はてなキーワード: 劇場とは
かれこれ3年くらいmixi日記に嘘を書き続けている。マイミクは140人くらいなので、まぁ、ちょっとしたウソだろう。
どこそこでランチした、とか、こういうセミナーにいきました、とか、下北の劇場でなんとかをみました、とか、ブルーノートにいきました、とか。そういう嘘。ゆっくり私時間か!
コメントをもらってほくそ笑む。ほんとかよ! おまえは本物なんか! とモニターにつっこんだ回数はしれない。早起きして読書しました、とか素ででてくるんだよ? おいおいおいおいおい、フルーツグラノーラの袋に牛乳入れたらうまいかな、と考えてる私とは全然違うな、女子力というか、もうスワロフスキかお前らは!
全部嘘。
何かにつけてしょっちゅう教師や上司なんかに怒られている人がいる。
同レベルのミスは他の人もやっているのに、なぜかその人だけ怒られやすい。そして怒られて萎縮することによってまたミスを繰り返してしまう。
そういう人は毎回怒られるようなことをしでかして怒られているのではなく、なんでもいいから誰かに怒りをブチまけたい人にその矛先を向けられやすいんだと思う。
見た目や言動から、「気が弱そう」「言い返してこなさそう」「権力のある仲間がいなさそうだから気兼ねなく怒れそう」という雰囲気が見て取れるタイプ。
そんなタイプの人間に日頃のイライラをブチまけてスッキリしたい。そういう人のサンドバッグになりやすい。
まあそういう「怒りたい人」も「目をつけられやすい人」もどちらも共依存的な関係で結ばれているので、お互いに反目しつつも無意識では必要としあっているのでややこしい。
怒りたい人は大体他罰的で幼稚な思考を持っていて、実は気が弱く甘えん坊。幼稚なだけにちょっとご機嫌をとったり花を持たせれば簡単に転がすことが出来る。
目をつけられやすい人も他者依存的で怒られることが常態化し学習性無力感に陥っているので、何か一つでも得意分野があれば自分に自信ができ道が開ける。
毒親の関係性と似てるのかな。
まあとにかく職場にこの2タイプが居ると仕事がやりづらくてしょうがない。お互いに怒り劇場のヒロインとして自分自身に酔いしれているので肝心の仕事が進まない進まない。
当方40歳のおっさん。既婚&持ち。最後にアニメ見まくってたのは20代前半くらいで、それ以降は洋画&海外ドラマに移行。ただここ数年は家ではまともにゆっくりとテレビを見る時間の余裕がないので長時間の映画や海外ドラマシリーズをチェックするのがしんどくなってきた。そんな俺がアニメを再び見始めるようになったのは1エピソードが導入&歌を除いたら20分くらいで、おまけに最近はスマホアプリからでもストリーミング配信で見れるようになったのでジムで立ち漕ぎしながら見るにはちょうどいいコンテンツになってきたとこですね。(いや高画質アニメ制作してくださってるクリエーターさんには申し訳ないんですが、まじで自宅テレビで俺しか見ないアニメをゆったり楽しむ暇なんてないんです。すみません)ちなみに40歳の子持ちになるとジムで他の人がいる中でスマホでアニメ見るのにもなんの抵抗もなくなってきます苦笑;その程度なら周りにどう思われててもどうでもいいです。それよりストレス解消!
「シドニアの騎士」
ここ最近のアニメじゃ一番満足できた。マクロスの焼き直し程度と思ってたけど、デザインやら設定にいくつかフレッシュなアイデアが加わって新鮮なSFアニメとして楽しめました。CGトゥーンシェーダーでここまで人物の感情まで表現できるようになったのは感激(「アップルシード」がイマイチだったため)。ただアニメだからしょうがないんだけど、主要登場人物がみな若いため、普通の軍隊活劇ではありえないようなアホな理由で仲間の足を引っ張ったりするのが多少ノイズになりました。
「攻殻機動隊 ARISE」
素子さんも若かりし頃は簡単に敵の罠にかかったりハッキングされたりドジっ子だったんですねと感慨深いといえばいいが、前の「攻殻機動隊シリーズ」はおれが最後にハマったアニメシリーズだっただけに新シリーズはいまいちテンションが上がりきれない。まだ続くようだから今後はもっとよくなるのかしら。キャラクターやストーリーがしっかりしてるのはさすが。個人的には成熟した大人がちゃんと活躍する話は見ていて一番しっくりきます。
絵的には満足度たかい。話も旧シリーズの延長線上で悪くないんだけど、話の設定とか絵的のギミックとかがしっかりしてる反面、後半の話が主人公の子供二人のガキの理想論で進みそうなのが富野さん的ではあるんですが僕的にはキツイ。もっとゆるふわSFだったら子供の理屈で進めてくれてもいいんですけどね、なんか設定がしっかりしてくると逆にそこがノイズになってくる。まぁ僕がおっさんになったのが一番の原因なんでしょうね。
いまんとここんな具合ですかね。一時期話題になってた「らき☆すた」や「けいおん」も試してみたけど最初の1話途中でダメだったんでパス。「新エヴァ劇場シリーズ」はさすがにこれをジムで立ち漕ぎしながら見るのはきついので保留。
20分ちょいで楽しめるのがいいと言いつつ、ARISEやユニコーンは60分たっぷりあるので2回にわけないと見きれないんですがそこは置いておいてください。20分って見やすくもあるんですが、やっぱ反面ストーリーの描写が浅い感はいなめない。まぁ濃厚な海外ドラマばっか見て敵味方いりまじったドロドロドラマに慣れてたんで、そこと比べるのは酷かなと。
次に見るアニメでは「サイコパス」ってのに興味あるんですが、ちょっと不安なのはこれってただ単に最初からキチガイのサイコパス犯罪者相手に戦うって内容なんですかね???僕は「生まれついてのキチガイ犯罪者」モノよりも、「最初は普通、善良な人だったのがやむなく犯罪に手を染めてどんどんドス黒くなっていく」っていう展開が好きなので(海外ドラマだとBreaking BAdやHouse of Card)、前者だったらちょっと物足りないのでパスしようかなって迷ってます。誰かネタバレしない程度に教えてください。あとこんなめんどくさいおっさんでも楽しめそうなアニメシリーズあったら教えてください。
「これは映画館で見たほうがいい映画」といううたい文句が差すものが万人でバラバラすぎてそのうたい文句が包含する映画群がずんずん拡大しつづける現象があたしはとても好きだったりする。
『ゴジラ』は映画館で見たほうがいい、『パシフィックリム』は映画館で見たほうがいいと聞けばなるほど迫力のある映像表現・音響表現がある作品は映画館でみるべきだよと言っているのかなと思う。
『her/世界でひとつの彼女』は映画館で見たほうがいい、『怪しい彼女』は映画館で見たほうがいいと聞けばふむふむヒューマンドラマは映画館で見るべきだと言っているのかなって思う。
はたまた『TOKYO TRIBE』は映画館で見たほうがいいと聞けばほうほう時代性を反映している映画は生ものだから映画館で見るべきだという話なのかなと思ったりもする。
そうやって「これは映画館で見たほうがいい映画」が指す映画たちの特徴がどんどん広がっていって、最終的にはすべての映像が体験が事象が映画館で上映されるモノに思えてくる。メロドラマが冒険活劇がジュブナイルが映画館で上映されるものなんだって思っちゃう。携帯のラプス映像が、仔猫のジャンプが、秋の夕暮れが映画館の中のものになってしまう。あたしたちの日常が劇場になる。
……みたいなどーでもいいことを妄想していると毎日がとっても楽しいものに見えてくるのです。はいはいすみませんね。楽観主義者はたちが悪くて。
降ってきた仕事が達成できないと判断した時には、きっぱり断ることができていた。
そして、部下や同僚に対してキツかった。
できないメンバーがいると怒り、文句があると他の社員から話が聞こえる場所でもお構いなしに説教劇場を繰り広げた。
当然の理由があったのだと説明しても、相手が悪いという結論で押し切るまで説教し続けた。
負担がかかっているメンバーに更に負担をかける事にも躊躇がなかった。
そして賑やかなのを嫌い、同僚や部下が雑談でもしてようものなら、必ず文句を言った。
そのオフィスは、いつのまにやら水を打ったように静かな職場になった。
皆、彼を半ば恐れていた。
それでも仕事は達成した。複数の案件を掛け持ちしても回してのけた。
彼は会社を蝕む癌だった。
厳しいが結果を出すリーダーと言えば聞こえがいいが、
そんなリーダーの下で誰が働き続けたいと思うだろうか。
3回や5回、転職した所で経歴の傷にもならない。
技術さえ身につければどこへでも行ける以上、嫌な相手の下で働き続ける選択肢はない。
それでも働き続けるのは、転職するだけの技術を持っていない人や、年齢的に転職がアウトの人だけだ。
優秀な人材ほど、短期間でやめていく。
そういう業界で会社を育てたければ、優秀な人材が辞めようと思わないくらいの待遇を用意するか、
辞める数だけまた優秀な人材が入社してくるような環境を作るしかない。
そんな業界で、「一緒に働きたくない人間が幅を利かせている」というのがどれほどのマイナスか。
実際、その職場で育った若手はすぐ辞めた。育ってなくても辞める人間も多かった。
私は彼の下で働くのは二度とゴメンだし、転職した理由の1、2割は、この先何年も彼のいる職場で働きたくなかったからだ。
先月末にアナと雪の女王を見に行ったら本気で辛くて吐きそうになった。理由について二週間ほど色々と考えてやっと何とか形になったから吐き出してみる。内容自体にはあまり言及しないので見てない人には分かりづらいかもしれないけど、もうDVDやBDも販売されてるから気になる人は買って見てください。
姉のエルサには雪?氷?冷気?ともかくそういうものを操る魔法の力があるが、ある日不幸にもその力で妹のアナを傷つけてしまう。怪我自体は平癒するが、アナの中の魔法の記憶は操作によって改変され、エルサは魔法の力を抑えて行使しない事を要求される。しかしエルサの力は強大になる一方で、手袋で何とか抑えこむしかない状況だった。
