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はてなキーワード: 差しとは

2023-11-19

北海道味噌バターラーメンとか仙台牛タンとか、名物として「用意」されてる感を感じるとなんか冷めてしまう。

例えばドラマ会社員一服してるような、室外機が雑多に置かれた雑居ビル屋上に上がってみたい。でも百貨店とかの屋上ではその気持ちを満たせない。ベンチなんか置かれちゃったり、芝の上でガキが走り回ってたりして、「ここでゆっくり過ごしてくださいね〜」と言わんばかりに用意され過ぎてるみたいな、そういう……

あとはもっと単純に、土地の差違を楽しみたいのに、楽しむための差違がわざわざ用意されてるんじゃないか?と思ってしまうと冷めてしまうというのもある。

さわやかとかセコマみたいなローカルチェーンが観光地として選ばれるのって、そういう我々が日常生活ファミマに入るが如く「本当にその地域で慣れ親しまれているもの」への欲求を適度に満たしつつ、しかローカル展開なのでそこでしか楽しめないという欲求も満たせるバランス感みたいなものが決め手になってるような気がする。金沢小樽で敢えて回転寿司に行ったりするのも然り。

さわやかも今は吉村家並みに混んでるらしいし、そういう点とは別な部分で観光地感(≒おれの言う用意されてる感に近いもの)を感じてしまうかもしれないが……

でもおれはさらにそこで疑ってしまう。それらはホンマに愛されてるんかと。静岡県民は本当に他のファミレス差し置いてさわやかを選ぶのか。北海道中高生は本当にコーラよりもガラナを選ぶのか、ごつ盛りよりも焼き弁に手が伸びるんかと。

別にそればかり食べている訳でもなくて、それが選択肢として当たり前に存在するのが馴染まれているという事なんだろうとは思う。でもそこでちょっと肩肘張ってる部分がないだろうかと邪推してしまう。

レモン牛乳は本当に自然体で愛されているんだろうか。栃木といったらこれだよな、という余所者視点内面化されて気負いとなってはいないだろうか。

まあ実態なんて分からん邪推ばかりしていてはパラノイアになってしまうので、程々に収めておくようにしている。と言いつつ関西土産どん兵衛を買ってきてしまう。ごつ盛りと焼き弁では少々不公平な所があるかもしれないが、どん兵衛(W)とどん兵衛(E)ならそこで確かな土地の差のようなものが感じられる気がする。

路線バスに乗るならせめてちょっとは準備してくれ

こないだ路線バスに乗ったら、大学生くらいの若者が降り際の運賃支払いでもたついて運転手を困らせていた。

運転手さんも若者のあまりの鈍臭さにイラついてちょっとキツい口調になってしまって、若者憮然としていた。

バスを降りた若者はすぐにスマホバス写真を撮ったりしていたので、「バス運転手対応がひどかった」とかなんとか、SNSにでも書き込むんだろう。

だかな若者よ、お前も路線バスに乗るならせめてちょっとは準備してくれ。真横で見てたけど、やってること無茶苦茶だったじゃねーか。

予備知識ゼロで乗ってきて勘で突破できるほど甘い乗り物じゃねーわ。

 

ここからはボーッと生きてる全国民に向けて言う。

路線バスの利用方法が多少複雑なのはわかる。難しいよな。

でも、そこに不安があるならPASMOとかSuicaを使ってくれ。交通系ICならチャージされてさえいればバカでも簡単に乗れる。

いま半導体不足の影響で物理PASMOSuicaは手に入らないが、モバイル版なら今からでも手に入る。

どうしても交通系ICカードを使えない理由があるなら、仕組みを理解してから路線バスを利用してくれ。簡単説明するから

 

運賃システムの違い

まず、路線バスの料金には大きく分けて2種類ある。

のふたつだ。

均一料金

どこからどこまで乗っても同じ料金。都市部に多い。

ふつうは先払い。乗る時に払って勝手に好きなところで降りる。

距離別料金

乗ったバス停と降りるバス停の組み合わせで料金が変わる。郊外地方部に多い。

ふつうは後払い。降りる時でないと乗った区間が確定しないからね。

 

大都会東京の区部とか)ならほぼほぼ均一料金だし、ど田舎ならほぼほぼ距離別だろう。

だが、都会と田舎境界部では同じバスターミナル発着でも両方のタイプが混在する。乗る前にしっかり確認しよう。

時刻表とか路線図かに料金が1種類しか書いてなかったら均一料金。「前のり先払い」と書いてあったりもする。

料金表が載ってたり路線図に料金も併せて書いてあったりしたら距離別料金。「後のり後払い」と書いてあったりもする。

同じ路線で均一のバス距離別のバスが混走していることはない。必ずどちらかのはずだ。

 

バスの乗り方(交通系ICがある場合) 

均一料金

乗る時:前ドア(運転席のほう)から乗り、ICタッチ

降りる時:何もする必要はない。後ろドア(バスの車体中ほど)から降りる。

距離別料金

乗る時:後ろドア(バスの車体中ほど)から乗り、ICタッチ(読み取り機はドアのすぐ脇にある)。

降りる時:前ドア(運転席のほう)からICタッチして降りる。

早い話、電車自動改札と同じだ。ゲートがないだけ。

バスの乗り方(現金場合) 

均一料金

乗る時:前ドア(運転席のほう)から乗り、運賃を支払う。

小銭をピッタリ持っていない時は「お釣りが出る料金機」と「両替しかしてくれない料金機」があるので注意だ。

また、ピッタリの運賃を入れる場所とお釣りがほしい時にお金を入れる場所は違うことにも注意。

釣りがほしい時にお金を入れる場所お金を入れると小銭がジャラジャラっと返ってくるが、それが「運賃差し引かれたお釣り」なのか「両替されただけの同額」なのかはバス会社によって異なる。

もちろん、料金機にはちゃんと「お釣り」もしくは「両替」と書かれているはずなので、字が読めれば間違うことはない。

降りる時:何もする必要はない。後ろドア(バスの車体中ほど)から降りる。

距離別料金

乗る時:後ろドア(バスの車体中ほど)から乗り、整理券を取る。整理券をニュッと吐き出す小箱がドアの脇にある。

例外として始発バス停やひとつ先などでは整理券が出ないことがある。これは無券といって、「整理券を持っていない=私は始発バスから乗った者です」というイマジナリー整理券を持っているのと同じとみなされる。

降りる時:前ドア(運転席のほう)で運賃を支払う。いくら支払うかは、車内の料金パネルでわかる。

整理券には番号が印字されていて、車内の料金パネルと突き合わせると自分が次のバス停で払う料金がわかる仕組みになっている。

手元の整理券に「3」と印字されていて、料金パネルの3のマスに「240」と出ていたら、君の支払う運賃は240円だ。

ピッタリ持っていなかった時のヤバさは均一料金の時と同じだ。お釣りが出るか、両替になるかはバス会社によって違う。

 

IC残高不足や現金をピッタリ持っていない時のマナー

ICチャージ必要だったり、両替してから支払うような時は対応時間がかかる。後払いの場合に、そうなることがあらかじめわかっている時は、降りる列の最後尾に並ぼう。

さっさと降りられる人たちを余分に待たせないためのマナーで、車内放送でもそう促されることが多い(降りない人たちの待ち時間までは変わらないがそれは不問とされる)。

始発駅で停車中の、発車までしばらく時間があるような時に両替を頼むのがベストだ。

そもそも路線バスでは2千円・5千円・1万円の金種は両替できないことがある。せめて千円札は用意して乗ってくれ。

追記

こんな事前準備させる交通公共機関はクソとしかいいようがないし、たった数十秒程度のロスで怒る運転手乗客も余裕がなさすぎて怖い。なにこれ。しかもこんな増田を書くとか不気味すぎる。

慣れない人の参考になればと思って現状あるがままを書けば不気味呼ばわりですわ。はぁ。

路線バスはきっぷもなく車掌もいないワンマン運行という業態である以上、仕組みを乗客理解して(ある意味運行業務に協力しつつ)利用するのが前提となる交通機関だ。

それをクソとか言うなら全国のバス会社と利用者がひれ伏すような冴えたソリューションをお前が提案してみせろよ。できるもんならな。

お前もこれに星つけてる奴らも冒頭に書いた甘ったれ学生と同じだ。一生引きこもってろ。

追記2

レアケースではあるが、神奈川県市が尾駅から桐蔭学園入口や鉄町方面にむかうバス東急小田急 (均一) と神奈中 (距離別) で料金体系がかわる。

その路線、6年ばかし使ってたわ!柿生からだけど)

