はてなキーワード: 帰着とは
その通りと思うが実際にならない理由は戦後発展の共同体任務なく生活できる解放感の体感価値が高すぎと人身御供の儀式の意義と必要性義が喪失しているので継続的に慣習を維持できないところかと。
前提として
金があればみんな黙るともあるがそんなのは当たり前で金がないから文句をいう始末。文句を言うだけならいいけど金がないのを理由に感染を広めているのだから金がないなら感染させていいという感覚より金がないけど感染させたら死ぬからどうしたらいいの≒死んでということを暗に理解をするべきところ。
人間一人が生活できなくなることが問題だから社会で生活する10人なり100人なりに感染させてそれらに活動を停止させるリスクを背負わせる事のほうが倫理的でそれが社会の共同体、助けあいってもんだろというのならそうだろうけど、感染を拡大させるようなやつをどうすべきかははっきりいってやってほしい。
病院の受け入れがどうのということにもなるだろうけどそれいまさらいってもそういう金をもらえたら休むけどという人がさきに入り詰めてもうあふれてるわけなのだから第二陣以降は金がなくなって死ぬなら死ぬしかない。
全員に回らなかった金も人数が少なくなれば少しばかり出せるようにもなるかもしれない。
まずその団体への貢献が必要という思想が海外の宗教徹底からくるそれとは大きく異なるし、個別に分断されることがどれだけ個人にとっては楽しくメリットがあるかという甘い汁は依存性の高い麻薬のようなもの。
しがらみや血縁のストレスからいったん解放されたものはもう団体に属すのは金をつくるためだけの疑似人格がやっていることで本当の自分は仕事以外の時間にいるしむしろ死んだら自分が支配する側(されるのはどれだけ嫌がっていたのか記憶していないのか)になりたいと言い出す始末。
個人が村から追い出すのはその行動の残酷性が楽しくしかも団体が責任と批判を肩代わりしていくれるので、自分は意見を言っただけといえるのでおそらく陰口私刑は多く行われる可能性は高い。
村の存亡をかけた使命感から悪役を買って出るなんていう人間はまずいないだろう。
そうすると観測点から匿名で行動する者が増えるだけで、それらを逃れた潜在的な問題は浮上するまで目につかないところでリスクを増大させることになる。
具体的に人物ないしは役職がそれらをくまなく取り上げ批判する団体行動が必要になる。
その批判側の団体ですら属することができない人間が単発で提示された情報に食いついて扇動した人間の意図どおり攻撃する以外できない。
直線方向にしか飛ばない火をつけたら飛んでいく兵器と同じである。たしかに有用ではある。だがお祭りのように直上に放って炸裂するのを見て楽しむ風流ものではない。
その使いどころの微妙な要素を具体的に結果を望む方向にあわせ必要なタイミングを待ち効果的な配置で使う指導者やその命令が直接伝達されなかった場合に独自の判断で行動するための指針が必要になる。
団体を形成した時点でルールや定義はある程度理解をしているだろうしさせられることもある。それに従えばよいのだが局面としてその指示を得られず単独で判断を必要とする場面がくる。
それは個が団体の一員として行動をする瞬間そのものでもあるし、行動作戦中でもあるだろう。
確実に団体へ有益な結果を出すべく個人行動をするときに考えるのがリーダーの名前であったり家族の名前であったりすると、固定的に帰着する必要性の対価がある。
自分の命が、何と交換されるのかという式において、神に返す天皇万歳、残された家族にコミュニティから手厚い補償があるはずだという信念、それらを抱くための偶像が必要になる。
自分の大切なものは自分で考えろと、個に浸りきった考えでは至るだろうけれども自分で考えた主神に祈ってその効果が期待できるだろうか。
ぼくがかんがえたさいきょうのあんぱんまん、というメモを胸にそのさいきょうのあんぱんまんが家族を救ったりコミュニティを守ったりすることを妄想しながら自分は死ねると覚悟ができるだろうか。
できる人間はいるだろうしそれはもうこの話の指摘に含まれるほど大多数ではないので、イケるなら個人で逝っておいてほしい。
天皇や親鸞やキリストやあこがれの先輩や王なり首相なり、その名前に少しでも威厳を感じたりそれらに自分は損害を払っても貢献したいと考えるそれが必要になる。
その自分がポリシーとしている事についてなにをすべきで何がすべきでないか、自分の人生を形成しているそれともいえる対象のサブストーリーを考えれば自身の成すべき行動も必然的に選択されるはず。
従っている上位存在についてそれらが怒らず喜び、受けつけ歓迎されて失望されず見放されない、すでに周知されているはずのそれらについて自分の可能な行動が選択できるようになる。
短期的に前例のない突発事項へそれを行使するためには、単発的な神が必要。その神というのが人身御供、実際に最初に目的のために死んだ人間をつくることでその意思を複製し行動することに意義を感じ忘れず方向性を個別に同じ方向へ維持できるようになる。
かつて女児がそれを担っていたのは村で一番価値のある生命といえば生命を生み出すことができる女性であり若くてだれからも愛でられる人の子であればまさにそれである。
その無念を晴らすという感情や、無駄にしない行動を慎重にとるという基礎行動ができる。
この団体行動のデメリットの不快感が現在手に入れている個の解放感に比べ非常に大きいのと、継続的に意思を維持できない偶像の消耗具合がそれらを成功に導かないと想像される。
問題点を具体的にあげてダメだというだけであればただのネット論客()と同じなので、これらを現代に差し替えられる提案を一つしたい。
私個人が挙げる候補としての一つなので、人の数だけ提案はあるだろうしそのうち成功できる策もあるだろう。
個の魅力は無限である。部屋に閉じこもって生きてさえいれたらそれだけでいいという人間すらいる。絶望とはなにかを問う事すらできない。
永遠の命に魅力を感じるという人間はみなこの性質があるだろう。
生きていけないという条件に個を追いやると、全部の個がそれに当たってしまいコミュニティの維持が出来なくなるのは必至。
生かしたまま、とそれだけで個のメリットを充分に満たすのでそれ以上のが必要なくなる。まさに生きる無駄となる。
オンラインゲームですらメリットしかないはずなのにコミュニケーションの不和から天国で殺し合う結果になる人間。
言語による意思伝達しかもたないのでそれに変換できる行動理解でしか他人を理解できないため齟齬がおきる。
ならばコミュニケーションを団体が代行し個人は完全に個のままで行動できるように形成する。
国家の国民管理方法をオーバーライドして氏名や住所や身体そのものという動員をもって行動をしたりするだろうそれを完全に匿名にする。
そして団体の行動は個で行いその集積は団体で行う。個人間のコミュニケーションは無し。メリットの変換は個人の特定されないもの。
現金などを団体から個人に平等に。コミュニティの貢献が実質自分の手取りになり上下や不平等貢献度の差など感知されないようにする。
個と個のリレーを行う仕組みをネットや端末で補うことで可能なはず。
構成員同士が顔を合わせる可能性をあらかじめ禁じた方向で維持をする。
