はてなキーワード: 御成敗式目とは
@ksk0628ps
アサクリ、話が凄い勢いで展開してる
ロックリーの「日本が黒人奴隷を流行らせた」というのは、おそらく世界史上最悪の歴史改竄やね
日本では鎌倉時代に定められた御成敗式目(要するに法律)で人身売買は禁止、奴婢も一定期間で解放するよう定められた
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https://x.com/ksk0628ps/status/1813185236764926141
※ロックリーは「日本が黒人奴隷を流行らせた」とは発言していない
@kurose_akira39
まあ奪ったものを自分のにしていいってのはあったけど恩賞の土地と、農作物の食い扶持を奪うためのものがほとんどだし食い扶持増やす上に反乱の種火抱えた奴隷なんて誰が欲しいのか
https://x.com/kurose_akira39/status/1813759135365885987
DragonFly
@glory_japan
上杉謙信の人取りは、「おまえら、うちの領土に来い、飯食わせてやる」程度の話だと思うんだよね。
に( ゚Д゚)ハァ??と思った。
日本の歴史や文化に対して浅い理解しかない欧米人も結構そう思っているらしく、日本は男尊女卑で女性に人権が無い国と勘違いしていろいろかましてくるからむしろ残念。
女性の作家が世界で初めて生まれたのは日本だし、女性の財産権も御成敗式目で保障されていたんだが?
欧米では長らくできていなかった政教分離も鎌倉幕府成立のときにできたし。
むしろ、明治時代ぐらいに欧米の男尊女卑文化を変に輸入したことで女性の権利が減ったんじゃないの?
ちなみに、匿名選挙みたいな仕組みは藤原氏が力を持ち始めた時代にはすでにお寺でやっていたらしい。
その後に頼朝の身を案ずるあまり現夫の江間次郎をアゴで使ってるのを見て、
八重にこの先どういう役回りを担わせようと知ているのかピンときた。
八重が義時と再婚して嫡男である泰時を産んだという説を推しているらしいので、
だからこそ最初からガッキーはいつも2番めにクレジットされている。
八重は義時にとって叔母にあたるが、叔母上ではなく八重さんと呼ばせて、
八重と義時が血縁であることをなるべく視聴者に意識させないように配慮しているのも、
一方で、泰時が頼朝のお気に入りだったことは史実上よく知られており、
泰時は歴史上では知勇兼備の完全無欠の名将名執権として知られており、
執権職のときに歴史で必ず習う御成敗式目を制定したのも泰時だ。
父の伊東祐親を失った八重は、頼朝による庇護を希望するものの、
政子の目が恐ろしい頼朝は八重の世話を義時に押し付け、二人は外面的には夫婦となる。
しかし、義時を見下している八重は(そもそも叔母であるから)義時に指一本触れさせない一方、
しかし頼朝死後、忌まわしい記憶を払拭したい義時は泰時と改名させる。
そして成長するに連れ頼朝譲りの名将の片鱗を現す泰時に悩まされるのだ。
そんな流れになるのではなかろうか。
御成敗式目は「道理」と「先例」に基づいているというのは中学校とかで習うことだが、これに典型的に表れているのだが、日本では「思想を持たない」というのが思想であるわけだ。武士社会に通底する何等かの思想があってその思想を法律として表現したものではなかったわけで。
例えば過去中国ではあらゆる法律と制度が天命思想に基づいていることは当然のこととされていた。この為天命思想の確立に力添えをしてきた時代ごとの思想家たちが偉大な思想家として記憶されている。現代中国では天命思想は否定されている。しかし、思想に基づき国家が統治されるというのは今でも常識であり、だからこそこの前の党大会で習近平思想の扱いがどうなるかが注目されたわけだ。
