はてなキーワード: 楽曲とは
アイナナファンって本当に今のままでいいんだと思ってるんだね。
ア愚痴ったらアンチに拡散されるし、マイナス意見を垂れ流すのはその内容の是非はどうあれ界隈の空気を悪くするからみんなグッと抑えてるんだと思ってた。偉いなって。
なりきり運営アカウントの寒さ、エモさの押し付け、原案の承認欲求と全く進化しないイラアド、スタッフの腐女子の暴走、地方民には何の恩恵もない金をかけた無駄な広告(自分の課金があれに使われてると思うと泣きたくなる)、シナリオを売りにしておいて年々目立ってきたシナリオの稚拙さ(ソシャゲってシナリオが一瞬評価されても体制的にそれを維持することは無理だからここは仕方ないのかもだけど)、大企業バンナムのコネを濫用して外見は派手に見せてるくせにイマイチ充実しない化石みたいな古臭いアプリ、ランティスの粗製濫造アニソンそのものの楽曲クオリティ(唯一きれいめjpop路線で他コンテンツ差別化できてたメッゾがあれになってしまった)、マンネリなグッズ展開、作画クオリティが目に見えて下がったアニメ二期etc…
全部みんな本当は思うところがあるけどあえて黙ってるんだと思ってた。でも違うんだね。
そう思ってたから静かに課金しつつ運営に要望出し続けてたし、本気でいつかよくなると思ってたよ。でもそうじゃないみたい。
耐えられなくて愚痴ってしまったのもバカだったけど当て付けみたいな発言されてショックでした。
もう疲れたわ。声優ライブでエモエモ尊い確認できないわたしはゴリゴリメーター削られたままで戻らない。何か発表があるたび期待以下で落胆してる。あと声優なんて興味ないわいい人たちだと思うけどわたしはキャラが好きでファンやってるんだよ。何で声優の体調にコンテンツが予定合わせるんだよ。
何がライバルは三次元のアイドルだよ…ストは延々と毒親とバトって内野の人間関係でギスギスしてつまんないアプリをごまかす為にガワだけ整えて声優ライブやってポエム発表会してるだけじゃん。
3年目でいうのもなんだけど向いてなかった、次は未来に期待して課金するんじゃなくて消費するためだけに金を出したいと思えるコンテンツか見返りがあるコンテンツにハマりたい。
https://not-miso-inside.netlify.app/blog/better-stop-watching-vtuber/
これとか、
https://note.com/wasasula/n/n569e015f6f81
これとか、それぞれのブコメとか、
で、Vtuberはリアリティーショーだと言ってみたり、それに反論したり、Vtuberなんてキャバ嬢だと言ったり、馬鹿な女をおもちゃにして楽しむコンテンツと言ったり、それに反論したり、してるわけだけど、、、
えっと、まともに考えると、「Vtuberもリアリティーショーと同じだ」という危惧は、Vtuberで木村花さんみたいなことが起こってほしくない、ということのはず、だよね?
つまりVtuberが傷付いたり、それによって自殺を選んだりすることを危惧している訳だ(でなければリアリティショーと同じ構造を持っていることは悪い意味を持ちえないし、それを危惧することも論理的にできない)
しかし、一方で、そう言う危惧を伝えるための文章やそれへの反応で、「キャバ嬢」や、「馬鹿な女」という言葉選びをする。
えっと、、、、良く分からないんだけど、君らは彼ら彼女らに傷付いて欲しいの?傷付いて欲しくないの?死んでほしいの?死んでほしくないの?
いやもちろん人それぞれだと思う、傷付いて欲しい人もいれば傷付いて欲しくない人も居るだろう、
ただ、傷付いて欲しくないと言い(リアリティーショー化を危惧し)ながら、傷付ける為の言葉をわざわざ選んでいる人は、一体何がしたいんだ?
