はてなキーワード: 鎌倉幕府とは
うん、まぁ有意義なんじゃね?
どうせなら歴史年表自体をwiki形式で文献リンクと討議も含めて信憑度ランク付きで公開して欲しいね。
イイクニ作ろう鎌倉幕府って教わったクチなんでさ。聖徳太子の肖像画も古いのしか記憶にないし。w
http://anond.hatelabo.jp/20170604204919
日本史の教科書をいくら見ても本当のところは理解できないんですよ。
なぜ北条家が坂東武士の頂点に立ち、鎌倉幕府を頼朝が作ったにも関わらず、北条がその後の支配権を握り続けたのか。そして戦国時代に「後北条家」が、北条家と特に関係がないのに成立し、関東の盟主足り得たか。源氏とは、北条とは何か。
北条は、坂東平氏の家柄である。坂東平氏とは、桓武天皇の血を引く、関東にやってきた平氏の総称であり、その五世である平将門が新皇を自称して、朝廷に対して関東の支配権を主張して反乱を起こし、敗れた後に祟りを起こして神となったことで、関東に決定的な影響力を及ぼすようになった。
平将門は神である。そこを間違えてはいけない。平将門の怨念とされるものは畏敬の対象として、現代人に対しても深く印象づけられているが、関東ではほぼすべての神社が平将門を祀っていたほどに力があった。坂東武士たちにとっては、平将門は実際に神であり、朝廷に反旗を翻し関東に独立した政権を、坂東平氏が頂点となって打ち立てることは坂東武士の念願であった。平忠常というそのへんの平氏が関東で反乱を起こしただけで一大ムーブメントになってしまうぐらい、平氏が関東を支配し朝廷から独立するという夢は坂東武士の間に広がっていた。元記事に書かれている関東の有力豪族、千葉氏、上総氏は、平忠常の子孫とされている。
そこにやってきたのが源頼朝である。源頼朝は清和源氏の事実上の嫡流である。清和源氏、桓武平氏といった用語を知らない人のために説明すると、天皇家は偉いわけだが、子孫がいつまでも皇族だと皇族が際限なく増えてしまい、現代で言う宮内庁の予算が際限なく増えてしまうので、どこかで平民になってもらわなければならない。平民になる時に、皇族には名字がないので、名字を与える必要がある。その時に、源、平の名字が与えられた。天皇の血を引くスゴイ人たち、という意味が源、平という姓には込められている。清和源氏は清和天皇の子孫で源姓を名乗った人たち、桓武平氏は桓武天皇の子孫で平姓を名乗った人たちである。
たとえば足利も、徳川も、本姓は源である。源尊氏、源家康が本名だ。なぜ足利とか徳川というかと言えば、源が増えすぎて区別の必要が出てきたというのもあるが、源というスゴイ名字を出すのは気が引けたから、という要素が大きいように思う。本当の名字は避け、住んでる所を名字にする、といったことをして、木曽義仲とか、足利尊氏とか、あるいは自分ででっち上げた徳川という名字を使った家康のような人もいる。これを説明するには、武士にとって本名にいかに大切であったか述べなければならないが、面倒だ。武士の下の名前は諱(忌み名、呼んではいけない名前)とされていたということを考えれば、上の名前もそれなりに大事だということはわかると思う。(そして信長様~とか秀吉様~とか言っている時代劇が全部嘘っぱちだということも分かるだろう)
平忠常の乱を平定しようとした、桓武平氏嫡流の平直方は、乱の平定に失敗するが、清和源氏の事実上の嫡流である源頼義を婿に迎え、領地であった鎌倉を譲り渡す。この時、鎌倉は坂東の源氏の拠点であると同時に、平氏と源氏の嫡流が交わった聖地という意味が生じた。そこから八幡太郎義家が生まれ、源氏の声望が高まり、その嫡流である頼朝を権威づけていく。
ここまでくれば、坂東平氏である北条家が頼朝を婿にとり、鎌倉を本拠地に据えた意味が分かるだろう。平家と源氏が交わり、鎌倉を拠点とするというのは故実に則った神聖な儀式なのだ。ちなみに、北条家が坂東平氏の由緒正しい血筋だというのはおそらく自称であり、フィクションである。だが坂東武士は将門の祟りの方が怖いので、血筋の細かい所は気にしないのだ。
鎌倉に作られた幕府は初めから天皇を中心とする朝廷と対立関係にあり、承久の乱で勝利することで朝廷の上位に立ち、皇位継承を操作するまでになった。それはなぜかといえば、平将門が朝廷からの独立を志向していたからである。平将門の怨念が実際に実を結んだのが鎌倉幕府である。頼朝の下で働いた北条、梶原、三浦、和田、千葉、熊谷などは、みな坂東平氏である。そして役割を終えた源氏はどこかに消えて、坂東平氏、北条家による支配が行われた。
そして戦国時代、後北条家の話になるが、後北条家は伊勢新九郎盛時、北条早雲によって立ち上げられる。伊勢氏は室町幕府の政所執事の家柄で、ものすごく偉い。ちなみに桓武平氏である。
室町幕府というのは北条家に牛耳られた鎌倉幕府を倒して出来た政権である。鎌倉幕府内の源氏で最高の血筋だった足利が鎌倉幕府を倒し、北条家はほぼ滅亡してしまう。そして源氏である足利は京都に朝廷とベッタリの幕府を作った。平氏による独立志向の関東の幕府から180度の転換である。
史実ではものすごく偉かった伊勢新九郎盛時であるが、実家が室町幕府の偉い家柄で、関東を牛耳りに来たというのは、いかにも坂東武士には都合が悪い。仕方ないので、先祖を辿れば同じ坂東平氏という縁にあやかって、北条の名を名乗ることにした。ちなみに名乗ったのは息子の氏綱の代である。そこで、おそらく後北条家のプロパガンダによって、歴史改変が行われ、謎の素浪人北条早雲が、下克上の嚆矢となり関東に覇を唱えたという、我々のよく知るストーリーが現れる。よく調べると、全てデタラメである。
これにより、なぜ後北条家が秀吉と争い、滅亡への道を歩んだかも分かるだろう。秀吉は関白、天皇の代理人である。天皇と対抗する存在である坂東武士にとって、秀吉に降ることは、平将門の祟りを招きかねない決断であった。そのため、天下の趨勢が決しても、徳川や伊達の援軍が得られなくても、単身で秀吉と抗い、滅びたのである。それだけ将門の祟りへの畏れや、坂東武士の誇り、天皇家という存在に対する対抗心が強かったのだ。
平将門は武士の始まりであり、武士のスピリットを体現する存在である。武士は武装し土地を守り、権力に抵抗する存在であると同時に、一族で争い、殺し合う存在である。その構図は徳川家康が武士を飼いならすことでご破産になり、そこにあった本質は見えにくくなってしまっているが、武士を知りたければまず平将門を見て欲しい。
http://anond.hatelabo.jp/20170604204919
1183(寿永2)年、義仲軍は京都に入り、食糧不足もあって狼藉を続けた。京都にとどまった後白河法皇は後鳥羽天皇を即位させ、寿永二年の宣旨で頼朝の東国での支配権を認めるとともに、義仲軍の乱暴ぶりを口実にして頼朝の上京を要請するなど、政治力の強化につとめた。しかし、頼朝は東国の支配を固めるために鎌倉を動かず、かわりに弟の範頼・義経が上京し、1184(元暦元)年、二人は義仲を打ち破った。
義仲が京都で乱暴狼藉を働いたという記述があるのは、意外にもこの教科書だけでした。
兵糧不足のまま進撃して首都を占領しても、どうせ軍規が乱れて略奪しまくるぞというのは、日中戦争における南京事件(南京大虐殺)のことを言いたいのかなと思いましたが、それは深読みのしすぎかもしれませんね。どうなんでしょう?
また、これは下記の引用部分になりますが、頼朝が初めて上京したタイミングがいつだったかを明記しているのは、この教科書だけだと思います。
(この点はとりわけ山川の『詳説日本史』が最悪です。頼朝が西国での平家追討の仕事をすべて弟の範頼・義経らにやらせ、自分はその間ずっと鎌倉にひきこもって地盤を固めていたという基本的事項すらも把握できない書き方がされているんです。)
「頼朝は挙兵以来、北条氏や三浦氏などの東国の武士たちと主従関係を結んで、彼らを御家人として組織した。そして1180(治承4)年、御家人の統率と軍事警察を担当する侍所を設けて、有力御家人の和田義盛を別当(長官)に据えた。さらに1184(元暦元)年、一般政務をつかさどる公文所(のち政所)と問注所を開設し、実務に優れた下級官人らを側近にして職務を分担させるなど、支配機構の整備を進めた。
頼朝は後白河法皇の要請を受け、範頼と義経に平家追討を命じ、1185(文治元)年、長門の壇ノ浦で平氏を滅亡させた。後白河法皇は頼朝の権力拡大を恐れて義経を重用し、頼朝の追討を命じたが失敗した。逆に頼朝は、親鎌倉派の公卿・九条兼実(藤原兼実)らを朝廷の重要政務を担当する議奏につかせ、反鎌倉派の貴族を追放し、義経の捜索を名目に国ごとに地頭を置くことを認めさせた。さらに1189(文治5)年、頼朝は義経をかくまったことを口実に藤原秀衡の子の泰衡を攻め、奥州藤原氏を滅ぼした。こうして頼朝は東国や西国の多数の武士を御家人として組織しながら、主に東国の支配を確立していった。
1190(建久元)年、頼朝は挙兵後はじめて京都に入り、右近衛大将に任命され、後白河法皇没後の1192(建久3)年には、法皇の反対で就任できなかった征夷大将軍に任命され、名実ともに鎌倉幕府が成立した。」
当然ながら『詳説日本史』にも、侍所、政所、問注所、地頭というキーワードは出てきます。しかし、治承・寿永の乱とは別項に記述されているため、時系列が分かりづらくなっています。
それに比べて、この教科書は歴史の流れの中にキーワードを配置しています。だから、時系列に即してこれらの言葉の意味を理解することができるはずです。
結びが「名実ともに鎌倉幕府が成立した」という記述になっているのも、味わい深いです。
鎌倉幕府の成立が何年かという論争を垣間見ることができます。名目的には1192年に幕府が成立したと言えるが、実質的にはそれ以前から幕府の政治機構ができあがっていたというニュアンスを含ませているのでしょう。
あとは、上記引用中の「義経の捜索を名目に国ごとに地頭を置くことを認めさせた」という記述が最高にクールです。
一般には1185年、義経の捜索を名目にして守護・地頭が設置されたとされていますし、国ごとに置かれた役職が地頭ではなく守護だと暗記している人が多いんじゃないでしょうか?