では遠くヨーロッパを眺めてみればどうかと言えば、メルケルの発言を見てみればよい。
ヨーロッパがキリスト教クラブでないというのは正しい。しかしヨーロッパが人権と市民権を基本とするというのもまた事実です。そしてここドイツでは、人権と市民権をキリスト教的人間像に重ねているのです
ここでは明確にキリスト教という思想(思想と宗教を区別する人たちも世の中にはいるがあえて区別する必要はないと俺は思う)に基づいて統治が行われることが宣言されている。だいたいメルケルの政党の名前からして「キリスト教民主同盟」なわけで。
このような考え方があるため、ヨーロッパにおいても偉大な思想家というのが度々現れる。
思想とはもちろん政治思想だけを指すのではない。だが、個人の生き方という面でも日本では思想は明確に否定される。状況に応じて態度を切り替えられる人間が通常日本社会ではまともな人間として扱われるのであって、強固な信仰や思想に基づいて一貫性のある立場を取ろうとする人間はあまり高く評価されない。究極のプラグマティズムであり、究極の事大主義だ。
こうした社会においては「偉大な思想家」は存在し得ない。このような社会の状況を言論で表現する学者は過去様々に存在していたが、当然ながらそのような人たちは記憶されることもない。
一向宗や創価学会など政治的に大きな影響を振るった新興宗教もいくらかあったが、結局のところ日本社会の伝統に破れていった。石山合戦は織田信長の勝利に終わったし、公明党は池田思想を捨てて自民党の改憲、軍拡に追従する勢力となった。その自民党にしたところで明確な戦前回帰のような思想があるわけでもなく(故に日本会議のイデオローグたちは安倍政権に批判的である)たんに「アメリカに言われたから」とか「北朝鮮が」「中国が」などという状況に反射的に対応しているにすぎない。
ここ最近の安保関連法案の騒動を見ていて、鎌倉幕府の制度の関係に想いを馳せた。
御存知の通り、鎌倉幕府は長期にわたって日本を支配した初の武士政権ではあるが、長である将軍の力は初期において奪われ、そのあと数百年にわたって政治を動かしたのは北条家であり、彼等の代表が執権として辣腕を振るっていた。
「御成敗式目」という日本最初の武家による法律を定めたのも鎌倉幕府だった。これも、お題目として後世にわたって尊重されてきたものの、内実は有名無実化して、現実に沿った行政が行われるようになった。
この手のことは鎌倉幕府のみならず、そのあとも幾度と無く繰り返されてきた。家祖の定めたものを壊すことはままならない。しかし理想と現実は食い違うばかり。西洋では、現実を理想に近づけるか、理想を現実に沿ったものへと変えようという試みが行われるのだが、日本では、理想を掲げながら「現実は違うよね」と開き直ってその場その場で恣意的な運用を行い、たまに「お上」が理想をふいに持ちだして厳格な処罰を行い現場の引き締めを図る……こういうやり方を続けてきた。
家祖の定めたものは素晴らしい、変えてはならない、変えようとする人間は悪逆非道の大悪党だと罵るくせに、現実とそぐわない面には頑として従わず、従わないを当然と思い、「柔軟アな対応」と誇る。法を完全無視するほどの人治主義でもないが、かといって法治主義でもない。法や権威を尊重し、時々それによって引き締めを図る程度にはその支配力を認めるけれども、普段は臨機応変な対応で対応するというこの考え方を、なんというのだろうね?
