はてなキーワード: まっさらとは
今までの人間関係リセットしたいけど、完全に捨てる勇気が出ないのでSNS等だけでも距離を置こうと思う
普段使いのスマホの各種SNSにまっさらなアカウントを作れば良いかと思っていたけど、
それだと現行のアカウントへの通知とかがどうしても目に入ってしまうので、逃避用にまっさらなスマホを用意しようかと考えています
タイトル通り、昨日恋人と別れた。文章ぐちゃぐちゃになると思うけど、どこかで発散したいので書きます。
恋人とは2年近く付き合っていて、もう半年以上前から別れを意識しながらずるずるとここまできたけど、昨日ようやく別れた。別れたかった理由としては、日常の小さなズレや所属コミュニティ(職場ではないが職場みたいなもの)での関係性もあり、このまま恋人関係を続けていくのは無理だと思っていたからで、相手のことを好きか嫌いか以上に、単純に恋人と職場での関係性を両立できなくてつらくて耐えられなかった。付き合い始めた時からこの環境は同じだったけど、コロナで職場が機能していない期間は恋人9:職場1くらいの割合で接していたので、元の環境にうまく戻れなかったということでもある。
諸事情により別れるなら今しかない、と思って夜中に電話して別れを告げた。向こうも別れたい気持ちとか理由なんかはずっとわかっていて、お互い騙し騙しやってきた感じだったし仕方ないよね、という感じだった。お互いの家にある私物をどうするかとか、職場でのこととか事務的な話をして、最後に名残惜しさからいろんな話をしてしまい、後悔した。そういえばふたりで○○したことなかったね、○○行こうって言ってたけど行けなかったね、とか、別れ話で何言ってんの?って感じだけど、いざ別れるとなると楽しかったことややり残したことが急にたくさん湧いて出てきて私は何やってるんだろう…となってしまった。向こうは違ったけど、彼は私にとってはじめての恋人で、はじめてこんなにきちんと愛された感覚を味わって、「この人は絶対に私のことを好きでいてくれる」とかいう根拠のない自信みたいなものすら持っていて、それを手放すのってこんなにキツくて体が冷たくなるんだ、と思った。だけど、最初に別れたいという話を切り出した時に向こうは「自分は別れたくないけどそっちが別れたいって決まってるなら仕方ないよね」みたいな感じで言っていて、あの時「絶対別れない、死んでも離れない」くらいに言ってくれてたらな〜みたいなことも思ってしまった。でもそれって私は向こうにとって「仕方ないよね」っていうくらいの存在だったということでもあって、絶対に好きでいてくれるみたいな自信を持っていた私やばかったなと実感した。結局自分も向こうもたくさん泣いて、こんなに泣くなら別れなきゃいいじゃんって考えが頭をよぎったけど、もし運命ならまたどこかで出会えるとどうにか自分を納得させて電話を切った。
はじめての恋人との別れ、これでもよくがんばったんじゃないかと思う。元々向こうに彼女がいたり私が色々こじらせていたり、ねじれにねじれて始まった交際だったので、いつか別れることは心のどこかでずっとわかっていた。だから、もしまた次があるならその時は略奪とかセフレとかじゃなくて、後ろめたいことのない、ちゃんとしたまっさらな状態から始まってくれたらいいなと思う。笑っちゃうほど未練たらたらだけど、そのうち気持ちは元に戻るだろうし、彼がいなくても生活がまわっていくこともわかっているので、時が癒してくれるのを気長に待つつもりでいる。まあ、今日の夕飯にはお肉でも食べて元気をつけようと思います。
ストーリーを読むことに何週間も熱中して、読み終わった時はあまりの衝撃で放心してしまった。
好きなキャラクターがこういう場所にいたら、こういう展開になっていたら、他のキャラとこういう会話をしたら…などたくさん妄想して毎日幸せな気分になっていた。
既に投稿されている二次創作を片っ端から読んで、私もこんな風に心を動かす絵を描きたい!と思って、寝る間も惜しんで絵の練習をした。
当初はSNSをやっていなかったが、まずは上達のために頑張ろう思っていたので、そこそこ長い間、誰からの評価がなくても気にならなかった。
しかしTwitterを始めて投稿を重ねるうちに、もっと評価されたい、いいねが付くと認められた気持ちになって嬉しい、反応が少ないとなんだか駄作に思えて不安になる…といった感情の起伏がだんだん大きくなっていくのを感じた。
描いてるときも「こんなに頑張って描いてるのに評価されなかったらどうしよう」「一番TLに人が多い時間帯に投稿したいから急がなきゃ」「いいねの自己記録更新したいな」など、人からの評価で頭が一杯になっていた。
自分が描きたいから描いているのか、評価されたいから描いているのか、だんだん曖昧になってきた。
そして最近…ウケそうな題材をチョイスして、可愛いセリフをキャラに言わせて、それっぽく仕上げる…という制作過程になってしまった。
きっと二次創作のネタを探すだけになるので、原作を読み返すこともしなくなった。
あれほど好きだったのに…。
原作が好きで好きで、溢れる気持ちを抑えきれなくて二次創作を始めたのに、だんだんおかしくなってしまった。
評価も下がっているような気がするし、いいねがたくさん付いたときしか幸福感を得られなくなった。
他人からの評価は自分ではコントロールできないので、予測ができない曖昧なものに囚われて、一喜一憂が激しくなっていった。
少し前、プッツンと糸が切れたように、筆を持てなくなった。他のことをする気力もなくて、ぼーっとする時間が増えた。
直近で自分の描いた絵を見返すと、なんだかひどいものに見えた。いいねが少ないからとかではなく、本来自分の描きたかったものではないからだ。
SNSを始める前や始めたばかりの頃の絵を見ると、「このシュチュやっぱり萌えるな」とか「この表情を描きたかったんだよな」とか自分の意思を何かしら感じるのだが、最近の絵は「評価されそうだと思って選んだシーンの集合体」に見えてしまった。
絵を描かない日々が久々で、Twitterを開くこともなく色々と考えていたのだが、もう一度まっさらな気持ちで原作を読み返したいと思った。
それでも二次創作や評価のことが頭から離れないなら、私はもう承認欲求に取り憑かれてしまったか、もしくは原作への愛がなくなってしまったのだと思う。
【追記】
二次創作ではなくSNSのせいだとコメントがありましたが、その通りでした、すみません。
原作を読み返してる最中ですが、二次創作は諦めたくないと思っている自分がいます。
を集めるために土を掘り続けたんだよな。
そしたらだんだん周囲の土がなくなってきて、こんな感じになった。
https://i.imgur.com/4bxhxO1.jpg
白紙じゃん、って?
違うよ。土を掘り続けるとこうなったんだよ。
本当にもうね、つちない。これまでにないほどつちない。
そしてつちないところを掘り続けて延々とない状態にしてたらこんなんなったのね。
https://i.imgur.com/MyfkEM6.jpg
土の間から断面が見えるんだけどもうなにもないのよ。
断面がね。
そう断面が。
LaravelをDockerでやる初心者向けチュートリアルやったけど途中でまったく抜け出せないエラーに直面してやめた。
DockerでLaravel構築しようとすると引っかかるところがあって大変みたいだ。
やっぱり『初心者向け』といってても、作った人が作本の初心者だとカバーしきれてないね。自分のMacはこれまでのワークですでに最適になってるから特に引っかからないけど、初心者のまっさらなMacだといろいろ足りなくて引っかかるということは多い。
Qiitaとかでも初心者向けを謳ってる記事はだいたいコレ。じつは○○をインストールしないといけないのにそれが書いてない。なぜならその記事を書いた人はそれを始める前にすでに別の機会にインストールしてたから。
そういう依存性を考慮しないから初心者が実際に真似しようとするとコケる。
その点では、やっぱり有料コンテンツでちゃんと体系的にまとまってるやつで学ぶのがいいね。Udemyの人気講座とか、かっちり書籍化されてるやつとか。
家の中にものが少ない。
家の中が清潔。
こんなに快適なことがあるだろうか。
旦那は一緒に住み始めるときにあまりものを捨てずに転居してきた。
リビングにソファとテーブルがあるのに(置くと二人で決めたのに)、大型のカウンターテーブルとチェア2脚を「捨てるのがもったいないから」「次引っ越した先で使うかもしれないから」という理由で持ち込んだ。
ちなみにカウンターテーブルとしての役目はついぞ果たされず、ずっと荷物置き場になっていた。
持参したシェルフも80%旦那の荷物(同居中、一度も開かなかった本)に占拠され、残りの20%は私のわずかな仕事の成果物と金融書類や家電の保証書など共有の荷物を入れた。
クローゼットもスーツ職のはずの旦那がチェストをほぼ全て使用した。ちなみにリビングにはスーツ類をかけるハンガーラックが頓挫している。
備え付けの収納部屋は「上司にもらって捨てられない」らしい数年使っていないゴルフ用品と空っぽのクリアファイルなどが入った開かずのボックスで占拠された。
一度「収納部屋やシェルフの中を整理して、表に出てる荷物を入れさせてくれ」とお願いしたが「それって今すぐやらなきゃダメなの?」と不機嫌な態度を取られた。
もの、モノ、物。
4面すべて物にかこまれたあの家が本当に苦手だった。お互いの家具を持ち寄ったため、インテリアに統一性がないのもうっすら嫌だった。
そんなに広い部屋ではないのだからと、引っ越し前に金を払って色々とまだ使えるようなものも回収してもらったのに、なぜこの人は片っ端から持ってきたんだ?と結婚中常々考えていた。
ふと開いた箱のなかに、用途不明のケーブルがしこたま入っていた時はめまいがした。HDMIケーブルLANケーブルminiUSBケーブルVGA端子etc...何をそんなに繋ぎたいのか。
私は収納少ない家ってわかった時点で預けたけどな。
掃除もやらない人だった。
掃除機だのクイックルだの、結局片手で数えるぐらいしかやってないと思う。
髪や埃が落ちていようが、ゴミ箱から悪臭が出ていようが、シンクがぬめっていようがあまり気にならないらしい。
洗面台もお風呂場も自分が洗って、床や壁も自分が掃除した。洗い物とトイレ掃除はお願いしていたが、最後の方は8割私がやっていた。
別居するかの話し合いになったときに「いうほど君は家事やってないからね」と怒られて心がスンとした。
気になる方がやればいいというスタンスの人だったので、こまめに掃除はしていたがやはり二人住んでいると当然汚れるスピードは二倍。
旦那曰く「髪の毛の質量はロングヘアの君の方が多いはずだから、この家に落ちている髪の毛はほぼ君のもの」だそうだ。へえ。
トイレも汚しても掃除しない人だった。初めて汚されて放置した日は悲鳴をあげた。うん○が便座に飛んでいるのだ。
お腹壊しがちな旦那のうん○便座を何度掃除したかわからない。こんなこと、小学生の時に教えられるだろうに。本当に悲しくなった。
