はてなキーワード: 旋律とは
https://anond.hatelabo.jp/20200323025005
――ところで、わたしは昔から、最後のスタンザは少し弱いのではないかと思っていたのですが……。
( ・3・) 弱い? 「リング」と「スプリング」とで韻を踏むのはありきたりだとか?
――弱いというよりは、ピンとこないといったほうが正確かもしれません。「彼女は春に生まれたが、わたしは生まれるのが遅すぎた」――これはどういうことなんでしょう。
( ・3・) 彼女のほうが歳上だったんじゃないか? 50歳くらい。
――それはたしかに too late な気がしますが、もし年齢が離れていることが問題なら、彼女が三月生まれであれ、七月生まれであれ、一年のうちで生まれた時期に言及する意味はないはずなんです。
( ・3・) 春に生まれようが夏に生まれようが誤差みたいなものだからな。
( ・3・) ははは、まさか。
――ここに一枚の写真があります。1975年に撮られたものです。
https://twitter.com/kedardo/status/1242030916232339458
( ・3・) ボブ・ディラン、本を読む。
――何という本ですか?
( ・3・) 『クリスタル・マジック』と書いてある。マジックのつづりが変だけど。
――目次には次のような言葉が並んでいます。「ケンタウルスが獅子を狩る」「シャンカラの理論は現実をどう捉えるか」「ハクスリーの知覚の扉」「アジュナチャクラあるいは第三の目」「カバラの諸相」
( ・3・) 神秘主義のロイヤル・ストレート・フラッシュという感じだな。
――星座が何であれば、支配星は何、エレメントは何、という表も載っています。
( ・3・) 本を読め、ただしまともな本を、と釘を刺したばかりだというのに。
――まともな本も読んでいますよ。このころディランはチェーホフやコンラッドに傾倒していたはずです。 [3] [4]
( ・3・) じゃあ『クリスタル・マジック』はたまたま手にとっただけで、内容を真に受けたとまではいえないんじゃないか?
――1974年、コンサート・ツアーを再開した理由を、ディランは次のように語っています。「わたしの惑星系 (my planetary system) において土星が障害となっていた。その状態がしばらく続いていたが、いま土星は別の場所へ移動した」 [5]
――1976年のアルバム『ディザイア』のバック・カヴァーには、タロットが描かれています。
( ・3・) タロット! イタロ・カルヴィーノの『宿命の交わる城』は何年だっけ。ちょっと待って――第一部・第二部の合本が出たのが1973年。英訳は1977年だ。
――1978年のインタヴューでは、占星術を信じているのかと単刀直入に訊かれています。
PLAYBOY: OK, back to less worldly concerns. You don't believe in astrology, do you?
DYLAN: I don't think so.
PLAYBOY: You were quoted recently as having said something about having a Gemini nature.
DYLAN: Well, maybe there are certain characteristics of people who are born under certain signs. But I don't know, I'm not sure how relevant it is.
PLAYBOY: Could it be there's an undiscovered twin or a double to Bob Dylan?
DYLAN: Someplace on the planet, there's a double of me walking around. Could very possibly be. [6]
( ・3・) 信じているかといえば、信じてはいない。星座と人間の気質とのあいだには何か関係があるかもしれないが、どの程度なのかは分からない。――うーん、言質を取られるのを避けているみたいだ。
――もともと質問に率直に答える人ではないのですが。
( ・3・) 思い出した。昔、日本の有名な批評家がイェール大学に文学を教えに行ったんだが、向こうでは占星術が流行っていて、同僚の学者の生年月日がどうのこうのと書いていたっけ。あれも70年代半ばじゃなかったかな。
――期せずして、アメリカにおける神秘主義の流行、というテーマに足を踏み入れてしまいました。
( ・3・) ……引き返そうか。
――「彼女は春に生まれたが、わたしは生まれるのが遅すぎた」の意味をめぐって脇道にそれてしまいましたが、実は、意外なかたちで問題が消滅します。
――いえ、問題自体が消えてなくなってしまうんです。アルバム発表から一年も経たないうちに、歌詞が書き直されて、最後のスタンザは大きく変わります。1975年のライヴ録音を聴いてみましょう。
To know too much for too long a time
She should have caught me in my prime
Instead of going off to sea
And leaving me to meditate
( ・3・) ジェミニを連想させる "she was my twin" も含めて、占星術につながりそうな表現はなくなったな。詩の問題の解決を、人は問題の消滅によってうやむやにする。
――「彼女はわたしの双子だった」も、考えてみれば謎めいた表現です。「本当の恋人だった」と「双子だった」とが置き換え可能かといえば、そうではないと思います。
( ・3・) 歌詞だけじゃなくて、コード進行も旋律も変わっているぞ。
――そうなんです。これまでわれわれが検討してきたことの少なからぬ部分が、このヴァージョンには当てはまらなくなっている。ディランにしてみれば、もう「わたしはそこにはいない」んです。
( ・3・) うなぎみたいなやつだな。
――歌詞の変更は1975年以降も続きます。「彼」と「彼女」とが入れ替わったり――
( ・3・) 体が?
――立場がです。第一スタンザで「孤独を感じ」「まっすぐに歩いていればよかった」と願い、第二スタンザで「夜の熱気に打たれるのを感じ」るのは、「彼」ではなく「彼女」になります。80年代にはさらに全面的な変更があり、90年代には――
( ・3・) もはや原形を留めなくなった?
――いえ、それが――。
( ・3・) それが?
――おおむね元のかたちに戻りました。
( ・3・) ……。
――……。
( ・3・) 「彼女は春に生まれたが、わたしは生まれるのが遅すぎた」も?
( ・3・) 抑圧された占星術の回帰……。なくなったはずの問題の再燃……。まるで人生のようだ。
――これで「運命のひとひねり」は概観できました。全体について何かありますか?
( ・3・) 英語は易しめだったな。
( ・3・) 「彼」と「彼女」との間に何があったのか、曲のなかでは詳しく語られないけど、これは、その、いわゆる一夜の関係というやつなの? [7]
――なぜそう思ったんですか?
――ただ、それだと、彼女がいなくなったときの彼の傷心ぶりや、「指輪をなくしてしまった」のくだりはうまく説明できません。
( ・3・) そうなんだよな。じゃあ、ある程度つきあった恋人たちの最後の夜だったんだろうか。
――第一スタンザに、「体の芯に火花が走るのを感じた」とありますが、これは恋に落ちるときの表現だと思います。まあ、よく知っている相手に対して改めて火花を感じる、という可能性もゼロではありませんが。
( ・3・) すでにつきあっている恋人同士なら、見知らぬホテルの前でまごまごするのも不自然だしな。うーん、こんがらがってきた。一方では、彼と彼女とは一夜の関係に見える。ある日の夕暮れに物語が始まって、翌朝には彼女は姿を消している。その一方、物語の後半では、彼は生涯の伴侶を失った男のように見える。
――常識と観測結果とが矛盾するときは、常識を捨てなければなりません。
( ・3・) 何を言いだしたんだ急に。
――ある日の夕暮れから翌朝まで、と考えて矛盾が生じるのであれば、そう考えるのをやめればいいんです。
( ・3・) いや、でも、ある日の夕暮れから翌朝までじゃないの? ネオンの輝く見知らぬホテルに長期滞在して、数年後の朝に彼女はいなくなりました、なんていくらなんでも無理があるだろう。
――キュビズムの絵画では、ある対象を複数の視点から捉え、平面のキャンバスに再構成して描きます。
( ・3・) 何を言いだしたんだ急に。
――ある日の夕暮れから翌朝まで、という枠組みのなかに、出会いから別れまでの一切が凝縮されたかたちで描かれているとしたら?
( ・3・) 時間の流れが一律ではなかったということか?
――いいですか、時計の秒針が聞こえてくるのは、彼女がいなくなった後です。それから彼にとっての永遠の現在が始まり、彼女がいた過去は、彼の記憶のなかで遠近法的な奥行きを失うんです。
( ・3・) 時計を一種の仕掛けと見立てて、内在的に解釈するわけか。理屈は通っているかもしれないが、常識を捨てさせるには、まだ十分ではないと思うぞ。
――では、時間の流れが一律であるとは限らないという外在的な傍証を。1978年のインタヴューです。
Everybody agrees that that [Blood on the Tracks] was pretty different, and what's different about it is that there's a code in the lyrics and also there's no sense of time. There's no respect for it: you've got yesterday, today and tomorrow all in the same room, and there's very little that you can't imagine not happening. [8]
( ・3・) おい、詩に暗号が隠されていると言っているぞ。
――その点は保留にしてください。
( ・3・) 時間の意識は失われている。過去、現在、未来が同じ部屋に混在して、想像しえない出来事などほとんどない。
( ・3・) 「運命のひとひねり」の解題ではないんだな?