例えば山川の『詳説日本史』はそうなっています。それによると、頼朝は1185年に「諸国には守護を、荘園や公領には地頭を任命する権利」を獲得したとされています。守護は「おもに東国出身の有力御家人」から選ばれて「原則として各国に一人ずつ」任命され、「大犯三箇条などの職務を任とし」て国内の御家人を指揮統率し、とくに東国では在庁官人を支配することで「地方行政官としての役割も果たし」ました。いっぽう、地頭は「御家人のなかから任命され、任務は年貢の徴収・納入と土地の官吏および治安維持」です。「頼朝は主人として御家人に対し、おもに地頭に任命することによって先祖伝来の所領の支配を保障したり(本領安堵)、新たな領地を与えたりした(新恩給与)」わけですが、このことが御恩と奉公の関係となって封建制度の基礎となりました。
ところが、三省堂の『日本史B 改訂版』(日B 015)によると、ここの説明がこれとまったく異なります。私が先に引用した項では、1185年の出来事として守護の設置には言及せず、地頭の設置だけが記述されています。しかもその"地頭"は国ごとに置かれたものだとされているのです。
私は最初にこれを読んだとき、わけが分からなくて混乱しました。それでがんばって自力で調べてみて(独学なので苦労したナァ)ようやく理解できたのですが、1185年の文治の勅許で守護・地頭が置かれたとする『吾妻鏡』の記述には疑いがあり、実はこれがかつて学者の間でも論争になったテーマだったらしいのです。
1960年に石母田正が新説を発表したのですが、おおざっぱに言うと、新説では、この時点で置かれたものが守護・地頭ではなく、地頭(国地頭)だったとしています。それはわれわれが普通一般に知っている地頭(荘郷地頭)とは異なり、一国を統括する強大な権限を持つ存在です。この国地頭はすぐに廃止され消滅しましたが、守護の前身となりました。
三省堂の教科書は、次項でそのことが説明されています。頼朝がはじめは国ごとに"地頭"を派遣して荘園・国衙領のいずれからも兵糧米を徴収させていたこと、そのやり方がひどすぎたから反発を招いて、以後は"地頭"に代わるものとして守護を置いた、という記述になっています。またこれに続いて、頼朝は「荘郷地頭と呼ばれる地頭を任命し」、平氏没官領や謀反人の所領跡で「年貢・公事の徴収、治安維持に当たらせた」としています。
このように、三省堂の教科書では、「国地頭」と「荘郷地頭」をはっきりと区別しているのです。
実教出版もこの新説を採用しています。こちらも合わせて読んでおくと、国地頭のことが大変よく分かります。東京出版は本文の記述が旧説に拠っていますけど、欄外では国地頭が惣追捕使とならび、守護の前身として存在していた話をちょこっと説明しています。これらの教科書は「国地頭」論争の成果を取り入れており、学問的に誠実だと思います。
それに対して山川の『詳説日本史』は旧説を採用し、1185年に守護・地頭の設置が認められたとする断定的な記述になっています。これが他の教科書とのあいだに無用な矛盾を生じさせているのです。私と同じようにこの点につまづいて、困惑してしまった高校生が少なからずいるんじゃないでしょうか。
なお、山川の参考書『詳説日本史研究』にもこの新説の紹介はありません。同社『日本史B用語集』には「国地頭」という用語が掲載されていて、そこでは一応説明がされているんですが、あたかも国地頭が荘郷地頭の前身だったと思わせるような記述です。
地頭(じとう)⑪:1185年、頼朝の要請で後白河法皇は諸国の公領・荘園に地頭を設置することを認めた。当初は1国単位に荘園公領を支配する国地頭を設置したが、まもなく平家一族の所領として没収された平家没官領と謀反人跡地に限定した荘郷地頭となった。しかし、公家・寺社の強い反対で、一時縮小、承久の乱後に全国化した。任務は土地管理、年貢・兵糧米の徴収、治安維持など。
ですが三省堂・実教出版・東京書籍の教科書によると、国地頭はむしろ守護へと発展的解消を遂げたという記述なんですから、『日本史B用語集』のこの説明とはやはり若干の矛盾が生じています。
「国地頭」を教科書に載せている上記の主要3社の文脈に従うなら、この用語を独立の項目として取り扱うか、せめて「地頭」の項目じゃなく「守護」の項目にいれて取り扱うべきじゃないでしょうか。
(追記 これはインターネット上の情報なので私は未確認ですが、現在は『詳説日本史』にも国地頭が掲載されているそうです。近年改訂されたんでしょうか。
予防線を張っておくと、私は高校で日本史Bを履修しなかったし、大学も理系に進みました。教科書を読んだのは興味本位にすぎません。
はじめに書いたとおり、最新版の教科書を持ってません。今回はてブでバズっていてびっくりしましたが、筆者は歴史学の専門家でも何でもないことをお断りしておきます。
再追記。id:HRYKtbykさん、確認をしてくださり感謝です。)
(追記2
複数の教科書を読み比べすることで、『詳説日本史』を読むだけでは見えないポイントが浮かび上がってきます。
『詳説日本史』では、前九年合戦・後三年合戦のところで、「これらの戦いを通じて源氏は東国武士団との主従関係を強め、武家の棟梁としての地位を固めていった」とあります。これが後の頼朝挙兵につながるわけですが、それは時代を経てからのことだから、教科書のページが離れすぎていて、この関連が把握しづらくなっています。
ここで例えば山川出版社『新日本史B 改訂版』(日B 018)のような他の教科書と読み比べてみると、『詳説日本史』がこの簡潔な一文を通して伝えたかったことを理解することができるのです。(上述参照)
つぎは例えば、貫高制・石高制を見てみましょう。
『詳説日本史』によると、戦国大名の性格は次のように説明されています。戦国大名は「新たに征服した土地などで検地をしばしばおこなっ」て、それにより「農民に対する直接支配」を強化しました。そして国人や地侍を取り込むため、貫高制を導入しました。これは戦国大名が彼らを「貫高という基準で統一的に把握」して軍役を課す制度でした。それでここからすこし時代を下り、別のページで豊臣秀吉の太閤検地を説明しています。太閤検地により石高制が確立しました。それは「荘園制のもとで一つの土地に何人もの権利が重なりあっていた状態を整理」し、「一地一作人」を原則とするものです。農民は「自分の田畑の所有権を法的に認められることになった」わけです。
このような記述だけでも表層的な理解はできると思いますが、実教出版『日本史B 新訂版』(日B 014)は、貫高制について「荘園の複雑な土地制度は貫高に組み込まれ、大名の統一的な国内政治を推進」するものとしています。『詳説日本史』ではせいぜい石高制と荘園制の関係しか分からないでしょうが、本書はこのように貫高制と荘園制の関係を明示しているのです。
この視点を最もわかりやすく記述しているのが、三省堂『日本史B 改訂版』(日B 015)です。本書は貫高制、石高制、荘園制の全部を一つの項目に入れて記述しています。それによると、秀吉は太閤検地を行い、「戦国大名の貫高制にかわって、それを発展させて全国に広げた石高制」を導入、その結果「荘園制を完全に崩壊させ」ました。このポイントを把握しておけば、中世から近世への社会の変化を、土地の一元的支配の確立、荘園制の衰退・消滅という視点で見ることができます。本書の特徴は、貫高制・石高制をともにこの視点から語っていることと、しかもそれが荘園制を「完全に崩壊させ」たと言い切っていることです。
ちなみに、東京書籍『日本史B』(日B 004)では、石高制を「近世封建制の体制原理」と書いています。これがまったく新しい制度であることを強調しつつ、近世という言葉を使ってその射程を江戸時代にまで広げているのです。)
はてなブックマークの人気記事だったので開いてみたのですが、驚くほど中身のない記事でした。
『詳説日本史』を引用するなり参照するなりして、具体的にどこがどうすごいかを語ってほしかったです。
僕も10代の頃はあれが本当に理解できなかった。けど今ならああいう教科書が作り続けられる理由がよくわかる。物事を語るにあたって、中立を維持しようとするとなると、事実しか語れなくなるのである。
ストーリーというものは、基本的には何らかの価値観を元に構築されるものである。日本民族がいかに優れているかという視点で歴史を分析すると、それは右翼的な記述にならざるをえないし、平等であろうとすれば、それは左翼的な価値観を元に記述せざるをえなくなる。
客観的な記述がされている、左右に偏向していない、中立だからすごいゾ、という感想には呆れ果てました。
いったい全体、どこが情熱的ですか? 教科書を読み返さず、いい加減な記憶をもとに語っても、多分これくらいのことは言えると思います。
クソ記事を読んでしまい、あんまりにもムシャクシャしたので、私が自分で『詳説日本史』を引っ張りだしてきて調べました。
例えば「源平の騒乱」という項目は、次のように記述されています。
