はてなキーワード: むしろ邪魔とは
「文系の学問において資料の実在を証明するものとは何か」(anond:20190510230425)についたブコメに応答&補足説明します。
Wikipediaですら参考文献を求められるので、参考文献(ここで言っている注)のない本はある意味でWikipedia以下の信頼性と考えられても仕方がないことを多くの人に知らせるべきだと思う。
参考文献と注は違います! ぜんぜん別です! 参考にした本を並べてあるのが参考文献(厳密にはこの場合「参考文献一覧」)で、本文中の記述の出典を直接明らかにするのが注です!
参考文献と注については、以下の4つの組み合わせが考えられます。
このうち、研究書として許されるのはaとcだけです。ここで問題にしているのはbとdで、多くの学術的な新書はbであり(中公新書とかでよくあるやつ)、ごくまれにdみたいな本があります(最近だと、岩波新書の『ロシア革命』)。
えっ、cも許されるの? はい、許されます。なぜなら、個々の注でしっかりと典拠を示してある場合は、参考文献リストが存在せずとも出典の表示に不自由はないからです。
これだとわかりづらいかもしれないので、架空の例で説明してみます(わかりづらいかと思ったので書き直しました)。
a)増田はうんこを漏らした(注1)。一方、同人作家はおしっこを描いた(注2)。
注
(注1)はてな太郎『増田の研究』Hatelabo、2019年、819頁。
(注2)Y. Arim, Oshikko Collection (Tokyo: Press of Institute for Shonben Studies, 2019), p.8107.
参考文献リスト
Arim, Y. Oshikko Collection. Tokyo: Press of Institute for Shonben Studies, 2019.
b)増田はうんこを漏らした。一方、同人作家はおしっこを描いた。
参考文献リスト
Arim, Y. Oshikko Collection. Tokyo: Press of Institute for Shonben Studies, 2019.
c)増田はうんこを漏らした(注1)。一方、同人作家はおしっこを描いた(注2)。
注
(注1)はてな太郎『増田の研究』Hatelabo、2019年、819頁。
(注2)Y. Arim, Oshikko Collection (Tokyo: Press of Institute for Shonben Studies, 2019), p.8107.
cでも十分に出典表示として問題のないことはご理解いただけるでしょうか? 実際、英語圏でもcのような本はたまにあります。そして、著書ではなく論文レベルだと、cのようなやり方を採用している雑誌はとても多いのです(日本語圏でも英語圏でも)。いや、もちろん理想を言えばaみたいな本であるべきなんです。でも、紙幅の都合というものがあり、印刷費が嵩むからどこかを削りたい、となった場合には、真っ先に参考文献が削られてしまうのは致し方ないと思います。
日本の出版の問題は、そこで「参考文献ではなく、注を削ろう!」という話になってしまうことです。違います。注か参考文献、ページ数の関係上どちらかを削らないといけないのなら参考文献を削るべきなんです。
もし注がしっかりとつけられていれば、参考文献の欠如は「どんな文献があるかひと目でわかりづらい」程度の問題にしかなりません。しかしいくら参考文献があったところで、注がなければ「ではこの記述の典拠はいったい何なのか」という根本的な問題を惹起します(bの例から正しい出典を復元できるでしょうか?)。参考文献は省いても構いません。しかし注を省いてはダメなのです!(学術的な新規性のある本ではなく、学界の定説を初心者向けにわかりやすく纏める本でなら、読みやすさを優先して逆の判断になっても構わないのですが)
もちろん、これはauthor-date方式やMLA styleの注をつける場合には適用できません。どういう方式かというと、次のような方式です。
増田はうんこを漏らした(はてな 2019: 819)。一方、同人作家はおしっこを描いた(Arim 2019: 8107)。
参考文献リスト
Arim, Y. 2019. Oshikko Collection. Tokyo: Press of Institute for Shonben Studies.
MLA style:
増田はうんこを漏らした(はてな 819)。一方、同人作家はおしっこを描いた(Arim 8107)。
参考文献リスト
Arim, Y. Oshikko Collection. Tokyo: Press of Institute for Shonben Studies, 2019.
こういう方式の注をつける場合には参考文献が絶対に必要です。当たり前ですね(author-date方式についてはanond:20190511230117も参照)。
“自分の実験室の試験管”イメージ偏ってるなー(´・_・`)理系の論文での引用見たことないんかな。普通に出典書いてるし、それを叩き台に積み上げたり、否定したりするんだが。博士論文なんか引用文献沢山乗るしね
理系の学問についてのイメージが偏っている点についてはごめんなさい。でも引用については、申し訳ないけれどそちらが勘違いされていると思います(もちろん私は理系の論文はちょっとしか読んだことないので、私に事実誤認があれば教えてほしいのですが)。
このうち、理系の論文で文献として挙げられるのは「先行研究」だけですよね? でも、文系では「一次文献」も参考文献に含まれ、そこへの参照が論文の重要な核を占めているのです。
たとえば上皇陛下が書かれた論文(※1)を見てみると、確かに末尾にずらずらっと先行研究が並んでいますが、論文の核となる部分はあくまでハゼの遺伝子を解析した部分にあって、それは当然ながら実験室で採られたデータであり、何らかの文献によって引証される類のものではないわけです。
しかし、皇族つながりで天皇陛下が書かれた論文(※2)を例に出すと、この論文において著者の主張の裏付けとなっているのは古文書における記述であって、その原本は研究施設が所蔵していたり史料集として公刊されていたりするわけです(史料集って何ぞや、という点については後述)。
私が最初の増田で言ったのは、この「一次文献」の問題です。多くの場合、理系ではこういう資料は引用しないですよね(最近だと古天文学で歴史的史料を引用するとかあるのかな?)。しかし今回の研究不正がなされたような分野においては、そのような資料こそが研究の核心にあるという話です。
もちろん、慌てて言いますが「なにをデータにするか」は研究対象によって異なります。文化人類学のような分野では、ヨソの土地まで出かけていって住人たちとの会話を書き取ったものが資料です(この分野だと「インタビュー」とかいう生易しいものじゃなくて、ヨソの土地に住み込んでその土地の言語を習得して日常生活を過ごす中で遭遇した会話や出来事を持ち歩いてるノートに書き付ける、という調査方法が採られます。これを参与観察というわけですが、私にゃ無理ですわ)。記述言語学だと研究対象の言語の話者にその言語を口に出してもらって記録する(「これを○○語でなんといいますか?」と聞くこともあれば、話者どうしで会話してもらってそれを横で聞くパターンもあり)、というやり方になるんだろうと思います。なので私が言っているのは、あくまでも近現代史やその隣接領域での話だと思ってください。
文系の生データは出典となる書籍だったり、原典の資料がある場所と。原典の原典って、どんどん辿っていけるブロックチェーンみたいな形式が理想ってわけか。一時情報が当事者の証言なら信憑性高いって判断にはなるし
違います! 当事者の証言だからといって必ずしも信憑性が高いわけではありません! たとえば戦争犯罪で裁判にかけられた人の証言のことを考えてみてください。彼もしくは彼女の証言をそのまま「信憑性が高い」として扱ってしまってよいか? そんなわけはない。
歴史学において一次史料が重視されるのは、それが「生データ」だからです。それはひょっとしたら当事者の保身によって捻じ曲げられているかもしれないし、当事者が間違えているかもしれないし、当事者が見ても聞いてもいないことは書かれていないかもしれない(たとえば「沖縄返還をめぐる日米交渉」を研究しようと思ったとき、日本側の史料は「日本側の政策決定過程」を教えてはくれますが、アメリカの外交官たちがどういう考えを持って交渉に臨んでいたかを教えてはくれないのです。それを知りたければアメリカ側の史料を見るしかありません)。けれども新しい研究は必ず一次史料から出発する必要があるのです。何故ならそれは昔の人によって直接書き記されたものだから。
なので歴史学では「史料批判」というものを重視します。これは説明すると長くなるので詳しくは歴史学の入門書とかを読んでほしいんですが、要するに史料に書かれていることはどのくらい信用できるのか、みたいなことを分析するわけですね。あれれ~? おっかしいぞ~? この人、自分は後方にいたから虐殺行為に関わってなかったって言ってるけど、部隊の記録では後方にいたなんてどこにも書いてないよ~?
