はてなキーワード: 楽曲とは
5・6年前、当時関わっていたバンドを見に渋谷club乙へ行ったとき、まだインディーズに所属していた頃の雨のパレードを見た。
彼らのステージは天才的だった。あのとき「制御不能な創造活動」という曲を演奏していたが、それは当時の彼らを象徴するような楽曲で、もう何年も音源を聞いていないのに、未だにあの心地よい恍惚感は記憶から薄れない。メジャーデビューを機に消されてしまったが、「制御不能な創造活動」や「空間の中の一つの連続する三角」という曲のclub乙でのライブ映像をYouTubeで何度も見返して、彼らがこれからどんな活躍をするのかずっと期待していた。
club乙でのライブのあと、メジャーデビューの発表が出るまで、そう時間はかからなかったと思う。インディーズ最後のシングルとして「tokyo」がリリースされ、すぐにタワーレコードにcdを買いに行った覚えがあるが、しかし、聞けば聞くほど、「ひいきにしているアーティストの新曲がでた」という盲目的な興奮から冷め、今まで彼らが創作してきたモノとの違いを感じざるを得ず、そのあとに「new place」のビデオが発表されたときには、俺はもう雨のパレードに対する熱がほとんど冷め切ってしまった。それはたぶん、実力を多分に備えた彼らが「東京で夢を見てる」とか「おきまりのダンスナンバーなんてはじめて知ったんだ」とかいきなり拍子抜けなことを言い出したことに対する、失望のようなものを感じたからだと思う。
乙でのライブを見たとき、彼らは無敵だった。そのスケールはそもそも「東京」がどうとか関係なかったし、まして地方出身なんてのは本当にどうでも良いくらい、天才的な確固たる世界観をすでに持ち合わせていたのに、メジャーになった途端、彼らは、俺にとっての魅力的な世界観から逸脱していってしまった。
それがどういうわけで、そういう方向のプロモーションへ向かったのか、俺にはわかるはずもない。だが、インディーズ時代にやっていなかったアプローチをデビューを機に突然始めたのは、やりたいことが変わったとも考えられるけど、アーティストの意向以外の要因があったのではと、どうしても勘ぐってしまう。
そういうわけで、俺はここ何年かは雨のパレードを全く意識することなく日々を過ごしていたのだが、先日、ラジオから「borderless」が流れたとき、かつて俺が彼らに対して抱いていた感情を思い出した。今もあるのかわからないけど、ボーカルは昔、ちん毛をライターで燃やそうとしてるモノクロ写真をInstagramに載せていた。
Vtuberというものにずっと興味がなかったが、最近見つけたVtuberが楽曲は良いしトークは面白いしキャラは可愛いしすごくツボに入ってしまい、ここ数日ずっと漁るように動画を見まくっていた。
過去のアップロード動画の中にほかの男Vtuberとコラボしている動画があった。
何の気なしに見ているとすごく聞き覚えのある喋りと声で、名前を見て変な声が出てしまった。古い知り合いだった。
知っているそのままの名前ではないが、知っていればその人だと分かる名前だったし、その人もVtuberとして楽曲を出していて、完全に自分の知っているその人の作風そのままの曲。
自分が過去にちょっとした音楽活動をしていた時に知り合った人で、後輩として見てくれて良くしてくれたし、イベントの現場で会ったときもよく声を掛けてくれた良い先輩だった。
自分は人間の立場でVtuberの動画を見ている以上、Vtuberとはあらゆる接触が不可能なのに、あの先輩は対等の立場でコミュニケーションを取っている。それが無性に悔しくて、この気持ちを持て余す。
下手に先輩がそのVtuberと絡んでいなければ大人として割り切ってVtuberを楽しめたかもしれないけど、もう無理になってしまった。
先輩と推しVtuberが楽しそうにおしゃべりしてる動画を見てから、また先輩はあくまで当時と変わらない先輩のままでそのVtuberとおしゃべりしているのを目の当たりにしてから、推しのVtuberが急に生々しい人間に思えてきてしまって、純粋な気持ちで楽しめなくなってしまった。
何より推しVtuberの動画は変わらずとても面白いので、楽しみたい気持ちと穿って見てしまう気持ちが同時に存在してしまって、頭がすげー混乱する。
さて出かけようと、マンションのエレベータに乗り、下りボタンを押したら、足元に紙が一枚落ちていました。
何かなと思って拾い上げると、それは楽譜の一部でした。たぶんコピー機で教則本か何かからコピーした数枚のうちの途中の一枚で、
ふーん、なんの曲だろと思って見てるとエレベータが1階についたので、その紙を持ったままエレベータを降りました。
女性「あのう、エレベータの中に私のおならが落ちていませんでしたか?」
私「ん??これですかね?」
と、先ほど拾った紙を渡した。
女性はこれですと言い、受け取って、ありがとうと言って去っていきました。
楽曲的におもんない…歌詞も特にクリエイティブじゃないし…。いや、ていうか、あの歌をしたり顔で歌ってる連中が嫌い。それ、別にお前が作曲した歌じゃないよね?カラオケしたいならカラオケ屋いけよ。May. Jかよ。
清水翔太とか、Aiとか、湘南乃風とか、まあ、あと、ロッキンジャパンに出てるアーティストの「君を〜思うだけで〜勇気が出るよ〜愛してる〜」みたいな独りよがりJPOPクソ歌詞のやつらとか、新宿駅で持ち歌じゃなくて、他人の歌を歌う歌ウマの人たちとか。「ああ、毎日よく練習したんですね」みたいなつまんないやつ。上手さだけで聴衆の耳目を集めたいなら、別にお前らじゃなくても、音大卒のやつらの方が上手いわけで。「ダメなんだよ、ダイ。うまいのはゴマンといるんだわ」ってブルージャイアントでも言ってたでしょ。一定量練習すれば到達出来るもの、って芸術的には特筆される価値はないよ。3000時間かければ受かる資格試験みたいなものなので、技能としてはすごいけど、アートではないよね。それがアートたり得るなら、みんなグラミー賞取ってるし、芥川賞も映画祭も必要ない。
去年の秋辺りからなんとなく気配を感じてはいたが、寛解していた鬱病が冬になった事によりまた本格的に再発してきて、好きだった色々な物事に再び興味を持てなくなってきた。
その興味を持てない事の一番の影響が私が長年好きなアイドルマスターというコンテンツに興味が持てなくなってきた。
去年の秋のデレマスのライブを見た時にイマイチ楽しめず、私の問題かコンテンツ側の問題か悩んだけど、昨日確認も含めてライブをまた見に行ったが8~9割方自分の問題だと自覚した。
(デレマスのライブも昔から何回も見ているので1~2割方思う所はあるけど、なんだかんだ言っても元気な状態で見たら楽しんでいると思う)