平清盛が後白河法皇を幽閉し、1180年に孫の安徳天皇を位につけると、地方の武士団や中央の貴族・大寺院のなかには、平氏の専制政治に対する不満がうずまき始めた。この情勢を見た後白河法皇の皇子以仁王と、畿内に基盤を持つ源氏の源頼政は、平氏打倒の兵をあげ、挙兵を呼びかける王の命令(令旨)は諸国の武士に伝えられた。
これに応じて、園城寺(三井寺)や興福寺などの僧兵が立ち上がり、ついで伊豆に流されていた源頼朝や信濃の木曾谷にいた源義仲をはじめ、各地の武士団が挙兵して、ついに内乱は全国的に広がり、5年にわたって騒乱が続いた(治承・寿永の乱)。
平氏は都は福原(現・神戸市)へと移したが、まもなく京都にもどし、畿内を中心とする支配を固めてこれらの組織に対抗した。
しかし、畿内・西国を中心とする養和の飢饉や、清盛の死などで平家の基盤は弱体化し、1183年(寿永2)年、平氏は北陸で義仲に敗北すると、安徳天皇を報じて西国に都落ちした。やがて、頼朝の命を受けた弟の源範頼・義経らの軍に攻められ、ついに1185年に長門の壇の浦で滅亡した。
この一連の内乱の行末に大きな影響をおよぼしたのは地方の武士団の動きで、彼らは国司や荘園領主に対抗して新たに所領の支配権を強化・拡大しようとつとめ、その政治体制を求めていた。
ここには明らかに編者の歴史観と、因果関係の説明が詰め込まれています。
まず、平清盛が後白河天皇を幽閉したこと、安徳天皇を即位させたことは、この教科書では「平氏の専制政治」と評されています。
当時の人たちがそう感じていたのか、それとも教科書の編者がこの評価を下しているのか、どちらなのか判然としませんけど、ともかく本書はこの評価にもとづいて記述がされています。
次に、この「平氏の専制政治」が地方の武士団や中央の貴族・大寺院の不満につながって、 以仁王と源頼政はそういう情勢を見たので挙兵したと書かれています。
これはまさしく因果関係に言及しているわけです。
このように、教科書は単なる事実の羅列ではありません。歴史に対する評価や因果関係がしっかりと述べられているのです。
そこにどういう学問的な裏付けがあるか、歴史学に無知な私はよく知らないです。あのブログ記事ではそのへんの話を説明していると思ったのですけど、まったくの期待外れでしたね。
なお、この教科書とおなじ編者がつくった参考書『詳説日本史研究』(山川出版社)によると、次のように説明されています。
治承・寿永の乱は、一般には源氏と平氏の戦いといわれている。しかし歴史学的にみた場合、この全国的な動乱を単に源氏と平氏の勢力争いとみるのは正しい理解ではない。以仁王の挙兵以降、軍事行動を起こすものが相次いだ。美濃・近江・河内の源氏、若狭・越前・加賀の在庁官人、豪族では伊予の河野氏・肥後の菊池氏らである。彼らはあくまでも平氏の施政に反発したのであって、はじめから源氏、とくに源頼朝に味方したわけではない。彼らの背後には在地領主層があり、在地領主たちは自己の要求を実現するために各地で立ち上がったのである。
彼らの動向をまとめあげ、武家の棟梁となる機会は頼朝以外の人、例えば源義仲・源行家、あるいは平宗盛にも与えられていた。頼朝が内乱に終息をもたらし得たのは、彼こそが在地領主層の要望に最もよく答えたからである。この意味で幕府の成立は、時代の画期ととらえることができる。
教科書である『詳説日本史』では、これがたった一文にまとめられているのです。
この一連の内乱の行末に大きな影響をおよぼしたのは地方の武士団の動きで、彼らは国司や荘園領主に対抗して新たに所領の支配権を強化・拡大しようとつとめ、その政治体制を求めていた。
こういう史観が妥当なのかというのは、私にはちょっと分からないんですが、この点を強烈にプッシュしているのが『詳説日本史』の特徴と言えるでしょう。
他の教科書を読んでみても、三省堂の『日本史B 改訂版』(日B 015)を除き、この史観はあまりプッシュされていないと感じました。
【参考文献】
(このエントリは上記7冊を参照しています。いずれも平成22年ごろ購入。)
伊豆に流されていた源義朝の子・源頼朝も、妻・北条政子の父北条時政とともに挙兵して南関東を掌握し、10月には源氏の根拠地・鎌倉に入った。頼朝は父祖以来の結びつきを背景に、三浦、千葉、上総氏などの有力な東国武士と主従関係を結んで御家人とし
頼朝の挙兵が、東国武士との「父祖以来の結びつき」を背景にしていたものだったということは、他の教科書ではなかなか分からないと思います。
三浦、千葉、上総という武士の名前が沢山出てくるのもおもしろいですね。(三浦氏の名前が出てくる教科書は多いですが、それはこの時点ではなく幕府成立後、十三人の合議制か、宝治合戦のときに唐突に登場します。)
[寿永二年十月宣旨から義仲滅亡までの]この間、鎌倉の頼朝は没収した平氏の所領(平氏没官領)を法皇より与えられ、経済基盤を固めていった。また御家人を統制する侍所を設置し、その長官である別当には和田義盛を任命した。これに加えて、行政・裁判制度を整えるための公文所(のちに政所)・問注所がおかれ、その長官にはそれぞれ京から招かれた朝廷の役人である大江広元・三善康信が就任した。前後して、義経軍らは一の谷・屋島で平氏を追い、1185(文治元)年に壇ノ浦で平氏を滅ぼした。
[]は引用者註。
この教科書の特徴は、幕府の政治機構の形成過程を、治承・寿永の乱の進行に併記していることです。
鎌倉幕府の成立が1192年(いいくに)なのか、1185年(いいはこ)なのかという論争は、世間でよく知られているぐらい有名になりました。どちらが正しいかは諸説あるとしても、ただ一つ言えることは、どこかの時点でいきなり幕府が完成したというわけではありません。治承・寿永の乱が続いていた期間に、徐々に幕府の政治機構が形成されたのです。この教科書はその史観が反映されています。
北条時政の援助によって挙兵した頼朝は、東国武士たちに支持されて、富士川の戦いで平氏を破ったが、その後は鎌倉にとどまって、東国の地盤を固めることに専念した。これに対して平清盛は一時、都を福原(神戸市)に移して態勢を立てなおそうとしたが、まもなく京都に戻り、1181(養和元)年に病死した。一方、義仲は1183(寿永2)年、北陸方面から急進撃して、平氏一門を京都から追い出した。しかし、義仲は後白河法皇と対立したので、法皇は同年、頼朝に東海・東山両道(東国)の支配権を認め、義仲追討を命じた。頼朝は弟の範頼・義経らを上京させて、義仲を討たせた。範頼・義経はさらに平氏追討に向かい、1185(文治元)年、長門の壇ノ浦で平氏一門を滅ぼした。
この教科書は歴史用語の詰めこみを回避しているようで、内容は簡単、文章としても平易です。
上記引用でも分かるとおり、「頼朝に東海・東山両道(東国)の支配権を認め」という記述があるくせに、寿永二年十月宣旨というキーワードがありません。治承・寿永の乱、一の谷、屋島の戦いなどは年表に記載されていますが、本文中に記載なし。養和の飢饉、平氏が都落ちに安徳天皇を伴ったことも言及なし。
というわけで受験生には不向きですが、他の教科書にはない特色もあります。
鎌倉将軍に尽くして家人となった武士のことを、鎌倉御家人といった。鎌倉御家人になる目的は、将軍に面接して(見参)、先祖伝来の所領を承認してもらい(本領安堵)、さらに勲功のあった者は新たな所領を恩賞としてうける(新恩給与)ことにあった。
教科書の中では唯一、桐原書店だけが「見参」を掲載しています。これは鎌倉幕府の権威の構造がどういったものであったかを知るための手がかりになるかも。
(他の教科書ではこの用語がないどころか、「将軍に面接して」という説明も省かれています)
["新恩給与"についての註]
土地そのものよりも土地に対する一定の支配権と、それにともなう収益権を与えられるのが普通で、そのおもなものが地頭職であった。
これは「職の体系」のことを言っています。他の教科書とは違って、地頭をあえて「地頭職」と見なす視点を紹介し、その意味するところを簡潔に説明しているのがすごい!
所有権が重層的に重なりあっていたというのは、中世の土地支配の構造を知るうえで一番大切なポイントだと思います。
なお、山川出版の『日本史B用語集』には「職の体系」という用語は不掲載で、かわりに「職」の項でそれを説明しています。
職(しき)②:一般に職務に伴う土地からの収益とその職務自体を指す。荘園の場合、有力者への寄進が何回も積み重なり、下記のような複雑な職の改装秩序を生じた。
この説明は悪くないと思いますが、桐原書店は「土地そのものよりも土地に対する一定の支配権と、それにともなう収益権」のことと明記しているので、その方が的確です。
しかも、いかんせん、『日本史B用語集』は「職」の用語説明を「院政期の社会と文化」のページに掲載しているので、これと鎌倉時代の地頭職との関連が全然分からないです。そして「鎌倉幕府の成立」のページにある「地頭職」の用語説明は、次のようになっています。
地頭職(じとうしき)⑤:職とは役職に伴う権益の意味。地頭職は御家人が地頭に任命されて認められた兵糧米の徴収や免田(給田)経営などの権利。
これは間違っていませんけど、この説明を読んで、重層的な土地支配の構造があったことを理解できますか? 絶対に不可能ですよね?