(「なにが一次史料か」というのも研究対象によって変わります。特に科学史や史学史といった分野では「他の研究において先行研究とされている文献が一次史料である」という状況がしばしば発生するのですが、この理屈はわかっていただけますよね)
図書館にScanSnap SV600を完備し研究する皆の熱意でデジタルライブラリが出来るといいな… P2Pで共有されればノードの消滅にも耐えられる。しかし日本ではプリウスミサイル上級国民は不逮捕で、P2Pプログラマは逮捕なので
出来るといいな、じゃなくて、既にあります。
たとえば国立国会図書館のデジタルライブラリーには幕末以降の古書が多く登録されていて、PDFで落とすことができます。archive.orgや、フランス国立図書館のデジタルライブラリー「Gallica」も有名ですね。こういうところに所蔵されている文献については、わざわざ現地の図書館まで行かなくともPDFでダウンロードすればそれでよいわけです。デジタル化によって歴史学者の仕事は格段にやりやすくなりました。18世紀のドイツ語の本をコタツに入ったままで入手できるんだもんなぁ。
しかし、当たり前ですが全ての史料が電子化されているわけではありません。国によってデジタルライブラリーの整備状況に違いがありますし、そもそも近現代以降に出版された印刷物の数を考えたら全部をデジタル化するなんて人手も時間も足りない、という場合もあるでしょうし、身も蓋もない話をすれば著作権の問題もあるでしょう(とある国では、その国の図書館に直接行かないとデジタル化された史料にアクセスできなかったりします。てっきりPDFはないと思っていたのですが、著作権上の問題で館内からしかアクセスできないようになっているだけだそうです)。
また、多くの国では、公文書館の史料まではデジタル化は及んでいません。元増田でも書きましたが、お役所のちょっとした書き付けなんかも史料になるわけで、それ全部デジタル化しようとしたらとんでもない数になります(これについて、日本は戦前の外交文書のかなりの数をウェブで読めるので恵まれていますね……アジア歴史資料センター様には足を向けて寝られません)。なので未だに、現地に行って史料を直接見てくる、というのが重要になるわけです。
(さらに言うと、史料が必ずしも公的な機関によって保存されているとは限らず、貴族や武士の子孫のおうちに保管されていて、読みたい人はご当主様の許可を得て読ませてもらう、という場合もあり、当然デジタル化の波は及んでいません。イギリスだと由緒ある大貴族の屋敷には私設の文書館が付属している場合もあり、日本の歴史学者でもソールズベリ侯爵のお屋敷であるハットフィールド・ハウスに赴いて史料を収集している人もいます。謝辞で「史料を閲覧させてくれた当代のソールズベリ侯に感謝する」みたいなこと書いてあって「すごい……」って思いました)
ただ、「みんなが読みたがる重要な史料」については、史料をまとめた本を出すとか、史料を集めたマイクロフィルムを作るとか、そういう形で広く公開されている場合があります(たとえば第一次世界大戦の勃発に関しては、イギリスやオーストリアなどの当事国が何十巻にも及ぶ史料集を出版していて、東京大学などの国内の研究機関にも所蔵されています)。けれどそういうのを購入するのはお金がかかるし、何より発行から何十年も経ってしまうと入手自体が難しくなってしまう(でも著作権は残っているためデジタル化も遅々として進まない)ので、あんまりお金がなかったり新設されたばかりだったりする大学の研究者は結局それらを所蔵している大学の図書館に行く必要が……
注なんて読みたくなければ飛ばせばいいのに注があると売れない……? やべえな世の中。/ みんな本当に自己防衛の意識が弱いよね。優しい世界生きてるんだろうな
注があると読まない人が居るという話、ただ気持ちよくなるために情報を摂取してる層には、正確性の担保なんてむしろ邪魔なんだろね。ワイドショー視聴者と同質。
これ、実際に「注があるから読まない」読者が本当にいるのか、と疑ってみるべき案件だと思うんですよね……。「編集から言われて注を外した」という話は学者のあいだから漏れ聞こえてきますが、「注があるから読んでいて苦痛だった」という話ってなかなか聞かなくないです? いやもちろん編集者のところにはそういう苦情のお便りが届いているのかもしれませんが……。「注があると売れない」という都市伝説が生き長らえているだけのような……(一般読者からしてみれば、注の存在に気づいてなかった、とか、なんか数字が振ってあるけど気にしてなかった、という場合も多いでしょうし)
注がついている本を読んでいる段階で十分かと思いますので安心してください。注は、もし興味がないならさらっと読み飛ばしても別に大丈夫ですよ。というか、注で典拠が示されていても、アラビア語とかギリシャ語とか朝鮮語とかロシア語とかで書かれている場合も多々あるわけで、そんなの普通の読者さんにチェックできるわけないですし。ただ、注を見てみると、おっ、ここはちゃんと原史料を読んで書いてるのか、なーんだ、ここは英語の二次文献に頼って書いてるんだ、みたいなことがわかっちゃったりするので、学者の仕事の裏側を垣間見ることができて面白いですし、どんな情報源を使って書かれているのか? をチェックしてみることは学術書だけでなく普通のニュースとかを読むときにも重要なことだと思いますよ。
物理分野では「参考文献」の意味が増田とは異なる。参考文献は本文記述の直接の引用を表す。あとあまり明確に決まってないけど、注は捕捉説明を指す。「参考にした文献一覧」は存在しない。読書案内なら見かける。
誰がReferences(Bibliography)を参考文献と訳したのか。"refer"した文献のリストであって、本文の著述に紐づけられるものだけリストアップすればよく、逆に、何でもかんでも列挙して博識をひけらかすところではない。
や、まあ、文系でもたいていの場合は「引用文献」ってことですよ。それを「参考文献」と呼んでるだけ。参考にはなったけど言及してない文献は、私なら入れない(でも入れる人もいるかも)。
あなたがこの増田に感心してくれたことは嬉しいけれど、史学科の学生に上から目線でアドバイスしないでください。こんなの初歩の初歩で、史学科の学生さんならとっくに理解してます。史学科出身じゃない人たちが「そうだったのか~!」って言ってるだけ。別に史学科の常識を知らないのは悪いことじゃないけれど(私も他学科の常識とかわかんないし)、自分が知らなかったある分野の初歩の初歩を解説されて、そこで聞きかじった内容をその分野を学んでいる人の前で「お前らこういうのよく読んどけよ~」って言えちゃうの、ちょっと傲慢すぎません?
