最近はてなのホッテントリでよく見るんだけど、トランス女性(MtF)が男湯に入るか女湯に入るか問題。個人的には男性器を切除していれば女湯、そうでなければ男湯に入るべきと思うが、どうもこういう考え方をするとトランスフォビアとレッテルをはられて聖戦を宣告されてしまうらしい。でもいくら考えてももやっとするのでなぜそう思うかを書き留めておきたい。
根本的な問題は、「なぜトランス女性は女湯に入りたいのか」ということだと思う。この問いに関して、いろいろな理由のつけ方はあるだろう。「女性と一緒に扱われたい」とか「自分の性的志向の対象に囲まれているのは落ち着かない」とか。ただ、結局究極的な理由としては、「自分と違う性別の人と裸で一緒に風呂に入りたくない」ということに帰着できるのではないか。もし見落としがあったら教えてほしい。これはある意味そもそもの男湯・女湯の存在意義であるだろうから、自然な感情ではあろう。
しかし、ここでどうしても気になるのは、「それって女湯に入ってる女性もそうなんじゃないの?」ということだ。もしトランス女性の外見が一般的な男性と同じであれば、女湯に入っている女性たちは「少なくとも自分と違う性別の見た目をした人と裸で一緒に風呂に入っている」ことになる。つまり、結局女性側の希望と、未手術のトランス女性側の希望がコンフリクトしている。しかし、なぜか「マイノリティに配慮してトランス女性側の希望**だけ**を認めろ」という方向に議論が進みがちである。ここが全く理解できないのだ。
例えば同性婚であれば、これを認めることはLGBTにとって大きな利益となろうが、異性愛者にとっては少なくとも直接的な不利益とはならない。こういう、ある意味「誰も損をしない」事柄は積極的に認めていくべきだと思う。しかし、女湯問題は、トランス女性と「非トランス」女性の利益が真っ向から衝突している。こういう時は多数が少数に配慮しつつ落としどころを探っていくしかないが、その落としどころも、「手術済みトランス女性は認める」以上は正直難しいように思える。もちろん、ホルモン療法で見た目を近づけられるとかそういうことはあるので結局は気持ちの問題ではあるのだろうが、人が本当に何を考えているかは他人にわからない以上、誰もが認められる客観的な基準を不可逆な手術に置くのは明確な基準になるだろう。しかし、どうもその考え方だと「LGBTに無理解な滅びるべき前時代的な人」になってしまうらしい。それはあまりに暴力的な主張に過ぎないだろうか。
女風呂に入りたい変態がトランス女性と言い張ったら。
嫌なら家風呂があるやん
本物のトランス女性に偽のトランス女性が混ざったらという話。
あほくさぁー 今まで反差別の皆さんがマイノリティ側を糾弾する時、そいつらの利益や立場に配慮なんてしたことありましたっけ? どっからどう見たってそんなんガン無視でゴリ押しし...
私が嫌いなマイノリティを糾弾するのは、反差別ではないのですよ。それが。
根本的な問題は、「なぜトランス女性は女湯に入りたいのか」ということだと思う。 あのさあ、もう何度も何度も書いてるけど、それ当事者不在の架空の要求だから。「こう言ってき...
(返信先間違えたので再投稿) 根本的な問題は、「なぜトランス女性は女湯に入りたいのか」ということだと思う。 あのさあ、もう何度も何度も書いてるけど、それ当事者不在の架...