あそこ神奈中距離運賃だったんだね。本数全然いから印象に残ってなかったわ。っていうか乗ったことない。

“やってること無茶苦茶だった”ココを詳しく。降り口で払うタイプなら、運転手さんに言われる通りにすればいいだろうけど何してたんだろう

学生運賃入口整理券500円玉をそのまま放り込む(車内放送で「500円玉千円札は事前に両替必要です」と言われてる)。

乗務員、「500円はそこじゃなくて先に両替なんですよ…」と言いつつ500円を両替し、そこから運賃差し引いてお釣りを渡す。

学生、受け取ったお釣りの中から自分運賃運賃入口に入れようとする。

乗務員、「あーっ!入れないでください!もういただいてます!」

学生、状況を理解できず立ち尽くす。

乗務員、「もう大丈夫ですよ」

学生、まだ理解できない。

乗務員、「このまま降りていいですよ」

俺、「(早くしてくれ…)」

追記3

本文でも書いたしコメントでも多く指摘されている通り、路線バスの乗りにくさは交通系ICカードの登場でほぼ解消されていて、残る課題現金払いだけと感じている。

でも現金払いは到底なくせるものではないし、運賃機の仕組みも、全体最適として見ると今の方式(ピッタリの投入口釣り銭・両替の投入口を分ける)がいちばん乗降フロー効率が良い気がする。つまり現状から改善余地ほとんど残されておらず、できることがあるとすれば(コメントでも多く提案のある)乗降フローの全国標準化くらいだろうと思う。

そんな中、

駅前バスターミナルなんかではチケット自販機置けば楽で良い。どうせ同じ経路で帰ってくるので往復分買えば良いし。

これ、とてもいい案だなと思った(スターをたくさんつけてあげてほしい)。

要は回数券を1枚ずつ買えるみたいな。運賃はわかっているけれどその小銭をぴったり持っていない、でもバスの中で両替するのは抵抗がある、そういうニーズドンピシャマッチしている。そういうニーズがどのくらいあるかわからないけれど、そうは多くないだろうからターミナルにこういう券売機が1台あればいいよね。

もちろん運賃いくらかわからないまま乗り込んでしまうケースもあるだろう。そういう時には、200円券・100円券・50円券・10円券を複数枚ずつ綴ったマルチ回数券なんてのも、旅先で1冊持ってたら安心かもしれない。これもニーズがどのくらいあるかはわからないけれど。

かつて人文系博士号は功成り名を遂げた大学者がもらう勲章のようなものだった

最近中東イスラム研究者池内恵氏が博士号を持っていないことが、X上で話題になっていた。やたらに博士号を持っている側を持ち上げたり、あるいは逆に博士号重要ではない、実績を見よ、と反論していたりするのが目に付く。

だが、博士号に関しては議論の前提が違う。かつて、そもそも日本の人文系博士号レジェンド級に希少であり、真っ当な研究者でも取得できないのが普通だったのだから90年代以前の人文系研究者の大部分は、博士課程で博士号を取得することはできないと認識していただろう。

その様相が変わって学位取得が適正化されたのは、池内氏が学部生、院生として過ごした90年代から2000年代にかけてのことだ。池内氏はその変化の恩恵?を授かれなかった狭間最後世代なのだと思う。

その点に触れている投稿がなかったので、メモしておこうと思う。

文系博士号の取得について認識齟齬が生じる原因は大きく二つだ。

現在では人文系博士号運用理系運用に近づいた。だが世代や文理の違いによって事実が見えなくなっている人が多いのだと思う。

90年代前半くらいの状況

90年代中盤当時、大学院について調べていると謎の単語単位取得退学」に出会った。博士課程に進学し修了したとして、しかし残念ながら学位もらえず、ということはある。ここまでは当然だろう。不思議だったのは、単位取得退学という言葉がまるで学位のような扱いだったことだ。プロフィール欄に堂々と書くようなものか?と思った。

調べるとどうやら人文系博士号を取得するのは非常にマレだということだった。それゆえに単位取得退学学位のように通用していたということである

ざっくりと状況を把握するには、下の 3.4.2日本博士号取得者 (1)日本の分野別博士号取得者 あたりを見てほしい。

[科学技術指標2021・html版 | 科学技術学術政策研究所 ](https://www.nistep.go.jp/sti_indicator/2021/RM311_34.html)

実態としての運用はどうだったか。その雰囲気はこの辺のWikipedia記事に詳しい。

[単位取得満期退学](https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%98%E4%BD%8D%E5%8F%96%E5%BE%97%E6%BA%80%E6%9C%9F%E9%80%80%E5%AD%A6#%E4%BA%BA%E6%96%87%E3%83%BB%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E7%B3%BB%E3%81%AE%E7%89%B9%E8%89%B2)

1989年以前の東京大学大学院人文科学研究科では、大学院生にとって課程博士論文は書かないことが原則で書くことは例外であったという」

少なくとも90年代以前では、人文系研究者キャリアの初期に博士号は困難であったというより、ほぼ不可能だったみて構わない。かつて人文系博士号キャリア晩年差し掛かってそれまでの功績を評価してもらうもの。今のように博士課程を修了した時点でキャリアの出発点となるような資格のようなものではなかったのだ。

時代の転換

この状況は1990年代に入ると徐々に変化する。

[23博士学位授与数の推移と授与率:文部科学省](https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/attach/1407428.htm)によると、博士授与率は、

平成3年度(1991年度)に人文系4.7%、工学系78.1%だったものが、平成13年度(2001)年度では、人文系23%、工学系では88.6%と変化する。まだ差はあるものの確実に変化している。

いずれにせよ、2000年前後は、「博士課程を修了して真っ当な評価を得れば博士号を取得できる」という普通の状況に至るまでの長い変化の途中の時期だった。

現在

博士号を取得する人の数は増え続けている。ただご存知の通り、その活躍先が十分あるとは言えない状況だ。

このことで企業側の受け入れ姿勢批判する向きもあると思うが、それは間違っていると思う。かつての日本博士号(人文系)の授与が異常だったのであり、企業はそれに適応しただけだろう。変な運用を続けていた大学責任がある。企業の変化にはまだ時間がかかるだろう。

以上が、博士号取得に関しての時代状況の説明だ。

博士号価値

現在特に文系に関して博士号は多く取得されるようになったが、だからと言って価値が軽くなったという話ではない。

ただ時代が違ってしまうと、まるで別のものになっていることは押さえておきたい。別の分野の研究ともなると尚更比較するのは困難だ。

(課程博士論文博士など取得プロセスの違いもある)

私自身は結局アカデミアとは無縁のキャリアになったので、個別研究室の中のことを知る由もないが、おそらく池内氏が博士課程に在籍していた2000年前後博士号の扱いの転換期だったはずだ。その当時は学位を取得することは不可能ではなかったが当然でもなかった時代だと言える。

まして、仄聞するに、池内氏は学会因習悪弊に対して相当の武闘派であったようだから、そう簡単学位を取得できる状況だったとは思えない(これは憶測だが)。

池内氏の中東イスラムの分野の研究における業績は既に輝かしいし、一般向けの著書や寄稿も数多い。加えて組織設立運営、後進の育成など、並みの胆力ではこれだけのことはできない。

現在、この世界情勢のもとで池内氏の解説発言は、信頼のおける言説としてますます重要になっていると思う。

当人にとっては博士号の話など大きなお世話で、拘泥もしていないと思う。

ただ、一般の人が博士の扱いの変遷について知らず、この話題によって氏への信頼に一点でも曇りを生じそうな人がいるなら、それは違うとは伝えておきたい。

2023-11-18

ねえねえ不思議なんだけど、なんで直接口座に振り込まないの?

投げ銭だとプラットフォーマーに3割とか差し引かれるじゃん。

銀行口座を開示してそこに直接振り込ませればいいんじゃないの?

2023-11-17

anond:20231117165158

「する」って断言してないよね。

「したら嫌だから釘を差してる」って話だぞ。

やっぱ理解力が低いか自己中心的になってくんかな?

おれは時々暇つぶし他人エントリを眺めていることのほうが多いのだが、

どうにも自分を知る人間には喋りづらいようなことがあった時には、ひとりの増田としてポツリと匿名エントリを書くこともある。

最近エントリ投稿する瞬間にふと考えてしまうことがある。

「これがもしバズってしまったらどうしよう」

実際のところはそんな大層な話を書いているわけでもないし、

はてな匿名ダイアリーにおいてウケを狙おうとしたことすらもない(ほぼ日記みたいなエントリばかりである

バズる要素なんかなんにもないんだけれど、

それなのに、人の目に止まる場所自分言葉を吐き出した瞬間にふっと考えてしまう。

これは自己顕示欲なのか、共感が欲しいという欲求なのか、ともかく身の程知らずにも程がある考えなのは間違いないのだが、

最近さらに「仮にバズってしまった場合、おれは周囲に黙っていられるだろうか?」と自問するようになった。

なんとなく周囲の人間には見られたくないからと匿名で吐き出すことを選んでおいて、いざそれが有名になってしまったら?

