はてなキーワード: 若い人たちとは
@RyuichiYoneyama
実在しない「悪意ある高齢者」を自ら創出して(この人達はたかまつ氏が雇った俳優)、若者に投票を呼び掛けるのって、ある種のフェィクニュースで自らの政治的主張を拡散しようとしているのと同等でしょう。幾ら表現の自由とはいえ、言論人として流石にやっちゃいけない事なんじゃないですかね。
https://twitter.com/RyuichiYoneyama/status/1639677047168724993?s=20
@nanatakamatsu
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若い人たちへ。
@hirougaya
22時間
なんだ、日本財団からお金もらっているんですか。がっかりです。たかまつななさん。
@nanatakamatsu
「行政が対応してくれず腹がたった」「なんで、大人は動かないのか」と聞き、大人として申し訳ない。子どもたちから、エネルギーもらいました。日本財団の海と日本プロジェクト「全国子ども熱源サミット」に登壇。皆で一緒に社会を変えていこう!本とかYouTubeめっちゃ小学生に見てもらってた!嬉しい
https://twitter.com/hirougaya/status/1639633491481739264?s=20
これは私が就労移行支援事業所で訓練を受けていた時に体験したことです。
入所して半年ほどたった頃、事業所施設の代表からご自身が大学で受け持っている福祉関係の授業の中でリカバリーストーリーを発表してほしいと頼まれました。
なんとなく流れで承諾してしまいましたが、よく考えるとリカバリーストーリーは当事者がその体験を共有して糧にするもので、支援者の卵とはいえ大学生の前で発表するのはちょっと違うのではないかと疑問に思いました。代表は実際の授業で、学生にたいしてこれから君たちが支援する人たちがどんな人たちなのか肌で知ってほしい、と言ってましたが、こういう分野で学んでいる学生さんは施設での実習が必ずあるでしょうにと内心納得がいきませんでした。
私は20才前後で初めて精神科を受診しましたが、正しい診断が出てそれに沿った処方薬が出されて症状が安定するまで16年かかっています。今は前向きに生きてはいますが、せめてあと10年早く正しい診断が出ていたらと思うことも時々あります。
若くて希望に溢れているように見える学生さんたちを目の当たりにして、発表の内容も相まって自分が学生さんたちと同じ年頃のときに自殺未遂を繰り返していたことがとてもリアルに思い出され、発表中はフラッシュバック寸前の精神状態でした。あの場でパニックを起こさなくてすんで本当によかったと思います。
もちろん学生さんたちが若くて生き生きして見えるのは表面上のことで、実際はいろんな悩みをかかえているでしょうし、もしかしたらあの場にいた学生さんたちの中にも、心療内科や精神科に通院している方がいらっしゃったかもしれません。
しかしやはり私と彼らの人生の差というものに思いを馳せずにはいられませんでした。引き受けたことをとても後悔しました。
もともと施設でプログラムの一環として取り組んでいたリカバリーストーリーですが、作成当時から苦しかった時期のことを書いていると気分が落ち込んで大変でした。何度か代表と担当の職員にリカバリーストーリーを書くつらさを訴えたのですが、あまり深刻に受け取ってもらえませんでした。この辺りをよく考慮して断ればよかったのですが、私は当時まだしっかりした自己主張ができるまでには回復していませんでした。
事前に渡された発表の原稿には代表の手で補足の文章がたくさん入れられていて、赤ペン先生に添削してもらった答案みたいになっていました。最後は私の好きなミュージシャンの曲の歌詞を紹介しろとの指示が入っていて呆れました。曲の歌詞を紹介するのは拒否して回避できましたが、利用者に対するコントロール欲求が強すぎると思いました。
