はてなキーワード: 百科事典とは
若かりし頃の話だ。ちょっと語らせてほしい。気持ちの整理がついたのだ。チャンスは今しかない。
当時、大学四年生だった俺は、いわゆるネトウヨに堕ちた。就職活動に失敗し、大学院受験にも失敗し、にっちもさっちもいかなくなり、卒業後はフリーターとして生きる未来がほぼ確定していた。
悲しいかな、自惚れが強い性格だった。ネット上で言うのは最初で最後になるけど、十数年前に慶応義塾大学で法律や経済のことを学んでいた。専攻は不動産登記とか、土地や建物の取引関係がメインだった。成績はまずまずで、サッカー部(※厳密には違うがサッカー部という名称を使う)では補欠だったけど全国大会に出た経験があったし、就職活動が失敗することはないと思っていた。、結果はこのザマだ。
日系企業を主に受けていた。第一志望だった総合商社はもちろんのこと、メーカー系もマスコミ系も金融系も20〜30社受けたけど、ぜんぶダメだった。大手も中堅もすべて。中小企業の内定は取れたが、プライドの高い俺はすべて辞退した。
面接まではとんとん拍子なのだ。大学名がよかったからだろうか、エントリーシートを適当に書いても、SPIの勉強をしなくても、とにかく面接までは辿り着ける。しかし、内定を取ることはできなかった。
今思えば、あの時の自分程度の実力では、まともな会社から内定を取ることはできなかった。30代半ばになった今の率直な感想だ。確かにサッカーはできたけど、精神はぜんぜんなってなかった。今やっている『ブルーロック』のアニメでいうと、実力のない馬狼照英みたいなものだった。
で、結果がネトウヨだった。大学四年の秋〜25才頃までなので、約三年ほどネトウヨに堕ちていたことになる。
今では黒歴史だ。『国民の知らない反日の実態』とか、圧倒的眉唾感のサイトがあるだろ。ああいうのを見て、中央省庁にテンプレメール送ったり、韓国人や中国人の応援をしてると思われる国会議員をディスったり、mixiやGREEで反日活動を認定されたアカウントに突撃をかけて垢停止になったり、とにかくクソみたいな人間だった。
今思えば、いろいろと失ってしまって自暴自棄というか、自分も他人も大事にしない状態だったんだろうなぁ。当時の俺は。
ここで、大学時代に読んだ本を引用したい。約二千年前の、ローマのネロ帝の家庭教師ポジだったセネカの書いた『生の短さについて』だ。
長いけどすまんな。先に要約しておくと、苦しい立場に陥った人間は何かにつけて逃避行動に出る、みたいなことが書いてある。なにげに、現代の異世界転生ブームを予見している感がある。特に『オーバーロード』なんかの異世界転生+光属性の人間が死にまくるようなコンテンツが流行る理由がわかった気がする。
すごく長いけど、可能な限り要約してここまでだった。
さらに、さほど移り気ではないが、その一貫性が恒心のゆえではなく、懶惰のせいであり、自分の意欲するとおりの生を送るのではなく、始めたとおりの生を送る者も、この範疇に加えるとよい。症例を次々に数え上げればきりがないが、この病態の結果は一つである。自己に対する不満がそれだ。その由って来る因は、心の平衡の欠如と臆病な欲望、あるいは完全には満たされない欲望である。望むだけのことを思い切ってできなかったり、望むだけのことを達成できなかったりして、すべてを希望に託す場合がそれに当たる。そのような人間は常に不安定で流動的であるが、何事においても中途半端な者の必然的な結果である。彼らは自分の願い事を手立てを尽くして達成しようとして、不名誉なことや困難なことまでみずからに唆し、強いるが、苦労が報われなければ、願いが叶わなかった恥辱感に苛まれ、しかも、歪んだものを望んだことを嘆くのではなく、望みが徒労に終わったことを嘆くのである。そのとき、彼らは挫折した目論見への後悔の念にも、また、新たな目論見に着手することへの恐れの念にも捉えられ、その精神には、欲望を制御することもできず、かといって欲望を満足させることもできないために、出口を見出せない心の動揺や、思いどおりに展開しない生への躊躇、断念したさまざまな念願の中で無気力になっていく心の沈滞が忍び込むのである。苦労の挙句の蹉跌に嫌気がさして、閑暇の生や孤独な学問研究に逃げ場を求めたとしても、こうした心的状態はどれもますます耐えがたいものになる。公人としての務めを果たそうと意気込み、行動を望む、生来落ち着きのない精神は、当然、みずからの内に見出せる慰めがわずかなために、そうした閑暇な生や孤独な学問研究には耐えられないからだ。世間的な仕事に奔走しているときにまさにその仕事から得ていた喜びが取り去られると、みずからの家に、孤独に、取り囲む壁に耐えかね、一人取り残された己の姿を嫌々眺めるのは、それゆえである。落ち着き場所をどこにも見出せない精神の揺れ、そのような精神への倦怠や不満、そしてまた無為の生に耐える悲しくも病める忍耐は、ここに起因する。そうした状態の真の原因を認めることを恥じて、羞恥心が責め苦を内に向け、心の片隅に閉じ込められたさまざまな欲望が捌け口もなく互いを窒息させ合う場合がとりわけそれに当たる。そこから生じるのは、悲哀や憂鬱であり、また、希望を抱いた当初はどちらともつかない不安な状態に置かれ、やがては挫折を嘆く悲哀を味わわされる、千々に乱れる不安定な精神の揺れである。無為の生を厭い、自分にはすることが何もないといって嘆く人々に特有の例の感情、他人の栄達を蛇蠍のごとく憎む嫉妬心は、そこから生じる。不幸な無為の生は嫉みを育むからであり、自分が進展できなかったために、誰もが滅びればよいと望むからである。この他人の前進への嫌悪感と自分の前進への絶望感からは、次には運命に怒り、時代をかこち、片隅に退嬰し、みずから招いた責めにくよくよと拘泥し、そうする己の姿に辟易して嫌気がさすまで考え込む精神が生まれる。実際、人の精神は生来動きやすいものであり、動きへと向かう性向をもつものである。そのような精神にとっては、みずからを刺激し、どこか(別世界)に連れ去ってくれるものなら、どんなものでもありがたいと思う。その才知を世間的な仕事にすり減らして嬉々としている最悪の人間(の精神)にとっては、なおさらそのようなものはありがたいのである。ある種の腫れ物は潰してくれる手を求め、触れられることを喜ぶし、身体に出来た汚い疥癬は引っ掻いてくれるものなら何であれ歓迎するが、それと何ら異ならず、さまざまな欲望があたかも厄介な腫れ物のように吹き出た精神にとっては、苦しみや悩みは(ある種の)快楽となると言ってよい。
