずいぶんと遠回りさせて頂いたこともあります。
地名や駅名とかはすぐに覚えましたね。
実家へは(下道で行くと)幾つものトンネルをくぐるのですが「このトンネルが最後」みたいなこと言ったり、いついつにこういうことがあった、みたいな何年も前のことを年月日まで揃えて呟いたり、とにかく記憶力だけは半端ない。
ちなみに息子と年子の妹(健常児)がいるのですが、彼女の存在も大きかったように思います。友だちのいない息子にとって、唯一の同年代の子どもが妹だったのですから。
特に小さい頃の妹は兄の障害のことが分からないので、時々は手を繋いだり引っ張ったり(兄のほうは照れて逃げ回ったり)、それはそれは友だちのように接してくれたのですから。
家族での外出のほか、JRが沿線で企画するウォーキングに猛烈に参加しました。
参加するとスタンプが貰えるのですが、有効期限内にフルコンプリートして最上位の景品を貰えるくらい、1級障害者じゃないので運賃は安くならず、相当お金はかかりましたが。
他の子達と同様、かならず電車の最前列に張り付いて、運転手さんの呟き(点呼)をオウム返し。運転席に手が届くような、どこぞの超ローカル線に乗った時は、運転手さんが息子の点呼(出発シンコー)に合わせてマスコン操作してくれたりで、電車が大好きになったようです。
あと英語のナレーションも覚えたみたいで、英語が流れないローカル線でも自分で英語で This train ・・・ Bound for ××× Thank you! って大きな声で「通訳」すると、周囲の大人が褒めるもんだから、より調子に乗って・・・みたいな。
10キロとかの健脚向けコースに参加しているときなんかは、おばちゃん達が「小さいのに偉いねぇ~」って飴ちゃんくれたりするものの、会話が成立しない(がんばって1往復)うえに当人は飴なるものを口に入れたがらず。
食へのこだわりが強烈で、少しでも怪しいものは決して口に運びません。妥協なんてありえないのです。
ヤフーキッズをブラウザのデフォルトにしたのと、使用時間に制限(夜の9時だかを超えると使えなくなる)したくらいで、基本的にノンフィルターで使いたいように使わせました。
パスワードはかけてなかった(息子も自分でかけようとしなかった)ので、時々何をしてるか監査してましたが、Youtube で馬鹿な映像を見てるほかは名探偵コナンを追いかけてる風。あとドラえもんとプリキュア(笑)
年頃の男の子が興味を示すサイトへは立ち寄った形跡もなし。アニメや芸能関係の Wikipedia の更新もやってたみたい。
基本的には「泳がせながら監査」という状態を続けましたが、ずっとパソコンで遊べるわけじゃありません。
時々妹がやってきて「私もパソコンを使いたい」って言う話になれば、兄に勝ち目はないので、みすみすパソコンを奪われることに。
まぁずっとパソコン漬けはよくないし、時々はパソコンを奪われたほうがいい(占有じゃなくて分け合う)と思うので、パソコンを追加することなく喧嘩させる選択(妹相手に喧嘩の練習をしておけ、と)
3年生か4年生くらいになると、少しずつ会話が成立し始めました。
その奇行ゆえ、運動会では常に、どんな遠くからであっても、あれが自分の息子だ、って識別できていたのですが、5年生の運動会くらいからでしょうか、一生懸命に探さないと見つけれなくなりました。
小学校の入学当初は「修学旅行へは親さんも同行してもらうことになりますから(同行できないなら修学旅行は無理です)」って言われていたのですが、伊藤先生の後任の女性教諭も「大丈夫でしょう」と。
無事に一人で(同級生と)行ってきました。
プラスチックの刀を土産に買って帰ってきましたが、どこが気に入ったのか今でも理解不能。
養護教諭のフォローなしに壇上で卒業証書を受け取る息子を見て涙が出ました。
奇行も減って落ち着いてきたので、普通学級でも辛うじて何とかなるかも?って言われつつも、他の生徒さんに迷惑がかかるといけないと思い特別支援学級を希望。
2人の学級で、これまでは異学年の混合授業だったのが、初めての同級生が出来ました。
しかも女の子! だけど家庭の事情(引っ越し)で1年で転校して行ってしまいましたが、別れの日は私物を整理して親と一緒に帰る時間に見送りに行ったようです。買って持たせた花束の中に、コッソリ前年の年賀状の余り(自宅の住所が印刷されている)を忍ばせておいたのは私なのですが、お礼状と共に今でも年賀状の往復だけ続いています。
その子もワケありなんだけど、息子とは特性が違う(不得意分野が違う)ので、嫁さんになってくれるといいんだけどなぁ~とは心の中の声。
気に入った女の子が出来たみたいなのですが、息子の挙動があまりにキモかったらしく、当人から拒絶されたうえに親にも厳重注意
(性的なことをやったわけじゃありません)
当人は加減を知らないし、女の子のほうも自閉症児につきまとわれるのは嫌でしょう、分かります。
中学校の特別支援学級の担任は、父兄の間で評判の良くなかったらしい教諭が着任して翌年に異動とか、産休予定の教諭が数ヶ月だけ担当して交代とかアレな風でしたが、本人には良い意味で刺激になったよう。
3年生になり進路が気になるころ、どこへ進学するかはともかく、特別支援学級という超少人数学級じゃなくて普通学級にも慣れておかないと選択肢がないと思い先生に相談。
数学や理科は進度が全く違うという理由で NG が出たものの、それ以外は何とかなるだろうと(授業の妨げになるなら追い出す条件で) OK。
7割は同じ小学校から上がってきた生徒で一応は幼なじみ。1学年50人ちょっと(ギリギリ2クラス)という少人数な学校だったこともあり、先生の目が行き届きやすいという判断もあってのことだろう。
JRのウォーキング企画を始めとして外にばっか連れ出したおかげか、地名(都市の位置関係)に関しては健常児を超えていたと思う。
理科は小学校から全く履修していなかった(見込みなしと見捨てて他の教科に割り振られた)のだけど、履修してない教科があったのに卒業できてしまうとは。
その下は定時制しかないというランクのところではあるものの、「荒れてない」という理由だけで選択した公立高校に無事に合格。
たまたま定員割れしていた年で、落ちた生徒はいなかったと思うのですが、翌年は定員超えしていたので1年ずれてたらヤバかったかも。
9年間、無遅刻・無欠席ということで学校と市から表彰されました。
ちなみに一つ下の妹のほうも同じく9年間無遅刻無欠席。
4歳だか5歳の頃に妹のほうがキャンプに行きたいというので「キャンプ場は遠いよ」って言って大正池から徳沢まで歩かせたり、お山に行きたいと言われれば「山小屋は売店であって泊まるとこじゃない」と諭してテント背負ってガチな登山に連れて行ったり、ロープウェイに乗ってみよう!って誘っておいて「入り口は上にあって登らないと乗せてくれない」って登らせて下りだけロープウェイとか、とにかく欺しまくりました。