手段が分散しては即時完全に意味を無くすので唯一無二の連絡方法をもってその団体とするのであれば可能だと考える。これが団体行動への一案。
人身御供については実際に志村けんが第一波でなったそれだと考えるが維持性能としてはそれを継続的に支える母体がなかったため消滅したと思われる。
志村けん財団やファンクラブなんてものが存在しそれがコロナによる死を無駄にしないという提言をしていれば、また志村けんをふたたび殺すなと行動ができるはず。
支持を継続できる人物、あまり深く知られていないが表面上愛されて価値があるそれ、アイドルなりを掲げればと思うが実際に人間がそうなる意義をもはや失っている現在効果は期待できない。
ならばアニメや漫画、Vtuberのようなものを人身御供にするのはどうだろうか。
あのアニメがもう10年前、15年前、20年前のものだったと世代差に驚くトゥギャッターがときどき浮上するそれを掲げるのだ。
しかし実際に葬儀を行われたアニメキャラや数多くのキャンペーンに使われたものたちもなんら方向性を代弁したり団結する意思の基礎とはなっていない前例から難しいだろう。
では継続的に伝承となっているキャラクタの特性を利用するのはどうだろうか。
平将門、アーサー王、ゼウス、サタン、定番とされているような名前以外なにもよくわかっていないのになにかしらの方向性を決定するのに大きな推進力となる現在に存在していない人型のものの名前は多くある。
なぜ名前だけしか存在しないのにそれだけ利用されているのか、それは支持層があるから。実際にそれが存在しているという文章や建築物、そこに人を集める方法があり公知されるしくみがある。
これらを象徴とすることで行動の指針とできるしそれを語るだけで人を説得することができる。モニュメントの意義とはこれだ。
ガンダムを実在させたというアトラクションもあった。何かはわからないけれども炭治郎というのもなんとかの呼吸をしていた。
これらを維持継続させるオブジェを存在させるか、支持する団体を存在させればその認知度がすなわち行動指針への再利用価値としての生贄になりえるのではないか。
ガンダムや鬼滅、アイドルといえば何か、現在結果からみてそれらの共通点といえば「ごり押し」だろう。
ごり押しの失敗例としては剛力彩芽があるだろうけれどもあれは個人だったので好き嫌いが別れて分断することは当然であった。
ポスト和田アキ子みたいなものを企画側が創造できることを実証したかったのかもしれないが結果失敗に終わっている。
では団体にしてしまってどれがどの顔なのかもわからないような女子集団にすればどうか。これは成功している。
毎年もっともよい状態の女子を人としての情報が出てこない間に使う。無料で配布することの威力はK-POPが示している。
無料配布で素材利用ができる一定量の女子団体を形成して順番にコロナで消滅させていけば、全員が息絶えるそれまでのドラマを行動に使えるのではないか。
攻勢に予防をするためのキャンペーンキャラクタでもよいし、感染して死んでいくキャラクタでもそれは運営の手腕による。
それ以外の選択肢を無くして動員を図ると自然と動員は成される。他にないから行かないとならないのは実証済みである。
収益について関係各位が綿密に分配を算段する必要があるだろうけれども、その収益活動が金銭とそれをさらに継続的に生み出す人の命も救うのだと思って計画が成されたらというのが一案。
いらすとやのようなフリー素材として使える期間限定アイドルグループ、コロナで私刑を容認する村社会アイドルを全国デビューというわけだ。
これが現実的でない理由を二次創作かさねていだく必要はない。実際に存在していないしこれからも存在しないだろう。
存在していないものについてさまざまに論じていただく「だまされておどけた姿を晒してそれにより本題がいかに愚かしいか」という恥ずかしい踊りをしていただく必要はないのだ。
案があればそれを出してそれをもってこの案を否定していただいたらよい。
取り組むべきではないと考えるそれならば、口をつぐんでおくのが得策であろう。
一般論としてさ、迫害故にアングラに逃げてきた文化っていうのはメンヘラが集まりやすいのよ。それは同性愛コミュニティなんかに関しても散々繰り返されてきた議論だよね。
アメリカではオーランド銃乱射事件の背後にもそういう構造があったのではないかという指摘もある。(死人に口なしだけどね。)
そういう、それ自体が差別構造の帰着に過ぎないものでさえ「これこそが奴らの本質」とでも言いたげな言及を平然とやってのける根っからの差別主義者には怒りを通り越してもはや脱力する。
人とは違うものを性的に見ているというだけで、どうしてここまで尊厳を侮辱されなければいけないんだろう。
https://twitter.com/37_2_le_matin/status/1345887905315577857
昨日のM-1で、マヂカルラブリーはアホみたいな床滑りで優勝した。
これで世間は脳筋の野田クリスタルが考えたギャグマンガ日和漫才、動きだけが面白いしゃべらない漫才が評価されたと思うだろうし、これからもそのイメージが付き纏うのだと思う。
しかし、彼らの真骨頂は、実は高学歴芸人の村上と、学歴の代わりに芸歴を積むことにした野田クリスタルが織りなす、知的なしゃべくり漫才的な会話にある。
大宮の劇場では漫才の合間に、彼らのトークライブが開かれているし、ラジオでの彼らの会話は漫才に遥に勝る。
彼らの会話は普段からしゃべくりであり、トークライブやラジオでなんと1, 2時間単位の漫才をやっている(かのように聞こえる)。
最近野田クリスタルがテレビ前で喋るようになったので、記者会見やひな壇で村上が沈黙していることが多いが、マヂカルラブリーの会話の面白さはこの村上が握っている。
野田クリスタルの天才的なイメージ先行の発想を、ロジカルシンカーの村上が文脈を補いながら野田に説明させ、笑いに誘導する。
ツッコミは視聴者の代弁者である。村上の正確で鋭く賢いツッコミは一般人を代弁するだけでなく、聴いている者の知的レベルを引き上げ、どうしようもなく気持ちよくさせるのである。
しかも誘導されたかと思えば、なぜか唐突に野田クリスタルに振り回され、ちゃぶ台を返され、最終的には彼らの漫才を見ているように「馬鹿馬鹿しくて最高に面白い」に帰着する。
この人たちはM-1で世間に知られて、もう一度別の形でも売れるのだと思う。
自分は関西人で、中川家のような正統派漫才が好きだし、M-1では芸術作品かと思えるような新しいしゃべくり漫才のテンプレートが生まれることを望むんでいるので、マヂカルラブリーの優勝は予想だにしていなかった。
売れるとすればラジオ芸人や劇場や営業で評価される芸人として売れるのだろう、彼らの会話を体現したこの難しい形の漫才は大衆には理解されないだろう、と思っていた。
事実、漫才ではない面白くないと石を投げられ、まだまだ世間からの怒られが発生している。
まあこれでいいのだと思う。定義とか堅苦しいことをを考える前に、ストレスフルな今は「漫才かどうかはわからんが、死ぬほど笑った」が必要で、彼らはこれに答えた。
この1年で感じたことは、多くの親が感じていることだと思うけど、あまりに現代社会は育児するには環境が厳しすぎる。
近くに頼れる人がいない。