せめて「職」「地頭職」という用語同士を紐付けて相互参照させてほしいです。ふざけんなってかんじです。
さて、桐原書店の教科書に話をもどすと、欄外にこういう豆知識も載っています。
幕府とは、近衛府の唐名であるが、転じて近衛大将の居館のことをいった。のちには近衛大将とは関係なく、武家政権を意味する語となった。頼朝は1190年に上洛し、右近衛大将に任ぜられたが、まもなく辞任した。
Aについては南北朝時代の武将とする説もあり(伝・藤原隆信筆,京都神護寺蔵)、Bも注目されるようになった(山梨・甲斐善光寺蔵)。
とてもユニークですね。受験には使えないかもしれませんが、知っておいて損はないです。
網野善彦の著作『東と西の語る日本の歴史』に、たしかこの話があったと思います。
他の教科書には載ってませんが、ピンポイントで東大入試に出題されました。
源氏と鎌倉の関係は、源頼信のころに源氏の氏神となった石清水八幡宮を、前九年合戦の際、子の頼義が相模国由比郷に勘請して鶴岡若宮(八幡宮の前身)を建設したことから始まった。鎌倉は前面に海をもち、三方を山にかこまれた要害の地で、切通によって外部と結ばれていた。
鎌倉という土地をこれだけ情熱的に語っているのは、東京書籍の教科書だけです。
上記引用とはまた別に、「コラム 武家の都鎌倉と経済流通」というのも掲載されています。
東大入試では、「院政時代から鎌倉時代にかけての京都と鎌倉の都市の発展」について論述させる問題が出されたことがありますが(1990年)、この教科書はその答案を書くうえで非常に役立つものだと思います。
こののち、後白河法皇は義経を重んじ、頼朝追討の命令を下したが、これに失敗すると、頼朝はその責任を追及し、逆に義経追討の命令を得た。さらに頼朝は義経をかくまっていた奥州藤原氏を滅ぼそうと朝廷に追討の命令を希望したが、法皇がそれを拒否すると、1189(文治5)年に頼朝は追討の命令を待たず、大軍をもって奥州藤原氏を滅ぼした。ここに全国を平定し、その後、法皇死後の1192(建久3)年に頼朝は念願の征夷大将軍に任じられた。
頼朝の悪人っぷりがこれでもか!?というぐらい強調されています。
あいつは自分の野望を実現するため、ときには法皇に逆らって圧力をかけたり、朝廷の命令を無視して独断専行する奴だった、ということを言いたげな記述です。
それはともかく、奥州藤原氏を守ろうとした法皇・朝廷側と、それを潰そうとした頼朝の厳しい対立がわかるのは、この教科書だけでしょうね。
両者のぴりぴりした緊張関係が伝わってきます。
関西にある政権が東北地方を使って、関東独立の動きを牽制するというのは、日本の歴史において繰り返し出てくるパターンなので、この視点を漏らさず記述しているところはアッパレ。
平氏は安徳天皇を奉じて西国に落ちていったが、後白河法皇は京都にとどまり、新たに後鳥羽天皇をたてて政権を維持した。法皇は義仲には平家追討を命じるいっぽう、頼朝には上京をうながして、京都の義仲に対抗させ、武士たちをたがいに牽制させて政局の主導権をにぎろうとした。しかし頼朝は、東国の安定に意をそそいでみずからは鎌倉を動かず、弟の範頼・義経を上京させて、1184(元暦元)年、義仲を討たせ、源氏一族の長となった。ついで義経らは、その当時勢力を回復して都にせまっていた平氏を一の谷・屋島などの合戦でやぶり、さらに翌1185(文治元)年にはこれを長門の壇ノ浦に追いつめて滅亡させた。
この時代に2人の天皇が同時に存在していたとする視点を取り入れているのがナイス。
都落ちした平氏はそのままあっけなく滅んだわけじゃなくて、京都にいる天皇とは違う天皇を奉じて勢力を盛り返していたのです。
どちらの天皇が正統かというのは、つまるところ結果論にすぎません。この教科書はそんな歴史観に基づいて書かれています。
ちなみに、この教科書の編者は、大半が関西の教育機関に属する人たちみたいです。後白河法皇や平氏を主軸にした書き方は、編者の関西びいきが反映した結果なんでしょうか。(笑)
例えば奥州合戦について、「奥州進撃のために頼朝は東国だけでなく西国の武士もひとまず鎌倉に動員し、これを機会に国ごとに御家人組織の整備をいっそうすすめた」とあります。さらに西国の御家人が東国の御家人とどう違うかを説明しているのもおもしろく、この教科書の関西中心っぽい史観は独特です。
園城寺(おんじょうじ)は、滋賀県大津市園城寺町にある、天台寺門宗の総本山。山号を「長等山(ながらさん)」と称する。
開基(創立者)は大友与多王、本尊は弥勒菩薩である。日本三不動の一である黄不動で著名な寺院で、観音堂は西国三十三所観音霊場の第14番札所である。また、近江八景の1つである「三井の晩鐘」でも知られる。
なお一般には「三井寺(みいでら)」として知られるため、本文では「三井寺」の呼称を用いる。
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1 歴史
2 伽藍
3 黄不動
4 文化財
4.2 国宝
4.3 重要文化財
4.4 その他
5 御詠歌
7 交通
8 周辺
9 脚注
10 参考文献
11 関連項目
三井寺は7世紀に大友氏 (古代)の氏寺として草創され、9世紀に唐から帰国した留学僧円珍(天台寺門宗宗祖)によって再興された。三井寺は平安時代以降、皇室、貴族、武家などの幅広い信仰を集めて栄えたが、10世紀頃から比叡山延暦寺との対立抗争が激化し、比叡山の宗徒によって三井寺が焼き討ちされることが史上度々あった。近世には豊臣秀吉によって寺領を没収されて廃寺同然となったこともあるが、こうした歴史上の苦難を乗り越えてその都度再興されてきたことから、三井寺は「不死鳥の寺」と称されている。
三井寺の起源については、次のように伝承されている。大津京を造営した天智天皇は、念持仏の弥勒菩薩像を本尊とする寺を建立しようとしていたが、生前にはその志を果たせなかった。天皇の子の大友皇子(弘文天皇)も壬申の乱のため、25歳の若さで没している。大友皇子の子である大友与多王は、父の菩提のため、天智天皇所持の弥勒像を本尊とする寺の建立を発願した。壬申の乱で大友皇子と敵対していた天武天皇は、朱鳥元年(686年)この寺の建立を許可し、「園城寺」の寺号を与えた。「園城」という寺号は、大友与多王が自分の「荘園城邑」(「田畑屋敷」)を投げ打って一寺を建立しようとする志に感じて名付けたものという。なお、「三井寺」の通称は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから「御井」(みい)の寺と言われていたものが転じて三井寺となったという。現在の三井寺には創建時に遡る遺物はほとんど残っていない。しかし、金堂付近からは、奈良時代前期に遡る古瓦が出土しており、大友氏と寺との関係も史料から裏付けられることから、以上の草創伝承は単なる伝説ではなく、ある程度史実を反映したものと見ることができる。
三井寺では、他宗で「管長」「別当」などと呼ばれる、一山を代表する僧のことを「長吏」(ちょうり)と呼んでいる。貞観元年(859年)、三井寺初代長吏に就任し、その後の三井寺の発展の基礎を築いたのが、智証大師円珍である。円珍は、弘仁5年(814年)、讃岐国那珂郡(香川県善通寺市)に生まれた。俗名は和気広雄、母方の姓は佐伯氏で、円珍の母は弘法大師空海の妹(もしくは姪)にあたる。幼時から学才を発揮し神童と呼ばれた広雄は、15歳で比叡山に登り、初代天台座主義真に入門。19歳の時に国家公認の正規の僧となり、円珍と改名した。その後、比叡山の規定に従って「十二年籠山行」(12年間、比叡山から下りずにひたすら修行する)を終えた後、大峯山や熊野三山を巡って厳しい修行をする。このことから三井寺は修験道とも深い繋がりを持っている。仁寿3年(853年)には唐へ留学して6年間、各地で修行。青龍寺の法全(はっせん)から密教の奥義を伝授された。天安2年(858年)、円珍は多くの経巻、図像、法具を携えて日本へ帰国した。翌貞観元年(859年)、大友氏の氏寺であった三井寺に「唐院」(とういん)を設置。寺を整備して修行の道場とすると共に、唐から請来した経典や法具を唐院に収蔵した。貞観8年(866年)、太政官から円珍に伝法の公験(くげん、証明書)が与えられた。顕教、密教に加えて修験道を兼学する円珍の伝法は、これによって政府の公認を得たわけであり、天台寺門宗ではこの時をもって開宗と見なしている。貞観10年(868年)、円珍は天台宗最高の地位である天台座主に就任。以後、没するまでの24年間、その地位にあった。
円珍の没後、比叡山は円珍の門流と、慈覚大師円仁の門流との2派に分かれ、両者は事あるごとに対立するようになった。円珍の没後1世紀あまりを経た正暦4年(993年)には、円仁派の僧たちが比叡山内にあった円珍派の房舎を打ち壊す騒動があり、両派の対立は決定的となり、円珍派は比叡山を下りて、三井寺に移った。比叡山延暦寺を「山門」と別称するのに対し三井寺を「寺門」と称することから、両者の対立抗争を「山門寺門の抗争」などと呼んでいる。比叡山宗徒による三井寺の焼き討ちは永保元年(1081年)を始め、中世末期までに大規模なものだけで10回、小規模なものまで含めると50回にも上るという。
三井寺は、平安時代には朝廷や貴族の尊崇を集め、中でも藤原道長、白河上皇らが深く帰依したことが知られている。これら勢力者からの寄進等による荘園多数を支配下におき、信州善光寺も荘園末寺として記録に著れる。中世以降は源氏など武家の信仰も集めた。源氏は、源頼義が三井寺に戦勝祈願をしたことから歴代の尊崇が篤く、源頼政が平家打倒の兵を挙げた時にはこれに協力し、平家を滅ぼした源頼朝も当寺に保護を加えている。頼朝の意思を継いだ北条政子もこの方針を継承し、建保元年(1214年)に延暦寺に焼き払われた園城寺を大内惟義・佐々木広綱・宇都宮蓮生ら在京の御家人に命じて直ちに再建させている。しかし、園城寺で僧侶として育てられていた源頼家の子公暁が叔父である源実朝を暗殺するという事件を起こしたために、以後鎌倉幕府より一時冷遇を受ける。だが、北条時頼の信頼が厚かった隆弁が別当に就任すると再興され、続く南北朝の内乱でも北朝・足利氏を支持したことから、室町幕府の保護を受けた。両幕府のこの厚遇は、強力な権門である延暦寺の勢力を牽制するために園城寺に対して一定の支援をすることが必要であると考えられていたからだと言われている。
