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2021-04-15

就活失敗しました〜

書き込みです。

現在22歳、21年既卒、女、彼氏持ちです。

この春から立派な無職になりました☆

私は美術大学に入り、デザイン勉強をし、就活では主にデザイン制作会社を受けていました。

他には分野外のデザイナー職やゲーム会社イラストレーターなども受けました。

受けた会社は、志望度が低いと相手にも分かってしまうだろうし、自分志望動機履歴書に書ける気がしなかったので、志望度が高いところだけ受けました。

なので数は1020社と少なめです。

1次面接1回、グループディスカッションを1回こなしました。

それ以外は書類落ちか辞退です。

グループディスカッションは二度とやりたくないです。

就活を始めたのは4年生の6月と遅めだったので、それが結構まずかったかな〜と思っています

最初結構楽観的で、今まで留年浪人もせずそのまま生きてきたため、就職何となくできるものだと思っていました。

いや〜甘いですね!

3年生のインターンなど行かなかったので、壊滅的に不利でした。

コロナ禍というのもあったかもしれませんが、やはり私は「就活」に向かないと考えたりします。

というのも、私は大学に入ったばかりの頃、バイトをしようと3,4個くらい受けて全部落ちました。

学生バイトは受かりやすいはずなのに、全然受かりませんでした。

この経験があって、就活ちょっと不安がありました。

その後のバイトは全て人からの紹介でした。

リア垢繋がりの先輩に居酒屋を紹介してもらい、店長と合わず2ヶ月で退職

次は同級生の子バーを紹介してもらい、職場の人と合わず3ヶ月で退職

その次は中学同級生飲食店を紹介してもらい、これは先月で退職し、3年くらい続きました。

健全時間帯にやる店が合っていたんだと思います

夜のバイトは19〜22時しか入れなくてあまり収入がなかったし、何故か決まって人間関係が荒んでいたので合いませんでした。

飲食バイトを長く続けたのは好印象だろうし、大学では学祭や卒展の運営に加わって役職を頑張ったし、10年くらい続けてる趣味もあるし、受け答えは1年生の頃よりは成長しているだろうと思ったら全然でした。

こういうのって、運営ではリーダーやらないと意味ないんですかね。そういう印象を受けました。

就活アピールするために頑張ったわけじゃないけど、「あの頃やったことは無駄だったのかなあ」という虚無感を感じました。

書類を通っても、必ず面接で落とされます

上記の通り、最終面接には行ったことがありません…(´・ω・`)

キャリアセンター履歴書を見てもらったり、模擬面接をしてもらったりしましたが効果はありませんでした。

新卒なので何が悪いか教えて貰えないまま、色んな会社に落とされ、「自分ダメ人間からか」と思うことも多いです。

4年生の3月半ばまで正社員の応募をしていましたが、最後のところが書類で落ちたあと社員登用のあるバイトを探し始めました。

これもまあ、見事に受かりません。

書類審査があるところは書類で落ちるし、書類審査なしのところは面接で落ちます

デザイン仕事をする」という夢を諦めて事務や提灯職人など全然別の仕事にも応募しましたが、ダメでした。

右翼曲折してまた結局正社員仕事を探していますが、電池が切れてきました。

次落ちたら、しばらく頑張れそうにないです。

ここまで書いていて決定的に面接が下手な感じがしますが面接練習もっとせえってことですよね…。はい…。分かります…。

私は自分の話をするより人の話を聞くことが多く、友達と話していても「人より表情が乏しい」「声に抑揚がない」と言わたことがあり、それが関係あるかもしれません。

面接では飲食店バイト接客していたときのようにハキハキ高めの声で喋り、笑顔も心がけていたつもりでした。

私は現在大学生の彼氏半同棲しており、今月就職できなかったら来月の収入0で彼氏居候代が渡せません。

これまでもコロナ禍で収入が減ってあまり渡せていません…。

「早く就職して彼氏負担を減らしたい」と思っていましたが、今の惨状を見るとしばらく無理そうですね。

寄生虫になるのも嫌だし、内定なかったら実家に帰って中距離恋愛しようかなと考えています

実家から彼氏の家は1時間半くらいです。

今考えてることは彼氏にまだ言ってません。

親や兄弟とは仲良くなく、本当は実家に帰りたくありません。

いわゆる毒親というもので、今までもまともなことを言われてこなかったし、これからもそうです。

毒親エピソードは省きます

3月までは様子見だけで言われなかった「就活はどうなった?」という質問もしてくるようになりました。

コネがあるわけでもないし、親は60代元教師就活説教は全くアテにならないし、聞いてくるだけで害悪だと思います

「親御さんも心配してるんだよ」と言われそうな案件ですが、私には親に心配されることが迷惑で、その身勝手心配のせいで今までの人生ロクなことがありませんでした。

正月や盆休み20代後半独身の人が親戚に「良いお相手はいないの?」と言われる感じですよね。

病院にかかるほどではないですが、就活鬱っぽい思考回路になっています

飲食バイトは紹介でたまたま人間関係良かったから上手くいっただけで、私は他のところだとなんにも出来ないのかなと思います

上昇志向はありませんが、仕事を与えられれば精一杯頑張るし、質問するし、自分が成長できると思っていました。

採用されないということは、そういう適性がないんだと言われてる気がして、自信は前ほどありません。

就活では「リーダー」が人気ですが、リーダーばっかりでも社会が回らないし、私みたいな下につくタイプ人間だって採用してくれてもいいのにな、と思ったりします。

まだ社会に出ていない甘い考えで語るのも恥ずかしいですが、こんな感じでモヤモヤしています

もう1回、大学1年生からやり直したいです。

2021-04-12

anond:20210412123051

奴隷制度とか粛清とか部落とか100〜200年の間にあった差別をパッと無くして平等しましょうとか、無理よ

だいたい、民衆から見えづらくなった差別とか不平等とか解決するわけないじゃん。

なんでみんな年収300万ぽっちで働いてるんだろうね

2021-04-06

“あてがえ論” で一向に構わない

うんざりした気分で一連の議論を眺めていたが、その中によい論考をみつけた。

そう、まさにそれが言いたいことなんだ。わーー 伝わってた!!

雨の日も風の日も弱者男性論を主張してきたが、今日初めて、辛くても続けてよかったと思えた。

anond:20210404102144

(モテるモテないは)容姿性格とか色々な要因のせいであり、異性が悪いとか国のせいだとかは思わない。自分に限らず世間全体だいたいそう思ってるでしょ。

でもこの構文で貧困とか低賃金みたいな社会問題を「お前の能力問題」みたいに切り捨てることもできそうな気がして怖いんだよなー。

怖いんだよなーとは言ったけど、実際には「お前が稼げないのはお前の問題」みたいな発言はたいてい怒られるわけじゃん。少なくとも最近は。モテの話と違いがわからん

違いなんてない、が俺たちの主張の出発点なんだ。

なぜかフェミニスト対立しているように言われがちだが、「個人的なことは社会的なこと」っていう彼女らの主張を俺たちもまた信じている。一人一人の行動にその人の価値観が現れて、それが社会に影響する。社会価値観個人に影響する。人間社会は1つの巨大なシステムだ。

日本でも遥か昔にはオッパイの大小なんてどうでもよくて面長な女性が好まれ時代があった。どんな異性を選ぶか? は文化の影響を強く受ける。文化は、社会だ。

披露宴の馴れ初め紹介で「はじめて会ったとき、おカネ持ちだな、と思いました」とか「乳房が大きいなと思いました」とか言う奴はいない。本当はみんな解っている。それは表で胸を張って言えないような邪悪価値観だって解っている。

かねてから自己批判なき差別論はクソだと思っていた。反省の結果、自分もまた差別構造被害者であり受益者でもあることに気づいた。だがもはや目を瞑って自身をあざむくことはできない。だから俺は批判する。何と言われようと。

社会問題個人自由を都合よく切り替えて救済対象から外すのはダブルスタンダードだ。欺瞞保護された理不尽が、結果的弱者男性を追い込んでいるんだ。

コメントの別の人の返信について。

誰を愛するかは根本的な自由プライバシー領域で、そこは神聖にして侵すべからずから

ならば俺はネットで仲良くしていた異性が実際に会ってみて…

交際を打ち切るわ。でも相手がそれをツイッター喧伝したら、お前らは容赦無く俺を総バッシングするだろ?

