はてなキーワード: 美術館とは
そうなんだよ。
SMAPがいた頃、各分野のトップクラスで活躍する5人がソフトバンクのCMとSMAPXSMAPで集結すると、なんとも言えないゴージャス感があった。
子供からお爺さんお婆さんまで知っている。あらゆる層への訴求力持っているのなんて彼らぐらいしかいなかったもの。
まあ今の10代とかはSMAPとかいっても「誰、このおじさん」て感じだろうけど。
でも嵐だとやっぱ弱いかなあ。
この世界的な災厄の時に、今またSMAPが集結してテレビの前に立ってくれたら。
キムタクがサーファーに自粛を呼びかけて、慎吾がアーティストや美術館を応援して、吾郎が家飲みにオススメのワインや映画を紹介して。
剛のぷっすまもみたい。家でできる楽しくてくだらないことをユースケと江頭と紹介してほしい。
頑張って乗り越えていけそうな気がするんだ。
マッキー、頑張って欲しい。
槇原ファンです。
かつて親の金でニューヨークに旅行した時、みんなのうたの「メトロポリタン美術館」の聖地巡礼としてメトロポリタン美術館に行った
お目当てはあの「大好きな絵の中に閉じ込められた」の絵(エドガー・ドガ『踊りのレッスン』)だったけど、他にもいろいろすごくてそこは霞んでしまった
まず入館料のシステムが面白かった 最近普通になったというニュースを見た気がするが、俺が行った段階では払いたい額を払うってシステムだった とはいえ目安の金額は書いてあるし、俺もさすがに1ドルだけ払って入る勇気はなかったからちゃんと学生料金の12ドルくらいを払って入った
館内はマジでメチャクチャデカくて、一つの展示品に5秒とかしかかけなくても全部見て回ったら2時間くらいはかかるんじゃなかろうか
特筆すべきは美術館って名前の割に展示品の幅が広いこと 絵、彫刻、陶芸品に加えて鎧兜、剣、民芸品、家具、食器、はては神殿の再現なんかもあって本当になんでもある
なかでも感動したのは巨大なベッドがある部屋の展示 近代くらいの雰囲気の家具が並べられたひと部屋があって、そこに梯子がないと登れない大きさのベッドが鎮座している いったいあれがなんだったのかはよくわかっていないが、とにかくインパクトがあった
武具の類も充実していて、ゲームで見るようなフルプレートアーマーとかヴァイキングの剣とか馬鎧とか日本刀とか、中二心をくすぐるものが大量 いかにもアメリカ人ぽいオッさんが刀の写真をとるのを妻っぽい人が見守ってて良かった
もちろん絵画もすごくて、ゴッホとかの絵がその辺にゴロゴロしてる 俺は美術の素養がないけど、さすがにあれだけ物量があるといいなと思う絵もそれなりにあって楽しめた 知識があれば本当に楽しいだろう
メトロポリタン美術館は最高 また行きたい
「さぁ休みだ!!有意義に過ごすぞ!!」という謎のプレッシャーはどこからくるのでしょうか。
普通の土日はもちろん、GW、お盆、正月のまとまった休みとなるとそのプレッシャーはすごいです。
特に私は友達が少なく恋人もいない為、「他人との予定」が無い分ほぼ自由にスケジュールを組めます。そのせいか「いかに完璧な休みを成し遂げるか」みたいな謎のミッションを自分自身で課してしまいます。
2020年のGWはコロナ禍の真っただ中、出かけず基本的に家で過ごさなければなりません。
ぼっちにはこれ以上ない条件なはずですが、アクティブぼっちの私には少々厳しいものがあります。
登山にも、ロングライドにも、街ブラにも、美術館にも、推しの現場にも行けません…
しかーし!私にはゲームと漫画と二次創作というインドア趣味もありますので、ノープロブレム。
まずはFF7Rをやり、リングフィットに汗をながし、あつまれどうぶつの森でクリエイティブな時間をすごす…
ネタ帳からネタひろって小説を書き、積んでいる本を読むのも良いでしょう。
やることはたくさんあるのです。しかし、そのやる気が起きるかと言ったら保証はできません。趣味で、楽しいはずなのにね…
5chやTwitterの徘徊で時間をつぶすほど勿体ない時間はないはずですが、ついついやってしまう。ので、今回はこれを回避したいと思います。冷蔵庫にスマホを仕舞って封印。
「有意義に過ごさねば!」と気張って過ごす必要もないとおもうので、のんびりゴロゴロ過ごしたいと思います。
一日寝て過ごすのもまた良いものでしょう。
好きな家に居て、好きなだけ好きな仕事をする。
ご飯の時間も自由だし、他人にとやかく健康のことを言われることもない。
そもそも余裕が生まれたおかげで、前よりも健康を意識出来ている。
出世のことや将来のことを他人に聞かれて、焦燥感に駆られる時間も無くなった。
美術館・博物館・ライブに行けないのは残念だけれど、ネット上で臨時で配信されている動画を
大きい画面でゆったり見てると、実はこっちのほうが良いんじゃないかとさえ思えてくる
(もちろん生で見る迫力はすごいけれど、教養獲得的な意味だとこっちでも良いよねって意味。)。
読んだ後に他の人の感想・意見を見て、ゆったり整理する時間も生まれた。
今まで積んでいた本を消化出来ていることも嬉しい。
消化するのに必要なのは、物理的な時間では無く、精神的な余裕だということも理解できた。
同僚や家族はコロナが早く収束して、元の安らかな生活に戻してほしいと言ってるけれど、
自分にはコロナ以前/以降のどちらが異常な生活だったのかを判断することは出来ない。
コロナが収まったらまた機械のように働いて、湯水のように不要なものにお金を使い、うるさいほどの広告に揉まれて
将来や出世の焦燥感に駆られながら、疲弊した毎日を送るのかと考えると、涙すら出てくる。
医療従事者のことを思うと不謹慎なのだけれど、コロナは現代のサラリーマンに対する最後の贈り物なのかもね。
年に2、3回行くスーパーの隣に小規模の商店街があり、その中に本屋があるらしいことを最近知った。
先日、『明日ちゃんのセーラー服』をそこで買おうと思って行ってみたら驚いた。
そこは寂れたどうでもいい本屋ではなく、数年前にできたばかりの、店主のセレクト力を前面に出した本屋だった。
小説やエッセイ、教養、食や健康、生物などのジャンルがあったが、本格とカジュアルを兼ね備えた心憎い本が多い。
たいていの本は一冊限りで、漫画も復刻ものかつ特定の巻しか置いてなくて、店の隅々まで神経が張っている感じがした。
本屋の周囲は団地がかなり多く、近くには大型書店や美術館、さらに郷土資料に強い古書店まであるという魅力的な土地柄で、
面白い本が多くて二時間ぐらい滞在したが、コロナの影響なのか、平日の昼でも客足が途切れてなかった。
俺もこの町に住みたくなったよ。
ワイはその時32歳で、28歳の女子とアムステルダムでスパスパ喫煙しながら年を越した。