Twitterで出回ってるあのエントリ、実はおれが書いたんだ」なんて、友達の1人にでも言わない自信があるか?

絶対に言わない」と言えるほどの自信がないことに気付いた時、自分に心底嫌気が差した。

普段は目立つのを避けようとする癖に?

承認欲求自己顕示欲あんまりないですね、と言わんばかりに涼しい顔で過ごしている癖に?

実は内心にはしっかり渦巻いてるんじゃないか

目立ちたくて仕方ない一面がしっかり潜んでるんじゃないか

何かを拗らせてしまっているというのはわかってる。

自分はこうありたい、こうあるべきだろう」という一種理想のようなものと、それに反する内心、

両方をうまく制御できるようになりたいと、二十代も終わり頃になった最近、初めて願うようになった。

書き殴っていたら、なんだか何を書きたいのかもよくわからない文になってしまったな。

まだ昼休みが終わるまで時間がある。気晴らしにコンビニにでも行こうかな。

日本エンジニア給料が安いのは安く働いてくれるから

以下でエンジニアと書いてあるのはソフトウェアエンジニアだと読み替えて欲しい。

自分エンジニア出身日本会社経営をしている。

最近エンジニアの間で海外エンジニアをやれば簡単年収2000万に到達できる的なブログがバズっているが、ここで疑問になるのはなぜ日本エンジニア海外に比べて給料が安いのか。

色々理由はあるが、第一に大きいのが「海外ではエンジニアになるのにはコンピュータサイエンス学位を持っているのが前提だから」という点。

もちろん野良で独学してエンジニアになっている人間一定数いるが、固定観念としてエンジニア=CS学位を持っているというのはある。

ということで必然的に一国のエンジニアの平均的な技術力は高い(技術力とはなんだという話はあるが)。

日本だとどうも大学という存在が軽視されていて、スキル等を獲得する場所ではなく就職予備校という側面が大きく、大学での専攻と卒業後のキャリア対応けがめちゃくちゃだったりしている。

そんなわけでエンジニアと名乗っておきながらやっている仕事マークアップ言語コーディングしていくだけで、知的生産なのか?というような仕事を主としている人間がかなり存在する。

どうしてこんなことになっているかというと、日本のものづくり業界歴史としてバブルの時期にハードウェア関連で国が伸びてきたという経緯があり、ハードウェア会社が強く、ソフトウェアハードウェアプラグイン的な捉え方がされているため富士通のようなSIerと呼ばれるシステム導入を主要事業とする会社が後から伸びてきた。

SIerシステム導入をすることがゴールであり、現在のDevOpsとは真逆で作ったら終わりのビジネスモデルなので(メンテでフィーはもらうが)、少々話が飛躍するが結局SIerコーディングに興味がない。

日本国内でのハードウェア産業の勃興とソフトウェア立場の弱さ、SIerの台頭、大学の軽視など様々な力学が働いて結果としてエンジニア給料他国に比べて低いと個人的に考えている。

じゃあ日本エンジニア給料を上げるにはどうしたらいいんだって話になるわけだけど、極論として全員安い給料コードを書かなければいいと思う。

ペラペラLPを作るのだって最低500万を積まなければければやらない、サイドバーボタンコンポーネント1つ差し込むのにも100万円払わななければやらない、みたいな。

まあ急にそんなことはできないんだけど、漸進的にこれをやる方法は1つあって、USなりの物価の高い国からオフショア案件を受ける。

そうすれば自然給料の高い仕事エンジニア流れるので、日本国内のエンジニアが全員オフショアエンジニアになれば結果的に平均的な給料が上がる。

日本経済としてそれはどうなんだろうとは思うけど、近視眼的に日本エンジニア給料を上げるというのを解決するにはこのくらいしかない。

オフショアという形を頼らずともVCマネーで生き生きとしているベンチャーエンジニア給料を高くしてるけど、これはあくま局所的な話であって日本全体のスコープで考えたら結局産業構造というものに向き合うしかないと思う。

自分自身エンジニアだったしOSSにもコミットしたりそれなりに開発できる人材に敬意は持ってるけど、それでも安く仕事してくれるなら給料は安めにしたい。

なぜなら会社の口座残高がゼロになったらゲームオーバー(=倒産)なので、削れる人件費は削りたい。自分会社エンジニアを抱えているけど事業を回すためにも世間並みの給料ではある。

経営者視点では日本エンジニア安くて最高。

今後も安く働いてくれると嬉しい。

2023-11-16

岸田首相国民のために定額減税を辞めて給付金にしてくれないか

自分とある自治体の税システムSEをやっているが、今現在まさに過渡期でSE役所の税務係もキャパオーバーである

現在の税システムで導入のために動いているものざっとこれだけある。

共通納税2024年度)

自治体から市民に送る納税通知書をバーコード決済ができるようにするもの来年から個人住民税対象になる。

特別徴収税額通知書電子化2024年度)

特別徴収会社からいくら給料を払ったか自治体に通知し、自治体住民税額を決定して会社に通知するもの。これが紙か電子か選べるようになる。

森林環境税2024年度)

使い道知らんけど国から新しく徴収される税。一人あたり毎年1000円払う。それだけなのに様々な機能の改修が発生していてつらい。


定額減税は現在の内容で言うと、住民税所得税から差し引くという内容になっている。

住民税所得税も関連しない機能などないというほど、ほとんど全ての機能に影響がある。

上記のすでに製造テストもほぼ終わってお国から仕様変更がないことを祈っている段階で、それらをすべてやり直せ、と言っているのだ。

ただの、国民に良い顔をしたい、国民トップの、思いつきの、一言で。

おまけにたった1年しか動かないとなれば、また来年には定額減税がないバージョンシステムに戻す、などという作業が発生する。SEも、自治体職員も、みんなが「なんでこんなことを」と思いながら、ただでさえいっぱいいっぱいの作業を圧迫して対応しなければならない。

給付金であれば、コロナ禍に入ったばっかりの頃の一律10万円給付や非課税世帯の定額給付もやっているし、実績のある処理を単発で動かすだけで既存機能には影響しない。(それでも手間はかかるが)


ぜひ、国民であるはずの我々の声が届くと願いたい。

【ER】「👩‍⚕️脳内スカスカ男性をさがしています!」

👩‍⚕️「いま六万人ぶんのブクバカスターギフを差し上げますので治療()をおねがいします♡」

2023-11-15

なんで文学賞ってセックスしか人生語れないの?

審査員が色ボケしたジジイババアから

何かあればすぐセックス、悩めばセックス若いセックス熟女セックスセックスセックス

思春期少年かよ、そんなにセックス好きなら官能小説賞でも作ってろや。


膣に陰茎を差し込む程度のことに意味を求めすぎなんだよ。

夫婦生活カップルも、セックスしてるのは一緒に居る時間10分の1くらいにも満たないのに、なんで小説の方がセックスセックスなんだよ。

お前が感じている「面白さ」ってのは、文学としての「面白さ」じゃなくて、実は他人セックスを覗き込む「面白さ」を「文学」だと勘違いしてるだけじゃないのか。

まだライトノベルの方が文学してるよ。


若いうちから賞を手に入れて、小説家としてのキャリアを進んだ人間が身内だけで評価してるから、もう文学じゃなくてただの貴族暇つぶしなんよ。内容が光源氏で終わってるんよ。

文学賞とったら人生あがり、インタビュー受けるか旅行行くかしかやること無いから、大学生くらいで人生経験が止まっているのよな。

からセックスモラトリアム文学が終わってんのよ。俺らはとっくに大人になってんの。

肩をすくめるアトラスなんて日本じゃ賞とらんやろ?


