はてなキーワード: ながら見とは
何かの授業で「人に勧めたいモノ」というテーマでプレゼンをすることになりました。
みんなが無難に発表をこなして順調に授業は進み、最後にその人の順番が回ってきました。
前に立っただけで足が震えていて「あぁ人見知りなんだな」と思いながら見ていました。
だから、「取りを務めさせていただきます」と震えながら話を始めた時は困惑しました。
緊張しいなのに、自分から緊張するようなことをなぜ言うのだろう。
しかもテーマに選んだものはボカロか何かで、とても攻めている内容でした。
そこからさらに追い込まれていき、最後はよく無事に発表を終えたという状況でした。
彼女は理想に向かって止まれない人なんだなと思いました。やりたいことに理由をつけて諦めない。
趣味は創作全般で、動画編集、漫画、編曲あたりもできるそうです。小説については聞いたことがないですが、たぶんできると見ています。
学生の時に関わった経験は指で数えるほどですが、まっすぐな生き方に憧れに似た思いを持ちました。
お互いが社会人になってから、会った時には同じ職業についていました。
性格も嗜好も似ているので、落ち着くところに落ち着いたように感じます。
しかし、いつでもその人のほうが半歩ほど先にいます。技術的、感性的にもそうなので、いつもこちらが追いかけています。
それはそんなに悪い気分ではありません。
彼女はいまだに止まっていないようです。持てる時間をすべて前に進むことにかけていると話していました。
まだ人生は半分にも達していないと考えるような年齢ですが、最後の姿を望んでみたいというのが今の願いです。
まっすぐ走り続けてゴールに達するのか、あるいは折れてしまうのか。
昨日の話。ライブって言ってもスタンディングじゃなくて、ちょっといいとこのシッティング。
完売のお知らせが出てて、席は入った順にスタッフさんに案内・指定される形式だった。
開演30分前になんとか着いたら最後尾。まあ向かう途中である程度覚悟はしてたんだ。だからステージが見える角度がいつもとは違って、自分じゃまず選ばない席で、そう思いながらそれはそれで楽しみだなーと思った。が、近くのおばさん……とおばあさんの間のような年齢の女性がスタッフさんに席を代わりたい、とゴネてたのが気になった。私の後から来る人用、ということで私の隣の空間がひとりぶん空いていて、どうやらそこに移動したいようだった。おばさんは私より前に来ていて、私同様スタッフさんに案内して席を指定されたはずなのに。おそらくステージが満足に見えない席だったんだろう。そんなんでごねるんなら早く来いよ、と思ったけど。スタッフさんは「後から来る方の分ですので」とやんわり断っていた。まあ勝手に移動してほしくないもん。
私の席はソファに座って、壁がある左を向いてステージを見る席だった。一番最後だから通路はあるけどすぐ前に人がいるということもなく、ステージの見えない位置があるということ、トイレの隣で照明が落ちないことを除けば、前述したようになかなか面白い場所だった。
2部制のステージがはじまって、1部の最後の曲でそのおばさんが私の前を通ってトイレに行った。休憩まで我慢しろよ、あと1曲って言っただろ、と思いつつステージを見ていたら、なんとそのおばさんトイレの帰りでどさくさにまぎれて私の前に座りやがった。こっちはもうほんとに「座りやがった」という認識ですよ。でもまあ曲中だし、休憩の時に元の位置に戻ってくれるのかなーと思いながら見てた。
そうしたら休憩入っても元の位置に戻らない。なんなら連れに自分の席に置いてあったチラシ回してもらって、ああ、こいつずっと居座る気だって思った。もう最悪。しかも壁に首をつけてくれない。これね、経験者ならわかると思うんですけど、真ん前に人がいるってめちゃくちゃ見にくいんですよ。壁があれば壁に首や頭をつけて頂ければ視界がある程度あくんだけど、つけないと視界の真ん中に前の人の首や頭が入るので邪魔以外の何物でもない。
で、はじまった2部。予想通りステージがさっぱり見えにくくなるし、おばさんは首や顔を思い出したようにつけたりつけなかったり。私の後ろからも見てる人いるんですよ。お前のせいで私も見えるように動かなきゃいけないし、私が動いたせいで後ろの人も動かなきゃならねえんだぜ。考えろよ。
さらに追い打ちかけたのが連れ。連れのおっさんがスローテンポの曲の変なタイミングで手拍子を入れ始めた時は内心おもいっきり頭抱えた。ぱん、ぱん、っていう拍の真裏になってしまうのならまだわかる。でも付点食ったような、えっそこ? っていう変な拍のタイミングで手拍子入れるし本人もやめない。連れも注意しない。そういうやつに限って手拍子の音ってやたらでかいんだよな。会場狭いから明らかに雰囲気ぶちこわしてたし、演奏も明らかに戸惑ってた。
あとさ、基本手拍子曲でも、しっとり聞かせたい部分ってあるじゃん。そこでそのおっさんだけ細かい拍手ひとりだけしてやがんの。もう最悪。
そんなこんなで鑑賞環境は最悪でした。仮にも連れだろ、なんでお互いそういうのたしなめないのか。まあ注意しないからお互いそういうことやっちゃうんでしょうけど、こっちは本当に本当に迷惑だった。2部後半から一気にいらいらしてぴりぴりしながらのライブ鑑賞だった。ものすごく疲れた。連れも含めて二度と来るな。
さっさと帰ってくれないかな~~と思ったらアンコールの演者のあいさつくらいで帰るそぶりをみせるというまあこれもタイミング激悪パターン。せめて退場してから腰上げろよ。
結局害悪BBA、手拍子おじさんともどもどうするのが正解だったのかいまだにわかんない。私がBBA来ないようにゆとりもってソファに腰かけてればよかったの?
21:14追記)
いつも行ってるアーティストの、毎年恒例のツアーの1公演なのよ。そのアーティストのファンって基本的にとてもマナー良い方が多くて、いつも気持ちよく帰ってるから余計にいらっとしてしまったというか。FCとHP先行で完売してるはずだから、一応興味はあるんだろうけど……? みたいな。
さえぎられた私がこのツアー履修済みだったのが救いだったんじゃないか、とも思うが、私の後ろの数人にも後味が悪い思いをさせてしまっていたら申し訳ないとも。もっとも悪いのは明らかにクソBBAと連れなんだがな。
近しい親戚が、末期の肝硬変だ。
ただ、親戚は治療を拒否していて、周りの説得で、最低限の投薬治療は続けているが、飲酒も喫煙も辞める気は無い。
つまり、最長二年だけど、もしかしたら今年中に、もしかしたら今月中に、亡くなるかもしれない。
知ったのはつい最近で、とても元気で溌剌とした人で、まだ四十代になったばかりで。
おかしいだろ、と思った。
いつも思う。
周りで誰かが死にかけるといつも思う。
母も体が弱い。大量の薬を毎日飲んでいる。
今すぐ死ぬ病気はないけれど、家系的にもあまり長生き出来ないとずっと予感していて、事ある毎に伝えてくる。
父は六十後半で、働き詰めの人だから、あと十年、二十年、と考えるだけで涙が出てくる。
一親等の中で、恐らく私は「誰かの誕生を祝う」ことよりも、「誰かの旅立ちを見送る」方が多くて。
なんせメンヘラなもんで、家族は何もかもを一番最後に私に伝えてくる。
途中経過を伝えたり、問題が起きてすぐ報告すると、私が考え過ぎて体調を崩すから。
気遣いが有難いと思いながら、それよりも何よりも、一人だけ仲間はずれにされている思いの方が強かった。
ネットで大好きな人がいて、恩人だと思っていた人がいて、その人とは、掲示板で話すことも、感想のメールを送ることも無く、気付けば死んでいた。
もっと早くこの人の事を知っていれば。
もっと早くこの人に声をかけていれば。
ネットだけの話だ。
私は一方的にその人を知っていて、一方的にその人の書く文章の大ファンで、一方的に命を繋がれていた。
まるで小説みたいだな、と思った。
泣いて泣いて泣いて泣いて、その頃おかしくなった。
眠れなくなって、鎮痛剤をたくさん飲むようになって、腕を切るようになって、ご飯を食べなくなって、それまでは曲がりなりにも「普通の健康体」だったのが、壊れて行った。
家から出なくなった。人と関わらなくなった。
別に後悔はしていないし、あの時あの人の事を知らなければなんて思いもしない。
自分の性質を幼少期から遡ってみると、あの時喪失がなくても、いずれ何かしらの形でぶっ壊れてたのは間違いないのだ。
それが少し早まっただけだった。
未成年期の自分は本当に頭がおかしくて、厨二病とメンヘラを同時に併発して、ネットだけでそれが発露するならまだしも、現実の体でも行うようになると問題だぞというのがよくわかった。
みんな死にたくて、なんとか繋がり続けることでお互いの命を延命していた。
そんな中で喪った友人もいた。
彼女は解離性同一性障害で、電話をしていても急に人格が変わり、話が終わってしまうこともあったし、メールをしている最中にいきなりよくわからない文章が送られてきて、なんだろうと思っていると、後日別人格が送っていたことが発覚したりした。