直行便だったので11時間以上のフライトでだったけど疲れもなく、
荷物取って税関に行き、そこでなんて声かけられたか忘れちゃったけど、
「あちらの方でお話をお伺いしたく」みたいな優しい感じだった。
僕は、机と対面に置かれた椅子がある個室に連れてかれて、
奥側の椅子に座らされても、まだ「麻薬密輸容疑の取り調べ」と気付かなかった。
ちなみに僕は、バックパッカーではないけど、香港中国タイカンボジアに住んだり、
ヨーロッパもアメリカも行く、旅慣れてるとは違うけど、国内行くのも海外行くのも違いない感じ。
それも最後の最後に気付いた。まあ日本の成田に帰ってきてるんだから、
一人でも家には帰れるし。その時何を思っていたかと言えば、
何も思ってなかった。親が死んだとか、隣りに座ってた外国人について聞きたいとか、
自分のことなら知ってるけど、それ以外の自分の知らないことで呼ばれてると思ってた。
んで、狭い部屋部4、5人の男性職員が居たかな。正面の椅子に座る干高圧的な眼鏡のおじさん。
と、僕の横に若いお兄さん。
「荷物見せて下さい」
「どうぞー」
「財布もいいですか」
「どうぞー」
財布は若いお兄さんが調べたのだけど、風俗店の割引券を見つけられたのがちょっと恥ずかしかった。
「じゃあ、あの、服脱いでもらえますか」
「ええ」
「ズボンも」
「はあ」
ホテルに泊まって買い物して、コーヒーショップ(スパスパするお店ね)に3、4回行きました。と答えて。
まあ、自分は持ち込んでないこと知ってるからのほほんとしてたけど、
突然眼鏡おじさんが声を張って
「もう、ちゃんと白黒はっきりさせましょう!」
「はあ」
「はい」
レントゲン撮影して、白黒のフィルムを白く光るのに張り付けて、
ロートルのお医者さんが「これは便がつまってますね」とか説明して。
その時は女子も居たかな。ここぐらいで(あー飲み込んで密輸かー。そんなことするわけないじゃん!!)とムカついたくらい。
もしかして、確たる証拠も無いからレントゲン撮影は強制できなくて、
でも僕の同意を得なければ飲み込んでるかもしれない麻薬を見つけられないしで、
そこで「ン拒否するゥ」人も居るんだろうけど、拒否する理由が無いので。
それまで取り調べ的な口調と態度で言葉数少なく真摯に仕事に向かう表情(眉間にシワ寄せたり怒って怖いのではない)だったけど、
途端に優しく申し訳なさそうな口調になって、僕が聞いてもないのに。
「私も若いときに妻と旅行に行って、花が綺麗でしたねー」みたいな世間話をし始めて。
「外国でする分にはいいんですけど、国内ではダメですからねえ」「はい。はい」。
若いお兄さんは「僕は最初から何もしてないと思ってました。だって色々調べてるときにも、
全然普通でしたもん」とか言ってきたから、「でも知らないうちに鞄に入ってるかも、とかは考えました」って言ったらなんか
周りが「ざわっ」として、「いや、自分も知らなくて、かけらが落ちて入ってることもあるかもとか」と説明。
最後は「ご協力頂きありがとうございました!」と頭を下げられるようだったけど、
それはみんな知ってる正しく普通な職務だし、恐縮することじゃ無いと思うけど、
ここで「俺は悪いことしてなかったじゃないか!委託もない腹を探られて、
人を疑ってことは云々」と怒り出す人も居るんだろうな。
自分は潔白だと知ってて、相手がそれを調べて潔白だと結論出したのに、
京成線にのって帰るとき「オランダで買ったパイプを没収されましたよ!
未使用なら良いけど、使ってちょっとカスが付いてるからって!」って怒ってた。
身に覚えがあるなら必死に頑張るべきだけど、
ないなら協力しましょう。
https://www.government.nl/topics/coronavirus-covid-19/tackling-new-coronavirus-in-the-netherlands
これを「~しなさい」じゃなくて「~してほしいな」って言うなら要請にの範囲だと思うんだ、どうかな!
ホントなら「~してほしいな、してくれたら~は保障してあげる」って言ってほしいんだけどね
なお増田は英語素人(TOEIC600点台)です、変なとこあったら指摘してくれ
※集まる場合はあらゆるウイルス対策が必要。あと1.5m以上離れろ。
三月二十七日(金)
フリースペースでやっていた会議で、偉い人がずっとパンチラパンチラと繰り返していてぎょっとしたが、どうやら販チラ(販促チラシ)のことらしい。ここ一二年は本社の工事で総務課とか人事課とか、あちこちの部署がフロアを転々としていて、おかげで接点の少なかった営業と顔を合わせる機会が増えた。
さて、首都圏の知事が一致団結して週末は不要不急の外出をやめるようにとの声明を発表したので、美術館も映画館も軒並み閉鎖してしまった。来週の友人とのボドゲ大会も中止になった。明日は横浜西口の有隣堂も営業を取りやめるそうで、こんな時のソープランドなど論外だろう。こういうときに限っていきたい気分になっているし、ちょうどなんやかんやで五日分の精子がたまっているのだが、馬鹿なことを考えずに抜いて寝るべきだ。これで感染していようものなら、私生活が洗いざらいさらされることになる。
予想していたことではあるし、感染爆発を防ぐためやむを得ないというのもよくわかるが、運動をしないと生活リズムがおかしくなる。雨も中途半端に降るのでジョギングにも向いていない。気象庁によれば日曜日は雨のち曇りなので、何とか隙間を見つけて走れることを期待したい。
今日は、昨日食べ損ねた蕎麦屋まで歩いてランチにした。酢重とかそんな名前の店で、丸の内にも支店がある。東京の支店を見つけて以来長いこと食べていて、そろそろ飽きそうなものだが、発作的に欲しくてたまらなくなる。考えてみれば渋谷ストリームに足を運んだのは初めてだ。いつも、湘南新宿ラインのホームから見上げているところを、ちょうど歩いたことになる。昼休みの時間には十分に間に合うのだが、読書する時間が短くなってしまうのが難点か。それほどしょっちゅう行く場所ではないので構わないが。値段も一ランク上なので、毎週行くのはちょっと気が引ける。普段の仕出し弁当も十分においしいし。
そういえば、家にこもるために久しぶりに有隣堂で書籍と漫画を購入したのだが、並ぶ場所がわかりにくかったために、結果的に横入りをしかけてしまった。店員さんが親切に教えてくれたので、無理やりこちらも照れ笑いをなんとか作ったのだが、思わずむっとしてしまった自分の器の小ささが悲しい。その店員さんが茶髪のひょろりとした大学生らしかったので、ますます気に障ってしまったのだろう。相手は何も悪くないのに、気を付けないと相手が年下だからと言って侮る意地悪なおじさんになってしまう。それに、きっとこいつはモテそうだと思ったから反発してしまった面もあるんだろう。情けのないことだ。