ツイッターでUVERworldの男祭りが炎上しているという話を目にした。
検索してみると、なんとなくの流れを把握。
①トークショーへの"応募条件はなし"
↓
↓
↓
ぱっと見なので、もしかすると詳細が違うかもしれないので真に受けないで欲しい。
ちゃんと調べて欲しい。
でもなんとなく、自分が見た感じはこう。
まー、炎上するよな、という内容。
男祭りずるい!!とかではなく、なんで女性も応募は可能にしたんだ?っていう話ですよね。
ファンではない自分が思うのだから、ファンの人たちはもっと思うはずだ。
ただ、ファンではない部外者の自分が何より思ったのは、残酷だな、ということ。
まず男祭りとかやるのどうなの?という話だが、わかる。
男性だけのうおおおおおお!!という歓声の盛り上がり方は、確かに女性では出せないものだ。
ただ、これが悲願というのは女性ファンにとってとてつもなく残酷なことだと思う。
これは好きなバンドの悲願に、自分が必要とされていない、むしろ邪魔、という事実に他ならない。
女性である自分は、好きなバンドの悲願の中に混ざることができない。
そういうことだ。
女性であるという自分ではもう余程のことをしないと変えようのない部分だというのに、それを好きな人たちにいらないと言われたようなものだ。
お金をつぎ込んだのに!!とかそういう話じゃない。
いや、そういう人もいるかもしれないけれど。
好きなバンドが望んでいた光景の中に、自分がいては駄目だという事実を、女性ファンはどう受け取ったのだろう。
ここで言いたいのは、男尊女卑!!平等にしろ!!という話ではなく。
男女という肉体に違いがある以上、男女平等は無理なんじゃないかということ。
可能かどうかではなく、それを実現しようとする動きは大切であるのだけれど、やっぱり完全に男女平等という世の中は来ないと思う。
違いがあれば、無理なことだって当然出てくる。
出そうと思えば出るとか、声の高い男性もいるだろうが、大多数の話だ。
つまり女性という肉体に生まれた以上、内面がどうであれ男祭りという場の雰囲気を作ることはできない。
男性にも言える。
そのアイドルが「男性の手はゴツゴツして嫌だ。女性の方が柔らかくて好き」と言ったとする。
それを公言するアイドルの性格やばいのでは??という問題はとりあえず置いておくとして。
でも言ってしまえばそれも好みだ。
本人の好き嫌いは、倫理観等とは無関係のところから出てきてしまう本能的なものだ。
「そう思うのダメだと思いますよ!」と注意して治るものではない。そう感じてしまうのだから。
そして男性はもちろん、男性である以上、大抵の女性より手は骨太だろう。
自分は男性であるというだけで、好きなアイドルから嫌厭されているということだ。
これに限らず、男性というだけで男性恐怖症の人からは怖がられてしまうし、逆に女性もそういうことがあるだろう。
ここまで言ってしまうと、男女に限らず、身長とかそういう話にもなりそうだ。
性別はその最たるもので、人間をかなり大まかにわけることができる。
今回の炎上問題は、男女の身体の作りが同じにならない限り、これからもこういった性別に関連する問題は無くならないのだろうなと感じた話だった。
私がただ悲しさ吐露したいだけの話。
何かにモノを申したり、主張したりしたいことは何も無い。おもしろい事件もない。読んでも楽しい気分にはならないと思う。
ただただ、日常の中でふと悲しく思うから聞いてほしい。なにも解決してないし、解決しようとする気力もない。
面白いことに、私の尻は三つに割れている。面白いことに、なんてつけたが、当人の私はまったく笑ってない。
ネタばらしをすると、「尻が三つに割れている」というのはあくまで「例え」であり、書いてる私のケツは無事なんだが、私の身体にはたしかに、「尻が三つに割れている」相当の人とは違う部分がある。奇形の類だと言われた。
ただ「尻が三つに割れている」にすり替えて書いたほうが、書く方も読む方も楽だろうと思ったので、ここでは私の尻が三つに割れていると思ってほしい。
そして、本当に尻が三つや四つに割れていて、悩んで生きている人がいたらごめんなさい。
本題だ。
普段は、尻が三つに割れていても(最低パンツだけ穿いてれば)服に隠れているから、普通の人間のように生きている。
裸で鏡をみても、大抵前からしかみないから、尻が三つに割れていることま忘れて生活しているときも多い。
人と話して笑ったり、休みの日を寝て過ごしたり、一人でラーメン屋に入って、ラーメンをすすったりしている。
そんな日常を送っていると、自分の尻が三つに割れていることも忘れて、誰かを好きになったりもする。
でもふと、自分の尻が三つに割れていることを思い出して悲しくなってしまう。
私は処女だし、この身体を十何年も他人に見せていない。親にも見せなくなって等しい。(ちなみに、幼少のころは尻は二つだったらしい)たとえば、この先誰かを好いて、付き合って、いい雰囲気になったとしよう。私はそのとき初めて
「あのね…三つに割れてるの」
彼は驚くだろう。ここで「冗談だろ」と笑う人もいるだろうし、私の面持ちに「ただごとではない」と思いながら、一生懸命神妙な顔をして聞いてくれる人もいるかもしれない。
笑われたら、当然傷つく。
恥ずかしくて生きてはいけないし、目の前の男も生かしはしない。
私という面白くてしかたない身体の女とまぐわおうとした、それが貴様の命運の尽きだ。
どのみち、私の身体に触れ、そしてその目で見れば、私の尻が三つに割れていることはすぐにわかるだろう。
もし相手も初体験であったら、初めて抱く女の身体が、こんなだなんてかわいそうだ。という気持ちでいっぱいだ。
本当にかわいそうだ。私も悲しくてたまらない。
それでも、もし、私の心の修羅場も越えて、
私を抱いた勇者がいたとする。
私の尻について、必要以上に触れず、できたら前から私をみつめて「好きだ」と言ってくれる優しい人間。私のコンプレックスを一瞬でも忘れさせてくれる人間。だが彼は間違いなく、私の心の柔らかすぎるところを知るのだ。
さてそんな彼と私は、ある日喧嘩をする。
どっちが悪いとか、原因とか、そういうことは関係ない。口喧嘩とは、勢いの勝負である。そこに正しさや論理的思考は必要ではない。むしろ邪魔だ。ただ口を回し、相手の精神を削り、相手を言葉につまらせたら勝ちである。私はあまり得意ではないが、殴り合いの喧嘩はもっと得意ではない。そもそも勝ち負けなんてつけずに、落ち着いて話しあえばいいのだが、それは第三者の言葉に耳を傾ける冷静さが、二人に必要だ。
一度冷静を失えば、相手を傷つけてやろうと、心ない言葉がでることを知っている。
そのときは何も言わなかったが、「あの時こう言ったら、相手はとても傷つくだろうな」と思った一言を、「禁句」を、懐に忍ばせ、いざというときにグサッ!! と言ってしまう。または言おうと思っているということは、陰湿な私だけなく、世の中の20%くらいは考えるんじゃないかと思っている。
そして、私を深く傷つけようとして、カッとなった彼は言う。
私は「今はそんなこと関係ない」と言うこともできず、言葉につまる。敗北だ。
だって尻が三つに割れているのは事実だし、それについて、彼に嫌な思いをさせてないか、ずっと後ろめたい気持ちでいる。
やっぱり、イヤだったんだなあ、と私は悲しくなる
きっと彼が人類の中でも優しくて気遣いのできる部類だということは、私とのセッ◯スを成功させている時点で証明されている。それでも私が傷つくと知ってなお、彼がいつか禁句を口にしない保証はまったくない。
もし私に言わなかったとしよう。しかし他人にはどうだろうか。自分が抱いた女の尻が三つに割れていたなんて面白い話、人に話したくてたまらないではないだろうか。
酒の席の勢いで、もしくは「昔のことだし」という謎の時効制度で。「尻が三つに割れてる人間とセッ○スしたことあるんだけど〜」と他人に教えてはいけない。などと酷な話だ。
その場は私の尻が愉快という話で盛り上がるだろう。たとえ尻の話は面白くなくても、セッ○スの話はそこそこ注目を浴びるのだし。知らないところで自分の尻の形を笑われるのはなかなかキツい。それを疑うのもつらい。
「この前抱いた女、アソコが激臭だったwwwww」とか
て影で言われるようなものだ。つ、つらい。自分の力ではどうしようもない所だし余計に辛い。それを決死の覚悟で晒した挙句がそれだと思うとつらい。
私は誰かの前で裸にならない限り、誰かに尻を触られない限り、普通の人間みたいに生きられる。本当は誰かと触れ合いたいのだが、それについて私の身体は、精神的なリスクを負っている。
この尻を治さないと誰ともセッ○スできないからだ。いろいろなメニューがあったが、そこには尻を小さくしたり大きくしたり形を良くするといったものはあっても、当然、三つに割れた尻を二つにしてくれるメニューはなかった。
そもそも整形で尻の割れ方を整えるのは可能なのかもわからない。直せないと言われたらどうしようと思うと、つらくなった。私は整形外科のある場所も控えず、かかる金額も見積もらずホームページを閉じた。
私はまた明日の朝、自分の尻が三つに割れていることを忘れて生活して、たまに「このままずっと処女かもしれない」と考えて泣いている。
ただそれだけの話。
決まりとかはないけど、年に数回超退屈なお話を高い金払って聞かされる。つまらん。
護身術みたいなのもやらされて、帯取るシステムもある。だるい。
私が生まれた時に最後の帯まで取るお金振り込んだって両親が言ってた。やめてほしい。誰も頼んでない。
集中稽古とか勝手に入らされて、お金無駄になるから×日お稽古行きなさいって言われた。
前から仲良かった人(この人は私より深刻な二世らしい)と会えそうだったのに、おじゃんになった。店の予約まで取っておいたのに。
名前も両親じゃなくてその宗教の大先生?とやらが付けたらしい。
両親のことは好きだから、どうせなら2人につけて欲しかった。そういうの誰も頼んでないってば。
私の人生のため?将来のため?