俺がアホだから、またはVtuberに詳しくないから分からんのだと思うんだけど、
例えば、あなたの言葉を見てVtuberが傷付く事はあり得ない事なんだろうか?そういった傷付きが蓄積して(勿論同じような事を言ってるのはあなただけではない)最終的に死を選ぶことは本当にあり得ない事だろうか?
俺は、全然あり得ない事ではないと思うよ。
木村花さんの件の様な事が起こることを危惧しながら、それが起こることに加担する行動を取る、というのは俺には理解ができん。
あなたの言葉でVtuberが傷付かないとあなたが思ってるとしたら、それはどういう理由からだろうか?
Vtuberの中の人は心が強いから?(5000人以上いるらしいけど全員が?)
心が強くないVtuberはVtuberで居るべきでないから自分の言動は正当化される?(マジで言ってる?例えそうでも傷付けることは正当化されないのでは?)
自分の批判対象は悪いVtuberだから問題無い?(悪いVtuberとは?どういう行為が、傷付けられることも正当化されるような悪なんだろうか?)
自分は事実を言ってるだけ?(事実かどうかと傷付くかどうかは別問題では?また、事実なら傷付けてもいいという前提の中で木村花さんの件を十分に批判し得るだろうか?)
事実を言われて傷付く方が悪い?(同上)
自分の批判対象は自分の嫌いなVtuberだけだから大丈夫?(嫌いだからって傷付けてはいけないのでは?また、そのような前提で木村花さんの件を十分に批判し得る?)
自分は現在のVtuber業界の構造を危惧している?(で、その為にその過程でVtuberを傷付けることは正当化される?またわざわざ傷付ける言葉を選ぶ意味は?)
お前はVtuberを人質にして言論を封殺してるだけ?(俺がそうだとして、そう言う理由であなたがVtuberを傷付ける行為を正当化できるの?俺の行為の倫理的評価とあなたの行為の倫理的評価は別個に下されるべきでは?)
全ての回答を事前に予想する事は出来ないけど、俺の根本的な疑問はこうだ。「あなたはどのような条件を満たせば、誰かを傷付ける行為を正当化できると思っているの?」
最初に挙げた2つ目のリンク先では、1つ目のリンク先は「自傷行為」だと言われてた訳だけど、
恐らく「自傷行為」だけには還元できない、他にもいろんな動機があると思う、そこは見逃されるべきじゃない、ただ、
それが自傷行為という要素を一切持たないかどうかは考えてみて欲しい、それで、あなたは傷付いたにせよ、その自傷行為にVtuberを巻き込んで一緒に傷付けてしまう事をあなたはあなた自身に対して許すのか、考えてみて欲しい。
(または1つ目のリンク先のタイトルが「オタクも」と、オタクを批判しあるいは傷付ける事を目的としているように見える点も気になる、その場合も同じ、その行為にVtuberを巻き込んで一緒に傷付けてしまう事をあなたはあなた自身に対して許すのか)
上の?の連続を書いていて思ったのは、あなた達はもしかしたら、Vtuberを考える上で自分自身を透明化していないか?という事だ。
あなたは他者の行動や業界の構造の是非を問う事が出来る、でも、その是非を問う言動やその為の文章それ自体が倫理的な是非を問われる側にもいる、という事を忘れてしまっていないか?
