「嫡流」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 嫡流とは

2022-11-29

しかしたら僕は自己肯定感がそれほど高くないかもしれない

自己肯定感低い人あるある」っていうのTwitterでたまにRTされたりするが、それをみて「人の目を気にしたりして大変だな」と思っていた。

まり僕は自分のことをそれほど自己肯定感が低くない、むしろ高いと思っていた。

でも最近しかしたら実は結構いかもしれないと気づき始めてきた。

ぼっちざろっく』流行ってますよね。主人公ぼっちちゃんギターが上手いのに、実力に自信を持ちつつも、他人評価を気にしていて、目の前の観客も怖がっていた。それでぼっちちゃんが「本当の敵は目の前の観客じゃない。観客は自分を求めているんだ」ということに気づき、一歩踏み出せた演奏ができた。

そんな成長エピソードがあるわけだ。

僕もその自分に自信を持ちつつも、人が怖いというのはわかるという気持ちになったが、むしろそれは普通のことだと思った。自己肯定感が低い人は自信もないものかと思っていたので。

例えば僕がぼっちちゃんだったとして、ギターが上手いとしたら(別に自身はひけるわけではないが)、まずYoutubeに上げることがなかなか難しい。上手い人が出てきて、この演奏ダメだとかいわれるかもしれないし、ギターのことを全然わかっていない素人でも「プロの〇〇さんより全然下手ですねー」みたいなことを言われたりしたら立ち上がれなくなりそうなので、まず人に見せることはできない。

家族や友人でも無理だ。

きっとギターとかバンドとかやっていて、理解してくれる人ではないと見せられないだろうなと思う。

そして、そんなに悪意ある言葉を言う人って実は少ないとは思うけれども、でも社会は悪意に満ちているとどこかで思っている。

小学校の頃、信号のない横断歩道を渡るのが怖かった。車が減速することなく、むしろわざと加速して突っ込んでくるとおもったから。

免許証取りたてのころ、車線変更が怖かった。後方の車がわざと加速してぶつかってくると思ったから。

中学の頃学校が怖かった。教師私生活を縛り付けようと宿題を多く出そうとすると思ったから。

大学の頃教授が怖かった。重箱の隅を突っついて単位をくれずに留年させるんじゃないかと思ったから。

学生の頃、就職が怖かった。私生活趣味は悪で起きている時間をすべて労働に捧げるようにわざと上司仕事を振ると思っていたから。

新入社員のころ、彼女がいることを会社にバレるのが怖かった。結婚など守るべきものがあると分かったとたんに逃げ場のない重労働部署に飛ばされるかと思ったから。

結婚たころ、町内会が怖かった。家庭への不当な干渉をするんじゃないかとおおもったから。

20代後半ともなれば、だんたんその不安杞憂だったとわかるわけだが、生まれからずっと他者が悪意を持っているとずっと思っていた。(そして今でもほんのりそれは思っている)

悪意は上司、先輩、社会国家など権威あるものから不条理に降り注ぐと思っていた。

からそれから身を守るために、大学にいったり、論理学を学び屁理屈で言いくるめようとしてくる人から自衛をみにつけたり、歴史外国語を学びちょっと頭がいい風を装ったりした。

まあこの文章を見て分かる通り、そんなに学が身についているわけではない。

僕がいわゆる『理解ある彼氏くん』枠で結婚したのも、妻が権威ある悪意から遠い弱い存在だったからかもしれない。

ただ妻は弱い人間ではなかった。苦手なことはあるが、それを打開するためにいろいろ挑戦している人だった。

気づき

この前妻から一言で、年甲斐もなく泣いてしまった。

悲しいとか辛いとか悔しいとかではなく、涙が止まらなかった。

喜怒哀楽の単純な感情由来であればコントロール可能だ。

だが不可能だった。子どもがいるにもかかわらず、涙が止まらなかった。正直混乱した。

切っ掛けは些細な夫婦喧嘩だった。

僕は相手から言質を取られないように遠回りに外堀を埋めてから話す癖があり、それは人によっては不快な思いをさせてしまう悪い癖だと思う。

夫婦喧嘩で〇〇を言った言わなかったから、過去の違う話まで掘り起こされて喧嘩エスカレートすることもあるので、僕は議題を棚卸して何について話しているのかと責任境界を決めたがる。