幼少期こじらせコミュ障としてこの辺りでもうだいぶつらい。この場面でのポイントは2つ、「幼少期の失敗」と「自己否定の強制」にある。幼少期に大きな失敗をして常にその失敗に絡む自己否定を強制され、また両親もその失敗に対するフォローが出来ないどころか自発的自己否定を遠回しに要求する。父親の「力を抑えるんだ」と、エルサが「手を触れたら怪我させてしまう」と言った際に怯えながら手を引っ込めた母親の姿で開幕わずか数分でもうトラウマで吐き気が止まらなかった。
時間は流れ、成長する過程でも力は制御出来ないほど強力になって行った。しかしある時、国王である両親は船旅の途中で帰らぬ人となってしまい、王位継承者は姉のエルサとなってしまう。そして事故から三年、ついにエルサは女王として戴冠式の日を迎える。
ここもだいぶ辛い。ここでのポイントも2つ、「状況に新しい手は打たれなかった」「状況は悪化の一途を辿った」という点だ。例えば両親の船出前のシーン、アナは屈託なく両親に抱きついてるのに対してエルサは膝を折って距離をおいているあたり、この他者からの救済のない状況は幼少期から改善される事無く続いたと思われるし、ただ力を使わない、抑えこむだけじゃなくて適切にコントロール出来る様にするといった改善は無くただひたすら門と窓の閉ざされた城の中で時間だけが過ぎていってしまった。一方で力はひたすらに強く、制御できなくなる一方。
そんな状況でも女王として戴冠式をを執行する必要があるため、13年閉ざしていた城門を開いて戴冠式を執行する。何とかつつがなく終えたと思ったら、妹がパープリンな事を言い出したがために力が暴発してしまい、エルサは遁走する。
ここのポイントは1つだけ、「時が流れると、自分の状況はお構いなしに周囲は様々な物を要求される」という点だ。エルサはどうしても自分の力を抑えることが出来ない状況になっている。しかし、その中で出来うる限りの工夫をして戴冠式というイベントをつつがなく進める為に繊細な注意を払って式次第を進めていっていたが、自分の力のせいで取り返しがつかない失敗をしてしまう。これは、コミュ障的には「幼い頃から抑圧していた心理的な要因が原因で、大きな場所で取り返しのつかない失敗をしてしまった」という風にしか読み取れない。
今回一番つらい気分になったのがここ。Let it go自体は映画を見る前からYouTubeの公式チャンネルで英語版日本語版の両方を聴いてた位には気に入っていた歌だったんだけど、実際に劇場で見た後は本当に見るのが辛い曲になった。日本語版の歌詞だと「ありのままの自分になるの」と言ってるけど、その後の映画の展開を見る限り全くありのままでもなければ変わっても居ないし、自分を好きになれても居ない。はっきり言ってしまうと、これは力の暴発でインターネット上の文脈での「無敵の人」になってしまったエルサが、やけっぱちになっている以上の意味はない。そもそもlet it goと言ってしまっているのだから、自分で力を抑圧してまで守ろうとしていたありとあらゆるものに対しての強力な離別のメッセージだ。これが「無敵の人」化でなくて何だろうか。
それじゃあどういう風に結末がつくのかと言うと、色々あったけど姉妹の真実の愛が凝り固まった氷を溶かした、という結末になる。実際そういうオチなのでそれ以上言う事がない。
とまぁここまで映画の流れを見た時に、翻って自分の事を考えた時にどうなるのか、と言う風に考えると非常に暗澹たる気分になる。幼少期に色々とこじらせたまま改善をする機会なく歳だけを重ね、しかし現実は非常にも多くのものを要求する。幸い今は大きなミスをしたことはないけど、ふとした機会に自分のこじらせてる何かのせいでとんでもない大失敗をやらかしてしまって「無敵の人」になるとも限らない。しかしその一方で「無敵の人」になってしまった後にその状況から救い出してくれる真実の愛は全く存在しない。
はぁ。もうどうしたらいいのかすら分からなくなってきた。
そこにゴジラのたまごというモニュメントがあったことを知っているだろうか。
それが出来たのは1988年で僕が生まれるよりも前のことだ。
幼い頃ほとんどの子供がそうであるように僕もゴジラに夢中だった。
正確に言うと平成モスラの1作目がきっかけだったし、ウルトラマンも大好きだったので厳密には特撮モノなのだが。
ともかく、そんな僕のことを父親はゴジラのたまごのところまで連れて行ってくれた。
当時の僕は子供だったので、劇場で観たモスラのことを引きずっていたのか、そのモニュメントは「モスラのたまご」だと勘違いしていた。
観に行った記憶、観て思ったこと、そのどれも正確に覚えていないが、僕の中では「父親とモスラのたまごをみにいった」という記憶として定着していた。
そして時は過ぎて、大学生になった僕は東京の大学に進学し、映画のサークルに入った。
ある夏休み、サークルの同期(年齢的には先輩)が僕の地元に遊びに来ることになった。
僕の実家に2泊ほど、映画をみたり議論をしたり、色々したのだが、結局暇を持て余してしまったので僕はモスラのたまごを観に行こうと言った。まぁその時まで間違いに気づいていなかったのだけど。
しかしながら僕の言うところのモスラのたまご、つまりゴジラのたまごは1997年、放火によって撤去されている。それが決定的だっただけで、それ以前にも落書きなどあったようだが。
僕は勿論そのことを知っていたので、わざわざ観に行ってもそこにたまご自体は無い。それは同期にも伝えたのだが、それにも関わらず僕は同期と二人でそれを観に行くことになった。
実際たまごがあった場所につくと、案の定始めて来たような感覚だった。川沿いあるたまごがあった場所には当然だが観光客などはおらず閑散としていたのを覚えている。
車で入れるぎりぎりにつけて、進んでいくと、そこには断層がむき出しになった土の壁で囲まれていた。
入口にはかつてここにゴジラのたまごがあったけど撤去されたよという恨み節にもとれる文言が書かれた看板が置いてある。
僕はそこに来てようやく「あぁこれはモスラのたまごじゃなかったんだな」と気がついた。
まぁそれなりにはショックではあった。覚えていないとはいえ、僕の中では一応思い出として成立していたことだ。
僕の中にあったたまごはその時、物理的にも精神的にも無くなってしまった。
僕がこんな何もない場所にわざわざ連れてきてしまった同期に対して申し訳ないと考えながら彼の方を見ると、彼は持ってきたビデオカメラでなにやら撮影していた。僕は彼に近付き、「モスラじゃなくてゴジラだったみたいです。」と伝えた。
彼はただ、あぁそうなんだと答えた後でこう言った。
僕がなぜ、と聞き返すと、彼は大体こんな感じのことを言った。
ゴジラは海のイメージがあるけど、ここには海から繋がる道がない。そんなところにわざわざたまごは産まない、だからモスラ。
彼が何を思ってそんなこと言ったのかわからないが、今思うと僕にとっては嬉しい言葉だったのかもしれない。
僕はそれならラドンでもアンギラスでも一緒だろうと言いつつ、自分たちが今いる場所から顔をのぞかせるモスラの幼虫は正直かわいくて、悪くないと思っていた。
帰りの車中で彼ともしゴジラをつくるとなったらどういう話にしたいか尋ねると、彼は1作目みたいなものにしたいと答えてくれた。僕の方は多分モスラを出すとだけ言っておいた。
ゴジラのたまごが心ない人の放火で破損してしまった。それ故に展示しておくのは不可能だと判断した。
今現在のゴジラシリーズの置かれた状況を考えるとそれはなるべくしてなったことなのだろうと思う。
過ぎたことをどうこう言うつもりはないが、壊れる時は存外あっさりしていて、過ぎてからその重要さに気づくことなんて生きてればザラにあるだろう。
例えゴジラが子供たちに夢を与え続けていたとしても、たまごは多分壊れてしまう。事故だとかなんだとか壊れないでと望むことがそもそも贅沢なのかもしれない。
でも、今の僕はあそこにあったのはひょっとしたらモスラのたまごなのかもしれないと思っている。僕の思い出の中には父と観に行ったモスラのたまごというねつ造された記憶がはばをきかせている。
多分嘘なんだろうけど、どこかにホントがあるかもしれない。僕が物語ることから離れられない理由はその辺りにあるのだろうか。
おまけ
正直期待値は超えなかったのだが、そのことに少しばかりの安心も覚えている。
やはり最高のゴジラ映画は日本がつくるのだと、その余地が残っていることは下衆なようだが、正直嬉しい。
それほどまで話題になっておらず、日本でまたゴジラが観れるかというと、期待薄ではあるが、もしその時がくるならば僕に本を書かせてもらいたい。
こんなこと公に言えることではないので、匿名で、しかもおまけという形で言わせてもらった。
ともかく、「僕とゴジラ」っていうテーマだったら日本には腐るほど面白いエピソードがありそうなので、そういうものがあればみたいものである。
そして、僕の世代がどうあがいても手に入らない当時の思い出から新しいゴジラが生まれる日を僕は一ファンとしても楽しみにしている。
以上。
http://anond.hatelabo.jp/20140108194144
監督がどうだとか、演出がこうだとか、主演俳優の演技がどうだったとか、そんな話はいったん脇に置いて。
「燃えよドラゴン」をリアルタイムで見た年配の方々が、口々に話すのは、必ずしもブルース・リーの格好よさではないはずです。
彼らが楽しそうに話すのは、肩をいからせながら劇場を後にする観客の姿であり、少ない小遣いを握りしめてヌンチャクを買いに走った幼い自分自身の姿。
「単純に面白かった」映画の上半期ベストとは別モノとお考えください。