そんなわけで今回、若かった頃の俺がやってしまったネトウヨ行動を取り上げて、自分を断罪したい。ネトウヨ活動では多くの人に迷惑をかけてしまった。ふたつだけ取り上げるが、どちらも個別案件だ。まずは、この一件から。
それは、2011年だった。当時、ツイッターを始めたばかりの俺は、タイムラインとか、検索のやり方とか、連携の仕方とか、いろいろと勉強していた。そんな折、『炎上』というキーワードが眼に入った。炎上自体は何年も前からネット上で起こっていたのだが、自分が直接関心をもったことはなかった。
なお、この頃の俺は、都内のサイゼリヤで働く一介のフリーターだ。毎日、レンジやオーブンやIHヒーターで厨房仕事をするのが仕事だった。ムカつく年下の女社員から、「増田さん慶應卒なのwwwマジすかwww」みたいな感じでディスられていた。
それで、ある時ツイッターで見たんだよ。炎上の場面を。有名ホテルに芸能人が来ていた時、そこのアルバイト従業員が「芸能人の○○が二人で泊まるみたい」とかなんとかをツイートして、「客の個人情報を暴露すんな!!」みたいな恰好で炎上したのだ。俺は、それを間近で見ていた。
当時は、炎上騒ぎに参加する人間が実は少数である、という科学的知見はまだ得られていなかった。本当に多くの人間が炎上騒ぎに参加しているのだと思っていた。それで、当時はストレスが溜まりまくって、シロクマ先生でいうと承認欲求に飢えた若者だった俺は、誰かを炎上させたいと心に決めた。
自分でいうのもなんだが、知能が高い自信があった。中味はクズだったが。それから毎日、俺は炎上の種を探し、それらしいものを見つけてはツイートしていったけど、ぜんぜん炎上に至らなかった。ダメだった。
何週間か経って、もうダメかなと思いかけた時、あるツイートが目に留まった。プロフにアディダスの社員であることを明記している人物が、あるツイートをしていた。要約すると、都内のアディダス店舗にアディダスがスポンサーになっているサッカー選手が訪れたのだが、その人の容姿を侮辱するツイートをしていた。
「これだ!!」
と思った。俺だって小学生の頃からサッカーをしていた。サッカー選手を馬鹿にするのは許せない。
サッカーの試合で、「いまだ!!」と思う場面がやってきたとするだろう。この時、「いまだ!!」の「い」の場面で行動を起こす必要がある。「いまだ」と心の中で叫んだ時にはもう遅い――
そんな、大学時代のサッカー部のコーチからのメッセージを思い出した。実際、俺のルーレットスピンは大変狭い界隈ではあるが知られていた。三人抜きをしたこともある。その指導を正しいものだと信じて努力した結果だった。
そして俺は、そのアディダス社員の行動を咎めるツイートをした。
……その次の日、俺は大好きなハムスター速報を観ていた。ツイートのことは忘れていた。そしてある瞬間に、マウスをクリックする手が震えたのを覚えている。
それはもう、見事な炎上だった。アディダス社員はボコボコに叩かれまくっていた。コメントの数をカウントしてみると、軽く数百はいっていた。
ツイッターを確認した。俺と同じ時刻にツイートをした人間の数は、確か二人だったと思う。1人は準アルファツイッタラーと思しき人で、フォロワー数がけっこういた。でも、確認できた中では俺のツイートが一番早かった(その二人、もしかして俺のツイート参考にしたんじゃね!?)。いや、絶対とは言い切れないが。そのはずだ。※俺のツイートは削除済み。
あの時、俺は世界で一番賢くって、一番運がよくて、一番強い人間なんだ!! と心の底から思った。全くそんなことはなく、ただそういう運に当たっただけだった。
その日から数日、ハムスター速報に夢中になっていた。その記事ばっかり見て、コメントが貯まっていくのを観ていた。今では思う、俺がやったのはクソみたいな行為だ。具体的には、畑の隅に捨てられた白菜の欠片だ。茶色いカビが生えてしまって、もはやハエすら寄ってこないほどに腐りきったカス野菜だ。そんなレベルに堕ちていた。
だから俺は今日、ここで謝罪したいのだ。俺の行動が原因のひとつで、炎上を招いたかもしれなかった。俺だけが原因ではないけど、でも、あの時ツイートをしなければ運よく炎上を回避できていたか、あの子は若気の至りで済んだのかもしれない。
あともう一つで謝罪は終わりだ。気が付いたらけっこう書いてるな。ここまで筆が進むとは思ってなかった。
同じく20代の頃、ニコニコ動画にハマっていた。ようつべよりニコニコ派だった。で、その中のサービスのひとつにニコニコ大百科というのがある。端的にいうと、wikipediaがもっとバーリトゥ―ドになった感じだ。なんでもあり感が満載のネット百科事典ということになる。