文禄4年(1595年)、三井寺は豊臣秀吉の怒りに触れ、闕所(寺領の没収、事実上の廃寺)を命じられている。三井寺が何によって秀吉の怒りを買ったものかは諸説あって定かではない。この結果、三井寺の本尊や宝物は他所へ移され、金堂をはじめとする堂宇も強制的に移築された。当時の三井寺金堂は比叡山に移され、延暦寺転法輪堂(釈迦堂)として現存している。慶長3年(1598年)、秀吉は自らの死の直前になって三井寺の再興を許可している。これは死期を悟った秀吉が、霊験あらたかな三井寺の祟りを恐れたためとも言われている。秀吉の再興許可を受け、当時の三井寺長吏・道澄が中心となって寺の再興が進められた。現在の三井寺の寺観は、ほぼこの頃に整えられたものである。
右筆(ゆうひつ)は、中世・近世に置かれた武家の秘書役を行う文官のこと。文章の代筆が本来の職務であったが、時代が進むにつれて公文書や記録の作成などを行い、事務官僚としての役目を担うようになった。執筆(しゅひつ)とも呼ばれ、近世以後には祐筆という表記も用いられた。
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1 概説
3 織豊政権
4 江戸幕府
5 関連項目
6 関連作品
概説[編集]
初期の武士においては、その全てが文章の正しい様式(書札礼)について知悉しているとは限らず、文盲の者も珍しくは無かった。そこで武士の中には僧侶や家臣の中で、文字を知っている人間に書状や文書を代筆させることが行われた。やがて武士の地位が高まってくると、公私にわたって文書を出す機会が増大するようになった。そこで専門職としての右筆が誕生し、右筆に文書を作成・執筆を行わせ、武家はそれに署名・花押のみを行うのが一般的となった。これは伝統的に書式のあり方が引き継がれてきたために、自筆文書が一般的であった公家とは大きく違うところである。武家が発給した文書の場合、文書作成そのものが右筆によるものでも署名・花押が発給者当人のものであれば、自筆文書と同じ法的効力を持った。これを右筆書(ゆうひつがき)と呼ぶ(もっとも、足利尊氏のように署名・花押まで右筆に任せてしまう特殊な例外もあった)。
なお、事務が煩雑化すると、右筆が正式な手続を経て決定された事項について自らの職権の一環として文書を作成・署名を行い、これに主君発給文書と同一の効力を持たせる例も登場する。こうした例は院宣や綸旨などに早くから見られ、後に武家の奉書や御教書などにも採用された。
現在では天皇・皇后の文章の代筆をする宮内庁の文書専門員(中島司有、佐伯司朗といった書家が務める)は「祐筆」と呼ばれることがある。
源頼朝が鎌倉幕府の原点である鎌倉政権を打ち立てた時に、京都から下級官人が招かれて事務的な業務を行ったが、初期において右筆を務めていたのが大江広元である。後に、広元が公文所・政所において行政に専念するようになると、平盛時(政所知家事)・藤原広綱・藤原邦通らが右筆を務めた。
その後、将軍や執権のみならず、引付などの幕府の各機関にも右筆が置かれ、太田氏や三善氏などの官人の末裔がその任に当たるようになった。基本的に室町幕府もこの制度を引き継いだが、次第に右筆の中から奉行人に任じられて発言力を増大させて、右筆方(奉行衆)と呼ばれる集団を構成するようになった。
なお、室町幕府では、行政実務を担当する計方右筆・公文書作成を担当する外右筆(とのゆうひつ)・作事造営を担当する作事右筆などと言った区別があった。
戦国時代に入ると、戦時に必要な文書を発給するための右筆が戦にも同行するようになった。戦国大名から統一政権を打ち立てた織田・豊臣の両政権では右筆衆(ゆうひつしゅう)の制が定められ、右筆衆が行政文書を作成するだけではなく、奉行・蔵入地代官などを兼務してその政策決定の過程から関与する場合もあった。豊臣政権の五奉行であった石田三成・長束正家・増田長盛は元々豊臣秀吉の右筆衆出身であった。他に右筆衆として著名なものに織田政権の明院良政・武井夕庵・楠長諳・松井友閑・太田牛一、豊臣政権の和久宗是・山中長俊・木下吉隆・安威了佐などがいる。
なお、後述のように豊臣政権の没落後、右筆衆の中には徳川政権によって右筆に登用されたものもおり、右筆衆という言葉は江戸幕府でも採用されている。
戦国大名としての徳川氏にも右筆は存在したと考えられるが、徳川家康の三河時代の右筆は家康の勢力拡大と天下掌握の過程で奉行・代官などの行政職や譜代大名などに採用されたために、江戸幕府成立時に採用されていた右筆は多くは旧室町幕府奉行衆の子弟(曾我尚祐)や関ヶ原の戦いで東軍を支持した豊臣政権の右筆衆(大橋重保)、関東地方平定時に家康に仕えた旧後北条氏の右筆(久保正俊)などであったと考えられている。
徳川将軍家のみならず、諸大名においても同じように家臣の中から右筆(祐筆)を登用するのが一般的であったが、館林藩主から将軍に就任した徳川綱吉は、館林藩から自分の右筆を江戸城に入れて右筆業務を行わせた。このため一般行政文書の作成・管理を行う既存の表右筆と将軍の側近として将軍の文書の作成・管理を行う奥右筆に分離することとなった。当初は双方の右筆は対立関係にあったが、後に表右筆から奥右筆を選定する人事が一般化すると両者の棲み分けが進んだ。奥右筆は将軍以外の他者と私的な関係を結ぶことを禁じられていたが、将軍への文書の取次ぎは側用人と奥右筆のみが出来る職務であった。奥右筆の承認を得ないと、文書が老中などの執政に廻されないこともあった。また奥右筆のために独立した御用部屋が設置され、老中・若年寄などから上げられた政策上の問題を将軍の指示によって調査・報告を行った。このために、大藩の大名、江戸城を陰で仕切る大奥の首脳でも奥右筆との対立を招くことは自己の地位を危うくする危険性を孕んでいた。このため、奥右筆の周辺には金品に絡む問題も生じたと言われている。一方、表右筆は待遇は奥右筆よりも一段下がり、機密には関わらず、判物・朱印状などの一般の行政文書の作成や諸大名の分限帳や旗本・御家人などの名簿を管理した。
http://anond.hatelabo.jp/20161122110427
確か、中学生の頃だったか。定期試験で「コンパスで正三角形を書け」なんて問題が出た。試験の持ち物の中に、コンパスとはあったが、そんなことすっかり忘れていたため手許にコンパスはない。そこで試験用紙を少し切り取り、そこに長さを図って鉛筆を突き刺し、即席のコンパスを作った。コンパスとは等距離の線を描くための道具だ。これでも問題なかろう。そして実に美しい正三角形を描画することが出来た。
しかし、答案用紙にはバツの印がつけられていた。図形に関する答案はすべて不正解になっていた。その理由を教師に問うと、「君は当日コンパスを忘れていた。問題にはコンパスを用いるようにと書いてある」と言われた。
納得いかなかった。機能としてはほぼ同等、途中で幅が変わる可能性の低さについてはそれ以上であるはずの自家製コンパスが否定されたこともだが、幾何学的な正しさよりも忘れ物をしたことを罰しようとしてきたことが癪に障ったのかもしれない。
その後、そもそもコンパスとは何かを厳密に定義していない、等距離であることは担保して作図した、これがコンパスではないとする理由を示せと繰り返し何度も毎日授業後に主張した。その結果、バツになった答案はすべて正解になった。
このことに味をしめ(?)他の科目でも似たようなことを始めた。家に帰ったあとは、ネットで授業内容のあらを探すことに大きく時間を割くようになった。鎌倉幕府成立は本当に1192年なのか?とかそんな話だ。教師から反撃されたときに備え、反対意見にも目を通した。使えそうな材料が揃えばこっちのもんだ。安全圏からネチネチ攻撃できる。
そんなこんなをしている中で、痛快に思われたのかクラス内でのカーストは何段階か上がった。おまけにあれこれ調べていた成果で学がついたのか成績は学年上位に入った。ついでに、試験では習ったことを書いて、あとでいちゃもんをつける程度の処世術は手に入れた。あと「実は知ってる?あの話って…」というネタは食いつきが良いのか、交友関係にも不自由することはなくなった。
おもえばあの時、何かを理屈に穴はないのか?に目を光らせることを学んだことは、その後の進学、就職に大いに役だった気がする。
天智・天武の生涯を通して「日本」が作られるまでの過程を描く。主人公は柿本人麻呂あたり。
国家の一大プロジェクトとしての平安京造営を、蝦夷討伐や藤原種継暗殺などを交えて描く。主人公は坂上田村麻呂あたり。
藤原良房による権力掌握の過程と、そのクライマックスとしての応天門の変を、スリリングな政争劇として描く。
藤原氏同士の権力争いや後宮の女房たちのエピソードなどを交えながら、藤原道長を気宇壮大な人物として描く。
北条時政を中心とした鎌倉幕府の創立とその後の政争を下敷きに、曽我兄弟の仇討ちを描く。
足利義満を主人公として、その半生を追いながら、南北朝後半の動乱と室町幕府の絶頂期を描く。
二階崩れから島津征伐まで、九州に鼎立した大友・龍造寺・島津の三氏の戦いを群像劇として描く。
強く刺激すれば気持ちい、激しくすれば感じるって本気で思っているようだ。
私がなんどもそれを否定しても、
いやいや、激しくされて感じてるって思わないでよ。
内心では痛いんだけどってずっと思ってる。
むかついたから本音でそれを語っても、まだ慣れていないだけでそのうち気持ち良くなるって言って聞かない。
いい加減こっちも疲れてくる。
あと、デカイアレは痛いだけなんだ。
そんなにコンプレックス持たなくてもいいと思うんだ。
それと、イッた後に潮吹かせようとするの本当にやめて。
プレイの後だから空気的に本気でやめろって言いづらいからやられてるだけで、
プレイ外でやめろっていってるのを本心と受け取ってくれないし。。
これはフィクションで、演技で、実際の女性はこの方法では感じませんって書いて欲しい。
あ、あとレイプ願望を持ってる女なんて少数派だし、
いたとしてもせいぜいイケメン限定だってこともみんな知っておいてくれ。
AVによる刷り込みなのか洗脳なのか、本当に迷惑極まりない!!
