はてなキーワード: 美術館とは
名の売れてるってこんな末端のAKBオタク以外誰も知らねーよw
これ見て、見たこともないAKBが美術館行ってる!ステキ!わたしもAKBになりたい!ていう変わった女と、ウオー!AKBのなんとかちゃんが仕事してる!応援のために美術館に行かねば!!てオタク男のどっちが多いかっつったら・・・これどっちもすくねーなw
型稽古みたいに息苦しいなあ
解釈や楽しみ方までこうあるべきと無理強いされるのかあ
こういう連中にとっては美術すら集団行動を徹底する支配の道具なんだな
https://news.yahoo.co.jp/articles/1a1ea66276bca47908a38b0331350b9c96109a79
地域に根ざした公立美術館の隠れた魅力やアートに触れる楽しさを、“映える写真”を通じて女性目線で再発見していく連載「美術館女子」(随時掲載)
この記述からは増田が言っていることは自分には読み取れないんだが、
「女を呼び込む事で美術館に増えた女を見に来る男を増やそうとして作られた記事」だと増田は解釈してるって事かな。ターゲットを誰に絞ったつもりだったのかは記者に聞かないとなんとも言えないけど、もう叩かれた後だし無難な自己弁護しかしないだろうな
むしろあの広告のターゲットって、これを見て来るだろう美術館に来る無知な若い女とお近づきになりてぇ〜っていう男を客として誘引してるんだと思ったんだけど違うのか。
フェミがBLMに触発されて何でもお気持ち表明すりゃ相手が間違ってる事になるって思って騒ぎ立てて最早クレーマーが神さまみたいな国になってきてる日本。息苦しー。勘弁してよ。女様のご機嫌とるのめんどくっさ。美術館女子という単語に過剰反応してる層は対象とされてるカテゴリーに含まれてないと思うよ。普段美術館に行かない層に来てもらう為に短い単語でシンプルに訴えてるだけなのに何でも絡んできてほんと鬱陶しいから住む世界分けられたらいいのにねこういう事で騒ぎ立てるフェミとそれ以外を。あー昔、大バッシングされた漫画があったなあ、あれ的確で何処にも非の打ち所ないと思ったわ。図星だと発狂するよねフェミ。すごい顔して書き込んでるんだろうな…こわ。悲惨。
美術館女子、オッサン目線のダッサイ企画すぎて無理なんですが、いつまで女性を無知扱いすれば気が済むんだろう。既に女性は自分のスタイルで美術館を楽しんでいるし、専門的知識を語る能力だって持ってる。男性と同じように色んな関わり合い方で楽しんできたのに、そう言うのを全部透明化される。
つってる人がいて、基本的にはすげえ同意だし「美術館女子」はねえわと思うんだが、それはそれとして「オッサン目線」はいいのか?という疑問も残る
すでにオッサンはフェミニズムを知っているし、女性と同じように色々考えて行動してるのに、そういうのを全部透明化される、と思うオッサンもいるんじゃねえのかと
それこそ性別に言及する必要はなく、「古い人間」みたいな表現をすればいいわけで、わざわざ「オッサン目線」ってのは差別的じゃねえかと思うんだよな
旅行もライブも美術館もスポーツ観戦も消えた世の中で、みんなは何の娯楽に明け暮れてた?
多くの人が不要不急を守りながら、日常が腐らないように気分をまぎらわせていたよね。
じゃあ自粛が明けた後は、観光地に二倍行ったりするのかと言えば、そんなことはないわけでしょ?