授業が終わってから代表と担当の職員にカフェでケーキとコーヒーをご馳走になりました。下手に辛かったと抗議をすると感情が高ぶって泣いてしまい、公衆の面前で恥ずかしい思いをするのが分かっていたので努めて平静を装っていました。
学生さんに書いてもらった感想カードみたいな紙を見せられたのをおぼえています。否定的な感想はひとつもなく、最近の若い人はみんな大人しくて真面目だなと思いました。一人くらいは尖ったことを書く人がいそうなものですが、もしかしたらそういうカードは見せてくれなかっただけかもしれません。
担当の職員からその感想カードをコピーしたものをもらいました。これはとても光栄で喜ばしいことなのだから一生の思い出にしろと言わんばかりだなと思いました。受け取りたくないと思いましたがいらないですと拒否する力もなかったです。それから代表に謝礼として五千円の入った封筒を渡されました。働いていなかった当時の私にしてみれば大金でした。今日の辛い体験もこの五千円を手に入れるための我慢料だったのだなと考えて無理やり自分を納得させました。
あと、この時代表に言われた「君は今までの人生で社会貢献ができていなかっただろうけど、今日こうして福祉の未来を担う学生の役に立てたことは立派な社会貢献だから誇りをもってほしい」という言葉にはものすごくモヤモヤさせられました。私が自発的にそのような考えに至ったのならば問題ないですが、それは人に言われて思うことではないし、言葉の前半は完全に余計なお世話だと思いました。
感想カードのコピーは読み返したくもないし持っていたくもなかったので、悪いとは思いつつ最寄駅に設置してあるゴミ箱に捨てて帰りました。
なぜ私はよく知りもしない初対面の若い人たちの前で、困難だらけの、何一つうまく行かなかった今までの人生を語らなければならなかったのだろう。精神科に入院して大学を休学したこと、復学してなんとか卒業できたけれど就活で内定をもらえなかったこと、仕事に就いても不安と緊張ですぐに離職してしまったことなどを、支援者の卵とはいえ現役の大学生たちの前で私が話す必要はほんとうにあったのか。みんな好意的な感想ばかり書いてくれたけれど、それはあくまでそれが授業の一環だからで、心のなかでは私のことを馬鹿にしていたのではないか。
そんな考えが頭の中を駆け巡って涙が止まりませんでした。
この施設にいたのはもうかれこれ5年以上前ですが、このときのことはよく覚えていて、いまでもなんとなく心のしこりとして残っているので書いてみました。
現在でも代表の人がこうしたことをやっているのかはわかりません。
最後に、支援者の卵の学生さんに精神障害当事者のリカバリーストーリーを聞いてもらうことが全く意味がないとは思いません。
ただそれは当事者を大学に呼びつけてゲストのような形で発表させるのではなく、当事者が主催しているリカバリーストーリーの発表イベントなどに学生さんが見学という形で入るのが望ましいのではないかと思います。
ヨッピー君、僕ね最近孫が生まれたのよ。まぁつまり自分の子供に子供が生まれた。
見る人が見ればなんの変哲も無い報告だけれど、たぶん今のヨッピー君には心へグッと来るんでないかい?
ヨッピー君さ、子供が生まれて人間というもの、社会というものをよく考えるようになっただろう?
自分自身が歩む人生の後ろに自分の子供が居ることへ気付いただろう?
それは僕たち爺さん婆さんが歩んだ道だ。
若い頃、独身だった頃に感じた社会のクソさ加減、他人による無理解の加減、そんなものは人生のパートナーが出来て子供が生まれた今のヨッピー君からすると見通しが甘かっただろう?
まったく理解してなかった、なんでこんなにも独身の連中は"結婚"や"子育て"や"教育"という概念へ対して素っ頓狂な解釈をしているのかと驚いたことだろう。
気付いてしまったんだろう?認識が変わってしまっただろう?
お金や収入、人生設計、教育、果てはWebライターや記者という仕事の認識すら変わってしまったんじゃないか今のヨッピー君からするとね。
凄いだろう?自分を育ててくれた大人は、親は。こんなことを考えながら自分を育ててくれていたのかと信じられないだろう?