そしてなんやかんや別居が決まり、荷物整理をしていたら、私のみたことないガラクタがわんさか出てきた。
カビが生えてヨレヨレになったブランドバッグ。質屋でもきっと買い取ってくれない。
黄ばんで変色したシャツや、潰れた靴など、明らかなゴミがどんどん出てくるのだ。当然使うわけでもなくしまっていたわけだから、私が知る由も無い。
それを「これもうダメだよね?」と言いながらどんどんゴミ袋に突っ込んでいく。
絶対に捨てない!と言っていた趣味の本も一夜にして資源ごみと化した。売るわけでもなくゴミになったのだ。
一悶着おこしたカウンターテーブルもあっさり捨てた。ほかにも粗大ゴミになりうるガラクタたちを片っ端から捨てていって、処理費用は3万を越した。
(ちなみに私も不用品を出したので費用は折半だそうだ。いまだに納得いかない)
ああそうか、この人は「他人が困る」という事に関して無関心なのかとそのとき気が付いた。
自分が気にならないから、困ってないからものが溢れていようと、妻の荷物が入れられずにお金払ってストレージに預けようと、関係ないのか。
別居に一抹の寂しさを感じていたが、そんなおセンチな気持ちもおかげで全部吹っ飛んだ。
そして自分の新居。
7畳ほどの1Kだが、セミダブルベッドにテーブルのみなのでそこまで狭さは感じない。
お気に入りの家具、お気に入りのディフューザー、真っ白なファブリック。毎日掃除するしロボット掃除機もある。
服を床に脱ぎ捨てるひとがいないし、飲みさしのお酒をそこら中に置かれることもない。
過去片付けてほしいとお願いしたらキレ散らかしたのでそれ以来言ってない。
お気に入りのスマート照明のなか、まっさらな壁にNETFlix照射して1日の終わりを楽しむ。
旦那の歯周病臭で部屋が充満することもない。濡れたバスタオルをドラム式洗濯機の中に突っ込まれて醸されることもない。
さきほど旦那から「ダブルベッド置いたら部屋が狭くなって後悔してる」とLINEがきた。
そりゃ8畳の部屋にソファとテーブルと40型のTV、ダブルベッド、ハンガーラック置いたら詰むでしょ。
こんなに快適な生活が送れるなら、もっと早く別居していればよかったと思いつつ、
別居をこんなにも快適に感じている自分に少し引いている。
朝1でちらっとついったで回ってきたリンクで無事心を殺された
職場も言語も何もかもが異なるけれどこんなのあっちこっちにあるんだなと思いならコメント見ててさらに死んだ
自分も3X歳の使えねーやつ側の人間だし、最初の会社がこんなんで就職してから猛勉強して単体で仕事を任されたりもしたけれど、
全部独学でやってた上で先輩の「あいつは成長してない」なんて悪態をつかれていた事実を知って仕事辞めたから。
勉強したって会社単位でやってることを学べなきゃ役立たずもいいとこ
それを理解していながら裏でせせら笑っている先輩たちが上記の作者と被って仕方ない。
ある程度のことはできる。
それを一生懸命応用を身に着けて工夫したところで、現代にマッチしてなきゃニーズもほとんどない。
別言語の基本習得して自分が仕事で作っていたものくらいならきっと作れるだろうなという
自負くらいはある。
だけどそれは同じレベルの同じところまでという意味で、じゃあWEB関連だとか、インフラ関連だとか、
業態レベルで違う分野に飛び込んでやっていけるのか?と考えると体がすくむ
裏で日記の著者たちのように笑われてんだろうな、んで聞いても教えても貰えないんだろうななんて思ったら
その意味ではこの著者に出てくる取り返しのつかないやつの就職時の根性はすごいと思う。
頑張ったなって素直に思う
それ以上ができなかったのはもう、なんともだが
自分が死んでるのは3X歳と自分の立ち位置は大分おんなじなんだよなって再自認と
じゃあ「ああダメだな」って自覚したところでじゃあどこに進めばいいんだよってなったときに途方にくれちゃったんだよな
なんも思い浮かばないんだわ
ひたすらに自分のできる土台を整地して、新たな部分を少しずつ付けたしていくこと以外に、できることの選択肢が浮かばないんだよ
それを馬鹿にされようとその分野終わってると言われようと、そこからまっさらな飛び地に行く勇気ないわ
こんな日記読んだら
承前 : Part-1 https://anond.hatelabo.jp/20201002000619
次回 : Part-3 https://anond.hatelabo.jp/20201005082738
前回に引き続いてlevels.fyiから例を取ろう。今回はFacebook
Title | Salary | RSU etc (/year) | Bonus |
---|---|---|---|
E3 (L3) | $119,919 | $43,253 | $15,838 |
E4 (L4) | $159,690 | $80,076 | $18,804 |
E5 (L5) | $196,671 | $151,000 | $31,090 |
E6 (L6) | $228,755 | $284,358 | $51,717 |
E7 (L7) | $268,933 | $502,667 | $91,333 |
E8 (L8) | $298,000 | $738,500 | $238,250 |
最初にlevels.fyiの信頼性について。自分の見聞と比べてみたところ、levels.fyiに乗っている情報は少なくともL3-L6ランクまでよく合致する。
もちろん、自己申告制なので明らかに嘘の情報もあるが、少数である。平均値として見れば確かにこの程度である。
ただし、L7以降になると途端に参考にならなくなる。そもそも報告されている数字の間で違いが大きすぎる。
経験年数やランクで一概にTCがこの程度、という議論は間違いのもととなることがある。
場合によってはBandが極端に広い、つまり同会社・同部署・同ランクであっても報酬下限・上限に開きがあるのだ。
特にランクが上がっていくと多くの会社でRSUのバンド幅が極端に広くなる。
ランクが下の技術者がランクが上の技術者の倍を稼いでいるということもよく見聞きする。
自分の周りでは大抵その「ランクが上の技術者」は在社年数が長く、あまり活躍していない。
老害、とまではいかないが「報酬が低くても他に行かないだろう、行っても痛手でない」とマネジメントに思われているからこその現状である。
日本ではシリコンバレーの雇用はドライで合理的、という記事をよく見かけるが、現実的には制約が多くある。
降格などというのは極端に寡聞であるし、あまり活躍してなくてもすぐに解雇、とは大抵ならない。
ただし、部署・会社全体でのlayoffは話が別だ。一旦経営層が腹を決めれば容赦は無い。
話をランクに戻す。上記から推測できるであろうが、ランクが上になるとDependsの一言であって、そもそも別会社の間で
「この会社のこのタイトルはL6に相当する」「いやいやそれはL7だ」という議論もよく起こる。
levels.fyiはまるでランクの真の対応関係が分かっているかのような図を表示しているが、特に上のランクでは眉唾だと思っていい。
最終的に公平な比較基準はやはりTCであるが、バンド幅が大きいので個々人の比較はできてもランクの比較・対応までは不可能である。
今回は最後に低ランク、L2/L3についてもう少し詳しく語ろう。
まず、FBのL3の数字、上で述べたようにlevels.fyiの数字は私が多数の学生応募者から直接聞き・交渉した数字と非常に合致する。
数年前からFBではstandard packageが大体$180-200kというのはよく言われていた。
このL3向けのstandard packageは未経験の学生が学部・修士を卒業後に就職するUniversity Hire向けのものである。
考えてみてほしい。彼らはMIT/StanfordやIvyを卒業するが、実務はほぼまっさらの、まともに使えるコードなどまだまだ書けない子供たちである。
そんな彼らが初任給でまず間違いなく年収2千万円は行くのだ。また、彼らの全員が有能な技術者に育つかというとそんなことは全くない。
また、育ったとしてもattrition rateはGoogle/FBのような会社であっても高く、ほかの会社により好条件で移っていくことが多々ある。
この状況を見て、シリコンバレーはcrazyと考えるか、日本を出てこちらに来よう、と思うかは人次第である。まず隗より始めよ。
ともかく、FB/AWSを筆頭に景気が良くなってきた数年前からはこれが水準であるので、どの会社もこれに近い数字を出すか、或いはほかの条件で
competitiveになろうとしのぎを削る。
ただし、高ランクの場合と違い、個々の学生からバンド幅を極端に広くするような交渉はあまり行われないか、成功しない。
せいぜい、RSUを少し積むか$10-20kのボーナスが出るくらいである。ほかの会社との競争上、全体の水準は上げざるを得ない。
しかし、それはある程度の人数を一流大学から採用するためのものであって、個々の学生をどうしても欲しいという状況はあまりない。
実務経験がなく修士の授業を取っただけの学生にそんな能力があるのは稀だ。
中にはとびぬけて有能な例外もいるが、そういう学生の多くはPhDに行くか、こんなstandard packageではunderpaidだ見縊るな、とスタートアップに行く。
30分がたったので今回はここまで。次回は一回昇進して「一人前」と扱われるL4あたりを取り扱いたい。
初めに言っておくとこれは性根ド腐れザコ創作マンのお気持ち表明増田です
読みてー奴だけ着いて来な!ヒャウィゴッ
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事の発端は数年前にさかのぼる。私は創作畑的な界隈の端っこで活動していた。
いくらぼかしてもわかる人にはわかるだろうが、いわゆる「うちの子」的な概念とそれに付随するいろんな形のデータをネットに放出するタイプの創作だ。
私もいろんな人の作成した「うちの子」を借りてなんかいろいろやっていた。とても楽しかった。
人が人なら黒歴史かもしれないが私はめちゃくちゃ自分の創作大好きマンなので全然今でも楽しかったなぁと思っている。
なんならその数年前の作品は今でもたまに見返すし、楽しそうだなぁこいつと微笑む余裕さえある。自分の創作大好きマンの懐は深い。
が、自分の創作大好きマンの創作はしかし、基本鳴かず飛ばすだった。
これは「うちの子」的な概念の創作をしたことがある人なら大体わかってもらえると思うんだが、他人に「うちの子」を好いてもらえる快感ったらない。
もちろん基本はアタシが誰より一番!一番好きよ!てなもんで常にラムのラブソングな訳なんだが、このラムは同担歓迎だからあたるがモテてたら最後列彼氏面で腕組んで静かにうなづくタイプ。
サンキュー、いいだろ、うちのあたる……。もっと良いとこあるんスようちのあたる。ちょっと待ってね今用意するから、あたるの新衣装!