温泉に行きたいって言われて湯俣温泉に連れて行った(吊り橋の先の河原で掘って「これが温泉だ」って)のが最凶だったと自覚してます(小2+小1)
よって、うちの子たちは本当に頑丈です。
中学までの26~27人学級と違って、40人近い教室で、一人も知り合いのいない学校。つまり他の生徒も息子の特性を知らない。
小学~中学は通しの生徒が多いせいもあって、息子がワケありってのは全校生徒のみならず、その親にまで知れ渡っていて、わざわざ寄りついてくる奇特な子どもはいなかったのだけど、高校では最初のうちは先入観なく普通に接してくれたみたい。
同級生から寄りついて来られたことのあまりなかった息子は話しかけられただけで「友だちができたかも」って思い込んで家に帰ってニコニコ自慢してましたが、それが「ぼく友だちいない」に変わるのはそう遅くはありませんでしたけど。
とはいえ、友だちが出来ないまま15歳まで過ごしてきてるので、全く気にならないようではあります。
年に数回、学校開放みたいな行事があって親も観に行っていい日には出かけたのだけど、偏差値が低い=ガラの悪い生徒が多い という先入観を見事に打ち破ってくれました。いやほんと、殺伐感の全くないノンビリした校風の良い高校で良かった。
迷惑をかけるのだからせめてもの恩返しということで、学校の保護者委員?(PTAに近いと思うが、もっとイージー)は進んでお受けし、時々校門にたって挨拶運動とかに参加したわけだけど、先生の命令に従って渋々挨拶してるような感じはなく、どの子も自分の言葉で挨拶してくれて、挨拶運動に参加するのはとても楽しかった。
高校になってから自我が芽生えたか、親と出かけるのを嫌がるようになり(本気で拒絶するほどでもないが)、親としても自立する方向に誘導しないといけないため、JRのウォーキング企画に一人で参加することを許可
前日までに行程(電車の乗り継ぎを含む)と予算を紙で提出すれば金は出すという条件で。
コンビニの外ベンチにDSを置きっぱなしのまま買い物に行って、案の定その間に置引きされたときがあるんですが、ちゃんと自分で交番に行って遺失物届を出してきたり、普通じゃないながらも何とかなる次元には成長
学校行事か何かで、家から最も近い私大(偏差値40~50クラスか?)の見学に行って、学食としてマクドナルドみたいなバーガー屋を含む何軒もあったりで感動したのか、コンビニなんてものが学内にあることに恐れ入ったのか、コナンに出てくる大学生のイメージと重なったのか、どういう訳でか知らないが大学なるものに興味を持った模様。ただし、最初に見に行ったそこだけが気に入ったみたいで、他の大学へは見学すら行かない。
高校になると授業参観なるものが滅多にないのですが、高校3年の最後の文化祭(平日)へは仕事を休んで観覧。
劇で何の役をやるのか教えてくれなかったので、観に行くことも言わずに黙ってビデオ回しながら見てたのですが、ステージの袖からナレーター(司会だったらしく)として登場したところで目を疑う。
名探偵コナンのナレーションを意識しているとハッキリと分かるのですが、恐らくは普段の息子と全く違うキャラだったこともあってか、会場の体育館は大爆笑の渦に。適度なアドリブ(意外性に沸く観客生徒に向かって「ありがとう!」って言ってみせたり)を交えたり、完全に自分の世界に没入していたのだろう、とにかく凄かった。
審査と表彰式まではいなかったのだけど、息子のクラスは最優秀賞を、息子は最優秀個人賞を、それぞれゲットした。
進路指導の先生からの「なりたい職業に応じて学科を絞って学校を選ぶべきだ」という助言を無視する形で、第一希望~第三希望まで全て前述の大学にある学科で、文系・理系おかまいなく・・・という風に進路希望を出していたので三者懇談では「本当にいいのか?」って迫られたけど、「息子が大学に行きたいと思ったキッカケは、そこの大学に出会ったからです」なのだから仕方ない。
いわゆる進学校ではないため、一般入試での合格は絶望的だろう、と先生から言われ、最初で最後のチャンスということで指定校推薦に応募
そもそも、その下には定時制しかないような、こう言うと悪いんだけど学力的には良くない生徒の集まる学校だったのだけど、挨拶運動で感じたようにガラの悪い生徒はおらず、確かに当たりは少ないけど外れはいない、そんな学校ゆえにか「指定校推薦」という枠が設けられていたのは凄い幸運だった。(誰しも外れを引くことを恐れるわけで)
第一希望の学科(息子はパソコンが好きだったのでそういう系)は成績が足りないと言われ、第三希望くらいのパソコンとは無関係なところだったら・・・みたいなこと提案に乗って応募。ちょまどさんだって文系の大学なのにプログラマやっててマイクロソフト行かれたんだから、その気があればどこの学科であってもパソコンの仕事はできるのよ。
劇のナレーターで最優秀個人賞をゲットした余韻もあってか、上手に面接をこなしてきたのと指定校推薦で落ちるのは難しいという条件が重なって、無事に合格の通知。
高校3年でやっと中学生?ってくらいの状態なので、大学を卒業できるか知らないが、ちょうど卒業時点で高校生くらいの状態になるかもしれない。
完治は無理、喋らなければバレない、くらいが限界なんだけど、健常児を遙かに超える得意な分野があるので、そこだけ見て、ダメなところは諦め。
ただ普通の子に近づいたせいか、幼少期に感じた「ありえない記憶力」とかの特殊能力は徐々に衰え、ヒゲも生えだして、すぐに忘れる平凡なオッサンに近づいてることに寂しさも。
フロリダの海辺の街で、ボートの修理をして生計を立てている独り身のフランク。彼は、天才数学者だったが志半ばで自殺してしまった姉の一人娘、メアリーを養っている。彼女は、先天的な数学の天才児“ギフテッド”であり、周りは特別な教育を受けることを勧めるが、フランクは「メアリーを普通に育てる」という姉との約束を守っていた。しかし、天才児にはそれ相応の教育を望むフランクの母イブリンが現れ、フランクとメアリーの仲を裂く親権問題にまで発展していく――。
映画『ギフテッド』オフィシャルサイト| 20世紀フォックス ホーム エンターテイメント
ストーリーはあちこちで語られまくっているからここではもう書かない。
本作のもうひとつの魅力はキャラクターが魅力的なことだと思う。
ただし直接言葉で描写されるのではなく、会話の断片やちらりと映る写真からキャラクターの背景が浮かび上がってくるスタイルなので人によっては伝わりにくいかもしれない。語りたいので勝手に語る。以下全部ネタバレ。