それは共感とは遠く、冷たい印象を与えることになるというのは僕は理解している。

だがそれは今回のこととはまた別なんだ

ただその冷たい印象を与えている僕に対するカウンターとして妻が言い放った「頭がいいはずなのになんでわからないの?」という言葉を聞いて、いままのでの喧嘩の内容なんか吹き飛んで、ただ泣くことしかできなかった。

さいころを思い出す。

僕は大卒だが正直それほどレベルが高い大学ではない。

僕のクソ小さな自尊心は「中堅よりは上だけれどもハイレベルというわけではない」と言いたいが、世間ではそれほどでもないとは思われているだろう。

だが、妻は大学には行っていないので、大学に行く人というのは基礎能力が高いという素朴な期待を持っているようだ。

で、なんであの言葉で僕は泣いたのか。

あの言葉を受けた時、僕の脳内では幼いころの情景がフラッシュバックしてきた。

祖母が「あなたのお父さんはとても頭がいいから。あなたも頭が良いんだよ。おじいちゃんは〇〇賞もとったかあなたもすごいんだよ」とずっと言ってきて僕はそれが誇りだった。

クラスでは物知りで通っていたし、小学生ながら月刊ニュートンを読んでいたのはちょっとしたドヤれるポイントでもあった。

実際父はすごかったらしい。らしいというのは小学生に上がる前に亡くなったからよく知らない。

ただ僕が逆立ちしても入れないような大学にそれほど勉強せずに入ったそうだ。

高校時代にその研究をしたいがために当時の有名な教授がいる東京ではないがトップレベル国立大に入るように勉強していたが下宿代が当時のうちの家計では出せなかったようで、都内のそれでもハイレベルな有名大学にはいった。(今にして思えば子離れできていない祖母が渋ったのではないかとも思うが、)

都内ハイレベル私大にはその国立大先生と同じくらいにその分野で有名な人らしく、それで進学先を決めたようだ。3年の夏まで必死勉強していたが、私大に進路を変えたのでそれからは遊んで暮らしたそうだが、ちゃん合格したそうだ。結構浪人生があこがれる私大だっつーのにね。

そして父は研究者になった。んだが、今の僕の年齢よりもずっと若い時分に死んだ。平成をたった数日しか生きられなかった。おそらく今も生きていたら教授かになってたんだろうなとは思う。実際同僚の人はその大学教授をやっているらしく、何回かテレビに出た時に母が父の友人だと教えてくれた。

祖父自分生業の分野でナントカ賞をとって有名な人とかと写真うつったりしていた。

そんなこんなでその嫡流の僕は変な期待と受けていた。父が若くして死んだこともあるのかもしれない。

人の偉業で褒められる。小さい頃は良かったが、ちょっと分別がつく頃には結構キツイものがある。僕がやったわけではないし、僕が今やっていることは何も評価されていないのだから

母はそんな環境が嫌だったからかもしれない。だから引っ越したんだろう。

女手一つで僕と妹を育てた。とはいっても母も実家が太い系なので相当恵まれて育った。

母は大学を言っていない。研究者と事務の人という出会い結婚したそうだ。

から正直学がないというか、僕の勉強に対して口を出すことに自信がなかったんだと思う。だから僕の好きな分野、科学のことの話し相手になってくれなかったし、成果を評価してくれることもなかった。ただ「難しくてわからない」というだけだった。

僕は生まれてことこのかた賞状をもらったことがない。妹は絵画コンクールで、英語スピーチコンクールで、そして学校選抜された海外派遣なんたらで数多くの栄誉を持っている。

僕は何ももらっていない。歯が綺麗で賞はもらった。絵もうまくない。楽器も弾けない。英語もできない。文章も書けない。ゲームもうまくないし、話もうまくない。モテない。バイト先ではいじられキャラだった。いじってほしくはなかったがただ「要領がわるい」ということでいじられキャラになった。