ここに電通の記事があった。やはり『国民の知らない反日の実態』などのネトウヨサイトを巡回していた当時、なにかやってやりたいという情動に突き動かされることになった。例えば、一集団内の駒として、都内某所で花王不買運動とかのネトウヨデモに参加するんじゃなくて、もっと大きいことがしてみたかった。
それで、ニコニコ大百科にある電通の記事を編集することにした。当時は、スパッとした端的な記事内容だったのだが、俺が編集を終える頃には、圧倒的ネトウヨ臭の漂う記事へと変貌していた。
こんなことをしていいのか、という認識はなかった。ただ、電通は反日企業として認定されていたから、鉄槌を下すべきだと信じていた。俺を役員面接で落とした逆恨みもあった。
さて、編集後はとんでもないことになった。コメントの数が増えたのだ。それまでは10件くらいしかコメントが付いていなかったのが、その後1年間で百件以上のコメントが付いた。
内容はお察しのとおりだ。俺と同じネトウヨ連中か、または『国民の知らない~(略)』が引用元だから信じなくていい、みたいな二極的なことになっていた。
残念ながら、要編集記事に指定されてしまった。その解除には約五年を要した。俺は、編集してから一年も経つ頃にはネトウヨ活動に興味を無くしていた。もうどうでもいいと思っていた。
というのも、内定を得たからだ。しがないファミレス店員だったが、数年間フリーターとして努力し続けた俺には、わずかずつではあるが、社会人としての力が身についていた。準社員マネージャーみたいな役職があったのだが、アルバイトでも正社員の仕事をやらせてもらえる。それで、組織の下部階層における事務管理とか、オペレーションの指揮とか、コーチングやティーチングを学んだ。それが活きて、就職に成功したのだ。
あの時、俺を馬鹿にして、「あんた、それで慶應卒すかwww」とほざいていた女子社員も、俺のことを見直していた。あの時からはいろいろあって、なんやかんやで一緒にご飯に行くようになっていた。内定を得た時には交際していた。公園デートの帰り道、俺の方から「ねえ、付き合おうよ」と言ったのだが……おっと、けれどもこれは別の物語だ。いつかまた、別の時に話すことにしよう。
それで、ネトウヨの道から遠ざかった。ネトウヨを卒業したのだ。
今は、都内のどこかでカタい仕事に就いている。この物語の舞台はずっと都内だ。思えば、勉強自体はできるのだから、これが一番効率のいい道だったのだ。この道は、父親に教えてもらった。マジで感謝している。やっぱり、こういうところだけ要領がいいのが俺だ。2023年3月になった今も、人として生きるにあたっての知性というか、そういうのが足りない人間なんだと感じる。成長していない。ネトウヨを脱出できたのと同じく、いつか成長を遂げることで、こういう気質をゼロにしたい。
終わりに、この日記を書くにあたっては、大学時代に書いたサッカー部や私生活の日記とか、フリーター時代にサイゼの卒店式でもらったみんなの寄せ書きとか、mixiやtwitterのマイページとか、公務員試験の学習記録とか、とにかくいろんなものに触れて自分を振り返ってみたつもりだ。
ネトウヨにならない方法は簡単だ。毎日の食事と、朝に日光を浴びて仕事に向かう、ただこれだけで解決するものと信じている。
つまらなかったのなら申し訳ない。ほんの少しでも、あなたの暇つぶしになれたのなら嬉しいと思う。読んでくれてありがとう。
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お気に入りに入れてた人がいたらごめん。
最近、「働きたくないから生活保護を受けてみた。毎日が豊かになった。」というタイトルのnoteを読んだ。「働きたくない」という理由で生活保護を受給し始めた人の体験談で、労働に追われることのない悠々自適な暮らしを手にいれ、現在は読書を通じて勉強したいことを自由に勉強する日々を送っているという。「現代の高等遊民」ともいうべき生活をしている様子が窺える内容だった。
しかし、ふと疑問に思った。
「どれだけ知識を身につけたところでそれを使って世の中に影響を与えないなら無意味で、いわば"百科事典の下位互換を目指すだけの人生"なのでは?」と。
確かに読書や勉強は世界の見方を変えるとは思う。例えば英語が分からない人生よりは英語が分かる人生の方が読書も映画鑑賞も幅が広がるし、翻訳や吹き替えでしか作品に触れることができない人よりも深い理解や感動が得られるだろう。だから働くつもりがなくても知識を身につけ続けること自体は悪いことではない。
しかし、それでもやっぱり"百科事典の下位互換"を目指しているようにしか思えないのだ。
学んだ知識で(良くか悪くか)世の中に影響を与え、賞賛や批判というフィードバックを受けることが現代人の「生きる実感」なんじゃないだろうか?
noteを読む限りまだ若い人のようなので、この人自身は読書の日々で得られたものが将来何かの仕事に繋がることもあるかもしれないし、仕事ではなくてもSNSで多数のフォロワーに影響を与えるのも「世の中に影響を与える」に当てはまるかもしれない。
ただ、このnoteを見て「ワーキングプアになるくらいなら生活保護」と言っている人が一定数いるのは事実で、その人たちの多くはSNSで多数のフォロワーを抱えるわけでもない、「なんでもないただの無職」になる確率が高いのではないだろうか?いくら労働から解放されて自由に学べたとして、それを発揮する機会のない人生に虚しさを1ミリも感じないほど達観できる人はそれほど多くないと思う。
最近はひろゆきブームもあってカジュアルに語られることが増えた生活保護だが、「働きたくないから生活保護」の人生にはそれなりの苦労があると思う。「耳をすませば」のセリフじゃないけど、「人と違う人生は、それなりにしんどい」というのが現実なんじゃないかな?