娯楽が世の中に溢れすぎているのに、人口は減少するばかり。
モノは所有からレンタルになり、サービスは購入からサブスクへと変化した。
次に縮小されるのは「体験」で、これはコロナが来なくても必然の未来だったんだよね。
コロナのせいで全てが奪われたんじゃなく、もともといらなかったものをコロナが断捨離してくれたんだと思う。
ところで「アニメキャラは白人」とは思わない立場だが、元増田の「マンガやアニメのキャラを白人と思い込む人のほうがレイシスト」というのは、それはそれで前段をすっ飛ばしてる感じがする。
「日本人と違い特徴を強調されたアジア人キャラ」って、少年マンガや少女マンガとかでは特に思い浮かばないけど、えらが張ってたり吊り目だったりするアジア人って描き方は青年マンガではわりとある。
『ギャラリーフェイク』の主人公フジタはわりと二枚目の日本人だけど、出てくる中国人とか東南アジア人はわりとそういう「アジア人的」な誇張が目立った気がする。フジタの同じアパートの人たちとか、美術品を横流ししてた人民解放軍の軍人とか。
これが女キャラだと、中東出身のヒロイン、ライバルの女性美術館長、女怪盗(アジア系)、自称モナリザの末裔である昔の恋人とその娘の顔の造形がそれぞれ大して変わらないのに比べれば、男キャラは人種的特徴を誇張されてはいた(もちろん日本人の男にも「アジア系の特徴」で描かれていたキャラはいる。ニンベン師とか)。一方でヨーロッパ系の男キャラは「白人の符号」で描かれていた。
日本のマンガは(単一民族とは言えないにせよ)人種的多様性の乏しいゆえに「人種(の衝突)」という概念をあまり意識しないお国柄によって「どのキャラも同じ人間(≒日本人)」という、「人種への無関心」で描かれている。
一方で少なからぬ日本人には、逃れがたい脱亜入欧的な意識や、ヨーロッパ人種の体型への羨望といった価値観があり、それらが絡み合って「普通の、一般的な存在」である主人公まわりの日本人キャラが「目鼻立ちのすっきりした小顔で手足の長い(≠白人)」容姿になる一方、「異質な存在である外国人」を描くときに、「白人」と「黒人」と「日本人ではない、それ以外のアジア人」みたいな排他性が表現されてしまう面もある(あった)ということは、否定しえない。
『美味しんぼ』で周大人の娘と子供を作って逃げた王という料理人は、いかにも「アジア人」みたいな容貌だったのが、中盤ぐらいで再登場したら好青年風の容姿になっていた。
マンガやアニメを海外で売ろうという時代である。「日本は差別意識ないから!」という主張で好き勝手描いていくというのは難しくなり、特に大手は「両性の平等」「少数者の尊重」「人種的配慮」などPCへの目配りをしながら「無難で安全な素材」を組み立てていくようになるのであろう。
美術手帳とかの記事をたまに読んでると、作品の解説にここまで遠回しで難しい言葉使うんだってくらいよくわからんこと書いてあって、芸術がわかる(解説できる?)人は語彙力があって知識量も豊富なんだなぁといつも感心する。
自分も、興味のある展示があったときは美術館とかアートイベントにいくんだけど(正味一年に数回)、周りに浮かないようにえりなしの白シャツ着て、いつもはかけない眼鏡かけて、観賞慣れしてる人を演じたりするけど、浮かぶ感想はごくごく単純なものだ。
でっけー!描くの大変だっただろうなぁ、書き込みすげー!
なんかぽやんとしてて曖昧な感じが逆にええ感じやなぁ〜きれいや〜
なんだこれよくわかんね〜な、タイトルみても結局よくわかんね〜な。これ評価してる人もほんとに意味わかってんのか
(からくり系の展示を見て)
ルンバに劣る無駄しかない動き、これを作ろうと思った根性がすげえ!
(裸の彫像をみて)
えろくはないなぁ。立体物とか彫刻って、平面より見るの楽しいなぁ
こんな感じだ。小学生並みの感想だと我ながら思う。基本観に行った後の総評は、
うん!おもしろかった!
今回はいまいちだった。
綺麗だった。
狭い事務所で同僚と顔付き合わせている時間を減らすため、お互い週1日は在宅勤務をしようという話になっている。
が、うちの職場の仕事って職場の端末にしか入っていないシステムや家に持ち出せない資料がないとほとんど進まないようになっている。上司はその辺は何となく黙認していて、「報告書に書ける程度に多少仕事っぽいことをやれば後はのんびりしていて良い」と思っているようだ。
まぁそれは良いとしても、勤務時間中は外出禁止(昼休みを除く)。私は昔不規則勤務の職場で働いていたので、平日休みの快適さが身にしみていて、せっかく平日に出勤しなくていいというのに出かけられないという現実に発狂しそうだ。
どっちみち私が行きたい店や公園や美術館はほとんど休業していたりするのだが、家に閉じこもって貴重な平日を1日無駄にするかと思うと悲しい。勤務時間に出かけようとするのがけしからんと言うのなら有給休暇にするから外に出たい。あまり繁華な街に行こうとは思っていないが、平日昼間の自由は何者にも代えがたい。
多分仕事っぽいことは1~2時間やれば良い方だと思う。その他は誰も監視していないのでネットサーフィンしたり録画してある映画を見たりしても大丈夫だとは思うが、そんなことは平日仕事から帰った後でも土・日でもできるのでありがたくない。
普通の人が土・日に混雑に耐えながら遊びに行く場所に平日行けるのが最高だったのに。どうせ緊急事態宣言は終わっていないので「STAY HOME 」が原則であることは承知しているがムカつく。人が働いているときに休むあの快適さは忘れられない。
これを機会に、自粛が解除になってからもみんなで調整して有給休暇を消化するようにならないかな。今までは毎年10日以上、有給休暇を使いきれずに捨ててたんだよ。頼むからもっと平日に休ませてくれ。
https://nyakapoko.github.io/post/10_engeki/
この記事、読み飛ばしてしまっているひとも多いと思うので、私の解釈で完結にまとめると、
2 演劇は他業種よりもクリティカルなダメージを負っている。他よりも援助が必要である。
3 専門分野ではないことについての言及を正確にするのはコストがかかる。
4 そのコストをケチって発言してもいいよね。だって困ってるんだし。
ということです。
だったら専門分野外のことについてワザワザ語らなければよいのではないか?