そんな感じ。つまり、誰かに推してもらえるとこっちも捗るわけだ。
今はどうなんだかいまいちわからんが、私がその界隈にいた当時、そこは別に広い界隈じゃなかった。
とはいえ全員顔見知り限界集落みたいな界隈でもなかったので、もちろん超絶人気の鉄板アイドルみたいな「うちの子」もいればそうじゃない草の根みたいなやつもいた。
うちのあたるはどちらかといえば草の根タイプだった。学芸会でも石ころの役を任される方だった。
それに関してはまぁ、別に良いと思ってた。少なくとも当時は。
超絶人気の鉄板アイドルのいわゆる「親御さん」は、それに見合うだけの労力も支払っていたし、努力をたくさんしていたし、普通に推せた。
学芸会でなんの役ももらえないような「うちの子」だって何人もいたような規模の界隈であることは確かなので、なんなら石ころでももらえるんじゃん!やったなおめぇ!って思っていた。
まぁ、うちのあたるも頑張ってるんでね…わかる人が分かってればいいんだっちゃ……っつって。うちのあたるが主役をやれる劇はうちのリビングでやればいいんだから。
あたる!今日はなにやる?!シンデレラ?!よーし!お前がシンデレラだ!
ホームビデオ撮っとく?!ヒュウ!ダーリンが一番輝いてるっちゃ!
そんな風なスタンスで、まぁ数年、楽しくやっていた。
その界隈から離れたのは、普通に別ジャンルでの活動が忙しくなってしまったからだ。
ただ楽しかったことは覚えているし、本当にたまに風のうわさでうちのあたるがよその家の発表会に出させてもらったという話を聞くこともあったので、気が向いたらそちらの界隈のアカウントを覗くようにしていた。
(「親」が活動していなくてもその「子」を借りるということは全然ある界隈だし、すくなくともうちのあたるに関しては好きにしてくれと表明していた)
ある日、そのアカウントの方にリプライが届いていた。どうやらうちのあたるを発表しているページに不備が出ていたらしい。
メンテナンスもしていなかったからそんなこともあらぁなと改修した。ついでに、界隈を離れたころに気づいてずっと手を入れたかった部分もすこし修正してうちのあたるを発表しなおした。
まだこの子を必要としてくれる人もいるんだなぁと本当にうれしかった。
ご連絡ありがとうございました。これからもうちの子をどうぞよろしくお願いしますとメッセージを添えて改修の旨をお知らせした。
しばらくして、どんなもんかなと連絡をくれた人の様子をうかがいに行ったら、見事に燃え上がってた。
燃え上がってたって言葉には齟齬がある。なんか一人で燃えてた。ショックを受けて意気消沈したあと、一週回って燃え上がってる感じだった。
えっマジで何事????なんかうちのあたるの話してる????何????修正できてなかった???
慌てて確認する。ちゃんとできてる。オッケー今日もダーリン輝いてるっちゃ。
趣味の良い事じゃない気がしたから嫌だったんだけど、気になるのでその人のツイートを激さかのぼった。
どうやらお知らせした私の態度があまりにも事務的だったことが事の発端らしい。
「私はこの子をこんなに愛しているのに、生みの親に愛されてない」「なんてかわいそう」「こんなお情けで更新されるしかないなんて」
「今回の対応でこれからさき絶対に供給がないことを思い知らされた」「これから先この子を扱っていく自信がない」
というようなことをここ数日呟いているらしかった。
「かわいそう」ってなんだ。
かわいそうなのか?うちのあたるは。
「生みの親に愛されてない」のか?うちのあたるは。
数年放置していた「うちの子」だ。確かには端から見れば愛がないように見えるのかもしれない。
でも、私のつくった子だ。これだけは絶対に言える。私が一から作って、命を吹き込んだ子だ。アタシが誰より一番だ。
何で「愛してない」なんて言われなきゃいけないんだ。何が「かわいそう」なんだ。
じゃあなんで数年前、私があたると二人でリビングでやっていた劇を見に来てくれなかったんだ。
あなたがあの時「最高のシンデレラじゃん」って言ってくれたら、手拍子の一つでもしてくれたら今だってあたるのシンデレラドレス作ってたかもしんないじゃん。
シンデレラどころか赤ずきんコスだって第二形態だってタキシードだって作ってたかもしんないじゃん。
おんなじ場所にいたはずなのに、あの時あなたはこっちを見向きもしてなかったじゃん。
それを今更好きだとかだいじにしてほしいだとか言われたって困るがな。
ってことでもやもやしてたんだけど。
「近所の店の閉店が決まってから、本の絶版が決まってから、『好きだった』なんて言ったって無駄」みたいなツイートが別のアカウントのTLで回ってきて、なるほどこういう気持ちね!って思った。
『報われなかった子が・店が・本がかわいそう』なんて、何にもしてないまっさらの手をかざして、泥だらけになって頑張ってた人の目の前で言ったって本当に無駄なんだな!びっくりした。
つまりそういうことです。ここまで付き合ってくれた増田一同、好きなものにはリアルタイムで好きって言っておけよ!
私はここにいていいのでしょうか?①
あれ、使えばいいんですよ。
だから私はここにいていい②
でももしかしたら店員(フロア?)の人数とテーブルの充填率の関係式があるのでは。
私が単に座っているだけだろうと、コップも使いまわしてるから何もしなくてよくても、私がいるだけでその式で客として数えられてしまうのでは。
そうなるとやはり私はここに居てはいけない③
違うのかな。
セットのドリンクバーはセット料金だからハンバーグ食べ終わったら〆(しめ)のコーヒーだけ飲んで席を立つべきなのかな?