あなたは透明ではない。従って、あなたの言葉は誰かを(つまりVtuberを)傷つけ得るし、その事の倫理的な是非を問われる立場にもいる。その事を忘れるべきじゃない。
あなたはあなたの行為をあなた自身に対して許すのかを考えるべきだ。
自分の数少ないVtuber視聴体験だけでも、例えばVtuber達がFPSや麻雀で素人の俺では到底敵わないプレイスキルを見せていることを知っている。分かりやすい授業をネット上に公開し、プロ顔負けのオリジナルのラップ楽曲をリリースし、視聴者のセクハラに声を挙げ、男性が女性になり、リアルに嘔吐し、大喜利をし、動画を編集し、膨大な悪意に直面し、虫を食べ、彼氏バレを越え、世界観を考察させ、常人ではちょっと発想も出来ないサイコな映像で海外にもバズった事を知っている。そう言う全てを「キャバ嬢」「ガワを被った生主」「馬鹿な女」という言葉に還元して「無かったこと」にしてしまう、無に帰すことをあなたは自分自身に許すのか、それが倫理的に問題が無いのか、考えてみるべきだ。
(勿論、自分はVtuberを追えていると言えるほど追えていないので、そう言う言葉に還元して無かったことにするべきでない事は他にも恐らく一杯ある)
かなり長くなってしまったが、他にも拾えていない論点は一杯有る。例えば、あなたが木村花さんの件の再発を危惧しているのだとして(でなければリアリティーショー的であるとの指摘は論理的に批判たりえないのだが)、それがリアリティーショー的である物へ危惧に繋がるのだとしても、同じく根本的な原因であろう「特定の人物を傷付けてもいい」理由の作出という問題については存続することを許容しているのではないか(でなければ、あなたがVtuberを傷つけ得る言葉選びをしていることを正当化できないのではないか)という点はかなり根本的な問題であるように思う。
あなたがVtuberを傷付ける事をあなた自身に許す以上、そこには「特定の人物を傷付けてもいい」理由が無ければならない、しかしそのような理由の作出こそが木村花さんの件を招いたのだとしたら、木村花さんの件の再発を危惧しつつその発生に寄与した現象を自分で再演することには大きな矛盾が有るのではないか?
また、全然別の論点として、そもそもこのような、キャラクター(と、ここでは敢えて表現するが)に対する言動の倫理的な是非をここまで切迫して問われる、という経験自体、生の人間がキャラクターを突き破って来るというVtuber体験に特有の物ではないか、というのもある。
確かにフェミニズム的な観点からこれまでも問題化されることは有ったにせよ、比較的自由にキャラクターに対して接していたオタク達が、同じやり方でVtuberに接したとき、セクハラだとして声を挙げられたり、苦言を呈されることがある(正直に言って、十分に起こっているとは言えないし、セクハラに対してはもっと同じ反応が有るべきだが)。
それもまた「生の人間」の発現である訳だが、それに対し、Vtuberの生が出る事を忌避し、キャラクターやロールを演じることを称揚する方向が、セクハラの糾弾(という「生」の発現)への抑圧にならないか、という論点はもっと語られるべきだろう。
果たして、一人の人間を、非人間的な役またはキャラクターのままでいる事を要求する態度と、その者の役やキャラクターから逸脱する人間の側面の現出を許容する態度と、どちらがリアリティーショーや、木村花さんに誹謗を浴びせた人達に近いだろうか?
その他様々な論点が置き去りになっては居るが、それはともかく、
最後に問わねばならないのは、この文章を書く俺自身もまた透明では無いし、従ってこの文章やそれをここに書く行為そのものも、俺が自分自身に許すか問わなければならないという事だ。
今一度読み直してみて、俺は許す。
あなた達を過剰に馬鹿にする言葉選びはしなかったつもりだ。そもそも俺はあなた達を馬鹿だとも根本的に悪だとも思っていない。自分の行為を透明化せずに自分に許すかどうか問う、という事をしさえすれば、他人を不当に傷つけないように振舞う事が出来る人達だと信じているし、だからこそこれを書く。