肉体はひとつでも、彼女の中には命がたくさんあって、私は一人を喪ったのでは無く、彼女の持ちうる人格すべての数と同じだけの友人を喪ったのだ。
遠方に住んでいたのでご葬儀には行けなかったが、法事に参加させて頂いた時、無力感が凄かった。
それからは特に親しい友人も作らず、飲み屋ではっちゃける位の仲良しがいる程度。
メンヘラなのでいつでも死にたいのだが、「死にたい」じゃなくて「死なねば」と思う時がある。
「さて、いつにするかな」
旅行行く予定を考える程度の軽さで私は死を考える。
精神疾患の人間は、死との距離がとても近くなる、という漫画をTwitterで読んだことがあるけれど、本当にその通りだ。
私の給料は、家族を養えるほど多くはなく、私の体力は、Wワークをする程存在しない。
メンヘラ人生の積み重ねは、私から基礎体力を奪って、いつでも赤ゲージだ。
昼間の仕事が調子よくなってきて、毎日残業だけど、少しずつ頑張ろうと思っていた矢先だ。
久しぶりに、思った。
「さて、いつ死のうか」
前に思った時は、首吊りを本当に序盤に失敗して、通っていた精神病院にヘルプを出して入院させて貰うことで延命措置を取った。
ちなみに自傷が酷く、全てのストレスを自傷で誤魔化す事で頭がマシだった人間なので、他の人が喫煙量に制限をかけられていた中、「煙草を吸えば自傷を我慢出来るなら、幾らでも吸いなさい」と無制限だったので、一日三本の煙草を大切に吸う人の横で、ほとんどの時間を喫煙所とベッドで過ごした。楽しかった。
いつ死のうか。と思うことは、つまり、何か今大きなショックがあれば、私は死ぬという事だ。
あれは怖い。
頭が全く働かなくて、働いているのに、体のコントロールが効かなくて、黙々と紐を括りつけている自分を泣きながら見つめているのだ。
あれは怖かった。
今の仕事は昼間のバイトなので、どんなに仕事を頑張っても直ぐ様給料が上がるわけじゃない。
Wワークをするには体調が悪すぎるし体力が無さすぎる。
基本赤ゲージだから、少し無理をすると起き上がれなくなってすべてが崩壊する。
色んな支援が脳裏を過ぎるけれど、なんてったってマイナス思考な人間の考えることなのですべてが「どうせ」に終結する。
とりあえず落ち着く為に腕でも切るか、と思ったので、色々な在庫を仕入れに行く前に落ち着こうと、だらだらとこれを書きながらエンドレスで煙草を吸っている。
虐待を受けていたわけでも無ければ、性暴力被害にあったことも、パワハラを受けた訳でもないし、家族には比較的恵まれている。
メンヘラはみんな思ってるだろうけど、情報過多で刺激に溢れた世の中は、メンヘラには毒なのだ。生きてるだけで戦場だ。
色々、考えなきゃいけないことも、やらなきゃいけないことも沢山あるのはわかっているけれど、脳味噌が諦めてしまっていると、なんだかなぁという感じである。
共感して、一緒に悩んでくれて、もしくは、抱き締めてくれる何かが欲しい。
落ち込んだ時は手触りのいい大きなものを抱き締めていると落ち着くよと、誰かに言いながら抱きしめる。
私は明日、生きているだろうか。
えらく評判だったので見に行ったが、画竜点睛を欠くとはこのことかという感じでした。
背景は美麗だしキャラもいい。笑いも含めながらテンポよく進むので飽きない。皆言うようにおっこに感情移入しながら見ることができた。あのシーンまでは。
両親の幻想や「両親は生きてると思う」というセリフから、おっこが両親の死を全く受け入れられていないことを全編を通して描いている。
それから過呼吸やフラッシュバックの描写(やたらとリアルでエグかったが)から、早急にカウンセリングが必要なレベルのトラウマを負っていたことも示していた。
だからてっきり俺は、客がトラックの運転手とわかった時、すなわち両親の死と心の傷にいきなり直面させられたときには、感情の爆発や失感情といったかなり酷い精神状態が描かれるのかと思っていた。
しかし実際は、おっこは取り乱しはしたものの、水領の車で落ち着く。このあたりから違和感が出始めた。
そして例のシーンである。トラック運転手に対して「花の湯温泉は誰でも受け入れる」とおっこが言うシーンだ。おいおいちょっとまてと。
あれは両親を亡くしたばかりの小学生としてではなく、若おかみとしてのセリフだ。一体どれだけ自分を押し殺せば、あの状況で、あの年齢の子が、あの相手に、あのセリフを言える?両親を殺されたと感じてもおかしくない相手に、両親を殺したことは許す、かつ客人として自分にもてなさせて下さいと言うようなものである。しかも彼には家族がいる、さらに言うなら彼が去ろうとしているのは「自分が辛いから」だ。そんな相手にに対しておっこのようなセリフを言える人がいるだろうか?
百万歩譲って客がトラック運転手だとわかり宿を飛び出した後、水領の車で両親の死を受け入れていたとしても、それに加えて、トラック運転手が両親を殺したのではないこと、さらにその人間の家族まで含めて世話するという2つの心理的ハードルをこえる必要がある。
いやいやさすがに無理あるでしょー。周りのキャラは「立派だ・・・!」とか言ってて音楽もこれでまとめようとしてる感じだしマジかー。
と思ってしまい興ざめだった。ここまでの心理描写は良かったのになー。
あと、「おっこは一人じゃない」というセリフが印象的に描かれており、かつその他の描写からも、「一人じゃない」ことが作品のテーマの一つのように思える。だけど実際はおっこが一番誰かにいてほしい時、すなわちトラック運転手(=トラウマ)と対面した時には、幽霊たちは見えず、宿の人間も出てこず、やっと会えたのがスピリチュアルな理由で駆け付けた、他の登場人物たちに比べて交流の少ない水領だ。これじゃ「一人じゃない」の説得力も薄れる。
完成度が高いだけにほんと残念だった。そもそも冒頭で両親が死んで、90分できれいにまとめあげるなんて無理なんだと思う。テーマが重すぎる。
「これどう思う?」
とキズナアイを気持ち悪い、男に密室でニヤニヤしながら見せられたら、それだけで犯罪だと思う。
キズナアイだけではない。
どんな言葉であろうと、どんな画像であろうと、一緒にいて気持ち悪い、身の危険を感じる密室においてその相手と一緒にいなくてはならない状況で、そいつの趣味に関して全肯定をしなくてはならないシチュエーションってのはそれだけでパワーハラスメントだと思う。
で、こえが性差があれば「我慢しろ」でさ、性差なければ「パワハラ」になるわけでしょ。そういう、自分をさておいて、の気持ち悪い、性差においての欲望をかなえるのは自分であってそれはゆるぎない、きっもちわるーーーーーいやつが言いたい放題言っていてそれが世間一般のそれでしょ!!???みたいに言いまくってるので、ふつうの神経の男性がかわいそうになっている。
きっもちわるくて、男としてのなにもかもの義務も負わず、でも女をあてがうべきで、それをしない世間は悪だ!!みたいな男を養う価値はどこにもないし補佐してくれる層もないんだよな・・・。
心理学について書こうと思ったら、お一人書いてくださった方がいたので、そこで「特殊」とされていた臨床心理学について書きます。
臨床心理学系の大学院で博士号を取って、現在大学で臨床と研究をしています。
論文事情を書こうと思ったら、背景にある臨床心理学の事情になりました…。そして「日本の」と書いたのは、日本の固有の事情もあるためです。
臨床心理学における研究は、おおよそ以下の3つに分けられます。
1:ブコメであったような、症例報告から始まってランダム化対照試験まで行くという医学・疫学的な研究
3:その他の調査研究(ちょっと大雑把ですがゆるしてください、そして私のメインはここです)
少々雑な括りで、中間に位置する方や例外もままいることを踏まえ、あくまでも概要を述べているということを踏まえたうえでお付き合いください。
https://anond.hatelabo.jp/20181009215657 では心理学の論文事情として以下の順序を挙げていらっしゃいました、
査読付き英語論文>>>>査読付日本語論文>>査読なし日本語論文(いわゆる紀要;査読有り紀要も含む)
これは、1と3を自分の研究領域にしている臨床心理学者にもほぼそのまま当てはまりますし、海外でも同様です。
そのため、競争が激しい業界の院生さんだと、Predatory Journalに投稿しているケースも残念ながら見ます。
特殊なのは、「2:事例研究やそれを踏まえた臨床論的研究」を中心としている人たちです。
この方々の多く(全員ではありません)は、場合によっては「論文」というものを軽視すらしていますし、査読論文の数も非常に少ないです(大学に勤めている以上、建前で「論文書かないとね」と言ったりはしますが)。
これは分野外の人からはよく見えないため(もちろん業績調べればわかります)、中々ややこしい問題です。