ヨッピー君さ、ちょっと前にM.O君とやりあっただろう?
そのときにヨッピー君はM.O君のパートナーを貶めたりしたよね?
どうだい?今のヨッピー君にはなかなか堪える過去の自分だろう?
人生の先輩としてアドバイスしようか。
ヨッピー君、抗いなさい。
ヨッピー君、キミはWebライターだ。
今思っていること、経験したこと、抗いたいこと、様々をキミの職業を活かして発信しなさい。
そうして発信したことを多くの人へ届けて話し合いのきっかけになさい。
こんなジジイの戯言をここまで読んでくれた若い人たち、ありがとうね。
今のヨッピー君は今まで気付いてなかったことにどんどん気付き始めていて、今まで理解していたと思っていたものが全く理解してなかったと気付いて、それを何とかしようと抗ってるのさ。
ヨッピー君は、ヨッピー君自身が考える格好良い大人、格好良い父親になろうとしてるんだ。
子供というのは親を見て育つ。だからこそ子供は理想の親の姿というのを求める。親であればこうするべきだと考える。
しかし実際に子供の親となったとき理想の親の姿というのはどのように変化するのだろうか?
それはね、子供視点での理想の親と親視点での理想の親が混ざった姿ものが理想的な親の姿になるのさ。
すべての親は子供時代を経験しているから子供の視点と親の視点を持てるのさ。
だからこそヨッピー君は親となったとき親の視点という存在に気付いてしまったんだ。
これを読む若い人たちの中にも親は居るだろうけど何となく理解できるだろう?
僕はもう子育てを終えたジジイだけれど、ジジイだからこそヨッピー君には現状に抗えと言ってあげたいな。
大人とは、親とはこういうものだよと僕が教えるのではなく、ヨッピー君自身が色々試して挑戦して抗って大人とは、親とはこういうものなんだなと自分自身で気付いて欲しいね。
若い親の皆さん、君たちの子育て、教育の正しさは日々わかるものではなく子供たちの入学式や成人式など節目節目で子供たち自身が証明してくれるものです。
子供が学芸会で歌える、運動会で走れる、研究発表する、生意気にも親の誕生日にプレゼントを送って寄越す……そういう節目節目で子供たちは皆さんの正しさを証明してくれる。
節目節目という稀な機会しか自分の正しさがわからない、毎日が不安だ。
だからこそ今日このときだけはジジイの僕が言おう!
ヨッピー君を含め、今回の話題で思いの丈をぶつけ合ってる君たち全員が正しい!よくやった褒めてやる!
ジジイに褒められても嬉しくないかも知れないけどね。
本当によくやってるよ君たちは。僕の老眼には眩しすぎるくらいだ。頑張れよ応援してるんだからな。
音楽を聞かなくなってもう何年も経つ。
マニアと呼ばれる人たちの足元にも及ばないだろうがそれでも普通の人より熱心に音楽を聞いていた人間だと思う。中学時代に邦楽と洋楽それぞれに大好きなアーティストができてからというもの、毎日のように新しい音楽を探し、過去のアーティスト達をたどり、知らない作品やジャンルに出会い、音楽の世界を広げていった。ライブやイベントやフェスにもたくさんいったし音楽に関する本や雑誌も読みふけった。それは俺にとってのライフワークのようなものだった。「レコード屋に住むのが夢」だと公言していたくらい、俺の毎日は音楽と共にあった。
ところがある日、自分が以前のように新しい音楽を聞けなくなっていることに気づいた。家族ができて生活が大きく変わったわけでもないし人生観が変わる体験をしたわけでもない。音楽を聞くことに疲れたわけでもない。ただ、以前は放っておいても音楽のほうからこちらに飛び込んできて大暴れしてくれていたのに、いつの間にか新しい音楽を聞いても心が動かされることがなくなっていた。一生懸命「この音楽の素晴らしいところ」を探して無理やり感動したり興奮したふりをしていることに気づいてしまったのだ。それに気づいてから新しい音楽を探すことをしなくなった。1クリックであらゆる時代のあらゆる音楽にアクセスできる夢のような環境が目の前にあるにも関わらず、レコード屋に行くことも、ネットで探すこともなくなっていた。