知らないよ、そんなの。だって私の周りのみんなは稽古にも講座にも行ってないのに、幸せそうに生きてる。
両親には必要なのかもしれないけど、私には必要ないしむしろ邪魔だ。
普通の子なら楽しみにその×日を待って、一生懸命おめかししてお出かけするはずなのに、私は道着持って1人で出かけなきゃいけない。なんで私?
本当にだるい。そんなのに何十万も使うくらいなら、もっとほかのことに使ってくれ。私のためにはならないし、ほんと無駄遣い。
「あなたのためだから行ってきなさい」とか。信じるものを選ぶのは私一人で十分。
私がその予定をどんなに楽しみにしてたのかも知らないし、夜にこうやって1人で悩んでることも知らない。本当に腹が立つ。
誰と仲良くなっても二世ってことで薄い壁を感じる。
ので、こういう所に愚痴ってる。ごめんね
言ってることは間違ってないんだけど、たぶん語っている場所が違うんだと思う。
セイバーの政治は今で言う民主主義だし、焚書坑儒やキリシタンの迫害などに見られるように、専制君主的な中世の政治体系から見ればむしろ邪魔な思想。
だから民草のための政治を唱えたセイバーのあり方はたしかに正しい。
だけど、イスカンダルもギルガメシュも衆愚政治の弱点についてしっかり語っていたように、現代の民主主義もその脆弱さを見せているじゃない。
当時は武力行使こそが征服の象徴であったけど、現代的な資本主義の闘争によって行われるものに置き換えて考えるとすれば
いわばそれは現代におけるスティーブ・ジョブスやビル・ゲイツ、あるいは孫正義、松下幸之助のようなものであったとも言えないか。
たぶんイスカンダルもギルガメシュも、当時であるからこその武力闘争を行っただけで、現代の資本主義のルールの中での闘争であればきちんとそのルールに則って征服すると思うよ。
そういう意味で、思想や思考の根本的な欠陥に対する明確な指摘をセイバーに示してみせたイスカンダルに、たしかに覇道たる王の生き様(というより帝王学だよね)を見たと思うよ。
もちろん、孫正義もジョブスもゲイツも、現代の一般人にとっちゃ雲の上の人で、興味のない人にとっては「なんのこっちゃ」だけどね。
こんな作れるんだぜってアピールしたいのかもしれないが、ユーザからすればほとんどがいらない、むしろ邪魔
長くて鬱陶しいアニメーションなんていらないし、ボタン押せば即反映すればいい
いちいちフェードとか必要ない
webはデザイナーが私こんな機能使えますよ―アピールする場所じゃねーんだよ
個人サイトでやってろ
企業サイトや情報サイトなどビジネスぽいところでまでそんなのを作るな
ホームページ開いたら10秒近くアニメーションかかってスキップも出来ないサイトとか開いたら即閉じる
Windows のアプリとかと違って HTML/CSS って簡単に誰でもできる分こういった余計なことしたがる人が多いと思う
問題はそれが良いと思ってる人が意外といることだ
良いと言うかwebはそういうものと思ってる、というべきだろうか
ムダにアニメーションつけろとか画像いっぱい貼ったようなデザインを求めてくる
使いづらいしユーザーに好まれないと言っても見た目が良いほうが良いと言って無理に通されるし
古い性役割を「抑圧」と呼んで壊そうとするのが昨今のウーマンリブであり、ディズニー作品はそういう社会を反映している。
自分の問題は自分で解決できるのだという確信、主体性を持つこと。
すべての男性がヒーローになれるわけではない。弱い人、賢くない人、色んな事情を持った色んな人がいる。そこを配慮せず弱者を切り捨て、マッチョイズムだけをよしとする社会は公平さに欠け賢くない。
...
多様性の時代になってるわけだし、弱いものに底上げが必要なんだと思う。アファーマティブアクションってやつ。女性もそうだけど、いわゆる「弱者男性」だってそうだ。誰もが自尊心を持って生きる権利がある。
前半でこういう価値観の変化を論じていてふむふむと思っていたのに、後半になると
「Metoo」や「女性専用車両」や「女性だけの街」、性犯罪やジェンダーの話題はとにかくネットで炎上しやすい。
そのときの会話の噛み合わなさに、いつも此岸と彼岸の隔たりのことを思う。見えているものが違いすぎると思ってしまう。「女性専用」という言葉や、性犯罪者の告発に怒り狂う男性たちはあまりに不可解で、言葉が通じない恐怖がある。
「すべての男性が性犯罪者ではない。俺を犯罪者扱いするな」というのがよく言われる意見だ(ノットオールメン)。しかしそんなことは自明なわけで、誰も「男全てが性犯罪者だ」なんて言っていない。
なのになぜ自分を「男性」という共通項のみで性犯罪者側に寄せ、「俺への攻撃だ」と思い込んで怒るのだろう? 同じ「善良な市民」という共通項で、被害者女性側に寄せ、性犯罪者に対して怒ることはできないんだろうか?
という話になって「え?」と思った。
女性専用車の話が一番分かりやすいと思うのでその話をするけど、女性専用車って結局「男は暴力的な生き物だ」「男は女を守るために献身的になるべきだ」みたいな古い固定観念を追認するものでしょ。こういう固定観念がなかったら、女を別の車両に隔離したら性犯罪が減るとか男は多少の不便さを受け入れるべきだなんて発想は生まれるはずもないよね。
そういう性別のみに基づいた役割の押し付けから脱却して、《誰かの救済を待つのでなく、みずからヒーローになる》《自分の問題は自分で解決できるのだという確信、主体性を持つ》ような社会を目指していくべきだっていうのなら、女性専用車という概念はむしろ邪魔だよね。女性専用車が存在する限り、我々は「男から女への性暴力だけが電車内で起こるトラブルである」「いつも男が加害者で女が被害者である」みたいなまやかしをずっと刷り込まされていくことになるんだよ。
こういう古い固定観念に基づいた差別を指摘する声に対して「どうして男は女の気持ちに寄り添わないのか」みたいなことを言ってる限り、《同じ「善良な市民」という共通項》を共有することなんて無理だよ。
お昼休憩中にホッテントリ見てたら、40代で新卒採用の話などがあって、触発されたので書いてみる。
ちゃんと正社員になって半年くらいお勤めしてから書こうと思ったけど、生理痛で眠れない夜でもあるので書いて眠気を誘ってみようという意図もある。
よろしければお付き合いください。
当方30代前半の女で、大学を卒業してからずっと非正規雇用で働いてきたが、来月から正社員として働くことになった。
派遣社員の無期雇用制度が実質的にこの4月から始まり、それを阻止しようとしての派遣切りなどが取り沙汰されている現状で本当に有り難いことだと思う。
そもそもにして、大学にはとある資格を取りたくて行ったのだが、勉強すればするほど自分に向いてないと思い、資格だけ取って卒業。
事務職を希望して就活したが、「どうしてその資格生かさないの?」と言われ続けて惨敗、新卒カードを失った。
中途半端に資格だけあってもむしろ邪魔だと悟ったが、後にこの資格が間接的にだけど生きることになる。
派遣や他の非正規雇用として食い繋ぎ、無職になるたび正社員を目指してハロワ通いをしたけれど、
25才以下で5年以上の事務職経験者が応募可能などと無理ゲー条件ばかりで、やはり就活は負け続けであった。
市役所で受付したり、総務事務の手伝いをしたり、はたまた電子書籍を作ったりなど、履歴書の職歴欄ばかり無駄に増やしてから今の職場に派遣された。
職務内容としては、専門職をサポートする事務全般といったところ。
専門職として長年活躍されてきた方は、もちろん職種にもよるのだが、全般的にパソコン操作に疎い方が多い。
私はパソコンがそれなりに得意だった。はてなーの方々のようにプログラミング言語がもの凄くできるという訳ではないし、
MOSなどの資格がある訳ではないが、ExcelやAccessがある程度は出来たし、変な動画の作成をしたりだとか、趣味のサイトを持っていた時期があった。
なのでOffice系に限らず動画や画像の編集なども含めてパソコンの仕事を引き受けたり、あるいはいわゆる「パソコンの大先生」をしていたら、専門職の方々には気に入られた。
また、時期は前後するけど、職場でシステムの入れ替えがあったのね。
これは自分でもうまく説明できないのだけど、社内で使用するシステムの把握が、自分は他の人よりも早く出来るようだった。
システムがどう動くかとか、どのマスタをいじればあそこが動くとか、ここを動かせばあそこが上手く回るとか、そういうことを把握するのがなぜか得意だった。
(総務事務の仕事をしていた時にもシステム入れ替えがあり同様のことがあったので、システムの構造の把握?のようなことができるんだと思う。