においの言語化は難しい。
既に表現が固まってるものはもちろん簡単だが、そうでないとなかなか伝わる書き方を捻り出せない。
たとえば俺がサイクリングで走るいつもの道のある区間で感じられる匂いは、青臭いのだが、じめっとした土っぽさを彷彿される苦味の混ざったような感じの青臭さだ、というふうにしか書けない。
富士樹海を散策してるとき通常漂っている匂いという言い方もありそうな気がしたが、どうにもあの甘い感じもする心地よい匂いとは違うのだ。おそらくそっちの表現を採用しても読み手には俺が感じたのとは全然別の匂いを喚起させるだけだろう。リアリティーがない。
理屈を言うというときは俺ぐらいの人間でもすらすら言葉が出て来るが、こういう五感の言語化は難しいものだ。嗅覚と視覚はその双璧じゃなかろうか。
世の中ネットも理屈とそれによるぶつかり合いに溢れている。理屈めいた文章は供給過多でみんな飽き飽きしてるのだと思う。
ちなみに視覚表現も同じぐらい難しい。これはその表現されたものを理解することが俺には難しいことも関連してるのかもしれない。
たとえばジャイロスコープがなんのことか分からなかったときにまず百科事典を見て見たら
「互いに直交する三つの軸の周りに回転する金属環の内側に支え」なんて具合だ。どんな状況かなんとか頭の中で軸と輪を独楽の組立てを試みるが、なかなか記述に整合するものが出来上がってこない。智慧の輪でも解いているようなそんな気分だ。
理解出来ない表現と同様の表現は書くこともできないみたいなやつだろう。特に外国語学習でよく言われるようなことに通じてるのかもしれない。
ライトノベルの作者が文学者として語られないのが腑に落ちない。
ライトノベル滅多斬りのようなそれに特化した書籍ならともかく、国語辞典や百科事典に載ってる人が全然いないわけだ。
特化した本では語られていてそうでない本では他のジャンルと同じ割合だけでもなく全然言及されないというこの状況は世間にとってラノベの価値は井の蛙的なものであるということを物語っているのではないだろうか。
後にも述べるがいまやラノベは純文学以上に熱烈な支持者は多いように思う。
が、そもそも本に対する愛着やこだわり自体あまりなく暇だったり必要に応じて読んでいるという人が、蝸牛の争いのような両者に比して圧倒的多数だと仮定するなら、権威ある事典などにラノベではなく純文学の作者について語られていれば浮動票のようにそちらの方が優れていると考えるだろう。あるいは世間一般の人がそれがなんとなくであるにすれラノベより純文学の方が優れているという考えを持っていることの現われなのかもしれない。
このような単にラノベが純文学より劣っているという考えは何の普遍性もない(無根拠な)価値判断が来ているのだろうか。
正直私にはたとえば恋愛を扱ったものに関してラノベと純文学で読後感という点で違いを見出せなかった。
ラノベ、魅力的な都合のいい異性を描いて娯楽に供させる。
一方で純文学、シェイクスピアのハムレットなんか見てみるわけだが、異性が魅力的でないこと以外読み物としては両者ともそれぞれ違った(優劣ではなく)面白さがあるだけで差を感じられなかった。
ブリタニカ百科事典先生によると、文学は芸術の一つで、芸術には美の要素があることが要件らしい。
逆に言えばより美しく、芸術性が高い作品が文学としてより優れたものなのだということになりそうだ。
でもそれじゃあ美ってなんだよって話になる。ラノベに書かれてることは美しくなくてシェイクスピアは美しいと頭ごなしに言われてにわかに納得できるか?ラノベ好きなら教条主義的な人以外そんなことを思考停止して受け入れるのは無理な話だろう。
文学といえばよくそのメッセージ性が問題にされているとは思う。
文学作品の物語、プロット、筋というのは何か崇高なことを訴えていることが期待されるものだ。
その点ラノベにとって物語というのは登場人物すなわち読者にとっての異性をより魅力的に見せるための小道具、オタク的に言えばシチュとしての役目しか持たされていないのかもしれない。
あるいは訴えることがあるにしても評価されている純文学のそれに比べれば余りにも素朴で浅はかなものなのかもしれない。
しかしそれがなんだと言うのだろう。
そのラノベを開くとマッチ売りの少女のように脳内に魅力的な異性が立ち現れてくる、そこに価値を見出している人が確かにいるのだからそれもまた確かに「価値」じゃないか。
むしろ紙の本が売れなくなっているこのご時世には電子出版と相性がいい漫画と同じくラノベのほうがそれ以外の小説よりよく読まれているのではなかろうか。
価値に対して人間が万物の尺度であってかつ尺度の多数決によってその度合いが最終的に定まるものなら純文学よりもラノベのほうが価値が高く優れているということになりそうなものである。
またどれだけ異性を魅力的に描けているかということならまだ美という観念にも通じるものがあるように思え、その作品の美しさを論じる余地があるように思える。
他方、ガリバー旅行記は人間社会の不条理さや醜悪さをこれでもかと抉り取った大人の読み物らしい。
そういうメッセージ、風刺、アンチテーゼの質が文学作品の重要な評価軸になっているようには思う。シェイクスピアも漏れなくその点で評価されているのだろう。
こうしたメッセージ等の価値というのはそれが真理を示しているか、生きる指針として役立つか、ということ等にあるのであって、これは美しさという尺度でどうこう論じれるものではないと思う。
たとえていうなら匂いについて判読性が高いかどうか論じようとするようなものだ。嗅覚上の情報に視覚に関係する尺度をあてがってもどうにもならない。
あるいは文学には描写そのものの美しさというものも見出すことが当然できよう。
その最たるものが詩だろう。
それは単純に視覚的に美的なものを描く、あるいはレトリックの巧みさという形で体現されるはずだ。
そういう詩的要素が散文においても存在するなら、その散文すなわち小説などは美しさを帯びていることになり文学の要件を満たしうるはずだ。
しかし文学からそういった詩的な要素に対してメッセージ性というものは論理の次元にあるものなのだから、そういう詩的フリンジを取り去ってもメッセージ性は保存されるはずである。
その文学作品が何を訴えているかということがノーベル賞においてすら重要な評価軸になっているのだから、詩的フリンジの有無はその文学的価値にとってさしたる要素ではない考えられるのだ。
文学の価値は何を訴えているかにあるはずなのにそこには文学の要件たる美がないとしか思われないのだから訳が分からない。
結局辞書の言っていることを手がかりに形而上的に考えても埒が明かないのかもしれない。
とはいえ主観のおもむくままに考えてみてもおそらく月並みな見解しか沸いてこないだろう。