彼の最初のイメージは、バーに入り浸り汚い家でいい加減な生活をしている駄目おやじだ。
軽口を言い合う娘との関係がなんともいえず良い。
主人公は娘を一人の人間として対等に扱い誠実に会話をする。その様子が心地よく暖かい。2人は強い信頼と愛情で結ばれている。
母親から娘を託された時点では彼はオックスフォードの准教授であったらしい。
仕事と育児が両立できずに辞職し、現在ではボートの修理工として不安定な生活を送る。
浮かび上がってくるのは、育児のためにキャリアも収入も捨てその苦労を娘にわからないように振る舞う気丈な男親の姿だ。
人生のほとんどを育児に捧げたその結果、家が汚いことと収入の不安定さを理由に娘を取り上げられてしまうのはあまりにも理不尽だ。つらい。
「五分でいいから自由な時間が欲しい」とうっかりこぼし、娘が激しく傷ついてしまうシーンがある。
彼は行政にも保育園にも頼らずたった1人で子供を育てて来た。娘が天才であることがバレたら取り上げられてしまうのではないか、という危惧からだ。彼の危惧は現実となった。小学校で天才であることがバレ、またトラブルを起こしたことからほぼ放校処分。英才教育校への転入するように言われる。英才教育を望むおばあちゃんにより養育権を巡る裁判が起こされるという事態になる。
ところで彼の言動は子供を育てる親の「あるある」が詰まっていてとてもよい。
『育て始めて最初の2週間で自分の手には負えないことがわかっていた。明日こそ児童相談所に行こうと毎日思った。でもその度にあの子は何かをしでかすんだ。思いもよらないことをね。』泣いたり笑ったり。あの子はいろんなことをするんだ。それでいつのまにか手放せなくなっていたと彼は続ける。
そうだろうなあ。わかる。わかるよ。
どこからどう見ても英才教育クソババアなんだけれども、物語が進むにつれ彼女の背景も明らかになる。
どうやら彼女自身も相当に優秀な数学の研究者であったらしい。はっきりとは描写されていないがミレニアム問題のひとつ、ナビエ・ストークス方程式の解について研究していたようだ。
結婚出産で研究の道を諦めたが彼女の魂は数学に囚われたままだ。出来た子供(母親)が数学の天才で自身の夢を託してしまったようだ。
英才教育の建前のもと子供の人生に介入しまくるクソ親で、子供がボーイフレンドと遊びに行くと誘拐だと言って通報する、裁判を起こすと別れるまで脅し続けるなどやっていることは無茶苦茶だ。
どうも彼女自身も男運がないようで「男はみんな駄目男」と思っているかもしれない。この辺りも子供のプライベートに介入しまくる理由のひとつなのだろう。
物語を通して2つの関係が描かれる。主人公と娘、そしておばあちゃんと母親の関係だ。
物語ラストシーン、母親に対する自身のこれまでの行いを後悔し泣く。子供である母親と向き合い、彼女の死に対して始めて涙を流す。
いつのまにか母親に感情移入して見ていたので救われる思いだった。ボロボロ泣いてしまった。
一切出てこないのにすごい存在感。
天才として生まれ英才教育を受け、娘を残して自殺してしまった母親。
『親に愛されたかった』『親は私を愛さなかった。数学の才能にしか興味はなかった』
母親の人生はおばあちゃんに完全にコントロールされてしまっている。
そのせいで母親は生活能力がなく男を見る目もない。それを見ておばあちゃんは「自分がなんとかしなければ」とますます母親を支配する。
妊娠して男に捨てられ親(おばあちゃん)に相談するも突き放され、弟である主人公に娘を託して自殺。
自分のようにしないで、普通に育ててと主人公に娘を託すが・・・
ませていて可愛くて、繊細で、言動が突拍子もなくて目が離せない。本当に魅力的。
見ていない人はぜひトレーラーだけでも見て欲しい。
ちょっとした子供の仕草が本当にリアル。すきあらば体をよじ登って来るとか、上に乗っかって寝始めるとか
あるあるある。
映画を観る前は「アイアムサム」みたいな内容かな?と思っていたのだけれども娘の立ち位置がこの映画をもう少し複雑にしている。
母親は普通に育てるようにと遺言を残したけれども娘自身は数学を望んでいる。
普通の小学校に通うことを拒否しおばあちゃんの持ってきたPCや数学書に純粋に喜ぶ。
母親はおばあちゃんの価値観を押し付けられ苦しんだ。母親は「自分と同じにしないように普通に育てて」というが
皮肉なことにそれが母親から娘への価値観の押し付けにも見て取れる。当然だけれども母親と娘も別の人間なわけで。
もちろん娘は主人公との暮らしを望んでいるし、明らかにおばあちゃんはダメすぎるのけれども。
この映画の感想に「天才には適した教育をすべき」という主張の人がかなりいることにちょっと驚いたのだけれども
おそらく彼らは娘に強く感情移入しながら見たひとたちなのだろう。
映画は素晴らしかった。たまに映るホワイトボードやノートの数式もいいかんじ。娘の成長具合がなんとなくわかる。この手の映画は数式が不自然にわざとらしくなりがちだけどそんなことない。よい。けれども1箇所だけちょっといいたい。
天才を試す問題にガウス積分はないでしょーー。しかも符号書き間違えるか??ぐちゃぐちゃ長い式書いていたけれどもいったい何を書いたんだ。式が長い方が絵的に映えるのかもしれないけれどー。筋の悪い人に見えちゃうよー。極座標にしようよ。
いや小学1年生がガウス積分はすごいけれども、彼女は少なくとも微分方程式までは勉強しているわけでとうに知っているでしょう。
ここで2017年に見たアニメを振り返ろう
10位:クジラの子らは砂上に歌う
結局なぞははぞのままなのかよ。続きがみたい。
9位:異世界食堂
8位:アホガール
7位:少女終末旅行
仕事がツラくて、世界なんて無くなってしまえと思いながら見てた。
6位:正解するカド
5位:プリンセス・プリンシパル
アニメオリジナルでもかわいくて面白いアニメが作れるってことがわかった。
4位:小林さんちのメイドラゴン
全員ムチムチなドラゴンズ好き。
3位:ゼロから始める魔法の書
こういうのでいいんだよ。こういう王道ファンタジーが見たいんだよ。
2位:けものフレンズ
1話から見てて、ネタ枠が大物に化けていくリアルタイム感よかったね。最終回泣いちゃった。
1位:ノラと皇女と野良猫ハート
世間一般の「女(子供も含め)を守りたいだけの普通の女(母)」をフェミと呼んで責めるの?
おれフェミ叩きが「フェミ」より論理的だなんておもったことないわ。
2.おまえが女を責めたり嫌いだったりするまともな理由があるとして、(上によれば毒親だかららしいが)
それについて全然はなさないお前について、すごくうがった考え方をすると、親のほうが正しいのかもしれない。
お前みたいなものわかりの悪すぎる男児を持って毎日「すみません!この子はもう!わがままばっかりいって!」って世間にいってたら?