地元で就職できればよかったが、内定出た企業は一つだけ、地元は離れた。妻の実家はさらに遠い。
交通網、技術の発達で親元から遠く離れて住むことも多くなった現代、新幹線や航空機があるとはいえ
頻繁に、すぐに親に来てもらえる環境ではない。
保育園に入れない。
政令指定都市近くのベッドタウンに住んでいるのだが、周りにマンションとかが急増していて
まったくもって保育園が足りていない。
自分自身も住んでいるから人のことは言えないのだが、あまりにも鉄道沿線に人が集まりすぎていないか。
鉄道会社、不動産会社はこの戦略が儲かるんだろうけど、あまりにも過密に感じる。
日本国民もほとんどは声を上げてない、そういう私もインターネットの片隅に愚痴を垂れ流すだけ。
一人が立ち上がったところでたかが知れている。
自治体もしょうもない観光センターなんて作ってないで保育園に金を回してくれ。
まず妻の仕事先の上司が醜悪な人間らしく、仕事復帰の不安が募っている。
そんな職場ならそもそも辞めてもいいと言っているが、人出不足やら逃げたくないやらで続けることにこだわる妻。
出産後のホルモンバランスの崩れでただでさえイライラが募っているのに余計なストレスを生んでいる。
感情、もとをたどればホルモンだとか神経伝達物質だとかのごく微量の体内物質に帰着するのだろうが、
そんなちっぽけなもので普段の行動を大きく左右されてしまう人間。
人間は理性というものがあって感情、行動をコントロールできるのだろうが、
助けを求めるためのハードルが高い。
心を病んでいる人に、自治体の支援やこころの電話窓口やら地元の団体やら心療内科を調べて助けを求めるという行為はなかなかできない。
妻自身は全くできなかった。代わりに私が助けを呼ぶにも、平日の仕事は忙しい、家で気力はない。
家にいるときでも妻は不機嫌で、助けを求めることについての相談さえできないことばかり。
そんな中でも自分が動かなければと思って、近くの心療内科に予約のために電話した。複数の医者に電話したが、予約埋まりすぎ、混みすぎ。
コロナの関係もあるだろうが、なかなか都合がつかずに予約ができない。
でもわかる、こんなに複雑化した現代社会で、不完全な存在である人間が生きていくのは本当にしんどい。
ほとんどの一般市民は苦しみながら細々と生きて死んでいくだけだ。
そんなの大昔からそう。現代じゃなくてもそうだっていうのはわかっている。
でも、この数十年は46億年の地球の歴史の中でもあまりにも劇的な変化が起きた年代だったはずだ。
「中の人や絵師が男だと思われて男が巻き込まれて迷惑しています」「批判があるなら女同志の争いであることを明確にしてやってくれ」と書いているのに、はてなブックマークの人たちが全然話を聞いてくれません。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20201103083818
この人は100点。
stairwell そう、この話題で男を仮想敵に据えるのは違うと思った。
ちゃんとそこを踏まえながら企画の批判をしている人も多くバズってたからいいとして、思考や感情の分析が雑な人は「これだから男は!」に帰着しててオイオイと
xsinon 私も性的な絵が好きな方の女史なので気持ち悪いと感じる女性が当たり前みたいに論じてるフェミ界隈が逆に気持ち悪かったりする。お気持ち発言は不毛だわ
この人は一応通じてるっぽい。「性別関係ない」じゃなくて、「ほとんど女性」だと言ってるのでもうちょい話聞いてほしいけど趣旨は伝わってると思う。
alkylester 逆説的だが、中の人の性別は企画の是非に無関係ということを分かってもらうためにも、アツギ担当者が女性だということは広まってほしい
この人はちょっと話通じてないよね。↓の発言にいいねを押してる人は日本語が不自由なのかな?
sacatorine 単純に企画がまずいので広報や絵師の性別は関係ないし男女論争でもない。客を蔑ろにする企画を作られて怒っている女性たちを外野がフェミだのババァだの揶揄して地獄絵図になっている
男女論争でもない、じゃあないんだよ。 今現状「女性社員がかわいそう。男社会の日本企業滅びろ」みたいに言ってる頭のおかしい人が山ほどいるんだよ勘弁してくれよ。関係ないっていうならまずその人たちを何とかしてから言ってくれ。
kohgethu この増田と同じ人だな(呆れ) https://anond.hatelabo.jp/20201103083818 /女性に対する性的欲情視線に寛容な女性がやらかしたことに乗っかって、悪ノリする男どもが一番悪いに決まってるだろ?他人事ぶってんじゃないよ。
それをいうのであれば勘違いしてぶったたいてる女どもに寛容なフェミニストに乗っかかってるミサンドリストが一番悪いに決まってるだろ?
ここでいう「ユークリッド幾何学」とは、座標空間、ベクトル、三角関数、微分積分などの解析的手法を用いないいわゆる総合幾何学のことです(*1)。2020年8月現在の高校数学のカリキュラムでいえば、「数学A」の「図形の性質」に該当する分野です。
ユークリッド幾何学が不要だと思う理由は単純明快で、何の役にも立たないからです。大学に入って、「補助線を引いて、相似な三角形を作って~」とか「コンパスと定規による作図」みたいなパズルゲームをやることは絶対にありません(*2)。これは常識で考えても分かると思います。たとえば工学の研究で、ある物体の弧長や面積などを測定しなければならないとして、ユークリッド幾何学の補助線パズルが適用できる多角形や円などしか測れないのでは話になりません。一方、座標空間、ベクトル、三角関数、微分積分などの手法は一般的な現象を記述する上で必ず必要になります。
もちろん、たとえば三角比を定義するには、「三角形の内角の和は180度である」とか「2角が等しい三角形は相似である」といった初等幾何学の性質が必要になります。そのようなものを全て廃止せよと言っているわけではありません。しかし、高校1年生で習う余弦定理:
を証明してしまえば、原理的にはユークリッド幾何学の問題は解けます。それ以降は、ユークリッド幾何学的な手法や問題設定にこだわる必要はないと思いますし、実際それで問題ありません。
現状、少なくない時間がユークリッド幾何学に費やされています。数学の1単元を占めているだけではなく、その他の単元にもユークリッド幾何学の発想に影響された例や問題が多く登場します。たとえば、複素平面において4点の共円条件や垂直二等分線を求めさせる問題など。そして最も労費されているのは生徒の自習時間です。以前よりマシになったとはいえ、大学入試等には技巧的な図形問題が出題されるため、受験生はその対策に多大な時間を費やしています。
高校数学では以下のような事項が重要だと思います。ユークリッド幾何学を学ばせている時間があったら、このような分野を優先的に修められるようにすべきです。
これらの分野は数学の手法としても非常に強力ですし、大学以降で数学を学ぶ際、現実的な問題を数学や物理の問題として正確に記述する際に必ず必要になります。仮にユークリッド幾何学が何らかの場面で応用されるとしても、微分積分などと同レベルに重要だと真剣に主張する人っていらっしゃるでしょうか?