第5位 ゼロ・グラビティ(2回目)
第4位 ウルフ・オブ・ウォールストリート
第3位 アクト・オブ・キリング
第2位 ロッキー・ホラー・ショー
委員長(女)と鑑賞。学生時代はいつもツンと澄ました表情を崩さず、どこか近寄りがたい雰囲気だった同級生(当時クラス委員長)(美人)(三つ編み)と、同窓会で再会 → ホラー映画話で盛り上がる という夢のようなシチュエーションを経て、ホラー映画友達に。2013年中は、これまで一人で観に行っていたホラー映画を、委員長(仕事中だけ眼鏡をかける)と一緒に観に行くという、もし学生時代の私ならその場で卒倒してしまいそうな、夢のような時間を過ごしました。つまんなかったな、死霊のはらわた。面白かったな、キャビン。映画の終盤の大虐殺シーンときに目が合って、満面の笑顔だったことは一生の思い出。
しかし、楽しい時間はいつまでも続きません。2014年早々の飲み会の席で、「年末に彼氏ができた」「彼氏が嫌がるかもしれないので、一緒に映画を観に行くのは控えたい」という旨を委員長より告げられます。悲しいけれど、仕方ない。
「じゃあ最後に、普通に面白い映画を観に行こう」と誘って観に行った映画が『ゼロ・グラビティ』。私は2回目の鑑賞でしたが、面白い映画は何回見ても面白い。さみしいけれど、さようなら委員長。
奥さん(スイーツ)と鑑賞。彼氏彼女のころは昔は一緒にホラーやスプラッターも観てくれたのに、今では「王様のブランチで紹介される映画しか観たくない」と言い張るようになった奥さん。『ウルフ・オブ・ウォールストリート』も、事前に予告編や前評判を観て「これは『グッドフェローズ』の方のスコセッシやな・・・?」と判断し「奥さんと観に行く映画リスト」からは早々にはずしていたのですが、「王様のブランチで紹介されていて、とてもおもしろそうだった」という奥さんの強い希望で一緒に観に行くことに。今回ばかりはありがとう、王様のブランチ。
鑑賞後「もしかして、やっちゃったかな?」と不安に思いながら、恐る恐るに感想を聞くと、意外なほどの高評価。今でも、奥さんの中での評価は「『アナと雪の女王』より『ウルフ・オブ・ウォールストリート』。『LET IT GO』より『マコノヒーのチェストソング』」とのこと。「んーんー、んーんー」って歌いながら夕食の準備をする奥さんかわいい。
「もしかしたら今後は、付き合いはじめた頃みたいにアメコミ映画も一緒に観にいってくれるかも?」と淡い希望を抱き、後日ためしに『X-MEN: ファースト・ジェネレーション』を自宅で一緒に観たところ、途中でいびきをかいて眠りはじめました。
高校友人(男×2)と鑑賞。それぞれ個別に食事に行ったり遊んだりすることはあっても、3人そろって会うのは久しぶりだったため、妙に緊張したことを覚えています。少し早く劇場についたので、上映前に学生時代の思い出話に花を咲かせたのち、並んで写真を撮りました。学生時代からはつらつとしていた友人は、今でも若々しく。おっさんじみていた友人は、よりおっさんに。
携帯で撮った写真を見ながら『変わらないものなんか/何ひとつないけど/変わるスピードが/違ったんだなあ』というクロマニヨンズの歌が頭をよぎります。
映画を観た後は、完全に圧倒されてしまい、会話もそこそこに、つけ麺を食べて解散。ベトナム・マレーシアで仕事をしている友人の「現地の人を見る目が、少し変わるかもしれん」という一言が印象的でした。
初見。「『ロッキー・ホラー・ショー』はコスプレをして騒ぎながら、観客が一体となって観るもの」と事前に見聞きしていたので、「昨年の『パシフィック・リム』のように、映画館が一体となって鑑賞したような気分が味わえるかもしれない」と思い、ガチガチにコスプレをして会場に赴いたところ、持ち込みでコスプレをして映画館に来るような頭のおかしい一般客はおれだけだったため、上映中、かつて経験したことのないような孤独にさいなまれました。
好事家たちの間で熱狂的支持を集めるVシネマシリーズの劇場版。委員長(女)と鑑賞。「委員長ともう一緒に観に行くことはない」と言った舌の根が乾かないうちに、ダメモトで誘ってみたところ、まさかのOKが出ました。「どうしても観たいから、彼氏は説得した」とのこと。さすが、Jホラーファン。ほん呪シリーズコンプリートは伊達じゃありません。覚悟が違います。
劇場につくと、そこはホラー映画Tシャツを着た男性客率が非常に高い異空間。twitterアイコンをプリントしたTシャツを着ている剛の者まであらわれるという異様な雰囲気の中、映画が始まると、予想外の展開の連続に、劇場は揺れるような歓声と爆笑に包まれました。終盤の想像を絶する超展開に、委員長が思わず「どうなってるの、これ」と笑いながらつぶやいていたのが印象的。上映中、こっそり横顔を覗き見すると、委員長は本当に楽しそうに笑っていました。今度は振り向いてはくれなかったし、目が合うこともなかった。
上映後、食事をしながら近況について尋ねると「付き合ってから最初に観に行った映画は『永遠の0』」とのこと。彼氏の一番好きな映画は『アルマゲドン』。委員長の一番好きな映画は『エクソシスト』。それでも委員長は彼氏にべたぼれ。がんばれ、負けるな委員長。
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今年も残り5か月。誰と映画を観に行こう??
他のアイドル界隈がどうなっているのか私はしらない。
そしてこれから書くことはシステムの話ではなくて、感想文にすぎない。システムについて興味が出た人はグーグルに尋ねるかお近くのヅカヲタまでお問い合わせください。
タカラジェンヌが公演や、公演のためのお稽古に向かう時に所定の場所で待ち、やってきたタカラジェンヌにお手紙を渡す。
公演は細かいことを全部外してしまえば大きく分けて、宝塚大劇場(以下ムラ)と東京宝塚劇場(以下東宝)で行う。ムラでは公演のお稽古も行われておりそれは「お稽古待ち」という。ファンは公演を観る予定もないのにこの「お稽古待ち」の為にムラまで通う。片道1時間以上かかるファンなんて、たくさんいる。それでも、タカラジェンヌと会う一瞬の為に平気で通う。たまに自分で何やってるんだろうと虚しくなるけれど、虚しくなったら負けである。
東宝は所定の場所に並びお手紙を受け取ったらタカラジェンヌにそのまま「いってらっしゃーい」とお見送りする。タカラジェンヌが通るたびにしゃがむ大量の女性たち(時たま男性)はいつみても壮観である。
ムラだと所定の場所でお手紙を受け取ったタカラジェンヌは楽屋口までそのファンを引き連れてやってくる。そして、楽屋口で「いってらっしゃーい」とお見送りをする。大量のファンを引き連れて楽屋口まで歩いてくる男役スターをみると「うをぉぉぉ!!スター様が歩いてくるぞぉぉぉ!!!」と興奮する。ファンをたくさん引き連れているタカラジェンヌはそれだけで神々しくみえてくるし、圧巻で楽しい。
スターさんによっては「お隣歩き」と言ってこの所定の待機場所から楽屋口までお隣を歩いてタカラジェンヌとお話しできてしまうシステムがある。楽しそうにファンと話をしているスターさんをみながら「なんて優しい人なの!!」と勝手に感動することもよくある。話の内容なんて、当然聞こえやしないが。
以上穴だらけの入り出説明。ちなみにこの入り出は会を登録しているタカラジェンヌにのみ適用されるシステムである。まだ会登録していないタカラジェンヌはまた別のしきたりで入り出があるのだが書いていたらキリがない世界なので放置する。
この入り出。したいと思ってすぐに出来るものではない。まずはその生徒の「ファンクラブ」に入らなきゃいけない。この「ファンクラブ」は「非公認」のファンクラブなのだけど、宝塚システムに置いて凄く大きな位置を占めている。非公認の癖に「@@ちゃん会立てたんだって?」「うん、劇団に立てろって言われたらしいね」「そっか。まだ下級生なのに大変だねぇ」みたいな会話がヅカヲタの中ではよく繰り広げられる。繰り返し言う。ファンクラブは非公認である。
このファンクラブに入ることのメリットとは色々あると思うけど(デメリットも正直あると思っている)大きく言えば「応援している人を明確にする形でチケットをかえること」「入り出が出来ること」なんじゃないだろうか。チケット難の公演でも会に入っていればなんとか観れたりもする。
けど、私がしたいのはこの話じゃないから、このシステムについて気になる人はお近くのヅカヲタまでお問い合わせください。
そう、入り出である。入り出。
私が今好きなタカラジェンヌ(以下贔屓)を好きになった時、ファンクラブに入ろうと思った。ファンクラブに入って、その人の名前を通してチケットを買って、お礼状貰って、その人のお茶会(トークショーのようなもの。一種のファンミーティングイベント)に参加できればうれしいと思っていた。
入り出なんてしたいと思わなかった。
だって、怖いじゃん!?自分がいかにその人を好きか書いたお手紙をちょくせつ本人に手渡しするんだよ!?ホラーじゃん!!って真剣に思っていた。
憧れは憧れの存在のままでいて欲しかった。お手紙を直接渡すことが繰り返されるうちに、純粋な憧れは必ず憧れと違うものになると思った。それに、入り出(ガードともいう)する人が怖かった。宝塚の宗教じみた世界の一端はこのシステムが担ってるに違いないと思っていた。事実私の友人の一人は宝塚大好きで何年も見続けているが「ファンクラブなんてあるから宝塚が気持ち悪いところだと思われている」と吐き捨てた。だから、宝塚ファンがみんなこんなことをしているのだと思ってほしくは無い。舞台の上で輝いているタカラジェンヌをみることだけが楽しみで、公演を楽しんでいる人だってたくさんいる。入り出をはじめとした会活動は確かに不思議で独特なシステムであって、未だに奇妙だと思うこともあるけれど、私がこの世界に入ってしまったから非難することが出来ないだけだ。