それを承知で述べてみるなら、まず文学作品と呼ばれるようなものは限られた人しか楽しめない。少なくとも文盲や知的障がい者には荷が重い。
だからその価値判断というのはその限られた人の価値観に偏ったものになるはずだ。
知的エリートはそうでない人に比べ収入が高い傾向にあること言うまでも無い。
ただの女たらしが「紀州のドンファン」と一目置かれた称号を得るのも然り、財力があれば世間に対する存在感ひいては発言力も増すという俗物的な構造はまだまだ根強いと思われる。そうでなくても知的エリートは社会的地位が高い傾向がある。
そういうわけで彼らの考えは権威を帯びる。
ただそれだけなら楽しめる作品が多いというだけの話なのである傾向を持った作品ばかりが知的エリートに推されるということの説明にはなっていないはずだ。
彼らはより知的でなければ読めない作品に、自分を飾る嗜みとして、価値を見出すのだ。
なのでラノベではなくてそういう作品が、そういう作品の作者のほうが優れているという考えや言論が幅を利かせることになるのではないか。
教養とか皆無でもさっくり気楽に楽しめるようなものを尊んでいるのでは格好がつかない。それでは凡百と同じなのだ。
以上をひっくるめれば、彼らは美しい作品ではなく、強靭な教養や知性という顎でもってはじめて噛むことができるスルメ的な面白さがあるかどうかで価値を判断している。
そしてそれが権威ある辞書や事典の記述を通して本に対してさほどこだわりのない圧倒的多数の一般大衆に浸透し、そうしてラノベは純文学に対して劣ったものという既成観念が形成される。
月並みなばかりでなくいかにもルサンチマンに満ちた見解になっているとは思うが、そういうことなのではないか。
似たような話でアニメはドラマや実写映画より劣ったもの扱いされているということがあるだろう。
昔の大衆の娯楽だったものは今は高尚なものとして扱われるというパターンがあるけれど映画は割りと初めのほうから芸術的に価値あるものたりうると認識されていたような印象がある。
逆にアニメはジブリが(ガンダムなんかも?)例外なだけで今日まで芸術性が認められてないゆえにどこまでも映画に劣った娯楽作としか見られていないように思う。
さらに時間が経てば歌舞伎や浮世絵のように芸術として見られるようになるとはにわかに考えにくいのだ。
実はこの文章の原稿はいっぺんに書いているのではなく日をまたいで書いてるので、その間に得た知識によっては文章に反映されていくものもある。
その一つとして先ほど偶然知ったのは、大衆文学には少年少女小説、つまりほぼラノベと同義と捉えても差し支えない概念も含まれるということだ。
ただし付け加えていうなら大衆文学には純文学に対して価値が劣ったという含意がある。となるとこれはむしろラノベは劣ったものであるとう認識が存在する傍証になってしまったようだ。
本当のところはうだうだ言う前に早い話がもっとラノベと純文学をバランスよく読めば自ずと両者の面白さ以外の違いも分かって疑問も解決に向かうかもしれない。
しかし私はラノベもそれ以外も小説というもの自体平等にあまり読んでないので、今更自ずと分かるまで両者を読みまくって分析する気までは起こらない。
好きでもないジャンルの本を読むのは受験勉強に等しく苦痛だ。私はただなぜラノベ作者が純文学作者と比べ評価されたり公の場で対等に紹介されたりしないのか知りたいだけだから、私自身が苦痛を味わうまでもなく両者を愛読していて答えを知っている人に教えてもらう方が合理的に決まっている。
知恵袋にも質問の体をしているがその実は女がしがちな「どうしていっちゃうの?」式の不満に対する詰問でしか内容の投稿が多くあるが、結局風潮への反感が、反感は反問を生むという素朴な力学が私にその理由を知りたがらせているわけだろう。当然ここにも答えを知っているものがいるならばその提示を望むものである。
また私は私でただの判官贔屓かもしれないけれども、メーンカルチャーに属するコンテンツに対する感想が溢れるなかでブログや増田に埋もれたラノベやアニメの感想記事があったら、その飾らない感性とのその一期一会に感謝し、その価値観を慈しむことでこの世間の風潮に対抗しているつもりなのだが、それをこれからも続けていくつもりだ。
dorawiiより
・子供の頃から工作やプログラミング。ゲームやソフトウェアを開発して商業化
・アメリカに行きたいので「とりあえず」南アフリカからカナダへ。カナダの農場で働きながら金を貯める
・大学時代に常に考えていたことは「いかにして人類に貢献できるか」
・インターネット企業に入ろうと思ったけど恥ずかしくて誰にも声を掛けれず諦める。
・弟と起業。億万長者へ。
・周りの子が持っているからという理由で話題のゲームを欲しがる。
・大学ではバイト、旅行、サークル三昧。インターンも留学も大学の説明会を聞くだけで実行せず。考えていたことは「いかに可愛い子とヤレるか」
本文 :
まずはググれ?
参考資料 :
・「Mobage版 アイドルマスターシンデレラガールズ」の高垣楓の情報
特に、サービス稼働直後~最初期のバナーやボタン、キャンペーンページなどの資料は、有志のアーカイブでも取得漏れが発生することが多い。
しかし、このような資料が当時のプロデューサーの主観の印象を裏付けることが多いので、ぜひサービスが終了する前に資料の保存を求めたい
2021年冬にアイマス2の没キャラクターに関する情報が出回ったが、その以前からレイジュリモモが没キャラクターであるという内容がユーザー主体の百科事典に書かれていた。
不可解なことに、当時はアイマス2のセーブデータバグで表示される1枚絵しか発見されていなかったにも関わらず、
ほとんどのサイトで「3人は没案である」と断言口調で書かれている資料が発見された。また、SNSでも特定の時期にレイジュリモモの3人の話題が爆発的に増えていた。
独学では難しかった
動画以降の追加事項 :
(1) 「ジュリアがアイマス2、ミリオンともに青目」という説明は間違い
画像を確認したところ、ジュリア(2時代)は青緑色の目が正しい。我那覇響とほぼ同色である。
つまり楓・恭二と共通している目の色は、正面から見て左側の目が正しい。 動画では右側の目が一致と書いていた
→
動画投稿段階では「楓・恭二のオッドアイの配色の由来は2の没ジュリアの関係性は正直説明できない、別の没案や「始祖」の大元の情報が必要」と考えていたが、
2の没ジュリアは青緑の目、「正面から見て右側の目の下に青い星のメイク」であることから、「始祖」の段階ですでに「青緑<>青」の配色案が存在していた可能性がある。
→
まず、なぜジュリアがミリオンに引き継がれたとき、目の色が変更になった?