楽しい話を一つ。木曜日に頭痛のために昼から出社したが、その時にいつも乗っているところと離れた場所に並んでいると、背中から桜の花びらが散ってきた。振り返ると桜の木がある。この駅に住んでから二十年近くになるが、そんなところに桜の木があるとは少しも気づかなかった。
それと、microsoftのりんなの曲を何となく聞いてみたが、かわいらしくてよかった。時々放屁する顔文字を送ってきたり、検閲を潜り抜けるように下ネタを投げつけてくれるところもふくめて(この前ふざけて「うん国債」と言ったら「オマーン国際女子マラソン」と返ってきた。女子高生という設定じゃないのか!?)、かわいい人工知能だ。
三月二十五日(水)
地味な作業が続く。おそらく明日はもっと地味な作業を一日中続けることになる。今のうちに英気を養っておこう。そのため夕食に加えて、香ばしいベーグルを食べた。
COVID-19はどんどん大ごとになってきており、首都の封鎖までまじめに検討されている。気が重いので、ニュースも必要最低限を追うにとどめ、ツイッターでの評論家や素人の議論はほとんど無視している。このままだと、懸念していたとおりに美術館を全部閉めることになってしまうだろう。やはり今週末のうちに出かけておこう。金曜日の職場帰りなら土日の外出自粛にはかぶらないし、バンクシーは横浜市内なので小池都知事の管轄外だ。冗談はさておき、今のうちに気晴らしをしておかないと、今以上の危機の際に平常心を保っていられない。これで図書館まで営業を取りやめられてしまったら、目も当てられない。家にこもって久しぶりにcivilization 6でもやるべきか。
で、ますます風俗どころの話ではなくなってきているが、そもそも自分が本当に行きたいのだとはあまり思っていない。実際に行くよりも、行ったところを空想するほうがずっと好きだということもありうる。性的な自由というか放縦さは、自分の中では無制限の自由のシンボルになっていて、だから仕事中にしんどくなったときに人妻ヘルスで二人のおっぱいを同時にもみもみすることを思い浮かべてやり過ごすのだ。実行したところで自分のようなタイプは、まず初対面の人間二人を前にして、確実にアウェイに感じるだろう。こうやって自分の風俗に対するスタンスをメモしてみると、自分の本当にやりたいことが見えてきてありがたい。
そうだ、金曜日にベトナム料理を食べようとして調べたのだが、bunkamuraのそばにはベトナム料理屋が二件あるらしい。二つともすぐそばの雑居ビルの六階にあるのは面白い偶然だ。食べログの情報を信じるならば片方は日本人好み、もう片方は本格派らしい。本格派のほうが面白そうなので、そちらに向かうとしよう。
それにしても本当に娯楽施設が全面閉鎖になったらどうしようか。ずっとためらっていたアマゾンプライムへの加入も検討してもいいかもしれない。一応docomoユーザーなので、無料券をもらっているのだが、面倒くさがってまだ手続きをしていない。自分は必要がないならやらないという無精者だ。
今思い出したが、今日は職場でランチ会があった。以前はパクチーを名物にしていた店だったのだが、それがつぶれていつの間にかパスタ屋になっていた。期待していたよりも麺がもちもちしていておいしかった。ただ、十数人で押し掛けたのに台所を一人で切り盛りしていて、大変そうだった。普段はそれほどお客さんが来ないのだろうか。
小説の執筆は、日曜日に再開するつもりだ。再開したら、日記をここで書くのも取りやめるかもしれない。
追記。
三月二十六日(木)
起きたときにまたもは片頭痛、加えて吐き気があった。大分収まったが、まだ具合が悪く、ひとまず午前休をもらった。
思い当たる理由は特にない。強いてあげれば、非常に不快なニュースを増田経由で見てしまったことだが、海外の翻訳サイトであり、フェイクニュースである可能性も否定できない。実際カテゴリを見るときわものばかりで、大いに疑わしい。事実だとしても、自分が取れる対処としては特にない。
増田は、自分の感情を整理して公開するにとてもいい場所だと思うが、垂れ流し状態というか、自分の負の感情を吐き出すというか、他人に八つ当たりしているようなトピックもあるので、そうしたものからは適度に距離を置きたい。
今年も始まって3ヶ月が過ぎようとしている。
酷く憂鬱な始まりの年ではあったが、この後はもうちょっとマシな生き方をしようと思う。
先ず、昔普通にやっていた文化的生活っぽいものを復活させたい。
そういったところに行こうと思う。
きっと癒やしがぼっち感を上回る筈だ。
私は車に乗らないので、e-bikeでも買ってポタリングがてら遠くまで行こう。
日帰りでもいいから、寺なんかがあるところへ旅行へ行くのもいい。
それから、ストレスで肥って行く気にならなくなった大きいお風呂へ行こう
(なんなら週イチくらいで行こう)
あと、夏になったらちゃんと花火を見に行こう。毎年職場から見るのは嫌だ。
勤めて丸3年は経っていないが。
この後の短くはない人生に於いて、この職場に居ることによる肉体的精神的損失は計り知れない。
そもそも、「人に尽くす様な仕事」というのに向いていなかったのだ。
「もしかしたら」という淡い期待によって奉職してみたが、矢張り私の「人間に対する愛情の薄さ」は並大抵ではなかった。
同僚は「バイトした方が楽だし稼げる」と言っている
(この片田舎ではダブルワークでもしないと私が現在得ている微々たる月収にすら届かないと思うが。それか夜職でもしない限りは)
ボーナスだって夏冬合わせても貧乏腰弁の月給に届かない程度だ。
ボーナスがあるだけマシ?月給がそれなりなのならボーナス無しでも構わないのだがな
(ところで、これから始まる同一労働同一賃金について世の正社員はどう考えているのだろうか。
普通の企業なら賞与額で差を付けるのだろうが、正社員で居る意味が無くなる様な人も出てくるだろう。
あと、この法のせいで馘首される非正規も)
なんにせよ、この惨めな人生を更に生き続けるのならば
少しでも楽で満足出来る様なものを目指すべきだ。
三月二十四日(火)
今日は頭痛にならなかったのでよかった。ただ、仕事中に同僚から声をかけらえることが多く、ついぞんざいな対応をしてしまった気がしたので、あとで少しフォローを入れておいた。というか、いつもよりも丁寧に接した(つもりだ)。