私が宝塚を好きになってから仲良くなった人は、入り出をする人だった。
「おいでよ」
とその人は私と贔屓が違ったがそういった。
「入り出は楽しいよ」
正直、興味はあったのだろう。後を押されたのか、押されたという言い訳が欲しかったのか私は入り出にいった。同じファンクラブに所属している知らない人に挨拶をしながら贔屓を待ち、やってきた贔屓の目もロクにみられずに消え入りそうな声で「オハヨウゴザイマス」と告げながら私はその場から消えたかった。見慣れた顔の中に知らない顔がいるからか、彼女は私の目をじっとのぞきこんだ、気がする。
もう、数年前の話なのであまり感想は覚えていない。覚えているのは誘ってくれた友人とお茶をしていたらその友人が楽しそうに「また来週も会おうね」と言ってきたことぐらい。その時は「行かないよ!?」「一度経験したのでもう満足しました」とその人に伝えていたのに、翌週には何故か私はそこに立っていた。
それから、毎週のように私はそこにいた。
何が楽しいのか、私は未だに分からない。あえて言うなら贔屓と会った後にファンの人同士やお友だちとするお茶が楽しいと言ってしまうかもしれない。長時間乗る電車の中でポストカードに手紙を書き、ムラについてから贔屓を30分以上待つこともザラだ。やって来た贔屓に「おはようございます」の一言だけを告げて、ほんの少し会話をやりとりして、楽屋口まで贔屓の背中をついていく5分足らずの時間の為に多くのことを費やしているという事実を数年かかっても未だに認めきれない。
おはようございますの一瞬で目を見てくれたかとか、笑ってくれたかとか、今日は機嫌が良かっただとか、なんだか疲れているみたいだとか、たった一瞬触れ合うだけなのにそういうことで喜んだり心配したりする自分が滑稽だと常々思っている。
贔屓と仲良くなんか、なりたくない。勿論ファンとして大事に思われたい。嫌われたくは、ない。でも、近付きたくは無いし、入り出をしてどれだけ時間がたっても私にとって贔屓は遠い存在だ。
笑い話みたいかもしれないけれど、私は入り出するようになってしばらくしてから友人に「贔屓に顔を覚えられてしまったかもしれない」と言って泣いた。贔屓をみるのは楽しかったけれど、贔屓が私の顔を覚えるのは耐えられなかった。贔屓が私の顔を覚えるということは、関係が蓄積していることに他ならず、それがいいことだとは欠片も思えなかった。送る手紙はいつだって適切なものとは思えなかったし、贔屓がそれを負担に感じていたらどうしよとばかり考えていた。
今は、贔屓がどう思っているかなんてわからないし、私がやりたいからやってるでいいんだよって笑っていられる。手紙も送りたいから送るのだ、贔屓に喜んでもらうために書いてるじゃないよと言い張ってる。時々それにも失敗しているけれど。
入り出はタカラジェンヌによって色々で優しく雑談をたくさんしてくれる人もいれば、視線も合わせずお手紙を回収してさようならの人もいる。たくさんお話してくれるタカラジェンヌの話を友人としながら「@@ちゃんさすがだよね」と笑いあうけれど、そこでガードすることはない。会のシステムが無くなったとしても、多分しない。私が入り出をしたいのは、贔屓だけだし、その贔屓が見せてくれる一瞬がどんな神対応よりも意味を持っている。
AKBの柏木由紀さんは握手会を「10秒の公演」と称したそうだけど、きっと宝塚の入り出も近いものがあるのだとそう思っている。
毎週5分の為に駆けつけて、直接お手紙を渡すことで愛が伝わっているのかは分からない。エゴだけが伝わっているのかもしれない。
それでも贔屓だけをみれる時間が嬉しい。舞台の上に立つ完全な男役ではなく、化粧を落し、ほんの少しだけ素の部分を見せてくれるその瞬間がたまらない。
少なくとも、贔屓が退団するまでは。
これでもう本当に終わり
律儀にもほどがあるだろwwwwwwwwwwww/ことここに及んでさみだれの名を挙げる人(自分含め)はもはや単にさみだれファンアピールをしたいだけだと思うので,存分にファン語りをしようぜ。昴ちゃんかわいい。
正直きっつい
ファン語りより、その気持は水上悟志さんに直接伝えたほうがいいと思うよ
ファンレターでも送ったりしてさ
ここのほうが好きなので
すごいこの増田!ちゃんとレスしてくれる!正直あんまりちゃんと読まないでジャイアントロボとかいってましたごめんなさい!だって長いんだもん!
まあ長いよね
しょうがないよね
ありがとね
レスくれんのはありがたいんだけどね
さっき勧めてもらったこれ(http://d.hatena.ne.jp/active_galactic/20080521)
読んだあとだと爆弾ひとつで惑星丸ごとぶっ壊す大変さがよく分かる
星壊すだけが最終目的になる奴が滅多にいないんだよね…。星壊して終わりってなると、大抵星に憎しみがあるんだろうけど、人間を憎んで人間滅ぼそうとする奴はたくさんいても、星まるごと壊す奴はいねーよな…。
そうなんだよねー
人間と人間が争って人間の存続の危機が発生することはすごくよくあるんだけどねー
そういうことも言いたかったんだよ
なんでもいいといったな?・・・よし!地球なくなってた。(ファフニールさん汎用性高い)http://www.mai-net.net/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=18&all=29606&n=22#kiji, http://www.mai-net.net/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=18&all=26231&n=17#kiji
だあああああかああああああああああああらああああああああああああああああああああ
なんでもよかないしいいいいいいいいいいいいいいいい
もうね、今さらもう何も言えんわ
やっぱそういうことなんだろうね
全レスの大切さを身にしみて実感した一日だった
アフタヌーン系はまだまだ沢山引き出しありそう
さっきのミカるんX的なやつなの?
やっぱり物理的に地球壊すレベルまで律儀に書くには、1) 隕石衝突とか地震の一発アイディア系 2) オーバロードとかの超越者系 3) 民衆コントロールで群像劇系、あたりになるのかと思う。ニッチであるSFの中でもニッチな
そうなんだよなぁ
SF界広しといえども物理的に徹底的に地球ぶっ壊そうっていうのは意外に少ないことがわかった
どう考えてもそれは苦行だろ
作品をコピペする作業だけでもしんどすぎて誰もやりたがんねえと思うよ
ここが一杯になったら全レスは終わりにする
もう読んでんのよ
一つ思い出した。黒後家蜘蛛の会の「終局的犯罪」ホームズのモーリアティー教授が書いた論文「小惑星の力学」は実は…と言う話。実際には壊してないけど、教授の考えはブログ主に近いだろう。
そんな名作に隠れてたのかよ
そういうのは鬱々とする
”地球破壊作品”の続き。FOX Animation studioを壊滅させた「タイタンA.E.」が、劇場に行った人からもディズニー作品と思われてる所に本当の破壊力を見た(僕も当時劇場に行ったクチ)
あああああああああああああああああああああああああああ
恥ずかしいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい
穴があったら貝になりたいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい
もおおおおおおおおおお14年越しの衝撃の事実だよ
罪と罰やらなくちゃ
なんかスケボーみたいのでツーっと滑ってたイメージがあんだけど
たぶん全然違う気がする
人力検索か小町でやれ。「木っ端ミジンコ」って何だそのセンス。「惑星のさみだれ」は増田の欲求を条件的に満たさないから後で「騙された!」とか騒ぐパターン確定
思うさま吐き出してスッキリしてくれ
おわり
「ガンダムUC」の最終話ついてちょっと書きたい(ネタバレあり)。
最初に立場を明らかにしておくと、増田は、典型的な富野信者であって、ガンダムプロレスにはあんまり興味がもてない人間だ。バイアラン・カスタムとかシュツルム・ガルスのトコとか、こんな意味ねーシーン全部削って、会話に尺まわせよと怒っていた。そーいう面倒くさいやつが書いたもんだという前提で読んで欲しい。それと後半は電波。富野信者なので。
で、この「ガンダムUC」、MSチャンバラについては絶賛されているが、ストーリーの方は賛否両論がある。だが私は批判することに意味があるのかと当惑している。こーいうのは、主張者が主張した内容をマジに信じている、という前提がなければ、なりたたない。私は、そこが信じられないのだ。
「UC」最終話を劇場で見て愕然とした。「送り手はこの物語のメッセージをまるっきり信じていないのではないか」と衝撃を受けた。この作品に対して、茶番だの陳腐だの説得力がないだのただの二次創作だなどと言うのはいいが、それを一番、自覚しているのは送り手自身なのではないか、という疑念をぬぐえずに今に至っている。
どういうことか。
「ガンダムUC」というのは「ラプラスの箱」という秘密を廻る物語だ。
これはほとんどマクガフィンに近く、中身は実はどうでもいい。とにかくこいつが連邦の中枢により隠蔽されたことで、宇宙世紀の歴史(とニュータイプ思想)は歪み、1stガンダムから「逆襲のシャア」まで続く戦乱の歴史が巻き起こることとなった。しかし歪んでいようが何であろうが、百年続けば、それは秩序の一部となってしまっている。
既存の秩序の維持するため、「箱」を隠蔽するか? 混乱を呼ぶとしても、「箱」を公開するか?