どの芸術分野にも、強すぎるが故に行うのが「無粋」として行われるもの存在する。

お笑いで言えば下ネタ料理で言えば味の素、少し昔ならデミグラスソースなんかそうだ。

効果的で完成されたものは、芸術を画一化し進歩を止めてしまう。


ここ数年の「文学」はその無粋を行いすぎている。

第三者から見れば糞詰まんねぇ身内ネタを有難がっている。周りはとっくに飽きている。

銭湯に描かれた富士山のように、見ていて恥ずかしくなってくる。


文学賞はセックス禁止しろセックス無しでセックスを語れ。

セックス制限されている少年漫画やラノベのほうがよっぽど哲学してる。

2023-11-14

anond:20231114230309

自宅でも定期的にヤバいスポンジを使ってお通じを良くして差し上げては?

anond:20231114201204

性別変更もしてない戸籍男が女湯入ったらただの犯罪者でしょ。

精神科医2人が認めたトランス女性なら未手術でも女湯に入ってもいいと俺は思うが。

差し戻しになった高裁で5号(性器の外観)要件違憲になれば、そういう世界が来るし。

ペニスの生えたトランス女性が女湯に入ってくる現実2.0対応できるように価値観アップデート頑張ってね。

どれくらいの格のアイドルにどのくらい貢いだら結婚してもらえるんだろう?

キショオッサン差し向けて実験したい

ボーカロイド音楽論」(ぱてゼミ)は何故あまり批判されないのか

追記そもそも「何故もっと批判されるべきなのか」については、【最後に】の後に追記した(2023/11/15)。

【背景】

 東京大学東京芸術大学では、鮎川ぱて氏(以後、ぱて講師)による「ボーカロイド音楽論」という講義が開講されている。東京大学の方の講義はぱて講師による著書『東京大学ボーカロイド音楽論」講義』においてその過去の内容が公開されている。このダイアリーの筆者(以後、「筆者」)は「ボーカロイド音楽論」の元受講生であり、書籍を購入し一読した。同講義Twitter(現X)での実況が推奨されておりTwitter上で一つの活発な動きを毎年見せているが、「ぱてゼミ 批判」「ボーカロイド音楽論 批判」などと検索しても同講義に対する明確な批判ツイートはヒットしない(Twitter検索システムが悪いという可能性は保留する)。書籍についても、これに批判的な書評Amazonレビューやブックメーターにわずかに存在するのみである講義内容全体のレビューはそれらに譲るとして、本ダイアリーは、この「批判の少なさ」の原因について仮説を立てることを目的とする。

 本ダイアリーは直接の筆者の特定を避けるため匿名形式をとっている。内容について「そんなの当たり前じゃん」「その仮説は的外れだ」と思う読者もいるかもしれないが、このように書き残さなければ何も始まらないということでご容赦願いたい。また、筆者は全ての年度や東京芸術大学講義を聴講したわけではないこと、このダイアリーの内容は主に『東京大学ボーカロイド音楽論」講義』の初版第一刷(以下、書籍)に基づいていることを断っておく。

【本論】

まず結論として、 「ボーカロイド音楽論」に対する批判の少なさの原因として、筆者は次の4点を提唱する。

1. 媒体:現地で行う音声形式講義では記録に基づく批判が困難であるという点。

2. 受け手資質講義対象となる学生や読者のほとんどはその議題についての非専門家であり、しか批判に割くだけのリソースを持っていないという点。

3. 内容:この講義の内容が批判を先んじて封じてしまうように作られている点。

4. コミュニティ:この講義ボーカロイド音楽が好きな東大生のうち一部を迎え入れるコミュニティ形成する役割を同時に担っており、コミュニティ批判との相性が悪いという点。

以下、これらの点を順に見ていく。

1. 媒体

 書籍が発売される前、「ボーカロイド音楽論」(以下、この講義)は大学の構内の教室で開講されているのみであった(初回の何回かこそニコニコ動画配信されたが)。そこではぱて講師の口頭でのみ内容が話され、レジュメは一枚も配られることなく、板書も最低限であった。言われたこと全てを紙に書きとるのはほとんど誰にもできないだろう。従って口頭の講義に基づく批判は、言った言わないの水掛け論になってしまやすい。現に筆者がこのようなダイアリーを書くことができるのも書籍が発売され、何を書いてあり何を書いていないかを把握し見直すことが可能になったかである

2. 受け手資質

 この講義は主として東京大学教養学部学生に対して開講されたものである。その多くはこの講義で取り扱った多くの思想概念の(多くとも)全てについて専門家であるというわけではない。またぱて講師自身もそれら全ての専門家でないことは講義中に明言している(85ページ脚注5など)。従ってぱて講師によるそれらの援用が妥当でない可能性は常にあるが、そのような観点から検討をすることは学生にとって難しいだろう(勿論専門家のみがそれらを扱うべきだという立場をとることは避けなければならないが)。さらに言えば、進振りのための勉強で忙しい学生にはわざわざこの講義批判するためだけに捧げる時間も体力も残っていないということ(そしてこの講義のもの大学が門を閉める時間まで延長していることもそれらのリソースを奪う一端となっていること)を指摘しなければならない。これは書籍の読者の多くについても同じである

3. 内容

 ここでは書籍でぱて講師が用いた概念の内容が批判を先んじて封じる性質を持つことと、ぱて講師が「論じるべき内容を論じなかった」ことが批判すべき点を覆い隠す機能を持っていることを指摘する。

 まず、ぱて講師はテマティスム(テーマ批評)に則ってボカロ曲評論するとしている。ぱて講師の言うテマティスムとは、以下に抜粋する通りである

「テマティスムは、作家メッセージをその意図の通りに読み取るということではありません。そうではなくて、むしろ作家作品の細部から作家自身も気づいていなかったかもしれないテーマ抽出し、作品価値を読み替えていく。それがテーマ批評という手法です。」(40ページ14行目-41ページ1行目)

さらに、この講義の鍵となる概念の一つとして「アンチ・セクシュアル」をぱて講師提唱している。以下に書籍抜粋を示す。

「本講義の当面のキーワードは『アンチ・セクシュアル』です。性や愛をめぐる通念を自明のものとせずに扱う感性が、ボカロシーンには多く見られ、そして支持されました。なにに比してかというと、いわゆるふつうのJポップに比してです。Jポップのチャートを見れば瞭然でしょう。ラブソングばかりです。」(42ページ8-12行目)

「『アンチ』といっても、それは必ずしも単純な否定のことだけを指しません。性愛を疑ってみたり、気持ち悪いもののように言ってみたり、ときにそれは、米津玄師において見られたように、アンビヴァレントな愛憎を差し向けるというかたちをとることもあるでしょう。」(43ページ2-4行目)

 つまるところ、「テマティスムを用いれば、性や愛をめぐる通念を自明とせずに扱う感性(単なる否定に限らない)をボーカロイド音楽から読み取ることができ、そのような音楽がシーンの人気を博した。一方で「いわゆるふつうのJポップ」からはそのような読み取り方のできない曲が人気を博している。」という主張をぱて講師はしているということになる。この主張に当たって用いた「テマティスム」と「アンチ・セクシュアル」の二つの概念は、この主張に対する批判として想定される「作者はそこまで考えていないと思う」型の主張や「この曲は性や愛めぐる通念を否定しているとまでは言い切れない」型の主張を先んじて封じる機能を持つ。このため、読者がすぐに思いつく形での批判ができず、ぱて講師の主張に対する批判が少ないことに寄与していると考えられる。

 もう一つ批判封じに寄与しているのは、「論じるべきところを論じていない」ということである。「いわゆるふつうのJポップ」についての記述に注目すると、ここでぱて講師が行わなければならないのは、

①「いわゆるふつうのJポップ」を「『アンチ・セクシュアル』な感性を持たないJポップ」以外の形で定義すること

個別楽曲評論を通じて「いわゆるふつうのJポップ」に該当する曲に「アンチ・セクシュアル」な感性が備わっていないことを論じること

③それが「Jポップのチャート」に非常に多く見られることを指摘すること

であるしか書籍の中で「いわゆるふつうのJポップ」についての言及があるのはここのみで、上記3つ全てを行っていない(ぱて講師言葉を借りれば、「瞭然」という「感覚思考俎上に載せ」ていない)。それもそのはず、「テマティスム」と「アンチ・セクシュアルな感性」を用いた読解だけではこのようなことは到底不可能からである。「テマティスム」は確かに「作者の意図」に縛られない自由評論の基礎であるが、それは同時に評論者次第でどうとでも言えてしまうことを意味する。同じ曲が違う評論家によって「アンチ・セクシュアル」であったりそうでなかったりする。もし「そうは言ってもこじつけってものがあるでしょ」と思うのであればそれは「良い評論」の基準として「テマティスム」以外の何かを想定していることになる。さらに言えば、「アンチ・セクシュアル」という概念の幅も広い。同じ言葉賞賛にも皮肉にもなる世界で、「性や愛をめぐる通念を自明のものとせずに扱」っているかどうかを「テマティスム」のみで確定させるのは不可能だ。つまるところ、ぱて講師が「いわゆるふつうのJポップ」を論じないことは「テマティスム」の持つ脆弱性、あるいは、「何でも言えてしまうが故に何も言うことができない」性を(本人の意図とは無関係に)覆い隠し、批判を予防することに寄与していると言える。