だから帰るべき⑤
うーんうーん
結局仕事に集中できてねーなー
意味ないなー
うーんうーん仕事進まないなー
帰るべきなー⑥
でも家だと溜まったアニメ見ながらゲームやって飽きたらオナニーして終わりだよなあ
今やらないとなー⑦
うーんうーん
毎年思うのは、コレ合筆してくれねぇかなぁ、ということだ。
土地の数の単位を筆という。目には見えないけれども土地は区切られている。大体の土地には1筆ごとに番号がついている。
これは「公図」というものを見ればわかる。公図は登記所や一部の自治体の窓口で有料で見る(もらう)ことができる。
昔、土地に番号をつけて管理をするということになったとき、多くはその時の土地の所有者や利用状況によって区切られた。
その頃の建物一棟の敷地とか、その時の田んぼ1枚とか(もちろん違うこともある)。
そこを後になって違う使い方をするとき、新しい使い方の一区切りごとに区切り直す。範囲を決めて土地を利用したり所有したりするには筆単位にしないと色々と面倒だからだ。
そのとき、新しい形を上書きするだけのことがある。もとからあったいろいろな線の上に、改めて四角形を書くようなイメージだ。
また、隣の土地を新たに自分の敷地に加えるというときに合筆(2筆の土地の間の線を消すこと)をしないということもある。
そうすると、今の1つの使い方をしている土地の範囲、例えば柵で囲われた住宅の敷地とかの中に、いくつもの筆があるという状況になる。
それの何が面倒なのかと言うと、一つには画地計算だ。
市街化が進んでいるところの土地は大抵画地計算法というやり方で固定資産税を課税するための土地の評価額を計算する。
この方法では土地の間口や奥行きを測らなければならないのだが、測る範囲は大抵は同一の利用をしている範囲だ。
同一の利用をしている範囲内にいくつもの筆があると、それぞれの測量図を引っ張り出してこなくてはいけない。
もちろん、画地計算が未だに電子地図上でできない(ウチが導入してないだけ)のが悪いのだが、仮に出来たとしても昔の測量図はスキャンしないと始まらないので面倒なのには変わりない。
測量図も含めて全部電子化してぇなぁ。でも上を説得したりするほどのやる気はない。
面倒な点の2つ目は評価だ。2つ以上の筆で1つの評価単位になる場合は処理がめんどい。
単に同じ評価にするだけでなく、何らかの形でこれとこれとこれはひとまとまりですってしておかないと課税システム上で特例適用地積の按分をすることができないし、
地図上にそれを表すことも出来ない。
これも地図システムから評価できるやつにできれば楽になるんだけどなぁ。例によって自分がやる気はない。
面倒な点の3つ目は、データの数が多くなること、データが重くなること。
ただ、コレに関しては一番の戦犯は国と自治体だ。道路がいけない。街区ごとでいいから道路を合筆してくれたらいいんだけどなぁ。無駄手間でしかないけど。
そういうわけなんだけど、一方では合筆はしてほしくない。
俺は結構地図とか地形とか歴史が好きだ。その点では、公図はかなり面白い。
「あ、ここ昔畑だったんだな」とか、「これが昔の道路だな」とか「この道路は拡張されたんだな」とか「ここに水路があったんだ」とか「ここ湧水だ」とか「池だったんだ」とか、
そういうのが透けて見える。
こういうのは全部今の利用の形に合わせて合筆されたら見えなくなってしまう。
極致は区画整理だ。一旦全部まっさらになるから昔のことは何も分からん。
もちろん昔の資料がなくなることはなく、単に現在の公図がキレイになっちゃうだけだけど、
それでも「史料」に当たらずとも今の土地の形から見えるものがあるっていう面白さが消えてしまうのは残念だ。
まあ心配いらないんだけどな。キレイにするためだけの合筆なんて金かかるだけで所有者使用者にはそんなにメリットはない、んだろう多分。ほとんど誰もやらないし。
ダ・ダ・恐山のTwitterで「近寄るな……解釈が混ざる……」という発言があった(正確にはこのセリフを含むツイート)。
このツイートを最初見たときはなんとなくわかる〜くらいの気持ちだったから、全然意識してなかったんだけど、今になって急にめっちゃこれ……ってなってる。
現在めちゃくちゃに流行っている、多分みんなわかるので名前は伏せるけどでっけーやつが大元のソシャゲに、私も爆ハマりしてしまった。
爆ハマりした後、腐女子である私はいわゆる「推しカプ」ができて、最初はROM垢でその推しカプを描いている人たちを見ているだけだった。
しかしそのうちに自分でも描きた〜い生産した〜いとなってしまい(私は絵描きです)、新しくアカウントを作りそこで自由に自分の好きなカプを描いたりキャラを描いたり、語ったりしていた。
アカウント作りたてのこの時はフォロワー数10人とかでほぼROM専状態。フォローしている人はみんな大好きな絵を描く人たちだけ。みたいな。
でもそのうち、仲良くお話出来る人とか推しカプについていっぱい語ってくれるフォロワーみたいなのほしいな、という欲が出てきてしまった。
人間なので仕方ないと思うけど、やっぱり絵を褒められると嬉しいし、描いたらいっぱい見てほしいし、もちろん推しカプ仲間が増えるのは嬉しい。
そうして私は繋がりたいタグ云々あれこれに手を出した。推しカプは結構大きいカプ(少なくともマイナーではない)なので、すぐにタグはそれなりに広まって相互の人数も増えた。
そこまでは良かった。それなりに話せる人も増えたし、楽しかった。絵を描いたら細々といいねをもらい喜んでもらえた。嬉しかった。
だんだんRTとかで絵が回って、フォロワーが増えてきた。といっても最近話題の神とか何千人フォロワーとかじゃない。
それに比べたら本当に少ないけど、それでも普段ひっそり暮らしている私にとってはめちゃくちゃ多いフォロワー数になってしまった。
※何度も言いますが普段から表で活動している人に比べたらマジで少ないです
相互の人数もめちゃくちゃ増えた。もちろん全員好きな絵を、文字を書く人だから、見ているだけでも楽しい。
毎日推しカプがどこかで更新されるタイムラインは、あまりにも私の精神を豊かにした。
けど、このあまりの豊かさに、私の心がキャパオーバーしてしまった。
というか大半がそういう人(オタクは考察をよくするので当たり前かもしれない)で、毎日いろんな解釈や考察が流れてきた。
ここで本題の「解釈が混ざる」という話になるのだが、推しカプ、マジでびっくりするほど考察がある。解釈がある。
すごい。口開けてれば賢い人たちが考え出した考察や解釈が流れ込んでくる。マジ?
これやばいな……マジですごい……天才か?って頭悪い発言しかできないんだけど、本当に毎日そんな感じだった。
そうしてそんなふうに垂れ流される考察たちを与えられるまま飲み込んでいるうちに、自分の解釈や考察がなんだったか分からなくなっていた。
いや、元々そんなに考察するタイプじゃないけど、それでも自分の中のカプ観とか解釈とかそれくらいはあったはずなんだ。
少なくともこんなにフォロワーが増えるまでは。
それが今では、自分の見ているカプ観は他人のものなのか自分で考え出したものなのか分からなくなってしまっていた。
新しい情報が出されて、自分なりに咀嚼して解釈を出すのが基本だったんだけど、今はそれをする前にタイムラインに考察・解釈が溢れるからまずそれを咀嚼してしまう。多分これが良くないんだと思う。
だからタイムラインを見るのをやめました。やめたというか、あんまり見ないようにした。解釈が混ざるから。
もう混ざってしまった解釈を一旦まっさらにしたい。まっさらな状態で推しカプに触れて、もう一度解釈し直したい。それを自分のものにしたい。
https://anond.hatelabo.jp/20200629213448
おけパ中島がバズリ
https://twitter.com/sanada_jp/status/1269465337675698176
https://anond.hatelabo.jp/20200706042509(感想屋そのものには誘導したくない)
要約すると、
『とても文章力のある感想書きが界隈を席巻してしまった』という内容の愚痴増田が話題になる
↓
神字書きと字書きを題材にした創作漫画の登場人物『おけけパワー中島』に注目が集まる
↓
有償でポジティブな感想を書きますと言いだした『感想屋さん』を名乗る人物が、サービス内容の不備や文章の稚拙さおよび返金対応への不誠実さなど千々に炎上
ここ一週間ほどの間で、以上のような文脈が発生した。
この結果、感想屋という文言に幾つかの意味合いが発生してしまい混乱を招いたり、炎上したものと似た屋号のサービスへの悪影響が心配されたり、純粋な長文感想書きが誤解から心を痛めたりしている。このあたりは個々に注意されたし。また、有償の『感想屋さん』の問題点については羅列していったらきりがないので、特別に記述はしない。
前置きが長い。
私はオタクである。特に創作はしていない。時折、特に萌えを感じた時に短文を書く程度の人間である。昔長文を書こうとしたが冒頭三千字を書いたあたりで挫折し放置している。その上特に交流もしていないし、感想も書かない。一言で言えば、ROM専である。
それなのに、私には妙な自信があった。それは言葉にするならば、「俺だって本気出せば書ける」。小説はそれなりに読むオタクだから、ちょっとした文章ならば書ける。商業のような文章は無理でも、なろう程度なら。書評は無理でも、紹介文くらいなら。また嫌なことに、学生時分は図書委員会だの新聞委員会だので短文を書いて「本を読む人だから文章がうまい」と言ってもらって有頂天になったりしていた(今自分で思い出して、あれはお世辞だったのだろうと恥じ入っている)。
そんな私が、ここ一週間の流れを追って、何を思ったか。
まず増田を読んで、二次創作するオタクは大変だなあ、と他人事のように思った。
二次を書き、二次を読み、交流し、その動向に一喜一憂する。どうも大変そうだ。ROM専はその点気楽でいい。だが、まあ、感想というのは良くも悪くも人に影響を与えるものなのだな。時には感想を書くのも、善行かもしれない。そのように思った。
次におけパ中島に触れた。
最初は創作物として面白く読み、リツイートした。その後おけパ中島が話題になっていることを知り、もう一度、我が身我が事として考えてみた。私にとっての神とは誰だろう、おけパは誰に当たるだろう。実際に当てはめてみると、ツイッターでつぶやかれている感想は、なるほどもっともと思えるものも多々あった。私の悪いところは、ツイッターにすぐ感化されるところだ。オタクの嘆きに共感し、すぐに自分で考えついたように錯覚する。私は、まるで自分が主人公になったかのように(馬鹿げたことだ)酔いしれ、おけパ中島への薄っぺらい恨み節をツイートしてみたりした。
感想屋が出してきたものは、かなりひどいものだった。界隈のオタクの気持ちを踏みにじるものだったし、何より悪文だった。それは野次馬である私にさえわかるものだった。下手くそで、金を取るような文章ではなかったし、そも人に見せられるような文章ですらなかった。
その程度の文章に、私はひどく動揺した。
何が私に衝撃を与えたかって、それは、その悪文が、私の書くものに途方もなく似通っていたことだ。
いや、あそこまでの悪文ではない。ない、と信じたい。下ネタを好まないゆえにあそこまでの下劣さではない、はずだ。
だが、似ている。文章の構成が、筆の運びが、何より配慮の欠けた思考回路が。私もかつてこういう文を書いて、自信満々に教師に提出したことがなかったか。こういう感想を、臆面もなくファンレターとして出しやしなかっただろうか。その稚拙な文章が他人を傷つけていたかもしれないことを、否定できない。
それは、他人よりも本が好きだという自負だ。小説を読むのが好きなことと、文章を書くのが得意なことを、取り違えて混同した、おぞましい勘違いだ。その上、私が読むのは『他人に比べて』多い程度であって、誇れる程ではない。何一つ、誇れることなどなかったはずだ。眼高手低とはこういう事を言う。
私は自分の文章に向き合ったことがあっただろうか。何度も推敲し、多面的に読み直し、練り上げた文章を書き上げたことなど、一度でもあっただろうか? そう問うてみれば、一度もなかった。この文章だって、ほとんど読み返さず、激情のままに綴っているだけだ。プロットも、描写力も、考えて作ったことなど、一度もない。
私自身が、物事を考えたことはあっただろうか。物語を読んで、薄っぺらい表面的な理解をしてすべてを分かった気になったことは。まるで自分で考えたかのような顔をして、他人の考察を口にしたことは。私は、私自身の無能と向き合った事が、これまでに一回でもあったのか?