私の観測範囲ですが、下手にこういう人たちが多い大学に就職しようとしたり、あるいは就職してしまったりすると、論文業績が多い人はかえって冷めた目で見られたりすることすらあります。
このような信じられない断絶が臨床心理学の中にあるので、業界外からはわかりにくいのです。
ちなみに「2:事例研究やそれを踏まえた臨床論的研究」の人たちの業績に対する意識は人文系に近く、私も完全にはよくわかりません。ただ少なくとも、英語の査読論文を無条件でありがたがったりはしません。
むしろ”深みのある”事例研究や理論的検討が尊ばれ、そうしたものに特化した特定の学術雑誌論文や、あるいは書籍などを重視する印象です。
なぜ学問を行う場である筈の大学において、こんな断絶が起こるのでしょうか。
一つの要因は単純に「世代」です(繰り返しますが大雑把な区切りです)。
世代によって何が違うかというと「臨床心理学に対する考え方」が違います。
「エビデンスを重視しないなんてバカ?」と思う方も多いと思います。
先ほど書きましたが、2の人たちが重視するのは事例研究です。
https://anond.hatelabo.jp/20181009215657 には、「事例研究には物語以上の価値はないのでは」とありました。
「そう見えるのは仕方ないだろうな」と思う気持ちと「物語の価値を過小評価しすぎですよ」という両方の気持ちを抱きます。
なぜかと言えば、「クライエントの人生」を理解しようとすれば、どうしても「物語」というフレームが必要になるからです。
古典的な臨床家(心理療法をやる人)は、クライエントの人生全体を見ます。
クライエントが訴える問題(やる気が出ないとか、落ち込むとか)を全てと考えるのでなく、むしろ人生における氷山の一角と捉えます。
そして、クライエントの人生をそのものを見つめ、その人がより良く人生を歩んでいけるよう、どうにかこうにか支援をしていくわけです。
(「大きなお世話」「思いあがるな」と思われる方もいるでしょうし、下手すると実際にクライエントにとっても大きなお世話になります)
その人の知能や症状の程度、パーソナリティなどを数値化して客観的に捉えることは心理学の得意技ですが、それでその人の人生全ては捉え切れません。
人生というものを捉えようとした時、どうしても物語が必要になります。
もちろん、物語ですから完全に同じ事象が再現されることはまずありません。そのため、厳密な「エビデンス」はそこから得ることはできません。
「物語から自分は何も学んだ覚えはない」という人がいたら、それは物語に意味がないのではなく、恐らくその人に学習能力がないためです。
物語を蓄積していくことで、我々は人間に対する理解をより深いものにしていくことができます。
そのため、日本の臨床心理学者は「エビデンスなんかいらない」というよりも、「物語を蓄積してくしか、やりようがない」と思っていた部分もあると思います。
またもう少しフォローしますと、単に物語を乱立させるのでなく、蓄積された様々な「物語」を体系づける理論の構築自体は脈々と行われてきました。
それが、「2」の後ろ半分「それを踏まえた臨床論的研究」です。
フロイトの精神分析なんかは、今でも理論が精緻化され続けていて、それはそれで読むと非常に面白いですし、人間理解に大いに役立ちます。
というわけで昔の臨床心理学は、多分に人文的というかアート的な学問領域でした。学んでみると非常に面白いのですが学問としての欠点もたくさんあります。
最たる点が、多くの方が既に感じていらっしゃる通り、物語性を重視するあまり、客観性・エビデンスをあまりに軽んじてしまったことです。
◆
しかし1990年代の後半頃でしょうか、「認知行動療法」と「エビデンス重視」の立場が、アメリカから日本へ本格的にやってきました。
心理療法の一つである認知行動療法はエビデンスを非常に重視します。
例えば「うつ病」ならば、患者の抑うつの程度を測定し、「認知行動療法を行うと抑うつの程度が有意に下がる!」みたいな研究をバンバンやるわけです。
当時の学会の様子は今でも覚えています。エビデンス重視の方々は「それエビデンスあるんですか?」と、どこかの誰かのようなセリフを旧来の臨床心理学者に容赦なく投げつけ、大変気まずい空気を作り出していました。(別に悪いことではないですが)
残念ながら旧来の臨床心理学者はそれに真っ向から反論することができません。なぜなら、実際の所エビデンスは無いからです。
ただし、客観的なエビデンスが求められる研究では、「客観的に扱える要素」しか扱うことができません。
そういう「客観性」では捉え切れない人間の心を探求していったのが、これまでの臨床心理学だったはずです。
ですから多くの人にとって、「エビデンス」というものが極めて底の浅いものに見えたという部分もあると思います。
実際私もそう感じる部分はありました。確かにエビデンスは大事だけど、余りに機械的に人間の心を扱いすぎていないか?と。
とはいえ、旧来の臨床心理学者がその文学性に浸りすぎ、客観性を過小評価していたのは間違いないと思います。
エビデンスに対して「人生の深みをわかっていない」「客観性が全てではない」と言っても、インチキにしか聞こえないでしょう。
要するに、物語を偏重し、エビデンスを全否定する姿勢は間違っていますが、エビデンスを偏重し、物語を全否定するのも同様におかしいと、私自身は思います。
そういう微妙なバランスというか面白さが臨床心理学の中にはありますし、どちらも人を支援する上では大事な視点だと思います。
◆
まぁその後は各学会や大学内で、明に暗に色々な小競り合いがあって、現在は昔よりもだいぶ両者が折り合いつつある雰囲気です。
一つは、純粋な「2:事例研究やそれを踏まえた臨床論的研究」の人たちが減ったという単純な理由です。大御所の多くが高齢化し、以前よりはだいぶ比率が少なくなりました。
逆に、認知行動療法がだいぶ浸透した結果、若い世代では認知行動療法が専門外でも、エビデンス重視の考えは馴染みのあるものになっています。
また、認知行動療法の人たちも”表面的な”エビデンスが全てではないという姿勢の人が増えてきました。
また、個人的にすごく大事だと思うのが、実証重視の方々にとっては「物語」の代表に見えるであろう精神分析系の心理療法も、ちゃんと効果が確認されるようになってきたたことです。
これによって、「エビデンスが全てではない」と意地を張らなくても良くなってきたのだと思います。
結局、エビデンスを否定するのではなく、自らエビデンスを出すことで (とはいえ研究の殆どは海外ですが)、問題は解消されつつあります。学問としてこれはとてもよいことだと思います。
◆
つい最近中室牧子さんとかによって、教育業界にエビデンスの視点を持ち込む動きがありますが、同じように、日本の臨床心理学にもエビデンスの視点を持ち込もうという動きが20年程前にあったのです。
エビデンスに対する考え方の違いは、人間理解に対する考え方の違いであり、それが論文業績に対する考え方の違いにもつながっていたという話です。
これを読んでみて、改めて「臨床心理学ってクソだな」と思った人もいるかもしれませんが、こういうゴタゴタも乗り越えつつ、少しずつ学問としてブラッシュアップされていっている臨床心理学が私は大好きです。
長くなってしまいました、すいません。
長くなったついでで恐縮です。
https://anond.hatelabo.jp/20181011091532 「再現可能性が4割」の部分に
https://anond.hatelabo.jp/20181011091734 「びっくりするほど信用できない学問だな てか学問かそれ 」というコメントを見かけましたが、これ心理学だけの問題じゃないんですよ。
Natureが少し前にいろんな研究者に調査をしましたが、理系の領域だって、再現性は決して高くありません。
https://www.nature.com/news/1-500-scientists-lift-the-lid-on-reproducibility-1.19970
むしろ追試をちゃんとやって、どれが再現できるか否かをふるいにかけ、学問を発展させようとする態度こそが科学的だと私は思います。
ゲーム・オブ・スローンズは酒飲みながら見てると頭に入ってこない
metamix 英語論文なぞいらん日本語で事足りるって話はまあいいけど、理系なら学部生ですらやらされることを文系だと教授クラスでもやらなくていいんだーフーンみたいな感想
お互いの分野で必須タスクが違うだけだろ……英語以外の外国語を読まなくていい理系はずいぶん楽ですね,って言われたらどう思うよ? 私は修論書くにあたって複数のヨーロッパの言語読んだし,東洋史だと修士でも複数の現地語+複数のヨーロッパ言語を読むのが当然みたいな分野もあるけど,理系は英語だけ読んでりゃいいんだっけ? ふーん.