めちゃ反応があってびっくりしてます。
ちょっといくつかに答えたいので返事したいと思う。
>そんなやつ別れろ
誰にでも付き合い始めた時点で、お互いに至らない点はあると思う。
悪い部分があれば即別れるんじゃなくて、お互い改善し合うのが恋人だと思うんだ。
分別があっても度胸がないとか生活習慣が悪いとか行動力がないとか、人はいろんな欠点を抱えていると思う。
今付き合ってる彼氏がたまたま今はそういう夜の営みについて勘違いしてるってだけで、
他は本当に優しいいい人だから別れようとは思わないな。
逆にこの文章だけで彼の人となりをわかった気になる人の方が怖いよ。
重要なのは、優しい人でも「大いなる勘違いをしている」ってところ。
だからその原因を作ったであろうAV会社の人に切実にお願いしたい。
で、私の付き合ってきた人は多かれ少なかれAV的思想を抱えてて、
あと、この体験は結構女性の間ではあるあるで、友達同士でもネタにもなるし、
(なんか強くやってくるけど痛いだけだよねー、でもムード壊しにくいよねーとか)
女性向けの雑誌だったり漫画だったり記事だったりを見ればよく目にするし、結構共感してもらえると思う。
あるあるってのは女性の経験としてもだけど、男がAV脳であるってことも共感の対象。
もちろん特殊な人もいるけど、それに関してはこちらの方がたくさんのサンプル数を持っているので、
とりあえず伝えたいことはデフォルトで変な勘違いを持っている人が多いから、
その考えはアニメの価値観を現実に持ってきているようなものだって理解してほしいんだ。
まだ付き合って時間経ってないし、元彼たちのように時間をかければその洗脳は解かれると思う。
ただ、その煩わしさを解消するためにももっと男の方々には知ってもらいたかった。
まるでDVを受けてる女みたいな扱いになってけど、本当に一方的すぎるとかそういうことじゃないんだ。
セックスの話し合いもしてるし、改善している部分はある。もちろん普段の生活に関してもね。
そして、歴代の彼氏は同じタイプじゃなくて頭いい人から、活発な人、おとなしい人色々いた。
私が同じような人を好きになってたわけじゃなくて、みんな「多かれ少なかれ」あったんだ。
みんな、私が話をしている間はもちろん聞いてくれてはいるんだけど、
どこか信じていなくてAVの方が正しんじゃないかって信じている。
例えば、「鎌倉幕府って1192年じゃなくて1185年に出来たんだよ」って情報がメジャーになる前に、
私があなたに伝えてもすぐには信じないでしょ?
真剣に伝えれば多分その場はそうなのかもって態度をとって終わらせると思うけど、
内心ではやっぱ1192年だよなあって思うと思う。
そういう感じでみんな刷り込まれてる。納得してるふりしてもどこかで本当はAVが正しいんだろうって思ってるというか。
もちろん程度の差はあるから、頑なに聞かないんじゃなくて、すぐには信じられていないっていう表現が正しいかも。
多分自分は違うって思っている人も、多かれ少なかれAVイズムが本人も気づかないところで浸透していると思う。
>激しいのが好きな女もいたから、知り合いは〜
いや、結果的に望むものが提供できるならOKというわけではないと思う。
対話ができる関係があって、その中に変なバイアスがあるならそれを自覚してほしい。
これは夜の営みだけについてじゃなくて、他のこと全般のもいえることだから。
もちろんこれは女性サイドにもいえることだけど。
でも、ブコメで断罪して自分は違うって思ってる人も、多分なんらかの偏りや歪みや刷り込みがあると思うから、
自分の至らなさやその可能性に気づいていれば人にもっと優しくなれると思うのに。
最後の追記を書きました。
鎌倉時代初期、東国において政権を確立した源頼朝によって設けられた守護職は、軍事・警察的な権限を持つのみであり、地域統治の権限は依然として国司にあった。
後年、鎌倉幕府が滅び室町幕府が成立すると、室町幕府はその守護制度を踏襲する。
しかし守護は、次第に国司の権限をも包摂し、独自の領国支配を固めていくようになる。このようにして広域領主化した守護を「守護大名」といい、守護大名をトップとした地域支配体制を大名領国制と呼ぶ。
広域領主として実権を握った守護に対し、足利将軍家の影響力は薄れ、室町幕府は守護大名による連合政権の様相を呈していく。
さらに肥大化した守護大名たちは互いに自己の利益を追求して相争い、応仁の乱に代表されるような戦乱を巻き起こすようになった。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm23488282
彼は社会学者としての立場から法律や改憲論者と論壇で登って答弁しているわけだが、オレには佐藤氏と古市さんとの間で話がまったくかみ合っていないように思える。
正直、この佐藤という人を含め、古市さんを叩いてる人にはマーケット感覚がないんじゃないか?と思うんだが、具体的にどうやってそれを示したらいいのか見えてこない。
山本みずき氏との論壇でも同様だと思う。山本みずき氏にはマーケット感覚がない。一方で古市氏にはマーケット感覚がある。
議論のレベルがかみ合ってない。山本氏も佐藤氏も、社会の泥臭い面や言葉通りにいかない部分が見えてない。古市氏の方が社会を間接的に知る手段が豊富で信頼できると思うんだが
同じように思ってる人はいないのかな。。。
一応個人的に考えてみた内容をまとめてみたので、知見のある方々の指摘や修正がほしい。
是非論駁してみてくれ。
個人的な思考なんだが、『佐藤氏』と『古市氏』のバックヤードに目を向けてみた。
ソースはwikipediaくらいしか簡単に示せるものはなく、佐藤氏のことはオレはほとんど知らないので、あまり知ったようなことは言えないんだが・・・
『佐藤氏』
『古市氏』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E5%B8%82%E6%86%B2%E5%AF%BF
佐藤氏の両親は政治学者と弁護士。つまり歴史と法に重きを置く典型的な法学部タイプ。日本は法治国家で資本主義として成功した社会主義タイプなので、佐藤氏は典型的な右派で保守的なタイプ。
一方で古市氏は環境情報から社会学へと転向した。つまりバックヤードとなる知識や感性は科学者タイプ。
ゆえに、古市氏の論じる分野には必ず〝マーケット〟がある。お金と結びついて物事を考える発言がきちんと身についている。またそこに時価がある。
ここで勘違いしてはいけないのは〝経済〟や〝金融〟ではない、ということだ。要するに〝政治色〟が薄い。よく言えば庶民的。別の言い方をすると〝資本主義的〟。
また彼は友人に起業家を持っており、堀江貴文を含め、財界との繫がりも多い。ほりえもんちゃんねるなどにもよく登場する。
これを〝強い者に擦り寄る〟と表現するものもいるが、そのあたりの〝評価〟は置いておいて、マーケット感覚を得られる環境にいることは間違いない。
http://blogos.com/article/154867/
例えばここで古市氏は『すき家は企業が社会にもたらした社会福祉のひとつ』と述べたことで叩かれているが、なにが間違っているのだろう?と思う。
マイクロソフトをはじめとする新時代の新興企業の多くは、既存の制度を上手に利用して新しい形の報酬を従業員に還付している。
(※その代わり徹底的に税金を逃れている! ←善し悪しは置いておいて、事実そうである)
どの国に所属しているかよりも、どの会社に所属してその会社が与える福利厚生を受けられるか
ストックオプションを行使できるか、金融資産を持てるかどうかが豊かさへと直結する時代になったのに、いったい何故古市氏の述べていることが的外れなのだろうか?
シリコンバレーでは福利厚生を提供するサービスを行っている会社がYコンビネーター出身者によって起業されている。
ケータリングサービスやタクシーチケット、社宅システムなど、上げればきりがないと思うのだが・・・
http://asread.info/archives/722
日本に自衛権があることを古市氏は知らなかったと述べているが、これもある意味で間違っていないと思う。
実際のところ、実質的に自衛権を行使できなかったことには違いない。
・ミサイルを発射されながらもそれを撃墜できるのは日本に駐在している二機の米軍潜水艦のみであること。
・敵国が領空侵犯をしても命令がなければ撃墜できない。引いては物理的に〝敵飛行機を押す〟という意味不明な対処しかできない
これらの現行法の脆弱さをどれだけ学者やSEALsは理解してるのだろうか?