お前たちのそういうところが好きだ。

同じことを「弱者男性だったら」「ブスデブ年増女だったら」のときにもしてほしいんだよ。

権利に手を入れる必要はない。倫理観アップデートしてほしいんです。

2021-04-04

弱者男性は団結しないか無視しててもどうとでもなってしま

なぜ政治家、つまり社会上層部特定弱者を助けようとするのか。

別に善意からではない。

助けないと団結して暴れて困るからだ。


部落とか、障害者とか、女性とか、歴史を紐解けば、被差別者差別抵抗して相当過激に暴れたことがわかる。

ここで、政治理解していない馬鹿は、たとえ抑圧されても暴れるやつは悪い、などという。

だが、暴れたからこそ、無視できない政治圧力を持つことができたのだ。

暴れて脅すこと、それこそが弱者の唯一の抵抗手段だ。

普通手段抵抗しても黙殺されるだけである

かつては労働者も団結して世界中で暴れた。だから資本家無視できなくなり、譲歩した。

それがなくなってきたので、だんだん資本家も好き放題やるようになる。


翻って、現代弱者男性はネットブツブツ言うだけで、おとなしく働き、死んでいく。

お互いの仲も悪く、リアルで団結しないのはおろか、ネットでも喧嘩ばかりだ。

そんなもの使い捨てられるに決まっているではないか

当たり前だが、個人レベルで暴れてもなんの意味もない。

ネットで暴れるのは更に無価値だ。

そんなしょぼい暴力ストレスを発散しても、それを口実に連帯責任を問われ、リアルではますます抑圧される。

団結し、現実で行動する。

それこそが唯一の道である


しかし、弱者男性はお互いが嫌いかつ信用していないなので決して連帯しないだろう。

から無視してもどうとでもなる。

それを見透かされているか永久に扱いは変わらないのだ。

2021-03-31

大東亜戦争という聖戦に対するフィリピン人神対応!涙が止まらない・・・

「苦患のルソン戦線坂田澤司

・・・バギオ市内に入るが早いか、比島人の凄まじい怒りの罵声が待ち受けていた。

ドロボー

ジャパン、パタイ!」

「ゲット、アウェイ

ありとあらゆる罵声と投石の嵐を、出来る限り姿勢を低くしてくぐり抜け収容所へ向かった。

(中略)

途中、比島人は沿道の至る所で我々の通るのを待ち受け、家から飛び出して来て、バギ市街にも増して激しく、

バカヤロー!」

ドロボー!」

と声を揃えて大声で怒鳴る。

女子供までが、さも憎々しげに

ジャパンソルジャー、パタイ!」

と首を切られる真似をするかと思うと、侮蔑を表す彼等特有のしぐさで親指を立て、

「ゲット、アウェイ!(出て失せろ!)」

と繰り返し、大小の石がトラック目掛けて飛んできた。

(中略)

(貨車に乗り換え)途中停車する毎に比島人の憎悪のこもった眼差し、怒声、投石の嵐が続いた。

(中略)

後日収容所で聞いた話では、投石で頭を割られた兵隊、酷い者はピストルで撃たれて死人まで出た貨車もあったという。

ルソン島敗残実記」矢野正美

しばらくして小さな町に入ると、鉄道沿線には黒山のように住民が並んでいる。

列車が近付くと一斉に石を投げてきた。

(中略)

小石がパラパラと頭上に飛んでくる。

女達までが私達に向かって舌を出し、首を叩きながら喚いている。

ドロボウとか、パタイ(死ね)という言葉が、コーラスのように響いてくる。

(中略)

何のためか列車が野原の真ん中に停車したので、ホッとしてシートを取ると、住民達はここにもいっぱい居て相変わらず石を投げつける。

一人の老婆が近寄ってきて、

ジャポンマニラ、パタイ!」

と言いながら、ビンロウの実を噛んで、真っ赤な口から血のような唾を吐き出し、憎しみを込めて叫ぶ。

肉親の誰かが殺されたのか、或いは家を焼かれたのか、家財でも奪われたのであろう。

「お前達はマニラで殺されるんだ!」

そう繰り返している。

彼等もまた、大きな戦争犠牲者であろう。

私達もあのサンフェルナンド上陸以来、比島の住民達にしてきた事を考えると、その罪の大きさを思わずはいられない。

殺人強盗放火強姦、ありとあらゆる罪を重ねてきている。

お前が言うな

ケダモノタイ

「ルソンの霧」石田

途中、いくつかの集落を横切った。

部落には、既に、もとの住民が復帰していた。

彼等は、床の高い粗末な家の窓から顔を出し、黙ったまま、私達に軽蔑の目を向けていた。

彼等は、時々空に向けて小銃を放った。

それには度胆を抜かれた。

「ルソン戦・死の谷」阿利莫二

線路際にフィリピン人が群がって石を投げ始める。

ジャパンポンポン、パタイ!」

この罵声だけ覚えている。

(日本人射ち殺せ!)

こんな心だろう。

「Gパン主計ルソン戦記」金井英一郎

マニラ市街を通過する。

平和を取り戻した猥雑な街。

人が溢れている。

交差点で止まる度に、バカヤロドロボー、パタイ罵声の嵐。

マニラの港に着くと、何百人ものフィリピン人男女が待ち受けていた。

タイタイ(死ね死ね)

ハングハング(首を締めろ)

石だけではない、ビンやコップを割った凶器も飛んできた。

最後の強烈な禊だ。

嗚呼草枕」於保忠彦

街を通過する時は、日本兵は頭を抱え、路上から飛んでくる石や、薪を投げつける老婆や子供から身を守らねばならなかった。

ジャパニーズ、パタイ!」

と叫んで、手を首に当て、首を斬る仕草をする。

「ルソン海軍設営隊戦記」岩崎敏夫

タルラックを通る時、群衆が私を見つけて、

バカヤロー!」

とか、「死ね!」とか叫んでいる。

ところが、Millare軍曹が立ち上がって、

「He is a good man! He is good!」

と怒鳴っている。

これには有り難かった。

(中略)

途中、フィリピン人が待ち構えていて、

ドロボー!」

とか、「バカヤロー」

とか怒鳴っている。

どうしてこんなに怒鳴られるのか。

マヤントクでの住民との交歓の後だけに、狐につままれた思いであった。

重機関銃分隊長のルソン戦記」川崎恵一郎

バギオの街では・・・(中略)現地民が我々を見て、

バンケーロ」(馬鹿野郎)

「パタイ」(殺す、もしくは死ね)

罵声を上げる。

(中略)

しばらくして貨車は動き出す。

ゆっくり進んでいく。ときどき、

バカヤロー!」

ドロボー!」

と叫ぶ声が聞こえる。

貨車日本兵が乗ってる事が分かるらしい。

所々に陸橋があったり丘の高いところがあると、この下を通る時が大変である

現地人が橋の上や丘の上に石を持って待っている。口々に、

ドロボー!」

バカヤロー!」

「パタイ!」

叫びながら石を投げつける。

(中略)仲間の中には石が当たって血を流してるものもある。

フィリピン戦線の人間群像守屋

住民パラパラと家から路上に駆け出して、手を振って何か大声で叫んでいる。

私達はテッキリ戦争が終わったので、喜んで我々を歓迎するために、家から飛び出したのだと思った。

我々は彼等の姿を見ると、ニコニコして手を振った。

ところがこれが大間違いで、彼等は形相恐ろしく、口々に、

ハポンドロボーバカヤロー!」

と言っているのである

ハポンとは現地語で日本の事である

なかには石を投げつけようとする人もいる。

「生ある限りルソンへ」礒崎隆子

再びトラックに分乗、サンホセに向かった。

途中、現地民から日本語で、

バカヤロー!」

ドロボー!」

「ヒトゴロシ!」

罵声を浴びせられ、石を投げられた。

私達は頭を抱え荷台にしゃがみ込んだ。

石が頭に当たり血を流す人もいた。

現地の人を略奪し殺し、平和国土戦場にしてしまった私達日本人は、どんなにされても文句の言える立場になかった。

「ルソン死闘記」友清高志

トラックが一つの集落差し掛かった時である

前方の沿道の両側にビッシリと住民が群がっている。

彼等はトラックが近付くと、老人から子供に至るまで、一斉に喚声を上げた。

ドロボウドロボウドロボウ・・・」

拳大の石がいくつも飛んできた。

中には、手を首に持ってきて、水平に動かし、お前達は絞首刑だ、とジェスチャーで示す者もいる。

この調子では、フィリピン全土が、日本軍に対する恨みの炎で燃え上がっていよう。

多少の覚悟はしていたものの、私の予測は甘かった。

「傷跡・ルソンの軍靴佐藤喜徳

無蓋列車はなおも南へ南へと進んだ。

そして、何度か、現地民の罵りと投石を受けた。

「バキャヤロ!」

ドロボー!」

現地民が我々に叫ぶ侮辱日本語は、とりもなおさす日本占領時代に我々が彼等に使っていた言葉の仕返しであった。

「パタイ!」

「ヤマシタ、パタイ!」

日本人を殺せ!」と投石する現地民の怒りを、我々は無蓋列車の中で、首をすくめて我慢した。

(石をもて追われる如く)敗残の身を、私は車中で目をつむっていた。

生還者の証言加藤春信

(証言者その2)・・・ところが思いもかけない次の言葉で、冷酷な現実実態を思い知らされた。

ジェスチャーを交えて投げ飛ばす彼等の言葉は、相手侮辱する時に使う日本語の、

バカヤロー!」

ドロボー!」

なのであった。

しかも、罵倒するだけでは飽き足らず、彼等の中には青竹を振りかざして殴りかかってくるものもいたし、私を目掛けて、小石を投げるものもいた。

(中略)

それなのに、まるで泥棒猫でも打鄭するように、青竹の一部がささくれだって裂ける位の勢いで、殴りまくる人もいた。

筋肉の脱落した痩せた体を目掛けて、ビシリ!ビシリ!と打たれる度に、不思議に肉体的な痛みは感じなかったけれど、まるで心臓に五寸釘でも打たれるような激烈なショックを受けた。