そう要領がわるいんだ。

ただ、必死になって大学受験をしただけの人だ。

妻は大学には行っていないが、絵が上手い。工作が上手い。それを作って売れるほどうまい創作ができる。

「頭がいいはずなのになんでわからないの?」という妻が放った言葉で、これらの過去のこと家族のこと妻のこと今のことすべてが分かってしまった。

頭がいいわけないということを分かるのが怖かった。

僕は何者でもないといわれるのが非常に怖かった。僕のアイデンティティは「すごい祖父、すごい父からまれた、すごい子」であり、それが解体されるというのが辛かった。でも僕が縋れるのはその祖父祖母が言っていたそれしかなかった。

凡人であることを誤魔化すべく、頭でっかち知識と、頭がいい風を装っていた。バイト先でいじられても「でもあいつらより偏差値高いし」って思って意識を保っていた。

そして脆い自分を明らかにさせてしま他人が怖かった。

自分がただ怖がっているだけなのに、相手が悪いことをしようとしていると思って、目上の人や教師社会不条理に僕に何かを強いると思っていた。

悪意が逆転していた。自分が向けていた敵意を僕は被害者意識を持っていただけだった。

根拠のない自信をもつことはある意味必要だと思うが、僕の場合はその程度が強すぎたのかもしれない。

自信があることで身を守れると無意識で感じていて、自分に自信があると思い込ませていた。

からつい最近まで僕は自己肯定感が高い人だと思っていた。

全然高くなかった。たった一言で崩れるような人間だった。

恋が多い人生だった

妻に出会うまでは恋が多かった。

だが、モテなかった。

自分から行くタイプではない。ただ悶々彼女が欲しいとずっと思っているような人だった。

小学生からずっと。

今思えばただ自分を認めてくれる人が欲しかっただけかもしれない。

人の話を聞いてみるとそんなに好きな人が何人もずっといるというのは珍しいというのが分かった。

ティーンの頃の僕は恋に恋をしているに近かったが、自信があれば自律できていて、自分肯定(好いて)してくれる人を必要以上に求めることもなかったのかもしれない。

親として

僕はうちの子供には子供自身のことで褒めるように、そしてちゃんと成果をみて、子供興味あることをちゃんと調べて対等に接するようにしようと思う。

幸い子供マウントを取るようなことはしなかった(とは思う。自分の中ではないと思う。わからない。不安だけど)

うちの子昆虫とか生物かいろんなことを僕に教えてくれるし、僕も飼育について聞いたりしている。

僕がしてほしかたことをしている。きっとこれでいいはず

いまだに敵意は怖い

それでも人は怖い。

能無しとも思われたくないし、趣味に口も出されたくない。

変なアドバイスを受けたり、干渉されたくもない。

でも実は友人が欲しい。

そんなこんなで引っ込み思案なまま大きくなってしまった。

ぼっちちゃんみたいに何か自己表現でもしたらまた何か変われるかもしれないな。

この話を誰かに話して気持ちを楽にしたい

理解ある彼氏くん枠』で結婚したということを話したが、つまり妻はある精神的なハンディキャップを背負っているので僕がいろいろサポートしているところがある。

ただ僕はいろいろ限界が来て喧嘩してしまうことも多々あるけれど、それでも日々は平和だ。

つきあっていたころのままの関係性が続いているし、手をつないだり、二人で出かけたり、一緒に遊んだりすることもあの頃のままだ。

だが、妻は僕に守ってほしいという気持ちが強く、僕が弱いところを見せてほしくないと思っているところがある。

僕があの日泣いたとき、なぜか怒られた。「泣いたら私が悪者じゃない!!」って

僕はさすがに謝罪した。「さっきの喧嘩の流れとは別の件でないている。あの話とは別なんだ。個人的理由で泣いているだけなんだ。(まだ自分でもなんで泣いているのかもわからないので)なんかわからないけれど心の柔らかい場所が反応したような感じがして」とまあそんな感じで伝えたんだけれども