昔のアーティストたちと違っていまのアーティストたちが劣っているとか音楽のクオリティが低いなんてことは絶対にない。新しい世代のアーティストや音楽が若い人たちのためだけにあるとも思わない。もし俺が以前のままだったら彼らの音楽に心を震わせ喝采を浴びせていただろう。彼らの音楽を考察しその素晴らしさを熱く語っていただろう。いくつかの音楽は俺の心の拠り所になっただろう。俺が大好きだったアーティストたちと同じように、彼らもまた国や世代や時代を超えた素晴らしい音楽をつくっていると思う。
でも。でも俺はそういう音楽を楽しめなくなってしまっていた。そうやって新しい音楽を探すのをやめて以降、自分が好きだった音楽を聞くことも減っていった。音楽に対して嘘をついているようないたたまれない気がしたからというのが理由の半分。もう半分は音楽を楽しめなくなった自分をこれ以上見たくなかったからだった思う。そうして俺は「音楽を聞かない人」になった。1万枚近かったCDはとっくの昔に売り払っていたしデータもすべて消してしまった。いま俺のPCやスマホには一曲も入っていない。まるで、あれだけ大好きだった音楽たちが俺の中からすり抜けてしまったかのように。
思い返すと、俺が音楽に夢中になっていたころはいつも俺の中に「俺の音楽」が鳴り響いていたように思う。いつもそいつが求めていたのだ。もっと新しい音楽を、素晴らしい音楽を聞け、と。そして新しい音楽を聞く度に「俺の音楽」も変わっていった。まるで楽器同士が反響し新しいハーモニーを生み出しているかのように。そいつがまた新しい音楽を求める。これが俺にとっての音楽を聞き続ける理由だった。なのに、あれだけやかましく鳴り響いていた「俺の音楽」がいつの間にか消えた。だから新しい音楽も好きだった音楽も以前のように楽しめなくなってしまったのだろう。
こういう日が来ることを予想しなかったわけではない。いつか熱が覚めることはわかっていた。悲しいし寂しいが「音楽が鳴り止んだ世界」を静かに受け入れるしかない。みっともなく音楽にすがりついたり、逆に否定するような真似だけはするまい。そう思っていた。
ただ、実際にやってきたその世界は俺が予想していたものとは違っていた。確かに喪失感はある。けれど予想していたように空虚で色あせたものではなかった。諦念とも忘却とも違う、ささやかだけれど確かな充足感や満足感がそこにはあった。あんなに大好きだったもの、夢中になっていたものが消えてしまったのに空虚さどころか満足感を感じてすらいる。俺はこのことを長い間咀嚼できないでいた。「俺にとっての音楽はその程度のものだっただろう」と落胆し納得しかけてさえいた。
しかしある日気づいた。
それは黒人差別に抗議するひとたちのデモを報じるニュースを見たときだった。そのニュースを読んでいるうち、いつの間にか俺の中で音楽が再び鳴っていることに気づいたのだ。偏見や警官の暴力。貧困や教育の格差。社会の無関心とそれに慣れてしまった自分たちへの憤り。黒人差別の現実を訴えていたたくさんの音楽が俺の中で鳴っていた。その音楽を聞いていた当時と同じ感覚が確かにあったのだ。
それ以降、いろいろな場面で"音楽が鳴っている”ことに気づくようになった。ニュースを見てなにかを考えているときだけではない。なにか嬉しいことや悲しいことがあったとき。誰かと素晴らしい時間を過ごしている間。初夏の海岸線を走る車の中。晴れた日の朝に窓を開けた瞬間。温かい毛布とまどろみのなか。俺が気づかなかった、聞こうとしなかっただけで、いままで聞いてきた音楽たちは確かに俺の中で鳴っていた。それも最適なタイミングと最適な選曲で。