ユークリッド幾何学を初等教育で教えるべきだとする根拠には、大雑把に言って以下の4つがあると思います。
まず①は明らかにおかしいです。ユークリッド幾何学に限らず、数学のあらゆる命題は証明されるべきものだからです。高校の教科書を読めば、相加平均・相乗平均の不等式、点と平面の距離の公式、三角関数の加法定理、微分のライプニッツ則や部分積分の公式など、どれも証明されています。そもそも、数学の問題はすべて証明問題です。たとえば、関数の極値問題は、単に微分が0になる点を計算するだけではなく、そこが実際に極値であるかそうでないかを定義や既知の性質に基づいて示す必要があります。したがって、ユークリッド幾何学だけが特に証明の考え方を学ぶのに有効だという理由はありません。
②もおかしいです。図形問題を扱うのはユークリッド幾何学だけではないからです。ベクトルや微分積分でも図形問題を扱います。たとえば、三角形の5心の存在や、チェバの定理、メネラウスの定理などはベクトルを用いても容易に示すことができます。また言うまでもなく、曲線の接線は微分で求めることができ、面積や体積は積分で求めることができます。また、ユークリッド幾何学の手法は問題ごとに巧い補助線などを発見しなければいけないのに対し、解析的な手法は一般に方針が立てやすく汎用的です。したがって、図形問題を扱うのにユークリッド幾何学の手法にこだわる理由はありません。
③は単なる個人の思い込みであり、科学的な根拠はありません。そもそも、数学教育の目的は「地頭」などを鍛えることではなく、「大学や実社会において必要な数学の素養を身につけること」のはずです。また、これも上ふたつと同様に「ユークリッド幾何学以外の数学では、『数学的直観』などは鍛えられないのか」という疑問に答えられておらず、ユークリッド幾何学を特別視する理由になっていません。
④もおかしいです。そもそも「歴史的に重要である」ことと「初等教育で教えるべき」という主張には何の関係もありません。歴史的に重要ならば教えるというなら、古代バビロニア、インド、中国などの数学は特に扱わないのはなぜでしょうか。もっと言えば、文字式や+-×÷などの算術記号が使われ始めたのでさえ、数学史的に見ればごく最近のことですが、昔はそれらを使わなかったからといって、今でもそれらを使わずに数学を記述するべき理由があるでしょうか。
数学で重要なのはその内容であるはずです。ユークリッド幾何学を擁護する論者は、「(表面的に)計算問題に見えるか、証明問題に見えるか」のようなところに価値を置いて、一方が数学教育的に有意疑だと見なしているようですが、そんな分類に意味は無いと思います。
大昔は代数の計算や方程式の解法(に対応するもの)は作図問題に帰着していたようですが、現代でそれと同様の手法を取るべき理由は全くありません。記述する内容が同じであれば、多項式や初等解析のような洗練された方法・重要な結果を導きやすい方法を用いればよいに決まっています(数学史家は別として)。同様に、ユークリッド幾何学も、解析的な手法で解ければそれでよく、技巧的な補助線パズルなどに興じたり、公理的な方法にこだわる必要はありません。
たとえば、放物線は直線と点からの距離が等しい点の軌跡として定義することもできますが、初等教育で重要なのは明らかに2次関数のグラフとして現れるものです。放物線を離心率や円錐の断面などを用いて導入したところで、結局やるのは二次関数の増減問題なのですから、最初から2次関数のグラフとして導入するのは理にかなっています。数学教育の題材は「計算問題か証明問題か」などではなく、このような観点で取捨選択すべきです。
三角比などを学んだあともユークリッド幾何学を教えたり、解析的な手法では煩雑になるがユークリッド幾何学の範疇ではエレガントに解けるような問題を出して受験生を脅したりするのは、意味が無いと思います。それは、「掛ける数」と「掛けられる数」を区別したり、中学で連立方程式を学ぶのに小学生に鶴亀算を教えるのと同様に、無駄なことをしていると思います。
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(*1)
現代数学では、n次元ベクトル空間R^n = Re_1⊕...⊕Re_nに
(e_i, e_j) = δ_i,j (クロネッカーのデルタ)
で内積が定義される空間上の幾何学はすべてユークリッド幾何学に分類されます。したがって、上にあげた座標空間、ベクトル、微分積分、一次変換なども敢えて分類すればユークリッド幾何学です。しかし、ここではその意味でのユークリッド幾何学が不要と言っているのではありません。飽くまでも、技巧的な補助線問題や、公理的な方法にこだわることが不要だと言っています。
(*2)
数学科の専門課程で学ぶガロア理論では、コンパスと定規による作図可能性が論じられますが、これは「作図問題にガロア理論が応用できる」というだけであり、「ガロア理論を学ぶのに作図の知識が必要」というわけではありません。
1期に対する元増田の感想がそれなら2期、3期は期待できないと思う。
「何故モモンガさんがこの世界に残されたのか」って話は全く進展しない。
1期でシャルティアと戦った時はアインズ様の身にもしかしたら何か起こりうるか?って期待はできたけど
2期以降の敵は「もうこいつら絶対アインズ様に勝てないだろ」ってキャラクターしか出てこない。
「勝てそうか?」ってキャラも出てくることは出てくるが、戦には一切関わらないどころかアインズ様たちと接触すらない。
そういったキャラ達が葛藤したりする様子はそこそこ面白いのだが、最後は
最近はてなのホッテントリでよく見るんだけど、トランス女性(MtF)が男湯に入るか女湯に入るか問題。個人的には男性器を切除していれば女湯、そうでなければ男湯に入るべきと思うが、どうもこういう考え方をするとトランスフォビアとレッテルをはられて聖戦を宣告されてしまうらしい。でもいくら考えてももやっとするのでなぜそう思うかを書き留めておきたい。