( ・3・) そうだな、まだ腑に落ちるとまではいかないが、時間の扱いは気に留めておいたほうがよさそうだ。
――はい。実は、キュビズムの絵画や、時間の意識をもちだしたのは、次に聴く曲「タングルド・アップ・イン・ブルー」でも同じ問題がでてくるからなんです。邦題は「ブルーにこんがらがって」。ディランの重要な曲を挙げるとしたら、まず10位以内には入る。人によっては1位かもしれない。というわけで、ウォーム・アップは終了です。次は少し難しくなりますよ。
そのようにして彼らは「タングルド・アップ・イン・ブルー」を聴き、「シェルター・フロム・ザ・ストーム」を聴いた。窓のかたちをした陽だまりが床を移動し、寝ていたストラヴィンスキーの首から下が影に入ってしまった。もう次の曲に進む時間は残っていなかった。デレク・ベイリーのCDを持って帰らなければ、と彼は思った。マイルス・デイヴィスやビル・エヴァンスならいつでも買い直せる。しかしベイリーは品切れのまま再発されないことだってありうるのだ。
「もう帰るのか?」と上司は言った。
「はい。それで、デレク・ベ」
「おまえの家は一戸建てだったな、たしか。陽当たりと風通しは良好か?」
「陽当たり? まあ、それなりには。それで、デ」
「窓からの眺めは?」
「眺め? まあ、壁しか見えないということはありませんが。そ」
「じゃあ、決まりだな」と上司は言い、リムスキー=コルサコフの両脇を後ろから抱えると、目の高さまで持ち上げた。
「新しいパパだよ」
かくして予言は成就し、わたしは持っていったもの以上を持ち帰ることになる。小さなモフモフと、モフモフの当面の生活に必要なモフモフ用品とを。
まずはこの子に、猫としてまっとうな名前をつけよう。このままだと、もし何かの拍子に迷子にでもなったら、「リムスキー=コルサコフ! リムスキー=コルサコフ!」と大声で呼びながら近所を捜し回らなくてはならない。獣医にかかるときだって、きっと問診票に名前を書く欄があるだろう。常軌を逸した飼い主だと警戒され、信頼関係を築くのに支障をきたすかもしれない。
しかし、猫に名前をつけるのは難しい――T・S・エリオットの Old Possum's Book of Practical Cats にもそう書いてある。クラシックの作曲家では大仰すぎる。ジャズ・ミュージシャンではどうだろう。わたしはCDとレコードの棚の前に立ち、名前の候補をピック・アウトしていく。チェット。論外である。マタタビに耽溺してばかりの猫になってしまいそうだ。ドルフィー。才能も人格も申し分ないが、早世の不安がつきまとう。ベイリー。デレク・ベイリーのCDを取り戻すまで、わたしはあとどれだけの道を歩まなくてはならないのだろう。
わたしは気づく。予言は成就していない。少なくとも完全には成就していない。人知を超えた力によって予言はねじ曲げられ、わたしは持っていったもの以上ではなく、持っていったもの以外を持ち帰ったのだ。新しい家の探検を終え、お腹を上にして眠る小さなモフモフよ、おまえのしっぽが曲がっているのも、運命のひとひねりのせいなのか?
[1] 実際にはEより少し高く聴こえる(テープの再生速度を上げているため)。
[2] これ以降、歌詞の引用は2小節ごとに改行を加えている。
[3] Bob Dylan. Chronicles: Volume One. Simon and Schuster, 2004. p. 122.
[4] Sam Shepard. Rolling Thunder Logbook. Da Capo Press, 2004. p. 78.
[5] https://maureenorth.com/1974/01/dylan-rolling-again-newsweek-cover-story/
[6] Interview with Ron Rosenbaum. Playboy, March 1978; reprinted in Bob Dylan: The Essential Interviews. Wenner Books, 2006. p. 236.
[7] 草稿では、第三スタンザは以下のように書かれたあと、大きなバツ印がつけられている。"She raised her weary head / And couldn't help but hate / Cashing in on a Simple Twist of Fate." 初めは娼婦として描かれていた点を重視することもできるし、その構想が放棄された点を重視することもできる。
[8] Interview with Jonathan Cott. Rolling Stone, November 16, 1978; reprinted in Bob Dylan: The Essential Interviews. Wenner Books, 2006. p. 260.
https://anond.hatelabo.jp/20200322025040
They walked along by the old canal
A little confused, I remember well
And stopped into a strange hotel
( ・3・) ふたりは古い運河に沿って歩いた。少しまごついていたのをわたしはよく覚えている。そしてふたりはネオンの輝く奇妙なホテルに入った。
――「奇妙なホテル」とは?
( ・3・) ホールにフランク・ザッパの蝋人形でも飾ってあったんじゃないか? ああ、この strange というのは unfamiliar ということだな。――ネオンの輝く見知らぬホテルに入った。彼は夜の熱気に打たれるのを感じた。まるで運命のひとひねりと共に走る貨物列車がぶつかってきたようだった。
( ・3・) 夕暮れの公園にいたふたりが歩きだす。ネオンが光っているから、あたりはもうすっかり暗くなったんだろうな。「わたし」の記憶によると、少しまごついていたようだが……。
――「わたし」が出てきましたね。
( ・3・) ふたりの背後に忍びよる謎の人物……。落ち着かない心の内までお見通しとは、たいした観察力だ。
――……。
( ・3・) いや、分かってるよ。賢明なる読者諸氏ならば、「わたし」の正体は説明せずともお分かりになるはずだ、ってことだろ? 分からないとおかしい。ナボコフの『 』を読んで、「 」と「 」とが同一人物だと気づかないようなものだ。
――『 』は読んでいないのですが……。
( ・3・) だから少しは本を読めって。ただしまともな本だぞ。『死にたくなければラ・モンテ・ヤングを聴きなさい』みたいなのは読書にカウントされないからな。
――話を元に戻しましょう。
( ・3・) 三人称の物語だったはずなのに、一人称の「わたし」がぱっと現れて、さっと消える。聴き手は混乱するんだけど、何事もなかったかのように、彼と彼女との物語が続いていく。
――はい。人称の問題は後で見直すとして、脚韻についてはどうでしょう。
( ・3・) 1行目と2行目、canal と well は母音が合っていないんじゃないか?
――子音しか合っていません。脚韻は、強勢の置かれた母音以降の音が一致しないといけないので、この箇所は韻を外していることになります。そのうえ、1行目と2行目とでは旋律も違います。
( ・3・) 違ったっけ。
――違うんです。第一スタンザでは、1行目・2行目・3行目はきれいに韻を踏んで、旋律も同じかたちでした。ところが、第二スタンザでは、1行目・2行目で母音が揃わず、canal は上昇する旋律、well は下降する旋律です。というか、"I remember well" のところは、はっきりした音程がありません。そこだけ語りのようになっています。
( ・3・) 例の「わたし」が出てくるところだな。ひょっとしたら、わざと韻を外して、旋律も外して、「わたし」に対する違和感を際立たせようとしているんじゃないか?
――わざとかどうかは分かりませんが、定型から逸脱することで、聴き手の注意を喚起する効果はあると思います。
( ・3・) となると、韻を踏まないことにも意味がありうるわけだ――あれ、6行目と7行目、train と fate も韻を踏んでいないぞ。
――6行目は train ではなく freight train の freight が脚韻にあたります。
( ・3・) まず列車の概念があって、それからより具体的には貨物列車、という思考の流れではないんだな。まずフェイトという音の響きがあって、その響きが無意識の言葉の渦からフレイトをひっぱり出してくる。それから列車の概念がフレイトにくっついてやってくる。意味が音を追いかけているみたいで面白いな。
A saxophone someplace far off played
As she was walkin’ by the arcade
As the light bust through a beat-up shade
( ・3・) どこか遠くでサックスを吹いている人がいた。――これは順番をひっくり返さないとうまくいかないな。――彼女がアーケイドを歩いていると、どこか遠くからサックスが聞こえてきた。くたびれた日よけから光が差し込み、彼は目を覚ました。
――まだ覚ましてはいません。
( ・3・) ――彼は目を覚ましつつあった。彼女は門のところで盲人のカップにコインを入れた。そして運命のひとひねりのことは忘れてしまった。
( ・3・) 夜から朝になった。どこか遠くでサックスを吹いている人がいる。時を同じくして、彼女はどこかへ歩いていく。そしてまた時を同じくして、夢うつつで横になった彼の部屋に光が差す。一行ごとに場面が切り替わって、映画みたいだ。
( ・3・) どこかへ歩いていく彼女は、そのまま消えてしまう。盲人のカップにコインを入れる、というのが何か象徴的な行為なんだな、きっと。運命、盲人、テイレシアス、と連想が働くせいでそう感じるのかもしれないが。
――何を象徴しているんですか?
( ・3・) 何かをだよ。メルヴィルの白鯨は何を象徴しているんだ?