というよりも、ライブを見に行くかどうか悩みに悩んだ挙げ句、一日だけ行ってみようかと判断下して申し込んだのはいいけど、当選して当日に近づけば近づくほど「嫌だ」「行きたくない」「チケットを売ってしまおうか」と頭を抱えた。
なんでこうなったかって、以前ライブ当日に人生で初めて味わうレベルの具合悪さを経験して、それがトラウマになっているというのもあって、未だにライブとかイベントあると不安で落ち着かなくなってくる。
(とはいえ、その後数回ライブやらイベント参戦して体調面はなんとか済んでいるので、自分なりに徐々にトラウマを緩和していっている)
そういう事もあり、前日は睡眠薬を飲んでもロクに寝れなかったりとあまりよろしくない状態というのもあったけど、とりあえず参戦した。
ライブ見た感想を言うと、ライブの内容がどうのこうのというよりも「好きな楽曲や担当のソロを聞いても全く気分がノらない」という自分自身に対する事実にとてもショックを受けた。
正直、ここまで精神的にダメになっているとは思わなかったので尚更ショックだった。
普通、多少気分が後ろ向きでも好きな曲とか楽しくなるようなものを見たり聞いたりすれば和んだり気分が昂揚して、ある程度は精神が回復するけど、そういうのが一切無いから本格的に精神がやられていると悟った。
今後あるアイマスのコンテンツのライブとかイベント関係どうしようか悩んでいたけど、また寛解して精神状態が回復するまで一切行かない事にした。
他にも別のジャンルで好きなものは色々あるけど、アイマスは10年以上関わっているだけに病気が理由で興味持てなくなってしまうというのはなんだかツラい。
日本のフェミニズムが抱えている問題は複数あって、煎じ詰めれば「思想の善悪如何はともかく、その行動が全く効果的ではない」という一事に尽きる。
女性の地位向上。大いに結構。その、地位向上のためにある種攻撃的な手段を用いること、これまた結構。
しかし、攻撃的な手段を用いている割には、その効果が殆ど出ていないことに問題があるのである。
むしろ、結果的にそのような手段が、フェミニズムに対する周囲からの評価を下げてさえいるのが問題なのだ。
古来より女性は男性による抑圧を受けてきた。この事実を頭から否定することはできない。
例えば、近代イギリスの小説家サマセット・モームは、作品『月と六ペンス』の中でこう書いている。「女性は自分を殴る男性を好んでいる。むしろ、自分を殴ることのできない男性のことを見下しているのだ」と。
このような記述は、文脈的に言えば主人公のチャールズ・ストリックランドがタヒチを訪れた際に語られているものである。ここからは、モームがどのような立場で女性を一般化しようとしていたのかが読み取られ得る。
また、自然主義(人間の本質を虚飾なく描くことを目的とした主義思想)作家の大家である、近代フランスのエミール・ゾラが書いた『居酒屋』では、登場人物の男らが、まるで息をするように女性達を殴りつける描写が、散りばめられている。貧民層の現実を標榜した彼の作品においてもまた、女性に対する暴力が大いにクローズアップされている。
このように、国の内外を問わず、女性に対する男性からの暴力というものは散見される。流石に、このような状況は現代において相対的に改善されているものの、未だどこかしらに不満を残す女性がいることに不思議はない。その女性らが、自らの権利を向上するための運動を行ったとして、何の不思議があろうかとも思う。
問題は、それらの行動が評価を得にくいこと、あるいは、フェミニズムの評価を落としていることである。それらの行動の多くが、効果がないどころか逆効果であるという点である。
具体的に、何故そのような問題が発生しているのか?
以下に論点を纏めていく。
古代ギリシャの劇作家アリストファネスは、自身の著した喜劇『女の平和』にて、女性らのセックスストライキを描き出している。
女性達が、「そんなに戦争が好きなら、私達を抱かなくとも大丈夫なんだね?」
と、戦争反対のため断固セックスを拒否する痛快さ。このような鮮やかさは、現代人にさえ快い衝撃をもたらすものである。
女性の最大の魅力は何か? それは性である、とアリストファネスは言う。
このような言説は当時のギリシャ男性においてのみならず、近代のフェミニストらにも見られる。
女性が短いスカートを履くこと、自身の魅力を以て大いに社会に地位を占めること――その権利を回復せねばならないということ。それを目的として、20世紀のフェミニストらが声を張り上げていたことは言うに及ぶまい。
イランのごとき保守的な国家においては、女性が人前に出る際には目元を除き身体をベールで覆う必要がある。そのような規則が女性の利益を担保しているのか、損なっているのか、議論の難しい点には違いないが、現代においてはそのような保守的傾向の多くが拒否されている。女性らは、身体をベールで覆うことを一般的によしとしない。
女性が獲得した権利はそこに見られる。つまり、性の発露である。
性はそれまで女性の自由にはならなかった。構造主義の先駆者とされるレヴィ・ストロースは、「女性は男性らの所有物であり、婚姻という形で交換が行われた」という意味の主張を行っている。彼に対する当時のフェミニストらの批判は推して知るべしだが、女性の婚姻が父権的立場にある人間によって執り行われることは多く存在していた。そういう意味で、女性にとって婚姻も性も自由とは言い難かった時代が存在していたのである。
自身の性を管理し行使する権利が、婚姻の不自由によって制限されていた時代があったことは、間違いない。この文脈に沿って言うならば、間違いなく女性の権利は現代において拡張されたのである。
とは言え、問題はこの延長線上にある。
女性が自身の身体的魅力を大いに利用すること、それはアリストファネスの喜劇に見られるように、女性の自由を支えている。そこには、フェミニズムと密接に関係する女性の権利の実現が確認できる。
しかし、昨今、この身体的な魅力を大いに活用することは、「性的搾取」に繋がることが指摘されている。
相対的な性の解放が、性的搾取に繋がること、これは表裏一体の問題と言える。
当然、女性が社会進出をする上で、女性が自身の性を政治の手段として用いることには、危うさが秘められている。
そのような危うさをして、現代のフェミニストらは「性的搾取」の大号令を行う。
これらの分野における女性の露出が性的搾取の危険を秘めている、と現代のフェミニストらは声を揃える。そこには危険があり、権力の影がある、と。
女性がスキームとして用いる性が、危機的な結果に繋がっている。ここでどうするべきなのか?