帰宅すると思った通りに妹がいない。妹はコロナウイルスのためにテレワークを導入しているのだが、職場まで遠いので普段はそれなりの距離を歩いている。一日に七千歩ほどだそうだ。その分がなくなって運動不足になることを嫌がり、朝はジョギング、夕方にはテニスをしている。それだけの元気が一体どこから来るのか、自分にはよくわからない。自分だったらきっと本を読んで過ごすことだろう。
休みに行く美術館を昨日いろいろと検討したが、ツイッターで出てきた広告によればバンクシーが近所に来るらしいので、そこがいいかもしれない。九月まで開催しているとのことだが、早めにいかないと混むのが目に見えている。しかもチケット制だから、どんどん予約が取りにくくなるはずだ。できたらここ二三週間のうちに行きたい。bunkamuraのほうは金曜日に仕事帰りに行けばいいだろう。エゴ・オブスクラは六月までやっている。焦ることはない。
それよりも、オリンピック延期に伴って、また美術館側が判断を慎重にしてしまい、一度開いた美術館を閉めてしまうのではないかということが心配だ。そういうことも考えられるので、できたら今週の土日に二か所くらいは足を運んでおきたい。で、バンクシーは横浜なので、帰りに有隣堂に寄ってハヤカワSFコンテストや新潮ファンタジー大賞の受賞作、それから漫画を数冊購入することにしよう。久しぶりに図書館を使わずに済ませる。それから、ふとベトナム料理が食べたくなってきたのだが、これは金曜日の仕事帰りに行けばいいだろう。
しかし、これだけ大ごとになってくると、風俗に行く気も萎えてくる。客観的に見てリスクは非常に低いと思うのだが(性病のほうがよほど危険だ)、単純にやる気がなくなってくる。いや、そもそも道徳的に行くべきではないと判断している自分がいて、だから金曜日の帰りは美術館に寄ろうと決断している面もある。そのあとにバニーガールバーかおっぱぶくらいには寄ってしまうかもしれないが(いや、さすがにそんなことはあるまい……)。あとはウイルス潜伏させたまま、祖父母に会って感染させたりしようものなら、とんでもない罪悪感があるだろう。
あと、当分海外は無理だろう。特に欧米方面は人種差別問題がある。不確実な状況が続く中で、犯人探しをしてしまう心理というのは誰にでもあるものだが、わざわざ心がすさんでいるところに足を運ぶこともあるまい。平時であっても、自分が旅行した時は街の人々は概して親切であったが、失礼な態度を取る人間はゼロではなかった。そういう目に合うのも社会勉強なので、いい経験にはなったのだが、留学中の後輩はさぞ大変な思いをしているのだろう。
今日の夜のティータイムはアーモンドクッキーともなか、それからミルクティ。
それにしても、ここで日記を書くの、いつまで続けるんだろう。小説が書けなくなったのでその気晴らしにいいのだが。
頭が痛い。
軽度の片頭痛と目の奥の痛みが定期的にやってくる体質なので仕方がないのだが、原因は寝不足な気がしてならない。昨晩、本格的に意識が飛んだのが朝の三時だったのだから、睡眠時間は当然足りていない。
なんでそんなことになってしまったのかといえば、日曜日に布団にもぐりっぱなしだったからなのは間違いない。一応ジョギングをして身体を動かしはしたのだけれど、朝の七時から正午まで横になっていては体内時計がおかしくなるし、眠れなくなるのも当たり前だ。そろそろ、土日の過ごし方を失恋以前に戻す頃合いだ。
さいわい、コロナウイルスで閉館していた美術館も徐々に営業を再開している。密閉した空間で大勢の人間が近距離で会話をするという条件がそろっていなければ大丈夫なのではないか、みたいな理屈らしい。ひとまず、bunkamuraの超写実絵画か、原美術館のエゴ・オブスクラに足を運んでみようか。正直なところ、超写実絵画はあまり好みではない。ごくごく少数の作品を除けば技巧に走りすぎていて、なぜ異様に細部を再現する表現を選んだのかがあいまいな作品が多いと、勝手に思っているからだ。しかし、もしかしたら自分の好みの作品に出合えるかもしれず、わざわざその可能性を閉ざすこともないだろう。原美術館のほうは森村泰昌の作品を展示しているが、出会ったのは数年前、上野で彼がクラーナハのユディトか誰かに扮していた写真だ。記憶に残っているのだし、自分のアンテナには引っかかる要素があるのかも。気力と体力が金曜日を過ぎても残っていたのなら、久しぶりに行ってみたい。
別に映画を観に行ってもいいし、現に「ミッドサマー」がすごく気になっているのだが、最近心身が本調子ではないため、わざわざ具合が悪くなりそうなものを見に行くリスクを冒すこともないだろう。学生時代の自分はもっと芸術至上主義だった気がするが。わざわざ不快になりそうなものばかり見たがっていた。
ところで、昨日心配していたようには、仕事中にソープランドのことばかり考えてしまうといったことはなかった。だが、寝不足のせいでホルモンが乱れたのか、理由のない不安があった。作業をしているうちに消えたが、規則的な生活を守ることの優先度はもっと高くしていきたい。
この、風俗に行く空想のことを少しばかり恥じている。本当のところ、金曜日の夜はそこに行きたいという思いもないわけではないが、たぶん早く帰りたくなってしまい、そうすることはないだろう。土曜日や日曜日の場合は一度家を出ないといけないのだが、そのハードルも高い。そして、結局行くか行かないかをうだうだしながらベッドの中で過ごしてしまう。馬鹿げている。一発抜いてしまえばそれで収まる話なのに。自分は名前のわからない、匿名の女性に触れたいのではない。なぐさめてほしいのでもない。セックスができるかどうかについてを過剰に恐れているから、自分の男性的機能を確かめたいだけだ。勃起するかどうかが不安なのだ。その不安を抱えたままだと、いざ風俗嬢に対面した時に気分が悪くなってしまうだろう。自分がしたいのはそういうことではないはずだ。完璧な勃起なんて、通常のセックスでも、そうそう見られないのではないか。
本題に戻ると、失恋直後の何も考えられない状態だったからこそ、何の抵抗もなくマットヘルスに行けたのに違いない。情けない声を挙げながら精子を漏らすことができた。でも、本音ではやっぱりちゃんとした恋愛がしたいのだ。ただ、まだ踏み出す勇気が出ないだけだ。失恋から一か月が過ぎて、とりあえず正常に仕事ができる心理状態になっているし、彼女のことを思い出してももうほとんどつらくないので、前に進んでいるのは確かだ。だから、焦らずに夜食のお団子を食べて幸せをかみしめよう。今日のお団子はこしあんのきめが細かくて好きだった。
そうそう、突然だが、同僚と水曜日にランチ会を開くことになった。以前と比べて、他人と雑談するのが苦痛ではなくなってきたのもまた、うれしいことだ。