俺が感じていたささやかだけれど確かな充足感や満足感の理由はここにあった。音楽は俺の中からすり抜けてなどいなかった。俺が音楽を必要としなくなったわけでもなかった。俺はたくさんの音楽を取り込んで「俺の音楽」を完成させたのだ。誰にも聞けない、誰のものでもない「俺だけの音楽」を。
好きなものから離れたあとも自分の中に残り続ける。なんて幸福なことなんだろう。音楽を必死に聞いていたころはこんな幸福が自分にやってくるなんて思ってもみなかった。ただただ音楽を聞いていただけでなにひとつ音楽にお返しなどしていないのに、彼らはずっと俺に寄り添ってくれているのだ。これ以上の幸福があるだろうか。
音楽は素晴らしい。
マツコ、居酒屋初体験で「夢のよう」と言った89歳女性への思い「普通のことをやれてなかった世代がいるんだよ」
タレント・マツコ・デラックスが17日放送のTOKYO MX「5時に夢中!」(月~金曜・午後5時)に出演。高齢世代への思いを口にする場面があった。
この日の番組では、田舎から呼び寄せ、同居することになった89歳の母親を初めて居酒屋に連れていった娘が「夢のようだった」と感謝されたという読者の新聞への投稿記事を紹介。
この件について聞かれたマツコは「89歳というところが時代背景というか、女性が働いている人も少なかったろうし、専業主婦のようなお立場だったとしたらさ。ダンナが外に出て自由にやっているのを見ながら自分は居酒屋すら行かない、下手したらお酒もほとんど飲まないような人生を歩んできてさ」と推測すると、「もう、先がそう長くないなと思った時に私たちからすりゃ普通のことなんだけど、その普通のことをそんなにやれてなかった世代がいるんだよってことよ。『夢のようだ』って言ってるというのは、別に何かすごい高級な所に行って満たされたからじゃなくてさ。自由というか、それを感じることができたのが、お母さんはすごく幸せだったんだと思うんだよね」と続けた。
その上で「そういう風な見方をちょっとしてあげた方がいい世代がいるってこと。ウチの父とかもそうだけどさ。(そうした世代が)いるよってことを若い人たちに言っておきたいな。今、当然のようなことが当然じゃないって時代があったって言うね」と、しみじみ話していた。
元タイトル【マッチングアプリの話とか不毛だから俺のノロケでも聞いていけよ】
https://anond.hatelabo.jp/20221110185331
↓
変更後【マッチングアプリの話とか不毛だから私のノロケでも聞いてほしい】
(若干語尾等を変更しています)
(本文)
マジで何買おうかなぁ!悩むー!!!!!クリスマスもあるよね?だから毎年悩むんだよなぁ!どっちを本命のプレゼントにしようかと!
どうでも良いとかって思った人、そんなんだから増田とかはてブとかの男女論に流されるんだよ?
クソみたいな男女論なんかより私が旦那をどれだけ愛してるか?のほうが圧倒的に重要で、愛があるからこそ男女論は重要な意味を持つんだよ。
どんだけその人たちが愛されたいのか、頭良さそうな言葉を使ってるけど最終的に言いたいことは1つだけ「自分を愛してくれ」だ。
私はもしかしたら旦那から愛されていないかも知れないが、まぁそんなことは些細な問題だよ。
私がもしも世界一ダサくて誰からも愛されない女であっても、その程度のことで私が持つ旦那さんへの愛の深さは決して計れない。旦那を愛することへ全く支障はない。
結婚する前もカッコよかったし、結婚した後もカッコいい、子供が生まれ家族が増えてもカッコいい。
最近体型を気にしてるが、そういうこと言ってるところが可愛いし、私が子供と旦那が食べるだろうなと思って冷凍庫へ入れていたアイスを夜な夜なたべちゃうのも可愛い。
子供も大きくなったのに体調悪いときはくっついてくる癖が抜けないのも可愛いし、人前では大人の男を演技しているところも可愛い!