これは恐ろしい事だ。誰かにとって恐ろしいのではない。タイムラインのオタクにとって恐ろしいのではなく、創造上の誰かにとって恐ろしいのではなく、私にとって恐ろしい。誰かではない。私の恐怖だ。私の足元が崩れ、私の心が崩れている。他人事ではない。それが、こんなにも恐ろしい。
私は今、パソコンでエディタを開いて、この文を書いている。隣にはもうひとつウインドウが開いていて、そこはまだ新規ファイルのままで、まっさらだ。そこに、小説を書いてみようと、思っている。
私は感想屋にすらなれない。
『なれなかった』と、過去形にしたい。今、切実にそう思う。せめて自分に誇れる自分でありたい。
そして、今度こそ。
自分で読み返してひどいな、これ。
私は昔から言っているのだが、読解力向上のためには「なぞなぞ」をたくさん解くといいと思うぞ。
読解力とは、文章の意図を正しく解釈できる力のことだと思うので、読解力のトレーニングには必ず「正しい解釈」すなわち「解答」が無いといけない。
読解力向上法というと、よく多読・精読系の方法が挙げられるわけだが、読書自体を好きにならない限り、「解答」が無いので向上が認識できない→続かない、という点で難がある。
そうすると、現代文の問題+「解答」を用意すればいいのかと思うだろうが、現代文の問題は、他科目と違って「解答を読んでも理由がわからない」という現象が生じる。
「解答を読むための読解力が必要」っていう難点な(現代文苦手な人あるある)。
そもそも、読解力の無い人間が読むには問題文が長すぎるという点も厄介。その点では「なぞなぞ」は設問が短いので、非常に良い。
それに「なぞなぞ」は、小学生でも出し合いっこしたりするので、誰が聞いても理解できる「解答」がちゃんと用意してあるのが、読解力のトレーニングに非常に向いている。
もちろん、最初は答えが上手く導け出せなくてもいい。
その「解答」を知って、設問文にどう対応してるか納得した上で、再度解き直せばいいのだ。そうして、「なぞなぞ」という文章から「正しい解釈」を導く練習ができるだろう。
「なぞなぞ」の中には、意外性のある「解答」を持つ問題もあるので、長文をただひたすら読むよりは、問題自体にも興味を持ち続けることができると思う。
あと、大事なのは、先ほど「正しい解釈」と書いたわけだが、本当の読解力とは、文章に含まれた唯一の解釈を探すことでは「ない」ということだ。
つまり、現代文の問題が間違いなく解けることが、社会において求められる「読解力がある」状態ではないのだ。
それゆえ、増田のように、社会に出てから「自分は読解力が無い」と悩む人間は、本当は、場に合わせた解釈が提示できない人間であることが往々にしてある。
ここはよく認識しておいてほしい。
そうなると、文章を読むことだけでなく、文章の「解釈」として色々な解答を考えてみることがより重要なわけで、その練習としても「なぞなぞ」というものは好都合である。
それには、他トラバにあるように、創作能力のある人間なら、「書く力」を鍛えるのが「手っ取り早い」のであろう。
それでも、まっさらな状態から何かを書き始めるのは大変なので、課題(なぞなぞ)を与えてその解答を考えるという段階から始めるのが、導入としては良いと思う。
ちなみに、よく「他人の気持ちを考えろ」と言う人間が居るが、その具体的なトレーニング方法としても「なぞなぞ」は有用だと思っている。お試しあれ。
観たら絶対に自分は怒るだろうなと分かっている映画がある。原作の小説がとても好きで、映画化の際に「そこは変えちゃ駄目だろ」と思うような根底の部分にドひどい改変をされた映画だ。予告CM開始3秒でそれが分かったので公開当時は絶対観ないと決めていたし、観るような気分になる日が来るとは思ってもみなかった。
しかし最近、「公式との解釈違い」のような文言を用いて苦しむ人々をよくSNS上で目にするようになってその映画の存在を思い出し、いい機会だから観てみようかなと思った。何かコンテンツとの付き合い方における知見を得られるかもしれないし。原作版を大事に思いつつも、派生版も楽しんで愛せるような人間になれるならなりたいし……。
観た後では感情が大きく動いて今の気持ちを100%は思い出せないだろうから、観る前に今抱いている改変ポイントについての思いを書きとめておく。
(ひとつその映画について鑑賞前から確実に言える腹立たしい点は、原作者が亡くなった途端にその映画が作られ、「映像化は不可能と言われていた名作が遂に!」みたいな売り文句付きで世に出された事だ。映像化を何度も断ってきていた作者だから余計に……今までは作者が止めていた設定企画を、もう止める者がいない+追悼とか言える勢いから好き勝手にやっただけではないのかと思う。せめて存命中の公開なら「作者はこの映画化を了承したんだな」と思えたし、そうしたらきっと作者は何かしらのコメントを映画へ寄せるだろうから、それを見られればもうそれで良かった。原作レイプ(こんな言葉があったのを久々に思い出した)を通り越して屍姦みたいだ。大切な人の墓に立小便をされた気分だ。)
映画のタイトルは『悪童日記』と言う。原作の小説も同題だ(海外文学の中では普通によく知られてる方だと思うので、勿体ぶった言い方をしてしまって少し恥ずかしい)。
十年以上前、私は好きな作家がたまたま雑誌でこの本に言及するのを読んで、高校の夏休み中に手にとったそれに首ったけになり、ひと夏の間何度も何度も繰り返し読んで過ごした。だからこんな、映画を観るのに支障をきたすほどに思い入れが強くなってしまったんだと思う。
しかしそもそも映画化されたものをこき下ろしたい訳ではなく、映画を映画として楽しめる作品にするためには原作からの多少の改変もやむを得ないというのは充分承知の上だ。だからこの作品についての改変もなんとか納得したいという思いから、今自分は何に納得いっていないかを整理して考えたく、文章に起こしている。
(このカッコ内は余談なのでとばしてくれて構わないが個人的に、映画化された作品は映画→原作の順でふれた方が大抵の場合はどちらも楽しめるように感じる。原作→映画の順だとカットされた箇所や改変部分が気になってしまって映画を100%楽しめない事もままある。例えば私は『ジュラシック・パーク』に映画から先に入ったおかげでスピルバーグのあの映画をメチャクチャ最高不朽の名作だと思っているが、もしも原作の小説を先に読んでいてファンだったら、そこまで手放しで褒められたかは分からない。映画と原作では構成も人物もかなり別物だからだ。原作ではティムとレックスはティムの方がしっかり者の兄でレックスは足ばかり引っ張る幼い妹だし、Tレックスは二頭いて小さい方がかなりチャーミングだし、グラント博士は最初から子供に優しいし、ハモンドさんはかなり嫌な感じの爺さんでコンピーに集られて無残に死ぬのだ。)
改変箇所について書いていきたい。
映画の予告から分かる改変箇所は主に「父親の存在」「日記帳というアイテムの出自」だ。私はこれがこの物語においてかなり重要パーツだと思っているので、予告CM開始3秒で見られる改変にガタガタ白目をむき憤死する羽目になった。
原作の小説は主人公(双子の少年)の一人称「ぼくら」で書かれた日記の形式をとっている。彼らが母親に連れられて小さい町の祖母の家に疎開してくる所から話は始まる。詳しいあらすじが知りたい人は原作のwiki(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E7%AB%A5%E6%97%A5%E8%A8%98)でも見てくれ。ラストまでネタバレされてるから気をつけて。別にあらすじを知らなくてもこの文章を読むのに支障はないと思う。そういうふうに書けていることを願う。
父親云々の話に戻ろう。
主人公の家族について、母親は冒頭から登場するし、すぐに主人公たちを置いて行ってしまうがその後、他の男の赤ん坊を連れて二人の前に現れ、どうこうなるくだりがある。二人が母親に対して色々思いを抱いていることが分かるような描写もある。
描写があるという事は、書き手である主人公の双子がそれを必要だと判断したという事だ。詳しくは後述するがこの日記はそういうルールの元で書かれている。主人公が無関心もしくは不必要だと判じたものは書かれず、必要なものだけが書かれる。例えば作中の時代設定は戦争中なのだがそれが一体いつの戦争なのか、年号や国名、地名や人名などの固有名詞はほとんど出てこない。<大きな町><小さな町><解放者たち>などの言葉でしか分からない。関わる人々も名前はなく、ほとんど代名詞や役職やあだ名などでしか呼ばれない。双子自身の名前も出てこない。彼らは大抵はあんた達、時に祖母からは雌犬の子などと呼ばれる。
「父親の不在・不干渉」が、この小説(というか作者であるアゴタ・クリストフの作品はわりとどれも)に通底するテーマのひとつだと私は思っている。そして出てこないということはそれは「書かない」という姿勢で主人公たちの無関心を示しているのだから、映画にも変にひっぱり出してほしくなかったのだ私は。しかも作品の根幹である日記に関する部分で。一原作ファンの気持ちを言わせてもらうならば。
以下は物語終盤のネタバレとなるので、知りたくない人は読まない方がいい。
原作の終盤、国境付近にある双子(主人公)の家に、国境を越え亡命したいという一人の男が訪れる。双子はその男が自分たちの父親だと気がつくが、父親は二人が自分の息子だとは気付かないまま、亡命の協力を頼みこむ。双子はそれを承諾する。国境までの間には地雷があちこちに埋まっているし、軍の見張りもある。双子は彼に地雷が埋まっていない道筋や、見張りの目の外れる時間帯などを教える。
亡命決行の日、父親は国境へたどり着く前に見事地雷を踏み抜いて死ぬ。すぐにその足跡の上を双子の片割れが辿り、その死骸も踏みつけて国境を越え、亡命を果たす。地雷は国境と平行して並べられている。一度爆発した地雷と国境を結ぶ線上にはもう地雷は無いので、先に一人立てるのが最も安全な亡命のやり方だ。
原作の小説ではこの場面がラストだ。一人は父親の死骸を踏み越え国境の向こう側へ渡り、一人は残ってそれを日記に記録する。父親殺しと、それまで一心同体のようだった双子の別離が同時に強く印象づけられて終わる。
それなのに映画ではどうして、別れる息子達に日記帳を与えるような父親像に変え、それを受けて日記を書く子供たちに設定したんだ? 原作では双子は自分たちの稼いだ金と自分たちの意志で紙と鉛筆を買い、自分たちの定めたルールの元で事実だけを、ただ必要と思われた事だけを淡々と記録し続ける。彼らは感傷や感情は不必要とし、そういったウェットなものが取り払われ切り詰められた文体はこの作品の特長の一つだ。彼らの考えのもと自発的に書かれていくその日記こそが『悪童日記』という作品となっているのだから、日記帳というアイテムとその経緯は何というかかなり……成り立ちの部分ではないのか? この作品の根幹において、重要な位置を占めるはずだ。