――何かをですね。
( ・3・) そう。ある行為や対象が何を意味するのか一義的に定まらないとき、その行為や対象は象徴性を帯びるんだ。ひとつ賢くなったな。
――とはいえ、門のところの盲人は運命を告げるわけではなく――
( ・3・) それどころか、彼女は運命のひとひねりなんて気にしてないんだな、ちっとも。
――強い。
( ・3・) 強い。運命に抗う者は悲劇的な最期を遂げるが、運命に関わらない者はいつまでも幸せに暮らすんだ。――じゃあ、ありがたい教訓も得られたことだし、次に進もうか。
――その前にひとつだけ。わたしが面白いと思うのは、彼女が去っていくのを誰も見ていない点なんです。まず、どこか遠くのサックス奏者は物語に関与しない。
( ・3・) 音だけの出演。
――部屋では彼はまだ寝ている。そして門のところの盲人には――
( ・3・) 彼女は見えない。なるほど、興味深い指摘だ。きみ、名前は?
――……。
( ・3・) 名前は?
( ・3・) アルトゥーロ、ありがとう。そんなところにも彼女の強さというか、優位性が表れているのかもしれないな。
He woke up, the room was bare
He told himself he didn’t care
Felt an emptiness inside
To which he just could not relate
――ハーモニカの間奏を挟んで、ここからは後半です。彼と彼女とがいっしょにいる、あるいは少なくとも近くにいるのが前半でしたが、ディラン先生のハーモニカを聴いている間に、彼女のいた世界は彼女のいなくなった世界に変わってしまいました。――では、どうぞ。
( ・3・) 彼が目を覚ますと、部屋は熊だった。
――クマ。
( ・3・) 「かすみの間」「うぐいすの間」みたいに、「グリズリーの間」だったんだよ。泊まった部屋の名前が。
――真面目にやりましょう。
( ・3・) 彼が目を覚ますと、部屋は空っぽだった。彼女はどこにもいなかった。どうってことはないと自分に言い聞かせ、彼は窓を大きく押し開いた。心の内に虚しさを――
――虚しさを?
( ・3・) 虚しさを感じた。で、その虚しさというのは、彼がどうしてもリレイトできない――
――He just could not relate to an emptiness inside ということです。
( ・3・) どうしても関わることのできない虚しさ?
( ・3・) おまえが引きたいというのなら。
――ランダムハウスにちょうどいい例文が載っています。I can’t relate to the new music of Miles Davis. マイルス・デイヴィスの新しい音楽はわたしにはしっくりこない。――1972年に『オン・ザ・コーナー』を聴いた人はそう感じたかもしれません。そもそも1967年の『ソーサラー』からして、もう調性は不
( ・3・) 自分自身の虚しさとうまくつきあっていけない、と考えればいいのか。――どうしてもなじむことのできない虚しさを感じた。運命のひとひねりによってもたらされた虚しさを。
( ・3・) さっき "he was wakin' up" のところで「まだ目を覚ましてはいない」って添削が入ったのは、このスタンザの "He woke up" が念頭にあったからなんだな。
――そうです。ここではっきりと目を覚ます。
( ・3・) 彼女はいなくなっている。大丈夫だと自分に言い聞かせるってことは、大丈夫ではないわけだ。窓を開けたら心の内に虚しさを感じた、のくだりはなんだか分かる気がするな、感情の流れが。ぐっときたぜ。
――まず部屋が空っぽだという状況が語られる。でも本当に言わんとしているのは、彼の内面が空っぽになったことです。開いた窓のところに立って外と内とを画定することで、内面という言葉が自然に導かれています。
( ・3・) きみ、名前は?
He hears the ticking of the clocks
And walks along with a parrot that talks
Hunts her down by the waterfront docks
( ・3・) 時計がチクタクいうのが聞こえる。言葉を話すオウムを連れて歩く。水夫たちがやってくる港で彼女を捜す。また彼女が彼を見つけてくれるかもしれない。どれだけ待たなければならないのか。もう一度、運命のひとひねりが生じるのを。
( ・3・) 時計の音が聞こえてくるのにあわせて、時制が現在形になった。ここからは彼にとってまだ過去の出来事ではないんだな。
――彼女のいない現実が、一秒ごとに動かしがたいものになっていく。コンクリートが固まるみたいに。
( ・3・) 「言葉を話すオウムを連れて歩く」は何を意味するんだ? アメリカ文学で鳥がしゃべるといったら、ポウの「ザ・レイヴン」だな。死に別れた恋人と天国で再会できるだろうかと訊くと、鳥は「二度とない」と予言するんだ。
――このオウムは実在するんでしょうか? どこからともなく現れましたが。
( ・3・) そこを疑うの? 「昔々、あるところにおじいさんとおばあさんがいました」「エヴィデンスは?」みたいなものじゃないか。
――いえ、そうではなく、おそらく肩の上、耳元でオウムが話しているわけですよね、彼女を捜して歩いている間ずっと。それは暗喩ではないかと思うのですが。
( ・3・) おじいさんは暗喩としての山へ暗喩としての柴刈りに行きました。
――「周囲の人たちの話が、オウムの言葉のように空疎に聞こえてしまう」を暗喩的に言い換えると「言葉を話すオウムを連れて歩く」になりませんか?
( ・3・) 心ここにあらずだから、「よう、調子はどうだい?」と声をかけられても、「ヨウ、チョウシハドウダイ」と聞こえるわけか。まあ、そうかもしれないな。
To know and feel too much within
( ・3・) 内面を知りすぎてはいけない、感じすぎてはいけないと人は言う。わたしは今でも信じている。彼女はわたしの双子だったと。しかしわたしは指輪をなくしてしまった。彼女は春に生まれたが、わたしは生まれるのが遅すぎた。運命のひとひねりのせいで。
( ・3・) 「わたし」が出てきたな。二番目のスタンザでは存在をちらっと匂わせる程度だったが、ようやく正体を現した。
( ・3・) そう。三人称・過去のかたちで物語が始まり、彼女がいなくなって時計の秒針が意識に上ったときから三人称・現在になる。そして今、一人称・現在で「わたし」=「彼」が胸の内を明かしている。
――すべて過去形で書くこともできたし、すべて三人称、あるいは一人称で書くこともできたと思うんですが、どうしてそうしなかったんでしょう?
( ・3・) なんだか「学習の手引き」みたいになってきたな。時制が変わるのは、彼女の不在が彼にとって現在の出来事でありつづけているから。人称が変わるのは――そうだな、最後のスタンザの心情は、客観的に、距離をおいて語れないんじゃないか。まだ傷が生々しくて。
――第四スタンザの「部屋は空っぽだった」から「窓を大きく押し開いた」のあたりはハードボイルドの流儀で、あまり感傷的にはなるまいという抑制が働いているんですが、最後のスタンザになると――
( ・3・) 抑制が外れて、ついでに三人称の仮面も外れる。他人の物語であるかのように体裁を保っていたのが、保てなくなる。こういう効果を生むためには、人称の変化が必要だったんだな。
https://anond.hatelabo.jp/20150214223556
( ・3・) クラシック好きの上司がジャズを聴きたいと言いだして、から数か月後――
その朝、彼が職場に着くと、クラシック好きの上司は目を閉じて見えないオーケストラの指揮をしていた。腕の動きが激しさを増し、握った拳が垂直に振り下ろされる。1、2、3、4、5、6、7、8、9、10、11。
「なんだ、来ていたのか」と上司は目を開いて言った。「春の祭典の第二部なんだが、どうにも縦の線が揃わなくてな。リハーサル不足だ」
「高度に発達した空想は現実と見分けがつかないくらい不自由なものだ。ティンパニ奏者とシンバル奏者はもう何年も口をきいていない。――それはそれとして、ボブの件、明日の日曜はどうだ?」
ボブというのは、ボブ・ディランのことだった。上司の娘さんが英語の授業で「はげしい雨が降る」を習ってきたらしく、それ以来、上司は彼にディランについてのレクチャーを要請しているのだった。彼が娘さんに教えるのではなく、彼が上司に教え、上司が娘さんに教える。ディランのことならパパに任せなさい、と目論んでいるのは明らかだった。
明日。彼は断ろうとしたが、適当な口実が見つからなかった。高齢の親戚はひと通り殺してしまっていたし、このあいだ死んだ祖父にもう一度死んでもらうには、まだ少し時間が必要だった。
「じゃあ、決まりだな」
こうして、彼は休日をつぶして上司の家を訪ねることになった。どの作品を題材にするべきか迷ったが、一日でディランのキャリアを追いかけるのは無理だと割り切って、彼自身がディランを聴き始めた高校生のころに感銘を受けたものを選ぶことにした。『ブラッド・オン・ザ・トラックス』だ。このなかの数曲を検討するだけでも、一日まるごとかかってしまうだろう。たくさんのアルバムを持っていかずに済むのが救いといえば救いだった。
最寄駅に着くと、もう上司は車で迎えに来ていた。大きな声で名前を呼ぶので、きまりの悪い思いをしたのをわたしはよく覚えている。車に乗り、しばらく走ると、左手に惣菜とパンの店が見えてきた。看板にはアルファベットで DELI BAKERY と書かれていた。
「デレク・ベイリーのCD、今日こそは返していただきます」と彼は言った。
「そんなことを気にしていたのか」と上司は笑った。「大丈夫。おまえは持ってきたもの以上を持ち帰ることになるだろう」
おまえは持ってきたもの以上を持ち帰ることになるだろう。それはまるでデルポイの神託のように聞こえた。彼は運命のうねりが身に迫ってくるのを感じた。しかし、現実は物語とは違う。成就しない予言。読まれない遺書。途切れる伏線。それが現実だ。