dot 学術言語は一理あるとも思うけど、査読有りが理系のローカルルールという言説には面食らう。記述言語も査読有り無しも最終的には学術論文としての品質をどう担保するのかというところに帰結すると思うんだ。
slimebeth この問題、英語も査読も不要、理系が絶対と思うなみたいな捨て台詞をいろんな人が吐いてくのに「では代わりにどういう制度や方法論で研究の質を担保してるのか」を未だに誰も一言も言わないの底知れぬ闇感すごい…
本当に疑問なんだけど,こういう主張するひとたちって「まあ最近は文系も査読が重要になってきているし,若手は査読つき業績を増やしたがっているけれど,査読がつかないからダメとは限らない,ってだけの話.当たり前だけどダメダメな論文は後発の研究によってちゃんと批判されるか鼻にもかけられず無視される」っていう箇所が読めてないの? 査読つき雑誌はある,査読つきの業績は重要である,しかし査読がないからといってダメであることを意味しない,ってそんなに難しい話かね.
ていうかこういうひとたち,普段は査読通った論文なら無批判に盲信してるんですか? 論文は批判的・懐疑的に読まれ,瑕疵があれば後発の研究によって批判されたり乗り越えられたり無視されたりするものだ……というのは文理を問わぬ学問の常識だと思っていたのだが,「査読がないとどうやって研究の質を担保するの?」などと吐かす一部の理系はどうやら査読を通ってさえいればアッサリと先行研究を信じてしまうらしい.どっちが権威主義なんだか.
reuteri ペレルマンは査読されてないが多くの人から批判的にチェックされるでしょ?そのチェックの有無が科学にとって重要で、「学界の権威が言っているから正しい」という世界は科学ではないのですよ。日本語については同意
藁人形叩かれても困るんですよねぇ.
theta 日本には日本のXX学、米国には米国のXX学、印度には印度ののXX学があって相互に互換性が無いのなら、それは普遍性のある学問なのかなという疑問がある。
こういうレベルの説明から始めなきゃいけないの本当に馬鹿げてると思うんだけど,日本の西欧研究なら西欧諸言語の先行研究は当然追いかけているし,英語圏の日本研究者は日本語の先行研究読んでますよ.ドイツ人のドイツ史研究者と日本人のドイツ史学者は同じ学問に従事していて,同じ問題意識を共有している.ただ,日本の西洋史研究は日本の歴史学という別の文脈の中にも置かれていて,そちらから影響を受けて「日本の西洋史研究」独自の色を出すこともあるし,アメリカでは日本研究者と東南アジア研究者が共同プロジェクトで独自の問題意識を深めているかもしれない.そういう意味で各国の研究には多かれ少なかれその国の事情に根ざした独自性があるわけ.そして,時には「本国」以外での研究潮流が「本国」での研究に影響を及ぼすことだってある(たとえば前世紀末から今世紀初頭にかけてのアメリカのソ連史研究が典型的かな).日本の中国学はフランスや台湾の中国学と微妙に違っているかもしれないけれど,それでも同じ中国学なんだ.
kingate だとして。最先端は何処よ?学術・研究論文で最先端に批評貰う必要があるんじゃねぇの?ローカル内容でも批評貰わんと正否は出ないでしょ、総論として。で、あの学者モドキはその総論に後ろ足で砂掛けたの。
分野によるとしか言いようがないし,別に最先端は複数あってもいいんじゃないかと思わなくもないが.たとえば私が研究対象にしている地域については間違いなく英語でのショボい研究蓄積なんかよりも現地語での研究が最先端だけど,私は現地での最先端の研究をフォローしているし,現地人の使っていない資料とかも使って彼らと勝負しているつもりでいるよ(現地人だからこそ盲点になってる資料みたいなのがあるんだよなぁ).
iyochoo 国内のアカデミアを重視するか、世界のアカデミアを重視するか。両方の言語で書いてくれると助かる人が多いです。
「世界のアカデミア」なんて幻想で,各国別のアカデミアが併存してるんだよなぁ.もちろんそれらの間に橋を架ける必要はあるけれど.
(……)恐らく査読文化のないという文系の分野では、被参照数によって論文の質を予測するというように思うのですが、被参照数というのは流行の研究をしている事で他の研究者が参照しやすい環境がないと伸びにくい物です。ニッチな分野の研究をしているが、優れた研究であるのに査読も行われず、誰も参照してないという論文があるとして、研究を行う者はその論文を如何にして見つけて評価するのでしょう?文系の研究者は、研究を開始するまでに、かなり無駄な調査時間を必要とするのだろうなという事を想像しますね。(……)
ぶっぶー.ぜーんぜん違います.ろくな知識もないひとがテキトーに想像しても頓珍漢な答えに辿り着くだけなんですよねぇ.
そもそも,査読はあるし重要だが,査読がなくても良い論文であれば評価の対象たりうる,という話を少なくとも私はしていたわけで,それを「査読文化がない」と要約されても困惑するわけですが,まあ全ての論文が査読を受けているわけではないという状況を「査読文化がない」と書いているのだろうと好意的に解釈するとして.
当たり前ですが文系でも「レベルの高い査読誌」「査読はないがレベルの高い雑誌」「レベルの低い査読誌」「無査読紀要」ではチェックの優先順位や論文の重みは違います.当たり前ですね? 査読はしていないけれど,その分野では定評がありよく読まれる雑誌,というものが存在し,たとえばそのへんの査読をつけた院生向け紀要とかよりも圧倒的に読まれる,というような状況がある中で,査読がないからといって無価値扱いするのは不当だ,という話を私はしていたわけです.
なので,ニッチだけど優れた研究をしている人は,よく読まれる媒体に論文を投稿すればよろしい.というか人文系の研究対象って,研究水準の深化に伴ってどんどんニッチになっていく傾向があったりしますしー.
そもそも人文系の多くでは被引用数を重視する文化はあまりありませーん.理由のひとつとして「正確な被引用数を測定するのが困難」というのが挙げられます.著書も業績になり得る上に各国が自国語で研究する世界において,外国語も含めた紙の本での被引用数なんて管理しきれないのでー.私も自分の論文の被引用数なんて知りません.外国語で書いたやつは3ヶ国語くらいで引用されて,日本語のやつも紙の本に1回引用されたかな? でも他にも引用されてるかもしれないので,これは最低限の数字っすね.周りで被引用数なんて気にしてる人見たことないなぁ(私に指摘されて初めて自分の論文が他人の著書に引用されてることに気づいた先輩とかいたっけ).そもそも,引用されてむっちゃdisられてても1回引用とカウントするわけですよね? それ本当に論文の質の指標になるんですか?
(……)一方で世界の社会学者は、インパクトファクターの高い査読付き国際学術誌に投稿している様ですね。アメリカだと、テニュアになるためには当たり前の様に要求される実績の一つですし、それが世界標準でしょう。(……)
それはアメリカの社会学者が自国語で論文を書いているだけでは……?