4を是とすれば、そのコストを聞き手、もしくは放言された当事者が負わなければいけないことがわからないのか。
そして、まさに現状がそれである、ということがわからないのか。
と思うところはたくさんですが、それより書きたいことがあります。
ただ酔っぱらっているのでしっかり書ききることができるのか少し不安です。
また、わたし自身、演劇についてたいして詳しくありません。なにぶん映像畑の分野なのでご了承ください。
まあ、そのコストをケチって発言してもいいよね。だってもやもやしてるんだし。
まず上のブログにある、演劇のコアの部分とは何かというと、観客との共犯関係なのですが、
これがライブで、そして観客の息遣いを感じられる距離でないと不可能であるという意見です。
これには一理あります。が、これが実際に“演劇”のコアなのか。
映画というのは、映像をつかってナラティブ(わかりやすく「物語る」と言い換えましょう)をすることと定義できますが映画狂から見れば、そうではありません。
(「いや映画は光と影で構成される芸術だ」という方もいらっしゃるでしょうが、今回はその定義を映像に渡してやって、映画の定義は狭くとらえます)
映画を観るというのは映画館で観る、もしくは”複数の観客がいる映像を主体とする場”で映画を観ることを、『映画を観る』と言います。
なぜなら、映画というのは観客と製作者との共犯関係にある芸術だからです。
例えば時代劇で、主人公と敵が刀に手を伸ばします。この画を1分間続けるとどうでしょうか、
映画館であれば観客は緊迫します。きっと固唾をのむことでしょう。
しかし、これスマートフォンのストリームだったらどうでしょうか。ダブルタップの15秒スキップかもしれません。
一緒に固唾をのむ観客がいない分、気持ち半分かもしれません。
映画と演劇は記録されたもの記憶されるものの違いがありますが、
観客との共犯関係で表現を強固にするのは、映画も演劇も変わりありません。
ブログではとても卑怯にも演劇とビデオという比較で書いていますが、
また映像芸術の中には特殊な上映形態をもって作品とするものもあります。
劇場でないと成り立たないのが演劇の特殊性とか馬鹿みたいなこと言っていますが。
むしろ、ライブで修正の効かない分、映画はどのように共犯関係を生み出すか、研究に研究を重ねております。
高級な映画(半分皮肉ですが)においては、視線誘導のため、まばたき一つ計算して撮影、編集しているわけです。
私は普段、何かの映画について話すとき、『映画そのもの』と、観客と生み出す共犯関係=『映画体験』をそれぞれ分けて話します。
演劇についても同じことが言えるのではないでしょうか。
上のブログの筆者が語るのは演劇体験についてです、これは確かに演劇を構成する一要素ですが、演劇そのものを単体としてみた場合に、
つまり、戯曲を演者がその身体性をもって物語るという行為についてですが、これはいったいそんなにも弱いものなのでしょうか?
身体というものには限界がありますが、その身体によって生み出される力強さというのは確かにあります。
現代舞踏なんてものはその身体という籠を生かした表現なわけでしょう。これは弱いものですか?
それを使って物語る。素晴らしいことじゃないですか。
演劇をライブで配信する。そこにはカメラがありスイッチャーがある。
ということは、それでもって映画体験の応用で演劇体験を、十分でなくても再現することはできませんか?