そして、その時、身に滲み通るような敗戦の惨めさをつくづく感じたのであった。

「1945年夏・春菊よ谷のせせらぎよ有難う」岡田梅子

人家のある所を車が通っていくと、我々は罵声を浴びせられ、小高い家の庭先で洗濯をしていたオカミサンは、矢庭にタライの中の石鹸水を浴びせかけたのであった。

(中略)

遠い金網の外側にはフィリピン人たかって、拳を振り上げたり、唾を吐きかけたり、日本人へ憎しみを表しているようであった。

「1945年夏・フィリッピンの山の中で」新美彰

沿道のフィリピン人達は、私達の乗ったトラックを目掛けて、石を投げつけ、日本語で、

バカヤロー!」とか、

「インバイ!」

とか知ってる日本語で、罵り嘲笑う。

この付近フィリピン人の家を我が物顔で横取りして、作物を荒し廻った私達だから、どんなにされようとも仕様のない事だと思う。

私達はあの人達にとって、さぞ殺したい程憎い日本人だろう。

(中略)

駅につけば付近住民ギターを持って、貨車の周囲に集まってきて、何かタガログ語で歌い、罵り、嘲笑う。

言葉の分かる小母さんが口惜しいと涙をためておっしゃる

「激闘ルソン戦記」井口光雄

バギオに近付くにしたがって、現地民達が増えてきた。

ジャップ・パタイ(死ね)」

ギロチンOK」

マールダル(マーダー、人殺し)」

ドロボー!」

と口々に喚きながら石を投げつけてくる。

手を頸に当てて引き斬るような手真似をしては、唾を吐きかけ、バナナの皮などを投げつける。

(中略)

事実日本軍は彼等の財産である家々を強制的使用し、床や壁を剥がして家捜しをしたり、燃料の代わりにして荒らした。

作物を押収したり、家畜を殺して食べる事にも貪欲であった。

ときにはゲリラスパイと見なして、善良な市民さえ射殺した(注、斬首だろうに)。

寒風のごとき日本兵と、太陽のごときアメリカ兵では比較にならない。

ルソン島野戦病院・全滅の記」西井弘之

途中で、シビリアン達が口々に

ドロボー!」

バカヤロー!」

と盛んに私達のトラック目掛けて投石したが、フルスピードで走り抜けてくれた。

(中略)

(列車に乗り換えた後)停車駅では無蓋列車に座らされ投石を防ぐ。

相変わらず

バカヤロー!」

ドロボー!」

罵声と共に投石するシビリアン達。

情けない。

そりゃ情けないわな、天皇軍隊もの

世の中に、日本兵程情けないものはない。

日本兵など、人間もっとも下等な存在からね(日本兵日本人)。

強姦ばっかしやがって!

タイだよ!

フィリピン人達の怒りは、俺の怒りでもある。

強姦魔!

恥知らず

爪の先の埃程も、日本兵に同情などしないからね。

ケンペースケベ!

ちんこ斬っちまえ!

2021-03-30

anond:20210329155528

んだ。ウチの亡くなった爺さんもおおむね人柄の良い高卒公務員だったけど、女性在日部落への差別発言が孫の前でさらっと出るような人だったな。

本は時代小説趣味の園芸ぐらいしか読んでなかったと思うが、まだ生きてたらヘイト本買ってたかもな。

あの手の本の読者層は、差別主義で頭がいっぱいのヘイトモンスターなどではなく、普通年寄りだろうね。

anond:20210330200112

大阪京都歴史がある都市のせいか妙に格式家系を重んじない?会話しててえっ?ってなること結構あったよ

部落に関してもそうだけど

(村を表す部分集落略称以上の意味はない地域の方が多いんじゃ?って思ってる)

 

関西の人って、割とカジュアルに人に線を引いたりする印象を持ってる

 

食べ物は美味しいからすこすこのすこ

2021-03-27

饅頭叩きの論法で唯一ピンとこないところ

あいつはお前らを利用していい暮らししてるぞ!」って言うやつ

でもそれ言ったら黒人議員女性議員障碍者議員も、労組部落なんたらのお偉いさんも、みんな揃ってそれなりに金もらってる御身分なわけじゃん?

自身マイノリティ性と属性全体の不遇を利用するだけして、結局一人だけマネタイズ成功してるの、割とみんな一緒だと思うんだけど

2021-03-22

赤い部屋

異常な興奮を求めて集った、七人のしかつめらしい男が(私もその中の一人だった)態々わざわざ其為そのためにしつらえた「赤い部屋」の、緋色ひいろの天鵞絨びろうどで張った深い肘掛椅子に凭もたれ込んで、今晩の話手が何事か怪異物語を話し出すのを、今か今かと待構まちかまえていた。

 七人の真中には、これも緋色の天鵞絨で覆おおわれた一つの大きな円卓子まるテーブルの上に、古風な彫刻のある燭台しょくだいにさされた、三挺さんちょうの太い蝋燭ろうそくがユラユラと幽かすかに揺れながら燃えていた。

 部屋の四周には、窓や入口のドアさえ残さないで、天井から床まで、真紅まっかな重々しい垂絹たれぎぬが豊かな襞ひだを作って懸けられていた。ロマンチック蝋燭の光が、その静脈から流れ出したばかりの血の様にも、ドス黒い色をした垂絹の表に、我々七人の異様に大きな影法師かげぼうしを投げていた。そして、その影法師は、蝋燭の焔につれて、幾つかの巨大な昆虫でもあるかの様に、垂絹の襞の曲線の上を、伸びたり縮んだりしながら這い歩いていた。

 いつもながらその部屋は、私を、丁度とほうもなく大きな生物心臓の中に坐ってでもいる様な気持にした。私にはその心臓が、大きさに相応したのろさを以もって、ドキンドキンと脈うつ音さえ感じられる様に思えた。

 誰も物を云わなかった。私は蝋燭をすかして、向側に腰掛け人達の赤黒く見える影の多い顔を、何ということなしに見つめていた。それらの顔は、不思議にも、お能の面の様に無表情に微動さえしないかと思われた。

 やがて、今晩の話手と定められた新入会員のT氏は、腰掛けたままで、じっと蝋燭の火を見つめながら、次の様に話し始めた。私は、陰影の加減で骸骨の様に見える彼の顎が、物を云う度にガクガクと物淋しく合わさる様子を、奇怪なからくり仕掛けの生人形でも見る様な気持で眺めていた。

 私は、自分では確かに正気の積りでいますし、人も亦またその様に取扱って呉くれていますけれど、真実まったく正気なのかどうか分りません。狂人かも知れません。それ程でないとしても、何かの精神病者という様なものかも知れません。兎とに角かく、私という人間は、不思議な程この世の中がつまらないのです。生きているという事が、もうもう退屈で退屈で仕様がないのです。

 初めの間うちは、でも、人並みに色々の道楽に耽ふけった時代もありましたけれど、それが何一つ私の生れつきの退屈を慰なぐさめては呉れないで、却かえって、もうこれで世の中の面白いことというものはお仕舞なのか、なあんだつまらないという失望ばかりが残るのでした。で、段々、私は何かをやるのが臆劫おっくうになって来ました。例えば、これこれの遊びは面白い、きっとお前を有頂天にして呉れるだろうという様な話を聞かされますと、おお、そんなものがあったのか、では早速やって見ようと乗気になる代りに、まず頭の中でその面白さを色々と想像して見るのです。そして、さんざん想像を廻めぐらした結果は、いつも「なあに大したことはない」とみくびって了しまうのです。

 そんな風で、一時私は文字通り何もしないで、ただ飯を食ったり、起きたり、寝たりするばかりの日を暮していました。そして、頭の中丈だけで色々な空想を廻らしては、これもつまらない、あれも退屈だと、片端かたはしからけなしつけながら、死ぬよりも辛い、それでいて人目には此上このうえもなく安易生活を送っていました。

 これが、私がその日その日のパンに追われる様な境遇だったら、まだよかったのでしょう。仮令たとえ強いられた労働しろ兎に角何かすることがあれば幸福です。それとも又、私が飛切りの大金持ででもあったら、もっとよかったかも知れません。私はきっと、その大金の力で、歴史上の暴君達がやった様なすばらしい贅沢ぜいたくや、血腥ちなまぐさい遊戯や、その他様々の楽しみに耽ふけることが出来たでありましょうが、勿論それもかなわぬ願いだとしますと、私はもう、あのお伽噺とぎばなしにある物臭太郎の様に、一層死んで了った方がましな程、淋しくものういその日その日を、ただじっとして暮す他はないのでした。

 こんな風に申上げますと、皆さんはきっと「そうだろう、そうだろう、併し世の中の事柄に退屈し切っている点では我々だって決してお前にひけを取りはしないのだ。だからこんなクラブを作って何とかして異常な興奮を求めようとしているのではないか。お前もよくよく退屈なればこそ、今、我々の仲間へ入って来たのであろう。それはもう、お前の退屈していることは、今更ら聞かなくてもよく分っているのだ」とおっしゃるに相違ありません。ほんとうにそうです。私は何もくどくどと退屈の説明をする必要はないのでした。そして、あなた方が、そんな風に退屈がどんなものだかをよく知っていらっしゃると思えばこそ、私は今夜この席に列して、私の変てこな身の上話をお話しようと決心したのでした。