可愛い女の子が目的でゲームをプレイする1人のオタクの答えとしては「否」である。
が、プロデューサー(アイドルマスターを嗜む人の呼称)(言ってしまえば内輪ネタ)の答えとしては「悪になりかねない」である。
(この文章内では「容姿、ないしは言動が好み」の意図で「可愛い」という単語を使用している。これは決して女の子はフリフリ可愛いものを着なくては、といった女の子らしさの強要ではない。
また、「絵アド」も担当イラストレーター等は関係なく、いかに描きこまれてるかのクオリティーに関するものとする)
アイドルマスターシンデレラガールズ(以下デレマスと略)、そして派生アプリであるスターライトステージ(以下デレステと略)をご存知だろうか。
モバマスはその名の通りモバゲーで展開されており(運営より更新縮小が告知されているが、新カードやイベントの更新は続いている。ガチャに関してはデレステからのカードが流用されていることも少なくない)、そこから「音ゲー」として開拓されたアプリゲームである。
アイドル総勢190人の3Dモデルが用意され、楽曲に合わせて踊らせたり個人のカードを育ててアイドルの一面を知ることができる。
元の「アイドルマスター(以下アイマスと略)」シリーズが有名なのもあって、いわゆる美少女動物園コンテンツの中でもかなり大きい部類だといっていい。
キャラクターを売りにした基本無料アプリゲームの宿命、ガチャシステムも勿論搭載している。
250個の石で1回、2500個の石で10回連続で回せる。10回連続で回せばSRというレアリティのカードが1枚確定。
しかし有償で購入した石ならば60個で1回回せる。(1日1回限定ではあるが)
そういったゲームでは最上級のレアリティSSRがだいたい必須になり、インストールしたユーザーのだいたいがリセマラ(目当てのカードが序盤で出るまでインストール⇔アンインストールを繰り返すこと)をする。
一般的に想像される「キャラクターがたくさん出てくるゲームのガチャ」だろう。
皆が求めるSSRにも実は分類がある。
そのうちの片割れ、恒常SSRは「いつでも出てくる」SSRだ。追加から数日間だいたいピックアップされ、その期間が終わると確率は他のSSRと同じになる。
上記の恒常と異なるのが限定SSRだ。追加から数日間ピックアップされるのは一緒だが、その後はガチャから出なくなる。とはいっても、一定期間経てば期間限定ガチャが再度設置&ピックアップされることが多い。
限定SSRが追加されるガチャは定期的に開催され、その度に対象となったキャラクターを好きなユーザーは喜んだり爆死(ガチャ用の石を使い切っても目当てのカードを引けない現象。基準は人それぞれだが一般的に有償石を購入→購入分をすべて投入するも出ない状態をさす)して涙で枕を濡らしたりするのだ。
たかがカードに、とアプリゲームや課金行為に思う人もいるかもしれないが、デレステのSSRは特定のアイドルの3Dモデルに特別なドレスを着せられるようになるのだ。デレステの醍醐味といってもいい。可愛い子のカードに、その子だけの可愛い服を着せて踊らせる。可愛い子が好きなオタクとしては垂涎ものだ。
とあるタイミングでスターライトステージのガチャ回数に上限が設置されてからは決定的な爆死もかなり緩和された。
さて、本題。
2020年のブライダルテーマガチャで、とあるキャラクター3人の新たな限定SSRが追加された。
メンバーは黒埼ちとせ、川島瑞樹、イヴ・サンタクロースの3人である。
限定ガチャは話題性が強く(人は期間限定という単語に弱い)、イラストに気合が入っていることも多い。季節モノであれば花びらが舞ったり、海が抜けるような青空を反射している。1枚の絵として見たときに「特定のシーン(季節と場所が組み合わさって特別感を演出している)」であることを連想させるものがほとんどだ。