少年たちは後者を選ぶ。たとえ波乱の未来を到来させるとしても、「不正義による秩序」より、勇気を持って「正義による未来」を選ぶ。物語が描くべき正しい選択、正しい若者のあり方だと思う。
かくして宇宙世紀は箱の呪縛から解放される。人の革新=ニュータイプ思想のもと連邦とジオンの戦いが形を変えて繰り返される不毛な連鎖から解き放たれる。これはもちろん、終わることを許されず、次々と続編を創ることを余儀なくされたガンダム産業の比喩でもあり、だからこそガノタの胸に響く。
もちろん、我々ガノタは、その選択の先に待つ「F91」や「V」の時代が、必ずしも希望に満ちた未来でないことを知っている。だが、そうだとしても、「これまでと同じことをひたすら繰り返すだけ」より「失敗覚悟で新しい世界を創る」ことを選択した若者たちの決断は、とても尊いものとして描かれる。
それを見届けて、シャアもアムロもようやく成仏する。一年戦争の呪いから宇宙世紀が解き放たれた瞬間である。
富野信者が、勝手なことしやがってと怒るのはわかるが、しかし、ともかく、それがこの映像が発したメッセージなのだ。
だが、恐ろしいことに、劇場で上映されたこの作品は、実に4年間、7巻かけて書いた結末を、直後にみずから全否定するのだ。スタッフロールが終わり、何が始まるか。
突然に、1stガンダムのリメイク、「機動戦士ガンダムORIGN I」の予告が始まるのである。
http://www.gundam-the-origin.net/
「一年戦争の時代」からの解放をテーマにした物語のラストで、唐突に「一年戦争」がリメイクされますよーと嬉々として宣言されるのである。よーやく成仏できたシャアは30分待たずに現世に呼び戻される。この予告編は意図的に、映画「機動戦士ガンダムⅠ」の予告に似せて作ってある分、余計ループ感は強い。
唖然とした。個人的には「UC」7話はそこまで引き込まれるものではなく(イデオンネタは超大喜びしたけど)、「及第点」ぐらいの印象だったが、それでも感動を返せ、という気になった。本篇終了後即座に全否定される映画なんて聞いたことがない。一体、原作者や監督やスタッフは、どうしてこんな暴挙を認めたのか。本当にそれでいいのか。このあたりの意思決定の構図はよくわからないから、とりあえず「送り手」と一緒くたにする。ともかくこの送り手が、自分で発した「箱の解放」とか「一年戦争の呪縛の終結」とか「歪んで腐敗した旧体制から混乱覚悟で新しい時代へ」なんてメッセージをまるで信じていないし尊重する気もないことだけはあまりに明らかだ。
新しい時代なんて創るつもりはないよ。
え? じゃあ「UC」はなんだったのって? ほらわかるでしょ、本音と建て前ってやつですよ、おたくもニュータイプだったら察してくださいよ、ねぇ。ほら、キュピーン! って。
これはそういう宣言だ。
ハルトーシ少年は継承した「富野の箱」を手みやげにサンライズ財団の重鎮となり、バンダイム・エレクトロニクスのガンプラを売る人になりました……それが4年かけた「ガンダムUC」の結果です、と言っているのだ。おかしいですよ晴敏さん! そんなの富野信者の晴敏さんの言うことじゃないですよ!
そんなわけで「UC」の内容についてまともに批判することの意味を私は見失った。だって送り手が、自分の語った物語を信じてない、それどころか一番ひどい形で全否定を行ってしまっているのだ。今更何を言っても単なる死体蹴り、いや、それどころか、そのような批判こそ、送り手はむしろ望んでいるのだとさえ思えてくる。
つまりこういうことだ。
メチャクチャ単純化すれば「UC」での賛否両論というのは、ガンプラオタクと富野信者の対決である。前者はとりあえずMSVが一杯出てくれば喜ぶし、後者は富野神の書いた聖典に他の誰かが一筆書き入れることなど許さぬと批判する。ガンプラオタク濃度が濃いヤツは「UC」肯定するし、富野信者濃度が濃ければ「UC」否定という話だ(繰り返すが、メチャクチャに単純化すれば、である)。
だが、両者は本当に対立しているのか? 前者の主張は「ニュータイプ思想とかどうでもいいから新しいMSV一杯出せ」であり、後者の主張は「下銭な二次創作者如きが富野神のニュータイプ思想(宇宙世紀史でもいいが)に手を触れることなど一切まかり成らん」である。
この両者は必然的に「永遠に一年戦争の外伝だのリメイクだのを作り続ける」という結論に帰結するしかない。前者は積極的に、後者は消極的にそれを肯定する。そして送り手もまた、それこそを望んでいるのはすでに見たとおりだ。
そうしてガンプラオタクは送り手の造ったMSVのプラモを買い続る。富野信者は彼らを嘲笑うことで「自分こそ富野神の思想を守り続ける孤高のニュータイプ」という立場を確保できる。
しかし、私は富野信者として、そこに安穏とすることはできぬ。そんなことをすれば脳内カミーユ・ビダンが「あなたはいつも傍観者で、人を弄ぶだけの人ではないですか!」とスイカバー突撃をかけてくるからである。散っていたお禿様の髪に顔向けできぬからである。富野信者であるということは、富野を聖典とすることではなく、富野のように生きることだと信じているからである(だから、今度の「Gレコ」だけが本当のガンダムなんですよ、という立場にも私は立つことができぬ)。
(大人しくガンダムを卒業すればよいのはわかっている。それができれば苦労はしないのだ!)
ガンダムはロボットアニメでありサブカルチャーである。ガンダムはビジネスとの兼ね合いの中でしか生まれこないし、それこそがガンダムの強さ、ガンダムの同時代性の源であることは、絶対に否定できない(ガンプラ売りに徹した「ガンダム」は嫌だが、押井守映画のような文学モドキの「ガンダム」なぞもっともっと嫌だ)。
だからハルトーシ少年だって、私が↑で書いたことは百も承知かもしれない。きっと彼は叫ぶだろう。
「やりました、やったんですよ、必死に! その結果がこれなんですよ! 映画の「ローレライ」(と「戦国自衛隊」と「亡国のイージス」)がコケて、右傾エンタメ作家の席は百田尚樹に奪われて、今はこうして富野の二次創作を書いてる! これ以上、何をどうしろって言うんです! 何と戦えって言うんですか!」(註1)
私は、彼に答えるべき言葉を持たない。こんな時は、富野神に還るしかない。神は言っている。
"Century color Million color" ――せいきの色はまんこの色であると。
違う。
ターンAターン、だと。∀だと。全肯定であると。
送り手が自分のメッセージを一切信じていないなら、それを批判して何の意味があるだろう。逆だ。有効なのは、相手が信じていないメッセージを、こっちが文字通りに全肯定してやることだ。つまり∀UCだ。
バナージが何も考えずに箱を開けた、その蛮勇を評価するように、富野のニュータイプ思想を継ぎ、「逆シャア」の先を書こうとした覚悟は評価する。
駄作も愚作も一杯出来るのを承知で、宇宙世紀のその先が語られるのを心から望む。
できるかぎり応援する。
それしか、ガンダムに対し、緊張感を持って向きあう=富野的である方法は、ないような気がするのである。
むろん、それは、終わりのないディフェンスである。
ガンプラオタクからはそっぽを向かれ、富野信者の罵倒に耐えねばならぬ。
しかし、それでも、えんえん一年戦争をリメイクし外伝を造り続けるよりマシだと信じる。
その向こう側に何もなくても――いや、しかも脳波コントロールできてしかも手足を使わずにコントロールできるマシンにセシリーが触手レイプされ、バイク戦艦が街々を踏みつぶし、カテジナさんがオデロもシュラク隊も鏖にして、月光蝶でみんな灰になったあと、全人類が無限力に溶け合って何もかもが因果地平の彼方にスペースラナウェイする哀しみが待っていたとしても――、かまわないのである。
STAND UP TO THE VICTORY!