ここら辺は自分でも何で得意かは分からない。感覚的に動かしてみれば大体解決する感じ)
加えて、入れ替え後のシステムは以前のシステムの機能を全て再現できる訳ではなく、しかしその機能はないともの凄く不便だったので、
AccessやVBAなどでその機能を補完できる仕組みを作ったりとかした。出力したCSVをぶち込めば自動処理、みたいなヤツ。
あとはどうしてもシステムが苦手な人のために、マニュアルを作ってたりもした。開発会社から渡されたマニュアルは純粋に機能の紹介だけだったので、
実際の業務に即したマニュアルを隙間時間を使ってちょこちょこ作った。
そういう感じで「パソコンの大先生」をやりつつ、「システムが一番できる人」もやって云年間。
社員になりたい気持ちはあったけど声は掛からないし、派遣会社に無期雇用の話をしたら嫌な顔されたし、他にもきな臭い話が出ていた。あと実家の母の調子が悪くなった。
派遣社員にしてはそこそこいい条件で働かせてもらっていたのだが(地域の最低時給+200円、交通費半額支給、社会保険加入)、
通勤に1時間以上かかるし、実家からも遠い場所にあったので、それじゃあ多少条件は下がっても、実家に近いところでまた探そうかなと思って退職を申し出た。
そしたら、ちょっと待ってと言われて待っていたけど、どうせ探すんなら年度の切り替わりの時期がいいので、派遣契約はこの3月で終了、更新の意志はない旨ははっきり伝えていた。
そうして退職の準備をしていた先日、上司と人事の人に呼ばれて、今度の4月から正社員にするからという有り難い話をいただいたので、二つ返事で了承。
上司はいつの間にか推薦書を書いてくれて、上に掛け合ってくれていたらしい。ほんといつの間にそんなことしていたの、ありがとうございます。
実家の母はめっちゃ喜んでくれて、どうにかなるから初めての正社員生活頑張れって言ってくれた。社員採用の話を聞いたらちょっと元気になったんだって。これまた有り難い話である。
何のかんの書いたけど、私は事務職として優秀という訳ではなく、今日もとんでもないミスをして上司に助けていただいた。
恩を仇で返すというのはこのことである。今日からまた気持ちを入れ替えて挽回します。
あと、今の職場にいる専門職の方には、私が持っている例の資格を生業とされる方もいらっしゃるので、本当に間接的だけど役立っている。
これも全然書いてなかったけど、システム動かすのも楽しければ他の業務も(得手不得手は別として)とても楽しい。
天職だと思っていたから、正社員になれたのは本当に本当に嬉しいし、これからもっともっと頑張ろうって気力が湧いてきている。
派遣社員を取り巻く情勢は厳しくなるばかりだし、私のこの経験が派遣社員として働く方の希望になるとも全く思わない。
なりたくてもなれずに涙を呑んだ人もたくさん知っている。
でも私にはこういうことがあったというだけ、頭の隅っこで覚えていてもらえると、ちょっと嬉しい。
しかしこれからは男たちは女性に対して過剰に防衛するようになるだろう
セクハラはもってのほかだが、セクハラと勘違いされる行為もしたくなくなる
純粋に実力で評価されている女性は除いて、女性はその美しさという武器を使えなくなる
男が美しさに反応する時点で性欲の存在を認めることになり、それがすこしでも発露すればセクハラの領域に踏み込みはじめる
男は僧となり、女性の美しさに反応しないように自分を調教していくだろう
「ワンチャンあるかもしれないから」というやましい思いで女性に優しくする男性は多い
これからはそれがなくなっていくだろう
実力だけで評価されるようになる
今年もクリスマスが近づいてきた。
みんな思い思いの過ごし方を目指して大忙しだ。
兄はバイト。
そして俺はというと町じゅうを練り歩き、奉仕活動に励んでいた。
もちろんサンタなんてアテにするような歳じゃないけれど、“現実的なサンタ”の方はアテにしているからな。
そうして人通りの多そうな場所を重点的に散策していると、バイトをしている兄貴を見かけた。
サンタの格好をしていてパッ見だと分かりにくいが。
「お前、サンタじゃないだろ!」
そして子供のほうはというと、俺のクラスメートのツクヒだった。
ああいうタイプのやつは、着ぐるみの頭を取ったりファスナーを下ろすことに快感を覚えるからな。
気持ちは分からなくもないが、ああいう無粋なことを堂々とやっている姿を見ると、クラスメートのこっちまで恥ずかしくなってくる。
「そうだよ。俺は“サンタのお手伝いさん”。書き入れ時には俺みたいなお手伝いさんが出動するんだ。サンタだけでクリスマスの仕事を全部やるなんて物理的に不可能なんだから当たり前だろ。子供には難しい話かもしれないが」
「わ、分かってるよ、そんなこと!」
だが兄貴の方が上手だった。
サンタの存在を全否定しないようにしつつ、あっという間にツクヒを撃退してしまった。
「ガキはこれだからチョロい。それっぽい理屈を並べたら反論できなくなるし、子供であることを指摘したらそっちに過剰反応する」
何か手伝えることはないかと思ったが、あの調子なら兄貴は大丈夫そうだ。
というか、むしろ邪魔に思われそうだし。
それに、どちらかというと気になるのはツクヒのほうだ。
クリスマスも近いというのに、妙に不機嫌だった。
兄貴に言い負かされたツクヒは、目的もなく公園でクダを巻いていた。
俺はその様子を木陰から観察する。
「ああ、気に入らない、気に入らない! これもきっと容姿のせいだ!」
ツクヒはクリスマスが嫌いだった。
考えられる可能性は、ツクヒは強いコンプレックスをたくさん持っている人間だということだろう。
あいつはそれでイジめられているわけでも、そのせいで何か損をした人間というわけでもない。
だが要領の悪いあいつにとって、そのコンプレックスは分かりやすい言い訳だった。
その言い訳によってコンプレックスは強まり、より自分のことが嫌いになる。
そして、周りを更に嫌いになることで自我を保っていた。
そんな全てが恨めしいツクヒにとって、皆が楽しそうにしているクリスマスも例外ではなかったのだろう。
俺は見てられなくなって、ツクヒに話しかけた。
「おい、ツクヒ。クリスマスの何が気に入らないんだ?」
ツクヒは同じところをグルグル回りながら、クリスマスへの恨み言を呼吸のように吐き出していく。
「なんか寒いのが嫌だ! なんか温かみがない。なんか国の景観に合っていないし……」
その様は、まるで画力の高い漫画家の絵に、難癖をつけるオタクみたいだ。
ツクヒはふと歩みを止める。
何かを思いついたようだった。
「みんなにクリスマスなんてクソだって気持ちを共有してもらおう。そのためにはサンタなんて虚構の存在が邪魔だ」
こぼれる言葉と笑みから、ロクでもない企みであることは傍から見れば明らかであった。
「そういえばクラスメートのドッペル。あいつ、まだサンタを信じてる、おめでたい奴だったな……よし、あいつの目を覚まさせてやろう」
そう言うと同時にツクヒは走り出した。
俺は血の気が引いていく。
もちろん、それは寒さではなく、ツクヒの大それた計画に対してだ。
「おい、そんなことはさせないぞ!」
「いずれドッペルも分かることだ、マスダ! 止められると思うなよ」
捕まえようと追いかけるが、ツクヒは俺との距離をどんどん離していく。
あいつが唯一自慢にしている俊足に、俺が追いつける道理はなかった。
大企業。名前だけならたぶんほとんどの人が知ってる。毎日定時に帰れて、週休二日で、有給もフル消化できて、給料も福利厚生も申し分無くて、寂しい時は社内イベントや勉強会に出てワイワイできて、仕事もそこそこ面白い。だけどもうダメかもしんない。
俺はエンジニアだ。うちは IT 企業だ。俺はエンジニアとして働くつもりで入社した。面接でもそう言ったし、先輩にも上司にも主張した。衝突も多かったけれど、概ね希望は通ったと思う。今の仕事は面白い。でも、それでも、もうダメかもしんない。こうしてお酒を飲みながら不満を垂らしちゃうほどに。
スーツ強制である。意味がわからない。あんな窮屈な服をわざわざ好んで着るほど俺はマゾじゃない。
営業マンやオフィス街に勤めるビジネスマンだってんならまだわかるけど、違う。田舎に構える拠点だ。俺たちはエンジニアだ。仕事しやすい格好であるべきだ。だからといってさすがに裸は非常識だが、ジーパンくらいはいいじゃないか。
たまにお客さんやお偉いさんが来る時もあるけど、そんなの応接室で応対する奴だけ正装すればいい。なんで俺たちにまで押し付けるのか。本当に意味がわからない。マゾという性癖を押し付けたいの?