http://trafficnews.jp/post/46566/3/
自衛権は認められているが、〝実質的に言って認められていない〟ことと一緒。
であるにも関わらず、古市氏が『日本の自衛権って認められてるんだ…』という発言を〝知識がない〟〝教養が無い〟と評価する論調はいかがなものか。
一方で佐藤氏にはマーケット感覚が無いといえる理由はここにある。つまり法律や政治に関する学問を背景にしているところに問題がある。
この手の人間がやっかいなのは、やたらと知識や雑学は多く言葉に言葉を返すのは上手いのだが、思考回路に多くの前提条件や知識条件が抜け落ちていることが多い。
言ってしまえばマリー・アントワネットのタイプだ。
古市氏の発言が法学や政治に強い識者から叩かれやすいのは何故だろうか。
それは叩く者たちが〝歴史の変遷〟が、実は〝市場の変遷〟であること、をよく分かっていないからだ。
市場経済はより自然科学的だ。お金は政治や法律によって生まれたわけではない。自然に発生して、それが整備されて整えられた。実は人類が進化の果てに手に入れた概念だ。
軍事力と経済力のふたつは大国の力を現す両輪と考えられるが、実は歴史を手繰ると三番目の車輪があったことが分かる。その名も〝宗教〟。
鎌倉幕府の台頭に現れているように、歴史的に見ると既にこの頃から宗教の力は徐々に衰えを見せており、政治と軍事力の二つが世界を動かしていたと言える。
表の世界での政治はほとんどが宗教と密接に関わっており、もっぱらここが市民と政治の大きな接点であったと言える。
一方で軍事力は実質的な世界の掌握と統治を行う役割を担っていた。
少なくとも、日本においては明治維新でサムライが不要となるまではそうだったのだ。
しかし第一次世界大戦、第二次世界大戦に代表されるように、軍事政権は失敗を迎えた。
正しい仕方で行使されなかった軍事政権は、共産主義や社会主義を生み出したからだ。
一方で米国のような市場経済を中心として発展した国は一定の成功を収めた。士・農・工・商のうち、最後に勝ったのは商人というわけだ。
マーケットは〝国の力が弱まりつつある〟ことを明らかにしつつある。既に鎌倉幕府の時代から、政府が持つ立法の力は軍事力か経済力のどちらかを担保にしており、宗教はアイドルでありスケープゴートであったに過ぎない。
そして過去〝政(まつりごと)=宗教〟が中心だった国家は、現在政治の中心を〝経済〟へと移している。
軍事政権が実質的な掌握を行っていた政治は、現在では財界が実質的な掌握を行う社会へと変化した。そしてそれは加速していく。
実際、国が提供する福祉よりも企業が従業員に提供する福祉の方が優れている場合が多い。しかもマーケットに従った結果なので、相応の人材を兼ね備えており、無駄が無い。
パナマ文書にも代表されるように、国家の枠組みを超えた企業にとっては国境など存在しないも同然。
スターウォーズの通商連合のように、もはや国とは独立した別の政治形態と言って差し支えない。
戦後70年の間で形成されてきた常識などいくらでも覆る。今後の歴史は大転換を迎えると考えてまず間違いない。
その意味では、いまだに全時代的な歴史の踏襲と繰り返し論議を重ねる、マーケット論の無き法学者や政治学者が出る幕は実質的に言って存在しない。
宗教がその存在を弱めたように、政治もまた本質は思想であり宗教であるから、その実質である軍事力や経済力のいずれかに依存せざるを得ず、結果として時代に取り残される。
軍事力の台頭は世論が許さないだろうし、世界もそれを望んでいない。よって、これから重要になるのは、〝個人がどの市場経済に所属しているか〟である。
世界を牽引してきたのは技術革新と金融だ。宗教を背景にした政治はストーリーを創り出す力があったが、現代ではその力は失われている。
闇雲に政治を追いかけても歴史を追いかけても真実は見えてこない。
必要なのは産業界の歴史を追いかけること。経済史の発展と衰退の繰り返しの中に答えがある。
古市氏がどういう器なのかは知らないが、少なくとも歴史と現状を比較して将来を占う上で非常に恵まれた立場にいることは間違いない。
彼は川上の最新情報にアクセスできることが可能で、新時代のリテラシーも十分持っている。
法学者も歴史学者も、企業の間接部門でしかない。プロフィット部門ではない存在の者たちがとやかく言う論壇や議論に意味はない。
その点は古市氏も同様だが、彼は自分の立場が弱者であることを自覚している分、市場に対する的確な論壇を展開できる下地がある。
叩かれるのがその証拠だ。叩いてる奴らのほとんどはマリーアントワネットばかりなのだから、叩かれている姿を見てむしろ安心すべきだ。
今まで俺は数々の勘違いをしてきた。俺のアホンダラな勘違いを正してくれた人、ありがとう。
そして俺は思った。きっと俺と同じような勘違いしているアホン…(失礼)もいるであろう、と。
⚪︎『an extraordinary Diet session』のことを『驚くべきダイエット会議』だと思っていた。新手の『〇〇するだけで痩せるダイエットセミナー』か何かだ、と。
→正しくは『臨時国会』のことだ。
⚪︎『début』を『デブっと』と読んでいた。素直に読めばそうとしか読めないだろう。
⚪︎アボガド。それ以上でもそれ以下でもなかった。濁点をつけることのできる文字には全て濁点をつけちまったんだ。逆に濁点を全て取り除いて『アホかと』にしなかっただけマシだと思ってくれ。
→正しくは『アボカド』だ。
⚪︎『鎌倉幕府は1192年に成立した』と習ったんだからしょうがない。しょうがないよ。そう習ったんだから。
→現在は『1185年成立』が有力らしい。逆サバ読みしてたんだな。しかし誤差だよな。
⚪︎保冷剤に『Cool Keeper』と書いてあったんで、それはつまり『カッコイイゴールキーパー』のことだと思っていた。ゴールキーパーとか唐突だな、と。
→しかし正しくは『保冷剤』のことだ。ああ、確かに。
⚪︎『増田さん』は、はてな匿名ダイアリーの管理人だと思っていた。みんな増田増田言ってるから、管理人の増田さんは愛されてるんだな、と。
→正しくは Anonymous Diaryを略して『増田』なのであった。真ん中の部分が『増田』と読めるのだ。確かに。refrigeratorをfridgeと略すような意味不明さと美しさである。
……
「知ってた」そんな声が聞こえてきそうだ。俺も自分の知っていることがネットに書かれていたらつい言いたくなるんだ「知ってるwww 」と。
しかし皆それぞれに知らないことはあるのだ。他人が、自分と全く同じものを知らず全く同じタイミングで何かを知るなんてことはないんだ。
簿記の基本を学校で教えとけっていう増田(http://anond.hatelabo.jp/20151109212125)がいて、ブコメもたくさん集まっていて、
だいたい「その通りだ」という意見とか、「そんなもん、必要になったら学べばよい」みたいな意見とか、
「何を削るんだよ。学校では基礎教養を教えるべき」とかいろいろあるけど、
多分、問題なのは、そこそこ一流という学歴を得るための日本の教育カリキュラムをまっとうにこなしても、
簿記とか会計の仕組みや考え方が、世の中においてかなり大事な仕組みであり、しかも、人類の知的遺産の一つである、という認識が
で、そのまま、管理職になったり政治家になったりジャーナリストになったり評論家になったりして、
なんか、いろいろ混乱させている気がする。
「必要になったら自分で身につけられる」って、それは当たり前で、必要になりゃ人は学ぶもんだ。
あと、別に実務的な帳簿のつけ方を、必ずしも全員に教える必要もなくて、
それより学校で教えるべきことは、いろいろあるとは思う。
例えば、政治の分やでは学校で民主主義とか基本的人権が大事ですよとか、現代につながるそういう思想は
市民革命を経て生まれたんですよとか、そういうことを、学んだりする。
それは、必ずしも、いわゆる「公民」の分野だけじゃなくて、世界史とか学んでも、そういう視点がある。
なのに、会計学とか、株式会社とか、そういう概念については、あんまりそういう視点で教えない。
簿記の起源や諸説あるらしいが、そのうちベネチアやジェノバの商人に導入され、ヨーロッパで洗練されていったものらしい。
オレ自身、詳しくはないが(なにせ、学校で習わないし)、その後、株式会社というものが生まれて、
ヨーロッパ文明が大航海時代から植民地支配へと、傍若無人な力を発揮するうえで、
で、今の社会だの世界情勢だのを語るうえで、企業というものを無視するわけにはいかんだろう。
日本の社会の多数派がそこに属しているわけだし、一生かかわらずに生きる人は多分いない。
別に、具体的に仕分けがどうこうとか、細かく必修で教える必要はないだろうし、
そんなことして別の内容を削る必要もないと思うが、
世に複式簿記というものがあり、それがどんな重要な役割をはたしているかということだけは
教えておけばいいのではないか?
その程度だったら、既存の社会科の内容をちょっと手直しすりゃ、できると思う。
少なくとも、日本史で、仏像の写真みて仏師の名前をこたえられるようになったりするより、大事な気がするし
社会科といえば「いいくにつくろう鎌倉幕府」(最近は、年号違うらしいけど)とかを思い浮かべるばっかりとかいうより、
ましな結果になると思う。
興味が湧いたやつは、そこから深堀したり、進学先を経営学部や商学部にしたりするだろう。
そもそも、学校で学ぶ範囲の中で「興味を持つ」ことすら難しいんじゃないか?
オレは学校で周期律というのを習ったが、社会に出て実際に役に立ったことは、ほぼ無い。
それでも、過去にああいうものが作られて、それで世の中の物質がすべて説明できて、
そういう知識が積み重なって化学が発展してったことを
学校で学んだことはムダだったとは思わない。
実際に帳簿を付けたり仕分けをしたりはしない人たちにとっても、
そういう感じで、「複式簿記というものがあり、それは大事なものなんだなあ」と知っておくべきだと思う。
社会に出て、実際に具体的な知識を身につける必要に迫られた人は、多分
「ああ、社会科の時間になんかいってたのは、こういうことなんだなあ。もっと学生時代に勉強しとけばよかった」
と思うはずだ。
ヨーロッパの文明が「複式簿記」という仕組みを洗練させ、それが、現代まで続く、企業会計の基礎になってきたという
そのことを知るのは「教養」だと思う。
ここ最近の安保関連法案の騒動を見ていて、鎌倉幕府の制度の関係に想いを馳せた。
御存知の通り、鎌倉幕府は長期にわたって日本を支配した初の武士政権ではあるが、長である将軍の力は初期において奪われ、そのあと数百年にわたって政治を動かしたのは北条家であり、彼等の代表が執権として辣腕を振るっていた。
「御成敗式目」という日本最初の武家による法律を定めたのも鎌倉幕府だった。これも、お題目として後世にわたって尊重されてきたものの、内実は有名無実化して、現実に沿った行政が行われるようになった。
この手のことは鎌倉幕府のみならず、そのあとも幾度と無く繰り返されてきた。家祖の定めたものを壊すことはままならない。しかし理想と現実は食い違うばかり。西洋では、現実を理想に近づけるか、理想を現実に沿ったものへと変えようという試みが行われるのだが、日本では、理想を掲げながら「現実は違うよね」と開き直ってその場その場で恣意的な運用を行い、たまに「お上」が理想をふいに持ちだして厳格な処罰を行い現場の引き締めを図る……こういうやり方を続けてきた。
家祖の定めたものは素晴らしい、変えてはならない、変えようとする人間は悪逆非道の大悪党だと罵るくせに、現実とそぐわない面には頑として従わず、従わないを当然と思い、「柔軟アな対応」と誇る。法を完全無視するほどの人治主義でもないが、かといって法治主義でもない。法や権威を尊重し、時々それによって引き締めを図る程度にはその支配力を認めるけれども、普段は臨機応変な対応で対応するというこの考え方を、なんというのだろうね?