註1:いや、もちろん田母神俊雄と戦ってくれればよい。ついでに百田も撃てばよい。実は「ガンダムUC」の小説版には、田母神論文事件を露骨に批判した箇所が存在する。詳しくはこちら → http://kaito2198.blog43.fc2.com/blog-entry-388.html。小説版が出た頃には、ただの右のヤバイ人だった彼が、若者の支持を受ける保守系政治家候補となってしまった現在こそ、福井の田母神批判はアクチュアリティを増している。
風立ちぬを劇場で見てきた。当方海外在住で、話題が古いのは許してもらおう。そして、なんだこりゃと思った。
・主人公の台詞の棒読み。朴訥とした人柄を表したかったのかも知れないが、かなり違和感がある。あんな棒読み風に話す実在の朴訥とした人物はいない。
・少年の頃の夢に没頭する話なのか、悲劇のラブストーリーなのか、何を主張したい映画なのか良く分からん。
・どちらか絞らなければならないわけではないが、映画は製作側と観客の共同作業というか、こちらも趣旨が分かればどんどん乗っていけるのだが、本作ではそこが分からず非常に乗って行きがたかった。
・2次大戦の日本の代表兵器・ゼロ戦。作中で設計屋は兵器か否かではなくより良い飛行機を作りたいだけというエクスキューズが入っており、登場人物もちょくちょく戦争に否定的な発言はするものの、ゼロ戦の開発を夢とした男を主題として取っているので、どうしても言い訳がましく聞こえてしまう。宮崎監督は極端なくらいリベラル側だということを知っているが、監督が反戦平和主義だと良く分かっている視聴者にとってすら、兵器の開発に没頭している主人公には感情移入しにくい。
・結核の奥さんに冷たすぎないか?ラブストーリーとはいえないように思う。
・英国で見たのだが、こちらの価値観だと仕事より奥さんを取るのが一般的なので、日本でも今ならそうだと思うのだが、英国人が日本人の価値観というものはこういうものだと誤解しないかハラハラした。
・夢>奥さんというのが最も残った印象なのだが、監督の主張したかったことはそういうことでいいの?勿論、そういう趣旨なら描写に成功したということになるけど。そして、一つの考え方としてはあるのだろうけど。
・妻は昔の日本、今の老人世代の男性が理想とする都合のよい女の描き方に思えて気持ち悪かったと言っていた。それもまた極端な見方だとは思うけど。
・結核の奥さんの横でタバコを吸うのはどうなんだ?そういう時代だったからそういう描写にしたと言う主張は百も承知だが、もともと写実主義の映画でないので、わざわざそこだけそういう描写にする必要あったのかな。
・原作読んだことないが、夢の中と山荘の2人のデフォルメされた外国人は原作にも出てくるの?ちょっと見ていて恥ずかしかった。
・淡々としているが、そこが魅力的なのかというと、一方で夢の中の突飛な描写が繰り返され、淡々は魅力ではなく単に盛り上がりにかけているように思えた。映画の中には風が微風くらいしか吹かなかった。
・悲劇ももっと描くのかと思ったら、奥さんは山に帰りましたと。あとは夢の中で登場と。んんん?原作がそうなの?勿論直接的だけが演出ではないけど、輪郭から描き出す力も弱いような。少なくとも感情を揺り動かす力は弱いよね。
というわけで、非常に長く感じてしまった映画でした。英国の映画レビューサイトを見ると、5段階で4ちょっとくらい。良い評価なんだろうけど、肯定レビューのほとんどの言及が映像の美しさ。なるほどね。日本人は綺麗なアニメは見慣れてしまっているし(その中でもジブリはやっぱり凄いけど)、日本の里山的風景を見るのも珍しくはないけど、外国人にはあんなに綺麗なアニメと風景と言うのは凄く新鮮なんだろう。
本作をもって監督は引退されたと聞いている。引退する投手がもう130km/hくらいしか出なくて打たれまくって火ダルマになっても、最後まで投げることができて満足、本人も世間も引退に納得というか、そういう意味の作品とすれば確かに巨匠の最後の作品にふさわしいのかもしれないと思いました。宮崎監督の作品は、魔女の宅急便くらいまではきちんと見たのだが、それ以降はTV等で見る機会はあったものの、途中で寝てしまったりして、今回は日本の映画を観たくて映画館に行ったからなのだが、見切ったのは久しぶりだと思う。
初期作品のナウシカは、監督が頭の中にあんな空想世界を構築していたのかと思うと、深海とか蟲のデザインとか、その発想力は恐ろしくもあり、天才だと思う。今でこそそのプロットは手垢がついてしまったかもしれないが、それだけこの作品の影響は大きかったのだろう。漫画版は、最後のグダグダが残念なので、映画版くらいがよいのかもしれない。この1作だけでも宮崎監督の天才性は語り継がれていくのだろう。
平日仕事終わりの劇場だったからか、男性客が数人。おそらく皆、主演の早見あかり(元ももいろクローバー)目当てで来た客だろうと思う。
大多数の事情しらない方に簡単に説明すると、早見あかりとは、今をときめくアイドル「ももいろクローバーZ」の元メンバーである。彼女が「女優になりたい」と言って脱退した後、「ももいろクローバー」は「ももいろクローバーZ」に改名し、あっという間にブレイクした。
その、早見あかりの、女優としての初主演映画が、この「百瀬、こっちを向いて。」である。バラエティで番宣はしているものの、TVCMもない、露出もそれほど多くはないこの映画を観るために劇場にやってきた片手で数えられそうなぐらいの男性客が、すべて彼女のファンであることは疑いようがない。
私もそうだ。というか、私こそがそうだ。
「早見あかりがかわいく映っているシーンが1つでもあれば、すべてを許そう」
これぐらいの、かなり後ろ向きな姿勢で、お布施のような1,800円と2時間弱を投じた。
結果。
私は、この低予算の「アイドル映画」に、まんまと心を揺さぶられてしまった。
恥を忍んで告白するが、少しだけ泣きもした。
主演の早見あかりのファンであるということを差し引いて観ても、見どころのある映画だったと思う。
私は、映画館には月に2~3回足を運ぶ程度の「普通の人よりは少し観ている」レベルの映画ファンだ。今年観た映画の中では、「ダラス・バイヤーズクラブ」「ウルフ・オブ・ウォールストリート」「アクト・オブ・キリング」の3本が良かった。この3本は、誰にでも「一見の価値あり」と勧められる、いわゆる「名作」だったと思う。なんだか上から目線で話しているような気分になってむず痒いが、他に言いようがないから許してほしい。
上から目線ついでに、さらに不遜な言い回しを続けさせてもらうならば。
今回観た「百瀬、こっちを向いて。」は、正直に申し上げて、今、例にあげた3本の映画のような「名作」ではなかった。
「そんなことは観る前からわかっている」
と言われるかもしれない。
「そもそも、アカデミー賞にノミネートされるような映画と比べること自体、間違っているじゃないか」
とも。
確かにそうかもしれない。
私の目で見てもわかる、演者の若さゆえの演技の拙さ。不必要に思えるカメラのブレ。
また、簡単にあらすじを説明すると、「恋人はおろか、同性の友人すら少ない引っ込み思案の男子高校生が、ひょんなことから、百瀬という同級生と、恋人のふりをすることになる」というところだろうか。
ネタバレなるかもしれないが、この後の話の展開は、あらすじを読んだときに「きっとこんな話になるんじゃないか」という予想を超えることはない。名作と呼ばれる低予算映画やインディー映画にあるような、驚くような展開も見られない。
大好きだ、と言ってもいいと思う。
作中。主人公は、早見あかり演じる百瀬陽の、物憂げな、どこか捨て鉢のような横顔を眺めながら、恋人のふりを続けるうち、少しずつ、彼女のことが本当に好きになってしまう。
私は、その姿を見ながら、どこか懐かしい気持ちになっていた。月並みな言い回しを重ねるならば、
「浸っていた」
と言い換えてもいいかもしれない。
ここで述べておきたいのが、私が「懐かしい気持ちになった」というのは、主人公が「いつの間にか百瀬を好きになってしまった」という主人公の心の動きについてではないということだ。
確かに、若い時分は、青年期や壮年期にくらべ、幾分恋に落ちやすい傾向にはあると思う。人は突然恋に落ちる。それも、深い穴の中に落ち込んだ後、見上げるような形で、いかに自分が深みにはまっているのかということに気付く。
しかし、それはいくつ年を重ねたところで同じことだ。異論はあると思うが、私は「いくつになろうとも、いつの間にか人を好きになってしまう」ものだと思っている。例え恋人や家族がいたとしても。まあ、これは余談だが。なんにせよ、この点に関して「懐かしい気持ちになった」わけでは、決してない。
私が「懐かしい気持ちになった」のは、主人公が「ただただ横顔を眺め続けることしかできない」ところについてだ。
年を重ねれば、女性を1対1のデートに誘うことも、「かわいいね」とお世辞を言うことにも慣れる。けれど、最初は誰だってそうではなかった。
好きな女性の顔をまっすぐ見ることができない。話しかけることができない。手を握るなんて、もってのほか。ただただ横顔を眺めている時間だけが過ぎていく。そして、彼女は私のほうを向いているときでも、どこか遠くの、誰かのことを考えている。
「百瀬、こっちを向いて。」は、恋する女性の、美しい横顔を眺め続ける映画だ。
横顔を眺めながら、彼女の気持ちを推し量る。
もちろん答えなんて出ない。
それでも、その横顔の美しさに惹きつけられて、目を離すことができなくなる。
この主人公はまるで僕だ。
つないだ手を握り返すこともできない。涙を流す女性の肩を抱きしめることも、追いかけることもできない。憎むべき相手に殴り掛かることもできない。引っ込み思案の少年。
そんな少年が、なけなしの勇気を振り絞って、自分の思いを伝える瞬間が美しい。
もっとも、現実の私には、そんな瞬間はついぞ訪れたことはないけれど。
いや? あったか?