ネットニュースは見れるくせに、Twitter は見れない。技術用語で検索して情報収集できることを知らないのかよ。
Stackoverflow や Quora や Qiita も見れない(知恵袋は見れる)。GitHub も Bitbucket も、そしてはてなさえもだ。え?IT企業だよね?何の冗談だよ。全然笑えないぞ。
「情報漏えい対策です」だって?だったら POST だけ禁止すればいいじゃん。一部のサイトはそうしてるじゃん。情シスなのに GET と POST の違いもわからないの?
とにかく不便で不便で仕方がない。管理職は「自分のスマホで見ろ」「制限解除した専用タブレットで見ろ」とかほざいてるんだけど、なんでいちいち PC から離れてそっち見なきゃいけないの?コピペしたい時とかどうすんの?効率って言葉知りませんか?何なの?マゾなの?
ウォーターウォールが常にダメとは言わない。ただウォーターフォールは昔のやり方であって、少ない人材でスピードも求められる現代ではだいたい役不足だ。にもかかわらず、馬鹿の一つ覚えみたいにウォーターフォールで開発しようとする。
テストコード書いて効率化して暇を持て余して改善に勤しむ俺よりも、いっしょうけんめい(笑)ワード使ってコードを日本語にひたすら翻訳するという詳細設計書執筆に勤しんでる奴の方が評価されてるという現実。第一ウォーターフォールに従うなら先にコードができてるのもおかしいじゃねーかよ。
ウォーターフォール続き。開発審査といってこれを通過しないと先の肯定に進めない関所みたいな審査があるんだけど、これがまた冗談みたいに面白い(笑えない)。何十年も(何年も、ではない)前につくられた基準で、かつ無理矢理定量的に解決しようとした体系をしていて、結果、
「x時間に至ってない?それはおかしい。x時間になるまでレビューしろ」
「x時間超えてる?それはおかしい。なんで超えたのは理由を説明しろ」
なんてことが起きている。何なの?ソフトウェア開発がそんなに単純にいくと思ってるの?そんなはずない。みんなわかってる。だけど逆らうこともなく、おかしいとも思わず、ただただ過剰な仕事を投入したり、数字いじりと作文に勤しんだりする。一体何と戦ってるんだよ。
ちょっとした資料でもパワポが強要される。テキストで書くと渋い顔をするし、他部署や他拠点、部長より上向けの資料となると絶対に OK が出ない。
独自フォーマットじゃねえよ。Markdown 知らないの?別に Markdown 覚えろって話じゃない。ちゃんと見易いテキストで書いてるだろ。分量的にも、話題的にもこれで十分だろ。なのにわざわざパワポなの?何がしたいの?パワポ萌えなの?勝手にやってろよ。俺たちまで巻き込むな。
PCとディスプレイは会社側が用意したものしか使えない。Windows 強制。メモリとかCPUは家電量販店で売ってるレベル。いやそっちの方がまだ高性能かも。おいおい、総務とかじゃないんだぜ?エンジニアですぜ?開発マシンだよ?こんな貧弱なマシンでどうしろって言うの?
キーボとマウスとディスプレイ枚数が自由なのがせめてもの救い。といってもディスプレイは会社支給品なので一人あたりどう頑張ってもトリプルだけど。
サーバーで仮想マシン動かしてそっちで開発しようとか、むしろ開発用のハイスペックマシン手に入れようとか画策するんだけど、無理。調達できない。壁が二つ。
上司の壁。「何贅沢言ってんの?」 贅沢じゃねえよ。それ営業マンに向かって「車?何贅沢言ってんの?(原付あるだろうが)」て言ってるようなもんだぞ。
会社の壁。やたら承認やらエクセル申請書やら冗長で数日じゃ終わらない。ちょっと記入ミスってたらやり直し。融通の利かないお役所仕事。そもそもお金が無いからそんな調達できないんだってさ。無いことはないだろ。利益出してんだろうが。その金はどこ行ってるの?お偉いさんがガハハとかっさってんの?