というか,日本語圏の社会学者でも英文学術誌に投稿してる人はいますし,英文学術誌に投稿してる非英語圏の学者でも,それとは別に母国語の論文書いてたりしますし.英語以外の言語での論文が載ってる社会学の学術誌,探すとあちこちにありましたよー.
韓国語> http://www.ksa21.or.kr/kjs/
中国語(簡体字)> http://sociology.cssn.cn/xskw/shxyj/
中国語(繁体字)> http://tsa.sinica.edu.tw/publish_01-1.php
ロシア語> http://www.isras.ru/Sociologicalmagazine.html
フランス語> https://journals.openedition.org/sociologie/index.html
ポーランド語> https://www.ceeol.com/search/journal-detail?id=240
リトアニア語> https://www.ceeol.com/search/journal-detail?id=1027
カタルーニャ語> https://www.raco.cat/index.php/RevistaSociologia/index
ところで日本社会学会は和文雑誌の『社会学評論』以外にもちゃんと英文の学術誌持ってるんですよねー> https://onlinelibrary.wiley.com/journal/14756781
いやほんと,テキトーな知識でよその学問分野に軽々しく口を出して,正しいこと言ってるならともかくめっちゃ的外れとか,生きてて恥ずかしくないんですかね?
death6coin “ぶっぶー.ぜーんぜん違います.ろくな知識もないひとがテキトーに想像しても頓珍漢な答えに辿り着くだけなんですよねぇ.”攻撃的ですねぇ
理系の研究事情や査読制度を知りもせず「理系の研究は権威主義だ! 定説にとらわれて思考が硬直している!」とかわめく連中に,これまで理系のひとはどんな目線を向けてきたっけ? 冷ややかな目線を向けて嘲笑ってきたよね.もちろんそれはまったくもって正しいよ.理系の事情を知りもしないのに思い込みで的外れな批判をするのは愚かな行為であり嘲笑に値する.文系に向けて似たようなことをわめく連中にも同様の態度を取らせてもらうというだけ.
これは本当にそう.最近だと三元社なんかが琉球諸語・日本語対訳の出版物を出していたりするけど,言語復興運動家の著書とか学術誌のコラム止まりで,琉球諸語で書かれた学術論文は残念ながら見たことがない.琉球諸語は最近書記法の整備とか色々進んでいるから,今後はそういう方向に期待したいよね.もちろん琉球諸語で書かれた論文を査読できるひとはそう多くないと思うけれど,査読なしで論文を発表することも許されているという文系の事情を積極的に活用して中身のしっかりした琉球諸語論文を発表していくひとが出てきたらいいなと思う.
それに対しては2つの論点から応答したい.1点目に,「日本語は過去の豊かな蓄積を持ち,現在も多くの学術論文を生産し続けている言語である」という前提条件を忘れてもらっては困るということ.日本について研究している学者は日本語で論文を書くわけで,この点が方言とは違う(大阪弁を研究する者のほぼ全てが標準語で論文を書いているし,山形弁で書かれたヨーロッパ史の高度な研究は現段階では存在しない).
第2に.もちろん書いていいです.少数民族が独自の民族として生き残っていこうとするには何らかの形で文章語を持つことが(必要ではないが)望ましく,実際にヨーロッパでは人口数万人の少数民族でも自分たちの言語で書かれた学術誌を持っている場合もある(もちろんその場合,当該言語や当該言語で書かれた文学,当該民族の歴史といった限られたテーマについての論文を書くので精一杯だったりするのだが.ちなみにそういう少数民族の学術誌に少数言語で論文を載せてる日本人研究者もいる).それに,言語と方言とのあいだに本質的な違いはなく,たまたま政治権力を持ち規範が整備された言語変種が「言語」とされ,「言語」と見做されなかった地域的変種が「方言」と見做されているだけ,というのが社会言語学の常識であり,実際に気仙沼方言は方言ではなく独自の「ケセン語」だと主張して聖書を翻訳したお医者さんなんかもいる.上で書いたように,宮古語と日本語のバイリンガルのコラムを載せている学術誌もある(コラム止まりで,論文ではないけど).なのでたとえば,鹿児島大学で薩摩弁を公用語にした紀要が出版されてもよいと思うし,もしその紀要に優れた論文が次々に掲載されたとしたら先行研究を読むために薩摩弁を学ぶひとも出てくるかもしれない.そしてそれは,悪いことでは決してない.
きゃーお恥ずかしい.ご指摘ありがとうございます.訂正しました.
この増田を転載した5ちゃんねるのスレを痛いニュースがまとめているが、本気だと思って馬鹿馬鹿しいだの頭悪いだの言ってるマジレスバカを多数確認。
http://ceron.jp/url/blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1980977.html
知らなかった、これから気をつけると言ってる論外のバカも少数ながら見かけた。
釣りだよね?ネタだよね?と一々誰かに答えを聞かないと不安になっちゃう小心者もいるが誰が答えてくれると思ってるんだ?この増田が釣り宣言でもするのか?
シュタインズ・ゲート ゼロ面白かった。みんな良かったけどまゆしぃがアツすぎて花澤香菜のファンにならざるを得なかった。
アニメ詳しくないんだけど、花澤香菜がアツいアニメって他になんかあるかな?
反応ありがとうございます。暇なので今の時点で適当に集計してみました。だいたい挙げてもらった数の多い順になってるよ。
今年の冬に涙を流しながら見たことをすっかり忘れてた。恥ずかしい。この作品に関しては花澤香菜もだけど全てが素晴らしかった。間違いなくアツかった。
これも徹夜して一気見したことをすっかり忘れてた。ポンコツでごめんなさい。よりもい同様、花澤香菜もだけど作品全体がアツい。
ググったらキービジュアルがものすごく好みだった。しかもCV花澤香菜がショートヘアである。加えてマシンガントーク。見る前からアツすぎるので見るしかない。
とりあえず化物語から見ればいいのかな?なお偽物語にも出演しているようだ。ずっと気になってたので見てみる。
これも見てた。ごめんなさい。この作品の花澤香菜のアツさは天元突破レベル。原作もおもしろかった。
次に多かったのが「貧乏神が!」「モーレツ宇宙海賊」。いずれも見た目および設定からしてアツそうなキャラクターだ。あと「ハッピーシュガーライフ」も。ゆるふわ日常系と思いきやヤンデレのようなので期待。他にも映画含めてたくさんあがってて全部調べました。ブコメにもあったけど上擦ったときの声が好き。花澤香菜の魅力を存分に堪能したいと思います。
○昼食:おにぎり
○夕食:栗おこわ弁当
○間食:アイスクリーム
○調子
朝から熱が出てしんどかった。
37.6度とそこまで極端には高くないけど、
熱がどんどん上がりそうな感じだったので、さっさと病院に行ってお薬をもらった。
予想は当たって、午後には38.3度まで上がった。
とはいえ、さすがに何の娯楽もなしに横になっているのもしんどいので、タブレットでYoutubeを見ていた。
今日主に見ていたのは、由宇霧さんという「男女の性」にまつわるお話をしてくれるVtuberさん。
最初は氏家ト全みたいな世界観なのかしら? と思っていたら、見ていて勉強になってタメになる超真面目な人だった。
熱があるからうつらうつらしながら見たから、もう一周みたいと思う動画が多かった。
それから、寝て起きてを何度も繰り返し、夕飯も食べてまた薬を飲んだ。
オレは叩いている奴が同じような目に遭えばいいなーと思いながら見てる
まぁ俺みたいなひねくれものは「どうせ目立ちたがりメンヘラ野郎or嘘松マンコの創作」って思いながら見てるんだけどね。
なんか時折内容が異様に生々しいけど、どうせ嘘松だろうからどうでもいいんだけどね。
まぁ仮にそれが本当だとして、果たして増田に書いた事が正解だったのか?って思うのよ。まあきっと嘘松なんだろうが。
あーそりゃ匿名かつ個人に紐付けられないよ。IDがなんかの拍子にバレない限りはね。十中八九嘘松だからバレてどうだってんだろうけどよ。
嘘松とはいえ伸ばしたがる増田共とブクマカがヤイノヤイノ言って、バカッターでも広まって、結果としてバズんじゃん?創作嘘松とはいえ。
いやさ、(まァ嘘松増田の空想の中の存在だろうが)暴露された側に伝わんじゃん。
多分きっとメイビー嘘松なんだろうが、明らかに会社や個人としちゃやべー情報バラされて、ソレが黙ってると思うか?