政治家の大多数が男性であるこの社会において、支配者と被支配者の対照は、男性と女性という対照を想起させる。
男性は狡猾である――多くの女性の思う以上に――男性は狡猾である。男性は暴力を行使することができる。端的に言って、男性の筋力は女性に勝り、悪しき意志が備わりさえすれば、女性の尊厳を根本から損なうことを可能とする。恐らく、文明以前の原始時代においては、男性はこれらの暴力を非常に効果的に用いてきた。そこには、ある種暴力の弁証法とも呼ぶべき歴史があった。例えば、あるコミュニティとコミュニティが衝突する――。一方が敗北すれば、その敗者側のコミュニティに属していた女性は、勝者側に所有されることとなる。多くの場合、そこにおいて女性の尊厳が考慮されることはない。
昆虫や動物らに見られる、コミュニティとコミュニティの争いや、イスラム国による女学校の襲撃を思い出して頂ければ、上記の言説の正しさは容易に担保されると思う。
男性は狡猾であり、暴力性を有史以来、あるいは以前において大いに活用してきた。
勿論、現代においても男性による暴力が根絶されたわけではない――とはいえ、その状況は改善されている。暴力には法が対応する。無論、適切な対応が成されない場合は存在するが、少なくとも有史以前に比べれば状況は好転している。
その進歩の影には、恐らく全ての心ある女性と心ある男性の尽力があったことだろう(思うに、倫理を生み出すのは常に狂気じみた努力である)。
人類は持てる限りの理性を用い、公私において倫理を整備してきた。
我々は持てる限りの能力を用いてきた。そこに、女性の尽力が関わっているのは間違いあるまい。
それは、女性が何かを望む際に、その実現を助ける能力になり得る。例えば、意中の人と結ばれる際にその能力は大いに役立つ。
性的魅力は疑いなく女性の能力である。女性が自身の尊厳を担保し、増進させるために、その能力は用いられ得る。
しかし、その能力を女性自身らの尊厳の為に活かすことと――それと、男性(や女性)によって、その能力が利用されること――とは二律背反となっている。
近代において、女性の魅力や能力が、適切に用いられることをフェミニストは願ってきた。しかし、ここに来てその努力は一つの壁にぶち当たることとなる。
例えば、大きな胸を強調したポスター。女性の魅力が強調されてはいるが、不適切な方法で強調されているのではないか――そういう議論が起っている。
女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である、と人は言う。
この命題は決して間違っていない。「女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である」。決して、この命題は間違っていない。
とは言え、ここが言わばロドスである。
女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取となり得る。
勿論それはそうだ。とは言え、そこには議論の錯綜するポイントがある。
まず第一に言えるのは、女性の魅力の発露=性的搾取といった、シンプルかつ誤謬を招く等式が発生し得ることだ。
女性が何らかの能力を――この場合には性的魅力を――社会において発揮すること。その能力を発揮することにおいて、何らかの報酬を得ようとすること。それ自体は悪ではない。
自分の能力への対価として報酬を貰うことは、多くの場合善悪とは関係ない行為である。
例えば、女性の高く伸びやかな声、時に力強い声。歌手はそれを披露する。
例えば、ダンサーは時に挑発的に、曲線的なラインで身体を躍らせる。挑発的に、攻撃的に。
絵画において、裸婦は笑う。裸婦は草原に寝そべり、微笑んでいる。
これらは全て、(努力などによって獲得された)肉体的魅力を発揮する行為に他ならない。当然のことながら、これらの行為をして悪であると断ずることはできない筈だ。とは言え、それらの魅力や能力の発揮が、「搾取」に繋がると人は言うのである。つまり、その行為は翻って女性の地位を貶め、最終的には女性全体に対する不利益を導くものだ、と叫ぶのである。
例えば、女性歌手が楽曲を作り、歌う。彼女は、男性への恋心を叫ぶ歌謡曲を作り、歌う。その曲を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。
「媚び」はこの場合、不自然に女性の立場を貶める行為であり、最終的な女性の不利益を招く行為を指している。端的に、それは搾取の対象であると、誰かが指摘する。
例えば、写真家が女性の写真を撮る。彼女は、頬杖を付きながら、気だるげに微笑む。その写真を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。
例えば、
例えば、例えば、例えば――
女性が魅力を発露すること、それが搾取の対象になり得るということ――それは必ずしも同じではない。しかし、そこには矛盾がある。女性の尊厳を担保し、増進するために、魅力が用いられること。そのような魅力が搾取の対象とされてしまうこと。
女性が能力を発揮すれば、それは女性全体の利益を貶め得ると誰かが叫ぶ。
能力を発揮すれば、誰かがそれを利用し搾取すると、その誰かは叫ぶ。最終的には、女性全体の立場は貶められ不利益に帰着すると、その誰かは指摘する。
これが、フェミニズムがソフィスティケートされた結果なのである。それは、端的に矛盾である。
カメラに向かって微笑みかける誰かの存在を、「性的搾取」であるとし、それがゆくゆくは女性全体の利益を損なうと指摘する――。
このような言説には致命的な混乱が含まれていると言って差し支えないだろう。近代のフェミニズムによって獲得された、女性が自身の能力や魅力を自身の権限によって行使する自由は、ここにおいて壁にぶち当たっている。
能力を発揮することは搾取に繋がる。能力を発揮してはいけない。
このような論理は、一般的な男女を納得させるに足る論理であろうか?
勿論それは不可能である。フェミニズムは矛盾にぶち当たっている。
そして、その矛盾を解消し得る論理が未だに発見されていない現在――少なくとも、フェミニズムの論理が一般的な男女を――あるいは当事者であるフェミニスト自身らさえ――説得できる状況にない現在。思想としてのフェミニズムは大きな困難に直面していると言わざるを得ない。
結局、フェミニズムが直面している矛盾を、フェミニスト自身らが解決できていない状況において、その混乱を抑えられていないのが現状と言えよう。
その混乱のさなかでは、到底周囲の人々を納得させ得る行動など、示せるわけがないのである。
昨今のフェミニズム運動の空虚さ、反感のみを招く徒労さはそこに根を置いている。これまでに獲得してきたものと、これから獲得しようとするものとの間に生じる矛盾――その矛盾を解決することなくして、現代のフェミニズムは正しい舵取りを行うことなどできない。
結論としては以上となる。
日本のフェミニズムが抱えている問題は複数あって、煎じ詰めれば「思想の善悪如何はともかく、その行動が全く効果的ではない」という一事に尽きる。
女性の地位向上。大いに結構。その、地位向上のためにある種攻撃的な手段を用いること、これまた結構。
しかし、攻撃的な手段を用いている割には、その効果が殆ど出ていないことに問題があるのである。
むしろ、結果的にそのような手段が、フェミニズムに対する周囲からの評価を下げてさえいるのが問題なのだ。
古来より女性は男性による抑圧を受けてきた。この事実を頭から否定することはできない。
例えば、近代イギリスの小説家サマセット・モームは、作品『月と六ペンス』の中でこう書いている。「女性は自分を殴る男性を好んでいる。むしろ、自分を殴ることのできない男性のことを見下しているのだ」と。
このような記述は、文脈的に言えば主人公のチャールズ・ストリックランドがタヒチを訪れた際に語られているものである。ここからは、モームがどのような立場で女性を一般化しようとしていたのかが読み取られ得る。
また、自然主義(人間の本質を虚飾なく描くことを目的とした主義思想)作家の大家である、近代フランスのエミール・ゾラが書いた『居酒屋』では、登場人物の男らが、まるで息をするように女性達を殴りつける描写が、散りばめられている。貧民層の現実を標榜した彼の作品においてもまた、女性に対する暴力が大いにクローズアップされている。
このように、国の内外を問わず、女性に対する男性からの暴力というものは散見される。流石に、このような状況は現代において相対的に改善されているものの、未だどこかしらに不満を残す女性がいることに不思議はない。その女性らが、自らの権利を向上するための運動を行ったとして、何の不思議があろうかとも思う。
問題は、それらの行動が評価を得にくいこと、あるいは、フェミニズムの評価を落としていることである。それらの行動の多くが、効果がないどころか逆効果であるという点である。
具体的に、何故そのような問題が発生しているのか?