根本的な問題は、「なぜトランス女性は女湯に入りたいのか」ということだと思う。この問いに関して、いろいろな理由のつけ方はあるだろう。「女性と一緒に扱われたい」とか「自分の性的志向の対象に囲まれているのは落ち着かない」とか。ただ、結局究極的な理由としては、「自分と違う性別の人と裸で一緒に風呂に入りたくない」ということに帰着できるのではないか。もし見落としがあったら教えてほしい。これはある意味そもそもの男湯・女湯の存在意義であるだろうから、自然な感情ではあろう。
しかし、ここでどうしても気になるのは、「それって女湯に入ってる女性もそうなんじゃないの?」ということだ。もしトランス女性の外見が一般的な男性と同じであれば、女湯に入っている女性たちは「少なくとも自分と違う性別の見た目をした人と裸で一緒に風呂に入っている」ことになる。つまり、結局女性側の希望と、未手術のトランス女性側の希望がコンフリクトしている。しかし、なぜか「マイノリティに配慮してトランス女性側の希望**だけ**を認めろ」という方向に議論が進みがちである。ここが全く理解できないのだ。
例えば同性婚であれば、これを認めることはLGBTにとって大きな利益となろうが、異性愛者にとっては少なくとも直接的な不利益とはならない。こういう、ある意味「誰も損をしない」事柄は積極的に認めていくべきだと思う。しかし、女湯問題は、トランス女性と「非トランス」女性の利益が真っ向から衝突している。こういう時は多数が少数に配慮しつつ落としどころを探っていくしかないが、その落としどころも、「手術済みトランス女性は認める」以上は正直難しいように思える。もちろん、ホルモン療法で見た目を近づけられるとかそういうことはあるので結局は気持ちの問題ではあるのだろうが、人が本当に何を考えているかは他人にわからない以上、誰もが認められる客観的な基準を不可逆な手術に置くのは明確な基準になるだろう。しかし、どうもその考え方だと「LGBTに無理解な滅びるべき前時代的な人」になってしまうらしい。それはあまりに暴力的な主張に過ぎないだろうか。
『この割れ切った世界の片隅で』を読んだ。クソだった。主体性がない。思考停止だ。何が統計だ。
アレは与えられた自我だ。存在しない役を演じようとする愚者に違いない。良く言ってあの文章は何も変えられないし、下手をすれば誤ったメッセージになるだろう。
彼女の本当の仇打ち相手は長崎にも東京にも求めるべきではない。
おめでとう。彼女(君)は偉大なるあの割れた世界の壁(境界)を踏破したのだ。あの誰も越えることの出来ないはずの地域差の壁、格差を。そして熱にうなされた君は他の都会の連中や馬鹿には見えない、触れも出来ないあの透明な壁を崩すことに躍起になっているのかもしれない。だが、本当はわかっているだろう。それは幻想だ。
「けんじゅうのほうが楽しいーー!!」とAを選んだあなたはきっと正解です。身の丈にあった生活を選びましょう。拳銃の方が楽しい人はBを選びましょう。大陸間弾道ミサイルを打ちたい方はCを選びましょう。
テキトーな話は追いておいて、彼女が格差の象徴として提示したこの三つの世界は、フラット化した世界では同じ条件の同じ戦場であり、国連職員を目指す上でも本質的には何も違わない。
チャンスと試験は場所に関わらず平等だ。そのことにどうして気づいていないのだろうか。そうした話をした上で世界や社会ではないところに論点があることを示したい。
『いびきの鳴り響く会場。眠りこけてよだれを垂らす隣のおじいさん。「誰も聞いていないだろう」と適当な話を繰り広げる講師。たった一人聞いている私。全てが嫌になって、アンケートの評価項目すべてに1をつけてワンワン泣きながら外に飛び出した。』
『私のこの「別世界コンプレックス」の決定打となったHLABであった。HLABとは全国から集まる高校生が集まり寮生活を体験するサマーキャンプだ。そのほぼ100%が有名私立高校出身である。』
全然学ばないのな。 いや、悲劇のヒロイン症候群やってるのか。よくもまぁそんなに無駄にできる時間があったものだ。よく調べれば事前にわかることで話は終わっているし、その機会をさらに活用できなかった、しなかったのは君に執念、目的がなかったからだろう。
君の「周り」の人間はさぞかし大変だろう。君はいつも「周り」に大量の支援を要求するくせに、君はツラくなる度「周り」や「身近」が悪いと君の全責任を被せ断罪する。救いの手を差し伸べたつもりのクラウドファンディング支援者も近いうちに全員断罪されるだろう。「どうして半端な希望なんて抱かせたの?」と。
挙句、「お前の成果はお前の努力の成果だと思うな。東京の人間は本屋、電車、塾、ぜんぶがぜんぶに支えられてるたけだ」だと? なるほど、東京に来た君が断トツの最下位になるわけだ。他の奴等は他人の手じゃなく2本の足で支えられてるからな。
君が東京に来ても本屋も電車も塾も君には手を貸さないだろう。東京の人間が君とは異質なままだったように。長崎大学が君を見限ったように。君が同級生を見捨ててきたように。
そもそも世界は既にフラット化している。情報は誰でも大抵の情報は無料で公開されており、ググれば出てくる。SNSを使えばどういうやつが、どういうことをしているか、顔写真も見つかるしコンタクトも取れる。
フラット化した世界では東京と長崎の間には境界も情報格差も存在しないと見なされているし、対等に競争しなくてはならないし、残酷だがそれが可能な時代だ。可能である以上、これは魂の問題だ。
少なくとも東京の敵が長崎から討てる今、あなたの失敗を「周り」や地域格差に帰着させるべき道理はない。
親の資本と同級生の社会階層を東京の金持ち学校の生徒の持つそれと比べたときに有利不利は発生したかもしれないが、それも地域格差の問題ではない。
「情報が無いなんて甘えだ」とでも言うのか?