結局、今部署にある分でやりくりしなきゃいけない。だいぶ昔から使ってるやつだから古いし、キャパも限界。使わないマシンを落とさないと他が使えなくて、そのためにみんなに使用状況聞いて回るとかしている始末。おかしいだろうがよ。
え?クラウド?「クラウドに企業秘密置くなんて何事だ!」だってさ。だったら紙で仕事してろよハゲ。
必ずインストールして常駐させるソフトが結構ある。特にセキュリティ系。中には Windows Update みたく動作に支障を及ぼすものもある。お前自身がウイルスじゃねえかよと言いたくなるレベル。
あと全体的に実装が稚拙なようでメモリも CPU もやたら食う。ソース見せてもらえないから何とも言えないけど、初心者がゴリ押しで書いたみたいな臭いがする。これで何百、何千の人間の、いったいどれだけの時間を無駄にしているんだろう。
インフラがとにかく弱い。メンテナンスは日常茶飯事だし、入社年度とか拠点とかでアクセスしていい時間帯を分けるようアナウンスするし、24時間稼働じゃないし、稼働するにしても昼休憩とか夜間とか制限かけるし。自社のインフラさえままならない企業にいったい何ができるというのか。
本当に力入れた方がいいと思う。どれだけ損失してると思ってんだよ。お偉いさんのイベントで主張してみたりもしたけど、俺が浮いただけだった。こういうことに関して鈍感なのがデフォなのだ。
社内システムはほとんど IE しかサポートしてない。バージョンまで固定する始末。UI もレガシーだし、UX も全然考慮されてなくて、フォームを何十個もずらずら並べたみたいなページが普通に登場する。
SVN である。これでもまだマシだ。いや SVN も相当にオワコンだけど(Git 信者が何を知ってるって?いやいや Git 知らないだけでしょ。gitignore が無い時点でどれだけレガシーなのかがわかりませんか)。
ひどいと VSS とかいう化石だったりする。VSSて何ですか?だよね、知らないよね。調べてみるといいよ。面白すぎて笑えない。
今上に立っている人たちが残業何十時間何百時間当たり前の世界でバリバリ頑張ってきた人たちだから、そういう価値観が蔓延している。残業40時間くらい何とも思わない人種である。いや40でも十分多いから。
物理的に仕事が多いならわかる。本質的に難しいことしてるならわかる。残業しなきゃままならないシチュは存在する。でもそんなの見たところ一握りだよ。大半はただだらけてて怠けてて非効率的で無知なだけ。
いや、無頓着というべきかもしれない。たとえばつい先日こんなことがあった。レビューで(俺はレビューア。他にもたくさん)、レビューイがブラウザからファイルをダウンロードした時にブラウザなのかダウンロード先なのかどこかおかして、ブラウザがフリーズしたのね。イラっとするじゃん?と思ったら、したのは俺だけだった。数十秒くらいは続いたのに、俺以外はみんな平気な顔してた。平然と待ってた。そういうことに無頓着なんだ。プログラマの三大美徳を備えろとまでは言わないけど、そこまで無頓着なのは社会人として、エンジニアやビジネスマンとして、どうかと思う。
俺は巻き込まれたくないからうまく立ち回っていて、帰ろうと思えば毎日定時で帰れるが。この体質はほんとどうにかした方がいいと思う。
英数字とスペースを全角で打つのはやめろ。それが許されるの小説だけだ。
インデントはタブを挿入すること ← 俺はスペース派だが、まあわかる。規約ならしゃーない。
「従わなければいいじゃん」 俺もそう思ったよ。でもね、みんなね、レイアウト整えるのにタブ文字を入れやがんだよ。わかるかい、タブ4文字にしなきゃレイアウトが崩れるってことだよ。おかしくない?レイアウトはスペースで揃えよ。タブが許されるのは行頭のインデント部分だけだよ。
この件について戦ってみたことがあるけど、誰一人として賛同は得られなかった。俺は自分勝手な人間との烙印を押されただけだった。エンジニアとして主張すればそうなっちゃうのがうちなのだ。
この件については宗教論争的なこともあるから最悪引き上がる覚悟もあった(それにぶっちゃけ手元のエディタやツールで変えればいいことだし)。でもどいつもこいつも真面目に考えることなく、俺を一蹴した。俺が嫌いだから?何大人げないことしてんの?小学生かよ。意見を見ろよ、中身を見ろよ。
こんなことがあった。
オンプレで立ち上げてるサービスに対して REST API を勝手に使ったら怒られた。曰くシステムがダウンしたらどうなるんだと。業務停止するだろうがと。
言ってることは正しいけど、だったらエントリポイントを閉塞しておけよ。あるいは注意で REST API 使うなと書いておけよ。REST API をデフォでサポートしていて、何の注意や閉塞もなく解放されているなら、それは自由に使っていいってことだろ?(もちろんだからといってリクエストをバーストさせていいわけじゃないが)。悪いのはそんなことも知らなかった無知な管理者だ。責任転嫁するな。
ちなみに閉塞案と注意追加案と提案してみたが無視されている。もちろんそれらを行う権限は俺にはない。
チャットの意義は Pull 型コミュニケーションができることだ。受け取った側の都合で返信できることだ。送る側も、そのことを前提とした上で、期限に余裕のあることを送るのだ。
このことを知らない人があまりに多い。とにかく彼らは口頭を好む。え?あんたら、忙しいよね?むしろ俺は配慮してあげてるつもりなんだけど。口頭で割り込まれることでどれだけ集中を阻害されているかがわからないんだろうか。
まあ俺はいいけど。集中削がれて非生産的になって遅れるのはあんたらだから。俺には関係無い。もちろんそのせいで俺にまで影響が及ぶのだとしたら、そこは全力で反抗する。そういえば以前、この件で上司の上司に対してチャットでみんなに意見を尋ねてみたら、問題行動として垢BAN食らったっけなあ。その部署からは異動しました。
C言語手続きプログラミングマンがあまりに多い。OOPを使っただけで、Ruby スクリで実装しただけ異分子扱いされて「そういう最新技術を誰もが知っているわけじゃない」「自分が知っているからといって無闇に適用するにはやめろ」とか言われる始末。最新技術って。ジョークだったんだろうか。あの時は思い切り笑った。その先輩とは今でも疎遠だ。すれ違っても挨拶してくれない。
まあこれは部署や部門の問題だと思うけど。たとえば OSS で食べてる部隊ではそんなことはない。
昇進するための要件として資格取得がある。公的資格だけじゃダメで、社内独自の資格も必要なんだけど、この資格たち、試験でどうでもいい自社製品うんちくばかり問うてくるものである。はてなを例にするなら、創業時メンバー全員(一人かもしんない。知らん)のフルネームを答えよとか、創業日を答えよなど。
それ、覚えて意味ある?何がしたいの?愛社精神擦り付けたいの?そんなことしても逆に離れていくだけだと思うけど。違うかな。じゃあ何のためだろ。全く見当もつかない。それくらいに不可解だ。
ソフトウェアを新しく使用のにいちいち承認が必要とかいうふざけた制度があった。ソフト使うのって、エンジニアにとっては日常茶飯事じゃん。いちいち承認してたら進まないだろ。
それでもルールなら仕方ない。俺は何十という承認依頼を送った(ちなみに部長以上のお偉いさんが承認者になるという慣習がある)。反応が悪いし、仕事が進まないので口頭でも催促した。一蹴された時は「ならもっと上の人に掛け合います、XXさんが相手にしてくれなかったので来ましたって」的なことを言ったりもした。
結局、俺の部署では「なるべく新しいソフトウェアは使わないこと」「どうしても使いたい場合は自己責任で導入すること」「もちろんウイルスチェックはちゃんとしてね」「実績のあるソフトだけ使ってね」みたいな緩いルールが新設されることでケリがついた。
今でも多くの部署が承認制のままだろう。みんなどうしてるんだろ。それで仕事になるの?