 私はこの階下のレストランへはしょっちゅう出入でいりしていまして、自然ここにいらっしゃる御主人とも御心安く、大分以前からこの「赤い部屋」の会のことを聞知っていたばかりでなく、一再いっさいならず入会することを勧められてさえいました。それにも拘かかわらず、そんな話には一も二もなく飛びつき相そうな退屈屋の私が、今日まで入会しなかったのは、私が、失礼な申分かも知れませんけれど、皆さんなどとは比べものにならぬ程退屈し切っていたからです。退屈し過ぎていたからです。

 犯罪探偵遊戯ですか、降霊術こうれいじゅつ其他そのたの心霊上の様々の実験ですか、Obscene Picture の活動写真や実演やその他のセンジュアル遊戯ですか、刑務所や、瘋癲病院や、解剖学教室などの参観ですか、まだそういうものに幾らかでも興味を持ち得うるあなた方は幸福です。私は、皆さんが死刑執行のすき見を企てていられると聞いた時でさえ、少しも驚きはしませんでした。といいますのは、私は御主からそのお話のあった頃には、もうそういうありふれた刺戟しげきには飽き飽きしていたばかりでなく、ある世にもすばらしい遊戯、といっては少し空恐しい気がしますけれど、私にとっては遊戯といってもよい一つの事柄発見して、その楽しみに夢中になっていたからです。

 その遊戯というのは、突然申上げますと、皆さんはびっくりなさるかも知れませんが……、人殺しなんです。ほんとうの殺人なんです。しかも、私はその遊戯発見してから今日までに百人に近い男や女や子供の命を、ただ退屈をまぎらす目的の為ばかりに、奪って来たのです。あなた方は、では、私が今その恐ろしい罪悪を悔悟かいごして、懺悔ざんげ話をしようとしているかと早合点なさるかも知れませんが、ところが、決してそうではないのです。私は少しも悔悟なぞしてはいません。犯した罪を恐れてもいません。それどころか、ああ何ということでしょう。私は近頃になってその人殺しという血腥い刺戟にすら、もう飽きあきして了ったのです。そして、今度は他人ではなくて自分自身を殺す様な事柄に、あの阿片アヘン喫煙に耽り始めたのです。流石さすがにこれ丈けは、そんな私にも命は惜しかったと見えまして、我慢我慢をして来たのですけれど、人殺しさえあきはてては、もう自殺でも目論もくろむ外には、刺戟の求め様がないではありませんか。私はやがて程なく、阿片の毒の為に命をとられて了うでしょう。そう思いますと、せめて筋路の通った話の出来る間に、私は誰れかに私のやって来た事を打開けて置き度いのです。それには、この「赤い部屋」の方々が一番ふさわしくはないでしょうか。

 そういう訳で、私は実は皆さんのお仲間入りがし度い為ではなくて、ただ私のこの変な身の上話を聞いて貰い度いばかりに、会員の一人に加えて頂いたのです。そして、幸いにも新入会の者は必ず最初の晩に、何か会の主旨に副そう様なお話をしなければならぬ定きめになっていましたのでこうして今晩その私の望みを果す機会をとらえることが出来た次第なのです。

 それは今からざっと三年計ばかり以前のことでした。その頃は今も申上げました様に、あらゆる刺戟に飽きはてて何の生甲斐もなく、丁度一匹の退屈という名前を持った動物ででもある様に、ノラリクラリと日を暮していたのですが、その年の春、といってもまだ寒い時分でしたから多分二月の終りか三月の始め頃だったのでしょう、ある夜、私は一つの妙な出来事にぶつかったのです。私が百人もの命をとる様になったのは、実にその晩の出来事動機を為なしたのでした。

 どこかで夜更しをした私は、もう一時頃でしたろうか。少し酔っぱらっていたと思います寒い夜なのにブラブラと俥くるまにも乗らないで家路を辿っていました。もう一つ横町を曲ると一町ばかりで私の家だという、その横町何気なくヒョイと曲りますと、出会であいがしらに一人の男が、何か狼狽している様子で慌ててこちらへやって来るのにバッタリぶつかりました。私も驚きましたが男は一層驚いたと見えて暫く黙って衝つっ立っていましたが、おぼろげな街燈の光で私の姿を認めるといきなり「この辺に医者はないか」と尋ねるではありませんか。よく訊きいて見ますと、その男自動車運転手で、今そこで一人の老人を(こんな夜中に一人でうろついていた所を見ると多分浮浪の徒だったのでしょう)轢倒ひきたおして大怪我をさせたというのです。なる程見れば、すぐ二三間向うに一台の自動車が停っていて、その側そばに人らしいものが倒れてウーウーと幽かすかにうめいています交番といっても大分遠方ですし、それに負傷者の苦しみがひどいので、運転手は何はさて置き先ず医者を探そうとしたのに相違ありません。

 私はその辺の地理は、自宅の近所のことですから医院所在などもよく弁わきまえていましたので早速こう教えてやりました。

「ここを左の方へ二町ばかり行くと左側に赤い軒燈の点ついた家がある。M医院というのだ。そこへ行って叩き起したらいいだろう」

 すると運転手はすぐ様助手に手伝わせて、負傷者をそのM医院の方へ運んで行きました。私は彼等の後ろ姿が闇の中に消えるまで、それを見送っていましたが、こんなことに係合っていてもつまらないと思いましたので、やがて家に帰って、――私は独り者なんです。――婆ばあやの敷しいて呉れた床とこへ這入はいって、酔っていたからでしょう、いつになくすぐに眠入ねいって了いました。

 実際何でもない事です。若もし私がその儘ままその事件を忘れて了いさえしたら、それっ限きりの話だったのです。ところが、翌日眼を醒さました時、私は前夜の一寸ちょっとした出来事をまだ覚えていました。そしてあの怪我人は助かったかしらなどと、要もないことまで考え始めたものです。すると、私はふと変なことに気がつきました。

「ヤ、俺は大変な間違いをして了ったぞ」

 私はびっくりしました。いくら酒に酔っていたとは云いえ、決して正気を失っていた訳ではないのに、私としたことが、何と思ってあの怪我人をM医院などへ担ぎ込ませたのでしょう。

「ここを左の方へ二町ばかり行くと左側に赤い軒燈の点いた家がある……」

 というその時の言葉もすっかり覚えています。なぜその代りに、

「ここを右の方へ一町ばかり行くとK病院という外科専門の医者がある」

 と云わなかったのでしょう。私の教えたMというのは評判の藪やぶ医者で、しか外科の方は出来るかどうかさえ疑わしかった程なのです。ところがMとは反対の方角でMよりはもっと近い所に、立派に設備の整ったKという外科病院があるではありませんか。無論私はそれをよく知っていた筈はずなのです。知っていたのに何故間違ったことを教えたか。その時の不思議心理状態は、今になってもまだよく分りませんが、恐らく胴忘どうわすれとでも云うのでしょうか。

 私は少し気懸りになって来たものですから、婆やにそれとなく近所の噂などを探らせて見ますと、どうやら怪我人はM医院の診察室で死んだ鹽梅あんばいなのです。どこの医者でもそんな怪我人なんか担ぎ込まれるのは厭いやがるものです。まして夜半の一時というのですから、無理もありませんがM医院はいくら戸を叩いても、何のかんのと云って却々なかなか開けて呉れなかったらしいのです。さんざん暇ひまどらせた挙句やっと怪我人を担ぎ込んだ時分には、もう余程手遅れになっていたに相違ありません。でも、その時若しM医院の主が「私は専門医でないから、近所のK病院の方へつれて行け」とでも、指図をしたなら、或あるいは怪我人は助っていたのかも知れませんが、何という無茶なことでしょう。彼は自からその難しい患者を処理しようとしたらしいのです。そしてしくじったのです、何んでも噂によりますとM氏はうろたえて了って、不当に長い間怪我人をいじくりまわしていたとかいうことです。

 私はそれを聞いて、何だかこう変な気持になって了いました。

 この場合可哀相な老人を殺したものは果して何人なんぴとでしょうか。自動車運転手とM医師ともに、夫々それぞれ責任のあることは云うまでもありません。そしてそこに法律上処罰があるとすれば、それは恐らく運転手の過失に対して行われるのでしょうが事実上最も重大な責任者はこの私だったのではありますいか。若しその際私がM医院でなくてK病院を教えてやったとすれば、少しのへまもなく怪我人は助かったのかも知れないのです。運転手は単に怪我をさせたばかりです。殺した訳ではないのです。M医師は医術上の技倆が劣っていた為にしくじったのですから、これもあながちとがめる所はありません。よし又彼に責を負うべき点があったとしても、その元はと云えば私が不適当なM医院を教えたのが悪いのです。つまり、その時の私の指図次第によって、老人を生かすことも殺すことも出来た訳なのです。それは怪我をさせたのは如何にも運転手でしょう。けれど殺したのはこの私だったのではありますいか

 これは私の指図が全く偶然の過失だったと考えた場合ですが、若しそれが過失ではなくて、その老人を殺してやろうという私の故意から出たものだったとしたら、一体どういうことになるのでしょう。いうまでもありません。私は事実上殺人罪を犯したものではありませんか。併しか法律は仮令運転手を罰することはあっても、事実上殺人である私というものに対しては、恐らく疑いをかけさえしないでしょう。なぜといって、私と死んだ老人とはまるきり関係のない事がよく分っているのですから。そして仮令疑いをかけられたとしても、私はただ外科医院のあることなど忘れていたと答えさえすればよいではありませんか。それは全然心の中の問題なのです。