ただ「あなたが泣くと困るからやめて」という。

妻は毒親サバイバーでもある。だから過去の辛い話などを聴くこともあるし、その段階で妻が泣き出すこともあるので、そういう時は抱きしめたりして、そうすると落ち着いて、妻はそういう関係が好きらしい。

実は僕もそうしてもらいたいと思っているが、逆の立場にはしてくれないようだ。

僕も誰かに依存したいが、僕は生涯の伴侶は妻だけだし、妻以外に心を開くのはどこか浮気のように感じてしまい、正直無理だ。

そんな行き場のないこの気持ちを吐き出せるところはどこにもなく、

トイレ便器にはなしても/dev/nullに投げ出しても、どうしようもないので、ネットに放流して誰かにまれることで慰めることにしよう。

深夜のテンションで書いたものが上位にあがっていた。

皆、読んでくれてありがとうございます

深夜のテンションで書いたものホッテントリに上がっててびっくりしていたのと、

そしてまた悪い癖でこの世に悪意しかないとおもっていて、「絶対炎上している」「きっと、『お前は恵まれている癖に何いっちょ前に気取った悩み装ってるんだよ』みたいなコメントがたくさんあるんだ」と思って開くことができませんでした。

でも100件以上ついたら、気になって仕方ないので思い切って開いてみたら、なんとまあ善意ある方が多いこと。

ありがとうございます

また厳しめの人もきっと善意による発言だと理解するように努めます

2022-11-28

anond:20221128165448

まあここで言う「源氏の血」っていうのは「河内源氏嫡流の血」「頼朝の血」ってことやろ

そら源氏ってだけなら腐るほどおったしな

2022-06-20

着古した羽織を着ている豊国をみて、家康は「物持ちが良いと言っても限度がある」と窘めたところ、「これは足利義晴様にいただいたいものでございます」と答えた。これを聞いた家康は「豊国は古い恩義に背かない律義者だ」と賞した。

ある時、「粗忽者と言うのは朽木卜斎(牧斎)殿のようなお方の事を言うのでしょうな」と徳川家康に語ると、家康は「なるほど、卜斎が粗忽であるというのは皆が知ることであるが、御身(豊国)の粗忽さは卜斎以上であると私は思う」と答えた。周囲の者がこれを訝しむと、家康は「卜斎は粗忽であるが、先祖伝来の朽木谷を今でも保っている。それに比べては御身はどうか。昔から山名家といえば六十余州の内の十一州を治めた大族で、六分の一殿と称えられた家である。それが今では所領を全く失い、こうして寄寓の身となっている。これはまさしく天下の粗忽と言えるもので、これを超える粗忽は無いと思う」と語った。これに対して豊国はさして恥じ入った様子もなく「全く仰る通りです。私も六分の一殿とまでの贅沢は言いませんから、せめて百分の一殿ぐらいには呼ばれたいものです」と答え、これには流石の家康も苦笑するしかなかったという。

天正年間に、徳川家康とともに斯波義銀津川三松)の屋敷訪問した際、豊国の義銀への応対があまりにも慇懃過ぎるほどであったらしく、後に家康より「義銀は管領の家の生まれと言えども足利分家に過ぎない。お前(豊国)は新田家嫡流にして、そう遠くない昔までは数ヶ国を治める太守であったではないか。何故、足利分家に(新田のお前が)そのように卑屈になるのだ」と苦言を呈されている。家康新田氏の分家自称していた。

関ヶ原の戦いの後、豊国はかつて自らを追放した武田高信の遺児・助信を捜し出して召抱え、200石を与えた。以後、助信の子孫は代々山名氏に仕えた。

征夷大将軍就任した家康に謁見した際、室町幕府10代将軍・足利義稙から山名当主に贈られた羽織を着用して賞された。

有職故実和歌連歌・茶湯・将棋などの文化教養面に精通していた。室町時代名族山名氏一門の生き残りとして、戦国時代から豊臣時代を巧みに生き残り自らの子孫を江戸幕府上級旗本として存続させた。

2022-06-18

徳川秀忠愛妻家恐妻家だったのか?