「デレク・ベイリーというのは、あのヴェーベルン風のギタリストだな?」
「そうです」
「あれをかけると、猫たちが爪とぎを始めるんだ。何か感じるものがあるのかもしれないな」
「猫たち、とはどういう意味ですか?」
「猫たち、とは」と上司は言い、長めのフェルマータを置いた。「猫の複数形だな」
「また拾ってきたんですか?」
「いや、拾っていない。拾ったのはちーちゃんだけだ」
「猫の方から入ってきた?」
「いや、入っていないし、出してもいない」
「じゃあどうして増えるんですか?」
「さて、どうしてでしょう」
「ちーちゃん、ベルリオーズ、リムスキー=コルサコフ、ストラヴィンスキー、お客様にご挨拶だ」と上司は居間の扉を開けて言った。居間には母猫のちーちゃんと、三匹の子猫たちがいた。上司が公園で拾ったとき、ちーちゃんはすでに出産を間近に控えていたのだ。
「里子に出すまでの幼名だよ。正式な名前は里親がつければいい」
猫たちは来客には関心がないようで、ストラヴィンスキーはリムスキー=コルサコフに背後から跳びかかり、ベルリオーズは伏せの姿勢でおしりを振りながら取っ組み合いに加わる間合いを計っていた。
「みんな元気だな。よし、そっちに掛けてくれ。いまコーヒーを淹れてくる」
( ・3・) まずはバイオグラフィからだな。ボブの経歴をざっとまとめてくれ。
――いえ、それをやっていると時間がなくなるので、今日は『ブラッド・オン・ザ・トラックス』というアルバムだけを聴きます。
( ・3・) それにしたって、そのアルバムの位置づけくらいは踏まえないと。
――では、Rate Your Music のページを見てください。
https://rateyourmusic.com/artist/bob-dylan
――アルバムが発表順に並んでいますね。デビューしてまもなく、1963年に最初のピークが訪れます。このころのディランがお手本にしていたのはウディ・ガスリーで、ギター、ハーモニカ、歌というフォークのスタイルで世に出ました。
( ・3・) 「はげしい風が吹く」か。
――「はげしい雨が降る」と「風に吹かれて」です。ディランは1941年生まれなので、22歳前には代表作を発表していたことになります。
――1965年から66年にかけて、二回目の、そして最大のピークが訪れます。演奏はフォークからロックへ変わり、詩の内容も変わります。
( ・3・) どう変わるんだ。
――初期の詩は、一言でいえば真面目で、真面目な人たちに支持されるものでした。そこに、散文的な感覚では理解できない要素が入ってきます。「イッツ・オールライト・マ」「デソレイション・ロウ」「ジョハンナのヴィジョン」といった大作が次々に書かれるのがこの時期です。
( ・3・) 理解できない要素というのは?
Inside the museums, Infinity goes up on trial
Voices echo this is what salvation must be like after a while
( ・3・) 「ダビデの職分と彼の宝石とはアドーニスと莢豆との間を通り無限の消滅に急ぐ。故に一般に東方より来りし博士達に倚りかゝりて如何に滑かなる没食子が戯れるかを見よ!」
――どうしました?
( ・3・) 西脇順三郎だよ。よく分からない詩には、よく分からない詩で対抗だ。
――なぜ対抗しなくてはいけないんですか?
( ・3・) ただなんとなく。
――はい。続けますが、1960年代後半は、ロックが急成長する時代です。しかし、ディラン自身は、その運動の先頭に立とうとはしません。1969年の『ナッシュヴィル・スカイライン』は、カントリーのアルバムでした。
( ・3・) 帽子に手を添えてにっこり。
――捉えどころのない人である、というディランのイメージは、このころにはできあがっていたと思います。そして、三回目のピークが訪れるのは、1975年。
( ・3・) 33歳。――それだけ?
――伝記的な情報はいろいろあるのですが――というか、常に伝記を参照しながら語られる作品なのですが――今回は知らないふりをします。「この女性は誰々がモデルだから」といったアプローチはとりません。捉えどころのない人、謎めいたよそ者であることを行動原理にしている人が、久しぶりに本気を出したらしい、くらいで結構です。
( ・3・) そう、じゃあ聴いてみようか。1曲目は――
――1曲目は後にして、2曲目から始めましょう。「シンプル・トゥイスト・オブ・フェイト」。「運命のひとひねり」という邦題がついています。
( ・3・) なんで? 有名な曲なの?
――ほかの曲より易しめだからです。ディランの重要な曲を挙げるとしたら、おそらく50位以内には入ると思いますが。
https://www.bobdylan.com/songs/simple-twist-fate/
She looked at him and he felt a spark tingle to his bones
――ディランの歌詞は本人のサイトで公開されているので、それに基づいて進めていきましょう。では最初のスタンザから、どうぞ。
( ・3・) 訳すの? 俺が?
――訳ではなくてもいいので、どういうことが歌われているのかを説明してください。
( ・3・) 夕暮れの公園に男と女がいた。女に見つめられると、男は体の芯に火花が走るのを感じた。彼が孤独を感じたのはそのときだった。彼は思った。まっすぐに歩いていればよかった、運命のひとひねりに気をつけていればよかったと。
( ・3・) そうだな。恋人たちがいい雰囲気になっているのかと思いきや、なんだか雲行きが怪しい。急に孤独を感じちゃったりして。
( ・3・) そうなの? で、まっすぐに歩いていればよかった、というのは比喩的な表現だな?
――もちろん。
( ・3・) われ正路を失ひ、人生の覊旅半にあたりてとある暗き公園のなかにありき――
――?
( ・3・) ともかく、この男はあるべき道を見失って、運命の力が自分に働きかけているのを感じているわけだ。でも運命って、注意していれば回避できるものなんだろうか?
――次のスタンザに進む前に、脚韻の形式を見ておきます。2小節ごとに改行を加えると、以下のようになります。
She looked at him and he felt a spark
( ・3・) 1行目・2行目・3行目の park, dark, spark で韻を踏んでいるな。4行目・5行目の bone(s), alone もそうだ。それから6行目・7行目の straight, fate も。
https://twitter.com/kedardo/status/1241415360672219137
――ついでにコード進行も確認しておきます。これは実際に鳴っている音ではなく、説明のために簡略化したコードです。元のキーはEですが、ここではCに移調しています。 [1]
( ・3・) いったい誰に対する配慮なんだ。
――まずは1小節目から8小節目まで。何か気づいた点はありますか?
( ・3・) 見たままじゃないか。ド、シ、シ♭と半音ずつ下がっていって、ラに落ち着く。
――はい。ラはサブドミナントのコードであるFの構成音です。しかし、まだラは終点ではありません。
( ・3・) 半音下降は続くよどこまでも。
( ・3・) Fの構成音は「ファ・ラ・ド」で、Fmの構成音は「ファ・ラ♭・ド」だ。長三度のラが短三度のラ♭になる。なんだか言うまでもないことを言わされているようだが、どこに誘導しようとしているんだ?
――ラからラ♭へ半音下がることによって、コードに影がさします。その箇所ではどんなことが歌われていますか?
――はい。彼が孤独を感じるのは、サブドミナントのコードがメジャーからマイナーに変化するときなんです。
( ・3・) ああ、それが言いたかったのか。つまり、コード進行と歌詞の内容とが結びついている、と。
――そうです。それから、もう一点。この曲は、コードが頻繁に変わる曲でしょうか。それとも、あまり変わらない曲でしょうか。
( ・3・) また誘導が始まった。1小節目から10小節目までは、2小節ごとにコードが変わる。C7からFへの進行を除けば、コードの構成音のうちのひとつが半音下がるだけだし、曲のテンポもゆっくりだし、あまり変わらないんじゃないか?
――はい。11小節目から12小節目、"and wished that he'd gone straight" と歌われるところはどうでしょう。
( ・3・) ここは2拍ごとにコードが変わる。あまり動かなかったコードが動きだす感じだな。
――"and wished that he'd gone straight" の "straight" は、この曲の旋律で最も高く、長く、強く歌われるところです。コードの動きと旋律との関係を見ると、11小節目に助走が始まって、12小節目の頭で大きくジャンプするようにできています。
( ・3・) ……ハーモニック・リズムと言えば済む話じゃないのか?
( ・3・) いったい誰に対する配慮なんだ。
( ・3・) はっさく食べる?
あのさ
長いレジのレシート24メートルを頭にくくってそれが垂れ下がって地面に触れないようにして走る訓練をしようと思ったけど辞めました。
それ忍者ハットリ君のやつ!って霜降り明星さんの言うようにするところまでが遠足です!って
話変わるけど
お友だちにね、
作曲はしないのか?って聞かれたんだけど、
作曲ってなんか恥ずかしくない?自分の作文読まれてる感じがして私はちょっと恥ずかしいのよね。
恥ずかしいわ。
どっちかって言われたら私は長いレジのレシートを頭にくくって走ることを選ぶことを誓うわ。
そんな選手宣誓ばりの朝の私の主張を言ったところで、
あれは一向にペーパーレスにならないわよね。
レシート入らなくなるし
その詳細は本人は分からなくて、
献立考えるのも楽になるし、
アレイ使ったっけ?って
アイツの頭を鉄アレイで殴った日も覚えてくれてるはずよ!って違う違う
し、し、しれ、しる、しれ、しよ!