 皆さん。皆さんは嘗かつてこういう殺人法について考えられたことがおありでしょうか。私はこの自動車事件で始めてそこへ気がついたのですが、考えて見ますと、この世の中は何という険難至極けんのんしごくな場所なのでしょう。いつ私の様な男が、何の理由もなく故意に間違った医者を教えたりして、そうでなければ取止めることが出来た命を、不当に失って了う様な目に合うか分ったものではないのです。

 これはその後私が実際やって見て成功したことなのですが、田舎のお婆さんが電車線路を横切ろうと、まさに線路に片足をかけた時に、無論そこには電車ばかりでなく自動車自転車や馬車や人力車などが織る様に行違っているのですから、そのお婆さんの頭は十分混乱しているに相違ありません。その片足をかけた刹那に、急行電車か何かが疾風しっぷうの様にやって来てお婆さんから二三間の所まで迫ったと仮定します。その際、お婆さんがそれに気附かないでそのまま線路を横切って了えば何のことはないのですが、誰かが大きな声で「お婆さん危いッ」と怒鳴りでもしようものなら、忽たちまち慌てて了って、そのままつき切ろうか、一度後へ引返そうかと、暫しばらくまごつくに相違ありません。そして、若しその電車が、余り間近い為に急停車も出来なかったとしますと、「お婆さん危いッ」というたった一言が、そのお婆さんに大怪我をさせ、悪くすれば命までも取って了わないとは限りません。先きも申上げました通り、私はある時この方法で一人の田舎者をまんまと殺して了ったことがありますよ。

(T氏はここで一寸言葉を切って、気味悪く笑った)

 この場合危いッ」と声をかけた私は明かに殺人者です。併し誰が私の殺意を疑いましょう。何の恨うらみもない見ず知らずの人間を、ただ殺人の興味の為ばかりに、殺そうとしている男があろうなどと想像する人がありましょうか。それに「危いッ」という注意の言葉は、どんな風に解釈して見たって、好意から出たものしか考えられないのです。表面上では、死者から感謝されこそすれ決して恨まれ理由がないのです。皆さん、何と安全至極な殺人法ではありませんか。

 世の中の人は、悪事は必ず法律に触れ相当の処罰を受けるものだと信じて、愚にも安心し切っています。誰にしたって法律人殺しを見逃そうなどとは想像もしないのです。ところがどうでしょう。今申上げました二つの実例から類推出来る様な少しも法律に触れる気遣いのない殺人法が考えて見ればいくらもあるではありませんか。私はこの事に気附いた時、世の中というものの恐ろしさに戦慄するよりも、そういう罪悪の余地を残して置いて呉れた造物主の余裕を此上もなく愉快に思いました。ほんとうに私はこの発見に狂喜しました。何とすばらしいではありませんか。この方法によりさえすれば、大正の聖代せいだいにこの私丈けは、謂わば斬捨て御免ごめんも同様なのです。

 そこで私はこの種の人殺しによって、あの死に相な退屈をまぎらすことを思いつきました。絶対法律に触れない人殺し、どんなシャーロック・ホームズだって見破ることの出来ない人殺し、ああ何という申分のない眠け醒しでしょう。以来私は三年の間というもの、人を殺す楽しみに耽って、いつの間にかさしもの退屈をすっかり忘れはてていました。皆さん笑ってはいけません。私は戦国時代の豪傑の様に、あの百人斬りを、無論文字通り斬る訳ではありませんけれど、百人の命をとるまでは決して中途でこの殺人を止めないことを、私自身に誓ったのです。

 今から三月ばかり前です、私は丁度九十九人だけ済ませました。そして、あと一人になった時先にも申上げました通り私はその人殺しにも、もう飽きあきしてしまったのですが、それは兎も角、ではその九十九人をどんな風にして殺したか。勿論九十九人のどの人にも少しだって恨みがあった訳ではなく、ただ人知れぬ方法とその結果に興味を持ってやった仕事ですから、私は一度も同じやり方を繰返す様なことはしませんでした。一人殺したあとでは、今度はどんな新工夫でやっつけようかと、それを考えるのが又一つの楽しみだったのです。

 併し、この席で、私のやった九十九の異った殺人法を悉ことごとく御話する暇もありませんし、それに、今夜私がここへ参りましたのは、そんな個々の殺人方法告白する為ではなくて、そうした極悪非道の罪悪を犯してまで、退屈を免れ様とした、そして又、遂にはその罪悪にすら飽きはてて、今度はこの私自身を亡ぼそうとしている、世の常ならぬ私の心持をお話して皆さんの御判断を仰ぎたい為なのですから、その殺人方以については、ほんの二三の実例を申上げるに止めて置き度いと存じます

 この方法発見して間もなくのことでしたが、こんなこともありました。私の近所に一人の按摩あんまがいまして、それが不具などによくあるひどい強情者でした。他人が深切しんせつから色々注意などしてやりますと、却ってそれを逆にとって、目が見えないと思って人を馬鹿にするなそれ位のことはちゃんと俺にだって分っているわいという調子で、必ず相手言葉にさからたことをやるのです。どうして並み並みの強情さではないのです。

 ある日のことでした。私がある大通りを歩いていますと、向うからその強情者の按摩がやって来るのに出逢いました。彼は生意気にも、杖つえを肩に担いで鼻唄を歌いながらヒョッコリヒョッコリと歩いています。丁度その町には昨日から下水工事が始まっていて、往来の片側には深い穴が掘ってありましたが、彼は盲人のことで片側往来止めの立札など見えませんから、何の気もつかず、その穴のすぐ側を呑気そうに歩いているのです。

 それを見ますと、私はふと一つの妙案を思いつきました。そこで、

「やあN君」と按摩の名を呼びかけ、(よく療治を頼んでお互に知り合っていたのです)

「ソラ危いぞ、左へ寄った、左へ寄った」

 と怒鳴りました。それを態わざと少し冗談らしい調子でやったのです。というのは、こういえば、彼は日頃の性質から、きっとからかわれたのだと邪推して、左へはよらないで態と右へ寄るに相違ないと考えたからです。案あんの定じょう彼は、

「エヘヘヘ……。御冗談ばっかり」

 などと声色こわいろめいた口返答をしながら、矢庭やにわに反対の右の方へ二足三足寄ったものですから、忽ち下水工事の穴の中へ片足を踏み込んで、アッという間に一丈もあるその底へと落ち込んで了いました。私はさも驚いた風を装うて穴の縁へ駈けより、

「うまく行ったかしら」と覗いて見ましたが彼はうち所でも悪かったのか、穴の底にぐったりと横よこたわって、穴のまわりに突出ている鋭い石でついたのでしょう。一分刈りの頭に、赤黒い血がタラタラと流れているのです。それから、舌でも噛切ったと見えて、口や鼻からも同じ様に出血しています。顔色はもう蒼白で、唸り声を出す元気さえありません。

 こうして、この按摩は、でもそれから一週間ばかりは虫の息で生きていましたが、遂に絶命して了ったのです。私の計画は見事に成功しました。誰が私を疑いましょう。私はこの按摩を日頃贔屓ひいきにしてよく呼んでいた位で、決して殺人動機になる様な恨みがあった訳ではなく、それに、表面上は右に陥穽おとしあなのあるのを避けさせようとして、「左へよれ、左へよれ」と教えてやった訳なのですから、私の好意を認める人はあっても、その親切らしい言葉の裏に恐るべき殺意がこめられていたと想像する人があろう筈はないのです。

 ああ、何という恐しくも楽しい遊戯だったのでしょう。巧妙なトリックを考え出した時の、恐らく芸術家のそれにも匹敵する、歓喜、そのトリックを実行する時のワクワクした緊張、そして、目的を果した時の云い知れぬ満足、それに又、私の犠牲になった男や女が、殺人者が目の前にいるとも知らず血みどろになって狂い廻る断末魔だんまつまの光景ありさま、最初の間、それらが、どんなにまあ私を有頂天にして呉れたことでしょう。

 ある時はこんな事もありました。それは夏のどんよりと曇った日のことでしたが、私はある郊外文化村とでもいうのでしょう。十軒余りの西洋館がまばらに立並んだ所を歩いていました。そして、丁度その中でも一番立派なコンクリート造りの西洋館の裏手を通りかかった時です。ふと妙なものが私の目に止りました。といいますのは、その時私の鼻先をかすめて勢よく飛んで行った一匹の雀が、その家の屋根から地面へ引張ってあった太い針金に一寸とまると、いきなりはね返された様に下へ落ちて来て、そのまま死んで了ったのです。

 変なこともあるものだと思ってよく見ますと、その針金というのは、西洋館の尖った Permalink | 記事への反応(0) | 22:33

2021-03-20

書類は通るけど面接で全部落ちる

30過ぎてるけどずっと非正規雇用でいま正社員になりたくて就活してるんだけど書類通っても面接で全部落ちる。

なんかアドバイスくれ。

資格運転免許日商簿記3級や。

2021-03-17

anond:20210317183405

これ西日本の人に言うと本当に驚かれるんだけど、部落差別って関東以北にはマジでないんよ

具体的な境目まではしらんけど

その辺のおじいちゃん普通に「うち隣の部落から越してきたんだけんちょも」って言うから

 ↓

あるに決まってんだろ。「部落差別がない」じゃなく「部落差別問題視されてない」だよ。
これな 東北じゃないけどワイの地方もそうだよ   関西九州の一部だけでは疑惑ある