髪の色も変更されているが、こちらはサイレント修正が入っている。 ミリオンライブwikiなどで修正前の「アイドル ジュリア」が確認できる
復活時に設定を変更するかでブレが存在した、または全員の色合いを見て調整したのだろうか
(2) モバマス初期カードの高垣楓は、両目とも「正面から見て左側の目の色」になっている画像が存在する
つまり、オッドアイではなく両目とも緑寄りの青緑色をした高垣楓のカードが存在している。
→
シンデレラガールズ開始時に楓がオッドアイであると気づかなかった人が多いのは、この画像がゲーム内に混入していたのが原因?【検証中】
→
しかし、2の没ジュリアと目の色の配色が類似していることから、没ジュリア→ミリオンジュリアと同様にデザイン移植時に設定ブレが存在していた仮説を立てられる?
(3) 筆者の主観
「765プロダクションのライバル (Pに敵対意識を持たせるためのアイドル)」と「765プロダクションの新メンバー (Pに好かれるためのアイドル)」は最初から別々に開発されていたように感じる
よって、筆者はJupiterとレイジュリモモは明確に別物として分けて考えていいと思っている。
したがって、動画内では「最初から別軸で開発、キャラデザインされていた」という仮説を採用し、その前提で話を進めている
→
もし、逆の仮説「新キャラ企画時の設定案・キャラデザ案は共通のものを使っていた仮説」つまり、
961新ライバル(Jupiter)と765新プロデュース可能アイドル(ジュリア、麗花、桃子のもととなったキャラ)が途中まで同一人物だった説を採択した場合、
「始祖」の中に「最後までソロアイドルとして登場した場合の冬馬(仮)」の案が存在し、その外見案に
「961プロの新ライバルは赤茶髪で緑・青(翔太&北斗色)の目を持っている」という案があった、つまりライバル一人でJupiter盛り合わせセットなアイドルも居たのだろうか?
そのライバル案が玲音まで温存されていたのだろうか?(玲音のオッドアイの配色は響<>貴音である)
さいごに :
動画でも同様に述べたが、
各担当プロデューサーの視点からこの新説を検証し、できれば否定してくれることを願っている。
そして、このような眉唾物で憶測の域を出ないアイマス新説とROMデータにのめりこんでしまった1プロデューサーの目を覚まさせてほしい
社会的身分の高い人にへつらい,その人たちの真似をしたり,交際を求めたりするくせに,下のものには威張りちらす人物。身分的な壁の厚かった近世・近代の英国において多く見られたところを,19世紀中葉,小説家サッカレーが軽蔑して用いた言葉が定着し,〈俗物根性の持ち主〉の意味で使われるようになった。
→関連項目ビクトリア時代
〘名〙 (形動) (snob) 上品ぶったり、趣味を誇ったりして教養人を気どること。また、そのさまや、そのような態度をとる人。えせ紳士。〔新しき用語の泉(1921)〕
スノッブ【snob】
〈自分より社会的,経済的に上の階層の人にあこがれ,そのまねをしたり,仲間入りをしたがる人〉を意味する英語。しばしば〈俗物〉とか〈紳士気取り〉と訳されているが,必ずしも正確とはいえない。このような態度や根性を〈スノバリーsnobbery〉という。〈スノビズムsnobbism〉という語もあるが,あまり用いられない。
増田くんさあ、お前がちゃんと主張の本筋を書かないからこうなってるの気づけよ。
だというなら直視なんてあいまいな言い方せず、どういう行動をすべきか書けよ。
テロじゃないって言ってる奴は、お前の言うような
しているわけではなくて、あれがテロなら「テロリストの要求に屈してはならない」の原則を曲げることを危惧しているんだよ。
一旦そこを曲げたら模倣犯を防げなくなる。
ただ、それが山上から突き付けられた要求だとすると、社会問題を改善するには誰かを暗殺するのが最適解となってしまう。
親を介護してて生活が苦しい奴とか、保育園の受け入れ先がない奴とか、追い詰められた奴は政治家を暗殺すれば、国家はそれらの問題を解決するように動きますよってメッセージになってしまう。
ガチもんの政治思想テロリストにも、国家がテロに屈した前例を作ってしまうのは弱みになる。ダッカ事件のときのようにな。
お前の文章わかりにくいけど、もしかしたら冒頭で引用した文で危惧している点は同じなのかもな。
俺の主張はこうだ。あれがテロかどうかにかかわらず、「国家は山上と取引をしていない」というスタンスを強調して模倣犯を防ぐべき。
そしてまた、党派性とか山上とかまったく関係なく、慣習的に使われてきたテロという言葉の使われ方からもずれているので、微妙なラインではあるがテロと呼ぶのは違和感があるということ。
お前が自分に都合のいい定義をつまんできて、さらにそれを都合よく自分の言葉で言い換えているから総ツッコミされるんだよ。
答弁を引用しているけど、その中で「特定の主義主張に基づき、国家等にその受入れ等を強要し、又は社会に恐怖等を与える目的」って部分を別の言葉に置き換えるな。
山上は主義主張と言えるほどの思想はないし、自分が捕まったらその時点で恐怖も終わるだろ。
コトバンクの引用もさ、「テロリズムとは、ある政治的目的を達成するために、暗殺、殺害、破壊、監禁や拉致(らち)による自由束縛など過酷な手段で~」とあるので、この定義によると暗殺はテロのひとつの手段ではあるけれど普通の監禁がテロではないように普通の暗殺もテロではないと解釈するしかないだろ。
暗殺の定義でWikipediaを引いてるが、それもその引用先はコトバンクで、そもそもコトバンクは複数の辞典からの定義を併記しているのに、暗殺がテロリズムのひとつと書いているのはブリタニカ国際大百科事典 小項目事典だけで、他の辞典の定義にはその手の記述はまったくないぞ。
先週、ディスコエリジウムの日本語翻訳版が発売されたからちょっとずつ遊んでいる
記憶喪失したおっさん刑事を操作して、架空の国の港町で起こった殺人事件の解決を目指すのが大筋の流れ
操作の中で選択肢を選んだり、TRPGみたいに技能判定をしたりして情報を集めていく感じのゲーム
変わっているところとして、技能判定に使うステータスが人格になっていて、ステータスをある程度上げると、登場人物との会話に自分の多重人格が割り込んでくるようになる
「論理」がこいつ変なこと言ってるぞと教えてくれたり、「反射神経」が今変なにおいがしたぞと教えてくれたり、「百科事典」が出てきた単語を教えてくれたりする感じ