旦那を残して死ぬことが怖くて、旦那が生きがいなので居なくなると何をして生きたら良いのか全くわからない。
子供に甘い旦那のことだからオレオレ詐欺とかに引っかかるんじゃないか、変なところで意固地だから身体壊しても老人ホームへ素直に入らないんじゃないかな。
私は死ななくても私のお婆さんみたいに私自身がボケてしまうのも嫌だし、旦那をわからなくなるなんて物凄く恐ろしい。
タバコをやめた、お酒も行事ごとのときだけと減らした、息子と一緒にジムへ通うようになった。
結婚とか人生って本当に意味があるのかよくわからない。五十路になってもわからないよ。
マッチングアプリでパートナー探してる若い人たちに教えられることは、あなたたちの婚活の先にあるのは私が今感じてる言いようも無い不安だ。
あなたたちが今やってることは最終的にみんなから忘れられ意味のないことになる。
それを最近実感してきた私がハッキリと断言して言ってやる。
結婚は、良いもんだよ。
(感想)
・嫁がヤンデレに見える
・嫁が旦那に騙されているように見える
(結論)
・「男が女を無条件で愛することはカッコいい」が、「女が男を無条件で愛するのは違和感がある」ということ。
そんなもんは「ギャルも人間なんだから、オタクだろうがなんだろうが人間に優しい人もいればそうでない人もいる」で終わりなんだよ。
まずねぇ、現状を理解するためには、現代の若い人たちの間では「陽キャ」が悪口として機能しているという現象を理解する必要がある。
「美味しいヤミー」があまり良くない形でバズったのも記憶に新しいが、現代において「陽キャ」という言葉には「バカっぽい」「無神経そう」といったネガティブな印象を持つ人が多い。
「そういう意味で使う人が多い」というよりも、「無意識のうちに、そういう印象が付きまとっている」という感じ。
今の若い人を見ていると「陽キャ」って言われたくない人が本当に多いんだよね。たとえ褒め言葉だとしても。
まずこのような現実を知っておかなければ、「オタクに優しいギャル」というミームの立ち位置を理解することは出来ない。
ここで、「ギャル」というのは、「陽キャ女子」とニアリーイコールなわけ。
「オタクに優しいギャル」というのが「捨て犬に優しい不良」と同じ構造のギャップ萌えであることは明らかだが、では「ギャルは普通、オタクに優しくない」というを偏見はどこから来るのか?
多少誇張して言えば、「ギャルというのは性格が悪いから、スクールカースト下位に優しいわけがない」から。
そういうあまりよろしくない偏見を下地にしたギャップ萌えなわけ。
まあ、若い連中が「オタクに優しいギャルもいるもん!」とか言ってキャッキャしてる分には「若気の至り」として大目に見ることはできても、そもそも初めに述べたような「陽キャ」の立ち位置からして理解してないジジババどもが「オタクに優しいギャルなんているわけない!オタクの妄想!」とか言い出すのはもう擁護不可能だろ。老害はとっととフェードアウトしてくれ。
まして「オタクを嫌うギャル」を書けとか言うバカ、「ギャル」に対する偏見をエスカレートさせてるだけの差別主義者なんだよね。おまえらはもう喋るな。
飛び散る女性の頭、自らも死のうとした元従軍看護師戦後72年…激戦地で生き、戦後は助産師で赤子抱く
もう歩けない。何度も死を覚悟した。ジャングルの川の中で力尽き、このまま流されて死ぬんだと思った。「同級生2人のお骨は私が内地の両親に届けなくちゃいけない。絶対に死んじゃいけないと自分に約束した。けれども、かなわずに死のうとしたの」