 ↓

無いが? 村を表す部分集落略称以上の意味はない地域の方が多いんじゃ?って思ってる

 ↓

それは「部落」という呼称差別問題が取り上げられていないから「部落」という言葉が使えるというだけの話だろ。

まさかいわゆる「賤業」の人々が江戸存在しなかったなどとは言わないだろうな。

 ↓

>それは「部落」という呼称差別問題が取り上げられていないから「部落」という言葉が使えるというだけの話だろ。

そうだぞ。上に書いてある通り関西九州の一部だけでは疑惑ある

 

まさかいわゆる「賤業」の人々が江戸存在しなかったなどとは言わないだろうな。

上に書いてある通りそんな話題は出てないよ

anond:20210317182927

それは「部落」という呼称差別問題が取り上げられていないから「部落」という言葉が使えるというだけの話だろ。

まさかいわゆる「賤業」の人々が江戸存在しなかったなどとは言わないだろうな。

anond:20210317182058

真面目な話、東京にいる時に部落なんて言葉ニュースや本以外で触れる機会なんてなかったので意識したことない

移住後もみんな部落って言葉使うので空気感はたぶんみんな違う

anond:20210317182058

これ西日本の人に言うと本当に驚かれるんだけど、部落差別って関東以北にはマジでないんよ

具体的な境目まではしらんけど

その辺のおじいちゃん普通に「うち隣の部落から越してきたんだけんちょも」って言うから

2021-03-12

anond:20210312203939

#MeToo運動糾弾されるべき人間解放同盟の内部にもいるが、府連や中央本部から制裁を受けたか? 答えはNOだ。

大阪解放同盟幹部らがセクハラ

 部落問題を中心に差別撤廃運動に取り組む部落解放同盟大阪府連(松岡徹委員長)の男性幹部ら2人が昨秋、女性を名指しして性的侮辱発言を繰り返すなど、セクハラ行為をしていたことがわかった。女性の訴えに、2人は苦痛を与えた事実を認めて謝罪。府連も事態を重くみて、セクハラ相談窓口を作るなど再発防止策の検討を始めた。府連は「人権団体としてあってはならないこと。真摯(しんし)に受け止め、対応する」としている。

 同府連などによると、問題発言は昨年10月初め、部落解放同盟大阪市内の支部幹部を囲む宴席であった。前支部長が、同席していた別の人権団体女性職員を名指しして「○○さんのヌード写真を撮って売り出そう」「(支部の)資金を稼ぐためや」などと繰り返した。女性は抗議したが、2次会でも「きょうは○○さんの自尊心をぼろぼろに傷つけたろうと思っとったんや」と発言したという。

 一緒に参加していた現支部長も、2次会で女性の年齢に触れて「この年では、もう売り物にならんな」などと嫌がらせ発言をしたという。

 女性は数週間悩んだあと、支部の別の幹部に訴えて問題が発覚。支部調査に2人は発言を認め、12月に女性謝罪。府連も再発防止策を検討している。

(02/27 06:13)

https://web.archive.org/web/20050306152809/http://www.asahi.com:80/national/update/0227/001.html

解放同盟といえば、これまで他者糾弾することにおいてはお得意中の得意なのに、自分の番になればこの有様。

情けなくて泣けてきます

http://archive.is/ymkbm

痛いところを突くのは得意でも、突かれそうになると逃げ回る。身内に甘い独善的社会運動未来はない。

被差別部落とは何か

https://anond.hatelabo.jp/20210312203939

本文がどうしても途中で消えるため、追加部分として分けた。



部落問題は、根が深い。かといって、そこまで複雑なものではない。

時代政権が正しく対処していれば、部落解放同盟といった組織存在することはなかったし、また存在しているべきでもなかった。

被差別部落は、歴史が積み重なったエリア代表的ものとして京都。あるいは「府中」が付く地域など)に多く存在する。

平安時代以前に、そのエリア特定民族(土着系、中国系朝鮮系マレー系ほか)が住み着いて生活を営んでいたものの――何らかの原因によって、とある民族一派が生活圏を追われた結果として生まれたのが、伝統的な意味での部落だ。

すなわち、戦争政変自民族が敗北する、ある者が重大な罪を犯す、心身に何らかの異常があるなどにより、生活やす都市部を追われた者たちは、山地や川べりなどに住まわざるを得なくなり――そこから普通人間忌避する穢れを含む多くの仕事(食肉、葬送、処刑、皮革加工や汚物処理)を行うようになり、やがては専門的、特権的職業分化していった。

明治以前は、そうまで貧しくはなかったようだ。彼らが町人生活必須な物を売ったり、公共サービス提供していたこと、税金免除されていたのも大きい。

だが、維新によって明治政府が生まれ西欧に倣った近代的な理念法律社会に浸透すると、四民平等の名の元に、彼らにも課税がされるようになった。加えて、近代産業伝統的な部落民の仕事を奪うようになっていき、彼らは貧困にあえぐようになった。

当時の政府は何らかの手を打っておけばよかった。しかし、何も手を打たなかったので、部落に住む人々は貧しい時を生き残るために集団の結束を高めた。家族間や親族間での助け合いはもちろんのこと、その地域に住んでいる全員が全員を認識できるほどに。そして、彼らの結束は、やがて一般社会への怨嗟を募らせる方向へと動いていった。

昭和の中期になり、国民人権意識も向上していき、部落解放運動が盛んになるなかで――部落に生まれた人々の恨みが爆発した。彼らは、一般社会への恨みを持ち続けていた。復讐したいと考える者が多数いた。だから、あそこまで過激な、暴力を伴う運動に発展した。

令和の時代に、その人が部落出身かどうかを気にする人間は少ないだろう。部落に生まれようと、生まれまいと、その人の人生に何らの影響もないかである現代都市環境においては、その場所被差別部落だったかどうか、一見ではわからなくなっている。※道幅や道路改良の跡でわかることもある。山地や川べりにあるタイプ部落も、分かる人間であれば判別がつく。

部落というのは、文化的意味では、もうほとんど存在しないといっていい。しかし、人はタブーに惹かれる性質を持っている。「穢れ」という概念は、今の時代を生きる人間も持ち合わせている感覚である(人が触ったパンや米粒は食べたくないはずだ。安全性保障されていたとしても)。だからインターネットなどでは、若い人達部落について語り合うことができる。彼らは、昔の人々がどのような「穢れ」を持っていたのか気になるらしい。

被差別部落に生まれた一個人として、現代人の意識から、この「部落」という言葉がいつの日か消えることを祈っている。いずれは完全なる死語となり、教科書の中だけの言葉になることだろう。子どもの時分から解放運動に携わってきた者として、そんな未来を望んでいる。

あなた達の政治運動には迫力が足りない


https://www.chugoku-np.co.jp/local/news/article.php?comment_id=730608&comment_sub_id=0&category_id=256

小森龍邦氏死去、88歳 元衆院議員部落解放同盟広島県顧問

 解放運動の巨星がまたひとつ墜ちた。私もあと十年生きるか怪しい身である自分政治運動に対する考えを少しばかり綴ってみてもいいだろう。

 上のニュースの人は、かつて解放同盟事務方トップだった方だ。昭和7年に広島県東部被差別部落に生まれ中高生の時分から老年に至るまで部落解放運動に携わってこられた。

 私が活動していた地域とは遠く離れているが、それでも半年に一度は彼の実家の傍にある、ちんまりとした選挙事務所へ行き、地元産のワインを飲みながら語り合ったものだ。

 私などが知己と呼ぶのがおこがましいほど尊敬できる人格の持ち主だった。家族地域や仲間のためであれば、危険を顧みずに行動する力を持っている。それでいて、思慮深いうえに頭の回転が速く、無謀な策を講じたりはしない。講じるとしたら、背後に確かな計算を持っている。そういう方だった。

 それが、こんなに早くにお亡くなりになってしまった。悔しい限りだ。

 私の番はいつ来るのだろう。運が良ければ二十年は生きられるかもしれない。運が悪ければ数年後か。その前に、自分の想いを吐き出す機会が欲しい。



 さて、表題意味について。あなた達の政治運動には『迫力』が足りないとは、どういう意味か。

 言葉どおりの意味だ。特に伝統的な分野、例えば労働組合などが挙げられる。昔に比べて弱体化が著しい。

 企業ごとの組織率は低下し、労働者組合加入率も低下し、賃金は下げられ放題、追い出し部屋希望(半強制退職蔓延も放っておかざるを得ない。数十年後には、労働組合というもの事実上消滅していてもおかしくはない。

 また、高校大学など、学校内の自治を求める活動もそうだ。私は元高校教師だが、昔に比べれば、学生たちが自ら声を上げて学校ルールを変革するために動くことは減っている。感覚としてはそうであり、数字においてもそうなっている。悪い意味で、子ども大人のいいなりになっている。