4. コミュニティ

現地での講義に付随する活動として、コンピレーションアルバム作成ちょっとした食事会など、ボーカロイド文化が好きな東大生のためのコミュニティ積極的提供する姿勢をぱて講師は見せている。それ自体マイノリティたる若者鼓舞するという目的からすれば妥当であるが、評論の面ではこれが裏目に出ている。余程肝が据わっていない限り人間は、自分を匿ってくれるコミュニティの発起人の言うことに盾突いたその先を恐れる。発起人自身が何とも思っていなくても、同じコミュニティの仲間から邪険に扱われるかもしれない。仲間が何とも思っていなくても、内なる自分が責め立てる...。こうなれば講義批判するのは難しい(批判したとて有耶無耶に言いくるめられるだけだ、という疑念もあろうが)。「肝を据わらせろ」という主張はマッチョイズムなのでしないが、しかコミュニティ形成するとはそういうことなである

最後に】

 「ボーカロイド音楽論」の講義書籍化されたことは、この講義自身にとって、そしてボカロシーンにとっての大きな一歩であると筆者は考える。内容の巧拙政治的立場はともかく、書籍化されたことによってこの講義は「亡くなったボカロPを悼み、内輪でボカロ曲をべた褒めする会」になってしま未来を脱して、元受講者やボカロ関係者を含む全ての人の衆目に晒され、批判され、検討され、洗練され、時に新たな論を生み出していくことができるようになった。後は実際にそうしていくだけである。筆者よりもっと優れた批判をできる人は多くいるはずなので、後は彼らに託してこのダイアリーの締めとする。

追記:何故もっと批判されるべきなのか】

 強い言葉で言えば、

「『ボーカロイド音楽論』などと大層な看板を出しながら、その実著名な学者の業績を形だけ借り"正しい"思想を添えた類推だらけの持論を『教養』と称し、[『教養』]と[『教養』を並べ立てた個別楽曲評論]を弱い脈絡の下で繋げただけの、部分を詳細に語っただけで全体を語った気になっている、評論と呼ぶべきなのかもわからないものが、まともに批判されずに学生の間や世の中に広まることが許せないから」

である(「まともに批判されずに学生の間や世の中に広まる」という心配杞憂であってほしいが)。

 筆者がこの講義書籍の内容が批判されるべきであると考えている理由は3つあり、これらを以下に簡潔に説明することで追記とする(注あり)。

1. タイトル詐欺:「ボーカロイド音楽論」を名乗りながら、その大部分は個別作品の読解に費やされている上、それらを踏まえて「ボーカロイド音楽とはなにか」をまとめて論じている内容が存在しないこと。

2. 「思考俎上」に載せる「感覚」の選び方の恣意性:本論で述べたように、思考必要なぱて講師感覚があるにも拘わらずそれを思考した形跡が存在しない箇所が見られること。

3. 「思考」の粗雑さ:「感覚」を正当化する目的しか思考」が用いられていないこと。「思考」に用いた「教養」の内容もそれぞれの分野を専攻した読者から見れば的外れものになっていること(注1)。「類推」や「テーマ批評」などのいくらでもこじつけることが可能手法を用いているのに、何故その手法を用いるべきなのか、その手法限界はどこにあるのか、といった説明がされていないこと。

注1:少なくとも一つの例として、筆者が専攻していた生物学に関連した部分を挙げる。リチャード・ドーキンス書籍利己的な遺伝子』に言及した後、「しかしこれらのような個体利他行動も、種や遺伝子主語にすると、自らを温存するための利他行動にすぎない。」(54ページ8-9行目)と段落を結び、その後「性はこのように、種の都合のための機能主義的なプログラムであるという言い方もできるわけです。」(54ページ18-19行目)と主張している。結論から言えば、この言い方はできない。生物学を学んだことがある人物なら絶対にこのような主張はしない。進化の結果としてある個体Aが(同種とは限らない)他個体Bに利他行動をする形質を獲得する条件はあくまで「それが後に個体A自身生存繁殖に有利となる可能性が十分高い」あるいは「個体Aと個体Bで利他行動に関連する遺伝子を共有している」であり、そこに「種」の概念は一切関係しないかである。(遺伝子自然選択対象となり得るのに対して)「種」という概念は観察者が生物を分類する際の線引きのツールであって、自然選択対象として観察可能ものではない以上、「性は種の都合のためのプログラムである」ということを(観察によって)事実として得ることもできない。つまり「種」を全体と見立て個体」を部分と見立てるような類推は成立しない。百歩譲って「利他行動に関連する(種を問わず)同じ遺伝子を持つ全ての個体」を全体とみなす形で類推を成立させるとしても、それは「類推を成立させるためだけに拵えた全体」であることを指摘しておく。

anond:20231110193602

景気なんて良くなってないぞ。上層がぐるぐる回してるだけだ。

老害既得権益ばっか優先し、若者弱者に何も手を差し伸べない国が良くなるはずなんてない。

もう日本なんて衰退して終わりだよ。まあ国民モラル低いしアホなくせに何も行動しないからな。日本なんて気持ち悪い国だよ。

anond:20231114000154

非モテに女をあてがわなかったからこんなことになる

彼は被害者

社会包摂して差し上げろ

2023-11-13

社畜になって学んだ20のこと

学んだというか、社畜生活を通して思ったことですが。

サラリーマンって書くと文字数が多いので社畜と書きました。

なので、社畜サラリーマンと読み替えてください。

基本的思い込みです。

1)2年間働けば何かしら身に付く

僕は社畜生活が2年間だった。

時間に換算すると、8時間×365日×2年で5840時間になる。

5000時間集中して取り組めば何かのエキスパートになれる説があり、

僕も、自分体験上、この説を支持している。

2)残業するのは効率が悪い証拠

3)ただし効率が良くても残業することになる

基本的に、社畜残業するのは効率が悪い証拠だと考えている。

残業お金目当ての意図的ものであることもあるし、

本人のスキルが足りてないからかもしれないし、原因はいろいろ。

もちろん情状酌量余地はあるものの、残業は悪だ。

ただ、効率が良いからといって、残業せずに済むほど社会は甘くない。

効率が良くても誰かに足を引っ張られて、残業することも多々ある。

僕も、50代のおっさんが頻繁にタバコ吸ってるせいで残業したことがある。

「いい加減にせい、お前は」とキレそうになった。

4)お金時間は両立しない

お金があったら、時間がない。

時間があったら、お金がない。

それだけ、はい

5)社畜になることは楽をすること

社畜になるというのは楽なことだと思う。

線路の上を走っている限り、何も考える必要がない。

意思を捨てれば良い。それだけで楽な人生が待ってる。

6)学生とは比較にならないほどの責任感が身に付く

社畜は、お金をもらって何かをしている以上、責任感が違う。

ある日職場放棄することなどしてはいけない。建前上は。

仕事責任もって完遂することで次の仕事が手に入る。

途中で投げ出したり、適当にやったりする奴に仕事はない。

ただし、責任感が身に付いたと思ったら、

残念ながら、それはあなた社畜になった証である

7)飲み会楽しいものとは限らない

忘年会送別会幹事だといろいろ気を使うのである

めんどくさいルールはあるし、話の合わない人とも話さなきゃいけない。

ただ、うちの会社は、上司が払ってくれるのでタダ飯は食えた。

それを差し引いても、決してすべての飲み会楽しいわけではない。

8)金曜日希望に満ちている

土日という社畜にとって至福の時間を前にした金曜日

頭の中は、業後のことでいっぱいである。

ただし、社畜には休日出勤というオプションがあるのでこの限りではない。

9)歯向かう相手は慎重に選ぶ

干されます。気をつけましょう。

10会社に使われるのではなく、会社を使う

僕が前職で一番尊敬していた人の言葉

自分はどうなれるのか。その過程会社をどう使えるのか。

それを考えて、会社を利用することが、社畜にできる数少ない抵抗

逆に、これを考えないと、本当の意味での社畜に成り下がる。

11)デキる人ほど辞めていく

12)ただし辞めた人がデキるとは限らない

経験則的に、これは正しい。

今の時代、デキる人なら転職やすいから、

より条件の良いところを見つけて移る。

しょうもないのばかりが残るので、中途採用を行う。

ちなみに、前述の尊敬する人も、僕の入社後数ヶ月で辞めた。

一方、僕のように、デキないのに自分能力を過信して辞める人間もいる。

しかし、これは、あながち間違った選択ではない、たぶん。

デキないのにデキないことを自覚せずに残るよりはマシだと信じてる。

どんなダメ人間でも、外に出ることで、自分ダメさ加減を認識できる。

13)資格なんて役に立たない

~検定1級持ってます

で?