以下に論点を纏めていく。
古代ギリシャの劇作家アリストファネスは、自身の著した喜劇『女の平和』にて、女性らのセックスストライキを描き出している。
女性達が、「そんなに戦争が好きなら、私達を抱かなくとも大丈夫なんだね?」
と、戦争反対のため断固セックスを拒否する痛快さ。このような鮮やかさは、現代人にさえ快い衝撃をもたらすものである。
女性の最大の魅力は何か? それは性である、とアリストファネスは言う。
このような言説は当時のギリシャ男性においてのみならず、近代のフェミニストらにも見られる。
女性が短いスカートを履くこと、自身の魅力を以て大いに社会に地位を占めること――その権利を回復せねばならないということ。それを目的として、20世紀のフェミニストらが声を張り上げていたことは言うに及ぶまい。
イランのごとき保守的な国家においては、女性が人前に出る際には目元を除き身体をベールで覆う必要がある。そのような規則が女性の利益を担保しているのか、損なっているのか、議論の難しい点には違いないが、現代においてはそのような保守的傾向の多くが拒否されている。女性らは、身体をベールで覆うことを一般的によしとしない。
女性が獲得した権利はそこに見られる。つまり、性の発露である。
性はそれまで女性の自由にはならなかった。構造主義の先駆者とされるレヴィ・ストロースは、「女性は男性らの所有物であり、婚姻という形で交換が行われた」という意味の主張を行っている。彼に対する当時のフェミニストらの批判は推して知るべしだが、女性の婚姻が父権的立場にある人間によって執り行われることは多く存在していた。そういう意味で、女性にとって婚姻も性も自由とは言い難かった時代が存在していたのである。
自身の性を管理し行使する権利が、婚姻の不自由によって制限されていた時代があったことは、間違いない。この文脈に沿って言うならば、間違いなく女性の権利は現代において拡張されたのである。
とは言え、問題はこの延長線上にある。
女性が自身の身体的魅力を大いに利用すること、それはアリストファネスの喜劇に見られるように、女性の自由を支えている。そこには、フェミニズムと密接に関係する女性の権利の実現が確認できる。
しかし、昨今、この身体的な魅力を大いに活用することは、「性的搾取」に繋がることが指摘されている。
相対的な性の解放が、性的搾取に繋がること、これは表裏一体の問題と言える。
当然、女性が社会進出をする上で、女性が自身の性を政治の手段として用いることには、危うさが秘められている。
そのような危うさをして、現代のフェミニストらは「性的搾取」の大号令を行う。
これらの分野における女性の露出が性的搾取の危険を秘めている、と現代のフェミニストらは声を揃える。そこには危険があり、権力の影がある、と。
女性がスキームとして用いる性が、危機的な結果に繋がっている。ここでどうするべきなのか?
政治家の大多数が男性であるこの社会において、支配者と被支配者の対照は、男性と女性という対照を類推させる。
男性は狡猾である――多くの女性の思う以上に――男性は狡猾である。男性は暴力を行使することができる。端的に言って、男性の筋力は女性に勝り、悪しき意志が備わりさえすれば、女性の尊厳を根本から損なうことを可能とする。恐らく、文明以前の原始時代においては、男性はこれらの暴力を非常に効果的に用いてきた。そこには、ある種暴力の弁証法とも呼ぶべき歴史があった。例えば、あるコミュニティとコミュニティが衝突する――。一方が敗北すれば、その敗者側のコミュニティに属していた女性は、勝者側に所有されることとなる。多くの場合、そこにおいて女性の尊厳が考慮されることはない。
昆虫や動物らに見られる、コミュニティとコミュニティの争いや、イスラム国による女学校の襲撃を思い出して頂ければ、上記の言説の正しさは容易に担保されると思う。
男性は狡猾であり、暴力性を有史以来、あるいは以前において大いに活用してきた。
勿論、現代においても男性による暴力が根絶されたわけではない――とはいえ、その状況は改善されている。暴力には法が対応する。無論、適切な対応が成されない場合は存在するが、少なくとも有史以前に比べれば状況は好転している。
その進歩の影には、恐らく全ての心ある女性と心ある男性の尽力があったことだろう(思うに、倫理を生み出すのは常に狂気じみた努力である)。
人類は持てる限りの理性を用い、公私において倫理を整備してきた。
我々は持てる限りの能力を用いてきた。そこに、女性の尽力が関わっているのは間違いあるまい。
それは、女性が何かを望む際に、その実現を助ける能力になり得る。例えば、意中の人と結ばれる際にその能力は大いに役立つ。
性的魅力は疑いなく女性の能力である。女性が自身の尊厳を担保し、増進させるために、その能力は用いられ得る。
しかし、その能力を女性自身らの尊厳の為に活かすことと――それと、男性(や女性)によって、その能力が利用されること――とは二律背反となっている。
近代において、女性の魅力や能力が、適切に用いられることをフェミニストは願ってきた。しかし、ここに来てその努力は一つの壁にぶち当たることとなる。
例えば、大きな胸を強調したポスター。女性の魅力が強調されてはいるが、不適切な方法で強調されているのではないか――そういう議論が起っている。
女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である、と人は言う。
この命題は決して間違っていない。「女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である」。決して、この命題は間違っていない。
とは言え、ここが言わばロドスである。
女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取となり得る。
勿論それはそうだ。とは言え、そこには議論の錯綜するポイントがある。
まず第一に言えるのは、女性の魅力の発露=性的搾取といった、シンプルかつ誤謬を招く等式が発生し得ることだ。
女性が何らかの能力を――この場合には性的魅力を――社会において発揮すること。その能力を発揮することにおいて、何らかの報酬を得ようとすること。それ自体は悪ではない。
自分の能力への対価として報酬を貰うことは、多くの場合善悪とは関係ない行為である。
例えば、女性の高く伸びやかな声、時に力強い声。歌手はそれを披露する。
例えば、ダンサーは時に挑発的に、曲線的なラインで身体を躍らせる。挑発的に、攻撃的に。
絵画において、裸婦は笑う。裸婦は草原に寝そべり、微笑んでいる。
これらは全て、(努力などによって獲得された)肉体的魅力を発揮する行為に他ならない。とは言え、それらの魅力や能力の発揮が、「搾取」に繋がると人は言うのである。つまり、その行為は翻って女性の地位を貶め、最終的には女性全体に対する不利益を導くものだ、と叫ぶのである。
例えば、女性歌手が楽曲を作り、歌う。彼女は、男性への恋心を叫ぶ歌謡曲を作り、歌う。その曲を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。
「媚び」はこの場合、不自然に女性の立場を貶める行為であり、最終的な女性の不利益を招く行為を指している。端的に、それは搾取の対象であると、誰かが指摘する。
例えば、写真家が女性の写真を撮る。彼女は、頬杖を付きながら、気だるげに微笑む。その写真を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。その「誰か」は、最終的に女性の不利益を招くと指摘する。
例えば、
例えば、例えば、例えば――
女性が魅力を発露すること、それが搾取の対象になり得るということ――それは必ずしも同じではない。しかし、そこには矛盾がある。女性の尊厳を担保し、増進するために、魅力が用いられること。そのような魅力が搾取の対象とされてしまうこと――。
女性が能力を発揮すれば、それは女性全体の利益を貶め得ると誰かが叫ぶ。
能力を発揮すれば、誰かがそれを利用し搾取すると、その誰かは叫ぶ。最終的には、女性全体の立場は貶められ不利益に帰着すると、その誰かは指摘する。
これが、フェミニズムがソフィスティケートされた結果なのである。それは、端的に矛盾である。
カメラに向かって微笑みかける誰かの存在を、「性的搾取」であるとし、それがゆくゆくは女性全体の利益を損なうと指摘する――。
このような言説には致命的な混乱が含まれていると言って差し支えないだろう。近代のフェミニズムによって獲得された、女性が自身の能力や魅力を自身の権限によって行使する自由は、ここにおいて壁にぶち当たっている。
能力を発揮することは搾取に繋がる。能力を発揮してはいけない。
このような論理は、一般的な男女を納得させるに足る論理であろうか?