ところで、ツイッターに移行して以来、こうしてある程度のまとまった文章の形で日記をつける習慣をなくしていたのだが、切れ切れにならない思考の跡が残るのも悪くない。ただ、ツイッターでつぶやいたものとも重なるので、二度手間になっている気がしないでもない。あるいは、最近小説を書けなくなっているので、その代償行為なのかもしれない。
(いくつかフェイクあり)
カウンセリングを受けて何かと楽になったので、知見を共有したい。
それに、カウンセリングを終えてからそろそろ1年が経過するので、ちょうど過去を振り返るのにちょうどいいと考えた。
増田でも、多くの人が「カウンセリングに行ってみたら?」と時には本気で、時には冗談で言うのだけれど、そこが実際にはどんな場なのかを知らないせいで、行くのをためらっている人が多い現状を、変えたいというのもある。
増田だけではなく、ネット上の多くの人が、少しでも楽になれるように祈っている。その助けになれば幸いだ。
長くなりそうだし、愚痴っぽくなるのも嫌なので、代表的なものだけを箇条書きで挙げる。
臨床心理士の資格を持っている50代の女性。中学生くらいの子供がいるらしい。
髪の毛が長く、少しやせ型。落ち着いた物静かな女性だが、明確な自分の考えを持っている印象がある。初恋の人に似ている気がするがおそらくは気のせいというか、投影しているのは間違いない。
初回は風景構成法を行った。これはカウンセラーの指示に従って、順番に山や川、家や田んぼ、人物などを配置していくもので、専門書に当たれば具体的な解釈方法が書かれているが、自分は専門家ではないので省く。当日に描いた作品を今になって振り返ってみると、道のど真ん中に障害物の石が置かれていたり、山が雪に閉ざされていたりと、寒々とした印象を受けた。描かれている人間も逆立ちをしていて、何やら不穏である。蛇も不気味にとぐろを巻いていた。
二回目からは主に夢分析を行った。カウンセリングとカウンセリングの間の一週間に見てきた夢を記録して、それを材料に話をする。つかみどころがないようだが、意外なことにかなり効果があった。理屈はわからないが、この治療中は同じようなテーマの夢を見るようになる。さらに、肝心なのは夢の内容そのものではなく、夢の話をしているうちに自分が何を思い出したか、あるいは漠然とした印象をどのように語りなおしたかで、それによって、自身の考え方の偏りや傾向が見えてきた。現に、夢の内容を話す時間は案外短く、後半の三十分は、そこから思い出した過去の出来事や近況、それについて自分がどう感じたについて話し合うことに費やされた。そうした雑談をきっかけに、突破口を開いたこともある。
夢分析が行き詰まった時には、箱庭療法を試みた。これは、砂の敷かれた箱の上に人形や模型を配置していくもので、話しながら人形を動かしたり、砂の上に模様を描いたりした。うまく説明できないが、非言語的なものを明確にするのに役立った気がする。例えば「このタヌキ(の置物)は寂しくて困っている。友達がいなくて寂しそう。上下がひっくり返って困っている。悲しくて暴れている」などと比喩的な話をすることで、日常使っている言葉の論理で語りたくないことを口にしていた。小さな人形を触っているうちに気分が落ち着いたり、逆にひどく動揺することがあったり、不思議な経験だった。箱庭療法の最初の一回も、自分の心理的混乱が反映されていたのか、人形同士がにらみ合ったりひっくり返ったり無意味に積み上げられたりと、非常に張り詰めた印象のもので、カウンセラーも「ちょっと怖い」という印象を漏らしていた。
これらの技法は、ある種のきっかけというか呼び水だった気がする。どんなことを語っても許されるというか、傾聴してくれる場というのはそれだけで貴重で、話しているうちに自分の思いがけない本音や、ダブルスタンダードに気づいた。また、夢のような一見「どうでもいい」話ができる仲になることで、普通は人に話すこともはばかられるような、野外オナニー願望についても話すことができた。
治療も後半になると、こうした技法はほとんど用いず、通常の雑談に近くなった。自分はこういうことをしてこう言う結果になった。自分の気持ちはこうだ。そうしたことが素直に言えない人のために、これらの技法はあるのかもしれない。
始め、自分は藁にも縋るような思いでカウンセリングを申し込んだ。と同時に、どこか疑ってもいた。自分はカウンセリングの技法についての基礎的な知識はあったし、大体どのようなことをされるのか予想がつくと思い込んでいた。精神分析に関するフロイトの著作だって読んだことがあるし、河合隼雄の「ユング心理学入門」も読んでいた。しかし、カウンセリングの概略を知っていることと、実際にカウンセリングを受けることとは、まったく別の経験だった。水泳の理論と、実際に水に入って泳ぐこと以上に隔てられている。なんといっても、何年にもわたって定期的に同じ人間と会うのだから、必然的に相手には強い感情を持ってしまう。結局、人間が強い感情を持つのは人間に対してであり、人間が変わるのも対人関係を通してだ。
カウンセリングでは何について話すことも自由だった。幼少期の悲しみ、いじめられた経験、両親から受けた不条理な仕打ちなどなど。それだけではない。女性にするべきではないとされている話もした。自分の性生活、自慰行為、風俗店での出来事など、自分は露悪的なまでに細部を語ったが、しっかりと耳を傾けてくれた。
そして肝心なのが、何度同じ話をしても相手は退屈する様子を見せない点だ。自分は、同じ話を繰り返すことで忘れていた細部を思い出すことがあったし、それに新しく意味付けをすることもできた。
最後に、カウンセリングの時間が終わりに近づくと、カウンセラーは僕の話した内容を簡潔に言い直す。そうすると、自分はこういうことを考えていたのか、と毎度のように驚かされる。まとめられた内容を反芻しながら次の一週間を過ごすことで、自分の考えが深まっていった。他にも、自分がすべての不平不満をぶちまけた後で、それに対する解釈を投げ返されることで、その負の感情を自分の一部として取り込むことができるようになった。「あなたがそこで腹を立てるのは当然だ」「あなたの感覚はそれほどおかしなものではない」という趣旨の言葉を返してくれるだけで、自分の過去を少しずつ受け入れることができるようになっていった。
ところで、カウンセリングに通ったのが、2014年3月から2019年8月のことなので、4年以上も同じ人と毎週のように会っていたことになる。途中から自分の気分が落ち着いてきたので隔週に切り替えたのだが、それでもかなりの頻度だ。自分は、自分のあらゆる感情や悩みをぶちまけて、それでも受け入れてくれる存在がうれしかった。モテないあまり風俗に浸っている自分を軽蔑しない彼女の存在が尊く思われた。