そりゃ苦労がたたって普通の女も家庭では毒親にならざるを得なかったのでは?
http://okusama-kijyo.com/archives/46822002.html
の「俺くん」を思い出しながら見ている。
おまえにまともな理屈で共感したり応援してくれるはずの人ってのは
今お前の目に見えてる増田とかオタクとか自由の戦士とかフェミ叩きミソジニーとかではなく、
で、なんでここで共感者を探そうとしちゃったの?
『劇場版 はいからさんが通る 後編 ~花の東京大ロマン~』を見てきたので感想。いつものごとくネタバレ気にしてないのでネタバレ嫌な人は回避推奨です。あらすじ解説とかもやる気ないので見た人向け。
なんと100点。点数の基準は「上映時間+映画料金を払ったコストに対して満足であるなら100点」。とは言え、これ、評価難しい。良いところと悪いところと混在しつつ、今の自分だからこの点数なんだけど、ちょっと違う自分だったらこの点数は著しく下がっていたんじゃないかと思う。いつにもまして主観的な点数であり他の人におすすめする自信がない。
アニメとしての出来は良かった。演出や音楽なんかも水準以上の仕事をしてたんだけど、キャラデザと脚本と声優の3点がそれ以上の出来だった。しかしそもそもの企画で疑問な点も多々ある。
大体の話原作マンガ『はいからさんが通る』からして相当ボリュームが大きい作品なのだ。TVアニメ42話やっても完結できてないのがその証拠で、その原作を100分ちょいx2の前後編にまとめるということが最初から無理難題。
だから素直に作れば駆け足どころかダイジェスト気味になり、点数なんて30点前後になるのが当たり前だと思うのだ。今回の劇場版は、その問題に対して、脚本とか演出技術とかをぶっこんで善戦してたことは確かなんだけど、それってつまり「ハンデを克服するための戦力投入」に他ならないわけで、100点から先に積み上げていく役に立ったかと言えば難しい。
原作ジャンルは一応ラブコメということになると思うのだけど、原作『はいからさんが通る』には実は様々な要素が詰め込まれている。主人公紅緒と伊集院少尉の間のラブロマンスを中心としつつも、大正期うんちくマンガの側面、スラップスティックなギャグの要素、膨大な登場人物の群像劇、そして女性の自立というテーマももちろん重い。
今回の映画企画では、これを前後編で本当にうまくまとめてある。駆け足感は否めないものの違和感は感じない。このへん優れた原作→映画脚本の特徴でもあって、印象は原作に忠実なものの、実を言えば改変は結構大胆にはいってる。
今回映画で例を上げれば、大震災後の炎上する廃墟をさまようのは映画では紅緒、少尉、編集長という3人なのだが、原作ではさらに鬼島を入れた四人だ。三角関係の描写とその解消をクライマックスの中心に持ってくる構成をシンプルに伝えるため、鬼島は退場させてあり当然セリフも再構成で圧縮されている。
しかし一方でそういう技術的な圧縮だけでは全く追いつかないわけで、群像劇的なキャラクターを絞り、ギャグパートもほとんど捨て去って、映画で残すのは「主人公紅緒を中心とした(はっきり言っちゃえば伊集院少尉と青江編集長との三角関係)ラブロマンス」と「大正ロマン期の女性の自立」というふたつの大きなテーマに絞った。その判断は正解だと思う。
正解だと思うんだけど、じゃあそのふたつが現代的な視点で見て満足な出来に達しているかといえば――この部分が評価に迷った原因だ。
『はいからさんが通る』の原作からそうなので、映画(だけ)の問題点というわけではないのだけれど、個人的な見解で言うと登場人物のメインどころのうち三人がダメんピープルだ。
初っ端から最大戦犯のラリサ=ミハイロフ。ロシア貴族である彼女は、満州出征中に部下を救うために突出して倒れた伊集院少尉を見つけ、その命を救う。しかし戦争の傷跡で記憶を失った伊集院少尉に、自分の旦那(死亡済み)の面影を見出し、都合よく嘘記憶を刷り込みして、自分の夫として病気の自分の世話をさせるのだった。
いやあ、ないでしょ。どんだけよ。しかも病弱な自分を盾にして伊集院が記憶を取り戻したあとも関係を強要するのだ。クズでしょ(言った)。一応言葉を丸めてダメんピープル(女性なのでダメンズではない)と呼んでおく。
じゃあ、そのラリサの嘘の被害者たる伊集院少尉(主人公紅緒の想い人)はどうなのかと言えば、彼もまたダメんピープルなのだった。記憶を失っていた間はまあいいとしても、記憶を取り戻し紅緒と再会したあとも、病弱なラリサの面倒を見るために彼女のもとにとどまり続ける。命の恩人だと言えばそりゃそうなのかもしれないが、周囲の誤解をとくでもなく、未来への展望を示すのでもなく、状況に流されて、紅緒のことが大好きなくせに「他の女性を偽りとはいえ面倒見ている関係」を続ける。続けた上でそれに罪悪感を覚えて、紅緒から身を引こうとする。
それだけなら海底二千マイルゆずってもいいけれど、ラリサが死んだあとは紅緒のもとに駆けつけるあたり、手のひら返しの恥知らずと言われても仕方ない罪人である(言った)。っていうか伊集院少尉とラリサの関係は明らかに共依存でしょ。カウンセリング必要だよ。
とはいえ、主人公紅緒もけして潔白とはいえない。病気のラリサに遠慮をして、二人の間の愛情を誤解して別れを告げられ、告げたあと、心がフラフラしている時期に、少尉の実家を助けてくれた編集長にほだされて交際を宣言。他の男性(伊集院少尉のこと)を心に宿したまま、編集長と結婚式まで行ってしまう。それは伊集院少尉に対してもそうだけど、青江編集長に対してはより罪深い。その嘘はやっぱり問題だと言わざるをえない。
――こういう恋のダメピープルトライアングルが炸裂して、映画の前半は結構ストレスが溜まった(この辺個人差はあると思う)。このダメんピープル共が。問題を解決しろ。
両思いの恋人がいい雰囲気になって決定的にくっつきかけたところで、理不尽なトラブルが起こり二人は引き裂かれる! どうなっちゃうの二人!? 以下次週!! で、次週になってトラブルを乗り越えて、またいい雰囲気になると今度は二人が(独りよがりの)善意から身を引くとか、ずっとお幸せにとかいい出して、誤解のすれ違い。神の見えざる手によってやっぱり二人は結ばれない!