勿論それは不可能である。フェミニズムは矛盾にぶち当たっている。
そして、その矛盾を解消し得る論理が未だに発見されていない現在――少なくとも、フェミニズムの論理が一般的な男女を――あるいは当事者であるフェミニスト自身らさえ――説得できる状況にない現在。思想としてのフェミニズムは大きな困難に直面していると言わざるを得ない。
結局、フェミニズムが直面している矛盾を、フェミニスト自身らが解決できていない状況において、その混乱を抑えられていないのが現状と言えよう。
その混乱のさなかでは、到底周囲の人々を納得させ得る行動など、示せるわけがないのである。
昨今のフェミニズム運動の空虚さ、反感のみを招く徒労さはそこに根を置いている。これまでに獲得してきたものと、これから獲得しようとするものとの間に生じる矛盾――その矛盾を解決することなくして、現代のフェミニズムは正しい舵取りを行うことなどできない。結論としては以上となる。
IMSLPという、無料で使用できる楽譜などの電子図書館を目指すプロジェクトがある。
これができたお陰で、楽譜の入手コストが劇的に下がり、演奏可能になった楽曲は非常に多い。
ただ、それでも気になることがある。
こういう、汚くてとてもじゃないが演奏不可能な楽譜を平気で上げているケースが散見されるのだ。
作曲家の手書きによる「貴重な歴史的資料」ではなく、上の例のように演奏用のパート譜がこれって、ふざけるにも程があるというか、一体どういうつもりで上げているんだと思う。
使えないもの上げても意味ないじゃん。だったら上げないほうがマシ。
何よりこういうのがあるせいで、中身の可読性関係なく「演奏できるじゃん、大丈夫だよ」などとほざくクソな輩に言いくるめられるのがすげー不愉快。
そりゃお前が耳コピで弾いてるから大丈夫ってだけだろ。音符きっちり読まないと弾けない奴に喧嘩売ってんのか。
そんなに文句があるならお前が書いてアップしろって?そういう問題じゃねーんだよ。
こっちは「読むのにストレスを感じない楽譜」が入手できる曲だけ弾きたいんであって、汚い楽譜を書き直すために音楽やってるわけじゃねーから。
あと買えって意見がトラバにあったけど、こういう曲に限って日本で楽譜買えるかどうか全く分からない曲だったりするんだよなあ。
多くの人はこちらのWikipediaの記事を参照していると思われる。
この記事も踏まえた上で、実際に主だった芸人を「活動開始時期」や「人気が出た過程」で並べ、あらためて世代分けを考えてみたい。
まず画期としては1953年のテレビ放送の開始が挙げられる。この時期に人気があったのは落語家や喜劇俳優であり、またコミックバンドも人気があった。上の表で言えばいとこい・ダイラケあたりが該当する。いわば「第0世代」であろうか。
次にやってくるのが「演芸ブーム」で、1963年開始のテレビ番組『大正テレビ寄席』を中心に数々の演芸番組が放送され、その勢いが1970年ごろまで続いた。一般にこの時期に人気が出た芸人が「第一世代」と呼ばれる。「寄席」をテレビでやるので落語・漫談・漫才・コント・コミックバンドなど幅広い芸人が登場した。てんぷくトリオを筆頭に三人組が多かったので「トリオ・ブーム」とも呼ばれた。1970年代はドリフと萩本欽一のコント番組が人気を二分した。やすきよもこの世代に含まれる。
続いて、1980年に放送された『花王名人劇場 激突!漫才新幹線』『お笑いスター誕生!!』『THE MANZAI』などが立て続けに高視聴率を取り「漫才ブーム」となった。このブーム自体は二年ほどで終息するが、若手漫才師がアイドル的な人気を得て「漫才」のイメージを変えたり、吉本興業が東京に進出したりするきっかけとなった。1981年から1989年まで続いた『オレたちひょうきん族』が『8時だョ!全員集合』の視聴率を超え、出演していたビートたけし・明石家さんま・山田邦子らは一躍スターとなった。たけし・さんまにタモリを加えた「BIG3」を中心に、漫才ブームやひょうきん族から出てきた芸人を「第二世代」とみなすべきだろう。
その次が「第三世代」と呼ばれる芸人たちで、お笑い養成所出身の若手が、小劇場のライブで腕を磨き、夕方番組や深夜番組をきっかけに人気を得て、ゴールデン帯で「バラエティ番組」を持つ、といったキャリアを踏むのが特徴である。とんねるず・ダウンタウン・ウッチャンナンチャンがこの世代の代表格となる。一般に「第三世代」は80年代デビュー組で区切るようだが、個人的には似たようなキャリアから早めにブレイクしたナイナイやロンブーあたりも含めるべきではないかと思う。
次に来るのが「ボキャブラ世代」である。1992年から1999年まで続いた『タモリのボキャブラ天国』は、当初は視聴者投稿型の番組だったが、徐々に芸人のネタ見せ番組に移行。この番組を登竜門に「キャブラー」と呼ばれる芸人が続々と登場した。吉本興業が首を突っ込みそこねたらしく非・吉本芸人が多い。またボキャブラ終了とともに一時的に低迷した芸人が、2000年代に復活するあたりも共通している。先述したとおり、ナイナイ・ロンブーなどを第三世代に含めるとすれば、この「第四世代」は爆笑問題・くりぃむしちゅー・ネプチューンあたりが代表格となる。
2000年代に入って「M-1グランプリ」が始まったことで「お笑いブーム」が醸成された。また同時期に『爆笑オンエアバトル』『エンタの神様』『笑いの金メダル』『爆笑レッドカーペット』などのネタ見せ番組がスタートしてお笑い人気に拍車をかけた。賞レースを目指してストイックに芸を磨く若手芸人と、多数のネタ見せ番組により短期的な人気を得た「一発屋」が混在し、芸人のレベルは底上げされたものの、数としては飽和した感がある。2010年にM-1グランプリが終了するとブームも終息し、多数の「ひな壇芸人」を出演させてトーク中心に作られる低予算の番組が増加した。(2010年までの)M-1でブレイクした芸人と「ネタ見せ番組」によって登場した芸人が「第五世代」といえるだろう。
2010年代になると、第二世代・第三世代がフェードアウトし、第四世代と第五世代がバラエティの「司会」の座を奪い合う群雄割拠の時代に入った。第五世代は図抜けた存在はいないものの層が厚いので、2000年代デビュー組の多くがつかえて中堅に留まっているように思える。そんな中で、霜降り明星および彼らが「第七世代」と称する2010年代デビュー組が既に台頭してきている。この場合は2000年代デビュー組が「第六世代」とされるわけだが、2000年代デビュー組は遅咲きになりそうなので、おそらく2000年代デビュー組と2010年代デビュー組をあわせて「第六世代」と呼ぶようになるのではないか。2020年現在、芸人の主戦場はYouTubeになりつつある。後世から振り返れば「第六世代」は「YouTube世代」と括られるのかもしれない。
反抗、不健康、暗い、厨二病、などのネガティブなイメージではなかったの。
2016年4月6日発売の1stシングル「サイレントマジョリティー」は大人への反抗だけでなく、
「君は君らしく生きて行く自由があるんだ」「Yesでいいのか?サイレントマジョリティー」と他者にも蜂起を促す曲なの。
のちの1stアルバム「真っ白なものは汚したくなる」のリード曲「月曜日の朝、スカートを切られた」はサイマジョの前日譚とされたけど、
歌詞を読んでも全然つながらなくて、全く文字通り後付け設定なの。
メンバーはどちらかといえば大人しいタイプだったけど、この頃は冠番組「欅って、書けない?」などでキャッキャしてたの。
センターの平手友梨奈さんは流れ星のちゅうえいが好きと公言し、振られたらGO!皆川の「うんちょこちょこちょこぴー」とか、「コマネチ」とかやってたの。
パフォーマンスにおいても、
顔面真っ白で体調悪そうとか、俯き気味で髪で顔隠しがちとか、みんなでやるおじぎを一人だけしないとか、当日まで出演するか不明とか、