もうこれ何回も言ってるけど
いっぴき、にひき、さんびきの
ひき、ぴき、びきをどの数字に付けたら良いのか分からなさすぎて
そこ萌えるわ。
なんかこれ萌えるって使い方あってるかしら?そう思いながら、
花言葉を覚えるんだけど、
秋の花よね!知ってた?って事務所の人に言われたんだけど、
その知識みんな知ってるんじゃない?ってドヤ風吹かせたところで
ふわっさーって私の髪も靡かせることは一切無いからね!
分かってるのかしら?
あ!そうそう
そのドヤ風でレシートぐらいは靡かせることができるでしょ?って
無理矢理繋げてみたら全部の伏線を回収する
私はこれを書き上げたら延々と続くサーガというゲームをマウントヘッドディスプレイをしてプレイし続ける
これって人類にとってのユートピアなのかディストピアなのか分からないけど、
窓枠が空いたようなバケツを頭に被って、
頭が360度ぐるぐる回ってる!ってやってる手品師の人たちは少なくともナポレオンズさんだと言うことは。
そっと閉じておく私のファンタジー物語の締めくくりにはとてもふさわしい演出よね。
膝の左右が入れ替わるマジックも、
うふふ。
今日もなんか出掛けるらしいので、
しっかり食べておかない戸という意味も含めて、
私は平気!
私も粉末緑茶チャレンジしてみたい人体実験を試みたく健康に良いのかしらね?って思いつつ、
実際にはどうなのかしらね?
自分の身をもって体験したことじゃないとってアインシュタインさんがいってたもんね!
やってみようかしら。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
それが当たり前だと言うように毎日、7時半に家を出る。駐車場に停めた車に向かうまでに深呼吸を二度して空を見上げる。
そこに意味は無いけれど、生物として朝日の温もりを自然に求めているのかもしれない。
勤務先へと車を走らせている途中、ラジオでクラシック音楽を聴く。ジャズに似た旋律のせいで後でメロディーを思い出せた事がない。
海から離れた場所にある、山に囲まれたこの街の車窓からは色褪せて錆び付いた看板と工場とコンビニと枯れた樹々と最近増えた東南アジアやブラジルからの労働者ばかりが視界に入ってくる。
子供の頃はこんなにも色の無い街だと思わなかったのに、気が付かなくて良いことばかり気がつくようになる。
ずっと住んでいる街だ。高校を卒業して専門学校を卒業するまでの二年間だけ山を越えた先にある街に住んだことがあるがそこもまた似たような景色だった。
日に日に色彩が無くなっていくこの感覚は子供には理解できないだろう。
驚いたのが社員旅行で行った、ハワイと呼ばれる島だ。初めての海外で正直期待していなかったが目に飛び込んでくる原色のエメラルドグリーンの海、白い波、風に揺れるヤシの木、青い空と少しの雲、どこまでも続く水平線に沈んでいくオレンジ色の太陽はいつまで見ていても飽きることは無かった。
住んでいる惑星が一緒なのか疑いたくなるくらいこの街とあの島はあまりにも違う。
唯一似てるのなら空の景色ぐらいだろう、だから私は色褪せようの無い日の光や霧のかかった山々、冬の夜空に惹かれてしまうんだと思う。
それが当たり前だと言うように毎日、7時半に家を出る。駐車場に停めた車に向かうまでに深呼吸を二度して空を見上げる。
そこに意味は無いけれど、生物として朝日の温もりを自然に求めているのかもしれない。
勤務先へと車を走らせている途中、ラジオでクラシック音楽を聴く。ジャズに似た旋律のせいで後でメロディーを思い出せた事がない。
海から離れた場所にある、山に囲まれたこの街の車窓からは色褪せて錆び付いた看板と工場とコンビニと枯れた樹々と最近増えた東南アジアやブラジルからの労働者ばかりが視界に入ってくる。
子供の頃はこんなにも色の無い街だと思わなかったのに、気が付かなくて良いことばかり気がつくようになる。
ずっと住んでいる街だ。高校を卒業して専門学校を卒業するまでの二年間だけ山を越えた先にある街に住んだことがあるがそこもまた似たような景色だった。
日に日に色彩が無くなっていくこの感覚は子供には理解できないだろう。
驚いたのが社員旅行で行った、ハワイと呼ばれる島だ。初めての海外で正直期待していなかったが目に飛び込んでくる原色のエメラルドグリーンの海、白い波、風に揺れるヤシの木、青い空と少しの雲、どこまでも続く水平線に沈んでいくオレンジ色の太陽はいつまで見ていても飽きることは無かった。
住んでいる惑星が一緒なのか疑いたくなるくらいこの街とあの島はあまりにも違う。
唯一似てるのなら空の景色ぐらいだろう、だから私は色褪せようの無い日の光や霧のかかった山々、冬の夜空に惹かれてしまうんだと思う。
気が付けばさ、
私35話からぜんぜんもう見てなかったし
でもまだぜんぜん観れてない!ってもうあとの残り100話ぐらいどうやって観んだよ!って思っちゃうけど、
今この速さなら観れる!って
ってもう逆にそれ観てみたいわ!って興味そそるけどね!
興味そそるって書いたら味噌汁感あったので、
お麩かーってなんかションテンが下がっちゃうけど、
でもお麩も美味しいと思わない?
しっかりしたお麩食べたこと無いけど、
デナーはやっぱりがっつり肉でなーとな!なんて。
肉系がションテン上がるわよね!
私も美味いダジャレができたら、
「このダジャレはフリーダジャレです。そのままお使い頂けます」って
どやー!って言ってやりたいんだけど
あいにく私は自由旋律の川柳の能力はあってもダジャレ能力がないわ。
もうちょっとそこは欲しいところね。
そんなわけで
私の気が変わらないうちに、
秋風先生お元気ですか?ってしたためたい気持ちもあるインパクトの強いキャラクターだったわよね!
うふふ。
なんだか今日は昨日葡萄食べちゃったからそんな気分でどんな気分だよって思うけど
何も食べない朝でした。
朝ご飯抜きよ。
いよいよシーズンオフ間近!