相手が匿名の便所の落書き、ましてや嘘に嘘塗り固めた嘘松だったとしても、評判落ちる様な隠し事を赤裸々に語られるんだわ。
俺が偉いやつなら在籍者・退職者のリストを血眼になって増田探すわ。見つけ出して色々制裁加えるわ。金銭とか心理的とか。嘘松に対してだから極端な事言ってるけど。
なあ、なんのつもりで書いたの?
それが事実だろうが嘘だろうが、愚痴なら悪い事言わない、そういうのは個人名とか組織名とかわからないようにしとけ。というかほぼ空リプみたいに書いとけ。
やましい事あるなら、そいつらは普通に見つけ出すから。忙しいか興味無いからあんま手を出してこないだけで。
正義の投書とか、自分を苦しめた悪に一矢報いる!ってんなら、そりゃ無理だと言っとく。
ガタイもチンコも権力も、基本デカい奴は強い。すぐ見つかってプチッとされっから。
このブコメ群。
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180913-00289302-footballc-socc
これに
kotobukitaisha
肯定的な反応が多くてびっくりする。国家のイベントをちょっと邪魔しただけで、
samp_erg
と付いている。どちらも☆を集めている。
ブコメ数が今現在で357、kotobukitaisha(柿の人)のブコメ集まった☆が224、samp_erg(デフォルトの人)のブコメに集まった☆は159。
これを検証してみたい。数字はすべてこれ書いてる現段階のもの。増田がログインしてる状態なので正確ではありません(非表示にしてる人は2人だけなのだがログアウトが面倒だったので)。
☆連打とかしてたりするかもしれませんがそんなの面倒なので数えねえ。
その中で増田から見てうーむ、と思ったものをピックアップした。繰り返しますが増田は割と左巻きなので左巻き視点です。
割と多くの人が酷いと思うのではと感じたのは2件。ブコメ16件中の1割。増田はW杯全試合できるかぎり生で見てやろうと寝不足と戦ったほどのサッカーフリークだが、1割がこの事件を肯定的に捉えてると考えたら多いなと感じる。
さらに、あくまでも左巻きな増田のごく私的な目線で見て、うーんこれはちょっとどうなんかなぁ…うーん、ともやもやしたのは9件。左巻きに偏った目線で見ると50%以上のブコメが状況の酷さに対し軽いなと感じた。
酷いもの
kingate さすがプーチン。アベもこれぐらいやっていいよ。それでやっとサヨ・反アベが恐れる内閣総理大臣(笑)になるから。
mouseion スポーツに政治介入したら駄目という事で政治には政治で目には目をという古典的なやり方で報復したのは何か可哀想とも思えず自業自得だよなぁ。クロアチア逆転の絶好の機会をこのカスどもに潰されたものな。消せよ。
anschluss ロシア政府の蛮行を非難こそするが、この試合と選手を侮辱した馬鹿共に同情はしないぞ。
kitamati まさに国の威信をかけたイベントで最高に盛り上がってるところであんなんしたらなぁ… でもプーチンは「然るべき処置をしたまえ」くらいしか指示しとらんのだなとも思えるのがまた怖い
karatte プッシー・ライオットって左翼系バンド的な触れ込みだったのに、この記事とか見るともう音楽活動の面影皆無だな→“ロシアの反政権の活動団体”だもん
Rydeen7907 「毒を盛られた」っていうニュース、およそ現代の出来事っぽくないインパクトあるなぁ。
orangehalf おそロシア
bornslippy プーチンも毒さえ盛らなきゃいい人なんだけどな
柿の人が嘆いてから、デフォルトの人(samp_erg)が、肯定的なコメント見つからんけど?と言うまでの間にあるブコメは34件残存。そのうちの気になったものをピックアップ
酷いもの
torino-for-no 国家のイベントをちょっと邪魔したからじゃなくて、ピッチに立っていたクロアチア人の人生を大きく邪魔したからこの人達に怒りを覚えているんですが。俺あのカウンターが決まった世界を見たかったんだよ。
yujimi-daifuku-2222 ここまでの過酷な仕置きは強く批判されるべきですが、たかが国家イベントなんて意見も逆方向に触れ過ぎて、バランス感覚を逸している。/その巨大イベントを成功させる為に努力した多くの人がいる事を忘れないで下さ
茶化してるやつ
inforeg 毒盛!
misomico おそロシア定期
hogefugapiyox おそロシア
inatax おそロシア
k_oniisan おそロシア。
おそロシア言いたいだけっぽい茶化し系のブコメが増えている。まぁそういう理由もあって、柿の人がブコメをした時点よりも、ひどいブコメの印象が薄くなってるというのはあるのではと思う。
あと、デフォルトの人(samp_erg)に☆が集まったのは、ざっくりとPC的な、リベラル的なものを嫌ういつものはてブしぐさではあるようにも感じた。
増田は全試合見たサッカーフリークだが、だれが犯人であろうが許せることではない。これが本当にロシアサイドの粛清的な行為であるとしたらもちろんのこと、他の誰かであれ、毒もって人を殺そうとすることは許されるべきではない。たかがサッカーだぞ。サッカー好きが言う「たかがサッカー」の重みを知れ。たかがサッカーだ。
それが国家プロジェクトだろうが、モドリッチがどれだけ薄幸の美少年みたいに見えようが、グリエーズマン(石野卓球似)がいかに素晴らしいプレーを見せようが、デシャンがいかに現役時代さながらの性格悪さ爆発の名采配を振るおうが、その試合を中断させたということで殺されるようなことがあるのは、許せない。むしろ、素晴らしい試合だったからこそ、その中にもぐりこんだ人が殺されそうになったということが「政治的な意図を持った乱入」よりもずっと汚点であると思う。
増田はモドリッチを偏愛しておりクロアチアに大いに肩入れをしながら見ていた、あの試合のエキサイティングさや切なさは理解できる、あそこに乱入がなかったらもっとすごいものが見られた可能性も理解しているしモドリッチが、クロアチアがW杯を獲るなんてことが起きていたら…と考えるだけで2か月経った今でも胸震えてくるが、それでもその代償として毒殺を企図されるほどのことだとはどうしても思えないのだ。
先日、この掲示板での投稿を見てみて、ほほう世の中にはこんな便利なものがあるのかと思ったので使ってみることにした
書きたいことはあるけど、それの為にいちいち個人ブログを立ち上げたりするのも面倒だし、そうなると書く場所とかってなかなか思い浮かばないしで。こういうものがあるなら使ってみたいなと思ってやりました
信じられんかもしれないがこういう事もあるんだぜ、っていうのを読んだ人に「ほーん、そうなんすか」って気持ちで眺めて貰えたら嬉しい。ちなみに結構長いです
で、本題に入る前に少しだけ注意
今の私は20代の女だ。そして、一応腐女子です。知ってると若干分かりやすくなるかな?と思うので言ってみたけど、まぁそういう人種
何を隠そう、腐女子の方がここで書いた記事を読んで、私も自分のことを話してみたくなったのだ
けどこの腐女子ってことは別にそんな本題には絡んでこない。腐女子だからどうだ~ってことは無いので、ぶっちゃけそんな気にしなくても大丈夫
んで、この話は私が高校生の頃のこと。結構前なようでまだ全然前じゃない気もする。少なくとも数年前に遡るので、元々記憶力が皆無な私の中で抜けてる記憶が多々あるんですよ
だから思い出せない部分は「確かこうだったか…?」って感じで継ぎ接ぎしていくので、多少フィクションも入ると思っといた方が良いと思う。そうじゃないと万が一当時の関係者に見つかった時に「おまえの言い分全然違うじゃねーか!!」って言われても困るし。ごめんよ私の頭がニワトリ以下なために
星の数ほど腐女子なんざ居るだろうけど、万が一ね
前置きが少し長くなりましたが、ここからタイトル通りの本題に入ろうかと思います
記憶を手繰り寄せながら書いていくよ
当時、私は今とは全然違うジャンルに居ました。マイナーなジャンルだったので、数少ない同志様達との距離は他よりも近かった気がする。やっぱ数が少ないと更に仲間意識が強くなっちゃうからね
その中で、私が彼女に会った経緯はそんなに覚えていない。腐女子の繋がり方なんざ、タグやらフォロワーさんのフォロワーさんやらと、とにかく色々あるのだ。とりあえずそういうののどれかで、私は彼女と初めて繋がった
彼女の名前はNちゃん。私より年下で、多分中学生くらいだったと思う。とにかく私より年が下で、妹のような感覚だったのを覚えている
そんなマイナーなジャンルだったからか何なのか知らないけど、当時フォロワーさん同士で「嫁」と「旦那」を決めて更に仲良くなる~みたいな遊びが流行っていた。
この時点で意味が分からない。いや、そもそもコレ意味あんのかな
決め方は適当。特に仲良しの人同士で役割を決めてプロフに書いたりしてた。何でそんな事やってたのかは今思うとわからん。そのジャンルにしか当時居なかったから分からないけど、もしかして腐女子共通の遊びだったのか?