TOEIC~点です!

で?

ごく一部の難関資格でない限り、持ってるだけじゃ役に立たない。

資格セルフブランドするためのツールツールは使えてなんぼ。

14)社畜には仕事を選ぶ権利がない

15)ランチ自分の想いを伝えるチャンス

社畜特に若年層の社畜仕事を選ぶ権利はない。

試しに「その仕事ちょっと…」と言ってみると良い。

その仕事をやってくれる中国人インド人は世の中に五万といる。

仕事ベースは信用。嫌な仕事でもやらないと信用は得られない。

逆に、信用を得られれば仕事をある程度選択できるようになる。

とは言え、自分のやりたいことがあるのが普通社畜である

その想いは、ランチ時間に伝えるのが正解だと思う。

業務時間中に言ってもスルーされるし、

飲み会中に言っても忘れられることが大半。

酔ってないけど砕けて話せるのが、ランチなのである

16)自分だけ特別扱いされることはない

これは、自分退職する時に陥りそうになった罠。

僕がFPとして働きたいと役員おっさんに言ったら、

好きな部署プロジェクトに移してやると言われた。

退職するって言って好きに異動できるなら、皆やってるわい。

よほどのことでない限り、自分けが特別扱いされることはない。

17)親の喜ぶ顔が見れる

思いつき。社畜=安定と考える親にの通用する。

少なくともニートになるよりかは親孝行になる。

18)中途採用の人は出世できないけど能力が高い

うちの会社の決定的にダメな部分。

新卒入社中間管理職層はしょうもないのが多かった。

一方で、中途の人は優秀であることが多かった。

なのに新卒の方が出世するスピードが速い。

もう少し一般化して考えてみる。

経験値というものは、社会通用するものとその会社固有のものに分けられる。

そして、その経験値というのは、1:2くらいの割合で貯まっていく、たぶん。

新卒で入った場合は、会社固有の経験値がかなり貯まる。

中途で入ってきた人は、社会通用する経験値がそれなりにある。

から新卒は社内で出世やすい。

が、結果的に年を経るほどに新卒は自社にしがみつくしかない。

一方で、転職数回の中途の場合、固有の経験値が少ないものの、

そもそもその固有の経験値バラエティーがあるから

気がつくと社会通用する経験値に転換されている。

19)社畜は格好の搾取対象

源泉徴収という制度がある限り、搾取は避けられない。

年金未納が増えたからって、未納者の保険料増額は非現実的

なら、確実に納めてくれる社畜保険料を増額すれば良い。

世の中にたくさんある所得に関する税制もすべてそう。

20社畜になることは不安定な道を選ぶこと

会社がなくなったら、どうするの?

社畜生活ほどリスキーものはない。

自分の腕一本で食えるようになるのが安定というもの

ジェンヌの個人FC運営で鬱になった話

連日の報道で、忘れたい記憶がどんどんよみがえってくる。

劇団内部の人間ではないものの、その近くで数年携わり、生活精神も壊した身として、心当たりが多すぎる。

便乗ファンによる創作だと思ったら、どうか読んだら忘れてほしい。

固有名詞用語意味が分からない人は、そのまま一生分からずにいてほしい。

でも、どこかに、仲間がいると思うから自分以外にも壊れた人がいるはずだから

まとまりもないほどの書きなぐりになるだろうけど、腹を決めた今、匿名で言わせてほしい。

もう無視できないところまで来ていると、心当たりのある各位に気付いてほしい。

該当劇団には、公式ファンクラブ以外にもジェンヌ個人の私設ファンクラブ(以下「会」と呼ぶ)があることは有名だと思う。

いわゆる代表やお付きと呼ばれるマネージャー責任者と、スタッフやお手伝いといわれる他数名の小間使い組織運営している。

自分新人公演にも出演し、何度か主演も演じた人気ジェンヌの会運営スタッフを数年担当した。

明確な時期や個人名の明言は避けるが、当ジェンヌは現役在団中とだけ書き記しておく。

毎朝晩の入出待ち立ち会いかお茶会などイベント企画運営チケットの取次配席およびグッズ作成など...

所属経験のあるファンなら思いつくであろう業務、全部に携わった。会員数百人に対し、片手以下のスタッフで。

無給は当たり前、経費も持ち出し、24時間365日ジェンヌや関係者の呼び出しに応えながら平日フルタイム会社員

睡眠時間金も体力も心の余裕も何もかもなくなった。倒れて運ばれ、スタッフを辞めた。

業務をもう少し細かく説明すると、

・入出立ち会い

よく日比谷劇場前で見るようなスクワットでジェンヌのお迎え・お見送り。あれをやる時に暴走するファンが出ないか見張ったり、一般人クレームに頭を下げたりする。

毎朝7時前後、早いときは6時前に毎朝集合場所で立ち合いをして会社へ出勤。ジェンヌから翌朝の入り時刻連絡が来るのは平均深夜1-2時。

それを待ってファンクラブ会員へ見送り場所への集合時刻を配信、他ファンクラブ運営へ報告したりするので自分が寝られるのは3時を回るのもザラ。

毎日5時前には起床、始発の電車に飛び乗り現着から動き回ってフルタイム勤務で夜にはまた出待ちに立ち会う日々。

大体毎日何かしらの細かすぎる指導上級生会から入り、寝不足により回らない頭で必死謝罪文をしたためお送りしていた。しんどい

イベント企画運営

お茶会新人公演出待ち後のミニお礼グリーティング、季節や誕生日の入出イベントなどなどあらゆる企画運営

ただ企画すればいいだけでなく、上級生会に逐一お伺いを立て、実施許可を得、内容も重箱の隅を最早ぶっ壊れるまでつつかれまくる。

あらゆる方面の顔色を窺い、企画台本が出来上がるまで気が遠くなるほどの時間と神経を要する。

それでようやく実施まで漕ぎつけたと思ったらジェンヌ本人の機嫌ひとつで全部イチからやり直しになる。

三徹で必死に準備を間に合わせたお茶会を、本人会場到着までのタクシー内で「やっぱ嫌」の一言でひっくり返されたとき殺意が芽生えた。しんどい

チケット取次・配席

ファンクラブ会員はジェンヌ個人販売成績に結び付くよう、会からチケットを取り次ぐ。

が、限られた座席数、入団年数が長い上級生に多くのチケット劇団より宛がわれる、入団から5年くらいは1公演で2席しかチケットがないこともザラ。

それでも会員はもちろん贔屓の舞台姿をたくさん見たい、当たり前だ、たくさん申し込んでくださる、だがしかし席がご用意できない。

そんな限られたチケットと大量の申込データ(自会は全部エクセル手打ち管理)を照らし合わせ、ファンクラブへの貢献度諸々を加味し、どのお席にどなたへお座りいただくか決める。

こちらも最大限のチケット確保に奔走するものの、ご用意できなければ面と向かっての罵倒はまだ良し、掲示板に名指しで役立たずと晒される始末。

データ捌いて配席悩んで胃を痛めているところにジェンヌ本人や関係者からも配席や取次内容に文句を言われ身内用にチケットを攫われていく。しんどい

・グッズ作成

お茶会お土産、総見のおまけ、お茶会販売する小物や舞台写真、お礼状、グリーティングカード、挙げればキリがないほど準備物が多い。

ジェンヌ本人にイラスト手書き文字提供協力を頼みこむも多忙一言で切り捨てられ、こちらでロゴなど用意すれば会員やジェンヌ本人からすらもダサい文句を言われる。

しかも当たり前だがこれらすべて事前の商品発注で毎度結構金額必要とされる、が、ジェンヌの家族が会運営の経費用口座を管理していて前借も楽ではない。

結局毎回数万~場合によっては数十万円(お茶会会場費用など)も立て替える。そうじゃないと間に合わないほどすべてのスケジュールがカツカツなため。

しかも公演終わりの経費精算まで数か月待ったりする、携わっていた最後の公演では大卒初任給くらいの経費が返ってこなかった。

グッズの売り上げは全て会運営費としてジェンヌ家族が持っていくため、スタッフに一切の還元や儲けはない。公演期間中は飯が食えなかった。しんどい

・正直ここでしか言えないが人間関係が一番重労働

ファンクラブ会員、つまりジェンヌを愛し会活動に貢献してくださっている方々は熱量も並のものではない。そこは覚悟してスタッフ就任を引き受けた。

そのため会員からまれたり文句を言われたり、会の中での派閥争いや揉め事などは(楽ではなかったものの)捌くのもまあ堪えられた。

しかし何故か同じ運営という立場で苦楽を共にしている他会運営陣やジェンヌ家族関係者対応など、これが本当に一番きつかった。

ジェンヌたちが厳しい上下級生文化に生きているというのは既報の通りだが、ほぼその文化がそのまま会運営にも持ち込まれる。

朝は上級生会スタッフより早く出動・席および場所取り・雑用使いっ走り・全ての解散前には「ご指導」というクソ細かい姑のような小言...