 反対に、成功しつつある政治運動もある。

 近年話題になったものだと、#MeToo運動だ。女性がこれまでに男性から受けた、性を主とする嫌がらせ公共の場告発することをいうようだ。

 日本ではそこまで定着しなかったが、本場のアメリカでは著名な人物の一部が職や名誉を失っている。最悪の場合は、裁判により実刑判決を受けることになる。

 LGBT社会運動も、社会価値観を変革しつつある分野のひとつだ。

 大衆消費社会が訪れてそうまで時間も経たない頃から同性愛者としてのカミングアウト文学活動デモ行進芸能界での活躍自分たちを侮辱する者に対する訴訟提起(府中青年の家裁判)、ゲイであることを周囲に言いふらした者及びその所属校への糾弾一橋大学アウティング事件)など、仲間の権利を守るための諸活動を行ってきた。

 以前は、映像作品において、同性愛者が精神異常者として描かれるのは当たり前のことだった。子ども向けのアニメなどでもそういった描写があったが、昔に比べればなりを潜めているように思える。批判を恐れて、ゲイレズビアン人達を描けなくなっているだけかもしれないが。

 これらの成功している政治社会運動には、共通する点がある。

 相手の痛いところを突いていることだ。

 この方針なくして勝利はない。しかし、近年の伝統的な政治運動の類を見る限り、相手の痛いところを見抜くことができる知性、または攻撃する度胸を欠いているように思う。

 特に組合関係団体がそうである。昔の労働組合は、使用者と刺し違える覚悟があった。

 意図的給与の支払いを遅らされても、当局側が雇った暴力団に夜道で襲われても、工場社員寮ごとロックアウトされても、それでも不屈の覚悟で戦い抜いてきた。

 それが今では、使用者の言いなりとなり、組織から仲間を追い出すための行為に協力している。情けない限りだ。



 話が逸れた。

 相手の痛いところを突くことの具体例として、昭和40年頃の話をする。私の高校時代の級友の話である。K君とする。

 高校二年の時だった。夏の午後の授業中に、ある教師教室の窓の向こうにある山を指さして言った。「お前らみてみい、あの山にはよっつが住んどる」(※手の指が四本であるという意味

 その教師は、部落に住んでいる人間馬鹿にしたのだ。当時はまだ、被差別部落生活する人々と、それ以外との間に貧富の差があった。馬鹿にされやすかった。

 どれだけ悲惨生活だったか、今の生活と対比しながら述べると、家にトイレはなく(集落で共同のトイレだった)、上水道は通っておらず、生活汚水は外に垂れ流しであり、雨樋や排水溝がないので大雨が降ったら屋内は水びたしになっていた。

 家族食卓を囲んだ光景にいい思い出はない。口に出して述べたくないし、思い出したくもない。

 さて、その男言葉に頭にきたK君は、翌日に地域の仲間(私を含む)を連れて職員室に入っていった。K君が連れてきた解放委員会の男が怒鳴ったのを覚えている。「教頭、どういう教育をしとる!」という大声に、周囲に緊張が張り詰めた。校長までやってきた。

 その教師に向けて、「そんなことは言ったらいけんど」と説得しようとしたものの、それ以前の問題だった。その教師は、私達の質疑に対して、最後までしらを切り通したのだ。「そんなことはしていない」と言い張った。

 このままではK君の立場が危ういわけだが、私にはどうすればいいかからない。しかし、協力をしたかった。

また翌日、K君は教室の中で証言者を探すために、級友の前で声を上げた。「このままでは俺は嘘つきになってしまう。証言をしてくれ」と皆に伝えた。が、私ともう一人か二人以外に協力者は出なかった。

 次の日だった。今度は、級友一人一人と話をする作戦に切り替えた。校庭に級友を呼び出し、どうして協力してくれないのか、と訴えたのだ。それでも駄目だった。みな、「それは勘弁してくれ」と言うばかりだったという。

 さらに次の日、K君は50枚ほどのA6程度の大きさの小紙を持ってきた。それを級友の一人一人に渡して、「これに証言を書いてくれ。後で預かる」とお願いして回ったのだ。

 翌週、K君は再び、地域の仲間と、同じ地区解放委員会役員を連れて校長室に入っていった。私は外で待っていたが、勝利確信していた。K君は、20枚以上はあろうかという紙の束を持っていたかである

 その年度の末をもって、その教師は異動になった。県内の一番端にあるエリアに転勤していった。彼はまだ赴任して2年目だったこから、今回の作戦が功を奏したとみていいだろう。

 この、K君の動きを間近で見たことが、私が政治運動を志したきっかけだった。



 今度は、少し規模の大きい話をしよう。

 それから三十年以上が経って、平成の初期だったと記憶している。被差別部落生活文化的環境改善するという一連の政策国会での議決を受けてから、長い時が経っていた。

 K君の事件きっかけにして、私は解放委員会正式に加入し、高校社会科を教えながら政治運動に身を投じていた。40になる頃に教師を辞めて、今度は別の公職に就いた。

 ある年の冬だった。私が活動していた県の幹部職員が、「同和関係補助金はすべて凍結する」と、あろうことか県議会で答弁した。

 寝耳に水だった。まさか、そんなことはあるまいと考えたが、確かな事実だった。議会答弁はテレビ中継もされていた。

 当時、私が所属していた団体幹部が全員呼び出され、偉い方々から対策を指示された。それぞれの支部からも、来年度の予算について雨後の筍のように質問が寄せられていた。

 発砲ふさがりかと思われたが、ふと、K君のことを思い出した。彼はもう立派な社会人であり、解放委員会からも抜けていた。それでも藁にすがる思いで相談に行こうとしたものの、気が乗らない。

 彼に迷惑をかけるのでないかという想いもあったが、何よりも私個人の意地だった。同和教育人権思想を啓もうする活動を担う一員である以上は、自分達の力で解決せねばならないという気概があった。

 とはいえ、K君と話をしたかった。結局、正式相談ではなく、共に食事をしながら今回の件について話し合うという形式を取った。K君は、「ここで折れたら前例になろうが」という話からまり、諸々の助言をいただいた。今でも感謝している。

 後日、県の横暴に対する対抗策がまとまった。開始時期は、一週間後とした。

 数万人規模の組織で、ここまでの速度で動くのは無理がある。組織全体の足並みが揃わなくなる恐れがあったが、予算全凍結は目の前だった。

 まずは、各自治体の教育委員会オルグ実施した。

 あの時のK君のように、各市町の教育委員会庁舎に数人で飛び込んだなら、「どうしてこんな卑劣なことをするのか。子どもらが人権意識もつための活動ができなくなっていいのか」というメッセージを何時間にも渡って、毎日伝え続ける。

 庁舎の外には最大100人程度を待機させていた。みなそれぞれ、横断幕拡声器を使って、スローガンを堂々たる態度で表し、相手方にこちらが本気であることを知らせた。朝方から始まって、日中は休憩を挟みながら、日が沈む頃まで毎日続けた。

 場所関係なかった。公共機関であれば、どこででも実施した。教育委員会だろうと、市役所入り口だろうと、学校門前だろうと、警察署の前だろうと、県会議員の自宅の玄関だろうと、場所関係なかった。

 かつて、私たち基本的人権の享有を受けられなかった。その歴史を繰り返してはならない。私たちは本気だった。

 議会での答弁から半年後、私達の本気は伝わった。予算の凍結が撤回されたのだ。

 これまでと同じように、これまでと同じだけの金額子ども達への教育活動個別学習会や勉強会に使うことができるようになった。

 私たちは、相手の痛いところを突いた。突き上げを受けた教育委員会は、通常の業務を行うにあたって支障が出る。日中は、私たちが絶えず抗議をするので、それに対応せざるを得ないからだ。

 それが数日であれば持ちこたえるだろうが、何か月にも及ぶとさすがに根を上げる。

 「予算の凍結はやめてくれ。現場がもたない」と各市町とその教育委員会は、県の決定に抗議する流れができる。

 さらに長い期間に渡って続けば、県としても、予算の凍結の続行と、各市町の疲弊とを天秤にかけざるを得なくなる。

 私たち勝負に勝った。

 相手の痛いところを突けばいいというものではない。こちらも痛い目を見る覚悟必要だ。というのも、現実的には、まずはこちらが痛い目を見る可能性が高いからだ。

 上記場合、県による予算凍結の撤回を求めて戦うにあたり、相手方に攻勢をかける必要があったわけだが――初期の段階が一番苦労した。まず、動員をかけても会員は集まりにくかった(当事者意識の欠如)。これがただの動員ではなく、緊急事態を打破するための闘いであることをわかってもらうために熱弁を振るう必要があった。この説得のための活動、すなわち県内支部巡りに最も時間を要した。

 人が集まり相手方に攻勢をかけることができるようになったとして、最大のリスクがある。警察通報されることだ。特に要職にある者が動けなくなるのはまずい。敵にとっての追い風になる。

 今回は、そうした事態が起こることはなかった。絶対暴力行為脅迫行為をしてはならないと、組織内で固く申し合わせをしていたからだ。

 私が若い頃の解放運動だと、警察など介入する余地はなかった。デモ活動オルグ最中通報があって警察官が駆け付けたとしても、我々を見て尻込みをするのは当たり前で、あちらの方が逃げ出すこともあった。

それほどまでに、当時の私たちは気迫に満ちた政治社会運動をしていた。物事に対する「本気」というものが、警察すら怯えさせるほどに昇華されていた。

 時が経ち、平成時代になると、部落に住む人々も豊かになったこともあり、ハングリー精神が見えなくなっていた。集団の気迫はすっかりと消えてしまい、周りから見ると――デモ活動の全てが滑稽なものに映るようになっていた。満たされた人間政治運動はできない。それだけのことだった。

 ところで、予算凍結に対する対抗策の実施にあたり、最大の懸念事項があった。

 県と市町との連携だ。もし、予算凍結の議会答弁を打つよりも前に、県議会が各市町に根回しを行い、さらに我々を抑えるための手を考えていたとしたら、負けていた可能性が高い。

 逆に言えば、同和対策事業に関する予算の凍結という重大事項について、事前に各市町と連絡調整をしないというミスを県が犯したからこそ、我々は勝利することができたと言っていい。



 最後になる。

 相手の痛いところを突くこと、その直近の事例としてミャンマーデモを挙げたい。

 アウンサンスー・チーを頭に据える民主派が勝つにはどうすればいいだろうか?