あったかもしれない。
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最後にいくつか。またも不遜な言い回しになるがご容赦願いたい。
「物語に驚くような展開は見られない」と書いたが、抑制のきいた台詞回しや、いくつかの場面における演出については、思わずニヤリとさせられた。また、原作にないいくつかの要素やディテール、終盤の展開については、どれも物語をプラスの方向に向かわせる気の利いたものだったと思う。
そして、何よりも早見あかりについて。
「彼女の表情、わけてもその横顔の美しさが無ければ、凡百の青春映画にしかならなかったのではないか?」とすら思わされるほど、彼女の魅力こそがこの映画の推進力・吸引力にだったと思う。私は映画を観ている2時間弱で、完全に魂を持っていかれ、引ったくりにあったような心境で劇場を後にした。
文中、やや蔑称のような形で括弧つきの「アイドル映画」という表現を使ったが、これは、「登場人物の美しさこそが物語の屋台骨であって、これが欠けると作品自体が成立しない」という広義の意味合いを色濃く含むことを強調しておきたい。
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最初に表示される早見あかりの横顔を美しいと思ったなら、この映画には劇場で観るだけの価値がある。
「早見さん目当てで見始めたが、途中からすっかり百瀬のファンになっていた。」というのは、画家の山口晃のコメント。早見あかりが、現代日本において5指に入るであろう美術家が「今、一番美しいと思う女性」と評する女優であるということを末尾に指摘しておきたい。
自分自身年収500万あれば十分に足りるし、500って相対的に貰っている方だと思うが...…
1,000万あっても(彼らの納得いく物件には)なかなか住めないらしい中央区は銀座に住んでいたことがあるのでその頃の思い出を語る。
実家は都心ではないが交通の便がよく、なかなか出る気にならなかったが、都心だったら住んでも良いかなと思っていた。いちいち都心まで出て行くのが面倒だったし、旅行したときには周辺よりも中心部にホテルを取る癖があり、時差ボケなので早朝起きて誰もいない繁華街を歩くのが楽しいのだ。歌舞伎町や渋谷も面白そうだが治安が悪いところと夜うるさいのが嫌だったので、手始めに銀座にしてみた。
まず住居について。一体どこに住むのか?
昭和通りと外堀通りの間も『銀座』ではあるが、そこにはまず人は住んでいない。オフィス用の物件ならあるかもしれないが、とにかくオススメも出来ない。ゴミの回収が朝7時半までなのである。昭和通りと環状線の間にある銀座1〜8丁目。そこがわずかな居住地。歌舞伎座を中心に広がる一帯であり、銀座中学校があるなど意外に人が住んでいる。夜はまあまあ静かだし、ここはゴミは8時〜9時ごろ月〜土まで毎日回収に来てくれる。ただし周辺に飲食店が多いため夏は害虫の被害は免れられないのが欠点。ついでに、日当りも悪い。相場も高めだ。ワンルームの平均が11万程度か。ただし10万を切る物件もあるにはある。黒川紀章のデザインした中銀カプセルタワーは何だかんだでまだ残っているみたいだから、一番安く住めるのはそこだ。セカンドハウスとしてメタボリズム建築の記念碑に住んでみるものたのしいかもしれない。5.6万円、たった10平米(普通たったは家賃につける)。
食事について。
外食派にとっては、かなり良い立地だと思う。最近話題のラーメン屋も多いし、複数人でいるのであれば食事には事欠かない。とは言え、庶民の食べる店や一人で気軽に入れる店はそこまで多くなく、オフィスを銀座にしている人の方が楽しめる場合もあるかもしれない。
自炊派にとっては、これが賛否分かれるところで、一番しっかりした食料品店は松屋銀座だ。これにビビって外食に転んでしまうか、周辺に目を向けて食材をかき集められるかで分かれる。他に、ドン・キホーテ、肉のハナマサがあるが、量が多い。新橋駅の下にもとまちユニオンby京急ストアがあるが、小さい。ところがもう少し足を伸ばすと、東京の台所築地市場と、一時期どんどん出店したアンテナショップ群がある。特に茨城マルシェの野菜の品揃えが名前に劣らず良い。ここまで行けると、銀座暮らしは断然楽しくなってくるが、毎日帰り際に食材を買うだけでよく、街歩きに興味がなかったり、残業が多いタイプだと厳しい。とはいえ、スーパーは新富町や日本橋といった同じ中央区ではもっと少ない。最近はコンビニも生鮮食品を扱っているので、うまく活用していけば暮らせるのだろうか。
銀座に住むことの利点は、夜帰りやすい、新橋を含めて、飲み歩ける店が多い、ハマれば食材探しが面白い。築地の食品は決して安いとは限らず、量が多いだけのものもあるが、新鮮さと種類の豊富さが魅力。路線も日比谷線、都営浅草線、大江戸線、有楽町線、丸ノ内線、銀座線と地下鉄が走っていて、有楽町か新橋まで歩けばJRもよりどりみどりだ。これがないと500万円で銀座に住むことはかなわないと言える。到底、車などは持てない。あまり娯楽費や固定費がない人であれば可能であろう。
家賃がだいたい10万円だとして(自分は切っていたが)、1年120万円+α、会社の補助など入れて、自炊を中心に無駄遣いしなければ十分暮らせた。ただし酒、タバコ、車、外食の2つ以上をやる人は難しいと思う。パチンコやる人はやめとけ。近所に多い割に1玉4円くらいで勝てる見込みはほとんどない。
銀座に住んでいると衣住食が(家が狭いこと以外は)だいたい充実したから、それが醍醐味かな。劇場とか映画館とか美術館とか歩いていけるところにあるし、ちょっとしたパン屋とか珈琲屋とかも面白いところがある。そして朝の誰もいない銀座!フィッシュマーケットを探す外人はいるけど!なんか面白いし清々しいんだよな、ビル低いし。生活コストは結構安いと思うんだよな......前住んでたところはロールパンとか198円だったけど98円だったし、牛乳も189円とかだったけど150円以下は当たり前だった。服も昔と違ってH&Mとかあるから高級店ばかりじゃなくなった。3,000円で3着買えたりするのが当たり前。意外とそういうところもあるんだな、と勉強になったよ。
まぁ今は事情があって田舎に引きこもってて次に移る都会を探しているところです。大して金持ちにもなってないので、狭くてもいいから『そこ住めるの?』って人にビックリされるところがいいなあ。
4月17日 7:00追記----------------------------------------------
朝起きたらバズっててビビった。ブコメ参考に間違い(外堀通り→昭和通り、新宿線→浅草線)直したよありがとう。中銀カプセルタワーの人気に嫉妬。ネットかかってて取り壊ししそうなのにまだ募集しているから住めるんだな。ブコメより→http://www.smaheya.com/rent/1807/
>問題は自転車なんだよなぁ
銀座から自転車に乗るのがオツなんだよ!銀座に行くのが目的だと来たら終わるものが、住むとそこから広がっていく感じ。そこそこの値段の車両(5〜15万程度、アルミのジャイアント、ビアンキ、Specialized、キャノンデールあたり)が毎日同じところに繋がれていたけれど、全然盗まれないから治安がいいんだなぁと感心していたよ。超高級ロードに乗っている人は銀座に通勤している人が多かったね。とりあえず和光前を走ってからどこか行くようにしてたな。夕暮れ時とか気分がいい。
>こういうの手取りなのか額面なのか明示して欲しい。
手取り500万って王侯貴族だなあ。年収500万だと手取り250〜300くらい?そんくらいだよ。
これにハマったクチ。気分はトリコで毎週末ハントしまくった。西日本の魚が美味しくてね。日本中の食材が手に入るから冷蔵庫がパンパンだった。今は田舎に引っ込んで憑き物が落ちたみたいに興味なくなったけど。オススメアンテナショップは、全国まちからむらから館(野菜)、茨城マルシェ(野菜)、せとうち旬彩館(うどん)、北海道(スイーツ笑)だな。レストランだと鹿児島、広島が頑張ってる。高知とか山形も良いし。l
次の都市、秋葉原2票かぁ。確かに面白いかもしれない。自分とあまり共通点がないところも、住めばハマって新しい魅力がわかるかも。永田町、霞ヶ関はいいね、ランチが面白そう。丸の内、日比谷とかもいいんだけどどれも銀座に近いのがな。自由が丘、成城に住んでも結局銀座に買い物に行ってそうだ。遠すぎる、なんだかな。豊洲は面白みがないし。下北沢は雰囲気的には好きだし劇場もあるけど、ブランドパクリののバッグが3千円くらいで売られている町って感じ。ああいうの持ってる人どこで買ってるんだと思ったら下北で売ってた。そんなの銀座で持ってる人やっぱいないもんな。まあ自分は無名の革バッグ9千円くらいで買ってるような人間だけど、うろちょろしてたら色々と知識は身に付く。ケッて思う人もいるかもしれないが自分はトレンドとか面白いなって思う方。で、H&Mに行くんだけど。
スーパーロボット大戦OEで、なんと漫画版の名台詞がボイス付きで流れるというサプライズがありました。
「少しづつ動きを覚えさせて…」「ここまで鍛え上げたんだ…」
「あんたが気まぐれで遊ぶ玩具とはなあ…」「違うんだぁ!!」
この野明の台詞は、
押井版野明の「レイバーが好きなだけの自分に甘えていたくない」(だから、レイバーのテストパイロットを辞めて、正義のために戦う)
レイバーが好きで、レイバーのために働く自分へのプライドを感じさせる名シーンだと思います。
このように、ゆうきまさみと押井守は同じ題材、同じキャラクターを扱いながらも、まったく違った切り方を見せていると思います。
その際たるものが「警察官」という職に対する価値観だと思います。
「まともでない役人には2種類の人間しかいないんだ。悪党か正義の味方だ」
このように述べています。
このまともでない役人とは、自分たちのことでもあり、劇場2の敵のことでもあります。
また、劇場1、劇場2共に、特車二課は上の了承をえず、独断専行で悪に対して殴り込みを行っています。
という点を踏まえたうえで、ゆうきまさみ版の後藤隊長はどう語っているのでしょう。
「警察ってのはカゼ薬みたいなもんでな、症状が出てから使われるのがほとんどだ。」
「熱が出れば解熱剤を、せきにはせき止めを投与するように、
「おれたちも症状に合わせて投入される。
与えられた仕事をたんたんとこなしているうちになんとか社会が状態を取り戻す。
それが警察のあるべき姿なのさ。
わかるか泉? おれたちの仕事は本質的にはいつも手おくれなんだ。
こいつは覚悟がいるぞ。」
(中略)
手遅れにならないよう、先回りをする押井版に対して、
ゆうき版は本質的に手遅れであることを自覚し、それを受け止めたうえで、風邪薬には風邪薬のプライドがあると、自分の仕事に強い意識をもっています。
ゆうきまさみは「仕事をする一社会人としての警察官」を描いており、
押井守は「一社会人を超越した正義の味方としての警察官」を描いているといえるでしょう。
この、一社会人としての警察官という題材は、後の鉄腕バーディーにも引き継がれていく、ゆうきまさみの大きなテーマとなっていきます。
追記
>aukusoe 押井守の超越感がどこから来ているのか、ゆうきまさみの市民感がどこから来ているのか、とりみきさん漫画でわかりやすく解説してください。
スタジオぬえの話とかゆうきまさみが通ってたカフェの話とか、アオイホノオでやって欲しい題材ですね。
>otiharuk otiharuk んー押井は別に「先回りカコイイ」というニュアンスで使ってないような
格好いいというか、事実として先回りしてるわけじゃないですか。
ゆうき版は児童売買の可能性がある子供がいても、自分たちで独断専行はしなかった。
これが、押井とゆうきの後藤隊長の描き方の決定的な違いではないでしょうか?
