様々な立場から様々な意見が飛び交い、その意見に対する反応の量も多い。このエントリもその一種である。
自分は完全に七瀬や友川側の人間であるが、本題はおけけパワー中島ではない。むしろそのタイプの同人女のことは好意的に捉えている。
ここで言いたいのは、「七瀬や友川の努力は本当に目標設定からして間違っていたのか?」についてである。
七瀬や友川の自己肯定感について言及した増田がバズっていた。その増田自体は非常に深層の問題の言語化が上手いと感じた。あまり主語が大きい発言はよくないかもしれないが、近年の同人女界隈の問題は多くが大きすぎる拡張自我と自己肯定感の低さ、自他境界の曖昧さなどに帰着されると感じていたので、この結論になると感じる人も多いだろうと思った。
それと並行して、「神も人間なのだから、人間扱いしないと仲良くなれるはずがない」という意見も散見された。
その類の意見に関しても、盲目的に崇拝されるより対等に接してもらえる方がとっつきやすいのは確かだろう。
これらの意見には非常に納得させられたし、全くその通りだ。自己の願望を他人に投影して行動すべきではないし、他人はコントロールできないということをしんから分かっていれば七瀬や友川のような行動は起こさないだろう。
だが、出発点である、憧れの神にフォローバックされたい、同じカプを愛好する者として仲間になりたいという感情自体はそこまで不健全なものではないはずだ。その結果小説の上達を目指した七瀬や友川の選択がそもそもお門違いである、というような意見に対して反論すべくこの増田を書いている。
第一、ここはリアルの教室でも職場でもなく、インターネットの同人社会である。最初にフォローされた時点でフォローバックをするかどうか、これから仲良くなるかどうかを決めるのに、「作品が好みかどうか」は最重要項目ではないのか?(そもそも、フォローバック=仲良くなる、ではないのかもしれない。しかし、私はインターネットで通話をするほど仲良くしている人間がFF外の人間である例はリアルの友人以外である場合以外に見たことがないので、このような考えに至っている。また、七瀬や友川が最初に抱いた感情を「仲良くなりたい」だと定義しているが、ここの解釈と表現に関しては個人差があると思われる)
確かにこのような実利主義を実生活にも反映したらメンヘラ認定間違いなしだろう。だがそもそも、同人を介した人間関係は作品ありきではないのか?
これでおけけパワー中島が見ず知らずのROM専だったら七瀬や友川がやりすぎで気持ち悪いという意見にも納得がいくが、実際は綾城さんはおけけパワー中島に「新刊楽しみです」とコメントしている。
もちろんFF内、果ては作り手でなくてもコミュニケーションを取ろうとする人はいて、だからこそそのような層が七瀬や友川の思考回路に疑問を呈しているのだろう。だが少なくとも私が同人生活で見てきた5つほどのジャンルでは、所謂「神」と呼ばれている人たち、そして私の好きな作り手は自身の好みの作り手のみをフォローしていて、その創作者のコミュニティ内でコミュニケーションをとる例が圧倒的に多かった。このような事実を前に、「仲良くなるために自分の状況如何に関わらずコミュニケーションを取ろう」と思える人間はよほど素直だなと思ってしまうのだが、これはそんなに認知が歪んでいるのだろうか。
綾城さんにとっておけけパワー中島は、友達である以前に「好きな作品の作り手」なのである。
すなわち、同人文化の中で仲良くなるには、まず「作品」ありきで、かつ「コミュ力」も必要なのである。今回の件ではどちらか一方に軸を置いている感想や考察が多いが、私はこれは両方欠かせない要素だと考える。
よって、コミュ力以前にそもそも自分で「大したことがない」と思うような作品しか作っていないし、人の心を動かすようなものを作れてもいないのだろう。この時点で綾城さんに相手にされないと思うのはごく自然なことに感じる。これは数の話というよりむしろ創作に対する態度の問題である。七瀬は解釈を突き詰める方法で、友川はひたすら作品を完成させるという方法で、自分の作品を研いでいった。
(また、今回の件ではあまり触れられていないし、最終的に綾城さんが七瀬や友川の作品を認識するに至っているため杞憂ではあるのだが、そもそも同じカプを愛好するからといって仲良くなれるとは限らない。ほのぼのハピエン好きは死ネタを絶対に読まないし、相手固定派は雑食を先行ブロックしているだろう。これらの流動性はジャンルによるだろうが、確かに存在する)
このように、同人女がまず繋がるためには、作品で認知され、さらに積極的なコミュニケーションをとるという二つのステップが必要なのである。
個人的に綾城さんとおけけパワー中島は長い付き合いだからこそのあの距離感なのだと思っているが、それだって最初の出会いはリア友であったパターンを除けば、互いが互いの作品を良いと思ったからなのではないか?
多くの意見では、七瀬や友川が「自分が上手くなれば綾城さんと必ず仲良くなれる」と思っている、という点について批判されているが、私はそこまでの感情を読み取れなかった。思うに、逆なのである。「綾城さんと仲良くなるためには、仲良くなれるかどうかは定かではないがとにもかくにもまず上手くなる以外道はない」だと私は捉えた。十分条件ではなく、必要条件である。
別に仲良くなれなかったからといって逆恨みはほぼないだろうと思われる。友川の自問自答や毒マロを送りかけた点については私も異常だと思うが、七瀬に関してはふられたショック以上の感情はないように思う。コミュニケーション能力は確かに低いので、作品を認知してもらったこの先も関係は思う通りにならない可能性の方が高いのだろう。だが創作はさまざまな感情の昇華法であり、その頃には本人たちも気持ちに折り合いがついているものと思われる。
巷の反応を見る限り多くの人は同人の人間関係は対価ではないという意見に納得しているようだが、成り立ちからして対価でないという方に違和感を感じてしまう。批判している人たちが日常的に関わっているのは、なんの関係もない無作為に抽出されたジャンル者なのか?相手の生み出すものに何も感じていないのか?私にはその前提がどうしても疑問である。
最後になるが、この件に関して七瀬や友川の批判をしている人は大抵フォロワー数がフォロー数より多い。そんなことに囚われているから弱小なのだと言われてしまうと耳が痛いが、どうしても「パンがなければケーキを食べればいい」と言われている気分になるし、結局は各々が自分の経験に照らした発言しかできないので価値観の相違がもろに炙り出されるのだろうと思う。件の漫画は、同人観をはかる試薬なのである。
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