そういうのはなかったの。
グループとしても「普段は普通にアイドルだけどパフォーマンスはかっこいい」っていう、最高にクールなグループだったの。
のちの演出過剰な「笑わないアイドル」「アーティスト」って言葉に乗っかっちゃうようなイタさとは違ったの。
2ndシングル「世界には愛しかない」、3rdシングル「二人セゾン」も素晴らしかったの。
これらの表題曲だけでなく、カップリングもユニット曲あり、ソロ曲ありで楽曲の幅が広くて、厚みがあったの。
3枚のシングルを経て同年12月24日と25日に有明コロシアムで初のワンマンライブをやったの。
本当に奇跡のような1年の集大成で、Abema TVで生中継もされたからファンはみんな見れたの。
そこのアンコールで「W-KEYAKIZAKAの詩」という曲が初披露されたのだけど、
夢に向かうメンバーとそれを応援するファンを包み込むまさにアンセムで、
本当に2016年末までは最高だったなぁ。
本を読むのに数時間かかる。
その時間を読書に費やす価値があるか。その本は良い物か。失敗していないか。
Amazonランキングでは上位に入っていたが、最近のAmazonのランキングは信頼できないらしい。
なら他のサイトのランキングではどうか。よし、ランキング上位に入っている。
本の中のどの部分が重要か蛍光ペンで塗ってある箇所は抜けないように確認しよう。
多くの人が印をつけた箇所の上位は正しいだろう。まてよ、どこにでも印をつける人が出てくる。
よし読み終わった。復習としてスライドにまとめた人がいるから確認しよう。
オーディオブックなら移動中も聞ける。
1.5倍速再生ができない。その映画にかける時間は価値があるのか。選んだ映画は失敗していないか。
ストーリーはどうだ、海外で話題になってたか。YouTubeのPVについているコメントは肯定的な意見が多いか。炎上していないか。
電車の中でネットフリックスを確認しないと。倍速再生して観ないと。
映画間だと音響しっかりしているかもしれないが、映画を見ることで情報が欲しいだけだ。
2画面表示のスマフォだと映画を見ながら、ネットの話題の記事が確認できる。
楽曲数が数百万とか言われても聞けない。サビが聞きたい。
CMで使ってるサビの曲はなんだ。
今年話題になっているのは。紅白に出るアーティストを抑えておけばいいか。
MTVのランキングと、タワレコのランキング押さえておけばいいか。
情報としてこれだけ押さえておけばいいだろう。
Twitterで話題になった箇所だけ押さえておけばいいか。昨日話題になった箇所を見逃した、Abemaであれば該当箇所チェックしよう。
ぜんぜん詳しくないので聞いてみる。
それはそれとして、流れてくる曲はいいなと思った。
で、動画サイト(Youtubeやニコニコなど)でそれらのMVを見てたら(クリアしたり、条件解放するのめんどくさいので)
「この曲ハロプロっぽい」とかリアルアイドルの曲に似てる、ってコメが流れるのが目に付く。
聴いてみると確かに似ている気はする。
増田はその辺詳しい(特にリアルアイドルの方は造詣が深そう)と思うが、じっさい似てると言っていいものなの?
何曲か「作詞家・作曲家が同じ」という楽曲もあるそうで、それが似てるのはそりゃそうだろうよ、と思ったりもするのだが
全体の傾向として、「似ている」といっていいのだろうか?
「バンドリ! ガールズバンドパーティ!」内で2018/08/31~開催されたイベント『新しい季節、その前に』で実装された楽曲ガールズコードに関してのお話です。
ガールズコードはPoppin'Party11th Singleとして2018/10/03にリリースされ、イベントストーリーをそのまま書き出した様な歌詞になっています。
この曲の特徴としては今までのPoppin'Partyにはあまり見られない無い「語り口調」の歌詞で曲が進行していきます。
「明日みんな何着ていくの?」
「そんな事を真顔で言わないでよ」
以前私の友人が以前この様に言っていました。
私もこれには全くの同意見であり「語り口調」ではあまり考察の余地が無いと考えており、正直ゲームにて実装されたワンコーラスを一聴した際の感想としてはイベントストーリーと歌詞の照らし合わせ以上の「余白」が無い様に思えました。
初めてフルコーラスを聴き終えた後、私の楽曲に対する印象が一変しました。
「夜を止めて」
そしてこの曲自体が他のPoppin'Party楽曲に見られる、ある言葉の比喩になっていることに気付きました。
『永遠』
これは中村航氏がバンドリを通して描き続けてきたテーマとも言える言葉。
「昨日が今日になって、明日になって、未来になって、永遠になってた」(キラキラだとか夢だとか ~Sing Girls~)
「CiRCLING! 永遠の途中」(CiRCLING)
「夜空をいろどる 刹那の花 永遠を焼き付けて」(夏のドーン!)
この「永遠」は共有した想い、共有した時間、所謂「思い出」や「経験」それら全てを内包する確定した事象であり、永遠に変えることが出来ない「過去」の事だと考えています。
楽しいや苦しい、嬉しいや悲しい共に過ごし感じた全ての事象が「永遠」であり今のPoppin'Partyを構成する物である。
経験した一瞬一瞬を繋ぎ合わせ、永遠という言葉で表現し歌としてアウトプットする。まさにタイムラプスの様です。
その「永遠」という言葉で比喩された彼女たちが過ごした時間を、より多くの方にわかり易く伝える為の楽曲だと気付かされました。
『新しい季節、その前に』のイベストの各話サブタイトルに必ず「時間」という言葉が入っており、作中の彼女たちにも我々と変わらない「時間」が流れている事を意識させる工夫がされてます。
そしてガールズコードの歌詞構成にも曲タイトルの「ガールズコード」以外の言葉が重複しないという工夫がされており、『同じ時間は二度と無い』という事を意識付け、楽曲が進行して行きます。
決して止めることの出来ない時間。
学校が楽しみであり、夏休みが早く終わらないかと言っていた香澄。
それらを理解しながらも作中で「後十分だけ!」曲中で「後五分だけ!」と過ぎた時間に後ろ髪を引かれる香澄。
その思いが歌詞としてアウトプットする際に、作中では決して言葉にしなかった思いが香澄から溢れます。
「夜を止めて」
『永遠』を願った瞬間でした。
「夜を止めて」
曲中で初めて繰り返される言葉により切実な香澄の思いを感じることが出来ます。
多くの方々が一度は「この時間がずっと続けば良い」と考えたことがあると思います。
だからこそ、この歌詞を書いた時の香澄の心境は多くの方が理解できるものであり、彼女たちが歌う「永遠」という言葉に込められた物の輪郭がとてもわかり易く描ける様になれたのではないかと思います。
2019年02月25日 19時00分 公開 「Webサービスをスクショで紹介したら50万円請求された」―― 物議を醸した「強い女メーカー」問題の争点は - ねとらぼ 361 users
- ponnao 正直自分だってWebサービス利用してるだけのくせに、強い女作者の人って性格悪そう。ねとらぼみたいなネットメディアだったらともかく、訴えられたブログ程度だったら請求棄却になるでしょ。 2019/02/26
- kazuya53 Webサービスを紹介する記事は、必然的に明瞭区分性・主従関係・出典の明示が同時に満たされるし報道・批評のどちらかになるはず。ねとらぼが堂々とスクリーンショット載せて引用してるのがちょっとウケるw 24 clicks 2019/02/26
- Mi-keito ねとらぼは引用要件に則ってスクショ記事にしているし、そして引用だからといって無断で記事作成しているとは限らないだろうに一部ブコメの変なはしゃぎっぷりは何なんだろう…。 2019/02/26