そうでしょ。それこそ『甘えwww』でしょ。スマホあんじゃん。学校にパソコンあんじゃん。執着があったんでしょ。ならそれを実現する手段を探すなんて当然の行動じゃん。っで君も最初は当然の行動したじゃん。最初だけ。すぐに悲劇のヒロインぶって話を逸らしたけど。
君が現実逃避して望んだように、誰しもが受動的に機会や情報が与えられるようになった世界が存在するならば、君はきっと英語の地方大会は予選落ちだろうし、君が見下していたクラス内ですら君は上位を取れなくなるかもしれない。
君が享受した意欲的な人限定の教育リソースの配給量は減り、凡人間の差が消え帰国子女と文化資本の持ち主だけが圧倒的優位を築くことになるかもしれない。まぁでも君がそれを望むなら、どうか人の邪魔にならない世界の片隅とかでそれを祈っていてくれ。
あと「人の努力は環境のお陰で、帰国子女じゃない私の英語の努力は正義」ってよく言えたね。「格差を言い訳に思考停止してるの甘えwww」だし「クラウドファウンディングとかめっちゃくちゃ甘えwww」だよ。
東京の人間は君と違って地方予選の一回戦から格上との対決も避けられない。その状況下で上を目指すなり、優位性を見つけるなり、撤退するなり、貧困に落ちつくなり自身のあり方が規定される。残酷だね。
一方、半端な君は自分より出来る人間を観光先に見つけては「アイツらは卑怯なだけ」と悪態を付いては逃げ出す。競争による規定から逸脱した上で、地元で他人に責任をなすりつける。幸福だね。
他人と競争するスタートに立ててないし、本当は参加資格もないよ。ヌルさが許容される土地に生まれたことを幸せに、そして誇りに思うべきなのに。
この袋小路の不幸は、君が自身のあり方を君自身で決断する重要な機会を奪った、あの「国連職員」が招いたものだ。
国連職員の方に会った瞬間、涙が止まらなかった。こんなにちっぽけな自分に、雲の上の存在の方が目を合わせてくださっている。
頭を撫でてくださっている。その事実だけで嗚咽が止まらなかった。「遅くとも大学から、できるなら高校から、海外に出たほうがいいよ。」その一言で、心は決まった。
はい、皆さん。これが不幸の種です。希少な現物です。高級品です。粉末にして牛乳に混ぜてコネクリまわすと国連憲章を暗唱する小学生とか作れます。地面に植えたら不幸の木が育ちます。
これはただの社会的地位を悪用した生き方の押しつけだ。どうしてこんな酷いことを言うのだろう。中学校の教師が生徒に「君の実家の都合は知らないし興味ないけど、高校はアメリカの学校に進むと英語が得意になるよ。大学からでも良いよ。でもそれしか君の夢は叶わないから。」と言うだろうか。
国連職員は確かに海外生活が問題なく送れる程度の語学力と修士号が必要だが、現実的な方法として国内の大学で長期留学するか、成績取って海外大学院に進学すれば良いじゃん。
この国連職員はフィリピンの少年院を訪問しても言えよ。『遅くとも大学から、できるなら高校から、海外に出たほうがいいよ。』と。
東京まで行って参加したコンペに関して、受賞歴数バトルしてる世界観なら勝った数だけが大事だが、(もし)執着があったなら心の傷とか言って逃げてないで君は何もわからないなりに参加し続けるべきだったよね。
勝ち方は選べないが、負け方はそれなりに選べる。観光気分で参加した「なんとかチャレンジ」は負けれてよかったね、恥かけてよかったね。次はもっと本質的な醜く哀れな負け方ができたら良いね、そしたらそのうち勝負のスタートに立てたかもね、だ。もう手遅れだが。
これで『私は運命の流れを変えた。』と自称しているのは非常に片腹痛い。君のその薄っぺらい努力で変わる運命ってなんなんだよ。
鞭とわずかな餌で踊りを仕込まれた一匹の動物には、面白おかしい運命の綱渡り芸くらい見せて欲しかった。それが派手に失敗して落下したなら滑稽だった。でも残念ながら差し込んだ光明にも目を背ける君の主体性は植物未満だった。
ヒッピーもどきには難しい話になるかもしれないが、「ある種の」格差是正の担保の仕組みとして公正性・透明性ってあるじゃん。クラウドファウンディングって結構な歪みだよね。あれは君の大好きな格差社会が生み出した富める者の道楽だよ。
他人の人生を、雲を挟んだ安全圏からラジコン操作する道楽より悪いのは相続税100%ではないことかもしれないし、ソクラテスの『国家』が未だ実現されていないことかも知れないし、共産主義革命が実現されてないことかもしれませんが。
クラウドファウンディングの資金は、カンボジアの人跡未踏の山奥の誰にも見つからないところに井戸を掘ったり学校を建てるのに使うのがよい使い道なのではないでしょうか。
へぇ~、コロナは君にとって前向きに作用したんだ。そうなんだ、よかったね。「ふつう」の人はコロナの所為で教育格差が広がって苦しんでるよ。
格差についてもっと言うなら、君が戦うべき、憎むべきは東京の謙虚さの足りないあのおぞましい連中なのだろうか?
声なき声を上げても助けてもらえなかった「君の同級生」は君が主張するように社会の当事者全員で憐むべき対象だったのだろうか?
EFチャレンジという動画スピーチコンテストで何故か決勝に勝ち進み、東京へ母と向かった。
結果は惨敗だった。発音の悪さから能力を見限られたのか、審査員からの質疑応答でも聞かれたのは"Why do you study English?"の1問だけだった。
"Why do you study English?" この質問が全てで、君にはそれ以上の質問は必要ないだろう。っていうかこの質問はあまりに高尚すぎる、勿体ない問いだ。
それに君の周りの「ふつう」はこの質問まで辿りつかないらしいじゃないか。君はこの質問の答えを準備出来ていたのかい?
英語の民間試験が大学受験に必須?英検の受験料が皆払えると思ってるんですか? 思考力や文章力が重視される? 現代文の得点が、触れる情報量の差から圧倒的に地方のほうが低いのをご存知ですか?
留学プログラムの書類。今まで「自分をアピールする」経験なんて一度もしたことない、本当にいちばん海外から遠い子たちは応募書類を書くのもままならないこと、知っていますか?
大好きな統計を持ち出すなら長崎県の大学進学率は45%だ。50%未満だ。(クラウドファンディングを抜きにしても)君は君が所属していると思っている世界の分断の象徴になるのは本当は相応しくないのかもしれないし、君自身の「ふつう」のポジショニングの見直しを検討するべきではないだろうか。
その分断の壁って本当に越えられないものなんですか?
あなたに越えられてあなたの同級生が越えられない程度の壁ってなんなんですか?
どうして平然と英語なんて学んでいられるの?