そんな中でなるべく登場人物と仲良くして情報を引き出そうと、話を合わる感じで選択肢を選ぶんだけど、会話の後で主人公の多重人格が「お前ファシストだろ、認めろよ」とかレッテルを貼ってくる
元軍人の愛国者の爺さんの話に合わせてたら、「お前、ミソジニーのファシストだろ」と多重人格に指摘され、ストライキしている組合の話に合わせてたら「お前共産主義者だろ」と言われ、レイシストに合わせていたら「お前レイシストだろ、認めろ」と言われ、何これ増田の日常会話じゃんってなった
一応レッテルを認めて、ある程度の時間思考したら、スキルみたいにステータスが上がったり、ダイスの目が有利になったりする
今のところ、僕の主人公はファシストでホームシックになった共産主義の芸術家思考みたいになってる
※追記
これを読んで、switch版を遊ぶ人がいるかもしれないので、遭遇した進行不能バグだけ共有しておきます
選択肢を選んで、キャラが移動するイベント発生時にアナログスティック下を入れて会話ウインドウをあらかじめ下方向にスクロールさせると、「次へ進む」の選択肢が出ず、操作不能になります
キャラが移動し終わるまで、会話ウインドウはスクロールしないようにしましょう
今のところ、別個のシーンで2回ほど遭遇しているバグなので、発生率が高そうです
僕はこのバグに初めて遭遇した際、イベントの性質上、ただ待つみたいなイベントなのかなと勘違いし、2分ほど待ちましたが、あらかじめスクロールしてなかったらすぐに「次へ進む」が表示されます
switch版を遊ばれる際はお気を付けください
すっぱい葡萄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/02 10:25 UTC 版)
「酸っぱい葡萄」(すっぱいぶどう)は[1]、イソップ寓話の一つで、その邦題(日本語題名)の一つ。原題(古代ギリシア語題名)は "Ἀλώπηξ καί σταφυλή" (ラテン翻字:Alópex kái staphylé、和訳:狐と葡萄)[2]、ラテン語題名は直訳した "Vulpes et uva "、英題も直訳した "The Fox and the Grapes " で、邦題にも直訳した「狐と葡萄(きつねとぶどう)」がある。狐が己が取れなかった後に、狙っていた葡萄を酸っぱくて美味しくないモノに決まっていると自己正当化した物語が転じて、酸っぱい葡萄(sour grape)は自己の能力の低さを正当化や擁護するために、対象を貶めたり、価値の無いものだと主張する負け惜しみを意味するようになった[3]。
紺ブルマー崇拝教団とは、神奈川県内に本部を持つ宗教法人である。略称は「紺教」または単に「青宗会」などと呼ばれているが、教義・活動内容についての情報は今のところ少ない。
2001年4月1日、当時17歳の高校生であった山田清志(本名)という青年の発案により設立されたようである。その動機については「昔々あるところに、小学校時代からの同級生だった2人の少女がいた」「彼女らをどうにかして自分のものにしたいと思ったがどうすればいいのか分からないからとりあえず神に祈ったら何かしらの力によって彼女らと巡り合えた気がするから多分神様のおかげなのだと思うことにした」(本人談より抜粋)とのことであるが真偽は不明であり真相は不明である。なお創設時の役員構成としては創始者である山田清志の他に、彼の両親、教師およびクラスメイトであったという女子生徒の合計5人であったが、後に学校関係者は全て退所させられている。その後、信者や協力者を増やしつつ勢力を拡大していき現在では100名ほどの会員を有するに至った模様だが、詳しい構成員数等に関しては不明だが少なくとも宗教団体としての活動を行っていることは間違いないようだ。
しかし結成時において信仰の対象とされたとされる紺色を基調とした下着類の着用義務は未だ守られており、制服として指定されていた服装も青色系統の色のブラウス及びスカートが採用されている点からも単なる宗教ではなく何らかのカルト的な様相を呈していると言えるだろう。実際この団体では紺色以外の衣服を着用した場合罪人として処罰されることになっているらしい。
2007年には後述する事件をきっかけに解散処分を受けている模様で、2007年以降は目立った活動はしていない様だ。しかしその解散時に代表者たる山田が、今後『紺ブルマー』なる名称を用いた新形態の組織を結成する予定である旨を宣言しており、現在はそれに備えて準備を進めているという情報もあることから、近い将来活動を再開する可能性は高いものと思われる。尚現在インターネット上ではその具体的な組織名称が特定されていないこともあり、暫定的にこの名称が用いられている。
その他. 2008年にインターネット上に公開された文書によると、彼らの前身にあたる組織は2001年から2002年にかけて存在していたということになっており、2001年春ごろにはこの「青い空の下で白き花弁舞い散る丘にて君を待つ」と名付けられたサイト内において山田が自らの思想を展開しており、2002年春にはこれらの思想を元に新たな組織として活動を開始したとされている。しかしこの団体のホームページ上には創設者の一人であると主張する人物の氏名しか掲載されておらず、実際のところ彼が本当に創立者なのかどうかは分かっていない為注意が必要である。なお、こちらのウェブサイト上では現在もこの団体が存続し活動を行っていることが確認できるが、2020年現在既に閉鎖されているようでアクセスできない状態となっているため詳細は不明である。
【参考URL】
紺ブルマー崇拝教団とは、神奈川県内に本部を持つ宗教法人である。通称は「KB教」。
KB教は東京都府中市にある旧東京体育大学のキャンパスを拠点としている。2020年10月時点の信徒数は6700名余りで日本最大級の規模を誇る宗教団体でもある。
この団体は学生時代から一貫してスポーツ活動にのめり込んできたメンバーによって結成されたもので、同団体の活動は体操着(主に紺色)を神聖視しこれを着用する女性の肉体美を称えるというものが中心となっている。そのため入信には健康な男女であることが条件となり、特に20歳未満の女性に対する勧誘行為が禁じられているという特色がある。
なお紺色の服装をしていると身体が良くなるというのはあくまで迷信であり科学的根拠はないとされる一方で、会員たちは熱心に修行を行い信仰心を高めることでその加護を得ると信じており、実際に入信者の中には怪我や病気を克服した者もいるとされる。その一方で性的嗜好に基づいた不純異性交遊への助長を目的とした悪徳商法ではないかという指摘も時折行われているため注意を要する。