例えばブロードウェイの映像化なんてのは、セットを映像用に用意しカメラをかなり寄せて撮っているわけですが、
それでもあれを映画という人はいないでしょう、演劇であるという認識はしっかり与えることはできるわけです。
また演劇体験的なるものが本質になっているというので言えば、お笑いはどうでしょうか?
スポーツ選手のインタビューではよく魅せる試合なんてことが言われます。
それでも彼らは中継を行います。過去の試合の映像を販売します。
そういったことがもう何十年も前から行われている現代で、演劇は演劇体験なくして存在しないなんて本気でいってますか?
また演劇は映像にすると映画に食われてしまうなんて言ってますが、馬鹿じゃないのとしか思えません。
演劇はその身体に物語を預けていますが、映画は光と影に預けています。
映画の根本は影絵芝居といってもいいでしょう、影絵芝居は演劇に似ていますが、
影絵は物理的なものでなく、その像をうまく使えば、表現に限界はありません。
映画はその売れ筋として、マーケティング的に役者に頼ってることはあっても、大本の表現のベースとして役者や演技があるわけではありません。
勘違いしないでください。役者はあくまで影と光をフィルムに焼き付けるための遮蔽物にしかすぎません。
例えば先ほどのブロードウェイは演劇としましたが、ドッグヴィルはどうでしょうか?やはりドッグヴィル映画でしょう。
それはそれぞれ、映画として作られ、アニメとして作られたからに違いありません。
演劇として作られた映像が、映画に負けるだとか、勝つだとか、そういうことは絶対にありません。
演劇というのは、映画というより、むしろスポーツや音楽ライブの側なんですよ。
マシューボーンのなんちゃらと、タイガースの試合をまとめた奴と、ラッドピローズのライブ映像は一般の人からみたら同じ枠なんです。
で、それが映画と競り合ってるなんて印象はないです。初めから勝負なんて存在しないんです。
はっきりいってしまえばスポーツが無観客配信でなりたつというなら、演劇だって成り立ちます。
それが成り立たないというのは、おそらく上の文書にもある、演劇体験こそ演劇の本質であるという転換が原因じゃないでしょうか?
平田氏の感覚が世間一般とズレていることと、ネット大衆に演劇界隈への敵対心があることが、炎上の根底にある。
ではなぜ平田氏は「大衆」に向けて「大衆」に支持される言葉を発することができないのだろうか。
映画のような複製芸術においては、作品の評価に関して大衆からの牽制を受ける。
どれだけ批評家が高尚な文章で讃えた作品であっても、大衆からの支持が全く得られない作品は、市場から消える。
市場から消えると、批評家も言及しづらくなる。そして、その作品は忘れられてゆく。
別に大ヒットになる必要はないが、DVDが販売され続ける程度、あるいは配信され続ける程度の大衆からの支持は、作品が残るためには必須なのだ。
これは小説においても同様で、全く売れない作品は市場から消えて忘れられてゆく。
今、名画とされている絵画作品も、多くの人びとを感動させたから名画とされているのではない。
名画とされているから、多くの人びとが感動しているのだ。
何を名画とするか、それを決定しているのは、美術のごく狭いサークルの人たちだ。
そのサークルの実態は時代と共に変わるが、昔は王侯貴族であったり、現在ならコレクターと美術批評家だ。
世界の現代美術でも数百人もいないごく少数のプレイヤー(コレクター)が美術作品の値段を決めている。
小さなサークルのなかで価値を認められたモノが、美術館に飾られ大衆もそれに感動しているわけだ。
大衆からの支持なんて全く必要ないし、大衆からの牽制も受けない。
狭いサークルのなかでさえ認められたなら、それは歴史に名前の残る作家・作品になるのだ。
観客も演劇ムラの人たちがどうしても多くなるし、そういうムラ内での評価が作品の価値を決めていく。
だから、演劇人も大衆に向けて言葉を発する機会よりもムラ内に向けて発言することがメインになる。
またネットユーザーの少なくない数が演劇界隈を敵視しているのも、演劇を見る機会がないからだろう。
(ジャニーズやディズニーの不祥事には擁護厨が湧くが、演劇の場合、それが少ない。演劇を見ている人が少ないからだ)
演劇人はメディアでの発言権だけはあるので、ふだん演劇と関わりのない人たちからは「なぜあいつらだけ特別なのか」という気持ちが出てくる。