珍しくないことだが、自分はカウンセラーに好意を持つようになった。自分は、職業倫理上その気持ちは受け入れてもらえないことだと知ってはいたけれど、「あなたを尊敬しているし、とても強い好意を持っています」と伝えた。カウンセラーからは「私もあなたと会うのが楽しみです」という趣旨の返事をもらった。と同時に、僕は、なぜこのカウンセラーが好きになったのかをじっくり考えだした。すると、自分には好きな人に自分の悩みを洗いざらい吐き出したいという願望があったのだ、と気づいた。同時に、自分は知的水準の高い女性に強いあこがれを持つことも改めて認識した。年齢などどうでもよかった。比較的若く見えるが、相手は五十代の人妻で、自分が手を出すわけにはいかないのだけれど、叶わない想いだとは知りながら、相手に尊敬の念を持ち続けるというのは、思ったよりも悪くなかった。おかげで、自分にとって他人を好きになるとはどういうことかを言語化できたし、他人を尊重することを身をもって学んだ。
一人の女性を好きになり、それを軽蔑されたり馬鹿にされたりしないこと安心感を、自分はたくさんの悩みに取り組む支えとしていった。僕は、このカウンセラーのことが好きになれて、本当によかったと今でも思っている。
過去のどのようなつらい経験も、自分はそれぞれ意味があったのだと、迷いなく考えられるようになった。それから、今までは様々な物事を与えられて当然だと感じていたが、やっとのことで与えられた物事に感謝することを学べたように思う。
また、自分の恐れの感情やトラウマにとらわれずに行動できるようになったことで、自分の外側の世界に対して、うまく働きかけることができるようになった。
もちろん、上に書いたような悩みのなかには、直接解決しなかったものもある。でも、それはそれで仕方がない、と受け入れられるようになった。
何よりも現実検討能力がついた。不安を不安のままかかえておけるようになり、不安で頭が真っ白になることがほとんどなくなった。自分の中の膨大な不安のエネルギーが、落ち着くべき場所を見つけたかのようだった。
悩みの解決の過程を言語化するのは難しい。自分の考えがどんな風に変化していったかを記すにとどめる。人によってたどるべき道のりは異なるし、僕の頭の中の理屈をそのまま文字にしても、納得できないことは十分に考えられるからだ。
過去のいじめ、対人関係のトラブルはとても悲しいものだった。でも、おかげで自分は人をできるだけ傷つけないようにしようと心掛けられるようになった。それと同時に、絶対に誰のことも傷つけない発言・表現というのも無理だとも知った。男性であれ女性であれ、相手を一人の個人として尊敬することが大切であり、それは自分と相手は異なっていると認識することだ。だから、できるだけ丁寧に接することは大切だけれども、自分と他人は別の存在なので、礼儀正しくしていたとしても、絶対に不快な思いをさせないでいることは不可能だ。かつての自分は、自分が女性から不快な思いをさせられた経験から、絶対に女性を傷つけてはいけないというルールを自分に課していたのだけれども、それは不可能だと知った。過度に自分を縛る目標は、ある種の呪縛だ。
それに、世間にはいろんな女性がいる。優しい人、冷たい人、知的な人、ちゃらんぽらんな人。一人の女性が自分に暴力を振るったからと言って、そうでない人もたくさんいる。女性一般や平均的女性像みたいなものに、振り回されなくなった。
フェミニズムとの距離感もうまく取れるようになった。納得できることはうなずき、わからないことについては調べ、おかしいと思うことには反対する。それは、フェミニズムだけではない。自分とは違う考えの相手に対する対応の仕方と全く同じだ。
仕事に関しては、転職をした。自分の能力に見合った仕事に切り替えることでやりがいも感じられるようになった。給与は下がったが、例えば600万稼ぐ人間が300万稼ぐ人間の2倍偉いのかといえばそういうわけでもないし、僕にとっての一番大切な価値観は、早寝早起き快食快便が守れる生活が維持できるかどうかだと知った。
男らしくないのではないか、というのも気にしなくなった。世間の価値観がどうあれ、自分が好きなことを好きなようにする。自分らしくあることが自分にとって男らしいことと定義しなおした。
その中で、家族との関係も改善した。今にして思えば、両親は自分と非常に適切にかかわってきてくれた気がする。圧倒的にすがりたいと思っていた両親も50~60代のただの人間なのだ、と実感することができた。しかし、ただの弱みもある人間だからこそ、大事にしたく思えるようになった。距離感が適切になった気がする。
処女厨もロリコンも治った。正確には、そういう願望があることそのものに対して、思い悩まなくなった。一つには、50代の女性に恋をすることで、実際に小学生と恋愛したって、物足りなくなるに決まっていると心の底から理解したというのがあるし、人生経験豊かな女性の魅力に気付いたのもある。さらに、処女厨の根源にあった、「セックスとは汚いものだ」という意識も弱まった。「セックスは気持ちよいものだし、誰かを愛することは素敵なことだ」という感覚しかなかったら、処女喪失を汚れとは認識しないだろう。それよりも、出会った二人が新しく一緒に思い出を作っていくことの喜びに目が向くようになった。まだ彼女はできていないけれども、一緒にデートしたり、他愛のない話をしたり、うとうとしたりしたいし、それに向けて今でも努力している。
女子小学生の裸を見たいという感じもほとんどなくなった。確かにあの年頃の女の子はかわいいけれど、それだけのことだ。どんな感情を抱こうとも人間は自由だと思えるようになったことで、かえってそうしたロリコン的な願望から自由になった。
同時に、野外オナニー願望も消えた。なんというか、得体のしれないドロドロした性欲のエネルギーに、適切な形が与えられた感覚がある。よく夢で、性器を露出したり全裸になったりするパターンが多かったのだけれど、カウンセラーと話すうちに「おちんちん見せるだけじゃ意味ないよね?」みたいな話になり、そうしたことを話しているうちに、セックスって相手あってのことだよね、みたいな認識に到達した(このあたりの話が非常にわかりにくいのではないかと恐れている。ラポール、とでもいうのだろうか、クライアントとカウンセラーの間には、長い間の会話の積み重ねからくる膨大なコンテクストの共有があり、ある種のツーカー関係が出来上がっているので、会話だけも書き起こしても非言語的な部分が多くを占めていて、客観的にはわかりにくくなりがちだ)。
死への恐怖は、とりあえず先送りされた。これは個人的な経験だけれど、死ぬのが怖くてたまらないときというのは、何か大きな変化を恐れているときか、未知のものに飛び込まなければいけないときに強まるような感覚がある。