うちは IT 企業なのに、リテラシーに明るくない人がいる。たとえば Wiki の書き方も知らないような人がいる。そういう人が部下を仕切っていたり、社員を支えるスタッフ業務に携わっていたりする。
エンジニアとしてより良いやり方を提案しても、導入しても「難しそう」と一蹴されるばかり。そもそも、ここまで上述してきたことに対してピンと来ることさえない。
厄介なのは、会社そのものがそういう人達に足並みを揃えようとするところだ。だからエンジニアにとっては物足りない、窮屈で、非効率的で、むしろ邪魔にしかならないようなシステムや仕組みや施策ばかりが降ってくる。元を辿れば煩わしいセキュリティソフト群や承認フローの多さも、一部のバカが何かしでかしたせいだ。
一部の人間が足を引っ張っている。大企業であるということ、図体が大きいということは、そういうことなんだと思う。そうするしかないのだろうか?個人的には、エンジニアとそれ以外に二分して、前者には前者のインフラなり体制なり整えればいいと思うんだけども。
うちの会社の連中は、彼らはエンジニアではない。思えば余暇で技術的な話をすることが一切無い。彼らにとって技術は手段でしかないのだろう。エンジニアとしての矜持というものは存在しないのだ。
たとえるならママチャリに乗っている人達みたいなものだ。ロードバイクに乗る人からすればママチャリは手段としてありえない。ロードの方が何倍も早いし、移動範囲も広がる。けれどママチャリ乗りはロードには乗らない。そんな世界があることをそもそも知らないし、知っているにしても努力してそこまで至ろうとは思っていない。今のままで十分だと思っている。
同じなのだ。彼らもまた今のままでいいと思っている。エンジニアリングのエの字もわかっていない。無論、ただのママチャリ乗りならそれでもいいんだけど、俺たちは IT を生業とする会社だ。ロードレースでメシ食べてるようなものなんだよ。なのにママチャリのままなんだ。どう考えたっておかしい。それで勝てるわけないだろ。この先どうすんの。今はたまたま誰も走ってない道を走ってるだけだ。そういう道も着実に少なくなってきているし、ママチャリで頑張って登ろうとするゴリ押しマン要員も減ってきている。
他にも挙げればいくらでも出てきそうだけど、疲れたんでこの辺で。
俺も偉そうなこと書けるほどのエンジニアではないし、ちゃんと読みやすいよううまく書けたか自信ないけど、それでも書かずにはいられなかった。
https://anond.hatelabo.jp/20170706214018
親に心底ウンザリしており、物理的にも精神的にも独立したいという前提で話をする(単なる反抗期や受験ストレスかもしれない可能性はとりあえず棚にあげる)。
まず、誰が見ても自分が悪い、というのは間違い。物理法則でもないかぎり、正しさは自明ではない。それは家庭内でドメスティックに流通する価値観に過ぎない。世の中の価値観は本当に多彩なので(世界の宗教や文化を漁ってみるとよい)、何が正しいかなんてはっきり確定することはできない。今感じている価値観に迎合するかどうかは、あなたに選択の余地がある。たとえば「子供は親に似る」というのは、「ただし親の価値観を無批判に受け入れた場合には」という条件付きである。
何が正しいかどうかや、精神論なんて、人それぞれの事情に左右される。にもかかわらず、事情を知らない人が、心無いアドバイスを投げてくることはこの先本当によくあることなので、いちいち間に受けないほうがよい。道徳は、一般的な事情ではこうしなさいと言っているに過ぎないので、特殊な状況では、道徳はむしろ邪魔になる。
いつ独立すべきかという問題について、高校生で一人暮らしというのは非行少年でもなければ流石に聞いたことがない。残念ながら現実的ではないので、検討するだけ無駄だろう(寮はよくわからない)。よって高校で親元を離れることはできずツラい可能性があるが、全てを諦める必要はなく顔を合わせる機会を減らすといった工夫の余地がある(たとえば勉強を理由にして頻繁に外出したり、時間のかかる部活をしたり)。やはり大学が大きな転機になるから、そこで綺麗に独立を成功させるためにはどうすればよいのか、と考えるのがよさそう。高校が決まったあとにでも、じっくり作戦を考えてみるとよい。
DNAがどうこうとか、本当に吐き気がするのでやめてほしい。全部遺伝とか血で説明する各位に聞きたいんですが、両親が前科者だったら犯罪者のDNAが入っているからもう終わりなんでしょうか。もちろん、遺伝に性格が影響される要素も部分的にはあるが、経験的に、また様々な科学的事実から、自分の力で選び取れる余地がとても大きいことがわかる。
親からの脱出は孤独な作戦で、一般的に、親は敬うものだとされているので共感されにくい。これは仕方がない(毒親コミュニティみたいなのもネットにはあるが、傷を舐め合っているだけで、あまり建設的でない印象がある)。脱出は大変であるけれど、いくら理不尽でも、どうせ、自分の人生の責任は、自分でとるしかない。私の場合は、やっぱり脱出してよかったと思う。
作者は必要だと思っているから書いているんだろうけれども、わざわざコマ外に注釈つけてまで説明する必要性は私には感じられなかったかなあ。
まあ、このあたりの(作劇上必要な)情報の過不足については、裁量の良し悪しが分かれるところではあるけれども。
個人的には、読み切りなのでそこまで情報に精彩を求める必要はないと思っているし、あってもむしろ邪魔だとすら感じるんだよねえ。
そんなことしなくても、絵だけで表現できる力量はあると感じたので勿体ないなあ。
あと、単純にプロットにそこまでドラマがないから、余計にそのあたりの描写だけが上滑りしている印象。
画力は今回の受賞作の中でも間違いなく下位だが、物語作りにおける取捨選択が上手いと感じた。
すごくテンポがいい(早すぎるともいえるが)。
それでちゃんと起承転結描いて、主人公自身の問題も平行して解決させていくのはやろうと思って中々出来ることじゃないと思う。
ただまあプロットにそのまま絵をつけているだけというか、描きたいとこだけ描いているって印象で、その結果「間」がないというか全体的に漂う粗の多さが気になることは否めない。
集団の中で確固たる価値観でもって振舞っている一人の女性に対する羨望を、自分や周りを鰯になぞらえて表現している主人公の独白や描き方がいい感じ。
そして、それが所詮は主観を美辞麗句で語ったものでしかなかったということを突きつけるような、後半あたりから牙をむき始める展開が興味深い。
「自分や周りを魚に例えるなら鰯。じゃあ彼女は?」という視点に向けることで、前半では見えてこなかったテーマの裏を見せてくる構成には感心した。
これもある種の叙述トリックかもしれないなあ。
思春期の息子を持つ家族模様の一ページを、母親目線で丁寧に描いているね。
プロットだけ抜き出すと、ドラマや他の漫画でも使い倒された、すごくありがちな話で前時代的だとすら感じる。
ただ、それをこの時代に丁寧に描ききっているという点は評価したい。
こういった話をシンプルにしつつも過不足なく、絶妙なバランスで描くって簡単そうで意外と難しいことだと思うので。
難解な感情だとか複雑な題材を用いていないのも、かえってストーリーを受け入れやすくしていて個人的にポイント高い。
子供の頃、フィクションで登場する大人にそこまで感情移入できなかったのが、自分が大人になって改めて作品に触れてみると理解できるみたいな感覚を味わえた。
この話の続き
systemd-nspawnに移行した
以下詳細とか雑記
docker commitもdocker diffも使わないし、要らない
要らないだけならまだしも、aufs、overlayfs周りでトラブル可能性がありむしろ邪魔
イメージの差分管理はファイルシステムの層でやるのが素直でコンテナ管理にくっついてるのに違和感がある
Docker特有の機能をフルに使ってる奴ならまだしもコンテナ動かすだけなら何使っても変わらねーよw
Docker Hub からイメージダウンロードしてtarで解凍すりゃ良いだけじゃねーか
composeだって容易にコンバート可能だし、composeで何が起きるかわからない状態で本番運用とか口にしないで欲しい
実際systemd-nspawnの今でもベースはDocker Hubから拾ってきてるし、Docker使ってる奴との受け渡しも問題ない
やりかたは runc.io のGetting startedでも見れば?
Docker hubでよくわかんねーイメージ落とすときに、出所がクリアになるってメリットだけだなこんなん
取り急ぎansibleでセットアップは済ませてる
コンテナにしたからプロセス管理は違う方法でやります→supervisorで云々→めんどくさいだろ!
じゃあ1プロセス1コンテナにしてマイクロサービスにします→本当に便利それ?管理できる?
ログの管理は?logrotateは誰がやる?データボリュームはどこにする?みたいなアホみたいな検討し始めたときに俺は会議室を出た
「いや今はこれが主流で流行ってるから便利です」みたいな事言ってるバカが居て殴りたくなった
「毎週、毎週swarmが壊れたバージョンアップで再起動だのと余計な仕事増やしやがって、いつまでDocker社のβテストに付き合うつもりだクズども」
とは言えないので
「今の状況は前よりも運用負荷が高い状況みたいなので、systemd-nspawn等のシンプルなものに代替できないか検討してほしい」
と言ってなんとか説得
(結局半分以上は俺が対応したが)社内のクリティカルな部分のDockerは全部廃棄した
普通に起動して、普通に終了できる。コンテナの中なのにそれを意識しないくらい普通に起動する。
aufs,overlayfs等の差分管理しなければそれに付きまとう問題もない(overlayfsとか使うこともできる)
自動起動も設定もコマンドもコンテナ内だから〇〇しなきゃダメみたいなやつが無くなって、ものすごく安定してる
Dockerも--privilegedつけてinitからrunすればいいって?糞不安定だし、権限多すぎだろ?capabilitiesを適切に設定しろだって?
一生やってろバーカ
結局のところ本当にこれ便利になったんだっけ?って聞かれて理由を言える奴じゃないと何をやってもダメってことが分かった
これはDockerに限らず全部そうだと思う
QiitaとかにあるDockerでこんな素晴らしくなったよって記事の大半は本質を見失った馬鹿記事
楽になるどころか厄介事を+1してるだけ
とりあえずこっちはDockerのゴタゴタに振り回されなくなって良かったよって話