「北川悦吏子だ!」といったけどそれは北川悦吏子女史の発明品というわけではなく、自分の中での代名詞が彼女だと言うだけなのだけど。もっと言うのならば、年代的にみても北川悦吏子が『はいからさんが通る』やら『キャンディ・キャンディ』に影響を受けた可能性は高く、むしろ原点はこちらだ。イライラは軽減されないが。
そんなイライララブロマンス時空において癒やしは青江編集長である。
光のプラスワンこと青江冬星はまっとうで良い人なのだ。登場時は女性アレルギー(と大正時代的な女性蔑視)があったものの、雇用主として新人編集者である主人公紅緒を導き、支え続ける。その人柄に触れて、紅緒に対する愛情を自覚したなら、変にこじれぬように即座に自分の口から誤解の余地のない告白を行う。これ以上イライララブロマの炎症を防ぐその手腕。良いね。
しかも「お前の心に伊集院がいるうちは土足で踏み込まない」「いつかその気になったとき思い出してくれれば良い」といって加護者の立場に戻る。見返りを求めず、高潔で、慈悲深い。癒やしのキャラだ。
読めば分かる通り自分は編集長推し(原作当時からだ)なので、そのへんは差し引いてほしいのだが、ダメんピープルの中にあった彼が一服の清涼剤であったのは確かなのだ。
この映画のおそらく二大テーマである「紅緒を中心としたラブロマンス」はダメ人間どもの間違った自己犠牲でイライラするし(加えて言えば、何の罪科もない編集長の貧乏くじも納得し難いし)、「大正ロマン期の女性の自立」については、無邪気と言えば聞こえはいいが無軌道で体当たり主義の紅緒の迷惑を編集長が尻拭いし続けるという構造なので、本当に自立しているのか怪しく、どっちもそういう意味ではスカッとしない。
でも、そうじゃないのだ。そうじゃなかったのだ。
上映終了後、イライラ&60点だと思っていたら、意外なことに結構穏やかな満足感があったのだ。この気持ちはなんだろう? 不思議な気持ちで、言語化に時間がかかった。
なぜなのか考えた。
やったことや構造を追いかけていく限りイライラキャラではあるはずなのに、可愛い。
現代的に変更したキャラクターデザインと、作画と、なによりその声が印象的なのだ。
作中、紅緒は本当によく「少尉」という言葉を口にする。二言目にはそれだ。
このおてんば娘は作中のセリフの大半が「少尉!」なくらい連呼なのである。伊集院少尉のいるシーンでは脳内その声でいっぱいなのだ。声の表情というか、演技が本当に良かった。
少尉の事で頭がいっぱいで、東京から満州に行き、馬賊の親玉に体当たりで話を聞き、少尉を探して駆け巡る。東京に戻ったあとも諦めきれず、その面影を探して、亡命ロシア貴族にまで突撃を掛ける。紅緒は、たしかに、周囲を顧みない行動主義で、無鉄砲なおてんば娘で、そこにはイライラさせられる要素があるにせよ、少尉を求めてさまよう姿は、涙を一杯にたたえた幼子のように見える。
それでようやくわかったのだけれど、結局紅緒は子供だったのだ。
愛する伊集院少尉とはぐれて、彼を探すために声の限りにその名を呼ぶ子供だった。
それが胸を打ったし魅力的だった。スクリーンのこちらからも彼女を助けたいと思った。
『劇場版 はいからさんが通る 後編 ~花の東京大ロマン~』は迷子の紅緒をハラハラドキドキしながら見守り、応援する映画なのだ。
「大正ロマン期の女性の自立」というテーマに対してイライラするのも当たり前だ。彼女は行動力だけは溢れていて、家を出てしまうわ、死んだ(と思いこんでいた)婚約者の実家に行って支える手伝いをするわ、女性ながら出版社に就職するわするのだが、どれも力が足りずに周囲に迷惑を掛けてばかりで、そういう意味では「自立」はしきれていない。むしろトラブルメーカーだ。でもそんなのは、子供だから当たり前なのだ。
彼女はその実力不足から失敗してしまうけれど、チャレンジをするのだ。失敗はチャレンジの結果であり、チャレンジをするという一点で彼女の幼さは正しい。
前述したとおり自分の推しは青江編集長なのだけれど、彼は作中、何らミスらしきことをしていない。つまり罪がない。罪がない彼が、恋愛において自分の望んだ愛を手に入れられない(紅緒は最終的に伊集院少尉とくっつく)のが納得がいかなかった。その理不尽さにたいして原作読了時は腹がたったのだけれど、今回映画を見終わってしばらく考えたあと、仕方ないのかもと、やっと思うことができた。
なぜなら紅緒は(この映画の物語の期間では)未熟な子供だからだ。その子供である紅緒が、青江編集長という加護者とくっついてしまうと、その保護力のお陰で自立できない。青江編集長は全く悪意はなく、むしろ大きな愛情で紅緒を守るだろうし、その実力がある人だろうけれど、その愛情は空を羽ばたく紅緒にとっては重すぎる。
『はいからさんが通る』は紅緒が自立していく物語ではなくて、未熟な子供である紅緒が、自立のスタートラインに立つまでの物語なのだ。だから作中で自立してないのは当たり前なのだ。
無鉄砲で子供で、何かあればすぐべそべそと泣き、でも次の瞬間笑顔で立ち上がり再び駆け出す紅緒は、この映画の中でとても可愛らしく魅力的だった。
その紅緒は自分の心に嘘をつくという罪を犯し、同じく自分の心に嘘をつくという罪を犯した伊集院少尉と結ばれる。伊集院少尉も少女漫画の約束として「頼りになる加護者」として登場したが、罪を犯して紅緒と同じ未熟者のレイヤーに降りてきた。降りてきたからこそ「これから自立するいまは不完全な紅緒の同志」としての資格を得た。
青江編集長は同志ではなくてやはり保護者だから、どんなに良い人でも、「これから一緒に成長していく同志」にはなれない。
考えてみれば、紅緒が少尉を好きになった理由は「優しい目で見てくれたから」だった。けっして「助けてくれたから」ではない。彼女にとって助けてくれる(実利)は重要ではなく、ただ単にそのとき自分を見ていてくれれば十分だったのだ。
そういう意味で、青江編集長はスパダリであり、伊集院少尉はスパダリから降りて結婚相手になったといえる。宮野Win。「立川オワタぁ!」とか「ちゃんかちゃんかちゃんかちゃんか♪」とか言い出さないんで、格好いい主要キャラみたいな演技だったからな。
そういうふうに言語化が落ち着くに連れて、紅緒の親友・環がしみじみと良かったな。と思えた。
「殿方に選ぶのではなく自らが殿方を選ぶ女になるのですわ!」と女学生時代気炎を上げていた彼女。大正デモクラシーにおいて「女性の自立」を掲げて紅緒とともに時を過ごした親友である彼女。
でも、彼女と紅緒の間にあるのは思想の共鳴なんかではなかったと思う。
「女性の自立」と言葉にしてしまえばそれはどうしてもイデオロギー的な色彩を帯びざるをえないけれど、本作においてそれは、そこまで頭でっかちな教条的なものでもなかったのだろう。
劇場版サブタイトルの元ネタはおそらく菊池寛の短編小説「花の東京」から来ているのだろうけれど、そこで描かれた女性(の自立と言っていいのかなあ)も、現代のフェミニズム的な意味でのそれではなかった。どちらかと言えば「どんな環境でもめげずに生き抜いてゆく」という、ただそれだけのことだった。
それはもしかしたら、現代の価値観ではむしろ非難される態度かもしれない。なぜなら、男性が支配的な社会で「めげずに生きる」というのは、ときにその男性支配社会に迎合しているようにも見えて、原理主義者には利敵行為とされるかもしれないからだ。
でも人間は結局与えられた環境でベストを尽くすしか無い。まだまだ男権社会的な大正期社会も、作中クライマックスで描かれる関東大震災で崩壊した東京も「与えられた環境」だ。
その与えられた環境の中で酔っ払って肩を組み、愚痴を言い合いながらも諦めずに笑い合う同志として、紅緒と環のコンビは尊い。
ことによると、紅緒と伊集院少尉のそれよりも確かな絆があったのではなかろうか?