ブライダルテーマである。「俺の嫁(古い表現にはなるが)」という観点でアイドルを愛するユーザーも少なくはない。むしろアイドルの中でPラブ勢(ユーザーの分身である作中のプロデューサーに想いを馳せているアイドル達のこと。もちろんあくまでビジネスパートナーとしての関係を望むアイドルも多くいる)が今か今かとチャンスを狙っているといってもいい。
そんなユーザーにとってもアイドルにとっても関心が集まりやすいブライダル限定ガチャのラインナップが物議を醸した。
メンバーのうちの1人、黒埼ちとせの絵アド(同じレアリティ、性能である場合かなりの確率で絵が上手いほうが好まれる。これはデレステに限らない話)が異常に高いのだ。
よくあるアプリゲームらしくカードにはイラストが2種類用意されており、デレステでは強化前を「特訓前」・強化後を「特訓後」と呼ぶ。
現在音ゲープレイ時の編成表示は特訓状態に依存している為、結果的に特訓後のイラストを見ることの方が多くなる。尚、アルバム機能以外ではアプリ内ホーム画面に固定して表示することもできる。
イラストは大事だ。自分が元々好きな子なら大体可愛く見えるというのも勿論あるが、せっかく新しいカードが発表されるのであれば純粋に可愛く描いてほしい。その子だけの表情で、その子だけの特徴を活かした綺麗な1枚がほしい。
そう、絵アドは大事なのである。絵アドが高いに越したことはない。まず好きな子の綺麗な絵が見られることが嬉しいし、好きな子が周りから「可愛い!」と褒められたらそうでしょうそうでしょう、この子とっても可愛いんですよと誇らしい気分になる人も多いだろう。
では今回一部で話題に"なってしまった"黒埼ちとせの絵アドも同じように捉えていいのか。
問題になってくるのがまさかの「デレマスというコンテンツのスタンス」そのものなのだ。
現在190人のアイドルを擁するこのコンテンツの売りであり異常でもある(自分はそう思っている)のが「誰もがシンデレラになれる」というテーマである。
どんなジャンルでも大抵「最推し」という文化があるものだが、デレマスはそれを越えた「シンデレラ」にすることをユーザーに委ねている。
ステージもアイドルもこちらで準備できています。あとはあなたがどの子に声をかけるか。そういうストーリーがまずプレイヤーに課せられるのだ。顔はもちろん体型も趣味も違うアイドルのうち、誰をシンデレラにしたいのか。ガラスの靴を履かせて、舞踏会で周りの人が皆見惚れてしまうぐらい輝かせたいのは誰なのか。
プレイヤー(プロデューサー)はそのうちから1人(場合によってはそれ以上も)の手を取り、ともに歩みだす。
同時期に同じ目的で作られたイラストを複数を並べたときに1人だけ異様に絵アドが高いというのは、定食屋のメニューみたいに「おすすめ」とか「人気」とかを公式自らつけているようなものだ。結果、「誰もがシンデレラになれるんですよ」というコンテンツの売りが死ぬ。
勿論大人の事情もあるだろう。たまたま特定のアイドルをおすすめしてしまうことになる可能性だってある。偶然が重なった結果なら仕方ない?
仕方ないとユーザーが擁護してしまった瞬間、皮肉にも守りたかったはずのコンテンツの売りが死ぬのだ。お金が関わるから、今が時期だから、太客がいるから…そういった擁護は「誰もがシンデレラになれる」と売るコンテンツに対してのある種の冒涜とも言える。
「誰もがシンデレラになれる」を売りにしている以上、そもそもユーザーに「キャラクターAに与えられたチャンスが他のキャラクターより優れている」と気付かせて(言わせて)はいけないのだ。「誰もがシンデレラ」ならユーザー(から選ばれたアイドル)に与えるチャンスそのものが等しくないと成り立たない。
もしコンテンツ側から「公式側の推しとお前の推しで殴り合うゲーム」と明言されていれば公式が特定のアイドルを優遇しても理論上は問題ない。道徳とかそういうものは問題ありそうだが。