『どうせ地元で英語の先生をするくらいが限界なんだろうな』と思っていた。でも外国の『不条理のせいで牢獄に囚われている恵まれない子ども達のために、人生を捧げようと思った。』
『しかし、周りのサポートのお陰で「大好きな人に囲まれてここまで来た自分」にアイデンティティを持てるようになった。ようやく、「未来は自分の手の中にある」と思えるようになった。』
いや~流石、雲の上の存在から目をかけてもらえる人間はやっぱ違うわ。選択肢も目のつけどころも「ふつう」とは異なるんだね。きっと雲の上にいる自分自身の明るい未来だけが想像出来ているのだろう。その格差雲から降って湧いたその貴重なお金で是非フィリピンのジャニーズ少年とお友達になって来てほしい。
でも地元で英語の先生する方が私は向いてると思うよ。東京の私立高の高層ブルジョアジーと戦う長崎の自由の女神像を無理なく演じられているようだし、その役回りを続ければよいのではないでしょうか。
あの記事がそうだったように駄目な大人や子供はそれで騙くらかせる。(ついで次世代に呪いも継承出来るかもしれない。)
まぁ君が見捨てようとしている君の地元、「世界の片隅」はその地方消滅まであと何年間猶予があるかは知りませんが。
確かに地元に残るのが良くないのもわかる。きっと君はただの社会の被害者で、君の言うところの「社会を創る」側に値しないのだ。これまでも「周り」の友人、「周り」の社会、「周り」の不条理すら変えられなかったのだから。 (そういう「運命ww」だったのだろう。可哀想に。)
ならば君は「選ばれし側に立つ、想像力が不足した遠くのご友人」とやらに一生祈り続けていれば良い。
「君」と二人称を使ったが、この文章に作者を中傷する目的はない。ただ、あの未熟な文章を読んで世の中をわかった気になってる大人が許せなかった。
人には人の執着、才覚、生まれがある。他人の意見や「周り」にしばられる必要なんてないし、不平等な世の中ならば好き勝手に生きてなんぼだ。
「身の丈に合わせてもらえれば」この言葉が生まれる背景には、「社会を創る層」「そうでない層」の分断があるのではないでしょうか。
地元が恋しいなら君は「国連職員の呪い」とジャニーズ系男子を忘れて地元に残って「社会を創る層」になればよい。
そうでないなら、これまで周囲の不条理に目をつむり地元という鉄格子の中で暮らす人々の苦労に沈黙し続けてきた君は帰属意識も捨て、地元の未来も見限って「そうでない層」として海外で救世主を演じればよい。誰しも、お好きな方を「自由に」選んでよいのだから。
ただそこに迂闊に何か大きな意味を背負おうとしてはいけない。君は日本の不条理と戦う、清く正しき人口の半数を代表する「ふつうの」正義の味方ではない。
まず、そんな大層なものは背負う必要はない。それこそ誰の身の丈にも合わないものだ。奨学金という「ふつう」の努力・競争を踏みにじって得たそのあぶく銭で自分のことだけ考えていればよい。
そもそも何が大多数だ、何が日本の「ふつう」の感覚だ。東京圏に人口の三割が住んでいるんだぞ。三大都市圏で5割超だ。それに長崎も佐世保も中核都市であり「ふつう」の田舎町ではない。
地方間の貧富格差の改善より地方都市の消滅が先で、情報格差はインターネットを活用すればネックにはならない時代だ。東京に住んでいれば、全員が英語を話せるようになる訳でもないし貧困は都市にも存在する。
都市部で行われる資本投下による激しい教育リソースの奪い合いに敗北した先の安定した貧困に落ち着くより、地方でぬくぬく運良く進学校に進めたことを幸せだと思えないのだろうか。
君は大多数の代表ではないし、そもそも一体、何を代表するんだ?君がちゃらんぽらんな態度で東京に目を向け見放した、(端から見捨てていた)生まれてから死ぬまで「ふつう」と日常(地元)の牢獄に縛りつけられる人達と君はもう既に別の視点、価値観を有してるだろう。
君が「地方で苦労している大多数である私達を東京の人間は憐め」「地方で苦労した私の努力を人は重んばかれ」と語るのははっきり言って不快だし、そんなのにシンパシー感じてる大人は反省しろ。お前も「国連職員」、ラジコン・観劇趣味かよ。
彼女に理性と人生を取り戻させてやれよ。あんなクソ以下のつまらない押しつけられた呪われた"社会的な"生き方を本当に演じるなら、祈祷室に籠って一生祈り続けるだけの方がまだマシだ。出て来ないで欲しい。
きっと彼女も大学で学ぶ間に、悲劇のヒロイン役を辞めて自分自身と向きあえれば目が覚めるだろう。社会と個人は違うのだ。覚められればよいが。
様々な立場から様々な意見が飛び交い、その意見に対する反応の量も多い。このエントリもその一種である。
自分は完全に七瀬や友川側の人間であるが、本題はおけけパワー中島ではない。むしろそのタイプの同人女のことは好意的に捉えている。
ここで言いたいのは、「七瀬や友川の努力は本当に目標設定からして間違っていたのか?」についてである。
七瀬や友川の自己肯定感について言及した増田がバズっていた。その増田自体は非常に深層の問題の言語化が上手いと感じた。あまり主語が大きい発言はよくないかもしれないが、近年の同人女界隈の問題は多くが大きすぎる拡張自我と自己肯定感の低さ、自他境界の曖昧さなどに帰着されると感じていたので、この結論になると感じる人も多いだろうと思った。
それと並行して、「神も人間なのだから、人間扱いしないと仲良くなれるはずがない」という意見も散見された。
その類の意見に関しても、盲目的に崇拝されるより対等に接してもらえる方がとっつきやすいのは確かだろう。
これらの意見には非常に納得させられたし、全くその通りだ。自己の願望を他人に投影して行動すべきではないし、他人はコントロールできないということをしんから分かっていれば七瀬や友川のような行動は起こさないだろう。
だが、出発点である、憧れの神にフォローバックされたい、同じカプを愛好する者として仲間になりたいという感情自体はそこまで不健全なものではないはずだ。その結果小説の上達を目指した七瀬や友川の選択がそもそもお門違いである、というような意見に対して反論すべくこの増田を書いている。
第一、ここはリアルの教室でも職場でもなく、インターネットの同人社会である。最初にフォローされた時点でフォローバックをするかどうか、これから仲良くなるかどうかを決めるのに、「作品が好みかどうか」は最重要項目ではないのか?(そもそも、フォローバック=仲良くなる、ではないのかもしれない。しかし、私はインターネットで通話をするほど仲良くしている人間がFF外の人間である例はリアルの友人以外である場合以外に見たことがないので、このような考えに至っている。また、七瀬や友川が最初に抱いた感情を「仲良くなりたい」だと定義しているが、ここの解釈と表現に関しては個人差があると思われる)
確かにこのような実利主義を実生活にも反映したらメンヘラ認定間違いなしだろう。だがそもそも、同人を介した人間関係は作品ありきではないのか?
これでおけけパワー中島が見ず知らずのROM専だったら七瀬や友川がやりすぎで気持ち悪いという意見にも納得がいくが、実際は綾城さんはおけけパワー中島に「新刊楽しみです」とコメントしている。
もちろんFF内、果ては作り手でなくてもコミュニケーションを取ろうとする人はいて、だからこそそのような層が七瀬や友川の思考回路に疑問を呈しているのだろう。だが少なくとも私が同人生活で見てきた5つほどのジャンルでは、所謂「神」と呼ばれている人たち、そして私の好きな作り手は自身の好みの作り手のみをフォローしていて、その創作者のコミュニティ内でコミュニケーションをとる例が圧倒的に多かった。このような事実を前に、「仲良くなるために自分の状況如何に関わらずコミュニケーションを取ろう」と思える人間はよほど素直だなと思ってしまうのだが、これはそんなに認知が歪んでいるのだろうか。
綾城さんにとっておけけパワー中島は、友達である以前に「好きな作品の作り手」なのである。
すなわち、同人文化の中で仲良くなるには、まず「作品」ありきで、かつ「コミュ力」も必要なのである。今回の件ではどちらか一方に軸を置いている感想や考察が多いが、私はこれは両方欠かせない要素だと考える。
よって、コミュ力以前にそもそも自分で「大したことがない」と思うような作品しか作っていないし、人の心を動かすようなものを作れてもいないのだろう。この時点で綾城さんに相手にされないと思うのはごく自然なことに感じる。これは数の話というよりむしろ創作に対する態度の問題である。七瀬は解釈を突き詰める方法で、友川はひたすら作品を完成させるという方法で、自分の作品を研いでいった。
(また、今回の件ではあまり触れられていないし、最終的に綾城さんが七瀬や友川の作品を認識するに至っているため杞憂ではあるのだが、そもそも同じカプを愛好するからといって仲良くなれるとは限らない。ほのぼのハピエン好きは死ネタを絶対に読まないし、相手固定派は雑食を先行ブロックしているだろう。これらの流動性はジャンルによるだろうが、確かに存在する)
このように、同人女がまず繋がるためには、作品で認知され、さらに積極的なコミュニケーションをとるという二つのステップが必要なのである。
個人的に綾城さんとおけけパワー中島は長い付き合いだからこそのあの距離感なのだと思っているが、それだって最初の出会いはリア友であったパターンを除けば、互いが互いの作品を良いと思ったからなのではないか?