神輿となったものを壊さず、作り替えたり新しい神輿を作り上げたりすることもせずに、それはそれで担ぎながら、現実はそれとは異なる対応を行い、人々もそれに従うというものだ。
日本国憲法もどうやら、その段階に入ったらしい、平和主義という理想は理想として素晴らしいと誰もが思い、この理想を下ろす気はない。しかし、理想と相容れない現実(中国が圧倒的な軍事力を背景に周辺国の政治を支配しようと目論む)が現れたときに、憲法はそのままにして、法運用や解釈を変えることで対処しようとしている。日本社会のこれまでのあり方そのものじゃないか。
日本の歴史と社会がそのようなものだから、それを是として受け入れていくべきか、それとも西洋流の方法を是として、日本の社会を変えていくべきか……悩ましき問題だ。
そもそも歴史修正主義という言葉はもともとは歴史学において、歴史を叙述し直すことを主眼とした、歴史学における試みの一つを表す。
一般には、伝統的な歴史解釈に対し、別の可能性(仮説)や、可読性(読み方)を提示する試みをいう。
つまりただ単純に新たな資料から考えなおしてみることを指しておりそこにイデオロギー的な意味等は含まれていない。
有名なものとしては以下の様な物が歴史修正主義の立場から新たな観点として持ち込まれた。
鎌倉時代の始まりについてはニュース記事などになっていたりするので知っている方も多いと思う。
いい国(1192年)つくろう鎌倉幕府という覚え方をした方が多いと思うが現在では1185年の成立説が優勢になっており
中学や高校教育での教科書などでも1185年に改定されている場合が多い。(らしい
というように主に歴史学において使われる言葉ということになる。
ホロコーストは存在していなかったという言説を声高に掲げる勢力が台頭してきた際に、彼らは自らのことを「歴史修正主義者」と名乗った。
つまり、正しく歴史を認識しているのは我々であり正しい形に修正するというような意味合いで彼らは使ったわけだ。
そしてこれらに反発した人たちが当然出てくる。
そして彼らもまた、ホロコーストのように広く知られた事実を否定する「歴史修正主義者」たちを悪し様に言うようになった。
といったような内容を発言する人もいる。
しかしながら私はこの歴史修正主義という言葉そのものが非常に危険なフレーズだと思っている。
通俗的な意味としてwikipediaには以下の様な意味で記述されている。
ある特定の歴史家が、反対者の歴史観に対して、否定的な印象を広く一般に植え付けるためのレッテルとして用いることがある。
この用法による「歴史修正主義」とは、「客観的な歴史学の成果を無視し、都合の良い過去は誇張や捏造したり、悪い過去は過小評価や抹消したりして、
自らのイデオロギーに従うように過去を修正するもの」であったり、「既に修正された歴史観の再修正をするもの」という意味で使用される。
特定のイデオロギーを持つグループが反対グループに対して使用される。
「慰安婦が存在しない等というのは捏造だ。歴史修正主義者はこれだから」
ただ、現状のイメージとして、左派が慰安婦否定論等を使う右派(ネトウヨ)に対して使っているイメージが非常に強い。
特に安部総理に対して使っている記事やはてなブックマークのコメントでもで散見される。
Twitterなどでの論説を見るとレイシズムなどと歴史修正主義を結びつける人がいたり、非常に安易かつ混同した使い方をする人がいる。
もちろん、慰安婦が存在した資料をしっかり示したり、きちんとした言葉で反論するのであればそれは非常に健全であるし、どんどんして良いことでは有ると思う。
しかしながらこの言葉を安易に使いすぎると非常にまずい状態になってしまう可能性があるのではないかと思うのだ。
特定のグループ内で共有されている歴史的に正しいとして考えられている事と正反対の意見を述べるグループに容易に
歴史修正主義者という非常に「ネガティブ」な意味合いを持つ言葉でレッテルを貼るという行為がもし広まった場合、議論が成立しなくなってしまう。
歴史学は基本的に異なる説がいくつも存在しており、その中で多数派であったりするものが教科書などに採用される。
だが、そこには明確な証拠や、非常に練った方法で歴史を調査・推定しているのだ。
ただ、その場で相手を悪し様に歴史修正主義等と批判したりすることが容易に行われた場合どうなるのか? 当然反対意見がのべづらくなってしまう。
なにせ歴史修正主義という言葉のバックボーンにいつの間にかレイシストという意味がはびこってしまっっており、反対意見を述べたに過ぎないのにレイシスト等と罵られる事と同義になってしまうのだ。
もし、南京事件が存在しないという論が日本国内で多数派になった時どうするのだ?
今度は劣勢になった側が歴史修正主義者、つまりレイシストと言われるようになるのだ。
そうなってしまった場合どんなに資料や証拠を突きつけても覆すことが非常に難しくなる。
「正しくない歴史を主張するものは差別主義者であり、キチガイなのだから当然だろう?」
こんな使い方を考えなしにのべつ幕なしに使っていれば自分の首を締めることにもなりかねないだろう。
もし反対の意見を述べるのであれば安易なレッテル貼りを行うのではなくきっちりと資料や発言等を引用して反論することを強くおすすめする。
便利だからってアホみたいに使っちゃ駄目よ。
以上。
710大きな平城京、1192作ろう鎌倉幕府は、携帯電話の普及率並に日本の人口に膾炙されていると思うのだけど、
1192作ろうだけじゃなく、710大きなの方も実は710年に遷都してなくね?が定説になりつつあることを知ってもらいたい。
まず、遷都の定義は、遷都の詔を発表して、さらに都に天皇が行くこと。
なので、遷都の詔を発表していない明治天皇以降の東京移転・在住は、果たして日本の都は京都から東京に遷都したのか
分からないことがよく語られるわけだけど、平城京のケースは後者の方で問題がある。
というのも、元明天皇が708年に遷都の詔を出して、710年に行くよ!とまでは『続日本紀』にかかれてるのだけど、
実際に710年に移ったのかはどこにも書いてない(694年の藤原京は書かれているのに)。
ま、それでも『続日本紀』ぐらいしか明記しているソースがないので20年前まではこれを信じることにしていたんだけど、
最近の発掘調査でどうも平城京の建設が間に合っておらず、それに加えて元明天皇が藤原京に残っていたのではと裏付ける史料がそこそこではじめちゃっている。
詳細を書くのはなかなか面倒なのだけど、1996年3月に『平城宮木簡五』が刊行される辺りが一つの潮目で、ここら辺で、
平城京の初期には、内裏、大極殿とちょっと施設が整備されていた程度だってことが明らかになって、それが本当に遷都できる体制だったのか?
という強い疑問が芽生え、共有されるようになっていった。この疑問のおかげで、ある発想の転換みたいなものが起こったのが決め手で、
なら、逆に施設、寺等が出来あがっていく順番を整理し、そこにどのように天皇家が関わっていったのか調べればいいんじゃね?
という主に寺側の史料と今までの発掘調査を横断的に使って研究を行った論文がそこそこの数出てきて、結局、下記のことが未来の主流になりつつある。
元明天皇は710年に遷都するって言ったけど、平城京に定住していることを示す資料は少なくとも714年以降であり、遷都したと言えるのは714年。
ところで、なんでこのエントリで研究者の名前だったりを書かないのか疑問に思うかもしれない。しかし、そこはググってくれとお願いしたい。
実は、714年説は二つの問題があり、とてもじゃないが個人名書いて迷惑かけるわけにはいかないのです。
大問題一、は、714年説は、東京に遷都したことを認め得てしまうこと(詔の効力を疑い、しかし、定住したから遷都したというのは東京説の正当化につながるため)。
大問題二、は、平城京一三〇〇年祭に研究者総出で参加しちゃったこと(偉い人ほどいろいろな形で参加)
ってことで、未来の定説を知っては頂きたいものの、そんなの714平城京というゴロの使用は、もうしばらくお待ちいただければと思います。
暗記が得意だった友人と、暗記が全然できなかった私。
中学生の時のテストで友人は90点以上ばかり取っていて、私はいつも50点台くらいだった。
友人と私で社会の勉強をしていた時のこと、過去の解答用紙を互いに見せ合ったら友人に驚かれた。
「何で応用ができるの?」友人の応用問題の欄は全て空白だった。
1185年に鎌倉幕府が成立したことは覚えているけど、どういう流れで成立したのかなどを理解できていない……みたいな。
未だによくわからない。
それを聞いて、どういう流れでどうなったかをその子に教えたりしたけれど……。
私はその子の逆で、学年の正解率が低い問題(暗記問題以外)で点を稼いでいた。もちろん点数は低い。
作文なんかも友人は大嫌いで私は好きだったけど、作文で成績は決まらないからね。
ソツなくこなせる友人が羨ましかったなあ。