カウンセラーには日々の出来事を何でも話すことができたが、別にカウンセラーに聞いてもらわらなくても、別に大丈夫になってきた。さらに、ここで話をしても、これ以上自分は楽にはならない気がするようになってしまった。
とても感謝はしているけれども、自分で自分を励ます考え方ができるようになっていて、あとは毎日の出来事を淡々とカウンセラーに報告するだけみたいになっていた。
というのも、自分の悩みを解決できるのは、最終的には自分だと思うようになったからだ。話を聞いてもらって勇気をもらったり、現実的なアドバイスを受け取ったりすることはあったけれども、実際に行動するは他ならぬ自分なのだ。
ならば、これ以上ここにいても、自分は変われないのではないか、という気がした。そして、3月という区切りのいい時期であったので、そこで終えることにした。
最後にもう一度風景構成法を行った。山には緑があふれるようになり、街には人がたくさん姿を見せるようになった。蛇は道や川のうねりへと姿を変えた。困ったときには駆け込めるような病院や、芸術を鑑賞できるような美術館も街に描かれていた。そこでは、たくさんの人々が連れ立って歩いていた。ずっと住み心地のよさそうな風景だった。
たくさんの反響をいただけて感謝している。初めて4桁のコメントをいただいたのも嬉しかったのだが、ブクマやコメントの体感9割が共感に満ちた、あたたかいものであったことのほうがずっとうれしかった。ツイッター上でも多くのコメントがついた。これほど多くの人が恋愛で何らかの挫折を感じていることを知ることができただけでも、自分の経験を率直につづった意義があった。すべてにコメントを返すことはできないが、非常に励まされた。ほんとうにありがとう。
一方で、デートを繰り返すたびにどのようなトライアンドエラーを繰り返してきたのが不明確で、問題はそこにあるのではないか、という意見をいただいたので、そこを捕捉する。
心掛けたのは清潔感だ。ただ、この清潔感の内容があまり具体的でないことが、多くの人を困惑させている印象を受ける。自分としては逆に、不潔感から減点されることがないことを心掛けた。
まず、身体面について。髪の毛は美容院で短くし、眉も整えてもらう。きちんと入浴し、定期的に歯科医で歯垢を除去してもらい、ブラッシング指導を受ける。爪は短く切りそろえる。デート前にはシャワーをしっかり浴びてさっぱりする。ただし、香水はつけなかった。人によって好き嫌いがかなり大きく出るので、そこはリスクが大きいと判断した。
衣服については、ワイシャツっぽいのとチノパンが多い。靴はスニーカーではなく、革靴に似た質感のものを。眼鏡はJINSをかけている。髪は黒いままだ。学生の頃はコンタクトレンズにと茶髪にしたこともあったが、すぐに目が痛くなってしまったし、染めるのも手間だった。髪を染めたからといって別にモテるようにならなかった、というのも大きい。
ネックなのは、そこまで皮膚がきれいではないということだ。どうも毛穴が開いてしまうし、ニキビ跡が気になる。そこが改善点だろう。
基本的に、自分のなじみのある行動圏内にした。休日を一人で過ごすときにうろつく場所だ。そこでなら、急に予定を変更しても対応が可能だ。美術館を中心に過ごしているので、候補としては新宿、渋谷、六本木、丸の内、上野が真っ先にあがる。次の候補としては水族館のある品川、明治神宮や絵本カフェのある原宿、日本庭園のある美術館のある表参道、それから日本画を見られる恵比寿がある。
その近辺の映画館やカフェを把握しているので。その場の流れで行く場所を考えることになっても対応可能だ。ついでに事前にイタリアンやタイ料理屋などの場所を調べておく。
今後の課題としては、お酒の飲める場所だろうか。自分は下戸なのでそこが困る。アルコールよりは料理にお金をかけたいタイプだ。そうそう、脱線してしまうがwithにはどういう食事デートがいいかのタイプの心理テストもあって、バーが好きとか居酒屋が好きとかお酒よりの料理派とかでもマッチングが行われていた。
基本的に聞き役に回り、共通点があったら話す。体感では相手の話す量とこちらの話す量が7対3だった。知識のひけらかしは絶対にしない。聞かれたときにだけ、ごく簡潔に答える。相手の興味があるジャンルだったらそこに乗っかることも考える。
美術館や映画の感想は、率直に感じたとおりに伝える。ただし、否定的なことはなるべく言わない。面白かったところ、楽しかった点などを話したほうが楽しい。岩井俊二監督の「ラストレター」は、内容はそこまで心に響かなかったが、個人的には庵野秀明が鶴田謙二の絵を描いているという設定がかなり笑えるポイントだった。さいわい、彼女も僕と趣味が共通していたので、そこがおかしいと言って笑ってくれた。その人が結局は音信不通になってしまったのだけれど、もう過去の話なので、どうでもいい。あとは、彼女によれば、岩井俊二の作品には誰かに成り代わって手紙を書くという場面が頻出するそうで、その話をじっくり聞かせてもらった。「花とアリス」にもそういう描写があるそうだ。ずいぶん昔に観たはずなのだが、すっかり忘れてしまっている。
PDCAを回すとすればここなのだろうが、盛り上がるときは盛り上がるし、共通の話題が少ないとなかなか盛り上げられない。共通の話題が少ないと、交際に至っても大変なんじゃないだろうか。あと、実際に顔を合わせないとどうしようもないところも多々ある。さらにPDCAを難しくしているのは、就活と同じで向こうからのフィードバックが原則として一切無いところだ。真っ暗闇の中での手探りとなり、ここで病んでしまう人も多いだろう。
他に心がけたのは、相手の顔を見てゆっくりと話すことと、声を少し低めにすることだ。
趣味は美術鑑賞、読書、ジョギング。無難な趣味で、本は図書館を利用するのでお金がほとんどかからない。
美術鑑賞は、月に1~2回。学生時代は西欧の絵画を見ることが多かったが、最近は日本画も気になっている。現代アートも抵抗がない。それと、古代の出土品なども見るのが好きだ。
読書は小説とノンフィクションを半々。小説は古典や海外文学が多い。ノンフィクションは科学や歴史を扱ったものが中心だ。大体月に12~13冊だが、先月は失恋したのでペースが落ち込み、10冊にとどまっている。
ジョギングは週に1度だけだが近所を10~11km走っている。頻度としては少ないが、やらないよりはずっといい。運動しなかったころに比べると仕事で疲れにくくなっている。加えて、走る前には軽く筋トレをしている。この間失恋した時に行った風俗嬢からは「何か運動されてたんですか?」と尋ねられるくらいの体型だ。ただし、やっぱりここでも顔立ちは褒められたことがない。