それが映画ではいきなり、別れる父親からの最後のプレゼントという陳腐でウェットなしろものとなる。双子は父の言いつけを守り日記を書き出す。制作側はそこに何の違いもないだろうと思ったのかもしれないが、違うのだ! と言わせてもらいたい。強く。
日記帳は、それにものを書き続けるということは、戦時下に父とも母とも別離し粗暴で抑圧的な祖母宅に身を寄せねばならなくなった主人公の双子が、初めて自分たちで選び獲得した、何かそれこそ父親や教師代わり(彼らは学校にも行かない)のような、「この世界で生き抜く上で己の力になり、時に導いてくれる(と彼らが信じ掴んだ)モノ」だ。繰り返しになるがそれを「彼ら自身が」、彼らの面している世界であるところの小さな町で、そこの文具店で「身銭を切って」獲得した点が肝心なのだ。この話は平たく言えば庇護されない子供たちが、彼らの対峙する厳しい世界の中で、自身の力で何とかやっていこうとする物語だからだ。
「父親から与えられた道具」では過ぎ去りし想い出のよすがであるばかりか(感傷は双子がつとめて日記から排除してきたものの一つだ)、それが上の者から与えられたという性質上、彼らにとってただの環境の一つに過ぎない。それでは全く意味が違ってしまう。そうでは無いのだ。彼らは道具がたまたま得られたから書くのでは無く、もちろん父親に言われたから書くのでも無い。書くことは彼らが生きるために必要で、だから彼らは道具を求め、書いた。「書くこと」自体彼らの周りには教えてくれる者がおらず、二人は一冊の聖書を使って独学で読み書きを学んでいった。
「彼らが巻き込まれるしかなかった環境に逆らって、初めて自分で望み獲得したモノ」であったはずなのだ、この日記帳は。「書く」という行為は。そういう意味合いがあったのだ、原作の中では……。
そしてこれは作者の生い立ちや創作の源泉とも重なることが多いので(この作品を含めた彼女の作品群は半ば私小説と呼べるものが多い)、私は映画でこんな改変をされた事について作者の気持ちを思うと、勝手にやり切れないものを感じてしまう。作者はもう亡くなっており、死者が尊重されないのは彼女の作風からするとむしろ合っている事なのかもしれないが……。
とりまとめて言えばまだ子供な上にただでさえ不自由が多い戦火の中、それが主人公たちにとっての武器であり糧であり強く生き抜くためのモノだった日記帳が、映画ではまるで父親から受け取った愛みたいなものに、ともすれば別れた父親を想って書かれているようにも受け取られるものにすり替えられてしまった。かなりアイデンティティぶっ潰れではないか? どうしてそんなことをしたんだ? この日記は彼らの「書く」という意志のもとの話でしかないのにその根本を摘み取り別な物に置き換えたのは何故? 映画を観れば何か納得できる答えは得られるだろうか。頼む、納得させてくれ! 煽りではなく心からそう思っている。
観たら本当にメチャクチャ怒り狂ってしまうかもしれないので心の準備をするためにいくつか映画レビューを読んだのだが、映画では日記帳にパラパラ漫画が描き込まれている描写があるという。パ……パラパラ漫画!? と二度目の憤死をした。あの全ての無駄を省き贅肉を削ぎ落としたような原作の文体、淡々と事実の記録しかしない所に物語的にも大きな意味が込められている事を知っているはずの制作側はどうしてそんな付け足しを? 主人公(ひいては作者)が定め、遵守してきたルールを踏みにじるような真似を……どうして……。
もちろん、映画化された事によって現代日本の読者からは想像もつかないような、主人公たちが生きた当時の暮らしの風土や感覚などを凄いリアリティで感じられる事などについては大変嬉しく思う。そういった映像表現についてはきっと素晴らしい映画であるだろうと感じられるのだ、予告からだけでも。
主人公の双子を演じる少年たちのビジュアルも、原作から受ける印象そのままと言っていい。もうそれだけでも十分以上のものだし、納得出来ない点があっても他に目を向けて感謝して観れば良いのだ……と思えるようになるまでに何年もかかってしまった。映画が公開されたのは2013年のことだ。
私は本当にこの映画を観て納得したいし、納得出来なくてもそれはそれで良かったと思えるようになりたいと本気で願っているが、どこまでまっさらな気持ちでこの映画を受け止められるかが分からない。願わくばこの物語に関する記憶を消して映画を観られたら、その後で初めて原作を読めるのなら、とても幸せなことだと思う……。でも、それは無理な話だ。
だから私はこれから記憶も思い入れも抱えたまま歯を食いしばってでも全部観て、自力で噛み砕いて納得するしかない。きっとそれはこの先の自分にとって有意義なことなんだろうが、こんな文章をジタバタ書いて整理しないと腹がキマらない位には苦しいものがあった。長くなってしまったが、読んでくれた方は本当にありがとう。
せめて映画ではラスト、父親はちゃんと地雷で惨たらしく死んで、主人公はその死骸を踏んづけてくれるんだろうなあ!? などとうるさく言いながら観ることにする。そういう観方でもしなかったら多分無理だ。その後言える感想があったら追記する。怒り狂っていたらすまない。
☆いきなり管を巻きまくってしまったが、小説『悪童日記』はマジの名作の上にアッと言う間に読めるので、気が向いたら是非読んでみてほしい。もし面白かったなら続き(『ふたりの証拠』、『第三の嘘』)もある。全三部作で、全て読むと分かる構成が本当に、本当に素晴らしいんだ。
緊急事態宣言からこちら、しばらく在宅勤務だったのですが、ハンコ押すために久しぶりに出社したわけですよ。
電車で40分位かかるところに通勤してるのですが、割と早め、6時半くらいに家を出て、電車に乗っているところお腹の調子が悪くなってきたわけです。
さぁどうしようかと思案したのですが、はじめは目的の駅のコンビニのトイレを使わせてもらおうと思ったのです。そこのトイレは比較的きれいでウォシュレットも完備されていまして。
ところが、目的の駅の二つ手前から急激にお腹が急降下しまして、これはいよいよもたないぞと。そこで一つ手前の駅で降りてトイレに向かうことを決めました。
電車を降り、股をもじもじさせながら、さぁもう肛門の扉をノックされているぞと、階段を降りてトイレに向かいました。
空いていない。
もうこの時分には余裕がありませんので、次の電車を待つ余裕はありませんでした。そこで機転を効かせ、駅前のコンビニのトイレへ行こうと駅舎の出入り口を出たその時でした。ふとした拍子に一歩もあるけなくなり、その刹那です。
はんうぁああぁぁぁぁぁん
はーもう本当に周りに聞こえないくらいに押し殺したけど情けない声が出て全然止まらずに全部噴射しちゃってさーそれも昨日飲んだ500の一番搾り2缶が効いたのか割りとゆるめで気づいたらもう足首辺りまできてて絶望と哀しみに一気に取り込まれてその場に崩れ落ちそうになったんだけど慌てて一目につかないコンビニの裏手にいそいそと隠れてはーこれどうしたらいいの家から数十キロだし替えなんてもちろんないし何これ誰かに助けを求めるのが正しいのかしら警察か救急呼んだら助けてくれるんだろうかなんて考えたんだけどいやいやと押し留めてとりあえず自分のお尻まわりを見てみたらまだ外からはわからないようになっててとにかく急いでコンビニに入るや否や一目散にトイレに入って空いてたから良かったけどそこで靴とチノパン脱いでパンツも脱いだらもう足元までべっちょりでとりあえず拭こう拭こうと思ってトイレットペーパーでケツから両脚にかけて丁寧に拭いてそのあと手を汚しながらチノパンを裏返してみたらもうひどい有様でトイレにそれをボトボト落としながら「落ちない落ちない…」なんてDQ6の回想に出てきた女剣士みたいに哀しみに暮れながらトイレットペーパーでとれるだけとってふと足元に目を向けると昨夜食べたラーメンに入ってたキノコとか落ちててもう本当に情けない気持ちになったんだけどようやく意を決してあらかた固形だけは拭えたチノパンをノーパンで履いて使いようがなくなった下着は申し訳ないけどサニタリーボックスの袋を拝借してそれにつめてポケットに隠してトイレを可能な限り綺麗にして後ろを気にしながらコンビニを出てもう一度自分の背面を確認してみたらもうそれはそれは立派なシミができてて往来から逃げるように小道に入ってとにかく今自分がするべきことは何かなって思って冷静に考えた結果次の2点だなと。
で、すぐにGoogleで服屋を検索したんです。最寄りに衣類の販売店は
始めこそうんこの臭いが動物園で嗅ぐあの臭いに変わってきて、はーもうこれお店でやっすいジャージを買い求めたら絶対こいつ漏らしたなって思われるじゃんと思って、暗い気持ちになりながらマップアプリを頼りに歩いていました。
すると目に飛び込んできたのは、ダイエーの大きな店舗。すぐさま開店時間を調べると9時開店。大概のお店が10時にオープンする中これは僥倖。
ただ開店は1時間半後。しまむらまで歩いても結局その周辺で同じくらい待つことになる。
よしここにしようと、その近くの小さな公園でちょっと佇んでみたんだけど、人通りもまばらながらあるしここで1.5hは不審者過ぎる。
そこで思ったんです。よし歩こう、と。
改めて後ろ姿を確認してみたんだけど、もうなんかうっかり濡れたベンチに座っちゃったと思えなくもない?とか考え出して。その結果自分のとった行動は、ダイエーの区画を4周する、でした。
その間に替えの履き物を調達した後の事を考えたんだけど、出来れば風呂もしくはシャワーで流したいところだけどこの新型コロナウイルスの影響で近隣のネットカフェや温浴施設は全滅。ここはもう多少は仕方ないなと思ってコンビニに入ってビオレのボディシートを2袋購入。
そのまましばらく歩いていると、左腕で Apple Watch が振動して何か連絡かなと思って見てみると「ウォーキングのワークアウト中ですか?」とかサジェストしてきやがってえぇい畜生手前最近ずっと在宅でくすぶってたからってはりきりやがってこの丸太ん棒がつけあがりやがって手前っちに頭下げるような御兄さんと御兄さんの出来が少おしばかりちげえんでい今から無事綺麗な身体になって家までたどり着いてやるからそれ見て(アクティビティログのリングを)赤くしたり青くしたりすんなよ細工は流々仕上げを御覧じろってんだ。
そんなこんなしてたら9時になってダイエーに駆け込む前に上司に連絡して今日在宅に切り替えたんでハンコ明日押しますっつってダイエーでジャージ買ってそれ持ってトイレ入ってウェットシートで出来る限り身体綺麗にしながらもうなんかあまり臭いが不快にならなくなってきてマヒしてきたのか乾いて弱くなってきたのかわからないけどこれ新型コロナウイルスの症状だったらどうしようとか考えながらジャージに履き替えて汚れたチノパンをようやく捨てることができてようやくまっさらな心地になってでもどうしようもない自己嫌悪には相変わらず苛まれながら泣きたくなるほどの晴天の中先刻帰宅しました。
ネタバレレビューとか読んで適当に感じたことをパッチワークしてみました。ミッドサマー?見てない見てない。
誰かと心が通っていると、芯から実感した経験、あなたはありますか?