神輿となったものを壊さず、作り替えたり新しい神輿を作り上げたりすることもせずに、それはそれで担ぎながら、現実はそれとは異なる対応を行い、人々もそれに従うというものだ。
日本国憲法もどうやら、その段階に入ったらしい、平和主義という理想は理想として素晴らしいと誰もが思い、この理想を下ろす気はない。しかし、理想と相容れない現実(中国が圧倒的な軍事力を背景に周辺国の政治を支配しようと目論む)が現れたときに、憲法はそのままにして、法運用や解釈を変えることで対処しようとしている。日本社会のこれまでのあり方そのものじゃないか。
日本の歴史と社会がそのようなものだから、それを是として受け入れていくべきか、それとも西洋流の方法を是として、日本の社会を変えていくべきか……悩ましき問題だ。
自民党改憲草案とリベラルの敗北(http://anond.hatelabo.jp/20121208120311)は、有識者によって書かれたとても価値のある記事
自民党の改憲草案は、立憲主義という概念を完全に覆す逸品なんだけど、そのことを指摘しないのが有識者とか、いったいそれ何の有識者なんだろう。
そもそも、自民党が言う伝統の意味がよくわからない。伝統というならば、帝国憲法で立憲主義を導入したのだって以前の伝統からすれば違っているわけで。
逆に帝国憲法だって伝統だというならば、日本国憲法だって伝統だ。
伝統に依拠して人権を語るとか憲法を語るとか、バカとしか言いようがない。
立憲主義を導入した時点で、権力というものは制限されるべきものだし、人権は天賦のものだし、憲法は権力を縛るものであって国民を縛るものじゃないはずなんですけど。
それはともあれ、妻愛してる。
世の中の秩序には2つあると思う。
1つは、法律など、表立った秩序。あるいは上から下に向けて作る秩序。
もう1つは、下からの秩序。法律とか政令とかないけど、庶民の間で常識的に通用するきまりみたいなもの。
両者は違うし、対立することも多い。たとえば、駐車禁止の場所にちょっとだけ駐車するとか、速度制限を5キロか10キロほどオーバーとか。自転車の二人乗りとか。大学の歓迎コンパで未成年の新入生が酒飲むとか。みんな違法だけど、現実にはみんな気にせずに行っている。それを悪いという人もあんまりいない。
このように2つの秩序がある。僕は親が固い公務員だったこともあり、杓子定規に、上からの秩序を守るタイプの家庭に育った。親は、そういう意味では後ろめたいことのない人で、俗世間の、法律的にいうとちょっと後ろめたいところのある人たちに対する軽蔑というか無理解を隠さない人だった。
それは、下からの秩序を軽蔑してたんじゃなくて、上からの秩序を守らないことを軽蔑していた。
そういう家庭で育った僕は、家ではそういう感じだし、でも一歩外に出れば、俗世間で暮らす。特に子ども同士なんて上からの秩序意識は薄いけど、それでも一定の秩序がそこにある。下からの、自然にできあがった秩序があるのを感じた。僕の家庭はそういうのとは無縁だったので、そういう下からの秩序に、あこがれみたいなものを持っていて、同時に、そういうところでの振舞い方を知らなかった。
今思うと、僕が大学卒業して、公務員には絶対なりたくない、自分になるべく似合わない職業につきたい、っていうのは、下からの秩序がうずまく世界にどっぷりと漬かりたかったんじゃないかなと思う。
違法な世界の秩序で代表的なものは、ヤクザというか極道というのか、そういうヤバい世界。それらの世界は、違法だから、ではアウトローかというと、ある意味、カタギの人よりも厳しい秩序の中で生きている側面もあるという。
それに対して、警察が取り締まるのは、下からの秩序のかわりに上からの秩序を押し付けているとも言えると思う。
でも、下からの秩序なしに上からの秩序は円滑に機能しないだろう。
日本では大昔、奈良時代ぐらいに、大宝律令という憲法を作った。上からの秩序だけど、すぐに有名無実化した。いっぽう鎌倉時代に成立した御成敗式目は、それまでにあった武士たちの間で自然にできていたきまりや慣習などをまとめた、いわゆる下からの秩序を法律化したもので、これが鎌倉幕府が終わったあとでもずっと長い間、参考にされ続け、有効に機能した法律だったという。
今の日本は、政治家が法律を作る。政治家個々にはいろんな人がいるとしても、とにかく上から作る秩序であることは間違いない。でも、下からの秩序を積み上げて、それを成文化する、みたいな法律の作り方があってもいいんじゃないかな、と思ったりする。そういう仕組みが全然ないと思うけど、なんかそういう方法ないかなあと思う。