ゆうき版の後藤隊長なら、劇2や劇1のとき独断専行したでしょうか? しないでしょ、
「みんなで幸せになろうよ」なんだから、劇2のあんなことさせるわけがない。
>横手美智子の職業選択の自由で、野明は警察官を選んでるんだよね。
>なのに、押井世界では実写版や番狂わせで野明は警察官を辞めている。
>その辺をぼかして書くあたり、押井のずるい所だよなあ。
うーん、それは大げさじゃない、TV世界と旧OVA〜劇1〜劇2〜番狂わせ〜実写の流れは違うわけだし。
>いづぶちの雪のロンドの遊馬や、横手の太田の戸惑いの午後の太田を題材にそれぞれを語って欲しいな。
ラーゼフォンしかり、出渕が主役に据えるキャラはどこか詩的な感じで、
押井版の理屈っぽい遊馬や、ゆうき版のすねた子供みたいな遊馬とも違う、一番大人な遊馬だと思う。
太田に関しては難しいな、カヌカとクマガミが関わってきてややこしい。
押井版劇2小説にたしかクマガミさんが登場してたから、あの時空にもいることはいるんだろうけど、
劇2の事件には参加してない辺り、なんかややこしそう。
>横手小説の後藤隊長は、風邪薬であることすらも諦めている女々しい印象なんだよなあ。
うわー今手元に小説版ないなあ、アニメイトに買いにいって確かめてみます。
>なるほど納得。押井版よりも、ゆうき版の方が好きな理由が判った。
ゆうきまさみは、どうにもならない社会の枠組みで悩む姿が多く描かれています。
じゃじゃ馬の主人公は馬を育てることで、自分一人で出来ることの限界を知りクライマックスを迎えます。
そりゃそうなんですよね、調教師でも騎手でもない、牧場の従業員が馬に出来ることなんて高が知れている。
そういう、己の限界がゆうきまさみではたびたび描かれる重要なテーマだと思っています。
>miruna 読んでない スパロボオタは劣等種
漫画版の名台詞がボイス付きできけるのはスパロボだけなので例に出しました。
>triggerhappysundaymorning ゆうきまさみは画風からも諦観滲み出してる気がします尿.
>kanose 押井の犯罪を先行してつぶすというのは正義の味方というよりも公安の発想なのでは。それにしてもブクマコメントへの反応はや!
でもだからといって、それを部下に半ば強制した劇2はやっぱり、正義の味方だと思います。
>frivolousman ゆうき→状況に対する「しんがり」として、労働者、サラリーマンとしての警察官。押井→組織を超越しちゃうスーパー警察官…FBI、CIA、公安の類。
そうですね、僕も同じ理解です。
定時退社が当たり前、ダンスを習っているのよ~とか、連休には旅行に行くのが当然だと思っていたりとか、そういうホワイト企業。
バイトも派遣も差別されない。急に有給を取っても怒られない。理由も聞かれない。みんな楽しく働いているように見えた。
飲み会でも無理に飲まされないし誰もタバコを吸わないし店の人にも絡まない。
定年近いおじさんも、若い人も、みんな大卒だった。みんな優しかった。
わたしも当たり前のように、同世代の社員から「うちらが大学の頃ってさ~」と話を振られたが、わたしは高卒だ。
どうでもいいけど両親はどちらもヤンキー上がりバブル世代の中卒で、高校に行きさえすれば仕事に困らないと思っていたような人だ。
だからわたしも当たり前のように高卒。アラサーで独身で低所得よ。年収200万もないよ。
わたしもね、高校は出席日数ギリギリで卒業したバカだよ。学校なんてかったりーよーとか言ってさ。
社会に出て、すぐに気がついた。あーわたしはバカなんだってね。
同級生はみんな大学に行った世代なのに、学校が嫌いとか勉強が嫌いとか、もっと言えば家にお金がないから大学に行くなんて選択肢ははじめからなかった。
高卒がほとんどの職場なんて、お金もないからみんなギスギスしているし無駄な根性論みたいなのをかざしてくるし優秀であっても年が下なら立場は上にいけないし、人より努力すると生意気だとか言われて妬まれる。
バカばっかり。もちろんわたしもそのバカだ。
知ってしまったら、自分たちの世界はなんて余裕のないクズばっかりなんだと思った。
海外旅行どころか家族旅行も行ったことがないしそれどころか映画館にも行ったことがなかった。
そんな生活をしていたのに「今度の休み、オペラ見に行かない?」とか「ミュージカル行かない?」とか「一緒にヨガ習おうよ~」とかそういう会話がこの世に存在するってことを知ってしまった。
とある女性社員の家にお邪魔したら、品のよさそうなだんなさんが「お友達? じゃあ今日はぼくが洗い物をしておくね」なんて普通に言いやがった。
家にいるのに一人称がぼく!? そんな人間見たことがない!!! 奥様劇場の世界か!?
うちの母は「二十歳すぎて童貞なんて病気だよね~~www」とか言うし、娘であるわたしに向かって父との性生活の愚痴をこぼすような人なのに。
アニメを見ている大人は犯罪者だと思っているし政治家はみんな悪いことをしていると思っているし若者は自己主張が激しいから仕事がないと思っている。
だからあんなホワイトな大人がいる世界が信じられなかった!!!
でも低学歴でクソブラックがお似合いのわたしにはまぶしすぎて、そういうコミュニティに染まりきれなくてつらかった。
こんなアホでも手取り16万もらえる事務なんていいほうなのだが、ホワイトさんたちから見たらカス給料なので「うちの会社受けなよ~去年も40代の新入社員がいたから30代なんて全然大丈夫よ~」なんて言ってくれるわけ。
受かるわけないじゃん! わたしすっごいバカなのに!
わたしが高卒の上にバカである可能性を考えないホワイトさんたちには劣等感しかない。つらい。ホワイトさんは天上人か。
バカでヘビースモーカーばっかりの職場のほうが、猫をかぶらないで済むので疲れなかった。
この前、中卒の友人が妊娠して結婚した。旦那は税金を滞納していて役所から車を差し押さえられるような人だ。
ネタバレなし。
※BLが嫌いな人は以下読まないで下さい。
是非行って欲しい。
エンターテイメントとしてのBLが、映画館という公共の場で見れることはすごい体験だった。
漫画を読むこととも、アニメを見ることとも全く違う感覚を味わえました。
私はこの手の話が出来る友達がいないので1人で見に行った。
そこで今まで味わったことのない感覚を体験してきたことが忘れられなくて、誰かに伝えたくて、ここに書くことに。
作品はアニメを通して見た+満喫で原作漫画を読んだので知っていたし、好きだった。
映画自体、ストーリーの出来や声優の演技などとても満足出来るものだった。
そしてそれに加えて映画館ならではの体験。
上映時の、客全員が一体となって一斉に笑う感じ、ニヤニヤが抑えられない感じ、感動する感じ。
映画が終わって劇場が明るくなった瞬間の、テンションの高い異常なざわめき。
みんな同じように感じてたんだなーという一体感、作品の出来の良さからくる多幸感。
劇場から出た後も非現実の幸せな世界が頭の中をずっと支配していました。
ちょっと個人的な話だけど、私は隠れオタクなのでBL趣味をずっと隠して生きています。
ちょっと窮屈だなと思うけど、周りの目が気になるので、BLが好きということは人には言わないし、言えない。
そんな私が公共の場で、正当な権利のもと、BLが好きな人たちと同じ空間に居合わせて、同じ映像・同じ時間を共有することは私にとって忘れられない体験になった。
増えていくかもしれないけど、まだわからない。