コレ、他の人から見たら意味分かんないだろうな…私も今はやろうと思わないし
でも、今にして思うとコレが最大の誤算だったのかもしれない。こういう役割を下手に決めてしまったから、私はあそこまでにはなってしまったのかも
で、その嫁と旦那という遊びを、私とNちゃんはやることにした。Nちゃんが嫁で、私が旦那。何でそれになったかはあんまり覚えてない。まぁ事の成り行きで?
とりあえず、そこからお互いプロフに嫁とか旦那とか書いて、周りのフォロワーさん達からはあそこ仲良しなんだなーくらいの認識で見られてた(と思う)
勿論お互い他のフォロワーさんとも繋がってたけど、この「夫婦制度」のおかげで私とNちゃんはものすごく仲良しになった。言ってしまえば毎日ラブラブなような日々を過ごしていた、というか
楽しくなかったと言えば嘘になる。いやホントはめちゃくちゃ楽しかった。毎日のようにお互い好きだー!愛してるー!とリプ上でイチャイチャイチャイチャ
外野から見たらキモいだろうが、少なくとも当時の私達は楽しくて仕方がなかったのである
私達の他にも夫婦が居て、その二人と仲良くなったのだ
名前は…ゴメンぶっちゃけあんま覚えてない。アイコンは覚えてんだけどな…あとフォロワーさんってポンポン名前変えたりするからさ…
四人になってからは、更にそのグループで固まっていた気がする。他のフォロワーさんとも皆仲良くしているのに、その四人で居るのは別格だった。要するにグループが出来ていたのだ。誰にも入り込めないような、そんな結束力のあるグループが
多分その頃が全盛期だったんじゃないかなー。楽しかったもんめちゃくちゃ。この四人で、そして私の大好きなお嫁さんが居ればそれで幸せだった
幸せだった筈なんだけど
Nちゃんが他のフォロワーさんと話しているだけで、ものすごく嫌な気持ちになってくるのだ
Nちゃんは私のものなのに、私のお嫁さんなのに、どうして私以外と話したりするの。みたいなことを本当に思っていた。
同時に「お前フォロワーさんと話すな言われても無理だろムチャ言うなや」とも思っていたので、まぁ理性と本能のせめぎ合いが毎日始まった
加えて、Nちゃんには私よりも仲良しそうな神絵師と、リア友でもあるフォロワーがそれぞれ一人居たのだ。私には到底到達のできない画力を惜しみなく使う神絵師とめちゃくちゃ仲良さそうに話すNちゃんも、私には分からないリアルの学校の話をするNちゃんも嫌で仕方がなかった
けど、私は年上で、Nちゃんは年下だった
そのことが、私の嫉妬心を何とか抑えていた
だって年上の女が年下の女の子に対してそんな醜い独占欲を顕にするなんて、到底考えられないだろう。少なくとも私はそうだった。だから全部を隠してNちゃんと一緒に居た。そうすれば、彼女は私のお嫁さんで居てくれるから
ここで一つ言っておくと、別にNちゃんはめちゃくちゃ絵が上手いとか超絶美少女とかいうわけではない。ちなみに何度かリアルで会ったことはあります。ホント本人が見てたら申し訳ない。けど事実だ
神絵師とかじゃなくてもいい、普通の女の子でいい。実際会って話をしたらもっと好きになった。これで私も名実ともにリアルにお友達になれたと思って、めちゃくちゃ喜んだ
ただ、Nちゃんのことがとてもとても好きなだけだったのだ
けれどさすがに、私は少々おかしいのではないか?と思う気持ちが、私を苛み始めていた
だってこんなのおかしいだろう。相手は年下の女の子なんだぞ。年下で、フォロワーさんで、会ったのは数回程度で、そんで、女の子だ
私も女だ
ホラおかしい
もしや私は同性愛者?レズっていうよりバイ?いや、そもそもコレは恋なのか?お互いが一番と決めてしまったから、そうじゃないと嫌なだけなのでは?
そんな事を色々と、延々と考えた
一つ言っておくけれども、決して同性愛をする方々のことを侮辱するつもりは無い
でもね、やっぱ初めてそういう気持ちにぶち当たるとね、こういう気持ちになっちゃうもんよ。しかも高校生だったしね。素直に受け入れるのは難しかったんだ
今なら、好きになる気持ちにやっぱ性別は関係ないんじゃないかなー、と思う。相手が女の子なのを悩むのと同じくらい、女の子とかいうことを差し置いて好きだ!ってなってたから。女の子でも男の子でも、中身がNちゃんならそれは私の好きになったNちゃんなんだしさ
今まで散々推しカプに言わせていた「男とか女とか関係ない!お前だから好きなんだよ!」という言葉が改めて理解できた瞬間であった。なるほど、こういう気持ちなのだな。うんうん分かるよ分かるよ
が、それとこれとはまた話が別である
その時ハッキリしていたことは、この気持ちを決してNちゃんに悟らせてはならないということだった
私が逆の立場なら、とりあえずビビる。ビックリする。そしてその後は、好きの度合いにもよるけど、もしかしたら気持ち悪いってなるかもしれない
そう、ドン引きされて、気持ち悪いって思われるのなんて無理だ。心が壊れる
なので私は、毎日毎日湧き上がる嫉妬心を抑えて、少しでも私の存在を彼女に焼き付けようと日々頑張っていた。もう私以外と話したりしないでほしい、私だけ見ていてほしい、なんて気持ち悪いことを思いながら
そして、私を驚かせる事件が起きる
なんと、旦那のOちゃんが、離れた場所に暮らす嫁のSちゃんに、クリスマスに会いに行ったと言うのだ。リアルで。
聞いた時は「ええええマジで?!」と思った。ウッソだろお前。逆ならまだしも、Oちゃん学生だぞ?!っていう
Sちゃんは既に成人していたかその間近だったと思うので、逆ならまだ分からんでもない。だって大人だもの。けど、Oちゃんはまだまだ学生の身分。多分私とそんな変わんないぐらいだったと思う
しかも結構な距離を離れて暮らしていたと思うのに、Oちゃんは自らの足でSちゃんの元へと向かったのである
もう衝撃とかいう問題ではない。マジで?という感想しか出てこなかった
私は、素直に羨ましいと思ってしまっていた
実際にクリスマスに会って、頬にキスまでして、お互いラブラブで帰って
なんて羨ましいんだろう
私はひっそりとお互いに聞いてみた。もしかして、本当にそういう仲なの?と
二人は、「うん」と答えた記憶がある
私は「そんな事が本当にあるんだな…おめでとう!」と祝福したのを覚えている
羨ましい、羨ましい、私もそうなりたい。他の誰でもない、お嫁さんのNちゃんと
本当は、心底そう思っていた
けど、言えるわけ無かった
だって本当は分かっているのだ。お嫁さんだの旦那さんだの何だのと言いつつ、私達は二人のような関係にはなれないことを。何より、そんな事になったら、Nちゃんのこれからの人生に陰りを落としてしまうと思った。こんな私とそんな仲になったなんてこと、Nちゃんにとっては汚点でしか無いと思った
当時の私は、本当にNちゃんのことを女の子として好きだったのかどうかは理解できていなかった。そもそも喪女だし、人を本気で好きになったことなんかほぼ無いし
しかも相手は女の子。好きかどうか考えるより、この気持ちをどうにかして無くしたいとも思っていた
そうすれば楽になれるのに、と
私とNちゃんの好きが違うことも、私が望んでいることは決して実現出来ないことも、全部全部承知の上だった
だから私は最後までNちゃんに、本当の本当に気持ちを打ち明けることはしなかった
私って気持ち悪い、気持ち悪い、こんな疚しい気持ちがあるなんて、彼女と恋人同士になってみたいと思うなんて、と、毎日考えて自己嫌悪に陥ることばかりしていた
そんなこんなで日々は過ぎていくのだが
陰りは私達以外の夫婦にも、実は見えていた
嫁のSちゃんが、私に頻繁にLINEで相談をしてくるようになったのだ
内容はあんまり覚えていない。確か、Oちゃんの束縛が酷いとか怖いとか、そんなんだったか?みたいなレベル