いつどんなときでも、どんな環境でも、うつむかず、意気軒昂と拳を突き上げて、笑顔で生きていこう! 女学生時代の無鉄砲な友情のそのままに、二人は大正という時代に自分の人生を描いた。
「女性の自立」と主語をおけば、それは成功したり失敗したりしてしまう。でも彼女たちが持っていたのは、成功したり失敗したりするようなものではない。どんな環境でもくじけうず、へこたれず、転んでも立ち上がって歌を歌いだす。それはイデオロギーではなく心意気の問題なのだ。彼女たち二人のあいだにあったのはモダンガールとして時代を先駆ける思想などではない。ただ単に、お互いがかけがえのない友達で、楽しかったのだ。
「女の子は元気よく未来に向かって生きる!」。紅緒が愛しく思えたのは、多分その一点だったし、伊集院少尉が彼女を愛したのもその一点だった。本作では描写が欠如していた伊集院少尉も、そのテーマに沿うなら、大震災後の東京で意気軒昂と未来をつくるべきだ。紅緒同様「未熟者の仲間」になった彼はそれが出来るし、その義務もある(でないと編集長はほんとうの意味で道化者になってしまう)。
失意失意失意のたまねぎっていうよりは、もう観れないという事実をまだ受け入れられていない…ので、結局まとまらないけどダラダラと感想を書いていくことにする。
中盤くらいまでの感想っていうかなんていうかなものは以下参照。①って書いてるけど②はないw
https://anond.hatelabo.jp/20181005225652
しかしここから終盤に向けてメッッッッチャ演者の表現が変わっていったので驚いた。自分で読み返して浅いなあ…と思うけど、これだけすごいものを見た記録はやっぱり残しておかねばという気持ちになりました…はてな記法とかよくわからないのでとにかく読みにくいと思われますがご容赦ください。
ランディの本質、「殺しが好きだから」戦う、っていうところへの迫り方がとにかく終盤すごかった。たぶん、なぜ戦うのか本当に最後の最後あたりまで気付いてなかったんだと思う。きっとランディの中では、とにかく王になるため=夫人の願いを叶えるためで、王になってからは王位を守るために戦っていて、夫人はランディに戦う理由を与えてくれていた。なのに夫人のための「王位」に固執するあまりに魔女の予言に振り回されて、最後にはあれだけ執心していた夫人ではなく魔女たちに気持ちが傾いてしまう。メタルマクベスは予言を現実のものにしてくれるから、魔女の予言を叶えるマクベスと自分を同一視して、結局はなんのために戦ってるのかブレブレになってくるんですよね。ランディの殺意のたまねぎには本当に魂がなくて、ただ「殺しが好きだから」だってことに、夫人が死んだあとに鋼鉄城のバルコニーでようやく気付く。王になるために、家族のために戦ってきたんだと信じていたのに、自分の本質を否応なしに突き付けられて、だからレスポールからの問いかけに「殺しが好きだからに決まってるだろ!!!!」って言ったときそれを認めざるを得ない自分がいて、だから泣いたのかなあ。ここずっと笑ってる表現だったのに、ある日突然泣く表現に変わって、それでやっと私の中でランディというキャラクターがストンと落ちた感じがした。
夫人がいることで、本質を隠して「家族のため」だと言えたのに、夫人がいなくなってしまってそれが言えなくなってしまった。夫人だけがランディの存在を肯定してくれていたんだと思う。
大きなことがしたかっただけで、実態は味気なかったことに気付くのが早い。もうちょっと、もうちょっと余韻に浸ってほしかったの!!
夫人は、野望ばっかりでかいワガママで自己顕示欲の強い女だと思ってたけど(自己顕示欲は強いけど)、もっと根深かった。と、いうことがどんどんわかるようになっていった…大原櫻子恐ろしい…
大きなことがしてみたかったけど、自分では成し遂げられない。そのためにランディが必要だったんだけど単に道具としての存在ではなくて、自分の身代わりであり自分の存在を肯定してくれる、っていうあの夫婦はしっかりお互いがお互いを必要としていたんだなって今となっては思える。夫人は名前もなく、夫人が何をしたところで功績は形には残らないけど、ランディには目に見える評価がある。だからその妻である自分にも同じ評価が与えられている感じがしたけど、結局はそれはランディのものであって、自分はその妻でしかない。それに気付いたから味気なかったのかもしれない。手に入れたものはやっぱり自分のものではなかった。だからランディだけは自分のものであってほしかったのに、ランディの心はどんどん魔女に傾いていって、ランディの目には自分が映らなくなっている。ランディがマクベスならその目にもう一度自分が映るためにはローズになるしかなかった。ローズになろうとして、夢の中では自分はローズなのに、目がさめるとランダムスター夫人であることに気付いてしまう。だから眠りたかったのかもしれない。地獄は暗い、地獄は寒い、のところでランディが現れて、そこできっと夫人は目覚めていたのにあえて「マクベス、もう寝ましょう」と言ってローズになりきって、ランディは一緒に眠ってくれると思っていたのに起きたらまた1人だった。そこで本当にランディが自分のことを必要としていないことに気付く、もう自分の存在を肯定してくれる人はいない、1人になりたくない、っていう思いが自分への殺意に繋がっていったのかなあ。最後の殺意の歌、自分のお腹をドスドス刺す仕草が本当に痛々しくて悲しくて、合間に入る笑い声が、ああもうこの人は死ぬんだなってわかって、もう、とにかくもう辛くて泣けた…
こんなにもお互いを必要としていた夫婦だったのに壊れるときは一瞬で、しかもそれが魔女たちのお遊びだったのかと思うとやりきれなくなって病む。←私が
やっぱり最後まで共感はできなかったけどw、Jr.の行動は全てが希望だった、っていうとちょっと語弊がありそうだけど、Jr.としてはきっと全ての行動が未来の希望へ向かったものだったんだと思う。いろんなことがあったけど、それらを絶望にしてしまうともう立ち上がれなくなってしまう。絶望にはしない。だから実際はどうあれ、あれだけ希望を背負った存在だったのかなって。結局やってることは復讐だけど。でもその復讐の歌ですら希望を感じさせられたから、私の中では明けない夜〜も明るい光が射していた。
ランディを倒せば未来があると信じて、それを自分が切り拓くことで父やランディに殺された人への弔いになると信じていて、最後屋上で死を悟ったときも、なんとなく光りがさしてる感じがしたんだよなあ。だから最後の雷はJr.の全てを賭けた希望の光だったと思う。
ここからはジャニオタの語りになるけどw、原嘉孝という存在が新感線の3番手を担えるなんて、そんな奇跡みたいなことがあんのかよって感じで、レスポールJr.を演じているということそのものがまず希望の光なんですよね。原嘉孝、まだジャニーズとしてバックつけて歌ったことないんですよ。信じられる?!?!それが新感線の舞台でセンター張ってたくさんダンサー引き連れて歌って踊ってんだよ?!?!?!私は信じられなかった、初日は。初日の明けない夜〜の曲中ほんとに息止まりそうなくらいドキドキして、隣の友達の手握りしめて(その節はご迷惑かけてすいません)、曲終わりでやっと涙出てきて。だけど原嘉孝として見て感動したのはそのときだけだった。本人もいのうえさんに「当たり引きましたね」(←よくぞ自分を選んでくれましたね、の意)と言っていたらしいですが、本当にその通りで。どうやってオーディションのチャンスが巡ってきたとかそこらへんのことは置いといて、なるべくしてなったレスポールJr.なんだって納得せざるを得なかった、見れば見るほど説得力があった。原嘉孝とレスポールJr.は別の人だけど、ジャニーズJr.としての原嘉孝が希望の光だったから、それがレスポールJr.として体現できたんだと思う。
よしたか最高にかっこいいよ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
関係各位の皆様!!!!!!今後とも原嘉孝よろしくお願いします!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
○パール王
顔がかっこいい。中の人50歳ってやっぱり嘘だと思う。でも後半ちょっと疲れも出てきたのか、微妙に老けた気もしてそれもたまらなかった。パール王様心底お美しい。好き。
しかしパール王はなぜ反乱軍に出てきたのか。余計な正義感燃やしたせいで自分の国をぶっ潰したの本当に罪深いと思う。このタイミングでESP国に仕掛けなくても、きっと遅かれ早かれフェルナンデスは滅びてただろうね…でもJr.とマーシャルを匿ってくれて剣まで教えてくれてありがとう。お前の優しさが反乱軍を支えてくれた…。
パール王の1番好きなとこは、グレコとJr.を送り出したあと、「行くぞ!!!」って走り出したときの顔の前になびく後れ毛。あの若干の後れ毛残した人ほんと天才だと思う。
マーーーーーーーシャル!!!!!!愛しのマーシャルちゃん!!!!!!!!!!disc2で誰にハマってたって、たぶんマーシャルに1番ハマってたwまず顔と身体がどちゃくそタイプ。オープニングの綺麗は汚いのとき上裸だからずっと見てた。時には双眼鏡も使って見てた。たまらなかった。ラストシーンのボロボロの服もめっちゃえろかった。マーシャルちゃんの脇腹が私の性癖をガンガンにくすぐった。。。
っていうクソみたいな感想になって本当に申し訳ない。しかしマーシャルとJr.のやりとりかわいかったなあ。
マーシャルはとにかく弱くて、いつも誰かに守られていて、でも平和な?頃はたぶんそれが当たり前で。古着屋の店長になりてえって夢をヘラヘラ語りながら父ちゃんに愛されて、それで十分だったんだと思う。だからこそ、目の前で愛する父ちゃんが殺されたときの絶望はどれほどのものだったんだろうって計り知れない。しかも自分にできるのは逃げることだけ。そもそも自分が弱いから、父ちゃんは自分を守るために戦って、そして死ぬ。あとで書くけど、ローマンはあんなに幼くして母のために命を賭けるんですよね。でもマーシャルは逃げろと言われたら素直に逃げる。誰とも戦ったことがないから。ローマンは、父を謀反人扱いされて王が間違っていることもわかっていて、なんとなく「誰かと戦う必要性」に気付いている。けどマーシャルは、父ちゃんが殺されて初めて、何にも抗えない自分、弱い自分に気付く。きっと泣きながらバイクに乗っていたでしょう…だから、鋼鉄城で弱々しくもJr.より先に剣を抜いたことがすごく驚きで。ああマーシャルにもついに復讐の炎が…と思ったけど結局最後までアホっぽかった。ありがとうマーシャル。Jr.のバカあ〜〜〜〜〜〜!!!!のかわいさが語り尽くせない。連日産んだ。
いくら父親同士が友達とはいえ、ランディにタメ口きいてるマーシャルやばいし、幼馴染だからって王の息子であるJr.にタメ口きいてるマーシャルやばい。でもそれが成立しちゃってるのすごい。きっとマーシャルは幼少期からすぐ泣いて、いじめっこからもJr.が守ってくれて、いじめっこ達とケンカしてJr.がボコボコにされてマーシャルくそほど怒られてるけど結局変わらない。
ローラが殺される前、Jr.がフェルナンデスにいるっていうのは聞いてて、殺し屋達に追われながら行き先はフェルナンデスしかないって思って必死にバイク走らせてフェルナンデスになんとか辿り着いて。Jr.は1人でフェルナンデスに行って、味方だとはわかっていても心許せる人もいないし王位継承者としてのプライドもあってたぶん泣かなかった。そこに自分と同じように父を殺されたマーシャルが現れて、そこで初めて泣いて、2人でわんわん泣いたと思う。だけどJr.が泣いたのはそのときだけで、マーシャルにも「もう泣くな」って言って、(マーシャルはその後も何度も泣いたと思うけど)剣の稽古を2人でパール王につけてもらって。
っていう二次創作みたいな設定作って泣きながら見てた。結局最後までJr.はマーシャルを守って、マーシャルは王になる。レスポールJr.は王位継承者と見せかけて、ずっとずっと人生を賭けて未来の王マーシャルを守り続けてきたんだなあ。
○ローマン
この幼児、すごい。世の中の流れをよくわかってて、自分の生きる世界がどうなるのかも悟ってる。あんな子供だからきっと自分の世界はほぼ父と母だけのはずなのに、父がその場にいない状況で母を守るのは自分しかいないって、なんで思えるんだろう。父ちゃんは助けにくるって絶対の自信をもってる。1回致命傷を与えられて、「ちくしょう、父ちゃんの…バカ…」は、自分の死を受け入れてる。でも母の死だけは受け入れられない。自分には間に合わなかった父に対しての「バカ」で、母には間に合うはずだとまだ信じてる。だから最後の力を振り絞って、少しでも時間を稼ごうとして「母ちゃん逃げてー!!!」って叫ぶ。悲痛の極み。もうここ私の涙腺爆発してる。力尽きて、命が消える瞬間に母の殺される叫び声を聞くんだよ。これ以上の絶望あるか?!?!ほんとにグレコ何やってんだよふざけてんのか?!?!って毎回新鮮に思う。「俺はバカだ…!!!」ってほんとにな!!!バカやろう!!!!!!!!あとこのシーンの象徴は、夫人と息子が死んだ以外に城の景色が何も変わってないところにあって。殺し屋を全員殺して夫人を背負ってグレコが現れたとき、あまりに静かで。風に揺れる木々の音と、鳥の声と、水の音と、いつも過ごした何も変わらない景色がそこにはあって、なのに家族はもういない。家族の声は聞こえない。それがあのバルコニーに立ち止まる数秒に全部こめられてて、あまりに残酷。ランディの残虐性もそうだけど、こんなにもあっさりと人を絶望に落とす残酷さをランディがまったく気付いてないんだろうなっていう罪深さも感じる。
そのあと現れたJr.はグレコに復讐を訴えかけているのに、マーシャルは父を殺した殺し屋達の首を目の当たりにして、どうしていいかわからなくなって崩れ落ちる。「Jr.…」って消えそうな声で縋って、たくさんの絶望を背負っても、それを希望に変えるために立ち上がるJr.のパワーがすごい。やっぱり王ではなく、王を守る戦士だったんだなあとあらためて。
そんな感じではまりにはまったメタルマクベス disc2でした。ストレートに悲劇だと最初は思ってたけど、終わってみればハッピーエンドだったかもと思わせてくれたdisc2。ひとつ後悔してるのは、disc1を1回しか見ていなかったことだーーーーもっと比較してあれこれ言いたかった。2を愛しながら3も見ようと思います。
飽きないかどうかはわからないけど、個人的に好きで飽きずに見たものを。上3つは特におすすめ。
・ACCA13区監察課(群像劇、考えながら見れる、暗め静か)
・僕だけがいない街(サスペンス群像劇、考えながら見れる、暗い)
・活撃刀剣乱舞(バトル、暗い)
・恋は雨上がりのように(純愛、静か)
・機動戦士ガンダムUC(SF、暗め)
・リトルウィッチアカデミア(学園ファンタジー、明るい)
魔法少女リリカルなのはDetonationを見たので、自分の思考整理のために感想を書く。
号泣しながら見た上に、まだ泣きながら打ってるので多少間違いがあってもスルーしてほしい。
Reflectionがバトルに至るまでの過程を描く作品なら、Detonationは戦闘戦闘&戦闘戦闘とド派手な戦闘シーンまみれの映画だった。
すごく面白い戦闘シーン盛りだくさんで楽しめたのだが、この映画は最後の最後に「高町なのはという少女」に関する超弩級の爆弾をぶち込んできたので、私の精神は良い意味でズタボロになった。
私は魔法少女リリカルなのはシリーズが好きだ。特に無印。
高町なのはという少女と、フェイト・テスタロッサ(ここはあえて当時の名前で呼びます)が心を通わせ合うこと。
そして、「自分に誰かを助けられる力があって、目の前で困っている人がいたら助けてあげなさい、ってお父さんの教えなの」という言葉通り、高町なのはは泣いているフェイトに手を差し伸べた。
その心の通わせあい、「友達になりたいんだ」という言葉の輝きをあまりに眩しく感じたから、私はリリカルなのはシリーズのオタクになったのだ。
のだが、その輝きを良い意味で塗り潰されたのが今作、魔法少女リリカルなのはDetonationだった。
魔法少女リリカルなのはシリーズは好きだが、シリーズが進むに連れて色々な設定が付け加えられていっている。実はああだった、実はこうだったという裏設定的なものが追加されていっているのだ。
あまり好きではないが、私の一番好きな無印にはあまり関係のない情報なので基本的には「おっ、まーたなのはちゃん最強説が裏付けられてしまうなガハハ!」という感じでスルーしていた。
映画の最後、右腕を失い宇宙空間に漂うこととなったなのはは「やられちゃったけど、みんなを助けられたなら(死んでも)それでいいや」と目を閉じる。
幼い自分との問答。泣きすぎて詳細は忘れてしまったのが、一番胸をえぐられたのがリトルなのはによる「あなたは『誰かを助けられる自分』じゃなきゃ好きじゃないんだね」という言葉だった。
「自分に誰かを助けられる力があって、目の前で困っている人がいたら助けてあげなさい」という言葉が歪み、呪いのような形で具現化された。
狂気じみた救助への情熱と評されたそれは、前向きな自殺衝動だ。
フェイトを助けたのは、弱い自分が嫌だったからでも何でもなく、本当に心の底から「友達になりたいんだ」と思ったからであり、それは間違えようのない事実である。
けれど、フェイトと友達になれたのは、なのはが力を持っていて、なのはが強かったからでは?と考えると非常に苦しい。
おそらくリトルなのははなのはの潜在意識のようなもので、心の片隅にある冷静な自己評価のカタチなのだと思う。
無意識のどこかで、少なくとも「弱い自分が許せない」という考えを持っているだろう。小学生の思考回路としてはあまりにも辛い。なんてどす黒いものをラストバトルの後にたたきつけてきたんだこの映画は。
パンフにも書かれていたように、「高町なのはという個人」について詳しく描かれたのは今作が初めてだ。無印もA'sもStsも、高町なのはを主人公に置いてはいたが(Stsはちょっと微妙だけど)高町なのはの本質に関しては触れられなかった。
私も無印における高町なのはという少女のカタチを愛していたので、疑問に思ったことはなかった。
けれども、やはり経験でなのは個人の考えは変わっていく。フェイトは確かに救うことができた。けれどもアインスは救えなかった。
そのことは高町なのはの「弱い自分が許せない」という考えに少しだけ拍車をかけてしまったのであろう。
誰のせいでもないのに、もっと強い自分じゃないといけない。という考えが、アミタにナノマシンをもらうように伝え、「関節や筋肉がちぎれるような痛み」と称されるアクセラレーターを、アミタを使うために使った。
なのはが自分の命を勘定に入れないフシがあるのは知っていたけれど、つまり、弱い自分を否定するために自分の命を散らすようなことをしていたのだと考えると胃が痛い。
唯一の救いは、リトルなのはによる「いつか自分を好きになれるといいね」という言葉。
弱い自分でも居なきゃだめだという鎹、いつかできるヴィヴィオという娘の存在が、「弱い自分」を肯定してくれるのかな……と思いつつも、でもヴィヴィオを助けるためにも力が必要だしな……と一人で悶々としています。助けてくれ。
あと戦姫絶唱シンフォギアシリーズも好きだけど、なんとなく似てきてる気がする…良い意味で…。