多くの意見では、七瀬や友川が「自分が上手くなれば綾城さんと必ず仲良くなれる」と思っている、という点について批判されているが、私はそこまでの感情を読み取れなかった。思うに、逆なのである。「綾城さんと仲良くなるためには、仲良くなれるかどうかは定かではないがとにもかくにもまず上手くなる以外道はない」だと私は捉えた。十分条件ではなく、必要条件である。
別に仲良くなれなかったからといって逆恨みはほぼないだろうと思われる。友川の自問自答や毒マロを送りかけた点については私も異常だと思うが、七瀬に関してはふられたショック以上の感情はないように思う。コミュニケーション能力は確かに低いので、作品を認知してもらったこの先も関係は思う通りにならない可能性の方が高いのだろう。だが創作はさまざまな感情の昇華法であり、その頃には本人たちも気持ちに折り合いがついているものと思われる。
巷の反応を見る限り多くの人は同人の人間関係は対価ではないという意見に納得しているようだが、成り立ちからして対価でないという方に違和感を感じてしまう。批判している人たちが日常的に関わっているのは、なんの関係もない無作為に抽出されたジャンル者なのか?相手の生み出すものに何も感じていないのか?私にはその前提がどうしても疑問である。
最後になるが、この件に関して七瀬や友川の批判をしている人は大抵フォロワー数がフォロー数より多い。そんなことに囚われているから弱小なのだと言われてしまうと耳が痛いが、どうしても「パンがなければケーキを食べればいい」と言われている気分になるし、結局は各々が自分の経験に照らした発言しかできないので価値観の相違がもろに炙り出されるのだろうと思う。件の漫画は、同人観をはかる試薬なのである。
「人間は平等である」という話と、「世の中には善悪がある」という話、どちらかが嘘だ。
人間が平等であるのならば、すべての価値観は相対化されることになり、どんなものの見方、考え方も同じく尊重されるべきものであってそこに善悪はない。
世の中に善悪があるのならば、すべての価値観は善悪の定規により優劣がつけられ、優れたものの考え方をしている人間と劣ったものの考え方をしている人間がいることになり人間は平等ではなくなる。
結局のところ、今大きなムーブメントとなっている価値観の対立は、人間の平等性を信じるか、世の中の善悪を信じるかの対立に帰着されるもののように思う。
ただ、話はそこまですっきりしていなくて、世の中には善悪があり人間は平等ではないのだ派閥と、世の中には善悪があるが人間は平等なのだ派閥の争いになっているように見える。
前者はプリミティブな考えであり、後者は前者よりも考えが込み入っているが故に混乱している。
人間の平等性にこそ重きを置くのならば、価値観の多様化を認めざるを得なくなり、人々のコミュニティは断絶せざるを得ないだろう。人は異なる価値観を持った人を隣人にはできない。多様性を標榜する人々も、多様性を認めない人を多様性の一部として受け入れることはしていないことがその証左だ。
世の中の善悪にこそ重きを置くのならば、人間の平等性を認められなくなり、選民思想は消えることはないだろう。つまり、差別は今とは形を変えるとしても残り続ける人間の原罪となる。差別は必ず「劣った人々」に対して行われてきた。
私も似たような感想を持った。
概ね絶賛の評価が多かったので、???となったのが正直なところだ。
全編通して、良作だとは思うのですよ。
作画はいい。今どきの評価の高いアニメ映画を見ると、場面場面で「おおっ」てなるショットがあってそれだけで楽しい。
物語のテンポも良く、作画の良さも相まって退屈することなく最後まで楽しく見ることはできた。
小学生キャラの造形がいわゆる「萌え」系に寄りすぎかなとも思ったが、今どきはこれがスタンダードな少女の表現なのかな、とも。
いくらなんでもご都合主義が過ぎるだろうなストーリー展開とか、この内容で小学生設定は無理がないか?せめて高校生だろうリアリティ的に考えて…とか、意味深に現れたわりには賑やかしとしかストーリーに絡んでない幽霊たちとか、幽霊以外は比較的リアリティのあるキャラ設定なのになんでピンふりさんだけこんなアニメチックな造形なんだ、とかいろいろ引っかかるところはあるんだけど、そのへんはまあ細部だ。
少女は悲しみを乗り越えて一歩成長しました、というのがストーリー上の帰着点なんだろうけど。
肉親の死に直接関わった人物と対峙して、即座に気持ちを切り替えて受け入れる、というのは無理だ。説得力がなさすぎる。
相手男性も悪い人とは描画されてないので、すべての事情を知った少女が散々涙するのを見たうえで、受け入れました。残ってください。と伝えられるのホラー以外の何者でもない。さらに事情を察せず無邪気にここに残りたいという男児。地獄じゃないの。
こんなエグいエピソードを一番の山場に持ってきて、サラリと感動話として展開するのに心がついていかなかった。
このテーマにするにも違うエピソードにするか、少女男性双方が受け入れていくさまをもう少し丁寧に描画してくれないと、物語が腑に落ちんのよ。
このように心が明後日の方向に揺さぶられたまま、感動した、泣ける、美しい、尊いっていう多数の感想を眺めながら、バグっているのは私だけなのか、と惑っていたらトラバブコメ含め似たような感想を持っている人も多く、ちょっと救われた。ありがとう。
自己責任論の問題点は、どんなことにも「自己責任」を見出すことはできるけど、結果に対してその「責任」とやらが何パーセントを占めてるかは定量的に示されないことにある。
たとえば、「無条件で1万円またはサイコロで6出したときのみ6万円」という場合にサイコロを振って0円になった人間に対しては、一応「自己責任でしょ」とは言える。これは、結果に対する「責任」の割合が100%だからだ。だが、道を歩いていて隕石にあたった人に「自己責任」と叫ぶのは常軌を逸している。その時そこを歩いていて隕石にぶつかったのは事実だとしても、それを「因果」で結び「個人の責任」に帰着することは、少なくとも事前に予見できることではない。
このことから分かることは、「自己責任」論というのは、物事が起こる「前」ならば有効であるが、「事後」から遡って論じる場合、上記のような誤りを犯す可能性があるということだ。つまり、せめて後出しは禁止としておかないと有効性が担保できない、脆弱な論だということ。それを忘れてはならない。