私は無いです。
同じ気持ちを分かち合えていると、実感できた瞬間なんて人生で一度もない。
どんなに楽しい瞬間でも、相手に無理をさせてないか不安が残る。
どんなに悲しい瞬間でも、誰かの顔色を窺っている。
だからまあ、人の様子ばかり気になるから、一つの感情に染まり切れないのが問題なんですよね。
だから、私は「誰かと同じ一つの感情を分かち合い、その感情に浸り切れる」そういう瞬間を夢見ているんです。
現代社会が失った、ハレの日という昂りを分かち合うための時間。
その光景の美しさを、鮮やかな花々で彩って私たちに見せたのです、アリアスターは。
姉妹の不安の受け皿となるしかなく、彼女自身は弱音を吐こうとも周りの目が気になってしまう。
そうして事件を迎え、全てを失い、頼りたい彼は素っ気なく、歓迎されることのない旅路。
寄る辺ないとはまさにこの事で、彼女は、彼女が属する社会から完璧に切り離されていました。
ああ、これ私だ。
ミッドサマーの評価が分かれるのは、ここにあるのではないでしょうか。ダニーを、自分のことと思えるかどうか。
ここで、ダニーに共感できる要素がなければ、ミッドサマーは、ただのホラーで終わり。
変なカルト宗教が若者を美しく殺していく…のだけれどもちょっとスリルにはかけるかな?という雰囲気なんだろうか。
ダニーを若干好意的に見てる、という人はまた少し話は違ってきて、おそらくエンディングは「高校の頃の友人がマルチ商法にハマってた…」みたいな絶妙な感覚になるんじゃなかろうか。
ダニーに、どこか自分の孤独感を重ねて見てしまった人。そういう私のような人が、一番この映画を楽しめて、そして一番この映画を見てはいけないのだと思う。
だから、あのエンディングの後に、きっとダニーも殺されるのでしょう。
メイクイーンとなった人々の写真の枚数の割に、かつてのメイクイーンが登場しないことを照らし合わせると、なんらかの形でメイクイーンを始末しているのでしょう。
ホルガが近親相姦を避けるために外部から人を招き入れていることを考えると、ホルガの血を引かないダニーに、下卑た末路を思い浮かべてしまうのは私だけでしょうか。
だから冷静に考えるとダニーはどこまでも悲惨なのです。側から見れば今まで生きた社会から切り離された挙句、薬漬けにされカルト宗教に堕ちてしまった女なのです彼女は。
でも、そうまとめたくは、ないじゃないですか。
あの弱音を吐くことも、自分の居場所を得ることも上手くできなかったダニーが、全てのしがらみを抜けていって、新たな世界で出会う人と心の底から楽しみ、歓び、そして泣き叫ぶ。
ありとあらゆる感情を迸らせようとも、それを奇異の目で見られることもなく、それどころか共に笑い、共に泣いてくれる人々がいる。
それは、やっぱり、私に取っては夢のような光景だったんですよ。
ダンスの最中、スウェーデン語を話せるようになった彼女の姿が、あまりにも眩しかった。
と喜び踊るあの姿は、本当に美しかった。
あのホルガという村は、何もかもが嘘だけれど、あの誰かと心を通わせようとする力強さだけは、本物だって信じたくなったんですよ。
どんな感情であろうとも率直にぶつけられる村。
どんなエゴであろうとも、それをむき出しにすることを許される村。
どうにも現代社会というのは、距離感を取りたがる文化らしく、感情をむき出しにするとおかしなものとして処理されるんですよね。
そういう小さな我慢たちを「理性」として持てはやすこの時代に、私は寂しさとか疲れを感じてしまった。
家族という強烈な繋がりを失い、
薬によって現代人としての理性を失い、
そうやって、現代社会との繋がりをひとつひとつ失って、まっさらになった彼女に、あの問いかけがやってきます。
どちらの世界で生きるかを決めたんだ。
そりゃ、たくさんの人が死にますよ。残虐に殺されていく。
でもいいじゃないですか。ダニーは確かに、救われてるんですから。
ダニーを、私を苦しめてきた粗暴な世界が緩やかに壊れていくだけのことで、そこには喜びしかない。
そうやって、彼女を押し込めてた世界がようやくほどけていく。それならば、かつて愛した彼であろうとも、犠牲にしたっていいだろう。
クリスチャンは村人とセックスをしたから、恨みで燃やされたわけじゃない。
今までの世界の名残、今までの私という汚点の象徴だからこそ殺したんだ。
やっぱり私は、ミッドサマーが大好きです。
もしあの後に殺されるのだとしても、いいじゃないか。
この居場所のない世界で心を殺しながら細々と生きながらえるよりも、あんな美しい世界で誰かと大いに心を通わせたという一瞬を得て、死んでいく方が大いにマシだ。
だからきっと私も、揺らめく火を見つめながらにっこりと笑えるだろう。
結論から述べると、マッチングアプリでは彼女を作ることはできなかった。
けれども、2年間の経験から何も学ばなかったわけではない。そのことを再確認し、次のステップに進むために本記事を書く。自分を振り返り、失敗した点を反省しながら、絶望したり自棄を起こしたりしないように、時折この記事を振り返ることとしたい。
また、これからマッチングアプリを使う人にとって、参考になることがあればうれしい。確かに、女性と交際にまでは至らなかったが、全然マッチングしなくて困っている人には、役に立つかもしれない。
pairsとwithを使用。それぞれの仕組みは基本的に同じ。検索条件で異性を絞り込み、気になる相手に「いいね!」を押す。互いに「いいね!」を押すとチャットができるようになる。どちらも、毎日ランダムに無料で「いいね!」を押せる相手が出てくる。
プランはどちらもプレミアム的なものを選択。これだと通常1か月に付与される「いいね!」が30回から50回に増える。
この二つのアプリの仕様はよく似ている。どちらもコミュニティに入ることで共通の趣味や興味関心で検索ができる。ただし、withのほうがおおよそ2週間に1度DaiGoによる心理テストがある。そして、このテストにより相性がいいとされた異性は「いいね!」を1日に10人までなら無料で押すことができる。適度に「いいね!」を押す相手が入れ替わるし、無料で選べる相手が増えるのはありがたいが、心理テストのたびにDaiGoのドヤ顔を毎回見ることになる。
pairsを半年、しばらく休んでwithを1年半使ってみた。結果、どちらが特に使いやすいということはなかった。しかし、どちらも毎日ログインすることにより無料で「いいね!」に交換できるポイントがたまっていく。普通に使っていれば毎日ログインボーナスがもらえるのでありがたいのだが、まるでアプリにこちらの行動を支配というか指示されている気がするのはいただけない。ソシャゲの類をやらないので、そうしたことが煩わしく思えてしまう。
使い勝手そのものはいいのだが、こうやって様々な条件の女性が並んでいるのは、カタログみたいで興ざめというか殺伐とした気持ちになる。それに、相手の女性が何人から「いいね!」されているかも表示されるので、野菜か何かの品評会みたいだ。18歳のビキニの女性に3000近くもの「いいね!」がついているのを見るとやりきれない思いがする。谷間を見せたりしているだけでも露骨に「いいね!」がついているのも、あまり気持ちのいいものではない。自分もおっぱい大好きだけどさ。
逆に、「いいね!」をたくさんもらっている男性のプロフィールも参考にすることができるのだけれど、僕の苦手なさわやかな人間の写真が出てきたので、即閉じた。
プロフィールはできるだけ詳細に書いた。それから、友人と楽しそうにしているところをサブ写真に選んだ。コミュニティはできるだけたくさん入った。自分は読書が好きなのだが、読書のコミュニティだけではなく、作家ごとのコミュニティにも入った。こうすることで、共通の話題の多い女性を探しやすくなった。
こちらから「いいね!」を押すのは、大体20から40くらいの「いいね!」が押されている相手を中心にした。何百もの相手から「いいね!」をされている相手からすれば、当然埋もれてしまうからだ。弾の無駄打ちはしたくなかった。確かにお金を払えば「いいね!」する回数を増やせるが、すでにプレミアムプランを使っていたので、その必要はないだろうと判断した。それに後述するが、自分は同時進行が苦手だ。
相手の女性は、自分と同じ内向的な読書家で、美術館が好きそうな人を中心に「いいね!」していったが、もしかしたら意外と相性がいいかもしれないと思い、例えば国内旅行や登山が好きな人も選んでみた。ガチ勢ではないが、友人と富士山に登ったことはあるので、新しい趣味として開拓してもいいかもしれない、と考えたのだ。結局そういう相手とは会話が続かなかったけれど。