劇場チケット出し前には劇場レストラン施設の一部(クリスタルルームでわかる人は仲間)を陣取り、謎の待機時間が発生する、もうこれが本当に耐えられなかった。

上級生会代表飲み物をお持ちし、その時通るルート差し出し方全てに厳格なルールがあり、数時間も使いっ走りに待機するのに作業および会話禁止という苦行。

2回公演の日ほど朝も早く夜が遅い、業務も溜まっていて限界なところにこの謎待機と小言で5-6時間は奪われる。

それもこれもすべて「上級生会の様子を見て学び、自分たちが将来は組の会全体を取り仕切れるように指導する」という、どこかで聞いたことのある理論

劇団への、ジェンヌへの、下級生会への愛があれば全ては指導という建前のもと許される。代表毎日きついいびりに泣いていた。本当に、本当に、しんどい

ジェンヌでもなく、会運営委託契約を結んだわけでもない、ただの一般人がこのザマである

会に所属したことがある人は、多少なりこの空気感をわかっていただけると思う。あの、「私たちも御贔屓の一部」と見做されるような感じが。

全ての言動根底には愛があり、清く正しく美しいジェンヌ像やファンダムイメージを求められていた、それにそぐわないものはすべて闇に葬られていたあの感じが。

運営陣は、ジェンヌを、劇団を愛しているから。

無給でいつ何時でも労力を捧げてくれる。常に最善最良の案を考え前向きに運用してくれる。寝る暇がなくてもそれだけ携われることが幸せ

妬み僻みも有難いご意見として真正から受け止める。上級生会から理不尽指導意味あるものとして理解昇華する。

仕事よりも私生活よりも会運営を何よりも最優先してくれる。どんな無茶ぶりや激務も手を取り乗り越え逞しくなってくれる。

そんなことがあるわけないだろ。

平日フルタイムで8時間仕事に会運営10時間以上を兼業し、公演期間中は1日1時間眠れたら御の字。仕事パフォーマンスはそれはそれは最悪だった。

盆や正月連休はもちろん全て会運営に求められ、ロクに身体を休めることも実家帰省することも友人と会うこともかなわなかった。

急いで来いと急な呼び出しがかかり、内容も知らされないが仕事を無理言って早退し駆けつけると「明日からの公演で必要ものを近所のドラッグストアで買ってきて」という内容だった。

社会人数年目で貯蓄もさほどなかった頃に無給の会運営で全国を飛び回り、立て替えの嵐、慢性的寝不足で眠気も止まらず、安価血糖値の上がらないもやしカット野菜しか食べられなかった。

周りのすべての人から「早く辞めろ」と言われ続けたが、もはや洗脳のように愛や貢献という言葉に縛られ何も自分判断できなくなっていた。

死にたいという気持ちが募り、毎朝駅で線路に飛び込もうか悩み始めた頃、千秋楽出待ち後に倒れ運ばれた。栄養失調だった、この現代社会で。

入院強制的劇団や会と離れられなければ、いずれ自ら命を絶っていたと思う。亡くなった彼女生活円グラフは、まさに会運営に携わっていた時の私のようだった。

鬱も発症精神的にも不安定になっていたことをやっと自覚し、ジェンヌ本人にスタッフを辞める旨申し出た。代表も鬱で会から去ったと聞き、LINEを送ったが既読がつくことはなかった。

もう一度繰り返す。ジェンヌじゃない一般人にすらこれほどまでに異常な文化がまかり通っている。劇団内部はいかほどばかりか、想像するだけで息苦しくなる。

携わっていたジェンヌ本人も、本当に寝る時間もないほど過酷環境に身を置き、公演前夜の3時に稽古から帰るところも目撃したことがある。

運営に携わるようになってからは度々言葉を失うような「指導」の様子を伺うようになり、いつの間にか自分は一切観劇する気力が湧かなくなっていた。

何が愛だ。何が清く正しく美しくだ。何も清くも正しくも美しくもない。ただのパワハラ過重労働異常上下関係いびりしごきいじめ

社会的な常識が一切通用しない、異常な文化形成され受け継がれ、異を唱えるものは全て排除され隠ぺいされてきた、ただそれだけである

亡くなった彼女のおかれていた環境報道事実関係は知り得ないため、それに関しては軽率発言はできないものの、でも、遂にこうなったかと思った。

その手前でぎりぎり退団していった人を、何人も知っていたから。

巨大企業ファンダム抗う力を持ち合わせていないがため、ただ黙って去っていった人たちを見てきたから。

自分も、声を上げられなかったひとりだから

彼女の死は、自分無関係じゃないと、毎日罪悪感に涙が止まらいから。

溢れ出る記憶も思いも止まらず、何が書きたいのか、どこまで書けそうか、もう分からなくなってしまった。

このあたりで切り上げることにする。いつか追記修正をするかもしれないし、しないかもしれない。もうこの編集画面に戻ってこないことが最良と分かりつつ。

自分は今後二度と件の劇団に関わらないと決めているが、報道の行く末はしっかりと追おうと思う。

もう誰もこんな目に遭わない未来を願って。同じ罪悪感を抱えることがないように。誰かに手を延ばし声を上げられるように。

けがえのないいのちを、薄っぺら言葉で葬ることがないように。

妹さんにはお世話になりました、心からのご冥福祈ります

助けてあげられなくて、ごめんなさい。

2023-11-12

経営のためのデータ分析」と「データ分析のための経営

https://tjo.hatenablog.com/entry/2023/11/11/195106

「R」や「Python」で誰でも簡単統計解析ができる(と喧伝される)ようになってから、このような思考をする分析者が増えているように感じます

統計手法原理理解することは、その手法の単純な適応における限界を見極めることのみならず、問題解決のために手法改善拡張することを可能にするでしょう。

それとは反対に、便利な統計ツールの使い方を身に付けることは、「問題解決」へのアプローチを硬直化させてしまます

「A/Bテストの条件統制」による影響を見積もることはできるか

この問題は事前に実験計画サンプル全体に確実に遵守させられる範囲サンプルを絞ってA/Bテストを行うとか、もしくは分析する前に実際のキャンペーン実施状況の情報を集めてnon-compliantなサンプルを除外するといった対策必要なんですが、それをせずに漫然とA/Bテストをやって「テスト群の方が有意に低いとは???」となってしまっている現場は珍しくも何ともありません。

さまざまな問題点が考えられますが、まず「テスト群の方が有意に低い」という結果が出ること自体統計分析評価として、なんらおかしなことではありません。おそらくは「低く出るはずがない」ような条件でA/Bテストを行っているのでしょうが、それ自体現実施策分析においては大きなバイアスになっているのです。そして、実際の現場では「実験計画サンプル全体に確実に遵守させる」ということがもっとも大きなバイアスになるのです。

多くの場合において、ある「施策(A)」の有効性を検討する場合、それは他の「施策(B)」との比較、もしくは「通常の状態」との比較をすることになります。それはどのようにすれば可能でしょうか?

例えば、「あたなの店舗では施策(A)を実施しないでください」と言われた場合、それは何を意味するのでしょうか? それは指示を受け取った人によって異なるかもしれませんし、綿密な実験計画の周知によってある特定状態意味していることが伝わるかもしれません。しかし、重要なのはそれが何を意味するかではなく、それがどのような影響を与えるか、ということです。コントロール群へどのような影響が出るのかを予測することは非常に難しく、現実的には不可能と言っていいでしょう。

多くの場合施策の影響を厳密に計測しようとするならば、そのテストが行われていることをあらゆるサンプル(店舗実施者)に知られずに済ます以外にはないでしょう。

データ分析はできたが、会社は潰れた

このような事態を避けるためには「平常時からある程度広告マーケティング施策を打つタイミングを満遍なくバラけさせておく」必要がある

本来であればデータ分析を担う立場の人々の方が平時から積極的に(役員会とは限らず)経営に関わるゾーンの人々に働きかけていって、「データ分析を行って意味のあるデータセットが得られるように普段からビジネスを展開する」というのが多分理想像なのでしょう。

このような考え方は、データ分析経営に(ほとんど)何らの影響を与えないような状況においてのみ有効です。

もし、あなた会社が本当に危機に瀕しているとき、どうにかして有効施策を見つけようとしているとき、「データ分析のために何の施策も行わないでください」と言われて従うことができるでしょうか。

あるいは、「本当に有効施策を見つけるために、あなた会社の成長を止めることが必要だ」と言われたら?