だがデレマスならびにデレステはそんなことは言ってくれない。あくまで「誰もがシンデレラになれる」、希望に満ちた世界観なのである。これは一周回って残酷と捉えていいだろう。
さて、ここまで読んでくれた人は「同じ限定ガチャで1人だけ絵アドが高い」という現象について改めて考えてほしい。
公式やこの文章そのものに文句がある人もいるだろうし、渦中となった限定SSRの黒埼ちとせを擁護したい人もいるだろう。その行動が完全一致することよりも、言葉の行き先に意味はあるか(何の歪みが原因で騒ぎになったか自分なりに理解しているか)を重視する方が自分は大切だと思う。
1週間触らなかっただけで一気に熱が覚めた
2年くらいアイドルマスターシンデレラガールズ(デレステ)やってたのよ
こんな長い間続けたゲームなんてあんまないし課金したのなんてこのゲームだけ 朝起きてスタミナ消費して日中息抜きにスタミナ消費 夜寝る前にスタミナ消費を2年間やってたわけ それもかなり楽しんでね
ゲームだけじゃなくて楽曲にもハマった iPhoneに数百曲も入ってて朝のアラームもデレステの曲だったくらいハマってた
ライブも現地は行けなかったからライブビューイングでペンライト振った 夢が現実かわからないくらい夢中で幸せな時間だった
俺はこの先何年も、サービスが終了するまでプロデュースするぞってずっと思ってたのよ
で、この前iPhoneのメモリ容量の関係で1度アプリ消したんだよね 中身整理した後また入れ直そうくらいの気持ちで
消した途端にいままで熱中してたコンテンツが酷く滑稽に思えてきてさ 実在しねえキャラに興奮してたんかよみたいな
そんで中身整理した後もインストールする気がなくなってさ、入れ直すまでに1週間かかった
ゲームやり直しゃ熱も戻るだろって思ったんだけど、まー楽しくないんだわ
今まで好きで好きでたまらなかったキャラに対してなんの感情も湧かなくなった
これまではハイスコア少し更新するだけで大喜びしてたのに、今じゃだからどうしたって感じ
この前やってたアイドル総選挙も推しがランクインしてるのにへーって感じ
もう完全に冷めちゃった
あまり物事に熱中できないタチなんだけど、デレステはそんな俺を変えてくれたと思ってたんだよね
でも実際は何も変わってなかった イリュージョンだったのかもしれない
タイトル通り。Vの囲いが怖すぎてどこにも言えないのでここに流すことにした。
(※V界隈には全く詳しくないので実際と認識が違うかもしれない)
まず自分について、
どこにでもいるオタク(20↑)。学生時代ボカロしか聞いてなかった。今でも聞いてるし追っている。
先日、ついったのトレンドに自分の推しPの大好きな曲があがっていたり、TLのフォロワーたちが話題にしていたりする場面に遭遇した。
ずっと推し続けていたので嬉しくて嬉しくて、なんで盛り上がっているんだ?と開いたら、
そして、誰もが「Vの歌った楽曲」で騒ぎ、解釈をし、絵を投稿していた。
心に重く刺さった。
それは、私の推しPの曲で、
ずっと聞き続けてきていた、大好きな曲だったのに、
こいつらはなんで盛り上がっているんだ、と。
歌い手は好きだ。趣味で歌い、その曲が好きな人に歌ってシェアし、自分の歌も好きになってもらう。
だが、今回の件は。
原曲をアレンジし、原曲そっくりの動画をつくり、キャラ独自の解釈をし、囲いたちが騒ぐ。
それに自分の推しの大好きな曲が使われていることが、苦痛でたまらなかった。
大好きな曲を、大好きなのに、自衛のために、泣きながらミュートした。
某ラスボスが千本桜を自分の歌のように歌っているのをしばしば見る。
これは今回の状況に少し似ているのでは?と友人に言われたが、
ラスボスにはニコニコへの、原曲へのリスペクトが明らかに存在しているから、応援するし、聞くし、推したいと思える。
しかし、今回のには、そのリスペクトが存在していなかった(ように自分には見えた)。
囲われるための道具にしか見えなかった。
再生数稼ぎに使われていることが、ビジネスライクに使われていることが苦痛だった。