元従軍看護師の木村美喜さん(89)=桶川市=は激戦地のフィリピン・ルソン島で約1年、敵の爆撃機や砲弾が四六時中頭の上を飛び交う中、傷病兵や患者の救護に従事しながら生き抜いた。食べるもの、飲むもの、薬もない。無数の死体が転がる山の中を逃げ回り、行軍した。仲間や兵士たちは次々に命を落とした。
生まれも育ちも桶川。日本赤十字社埼玉県支部の看護師だった1944年7月、召集を受けてマニラ郊外の陸軍病院に派遣された。当時16歳。埼玉班26人で最年少だった。歯科外来に勤務し、当初は不自由のない生活をしていた。
9月、マニラ初空襲。次第に戦火が拡大し、12月に病院は解散。絶え間ない空襲の下、部隊はマニラから北に約250キロのバギオに移動した。
悲劇が襲ったのは、45年1月23日。正午前に大編隊の爆撃機が襲来し、病棟は瞬く間に火の海になった。がれきの中で「助けて」とさけぶ声。焼け落ちた梁(はり)が目の前で女性に直撃し、頭が飛び散った。外に逃げた人々は次々と機銃掃射で撃たれて犠牲になった。
埼玉班も9人が戦死。「今夜は夢でいいからお父さん、お母さんに会いたいね」。前日に梅干しをしゃぶりながら古里の話をした同期2人は骨だけの状態と、顔や手足、内臓がない状態で見つかった。
4月、バギオから撤退。山の中で終わりなき逃避行を続けた。昼間は空から見つかるため移動できず、夜は砲弾が飛んでくる。草のしとねに横たわり、古里の歌を口ずさむと、歌声はいつしか涙声に変わっていった。「みんな『白いご飯をおなかいっぱい食べたい』『死にたくない』と言いながら死んでいったの」
埼玉班の仲間も一人、また一人と病気や栄養失調で亡くなった。「今度死ぬのは自分の番だ」。どんなときも肌身離さず持っていた親やきょうだいの手紙や写真、日の丸の寄せ書きを河原で焼いた。死んでから人に見られたくなかった。
終戦を知らされたのは8月17日。途端にマラリアで40度の高熱が出た。捕虜収容所に行くまでの山を下りられず、同僚3人と部隊から取り残された。もう半歩も動けない。道の両側は腐臭を放つ死体の山。うじが団子になって、ハエが真っ黒にたかっていた。ゲリラの先住民の足跡を見つけるたびに背筋が凍った。
ジャングルの川の中で先輩に泣きながら懇願した。「お世話になりました。私はここに座っていたら流されてしまう。待たないで先に行ってください」。そのたびに言い聞かされた。「一足歩けば一足日本に近づく。一足歩けば一足お母さんに近づく。日本に帰りたかったら、お母さんに会いたかったら歩きなさい」。その言葉に背中を押され、何とか収容所にたどり着いた。
約4カ月の捕虜生活の末、12月に復員。日赤病院に同期2人の遺骨と遺髪を届けた。桶川駅で母の胸に抱かれてわんわん泣いた。17歳だった。
戦後は助産師として働いた。「もし日本に帰れたら、たくさんの兵隊さんの亡きがらを葬ってきた分、この手で新しい命を取り上げよう」。収容所で毎晩、誓った夢をかなえた。抱いた赤ちゃんは数え切れない。3分間に4人取り上げたこともある。自らも子ども3人、孫5人に恵まれた。
今は子や孫のため、社会のために一日でも長く生きていたいと願う。戦争を経験した人が減り、自分の代わりがいないと思うから。多くの講演を引き受け、本も出版した。戦争を知らない若い人たちみんなに、一度でいいからこれまでの話を伝えたい。「戦争は人の殺し合い。もう二度としては駄目。命は本当に大切。一つっきりしかないんだから。かけがえがないんですよ。」