まだなんだかんだで気温が30℃前後とか。
どおりで暑いわけだわ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
おはようございます、ピアノです。まどろみの時間に旋律が聴こえる気がする朝は良いですよね。いつから始まり、終わりなどないような泰然とした流れを耳で追っていると、やがて全てを手放しても大丈夫な気持ちになります。
爪の短い指に弾かれると、ましてや軽快なアレグロが続いたりすると、私の上を飛び跳ねる刺激が嬉しく心地よく、まるでつつかれただけで笑いが止まらくなった幼子のように体がホカホカするのです。旅立ちに際し、爪を整えてくれてありがとうございます。私はまた、短い爪のお母さまと共にお遊戯しましょう。その音が時折あなたに届いたりなんかすると、いいですね。
私達は兄弟です。お母さまはあなただけでなく、ピアノも可愛がってくださっていました。喪失は悲しい。向き合うにはしっかりした心と、それを支える暖かな手が必要です。私はあなたの手になりましょう。声もなく涙がこぼれる夜、名前を呼ばれて起きたような気がする朝、愛用品を整理する昼、私の旋律と共にあってください。
思い出せるとき、思い出したい思い出だけで十分です。音楽は、時としてその楽曲単体の印象で語られますが、本来は人と共にあればこそです。練習していたフレーズ、つい癖で動く指先、ひらりと落ちている楽譜のコピー。欠片それぞれが連れてくる一瞬の思い出を大切に。
いずれ、連綿と続く生物の時の流れの中で、あなたとお母さんが共に過ごせたことを発見し、それだけで十分満たされる日も来るでしょう。穏やかな眠りが再び訪れるその時まで、私の音が呼び寄せる思い出が、あなたを暖められますように。
Aviciiを初めて知ったのは、アルバム「True」が発売されて半年後くらいだったと思う。きっかけは、Twitterでフォローしていた誰かの呟きだった。Aviciiに関するニュースだった気がするけど、詳しいことは覚えてない。
でも、YouTubeでWake Me Upを初めて聴いたときの衝撃は、今でも鮮明に思い出せる。これまでの概念が完全に崩れた瞬間だった。EDMに似つかわしくないカントリー調の演奏、どうしたって印象に残る力強い歌声と、一度聴いたら離れられない旋律。その全てが初めて経験する音楽だった。
とにかく率直に思ったのは、こんな音楽とまだ出会えるのか、ということ。これでも一応30年近く生きてきて、大抵の音楽は知ったつもりでいた。もう音楽で心を揺さぶられることなんてない。明確に決めつけたつもりはなかったけど、無意識に、でも確実に諦めていたと思う。
だから、Aviciiのファンになるのは、曲が終わるよりも早かった。むしろ遅すぎたくらい。Wake Me Upをきっかけにリリースされた曲は全て、何百何千と聴いた。特に「Avīci (01)」は新婚旅行で行ったモルディブで一晩中流して、今でも聴くと必ずあの美しいエメラルドブルーの海が蘇る、妻との思い出のアルバムとなった。
***
Aviciiが引退すると聞いたとき、そしてその理由があまり前向きな理由ではないと知ったときは寂しかった。でも、今振り返るとそれは大したことではなかったように思う。昔ほど精力的ではないにせよ活動はしているようだったし、不意打ちのようなタイミングで発表されるリリースは嬉しくもあった。
ただ、突然の訃報はそんな細やかな楽しみも全て打ち消した。確か休日の朝だった。眠気が一瞬で覚めて、大声をあげて飛び起きたのを覚えている。でも、心のどこかでこれは現実だと冷静に受け止める自分がいて、驚きは波のように引けていった。その後はただただ悲しみだけが満ち溢れた。
***
今でもあなたのことを思うと何も考えられなくなる。偉大な才能だったのに。大切な存在だったのに。なぜ多くの人にとって希望だったあなたが、この世から居場所を失う必要があったのか。もしこれまでの作品が、あなたの尊い命を削ることで生み出されたものだとしたら、私はそれを聴く権利があるのだろうか。正直分からない。
ただ確かなことは、私含め残された者はあなたのいない世界を生きていくしかない。そのとき、きっとあなたが残してくれた作品は人生の大きな支えになるということ。これまでも、仕事で辛かったとき、人間関係で悩んでいたとき、「Wake Me Up」がどれほど心強く響いたか。どれほど勇気付けられたことか。
あなたのおかげで、また前を向いて頑張ろうと思えた。その事実は決して否定できないし、きっとこの先も変わらない。だから私は、あなたが投げ出してしまったこの世界を、あなたの作品と共に生きていきたいと願う。
僕の20歳は、「人生」っていうバンドをやりながら東京で一人暮らしをしてて、医療系の専門学校を中退した年ですね。臨床検査技師の勉強をする学校だったんですけど、1年目の途中であんまり行かなくなって、2回目の1年生の夏に、ドラクエ のやり過ぎで辞めたんです。辞めたからといって地元の静岡に帰っても仕方ないし、仕送りを止められたので、バイトとバンド活動に明け暮れてました。あ、明け暮れてはいないですね。バイトをそこそこやりながら、あとは遊んで暮らしてました。すいません、ちょっと自分を良く言おうとしちゃって。お恥ずかしい。
このころは幡ヶ谷のワンルームマンションに住んでました。いまもバンドを一緒にやっている(石野)卓球が笹塚に住んでいて、ちょうどその中間地点に練習スタジオがあったんです。当時はインディーバンドブームで、僕らも雑誌に取り上げてもらったりして、幾らか知名度はあるインディーバンドっていうようなポジションでしたかね。
仲の良い友達と始めたバンドだから面白かったですけど、僕は部活みたいな感覚でやってましたから、とうていそれで食っていくってことを思いつくはずもな く、とくに将来のことも考えずに基本毎日ぷらぷらしてたんです。夢中でガチャガチャをやり過ぎちゃったり、CDをジャケ買いして失敗したのが痛いとかで、 明日の晩ご飯代がないみたいなことはありましたけど、そういう無目的な若者でもなんとかやれる土壌があったというか、都市の遊びの部分に上手くハマってたんだと思いますけどね。
ただ21歳になるころ、インディブームからバンドブームみたいなものに変わっていって、僕らのバンドでやれることも飽和していたので、「人生」は解散したんです。
当時はちょうどテレビで深夜放送が始まったぐらいのころで、よくバンドのPVが流れてました。「人生」を辞めて僕はもうバンド活動はしないと思ってたから、それを見て、PVの監督になりたいなぁと思ったんですね。それで知り合いが紹介してくれて、バイトで四谷三丁目にある小さな映像制作会社に入ったんです。
そこは、地方のCMや企業の宣伝用の映像とか、そんなにメジャーじゃないバンドのPVを作ったりするような会社でした。20歳そこそこの小僧が見る世界としては、高価な機材とか目新しいものがいっぱいあるし、撮影の現場で「本番!」みたい な感じがすごく面白かったですね。ただ会社が小規模なので、現場に付く下っ端が僕一人しかいないんですね。教えてくれる人もいないのに、現場はどんどん進んでいくわけですから、とにかくしんどかったです。辛くて泣きましたもん。夜中に帰って、当時一緒に住んでた彼女に「仕事が辛い」つって「うぇーん」って 泣いて、その45分後には「仕事行かなきゃ…」って言ってたりとかね。
そこで働き始めてしばらくしたら、卓球から連絡があって「こんど電気グルーヴっていうユニットを新しくやろうと思うんだけど、お前もやんない?」みたいなことを言ってきたんです。なんでまた俺を誘うのかなと思ったんだけど、「良いよ。でもこれは完全に趣味で、部活みたいにやっていこう」って言って、電気グルーヴの活動を始めたんです。
それで2回目か3回目のライブを見たソニーの人から声をかけられて、呼び出されて新宿の寿司屋に行ったら「君たち、プロでやる気はないの?」って言われたんです。そりゃ、やりますよね。だって、部活でお金くれるんですから。とは言っても、条件は月給10万円。ザッツオール(笑)。
ただこのとき、僕は、制作会社の人たちにはお世話になってるし、少人数の制作体制で自分が抜けることの意味が分かってました。かといって二足のわらじはとうていムリですから、最終的には上司に「こういう話があって、すごく迷ってるんです」って切り出したんですね。そうしたら、「若いんだから、絶対音楽の方に行った方が良いよ」って背中を押してくれて、それでデビューすることに決めたんです。僕個人としては「どうせこんなバンド、ポシャるだろうから(笑)、 まあ、3年ぐらいプロのミュージシャンの世界を見てきても、いま21歳だから24歳。まだいけんな」っていうのでデビューしたみたいな感じでした。だからプロになったっていう自覚はあんまりなかったんですけどね。
すぐにレコーディングだってことで「マンチェスターとニューヨーク、どっちがいい?」って言われたんです。「さすがソニー。金持ってんなぁ」みたいな感じでマンチェスターに行くことにしました。昔から好きだったニューウェーブとかギターポッ プみたいなものはマンチェスターのやつが多かったですからね。向こうに2ヶ月ぐらい滞在してファーストアルバムを作りました。当時「マッドチェスター」っ て言葉があって、マンチェスターが狂ってた時期の後半で面白かったですね。ライブを見たりクラブに行ったりすると、イギリス人にもゆるいやつとかメチャクチャなやつがいて、刺激はいっぱい受けましたね。まあ、こちらは21歳でなんも考えてないですからね。それはねぇ、そんなやつを自由にそういうところに行かせたら、やっぱり何色かに染まりますよね(笑)。