おそらく、そんなバカなことは受け入れられないと多くの人は考えるでしょう。

日本の「データサイエンティスト」は新しいパラダイムを生み出せるか

現在日本で「データサイエンティスト」などと呼ばれる統計分析の使い手がもてはやされているのは、アメリカにおける流行が数年遅れで日本上陸した結果だと言えるでしょう。しかし、アメリカ日本で決定的に異なる点があります。それは、アメリカ経済現在アップストリームにあり、日本はそうではないという点です。

人口増加を背景とした安定した成長のなかでは基本的統計分析(つまりは道具としてのお決まり統計分析)でも、十分に役に立っています

しかし、日本のような、マーケットの縮小と金政策に根差し不安定経済状況において、そのようなお決まり統計分析がどこまで有効であるかは大いに疑問です。

現代的な統計分析手法は、経済的な停滞に陥ったかつてのアメリカにおいて、その困難を打破しようとする知性によって大きく発展しました。現在日本は、まさにそのような状況にあるように見えます教科書的な分析をただ機械的適用する判定者ではなく、あらた価値を生み出すような「データサイエンティスト」がはたして日本からまれるでしょうか。

Netflix悪魔くん

・7話位までみた

 続き見るかわからいからいったん記録

・歳を取ってない前作主人公、新鮮

 「ノスタルジー用にちょっと出る」じゃなくて

 けっこうちょいちょい出てくるからおおってなった

 穏やかな声の安心感すご

 見た目は年取ってないけど喋り方は

 相応に「大人」感になってて新たな萌の扉を 

 開きかけた

メフィスト3世、世話焼き女房やん…

・魔力強化の仕組みが金色ガッシュ

・新悪魔くんのような

 生意気無駄削ぎ落とし系BOYに

 萌えを感じられなくなる

 これが加齢

 噛み殺すよ?に萌えてたあの頃なら萌えてた

・世が世ならCV石田彰みてえな主人公ニコイチぺえ悪魔でてきたな

嫉妬悪魔進研ゼミになった

 嫉妬悪魔回良すぎる

 あの2人の相互感情+映画みて嫉妬ループみるの

 目茶苦茶楽しかったろうな…

ストーリーが今風でgoodやった

10話以降みた

・水木さんや!記憶戻っとる!!親友

・デレるのが…デレるのが遅い…!

ホットケーキランキングによる急勾配デレ上昇に

ヌクモリティ受容体ビビった

・兄妹で違う時の流れを生きたか子供ときのまま見た目変わらない兄に

お兄ちゃんって呼ぶ中年期に差し掛かった妹というシーン、

胸に沁み入るものがあった

・今更だけど悪魔君親子の時代による子供キャラデフォルメの仕方の違い、いい…ってなった

魔法陣とか魔導書の世界観でいきなり「暴」出てきた…

・oh…ハンガーフック…

・bumがみんなかっこよかった サックスかっこいい

地方移住は金かからん

11/13追記

コメント読んで気がついた。

すまん、田舎じゃなくて地方都市になるんだな。その辺の感覚わからんかった。

故に大雪対策とかも今の所必要ないし、光熱費都内とほぼかわらない。ガスがLPで割高くらいか。車の維持費なんて安い軽買ったらそれほどでもないだろ?ガソリン保険メンテ駐車場で月3万かからない。家賃9万のとこに住んでた俺が同じ広さで駐車場付で4万だよ?ぼろいけど。

なので人付き合いも都内と変わらん感覚だな。都内から引っ越したっていうと驚かれる位。

仕事夜勤メインの介護職。誰でも無資格スタートできる簡単未来の無い仕事だ。選ぶ会社を間違えず仕事と割り切って自分時間差し出せばそこそこの金が入る。但しキャリアアップは諦めろ。未来は無い。

文化って話がデカすぎたな。ここにはライブハウスがなくて、小さな映画を上映する映画館がなく、富士そばもなくて、ミニストップもなくて、好きな洋服屋もない。赤羽吉祥寺中野新宿三丁目もないのだ。あるのはイオンモールとその他バカかいスーパーだ。全て徒歩では行けない。

人生後半戦なのでこれくらいの暮らしで充分。子供も嫁もいないから楽だわー。老後は無視して今日も楽しくやってるっす。

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数年前に東京ど真ん中から

近畿田舎引っ越した。

海も山も川も車で20ちょっと

最寄りのデカい駅までは車で10分、徒歩なら30分。国道沿いにロードサイド店が充実しており自転車で買い物も不可能ではない。

しかに都会と同じ文化水準で物事を楽しもうと思ったら金も時間もかかる。しか田舎特有暮らしさえすれば金かからんぞ。

家は多少ボロくてもあきらめろ、それだけで家賃都内の半分以下だ。車の維持費も諦めろ、無けりゃ死ぬ。その代わり深夜のタクシー代が消える。これでトントンくらいだろ?

文化的な欲求は諦めろ。ライブ美術館もない。その代わり年間5000円程度で借りれる畑があちこちにある。野菜でも育ててろ。釣りに行け、河原バーベキューでもしてろ。地域温泉を片っ端から入ってけ。バカデカ駐車場バカかいスーパーを楽しめ。それだけで休日の予定は全部埋まる。思いのほか楽しい

車社会なので当然外で飲む機会は激減する。その代わり家飲みを極めろ、食材も安い。少し足を伸ばして道の駅にいけば新鮮な魚が都内より遥かに安く買える。

都会的暮らしは一切あきらめ、田舎の楽しさを見い出せば月給25万でお釣りが来る。都会の暮らし田舎でなぞるな、田舎暮らしを学びなさい。不便を嘆くな、不便を楽しめ。

2023-11-10

出版業界の自浄作用は期待できるか

勢いで書いてます

文庫新人賞の件で、X上で作家の方の意見が訴えた新人側が悪いというものが大半で嫌気が差しました。

その上パワハラ被害に遭われて結果的に亡くなられた作家の方の件には全く触れないので卑怯だと思いました。(この件は知られてない方も多いのでなんとも言えないのですが)

ここでタイトルになるが、

書籍評価基準が売上であり、その売上=購買に至る経緯が読者個人評価であり、たとえ他の作品パクリだったり編集パワハラされながら作られた本だったとしても、「作家作品は別」と言って作品を購入するともれなく作品をパクった作者やパワハラ編集評価されることに繋がるのではないだろうか。

そうしてループし続けて自浄作用は期待できないのではないかと思った。

売上が評価基準なのは商売から分かりる。が、だからといってモラルに反したりパワハラしてもお咎めありませんということは違うと思う。

ここで言いたいのは、完全に「作家作品は別」にできないだろうかということ。つまり作品のもの評価作品だけ、作者や編集などの個人の振る舞いについては別途評価される機構や仕組みが作られれば自ずと変わっていくのではないかと思った。

ここまで偉そうなこと書いといて出版業界は詳しくないし考えも甘いのでどなたか意見を下さい。

お目汚し失礼しました。

雨音もしないし降ってんだか降ってねーんだかよく分からんけど、水たまりに波紋もないし歩いてる人らも傘を差さずに握ってるから自分もそれにならう。

ヘッドライトを反射する霧雨が結構ガッツリ舞ってるのを見て、初めて確信を持って傘を差す。

降ってるのをはっきりと認識した途端、なんでこんだけ降ってて気付かんかったのかとにわか自分間抜けに思えてくる。

恐る恐る差してみたり畳んだりを繰り返すのがなんだか気恥ずかしかったけど、自分の正しさを確信すれば周りも滑稽に見えてくる。こんな奴らに自分迎合してたんかと。なんでアンタらはその握りしめてる棒を使わんのか。すました顔して。イギリス紳士ごっこか?

そんな事を微妙な霧雨が降るたびに毎回繰り返してる。なぜ正しさを確保するまで自分感覚を信じてやれないのか。

降ってるかどうか空見たって分からないのにアホ面で見上げちゃうのもやめられない。

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