話を聞いてなかったんじゃなくて私の記憶力が無いだけです。すみません
けど、私はNちゃんのことも好きだが、この二人のこともそれはそれは大好きだったのだ。Nちゃんに向ける気持ちとは全く違うが、二人には二人の幸せを掴んでほしかった
私とNちゃんでは到達できない所に、私の分まで行ってほしかった気持ちもある
二人の存在に助けられたりすることもあったのだ。主に、「そういうことを考えるのは私だけではないのだな」という安心感に関して
そんで、Sちゃんには相談されるけど、同時にOちゃんにも相談され始めた
内容は…とりあえずSちゃんの事ばっかだったな、うん。もう記憶が忘却の彼方だよ
Sちゃんから相談が来ればその後Oちゃんから相談が来る、それが終わればまたSちゃんから……終わらない無限ループである
けど、私は二人に頼られていると思って、必死にお互いの仲を取り持っていた。もう別れる!無理!と言いつつも翌日にはラブラブになっている二人を見て、「良かった、仲良しに戻った…」と安心していたし、私のおかげかと思って嬉しくもなった
しかし
私は大抵、自分の言いたいことを押し殺して誰かと誰かの間に入るのが癖だった
中立で居たいんだよね。どちらかに偏って、一方だけを贔屓にするの好きじゃないんだ。まぁ、他人と争う勇気がない臆病者なのだろうとは思うけど
そしてその降り積もった「言いたいこと」は、押し殺せば押し殺すほど途端に爆発してしまうものであるということを、私はあまり理解していなかったのだと思う
その日は、明日は大事な用事があるから早めに寝よう、と思っていた。何の用事だったかは知らない忘れた。とりあえず、その日の私は十分な睡眠を求めていた
そして眠りについたが、深夜2時くらい
LINEが来た
またかよ。というか今何時だと思ってんだ。と思ったけど、私は話を聞いた。早めに切り上げたらまだ全然寝れるだろ、と思ったから
しかし、思いの外話は終わらなかった
正直寝たくて堪らなかった。そもそも私は三度の飯より睡眠が大好きなのだ。邪魔されてはたまったもんではない
でも今回の話を聞いているとなかなかに切羽詰まった印象を受けたので、出来る限りのことをしてあげたかった。なので私は最後まで話を聞き、きちんとアドバイスをした
ほんと寝りゃ良かったのにね。「今話したいんだろうなぁ…じゃあ今聞いてあげないと」とか思ってたからこうなるんやで自分
Oちゃんは、「ありがとう。○○に話したら何でも解決する。本当にありがとう」と言って、結局Sちゃんとはお別れをするという結論に至ったらしい
まぁSちゃんとOちゃんから同時に別れる!別れない!別れる別れない!の話を連日聞かされていたし、今回ばかりはこの子も懲りただろう…と思ったので、これでようやく終わった…と私は安心して眠りについた
その時刻はもう夜明けだった
翌日、眠りはしたものの、全然十分じゃなかった私のコンディションは酷いものだった
しかし頑張った
そりゃネット上の友達もかけがえのないものだが、リアルだって大事なのだ。
だが、その後私に送られてきたLINEは
「やっぱりヨリを戻すことにした」
というものだった
そこで、堪忍袋の緒が切れた
ハ?私はあれだけ睡眠時間を削って話を一から十まで聞いてお互いが相談したり愚痴ったりしてることを悟らせないように上手く立ち回って、しかしどちらかの味方は良くないからそれも考慮しつつその結論に共に至ったというのに、コイツらはまたこうなったのか?そしてまた今後も私はコレに振り回されるのか?
降り積もった我慢が遂に崩れたのだ
こうなると、私は最早怒りを抑えたり相手を許したりするタイプではないと、自分でも分かっていた
Oちゃんからは謝罪が来た。まぁ怒ったからな私。けど許す気も無かったし、また仲直りした所で同じことが起きるのは明白だった
もう嫌だ
結果的に、私は全てのことをTL上でバラして、そのジャンルから姿を消した
文字通り、全部ブチ壊して
簡単に言うと、LINEの内容全部バラして言いたいこと全部言って一方的に消えた。そんな感じ
そのジャンルから離れる時って、まぁキャラに飽きるってこともあるんだろうけど、私の場合は人間関係が多かったかもしれない
そこにある人間関係が嫌になって、全部ブチ壊して去ってしまうのだ。その時は自分に悪い所などは無いと思っていたけれど、今となってはなんてTL上の方々にご迷惑をお掛けしてしまったのだろうかと自責の念に駆られている
それでも、本当に頭に来ていた。とにかく何か仕返しをしてやりたかった、相手の迷惑な行動を晒し上げてやりたかった。大人気ないと今でも思います。ごめんなさい。
けれどコレに関しては私も我慢の限界だった。ので、謝る気は今も無い
Sちゃんとは、またどこかで会えたらいいねと、若干お互い気まずいまま別れた
Nちゃんとは
正直なところ、あんまり覚えてないんだよね。どうやって別れたっけ
そんで、思いの外アッサリ、いいよって言われたのも
その時、私は本当に、この子と私の好きは最初から最後まで別だったことを実感した
引き止めてほしかったのか?行かないでと、一人にしないでほしいと言われたかったのか、どうなのか私には分からないけど
ただただ、寂しい気持ちが残った
私は彼女が居なければ当時生きていけないくらい、彼女が好きだったけれど
多分、彼女はそうではなかった
私が居なくたって、きっと私じゃなくたって、誰かが一緒に居てくれるのだろう
それを最後に痛感しながら、私はそのジャンルから卒業したのであった
とは言っても、腐女子から卒業できるわけも無いので()相変わらず別ジャンルで元気に腐女子をやっているよ
もうあれから何年も経ってしまったし、あの時の自分について落ち着いて振り返ることも出来るぐらいにはなった
好きの感覚がわからないとは言ったものの、恐らくこれは恋と呼べるものだったのではないかと、今更ながらに思う
あれからジャンルを移行しても仲良しの人を作るのが怖くて、意識的に人を避けていた。フォロワーさんは居るけど、絶対に大事な人は作らないように心がけた。またNちゃんの二の舞になってしまっては自分が困るからである
けどまぁ、続けていればそれなりに付き合いの長い人も出てくるわけで。特定の仲良しさんを作らない!という私の決意は時間と共にどこかへと行ってしまったわけなんですけど
でもそれのおかげで、Nちゃんに向けてた想いを改めて考えることができました
私には現在、お互い別ジャンルをやってるけどめちゃくちゃ仲が良いっていうフォロワーさんが数人居ます。単純な仲良し度で言えばNちゃんと多分変わらない。
でもね、当時彼女に感じていた凄まじい独占欲や愛情はその人達には全然向けてないし、ましてや『そういう関係』になりたいと思ったことなんて一度も無いのよ
だから、ああやっぱりあれはそういう事だったのか、と。
けど今ではその気持ちも薄れてるし、なんといっても昔のことなので、全ては推測でしかない。だから、恋してたのかも、というレベルに留めておこうと思う
私が彼女に今思うことはただ一つ
あの時はありがとうね。今はもう私のことなんて忘れてるかもしれないけど、それでも良いんだよ。幸せになってね。ということだけです。
以上、ここまで読んでくれてありがとうございました。当時のことを振り返りながら書けて楽しかったです。
今じゃネット恋愛もそんなに珍しくないけど、当時は、というかその時の私は自分の感情を本当にアブノーマルだと思って否定し続けていました。今ならまだもうちょっと落ち着いて受け止めることができる…かもしれない
ずーっと自分語りで申し訳ないと思ってます。でもスッキリしたよ。
それでは、閲覧ありがとうございました。