電気グルーヴはふつうのバンドと違って、主要な旋律はだいたい機械が出してくれるわけですよ。だから練習よりは、ライブの日のテンションの方が大事だったりするタイプのバンドだったんです。僕は楽器をやるわけじゃなくて、たまにマイクを持ってがなったり、まあ歌ったり、歌を間違えたり、歌わなかったりとかもしますけど、ほとんどステージに出てフラフラしてるだけなんです。バンドって遊びの側面があるじゃないですか。僕の感覚としては、その遊びみたいなことをずっと続けてるのに近かったんですけどね。まあ客の盛り上がり加減を見ては「今日はもうちょっともっていけたのにな」って思うことはあったけど(笑)。だいたい、僕を見てるとは思ってなかったですもん。みんな卓球とかを見てて、たまに見られてる箸休め的な感覚でやってましたから。
友人が何かに救われた話をしていたので私もざっくりまとめてみようと思う。
おそらく一番辛かったのは中学生の頃をピークに家族から虐待を受けていた時だろう。内容に関しては本題ではないので伏せさせてもらう。
当時はこの世の全てが憎く、恨みつらみを日記に書いてはどうにもならずに不眠症をこじらせるといった具合だった。
受験も放棄して必要最低限の勉強だけをした。もっと真面目にしていればと思うが、今の私があの時に戻ってもきっとできないだろう。
自分も他人も親も信じられない四面楚歌だ。悪い事をしたので自分も信じられなかった。
本は一時的に私を匿ってくれるシェルターだったが根本的な救いにはならなかった。
頭の先からつま先まで物語に浸かっている間はそこが唯一息ができる避難所だった。
そんな状態から私に最初に希望をくれたのが「ボーカロイド」だった。
暇だった私は2次創作の動画からニコニコ動画にたどり着き、合成音声と知らずボーカロイドカバー曲を巡りとあるオリジナル曲の再生ボタンを押した。
あの時の鼓膜と脳を揺さぶるような衝撃と、私にべったりと張り付いて離れなかった絶望や恨みつらみがはらはらと落ちるような感覚は一生忘れないだろう。
きっとあの瞬間に一生分救われたと思う。
その声が旋律があまりにも綺麗で、人でないからこそ受け入れられて、人の愛や恋を歌ったものではなく世界の在り方を歌ったその歌詞があまりにも浮世離れしていて、だからこそ救われたのだろう。
同じ曲を人間が歌っていたら素通りしていたのは間違いない。人ではないものに救われた。それは私の根底にずっと残っている。
救われたという感覚を言葉にしようとするとどうしてもポエムになってしまうのは許してほしい。
好きなものを語りたいがあまり登録したSNSを通じてやらかしたり主にやらかしたりしたが、目の前の世界以外に別の世界があると知ったのは大きかった。
実家は田舎だったので閉鎖空間クローズドサークルといった逃げ場のない場所だった。残念なことに頼れる親戚もいなかった。どこかに逃げ込もうにもどこにも無いのは本当に辛かった。だからSNSを通じて別の世界の話を聞けるのが救いだった。
そこで友人に出会えたのは私をすくい上げてくれる一因になった。
今も付き合いのある人達には感謝しかない。見捨てないでくれてありがとう。
現在は色々あってボカロの環境から離れていますが、そこに救いがあったのは確かなことでした。そこから始まったのだから一生忘れない。
あの年代の同世代にはありがちな話なのだろうけれど、ありがちだからといってそれが無意味なわけでは無い。私にとっては本当に大切なことでした。
そんなこんなで私を救ってくれたきっかけはボカロとSNSだったのでした。
結局は他人に叩きのめされて人間不信リターンズですが生きていくことはできるようになった。それだけで十分でしょう。
まだ生きているので。
モンハンワールドはHR350ぐらい、プレイ時間で1000時間ぐらい遊んでいる。かなり遊ばせてもらっているのでもちろん面白いゲームだと思っている。でも、どうにもダメな部分も感じてしまい、残念に思うこともある。
なんとなく頭の中を書き出しておきたくなったので書き捨てておこうかと思う。既にネット上でもたくさん言われていることもあるけど、自分が気になったところをいくつか書いておく。
最大で200も保持できる調査クエストの並び順序が、それを取得した順なのがかなり使いづらい。これは、アップデートで一度ソート機能がついたけども、その機能自体もそれじゃない感がしている。
欲しいソートは、第1条件がクエストのランク、第2条件が討伐する一匹目のモンスターが同じもの順というだけでいいはず。それが、L2やR2でぱっと切り替えられればいい。
正直、わざわざモンスターをピンポイントで選択したくなる状況なんて少ないはず。プレイヤーは新しいクエストが既存のものとざっと比べて同じなのか(=捨てていいのか)をぱっと見でみたいだけだと思う。だから、簡単な操作で大体同じのを並べてくれればいいのに。
モンハンは過去シリーズからずっとUI関連は残念なことが多い。今回も、アイテム・装備変更・装飾品変更の並び順が場所によって違っているのが地味にうざい。
それぞれの場所そのものの機能が違うので必ず同じである必要はないとは思うけど、違和感がある。特に、装備変更と装飾品変更は行き来することが多いので、上下の順が逆なのにたまに戸惑う。あと、キャンプでのメニューは最初がアイテムであって欲しい。プレイ中にどっちをよく使うかといえばアイテムの方だろう。
拠点で施設を使おうとNPCに話しかけた時に、NPC側の会話を毎回みなければならないのが地味にうざい。しかも、キャラによっては結構な長さの会話がある。一応、×押しっぱなしで最速でメッセージ送りはできるものの、それでも何100回とやる操作で毎回無駄にまたされるのは邪魔でしかない。×押しっぱなしで即座会話終了ぐらいにしてほしい。
今回のモンハンは拠点に戻らなくても、キャンプからクエスト受注ができて便利になっている。それなのに、拠点の施設がクエストごとに手間をかける必要があるような仕様なのが困る。 特に、植生研究所は肥料を1回に1つしか設定できず、しかも、肥料1、肥料2、やわらかい土の3連続で設定するのがベストになっているから3クエスト連続で手をかける必要がある。 集会所でのマルチプレイのときにも邪魔になる仕様なのが残念。
全部の武器が均等になる必要はないけども、もうちょっと良い武器と悪い武器の差を縮めてほしい。普通、何かがよければ何かが悪い という感じのバランスにしそうなところ、逆に良いやつは全部いい、悪いやつは全部悪いという設定になっている。
今作から狩猟笛を使い始めてかなり気に入っている。でも、なんか製作者に愛されてないんだなと感じるところがあって残念。
今回の食事では素材の選び方で効果を選べるようになっているけど、おそらくほとんどの人が決まった定食メニューだけを使っていると思う。大量になる食材の候補の中から、わざわざ8つも選ぶのが面倒すぎる。この方式にするのなら、定食を選んだ上で、そこの素材の内容を一部だけ入れ替えられるようなUIにすればまだましになるのに。
食事のスキルで素材で決まるスキル枠のあまり箇所に猫飯のスキルがランダムで選択される。この猫飯スキルを確実に発動させようとして食事券を使うと、そのランダムが再抽選されて発動する猫飯が変わってしまう。このせいで食事券を使うモチベーションが低くなってしまっている。
全く理解ができないこととして、イベントクエストの内容が絞られていることがある。しかも、イベントクエストの実施期間が1〜2週間程度しかないく、社会人とかだと休日しかプレイできないから、あそべて1日か2日程度になってしまう。いつでもサクッとできるスマホゲーなわけでもなく、1プレイに1時間とかしっかりと時間をとらないといけないのに、遊べるタイミングを制限されるとプレイできない残念さしか感じない。
こういう、プレイヤーの楽しさを向上することを考えてない仕様があるのが、モンハンの残念なところ。
今作のモンハンはモンスターが少ないという批判が多くある。でも、これはMH4GやMHXなどが過去作からの継ぎ足しで作ってきていたからあのボリュームができていただけで、ほぼ1からつくった今作が少なくなるのはしかたがないと思う。
個人的には多すぎるよりも今作ぐらいでも別に構わないと思っている。
でもこの問題は、ただ単にモンスターが少ないというだけの問題じゃなく、ハンターを強くしすぎているせいで弱いモンスターが雑魚になりすぎているせいでプレイ対象になっていないので感じる不満でもあるように思う。
歴戦古龍・歴戦王古龍にあわせて必然的に防具が強くなっているせいで、弱いモンスターからのダメージがほぼ軽傷になっている。その上、今回ほぼ必須と言える回復カスタムのために即座にリカバリができるようになっている。これのために、戦闘が雑でも倒せるため面白くもなく、弱いモンスターが遊ぶ対象にならなくなっている。
これは、端的にいえば「カスタム強化」での防具強化が不要だったのだと思う。
一応対策として弱いのにあわせた装備を作ればいい、縛りプレイをすればいいとは思うもの、折角スキルセットを色々考えて作ったのだからそれを使いたいと思うものじゃないかと。
例えば、激運チケットみたいなのと別種のものとして、ハンターの攻撃力・防御力が下がる代わりに獲得報酬のランクがあがる(古びた珠、龍脈石がでる)とかいうのがあれば、弱いモンスターとも戦うモチベーションになると思う。
過去シリーズからずっとだけど、アクシデントの発生で難易度あげようとしている感じがあるのが辛過ぎる。
雑魚モンスターが戦闘に混ざってくるとか、溶岩噴出とかの地形攻撃があるとか、今回だとランダム設置のナナの青の炎とかストレスでしかない。
スリップダメージ攻撃がおおくて気づいたら死ぬとか瀕死なのも、今までのモンハンのノーダメージでの上級プレイとかを封殺していて残念感でしかない。
また、プレイヤーが視認できない要素があるから事故になりやすい。
坂攻撃で専用モーションがあるけど、どこが坂判定でどこがそうじゃないのかが意味不明な箇所がある。明らかに平地なのに想定外に坂攻撃がでて変に移動してしまうことがしょっちゅうある。
他にも、キリンの電撃攻撃とかの発生予告エフェクトが地面の色と被って見分けがつかないとか、ベヒーモスの攻撃とかで地面の予告よりも判定が広いとかも感じる。