- cu6gane 元の作品には微塵も興味はないが、この記事を書いた事で相手側がねとらぼに請求しにくるかどうかだけ気になる 著作権 ブログ サービス 7 clicks 2019/02/26
- otchy210 ねとらぼもばっちりとスクリーンショットを "引用" しており「おら来いよ!」という姿勢を明確にしているwここで弁護士事務所がひよったら、最初っから個人を相手に脅し取る気だったっていう証左にならないか? 15 clicks 2019/02/26
- nananashi ねとらぼややまもといちろう氏などが手ぐすねを引きながら言及しているのはネットの華ですね。 2019/02/26
- paradisemaker これでねとらぼにも損害賠償請求しないと辻褄が合わないね 2019/02/26
- sds-page ねとらぼは大丈夫だって言うならアフィブログも問題ないって話じゃろ。そこに貴賎はない 著作権司法揉め事 2019/02/26
- sen26 ねとらぼにスクショが出てきた時点で引用問題なしって察しがつくよね。 知財 3 clicks 2019/02/26
- ffrog これはねとらぼにも請求が来てしまう… 2019/02/26
- as365n2 ねとらぼ記事が商用とはいっても、「時事の事件の報道のための利用」(第41条)というのがありましてですね。 copyright 2019/02/26
- junmk2 流石にこれでねとらぼ訴えるほど計算が出来なくは無いと思う。でもそうするとダブスタどう処理するんだろうね。訴えて欲しいけどなw 2019/02/26
- beed この記事は間違いなく商用だろうし、これで引用の条件守ってるといえるなら請求されたブログも守ってると思うな。ただ、ねとらぼは取材してるからライセンス契約はしてなくても口頭での了解くらいはとってるかも。 13 clicks 2019/02/26
- kujiradou ねとらぼの誘い受けだ 著作権揉め事 2019/02/25
- honeybe スクショ掲載してるからねとらぼにも請求出さないと(笑 2019/02/25
- otihateten3510 実はねとらぼのようなメディアも無関係ではないんだよね。ITMediaくらいになると弁護士に確認してそうだけど。/駐車違反したら罰金1万円みたいなのと同じ理屈だよねこれ 2019/02/25
- xorzx ねとらぼ的には訴えられたほうが嬉しいんじゃ? 2019/02/25
- kyukyunyorituryo ねとらぼも訴えられるパターンか。ねとらぼの記者も個人ブログで同じことしてたような。https://www.photo-yatra.tokyo/blog/archives/11603 8 clicks 2019/02/25
2019年03月20日 13時00分 公開 「あなたブラクラ貼ったでしょ?」→39歳男性を書類送検 検挙男性が明かす「兵庫県警“決めつけ”捜査の実態」 (1/3) - ねとらぼ 1358 users
- kiyoami ねとらぼナイス 9 clicks 2019/03/20
- overflow33 国家権力の暴走とはこのことだな・・・。小中学校で、最低限のプログラムの仕組みや動作を教えないと、こんな大人が増えて困るってことか。しかし、「ねとらぼ」いい仕事する! 2019/03/20
- pmint また「合法ヤクザ」と言われるようになりそう。ねとらぼが週刊誌っぽくなってる。 * 2019/03/20
- tsubosuke 前からねとらぼの取材力すごいと思っていたが、ここ最近キレキレじゃないか。いいぞもっとやってください。 2019/03/20
- ewiad420 ねとらぼよくやった。応援する。/ 取り調べがそもそも「僕がやりました。反省してます」と認めるまで繰り返される無限ループみたいなもんだよな…。 2019/03/20
- kentommy ねとらぼ、直接インタビューしたのか。切り込んできたな。こういうのに対する警察側のペナルティはないもんかね? 20 clicks 2019/03/20
- guru_guru やるじゃんねとらぼ。 2019/03/20
2019年03月26日 16時30分 公開 「どのツラ下げて来てんのか」「(会社に)謝るんだよ」 ディズニーランドの“キャラクター出演者”訴訟 原告側が職場復帰時のパワハラ問題を追加提訴 - ねとらぼ 863 users
2019年03月28日 19時00分 公開 NTTコム「人材流出防止に押しかけラグビー」報道に波紋 実際に行われているのか聞いてみた - ねとらぼ 540 users
2019年04月05日 16時38分 公開 「ゴールデンボンバー」鬼龍院翔、楽曲&歌詞の無断使用を容認へ 「何にだって大いに使って頂きたい」 - ねとらぼ 421 users
2019年04月05日 20時15分 公開 兵庫県警、サイト訪問者の情報を約3年にわたり無断収集か ネットユーザーの指摘で物議 → 翌日削除も告知なし - ねとらぼ 585 users
- stealthinu ねとらぼがちゃんと取材してくれててありがたい。 社会 行政 security マスコミ net 25 clicks 2019/04/08
- pmakino 最近のねとらぼは大変素晴らしい。願わくば「人の意図に反する電磁的指令を訪問者に送信していたことについてどうお考えですか?」などと聞いてほしかった。 警察 社会 犯罪 JavaScript Web制作 インタビュー セキュリティ 1303 clicks 2019/04/06
- linus_peanuts ねとらぼのこれはもはや言いがかりに近いんだけど、聞かれてる方の例のあれもこれに近いんだよなあ(多分誰もわかってないんだろう) 44 clicks 2019/04/06
- rub73 完璧な組織はないのに兵庫県警叩きが人気だな。たしかに自分が逮捕対象になったら嫌だが、こんな重箱の隅をつつくようなマウントもどうかと思う。/兵庫県警はねとらぼに参考意見でも聞けば日本のIT警察もマシになる。 2019/04/06
- dancel 北海道の地震のときのねとらぼの記事のこともう忘れたのかな?ねとらぼもそこら辺のメディアと変わらん。ネットに対しての見せ方とかがうまいかどうかの問題じゃないか 2019/04/06
- mabo0915 ちゃんと兵庫県警の声まで取るねとらぼすげえなぁ。 11 clicks 2019/04/06
- htnmiki そろそろねとらぼが別件逮捕される頃 2019/04/06
- tecepe 最近ねとらぼ頑張ってる。記事面白い。 2019/04/06
- Gondwana 漫画村の件もそうだったけど、他のメディアよりねとらぼの取材が一番まともなケースが増えてる気がする。これからも頑張って欲しい。 2019/04/05
- Surume ねとらぼ攻めてんな 2019/04/05
- deep_one 返事があるまで諦めないねとらぼ。 2019/04/05
2019年04月11日 12時00分 公開 「おれはTwitterで育児をわかった気になっていた……」出産した友人に言われて初めて気付いたこと (1/2) - ねとらぼ 325 users
2019年04月23日 12時00分 公開 「ブラックホールの一部しか映ってないじゃん!」→実は「映ってない部分」がすごいんだよ、というお話 - ねとらぼ 371 users
2019年04月16日 09時00分 公開 丸亀製麺の30分飲み放題はホントに「すべてのせんべろを過去にした」のか? 聞いて飲んでわかったヒットの秘訣 - ねとらぼ 337 users