好むと好まざるとにかかわらず、

側室を多数おいて子供の数を増やすことが義務

とも考えられていた貴族社会にあって

徳川秀忠側室を置かなかったのはなぜなのだろうか。

豊臣家の諸侯ひとつとしての徳川家であった時代はともかく

関ケ原以後天下としての徳川家において嫡流を残すために側室を置かなかったのは何故なのか。

定説では秀忠は非常な恐妻家で隠れて囲っていた側室が子を生んだ際には

正室に見つからないようにして家臣の子供として養育させたくらいである、とされている。

まあ、そのとおりなのかもしれないがあるいは父・家康に警戒心を抱かせないための処世術だったのかもしれない。

秀忠の男子の子供はふたりいたが国王の子供の数としては圧倒的に少なすぎる。

当然、側室を置くべきであるし秀忠もそのように考えていただろう。

しかし、そこに家康という存在があると話は変わるのではないか

秀忠の血筋にもしものことがあった場合には自分の子供が国王即位する、という環境家康にとって心地よいものであったのではないだろうか?

また秀忠が多数の子供をつくり、その子どもたちが勢力を増していき、いずれ家康の子どもたちと争うことになるということは考えられることであり

家康にとっては不快心配タネになることだったのではないだろうか?

そういった対家康という側面から秀忠の選択を考えることも出来ると思うし、そういう説もおそらくはあるのだろう。

筆者は歴史に詳しくないのでそのへんはよく知らないのだが上記のことをウンコしてるときに思いついたので書いてみた。

2017-06-05

鎌倉戦国時代に燦然と輝く北条家は、日本史教科書では分からない

http://anond.hatelabo.jp/20170604204919

日本史教科書いくら見ても本当のところは理解できないんですよ。

なぜ北条家が坂東武士の頂点に立ち、鎌倉幕府頼朝が作ったにも関わらず、北条がその後の支配権を握り続けたのか。そして戦国時代に「後北条家」が、北条家と特に関係がないのに成立し、関東盟主足り得たか源氏とは、北条とは何か。

北条は、坂東平氏の家柄である坂東平氏とは、桓武天皇の血を引く、関東にやってきた平氏総称であり、その五世である平将門新皇自称して、朝廷に対して関東支配権を主張して反乱を起こし、敗れた後に祟りを起こして神となったことで、関東に決定的な影響力を及ぼすようになった。

平将門は神である。そこを間違えてはいけない。平将門怨念とされるものは畏敬の対象として、現代人に対しても深く印象づけられているが、関東ではほぼすべての神社平将門を祀っていたほどに力があった。坂東武士たちにとっては、平将門は実際に神であり、朝廷反旗を翻し関東独立した政権を、坂東平氏が頂点となって打ち立てることは坂東武士の念願であった。平忠常というそのへんの平氏関東で反乱を起こしただけで一大ムーブメントになってしまうぐらい、平氏関東支配朝廷から独立するという夢は坂東武士の間に広がっていた。元記事に書かれている関東の有力豪族千葉氏上総氏は、平忠常の子孫とされている。

そこにやってきたのが源頼朝である源頼朝清和源氏事実上嫡流である清和源氏桓武平氏といった用語を知らない人のために説明すると、天皇家は偉いわけだが、子孫がいつまでも皇族だと皇族が際限なく増えてしまい、現代で言う宮内庁予算が際限なく増えてしまうので、どこかで平民になってもらわなければならない。平民になる時に、皇族には名字がないので、名字を与える必要がある。その時に、源、平の名字が与えられた。天皇の血を引くスゴイ人たち、という意味が源、平という姓には込められている。清和源氏清和天皇の子孫で源姓を名乗った人たち、桓武平氏桓武天皇の子孫で平姓を名乗った人たちである