装備マイセットは1ページ10枠が14ページある。武器種が14種類あるから想定としては1武器1ページなんだろうけども、それだと足りない。武器の属性や対するモンスターごとにセットをつくれば10枠ぐらいは余裕で使い切ってしまう。特に今回のモンハンはモンスター固有の対策が必要(ハザクに瘴気、ナナに風圧 とか)なことが多いのでセットは増えがち。
そのため、複数の武器種、もっといえば全部の武器種で遊ぼうと思うとマイセットの枠が足りなくなってくる。いろんな武器を使うことで長く楽しむことができるようになるのに、それにシステムが対応できていないのが残念。
過去作は3DSだったりなので、セーブデータ容量の制限で仕方がないのかと思っていたけれど、HDDが前提のPS4でも同じページ数のままというのはおかしい。秋に大型アップデートがあるが、そのときには本当に増えてほしい。今の5倍ぐらいあってもいいレベルだと思う。
装飾品やマム武器などのランダム抽選ものの確率が渋すぎると思う。このゲームはそれを持っていることと前提の戦法とかができたりするので、武器とかスキルとかを持っているのがスタートラインという面があると思う。それなのに、その取得が確率的に困難というのが辛い。
また、なかなか倒せない敵を時間をかけて繰り返すのは楽しいけど、別にそこまで苦労するわけでもないのをただただ繰り返すのを強制されるのが面白くない。
ゲームでの確率設定は、実際にプレイヤーが何回プレイしたら取得できるのかを想定して決めるという話を聞くが、モンハンのは何回戦闘を想定しているのか。何万時間プレイとかのアホみたいにプレイする人のことが話題になったりするが、そういうのを基準に回数を決めてるのかと思ってしまう。
私が初めてのモンハンがTriだったのもあって、クエストではない時間無制限でモンスターと戦える探索がすごく好きなんですが、今作の探索は残念な仕様になっている。
それは、モンスターが瀕死になると結構すぐにフィールドからいなくなってしまうこと。ハンターと戦闘している最中であっても突然地中に潜るとか空高くとんでいくとかしてフィールドから消えてしまう。モンスターを倒してなんぼのモンハンで途中で逃げられることほど興ざめなことはない。これが、戦闘がトータルで30分も40分も立ってるとか、モンスターを長くほっておいたりした結果でいなくなるならまだわかる。ところが、トータルでもそんなに時間がかかってなくても、戦闘の最中でもいなくなる。
探索という死亡が無いモードだからこそ、お遊び装備とか縛り装備で遊びたいのに、むしろ探索の方がガチで速攻撃破をしいられるというのがつまらな過ぎる。
別に、ここで乱獲して素材を集めたところでゲームバランスが崩れたりしないだろうに。
今回の救難システムはすごいいいシステムだと思っている。待ち合わせしてからクエストするよりも、その時々でのメンバーでのプレイができるのは楽しい。
ただ、救難で途中参加になるとどういう人が一緒に戦ってくれたのかがわからないことが多い。戦闘中は他の人の姿とかをじっくりみたりできないし、クエスト終了したあとも時間が短いので見る時間がない。
なので、戦闘終了後にメンバーの集合写真的なのを表示してくれるとか、ギルドカードを表示してくれるとかしてくれると楽しいと思う。
あと、相手を知る方法がギルドカードの交換とかだけど、救難のときだと交換する時間がないのも微妙。ギルドカードを一方的に送るだけの機能じゃなくて、受け取る時に送り返す機能もあればいいのに。
-----
モンハンシリーズが変に不満ばかり囁かれるのは、開発者がゲーム自体をプレイしていないような感じがするからかなと思う。
MHWでもモンスターとの戦闘自体は流石に調整もあってやっているとは思うけど、ストーリーを通しでやるとか拠点での素材生成やバウンティをこなしながらの周回プレイとか、普段プレーヤーが行う戦闘以外の活動をプレイヤーの気持ちで触ってないんだろうなという感じがするのが残念。
これだけの物を作るのは凄い技術力で大変なことだろうなと思うものの、なんかプレイヤーの楽しさを考えていない感がしてしまうところが微妙だなと。
そんな中、元いたオケの関係者から、信じがたい発言が飛び込んできた。
「うちのオケは弦のレベルが低いから、仕方なく合わせてやってんだ」
と言い放ったそうな。
だって、晴れ舞台のタンホイザーでバテて伸ばしの音が転んでた奴らが何言ってんだ?
ブラ1終楽章のコラール、超美味しいはずなのに「ずーっと休みで、出番だと思ったら変な旋律吹かされるんだよー」とか、もし冗談であっても耳を疑う返答するセンスしか持ち合わせていないクセに。
元増田でも書いたけど、オケは元々弦の縄張りなわけで、そこに来てトロンボーンなんてレギュラーメンバーですらない。
音楽的に言ったら、低音の補強でベートーヴェンに見出されたから、その後オケでそこそこ使ってもらっている程度の立場なのに、身の程知らずも大概にしろよ。
大体、アマオケのトロンボーンは音が汚いんだよ。ダイナミクスはON/OFFしかないし、音が割れる勢いでバリバリ吹いてるのに満足しちゃって、音が全然飛んでないことに気づいてないし。
隣で吹いてるチューバや、音域がカブるせいでその汚い響きにかき消されるチェロが可哀想だわ。
そんな楽器吹いてるやつがオケを仕切るようになったら、どのみちそのアマオケはおしまいだ。
まあね、出番が少ない割に、アマオケだと月の会費は平等に取られるので、そこは美味しくないと思うよ。
でもさ、こっちに合わせないとして、やりたい曲は何?とか言ったら画家マチスとかプロコフィエフの5番だとさ。バカじゃねーの。
そんなもんできるわけねーだろ。
挙句「トロンボーンは神の楽器」だと?3人1組で教会の信号ラッパもどきの扱いだった史実を脚色しすぎてて全然笑えねー。
と、ここまで大嫌いなトロンボーンに喧嘩売ったついでに、高みの見物決め込んでいるであろう木管とホルンにも一言言っておくわ。
ネットで文芸をする人のことを、字書きと呼ぶ人がいるわけだが、嫌な呼び方だと思うし、間の抜けた呼び方だと思う。
そもそも字は書いてない。少なくとも書いてない。字は打鍵しているだけだ。
字を書くというなら、むしろ絵を書いてる人の方が、「字を書いて」いるはずだろう。
それをわざわざ字書きと言う呼び方をするのかと言えば、大元には「絵描き」と言うイラスト描き、マンガ描き呼称と対比させようと「字書き」と呼んでいるのだろう。
そう言った、絵描きを中心とした文化を基にして周辺を定義していく、その傲慢に似た無神経さにも腹が立つ。
とは言え、これは私が、腹に抱えた未熟児のような重さで、絵描きへのコンプレックスの塊を抱えているから腹が立つのだろうし、殆どの人は絵描きを中心とした呼称の対比にイラつきはしていないのかもしれない。
しかし、字は書かない。少なくともネットで文芸を発表する人は、字を書いているわけではない。
字を書くって文字面だけ言えば、小説や詩とかのことを指すより、「書道家」の方が適切だろう。彼らは確実に「字を書いている」。
もちろん、書道が大学の学部でいえば文学部に入るのは知っているが、言いたいことはぼやけるので省くが。
大体からして、字を書くというなら、小説や詩だけではなく、twitterをするのだって、ブログを更新するのだって、メールを打つのだって、「字を書く」に入ってしまうではないか。
文芸でやっているのは、字を書く事ではないし、字を打つことですらない。最重要ポイントは「字」ではない。
字は構成要素でしかないはずで、例えるなら絵描きでいえば、線書きと呼ばれるくらいの話だ。余りにも呼び方雑すぎる。
詩が作っているものは、旋律であり音であり、その表現したいものは字ではない。
小説の作っているものは、物語であり思想であり、表現したいものは字ではない。
字書きとは本当に何という嫌な呼び方だろう。字を書いているのではない、字ですらなくていい。表せるなら声でも良い。字は手段であって目的ではない。
それを字を書き連ねているだけと言うのは、まあ自分から言う分には良いだろうが、他人から定義されたくない言い方だ。
謙遜するなら、まだ、字書きと言うより無限猿とでも呼ばれた方が良い。少なくとも字を打っている。
以上を元にして、私は字書きと言う呼ばれ方が嫌いだ。字書きとか言う人間は滅びれば良い。
そんなことより増田はアルトパートを軽視してる感があるけど、アルトはいいぞ、なぜならその歌を知ろうとしたからこそ聴こえる旋律を自ら歌えるからだ
多分ソプラノが主旋律の歌を想像しているのかなと思いながら語るけど
主旋律はなんとなく聴く立場でも知ることはできる、でも実は副旋律に支えられているから楽譜以上に輝いていられるのだ、そのことにちゃんと気付けるのは副旋律を聴けるまたは歌えるものだけなんだ
すなわちアルトパートは練習するだけでその歌をもっと素敵に聴けるようになるお得なパートなんだ
熱く語ってうざくなってしまったけど最後にこれだけは主張したい、合唱や合奏はピアノ含め全てのパートが主役だから自分の音も周りの音もちゃんと聴いて存分に楽しもう
平日の、ギュウギュウというほどではないが、そこそこ混み合っている電車内。
俺の前方でスーツ男性がドアに向かい合う形でスマホのパワプロ(だと思う)やっていた。その隣にはまたスマホを熱心に見つめているこれまたスーツの女性。俺はその少し手前で『きれいな旋律』(2007)を聴いていた。
スーツ男はゲームの雲行きが悪いのか、同車してる間に2、3度舌打ちをしていた。本当はもっとしていたかもしれない。隣のスーツ女がびくっとしてスーツ男を窺い見てるもんだから何だと思ったら、スーツ男の舌打ちだった。
なんて損なんだと思った。
この男は自分の舌打ちが横の人を威圧していることに気づいてないか、気づいていても気に留めていない。
この男は単に不機嫌なだけだし(それはそれでいい)、その隣の女の人も単にツイてないだけだった。
ターミナル駅につくと、二人とも降り、別々の方向に歩き出した。