2019年04月24日 16時27分 公開 ガスト「24日で全国1361店舗まわれば1000万円山分け」企画を中止して謝罪 「事実上不可能」と批判の声 - ねとらぼ 435 users
2019年05月08日 18時06分 公開 芸能人が天皇陛下に「お疲れ様でした」で炎上 → 国語辞典編集「新しい謎ルールの誕生としか言えない」 - ねとらぼ 370 users
2019年05月11日 09時00分 公開 「人と会うと疲れる」「拒絶されると心が死ぬ」 現代のモヤモヤと向き合うエッセイ漫画『生きやすい』 - ねとらぼ 504 users
2019年05月17日 20時30分 公開 アニメ会社マッドハウス、労基から是正勧告 スタッフが月393時間労働や37連勤など労働実態を証言 - ねとらぼ 335 users
2019年05月29日 17時03分 公開 神戸地検、「ブラクラ貼った」と書類送検された男性2人を起訴猶予処分に 「ウイルス罪に該当」との認識は変わらず - ねとらぼ 743 users
2019年06月22日 09時00分 公開 「結婚相手を見極めるには食べ放題」 ビュッフェで相手の本質が見えるという漫画が参考になる - ねとらぼ 706 users
2019年06月25日 14時30分 公開 Twitter連携サービス「TwiGaTen」を自宅で運営しただけで家宅捜索? 神奈川県警と本人を取材 (1/3) - ねとらぼ 516 users
2019年07月12日 12時30分 公開 これが現代の科学力……! 「スーパーマリオメーカーはチューリング完全」はなぜたった1年半で証明されたのか (1/2) - ねとらぼ 610 users
2019年08月10日 11時00分 公開 映画「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」レビュー ゲームを、フィクションを、人生をここまで愚弄する作品を私は他に知らない (1/2) - ねとらぼ 506 users
2019年09月01日 12時00分 公開 『地球の歩き方』を100冊読んで発見した、「最も詩的な一節」を発表する (1/5) - ねとらぼ 690 users
2019年09月02日 17時04分 公開 国のキャッシュレスポイント還元PRサイト、「使えるお店一覧」から18万店を網羅した3608ページのPDFに飛ばす 320 users
2019年10月03日 17時00分 公開 Amazonユーザーが震え上がった「注文履歴流出騒動」の恐ろしさ 解消報道後も「不誠実」と怒りの声やまず - ねとらぼ 837 users
2019年10月13日 11時10分 公開 「ダイソーで売られているこれ、コピーじゃないのかな?」 人気癒しアイテム「もにまるず」の作者が類似品の販売中止求める→ダイソー一時販売停止もノーコメント - ねとらぼ 331 users
音楽系の事務所から接待やゴリ押し協力依頼を求められる仕事をしてるけど
紅白出れるレベルになった時点で本人が好きに曲を作るなんて絶対に許されない
「壮大な感じがたりないね、オーケストラいれてくれない?」って完成したものに偉い誰かが言い出すなんてザラ
「関わった人を食わす曲を作り続ける人間」であることを求められる
大黒柱みたいな扱い
その人のサポートにいろんな人間が裏方としてその能力を捧げるかわりに
その人達に分配できるなにかを稼いでくるのが仕事、というチームプレイと化す
そのチームには「勝手に仕事をとってくる人」の営業担当ももちろんいる。
ジャニーズ事務所はその営業する人間にたくさん借りを作っているので
お上品でスキャンダルもなく見た目もおとなしい(タトゥーとかない)
ゴーストライターを雇ってる気配もない
こんな美味しい鴨ほっといてもらえるわけがない
天才がどっからか出てきて十分に育ってヒットを出して世間にも認められるまで金も労力も出さずに横目でみて
整ったらもう他をなぎ倒して「うちのアイドルを引き立てる楽曲の提供者にしてあげる 断るなんてありえない」でくるんだから
まず米津はタイアップ曲を好き勝手曲をつくれる立場ではもうないし
タイアップでない曲を作れる時間もほとんど生活の中に残されてないと思う
嵐とNHKなんて関わったらそこの好みにはまるまでやり直しを無限にさせられる
>「けどなんか、そういう独自性を感じられなかったんだよね。」
ご明察だけど
とにかく、安定してヒットソングを出せる人間は、何千人という食い扶持を支える重責を背負いながら、それを微塵も出さずに(いやいややってるんですなんて匂わせたら何千人のサポートを踏みにじるようなもの)、作詞作曲○○と一人で評判をぜんかぶりして、それでもその仕事をやりたい、やりきる、続けると覚悟を決めた人って認識でみてほしい
売れない頃のインディーズに本人が戻りたいならそうするだろう
もともと個人のネット配信でどこまでもいけたひとだ、やめたいならやめるはず、地上波出禁なんて怖くないだろうし、それについてくファンで簡単にホールはうまると思う
でもそうしてないってことは、お前みたいな誤解をする人が無限にでてきたとしても、それでも今の場所でなにか成したいことがあるんじゃないの?これは妄想
信者は「本人がそう決めたことなら応援する(米津の覚悟や夢や葛藤含め肯定する、実親のような目線)」で、ファンは「私の好みである間は応援してあげる(金を出す存在、いつでもやめる準備がある)」だと思ってる。人によって違うだろうが。
ファンだっていうならこれからも何も知らないまま、みえる部分だけどボロカスいって、応援?してるとかいう相手の心を折る言葉をネットに発信し続ければいいと思うよ。
それにさらされて耐えるって決めたのはアーティスト本人だからね。
ALのシングルじゃない曲なら本人のやりたいことがまだうっすら残ってるかも知れない、それを楽しみに見守るくらいでいいんじゃないの。
クラシック音楽が好きでアニメも好きな奴なんて割とありふれていると思うので、これは俺自身のキモい感性が根底にあることを前提にした話。
オーケストラの楽曲の聴き所はたくさんあって挙げきれないが、その中に確実に入ってくるのが、オーボエのソロである。
知名度的には白鳥の湖を筆頭に、とにかくオーボエソロのない楽曲なんて、現在頻繁に取り上げられる名曲クラスの作品ではまずあり得ない。
つまり曲中の様々な名場面に必ず含まれるみたいな感じで、曲あるところにオーボエソロのシーンありと言っていい。
そして筆者は、このオーボエソロのシーンが来るたび、響け!ユーフォニアムの鎧塚みぞれが吹いているような錯覚にとらわれて久しかったりする。
奏者がおっさんだろうがじーさんだろうが、頭に思い浮かんでしまうのは鎧塚みぞれ。
しかも上述のように、どんな曲にもほぼ必ずオーボエソロが出てくるので、もはや自分のクラシック音楽は鎧塚みぞれとともにある状態。
それもこれも、響け!ユーフォニアムやリズと青い鳥の、美しく迫真的な映像が紡ぎ出すドラマとキャラ描写が、じわじわ効いてきたのだろう。
まさかこんな形で京アニの凄まじさを実感するとは思わなかった。
もちろん、そんな絵に命を吹き込んだ種崎敦美氏の演技、音を作り出した洗足学園音大の方々も見事である。
…などと言い訳がましく聞こえないよう、それっぽい言い訳をしてみた。
まあそうなるか。
KID FRESINOや黒田卓也などヒップホップやジャズ界隈などをゲストに迎えリリースしたアルバム”Answer to Remenber”が良きでした。
あとKing Gnuのボーカル、常田氏によるサイドプロジェクト”millennium parade”のドラマーも担当することになり多方面で活躍されました。
DJやボーカルなど、あらゆる方面で精力的に活動されて今後も目が離せません。
デヴィッド・ボウイの最後の遺作となりましたアルバム”★”にて起用されたドラマーであるマーク・ジュリアナ。