結婚歴は未婚を選んだ。もしかしたら、離婚歴のある人のほうが優しくしてくれるかな、とも思ったのだけれど、今回はやめておいた。やっぱり過去の人と比べられてしまうのが怖い。御覧の通り、僕は器が小さい。学歴は初めのうちは気にしていなかったが、結果として高卒よりは、大卒・専門学校卒のほうが共通の話題も多く、話は長く続いた。
メッセージを同時進行するのは気が引けたが、相手もそうしているだろうし、そこは割り切ることにした。ただ、自分の頭の処理能力を考えて、3人までの同時進行とした。どのみち、同時進行でデートに誘うことができたケースは1回だけだった。自分はそこまでモテるわけではないので、そうした心配はしなくてもよかった。
会話をして1~2週間してから実際にデートに誘った。そこで音信不通になるケースもあるので、実際にデートができたのは1か月に1度か2度だ。
もともと、デートした各相手について項目を立てて論じようかと思って手帳を取り出していたのだが、馬鹿らしくなってやめた。10人以上の相手それぞれについて思い出すのも大変だし、振られた相手なのだから面白くない。それに、細かく書いていくとねちねちした恨み日記になってしまう恐れがあるので、細部は省く。
結果だけ言うと、様々なタイプの女性と会った。たいていは常識的だったが、中には残念ながら失礼な相手もいた。
ひどいケースだと、こちらを一目見るなりムスッと黙り込んで、理由もわからないまま不機嫌な相手と水族館を回る羽目になったこともあった。2回目のデートで「ごめんなさい、やっぱりあなたとは恋愛できそうにないです」と告げられたこともある。誠実な人柄を感じたので諦めもついたのだが、その直後に「あなたの顔って、面白いですね」などと言われたのには傷ついた。男性が女性に対して敬意を欠いた失礼な態度を取るのが許されないのと同様に、女性も男性の自尊心を大事にしてほしい。
まだマシなケースでは、会話が弾まなかったり、恋愛対象にはならない相手だって互いに気づいてしまったりした。でも、これはどっちも悪くない。需要と供給が一致しなかったのだ。
でも、マッチングアプリを使っているうちに、1回で終わるデートが2回目に続くことがぽつぽつと出始めた。
そこで、ある女性と3回目にデートした時に告白した。3週間連続でデートできたので、これは間違いなく行けるだろう、と思ったのだ。けれども、彼女は驚いた様子で返事を保留した。僕は待つことにした。そして、7回目のデートの後、8回目のデートのリスケジュールの途中で、彼女は音信不通になった。
さようならを言う機会さえ与えられなかったのか、と思うと吐きそうだ。悔しい。小説も漫画も音楽も趣味がぴったり合って、普段ならできないディープな話を何時間してもお互いに飽きなかったのに。
そういうこともあり、一緒に見に行った岩井俊二や三谷幸喜の映画まで嫌いになったし、彼女が好きだと言っていた東京事変の印象も悪くなってしまった。すすめてくれた「子供はわかってあげない」や「北北西に曇と往け」も背表紙が見えないように逆にして本棚に置いている。ついでに、「パラサイト」を見に行こうという話になっていたのだが中止になったので、ポン・ジュノ監督の映画はしばらく見たくないし、ついでに是枝裕和監督のことも褒めていたので、当分この監督の作品を見ることもないだろう。なんというか、自分の好きだったものまで嫌いになってしまいそうでみじめだ。しばらくすれば、またまっさらな気持ちで好きなものを好きだと思えるようになるはずなのだけれど。しばらくは映画を見たいとは思えそうにない。
きちんと「一緒に過ごして楽しかったけれど、あなたとは交際できません。ごめんなさい」の一言があれば、ずっと救われていたのに。その程度の言葉をかけるのも面倒くさかったのか。そこまで軽んじられているのかと思うと情けなくて泣きそうになる。そういえば、本名を教えてくれた時も、男性でいえば鈴木一郎みたいな感じだった。そもそも偽名だったのかもしれない。そういえば遅刻魔だったのも、僕のことなどどうでもいいと思っていたのだろうか。それとも、本当に事故にあったのであろうか。心配でならない。
こういう時に限って、過去の恋愛のみじめな失敗を思い出す。例えば、大学時代に片思いをしていた女性から童貞を馬鹿にされたこととか、前の職場の同僚の女性から面と向かって恋愛感情を見せたわけでもないのにいきなり迷惑だといわれたことだとか、告白したけれどもやっぱり保留にされて、1年以上たってから振られたこととか、とにかくみじめな失敗ばかり浮かんできて仕方がなかった。
そして、残念ながら2年間で1度も手をつなぐことができなかった。
現在、音信不通、という最悪の結果を受け入れてから2週間ほどだ。正確にはラインの返事が来なくなってから4週間、こちらからの催促のメッセージが未読のまま3週間が過ぎた。土日はジョギングをするほかは、家に引きこもって寝ているばかりだ。コロナウイルスのせいで、美術館に気晴らしに行くこともできない。仕事にも集中できない。失恋した直後は同僚のなんということのない口調に激昂しそうになった。その時は1度席を離れて6秒数える、アンガーマネジメントを試みた。しかし、腹の虫がおさまらなかったので、100まで数えることを3度やった。さすがにこれは効果があった。とはいえ、そのあと結局体調を崩して職場を2日間休んだ。
今日も最低限のパフォーマンスは確保しているが、突然襲ってくる虚無感は抑えがたい。手が止まってしまう。それでも、原因がわかっている落ち込みだから、対処の仕様はある。
いやっほーい、自由だ! これから風俗で未経験のプレイをたっぷり楽しんじゃうぞ! うひひ! みたいな気分になることもないではないが、それはちょっと躁状態のときの考えだ。本当は、自分は好きな人と手をつないでデートしたり添い寝したりしたいのだ。まるで人生の実績解除みたいに、複数プレイに興じたり、白人美少女と寝たり、メイドさんにお尻ぺんぺんしてもらったりしても、そこまでの喜びはないのだと思う。
自分は恋愛対象としては魅力的ではないのかもしれない。そのことを身をもって体感させられた。しかし、それで絶望するつもりはない。結婚相手としてなら考えてくれる人もいるかもしれないからだ。
もともと自分は結婚願望が強く、子供も欲しい。マッチングアプリからの疲れから十分に回復したら、そういう条件で折り合ってくれる人を探してみたく思う。マッチングアプリは単純に素敵な彼氏彼女を見つける場所で、僕に対する需要が少なかった可能性がある。
それに、結婚相談所にはアドバイザーがいる。なんであれ、苦手だったり詳しくなかったりする分野の出来事に立ち向かうには、専門家に相談するのがいいはずだ。病気になったら医者にかかる。進路相談には学校や塾の先生に相談する。悩んだらカウンセラーに相談する。それと同じことだ。
確かに自分の生涯にはロマンチックな出来事は少ないかもしれない。自分は高校・大学時代の甘酸っぱい恋愛にあこがれたが、失敗してきた。こういう絵にかいたような青春が欲しくて、人生をやり直したくなり、胸が苦しくなることもあるが、自分は10代、20代にそうした恋愛に挑戦し、敗れてきた。そのことは悔しいし、無力感に押しつぶされそうになることもある。恋愛を扱ったテレビを見るのも苦痛だ。元カレ・元カノという言葉を聞くだけで、複数の相手と付き合ったことがあるのだという事実を見せつけられている気がして悔しい。だが、それでもチャレンジしたことは恥じてはいない。行動せずに文句だけこぼしていたよりは、ずっとましな人生を送ってきたはずだ。
長々と読んでくれてありがとう。
つらい失恋の渦中にある人が慰められるといいと考えて執筆した。
そしてこれを読んで一歩踏み出す勇気が出る人がいたら、もっとうれしい。
これは失敗の記録だ。だが無意味ではない。
泣いたっていい。気が済んだらもう一度アタックする。
女性から断られる勇気がまた出てきたら、それは3か月後か半年後かわからないが、またチャレンジしたい。
たくさんのコメント、本当にありがとうございます。励みになりました。
ここまでコメントをともらったのが初めてで、すべてにレスポンスはできないのですが、こちらも勇気が出ました。
一言だけ。手を繋げなかったのは、相手がずっとポケットに手を突っ込んでいたからです。