 武力では国軍に勝てない。ならば、「国軍は間違っている」というメッセージを、自国内と国際社会に訴えかけるしかない。

 経済面ではゼネラル・ストライキを行い、社会面では民主的思想制度について啓もう活動を行い、政治面では大規模デモによって世界に窮状をアピールする。

 アメリカがすでにミャンマーへの経済制裁を行っているし、世界的な空気として、国軍より民主派を推す声が大きいのは間違いない。

 民主派のやり方というのは、それでいい。とことん大きなデモを打って、自分達の正義アピールする。

が、その代償として、民主派は多くの命を失っている。つい先ほど、未成年デモ参加者が銃で撃たれて亡くなったというニュースが飛び込んできた。先日のデモでは50人以上が亡くなったという。

 民主派グループの中でも、指導者に近ければ近い者ほど、身体危険が迫る。国軍にしてみれば、今が正念である世界各国から評価が低下することを気にかけず、民主派指導者層を徹底的に弾圧し、デモ活動を先導する者を少なくし、事態を膠着状態に陥らせ、軍事政権を持続させるとともに――軟禁しているアウンサン自然死を狙うメリットの方が大きい。

 もし日本が、ミャンマーのように危険状態だったとして、あなたが立ち上がって戦わねばならなくなった時、どういう心構えで、どういう行動を取るべきだろうか? 相手の痛いところを突くために、どこまでのリスクを背負えるだろうか?

 その問題に直面していたのが、私が生まれ時代よりもさらに昔、明治以降被差別部落に暮らす人々だった。あまりに苦しい生活環境であるがゆえ、生存権を得るために戦わねばならなかった。しかし、どうやって戦えばいいのか?

 多くの者が基本的人権を得るために戦い、痛い目に遭いながらも戦いを続け、そして今の、(経済的意味に限っては)被差別部落問題解決した現在に至る。

 あなた人生にとって、重大な戦いをせねばならない時がくるはずだ。その時に、どういった行動を取ればいいのか、当日記がその際の助けになれば幸いだ。

 40代以下の若い人に向けて、このトピックを書いたつもりだ。あちらへ、こちらへとぶれた文章になって申し訳ない。読み返してみると、まとまりのなさに驚いている。ご容赦いただきたい。

 あなた幸せのあらんことを。

2021-03-06

anond:20210306232248

部落

在日

日本語が怪しいな

国を挙げて先導しているのが日本じゃん

2021-03-01

anond:20210301212059

ボノボ的な女権社会人類2021年現在存在するんだがどうすんの?

人類進化を諦めた種なのか?

 

なおモンゴルのあたりでは女戦士(神話におけるアマゾネス)が確認されている

https://anond.hatelabo.jp/20210301212328

イルクーツク国立研究技術大学(IRKUTSK NATIONAL RESEARCH TECHNICAL UNIVERSITY)の考古学者らが14世紀に住んでいた30歳~40歳女性戦士墓地を、

今夏にフブスグル県で発見した。オルドヒャル1号という発掘ゾーンから当時の女性より体格が大きく、つまり高さ180センチ女性戦士の墓が発見された。

 女性男性と同様に武器と共に葬っていた。調査団長アルトゥール・ハリンスキー教授は「モンゴルアマゾンとも言えるこの女性男性を勝ち抜ける力持ちだった」と話している。

大きな体格の女性をロングナイフと、斧、弓、銅のボール等の武器と一緒に葬っているのが非常に稀なケースだという。

戦士女性戦争による負傷痕はなく、重症により死亡したのではと推定されている。女性の歯がほぼ全部落ちており、歯根に生じた穴が顎骨までに進んでいた痕がある。

考古学者らは骨盤と顎に形から女性だと予測し、遺伝調査により判定するという。

ロシア考古学者らは女性戦士の墓のほか、オルドヒャル2号の発掘ゾーンからもう一つの富豪女性の墓を発見した。

その女性の墓からヨーロッパ製のアクセサリーが見つかった。学者らは西ヨーロッパ戦争から帰ってきた夫から恋人に与えられた戦利品だった可能性が高いと、

ハリンスキー教授結論付けている。今回の発掘調査にはモンゴルからウランバートル大学教員学生のチームが参加した。

発見物をロシア研究所で研究し、モンゴの博物館返還する。

 

[MONTSAME] フブスグルから女性戦士墓地発見
https://montsame.mn/jp/read/221297

 

最初の話に戻すぞ 

性欲を解消するのにセックスする必要がないし

雑に性欲で括っているのものそもそも生物において性欲に分類されていない

もっと言えば子作り以外でセックスする必要性がない

さらに言えば子作りでもセックスする必要性がない

体外受精を行えば良い

ストレスは誰かに無くしてもらうものでは無いし

セックスコミュニケーション手段というのも大いに疑問を感じている

有用なら学校でも職場でも隣の家同士でもなんなら親兄弟姉妹ともすればって思う

2021-02-28

許される差別と許されない差別

何?

許されない

許される

みたいな風潮があるのマジで何?〇〇差別ダメ!的な啓蒙より主語特定個人以外にするときは気をつけないといけないよ!と言う啓蒙の方が正しそう。

2021-02-18

anond:20210218175716

香水のたぐいとかプライベートメンズ流行っていたけど

部落としてリセッシュぶっかぶる日々

もうなんか、入浴用リセッシュとかもほしい

あと匂いではなく 臭い

2021-02-01

就活ですり減らしてる

現在国立大3年、エンジニア(プログラマ志望)、内定が出なくてつらい。

大学教育系(数学)。第一志望だった大学(情報学部)には落ちて滑り止めの後期の大学に進学した。授業は数学情報を中心に取ってる。

どの大学でも教員免許取るつもりだったけど、授業で「日本教育者するのはしんどいな」と思い将来の選択肢から教員を捨てた。

エンジニア募集が早い(通年採用)ことは知ってたから、3年春から継続的逆求人イベントスキルチェックに挑戦してた。

フィードバックもいい感じで、早期に終わらせられると思ってた。

でも、志望度が高い順から10社受けて全部落ちた。

自分のことを優秀だとは思わないけど、ここまで評価されなかったのは初めてだ。

面接で聞かれる「一番苦労したことは何ですか」の答えが就活になってきた。ここまでくると志望理由もなくなってくる。「上位の企業に落ちたので御社を志望しました。」

2021-01-20

お客様マネージャーについて

どこのチームにもマネージャーがいる、ごくありふれた職場風景ですね。

しかし、マネージャーがチームの「お客様」になっていると言われたら違和感を覚えるのではないでしょうか。

この記事ではそんな「お客様マネージャー」について紹介します。

お客様マネージャーとは?

まず、お客様マネージャーとは何かをご説明しましょう。

管理職役職に就いているのにチームに何もかも頼りっきりで、本当になにもしないマネージャーをこう呼びます

たまに人前でカッコつけて「僕はマネージャーだけど何もかもチームに頼ってるから〜」とか言ってる管理職やってる人がいますけど、そういう人のことです。

任せてるとか言ってるくせに現場のことには興味ないのですが、部下がやってることにはいちいち口出しするウザいマネージャー、いますよね。

そいつです。

リーダーのくせにリーダーシップがない

お客様マネージャーにどうしてモヤモヤするっていうか、イライラするのかというと、リーダーのくせにリーダーシップがないからですよね?

部下が提案したこと理解できないからパっとしない反応しか示せない。

会社から命令に対して自分の考えも何もなく盲従的なので、上意下達が当たり前。部下の意見も聞いてるふりでピ〜のパ〜です。

あと決めつけが多い。何も考えてないからでしょう。

護送船団方式リーダーシップや人間味のあるリーダーシップ、カリスマ性やサーヴァントリーダーシップって色々ありますけど、どれも全部落第点!

そんな丸出ダメ夫なリーダーはチームにあーんと口を開けてるだけのヒナみたいなもんです。

●弱くて馬鹿なやつはお客様マネージャー候補

スキル気概もないし頭も悪い、いわゆる弱くて馬鹿マネージャーお客様マネージャーのものです。

スキル気概・知力、どれかひとつでもあれば良かったのかもしれませんが、お客様マネージャーに将来などないのでした。

ふと思うこととして、

ちゃんと部下のことを見て、理解して、関係を構築していれば

わざわざ部下から嫌われることもないと思うんですが、

きっと何か本人には事情があるのでしょう。興味はないのですけど。

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