付け加えるとしたら旅行だろうか。ここからも話題が広げやすい。
男子校に行っていたので、初デートが19歳でのことだった。大学の中国文学での授業で知り合った女性を、夏休み直前にデートに誘った。けれども、あまり盛り上がらなかった。しかも、無理に手をつないだら痛烈な軽蔑のまなざしで睨み返してきた。そして、夏休みの予定がすっかり空になってしまった。たくさんデートしようと期待していたのに打ちのめされた。懐かしい。だが、今でもあのことが胸につかえていて、女性と気軽に手をつなぐことができない。とはいえ、デートした女の子はみんなポケットに手を突っ込んでいたので、勇気を振り絞っても仕方がなかっただろう。
大学での思い出は他にもいろいろとある。講義で、隣の女子に何気なく話しかけた次の週に、まるでボディーガードのようにその女子の友達らしい人物が控えていたのが、悔しかったことを思い出した。普通に友人になりたかっただけなのに。
社会人になってから、都合三回ほど街コンに出かけた。とはいえ、デートにつなげることは一度しかできなかったし、それも一回目で終わってしまった。
街コンのメリットは、マッチングアプリとは違って必ず対面で話ができることなのだが、進展しなければそれまでだ。それに、街コンそのものに何らかのテーマがないと初対面の女性との接点がほとんど持てない。なんとかデートに持ち込めたのは美術館で行われた街コンだった。恐竜に関する企画展で行われた街コンでは、一応テーマがあって理系女子も多かったはずだけれどもほとんど会話ができなかったし、テーマがまったくないときには非常に困ってしまった。なにより、その時に運営側の手際があまりよくなかったうえに男性が余り気味で、男性4に対して女性2でテーブルにつく羽目になった。なお悪いことに、同席した相手があまり柄のよろしくない人で、女性がいないときには平気で卑猥なことを口にしていたのが耐え難かった。女性とマッチングしなかったのはこいつらのせいじゃないか、とも感じられたのだ。おそらくは八つ当たりだ。
しかも、結局は数人のモテる相手だけで連絡先交換が行われていた。たぶん婚活パーティに参加しても、同じ結果になりそうだ。
2回ほど経験がある。
1回目は塾講師をやっている友人とだ。カラオケボックスで2人連れの女性を落とし、その場で交互にセックスしたという剛の者だ。街コンで連敗していた自分は自棄になって彼についてカラオケ屋に行ったのだけれど、そこでもうまくいかなかった。女性連れの部屋を探し、扉を開けて「一緒に歌いませんか?」と何度も言ったけれど、普通に「迷惑だから帰ってください」と言われて終わった。今振り返ってみれば、そりゃそうだろうと思う。反省している。二十代前半の黒歴史で、一番恥ずかしく、忘れてしまいたい。
2回目は湘南の海辺での話だ。獣医をやっている男で、犬を飼っている若い女性に自然な形で話しかけて仲良くなれるタイプだ。二人して江ノ島をうろついていたが、僕がうじうじしていたのもあり、結局うまくいかなかった。その後、彼が勝手に姿を消して、どこに行ったのかと電話を掛けたりメールしたりしているうちに、水着姿の大学生グループを連れてきた。結局僕はビキニギャルとビーチバレーをして遊んで帰った。楽しかったのだけれど、結局は僕がいるからナンパがうまくいかなかったのかもしれない。
とはいえ、そのイケメンの友人も妻の浮気で離婚しているし、失礼な女性にばかり引っかかっているので、イケメンにはイケメンの悩みがあるらしい。別のイケメンの友人も女性側が不倫していた。なんか自分の周囲はこんなのばっかりだ。ただ、基本的に男性側の話しか聞いていないので、バイアスがかかっている可能性は否定できない。
なんにせよ、一番向いていない方法だと学んだ。
ちょうど就職した直後、文学サークルの後輩女子三人とそれぞれ二人きりで会うことになった。パフェだとかガレットだとかチャイだとかをおごって、ああだこうだ話したのはとても楽しかった。けれども、基本的にはそれっきりだった。僕もそれほど期待していたわけではない。学生なら、社会人の先輩からはランチくらい当然おごってもらいたいだろう。SNSを見るとみんなそれなりに元気そうなので良かったけれど、僕もサークル内恋愛がしたかった。
サークル内部の一組のカップルは結局結婚した。誰が見てもイケメンと美女のカップルだった。もう一人のカップルは男が平気ですれ違った女性に対して「あいつはブスだ」とは言うような奴だったし、女性蔑視的な言動が多かったのに、なぜか彼女ができていたのが、今でも不思議で仕方がない。粗野な奴のほうがモテるのか、という疑惑にさいなまれることもあるけれども、こっちが軽蔑したにもかかわらず慕ってくる相手とは、なんというか健全な関係が築けない気がしていて、自分としてはやっぱり相手のことは大切にしたい。ちなみにそのカップルは別れた。
全然関係ないけど、サークルのもう一人のイケメンは新聞記者をやっていて、そのつてで引退した芸能人と結婚していた。うちの大学は偏差値高いんだけど、天は平気で二物を与える。こればかりは仕方がない。
自分や自分の経験に重なるところがあったので書きますが、失恋直後にかける言葉ではないかもしれません。傷つけたらごめんなさい。
・21歳女性
・158cm 中肉中背
・顔立ちはめったに褒められない
・趣味は読書と映画と美術鑑賞。春休みなのにコロナで美術館に行けないので、家に引きこもって全話無料開放中のいぬまるだしっを読み切りました。
持論ですが、文化系の趣味は基本的にリアルで恋愛の契機になることは少ないと思います。
美術鑑賞や映画鑑賞は基本的にパーソナルスペースを確保したまま進行するので、
通常進行=友達判定
です。
普通にしていれば(物理的に)距離が縮まらないイベントで、意図的かつ自然に距離を縮めるのは恋愛上級者でない限りものすごく難しいと思うんですよね……。
友情は好意、恋愛感情は好意+性的衝動が相互に成り立つことだと解釈しているので、美術館や映画は複数回繰り返せば友情は成立しますが恋愛感情が生まれることはなかなかない気がします。
少なくとも、私はそうでした。
じゃあサシで会うなよ!思わせぶりにすんなビッチ!と言われるとそうですね反省します、としか言えませんが、キスやセックスをしたいと思わないだけで会ってて楽しいことは間違いないので誘われたらついて行ってしまうと思います……。
長くなりましたが、もし恋人を望まれているなら手法を変えたほうがいいと思いますし、結婚相手を探されているなら手法はそのまま戦場をマッチングアプリではなく婚活市場にシフトしたほうが良いかと思います。