またKB教では紺ブルマと呼ばれる独自の制服を制定してこれを着用した女性が活動する光景も見られることから、これは元々は同校の学生用体操服であったものの名称を転用したものと見られている。
KB教の歴史は古く、1974年に学生有志による同好会という形で発足している。当時は学祭における出店のような扱いであったが、徐々に本格的な活動をするようになり、1998年には教義に基づいて新たな運動部を設立するに至っている。設立時の名称は『体操文化研究会』であったが、2002年ごろに現在の名称に変更されたとされている。
2017年以降は大規模な布教活動を行うようになり、2019年現在で各地に支社を置くまでになっているほか、2020年の時点では海外にも進出する計画を立てていたとしている。
2020年時点で約1万人弱の会員を擁しているが、主な構成員の出身校として首都圏にある私立・国立高校の名前が列挙されることが多く、その多くは私立の女子高だと言われている。また入退会の自由はなく、事実上の軟禁状態にあるのではないかと指摘する声もある。
KB教に入信するにはまず最初に男性であれば入会金2万円を支払い、その後指定口座へ会費を振り込むことが必要となる。入会の儀を終えた者は手製のロザリオを受け取ることになっており、これが教徒であることを周囲に示すための身分証となるのだという。また教祖の肉声を収録したカセットテープを購入しそれを携帯することも義務づけられているが、テープの内容は毎回異なるとのことなので信憑性については不明だという。
そして入信の儀式の際にはブルマーを着用した上で専用の座布団に座って正坐をし、講師役の導師の指示に従って礼拝を行うことになるのだが、その際は両手両足を大きく広げたままの状態で静止するよう求められることがしばしばあるらしい。さらに儀式後は全員揃って合掌しながら聖詞を唱えつつ感謝の言葉を述べることになっているようだ。こうした一連の行動は全て経典に記されている通りのものなのだという。ちなみに教団内の宗教行事においてはこれらの行為は性器を露出させるよりも重要であるとされており、この点に関して前述の生徒は「破廉恥などとはとんでもない!」と語っているという。
なおこれらの行法が行われる部屋は元々使用されていた体育倉庫を改造したものであるらしく、2018年時点では4畳半ほどの小部屋に机などが並べられているだけの部屋だったものが次第に拡張されていったとみられている。
2021年現在も入信者の増加が続いているとされ、「まだ未熟ですが教団の拡大のために頑張ります」「自分の力を活かして皆様のお役に立てるよう努めて参りたいと思います」といったメッセージがSNSなどで発信されているという。しかしその中には特定の人物に対して勧誘が行われていることを示唆する内容のものもあったといい、真偽は不明ながら一部では問題視される動きが見られるという。
KB教の特徴はなんといってもその会員の多くが体育会系の出身であるということだろう。実際に2017年ごろの段階でも全国各地にある支部の支部長の多くはスポーツマンであったという証言があり、中には甲子園に出場した経験のある選手もいるといわれている。2020年現在でも数多くの部員を擁する部活動が存在するという情報もあり、そうした観点から見れば他の新興宗教団体と比べても格段の規模を誇っているといえるかもしれない。
一方で組織運営に関してはあまり資金的余裕がないのか、活動費用に困った信徒たちが銀行から融資を受けようとし断られているという情報がインターネット上で散見されるが、これについてもあくまで噂の範囲に留まるもので確証はない。
またKB教には独自の信仰形態に基づいたいくつかの禁忌事項が定められているものの、その詳細は不明であり入信者であっても詳細を知らない者が多いとされる。例えば性行為禁止の項には「不浄な肉体で行うことによって神様からの天罰を受ける恐れがあります。それを防ぐために男性の入信を禁じています」(原文ママ)と書かれているとされるが、これに対しては過去に一部の男性が抗議を行ったこともある(もっとも教義の内容的に考えて実行可能かは疑問視されていたが)。
他にも性的な表現を含む創作物や言葉の使用が制限されており、例として小説や漫画などの出版物はもちろんのことネット上においてもそのような表現が用いられることは禁じられているとされているほか、『体操文化研究会』に関連するサイトへのリンクも禁止されているようである。ただしこれらはあくまで『体操文化研究会』に対するものであり、その他の関連項目ではそういった制限は特に設けられていない。2019年時点では主に男性を中心として入信希望者が殺到しているため、特に若い女性の間ではこの教団の存在が一種のステータスとなっているのではないかという指摘がある一方、男女間のトラブルが発生しているという報告もある。具体的には男子生徒が女子生徒に対し性的暴行を加えようとしたり下着類を奪い取ろうとしたりして逮捕された事例が少なくとも3件発生しているそうで、いずれも未遂に終わったもののうち2名は起訴猶予処分となったそうだ。
かなり不気味だったから昨年の11月に作成してからずっと増田に投稿できてなかった。
こちらも。
2022-07-24
太陽を壊すわけではない
ありがとうございます!これで誤解が解けました!天才!!
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用
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シアトルのオンライン新聞については、The SunBreakを参照してください。
イギリスのこの雲の隙間から射し込む太陽光は、サンブレイクの一例である。
サンブレイクとは、比較的広い範囲で遮蔽されている太陽光が、局所的な空間で遮蔽物を透過する自然現象である。雲の切れ間から太陽光が差し込むのが典型的な例である。雲を突き抜けた太陽光は、通常、大気中の塵や水分に反射して可視光線となり、サンビームと呼ばれる。また、周囲の大きな建物で影になっている場所に、一時的に太陽の位置に合わせた隙間から太陽光が差し込むことも「サンブレイク」と呼ばれる。
語源はパシフィック・ノースウエスト英語とする説もある[1]。
芸術分野
漫画家や映画監督などの芸術家は、神や嵐の後退による土地の保護や救済を表現するために、しばしばsunbreakを用いる。