たとえば足利も、徳川も、本姓は源である。源尊氏源家康が本名だ。なぜ足利とか徳川というかと言えば、源が増えすぎて区別必要が出てきたというのもあるが、源というスゴイ名字を出すのは気が引けたから、という要素が大きいように思う。本当の名字は避け、住んでる所を名字にする、といったことをして、木曽義仲とか、足利尊氏とか、あるいは自分でっち上げ徳川という名字を使った家康のような人もいる。これを説明するには、武士にとって本名いかに大切であったか述べなければならないが、面倒だ。武士の下の名前は諱(忌み名、呼んではいけない名前)とされていたということを考えれば、上の名前もそれなりに大事だということはわかると思う。(そして信長様~とか秀吉様~とか言っている時代劇が全部嘘っぱちだということも分かるだろう)

平忠常の乱を平定しようとした、桓武平氏嫡流平直方は、乱の平定に失敗するが、清和源氏事実上嫡流である源頼義を婿に迎え、領地であった鎌倉を譲り渡す。この時、鎌倉坂東源氏拠点であると同時に、平氏源氏嫡流が交わった聖地という意味が生じた。そこから八幡太郎義家が生まれ源氏の声望が高まり、その嫡流である頼朝権威づけていく。

ここまでくれば、坂東平氏である北条家が頼朝を婿にとり鎌倉本拠地に据えた意味が分かるだろう。平家源氏が交わり、鎌倉拠点とするというのは故実に則った神聖儀式なのだ。ちなみに、北条家が坂東平氏の由緒正しい血筋だというのはおそらく自称であり、フィクションである。だが坂東武士は将門の祟りの方が怖いので、血筋の細かい所は気にしないのだ。

鎌倉に作られた幕府は初めから天皇を中心とする朝廷対立関係にあり、承久の乱勝利することで朝廷の上位に立ち、皇位継承操作するまでになった。それはなぜかといえば、平将門朝廷から独立志向していたかである平将門怨念が実際に実を結んだのが鎌倉幕府である頼朝の下で働いた北条梶原三浦和田千葉熊谷などは、みな坂東平氏である。そして役割を終えた源氏はどこかに消えて、坂東平氏北条家による支配が行われた。

そして戦国時代、後北条家の話になるが、後北条家は伊勢新九郎盛時、北条早雲によって立ち上げられる。伊勢氏室町幕府政所執事の家柄で、ものすごく偉い。ちなみに桓武平氏である

室町幕府というのは北条家に牛耳られた鎌倉幕府を倒して出来た政権である鎌倉幕府内の源氏で最高の血筋だった足利鎌倉幕府を倒し、北条家はほぼ滅亡してしまう。そして源氏である足利京都朝廷とベッタリの幕府を作った。平氏による独立志向関東幕府から180度の転換である

史実ではものすごく偉かった伊勢新九郎盛時であるが、実家室町幕府の偉い家柄で、関東を牛耳りに来たというのは、いかにも坂東武士には都合が悪い。仕方ないので、先祖を辿れば同じ坂東平氏という縁にあやかって、北条の名を名乗ることにした。ちなみに名乗ったのは息子の氏綱の代である。そこで、おそらく後北条家のプロパガンダによって、歴史改変が行われ、謎の素浪人北条早雲が、下克上嚆矢となり関東に覇を唱えたという、我々のよく知るストーリーが現れる。よく調べると、全てデタラメである

これにより、なぜ後北条家が秀吉と争い、滅亡への道を歩んだかも分かるだろう。秀吉関白天皇代理である天皇と対抗する存在である坂東武士にとって、秀吉に降ることは、平将門祟りを招きかねない決断であった。そのため、天下の趨勢が決しても、徳川伊達の援軍が得られなくても、単身で秀吉と抗い、滅びたのである。それだけ将門の祟りへの畏れや、坂東武士の誇り、天皇家という存在に対する対抗心が強かったのだ。

平将門武士の始まりであり、武士スピリット体現する存在である武士は武装し土地を守り、権力に抵抗する存在であると同時に、一族で争い、殺し合う存在である。その構図は徳川家康武士を飼いならすことでご破産になり、そこにあった本質は見えにくくなってしまっているが、武士を知りたければまず平将門を見て欲しい。

 
ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん