はてなキーワード: 魔法少女リリカルなのはDetonationとは
魔法少女リリカルなのはDetonationを見たので、自分の思考整理のために感想を書く。
号泣しながら見た上に、まだ泣きながら打ってるので多少間違いがあってもスルーしてほしい。
Reflectionがバトルに至るまでの過程を描く作品なら、Detonationは戦闘戦闘&戦闘戦闘とド派手な戦闘シーンまみれの映画だった。
すごく面白い戦闘シーン盛りだくさんで楽しめたのだが、この映画は最後の最後に「高町なのはという少女」に関する超弩級の爆弾をぶち込んできたので、私の精神は良い意味でズタボロになった。
私は魔法少女リリカルなのはシリーズが好きだ。特に無印。
高町なのはという少女と、フェイト・テスタロッサ(ここはあえて当時の名前で呼びます)が心を通わせ合うこと。
そして、「自分に誰かを助けられる力があって、目の前で困っている人がいたら助けてあげなさい、ってお父さんの教えなの」という言葉通り、高町なのはは泣いているフェイトに手を差し伸べた。
その心の通わせあい、「友達になりたいんだ」という言葉の輝きをあまりに眩しく感じたから、私はリリカルなのはシリーズのオタクになったのだ。
のだが、その輝きを良い意味で塗り潰されたのが今作、魔法少女リリカルなのはDetonationだった。
魔法少女リリカルなのはシリーズは好きだが、シリーズが進むに連れて色々な設定が付け加えられていっている。実はああだった、実はこうだったという裏設定的なものが追加されていっているのだ。
あまり好きではないが、私の一番好きな無印にはあまり関係のない情報なので基本的には「おっ、まーたなのはちゃん最強説が裏付けられてしまうなガハハ!」という感じでスルーしていた。
映画の最後、右腕を失い宇宙空間に漂うこととなったなのはは「やられちゃったけど、みんなを助けられたなら(死んでも)それでいいや」と目を閉じる。
幼い自分との問答。泣きすぎて詳細は忘れてしまったのが、一番胸をえぐられたのがリトルなのはによる「あなたは『誰かを助けられる自分』じゃなきゃ好きじゃないんだね」という言葉だった。
「自分に誰かを助けられる力があって、目の前で困っている人がいたら助けてあげなさい」という言葉が歪み、呪いのような形で具現化された。
狂気じみた救助への情熱と評されたそれは、前向きな自殺衝動だ。
フェイトを助けたのは、弱い自分が嫌だったからでも何でもなく、本当に心の底から「友達になりたいんだ」と思ったからであり、それは間違えようのない事実である。
けれど、フェイトと友達になれたのは、なのはが力を持っていて、なのはが強かったからでは?と考えると非常に苦しい。
おそらくリトルなのははなのはの潜在意識のようなもので、心の片隅にある冷静な自己評価のカタチなのだと思う。
無意識のどこかで、少なくとも「弱い自分が許せない」という考えを持っているだろう。小学生の思考回路としてはあまりにも辛い。なんてどす黒いものをラストバトルの後にたたきつけてきたんだこの映画は。
パンフにも書かれていたように、「高町なのはという個人」について詳しく描かれたのは今作が初めてだ。無印もA'sもStsも、高町なのはを主人公に置いてはいたが(Stsはちょっと微妙だけど)高町なのはの本質に関しては触れられなかった。
私も無印における高町なのはという少女のカタチを愛していたので、疑問に思ったことはなかった。
けれども、やはり経験でなのは個人の考えは変わっていく。フェイトは確かに救うことができた。けれどもアインスは救えなかった。
そのことは高町なのはの「弱い自分が許せない」という考えに少しだけ拍車をかけてしまったのであろう。
誰のせいでもないのに、もっと強い自分じゃないといけない。という考えが、アミタにナノマシンをもらうように伝え、「関節や筋肉がちぎれるような痛み」と称されるアクセラレーターを、アミタを使うために使った。
なのはが自分の命を勘定に入れないフシがあるのは知っていたけれど、つまり、弱い自分を否定するために自分の命を散らすようなことをしていたのだと考えると胃が痛い。
唯一の救いは、リトルなのはによる「いつか自分を好きになれるといいね」という言葉。
弱い自分でも居なきゃだめだという鎹、いつかできるヴィヴィオという娘の存在が、「弱い自分」を肯定してくれるのかな……と思いつつも、でもヴィヴィオを助けるためにも力が必要だしな……と一人で悶々としています。助けてくれ。
あと戦姫絶唱シンフォギアシリーズも好きだけど、なんとなく似てきてる気がする…良い意味で…。