まあ、これは自分がVに対する理解や意識がなさすぎることによる偏見なのかもしれない。
今ではだいぶよくなったけど、最初はVがMMDのキャラのなりきり、のようにしか見えなかった。
実際は違うと思う。複数人で、Vというコンテンツを作り上げているのだと思う。
けれど、第一印象がそんな感じで最悪だったのだ。
Vが曲提供をしてもらったり、自分のオリジナルを歌ったりするのは、全然いいと思う。
歌い手系(?)みたいなのもいるんじゃないの。知らんけど。
でも、その上でも、
推しPの好きな曲が使われ、Vの誰かが歌うたびに話題に上がるのが、マジでキツい。
自衛してもフォロワーが無言で投げる絵は避けられないし、今のアカウントは8年くらい使っているので、付き合いが長い人も多く、
アカウントを変えることはどうしてもできない。
そのフォロワーと仲が悪いわけでもない。むしろ付き合いが長く、浸っている界隈が違うだけだから会話もする。
正直積んでる。
Vの歌みたがつらすぎる。
たまーに聴きたくなる、視聴したくなるのでメモ的に。
増田の仕様的にリンク数上限が9つぐらいらしいので今回はこれぐらいで。
この楽曲以前はアニメ系のOP/EDのPVのフルバージョンがYoutubeにアップされるパターンは余り無かったと思う。
(バンド系で自分の公式チャンネルを持つところは例外になるが……)
この楽曲の圧倒的な視聴数により、他のアーティストもフルバージョンでのアップロードもありなんじゃないかと思ったところも多いだろう。
凝ったPVの出来の良さ。
300万視聴数目前!(この記事をアップしてしばらくすれば突破するかな?)
ヒット作となったアニメ『SSSS.GRIDMAN』のテーマに沿った内容の考えられた歌詞の素晴らしさをポップに歌い上げているPV。
説明不要とは思うがアニメ『血界戦線』の第2話から公開され話題になり、ここ数年でも珠玉の出来と思われるアニメのEDの一つだと思う。
「UNISON SQUARE GARDEN」の楽曲の中でも高い人気を誇る曲で、視聴数も4000万に達する勢いでまだまだ伸び続けることだろう。
独特の言語センスの歌詞と、高いレベルでの演奏スキル、アニメのEDと同様に踊るように動き続けるベースの田淵が必見!
アニメ『城下町のダンデライオン』のED。
発表&発売後しばらく経った後にライブバージョンを公開するようなパターンも増えてきていますね。
アニメ『プリパラ』のポップやメロディアスな楽曲とはまた違ったライブ向けの明るい楽曲。
「声優とアイドルのハイブリッドユニット」である「i☆Ris」は、正面からの固定カメラでのフォーメーションやダンスの振りが確認できる「Dance Ver.」の公開に積極的で、プリパラ以降のシングル曲の楽曲のほとんどは「Dance Ver.」で公開されていると思うので、楽曲だけでなく、彼女達のダンススキルの高さも確認できるPVは、また別の楽しさがあるかと。
近年最大級のヒット作品となったアニメ『鬼滅の刃』のOPなので、誰でも知っていることだろう。
PVではなく正確に言えば企画系の動画になるが、ピアノのみ伴奏の中で歌い上げるLiSAの歌声に酔えるものとなっている。
「水瀬いのり」の場合は、アニメ『ViVid Strike!』のED「Starry Wish」を紹介するのも手の一つだったのですが、出るイベント・テレビなどで「Starry Wish」ばかり歌わされる時期が多かったので、敢えてこちらをチョイス。
深夜にふと流れてきた曲。
おそらく、バーのピアニストとしてのビリー本人の目線で、バーの様子が語られていく世界観の楽曲で、
バーの雰囲気だけでなく、そこに訪れる客のバックグラウンドなども語られる。
その曲中で、彼の友人であるJohnについて語られる部分がある。
「飲み代持ってくれて、ジョークが上手くて、タバコの火にも気が回るようなヤツ」という明るい面が提示された後に、「彼はこんな所にいるべきではない、他にいるべき場所があるはずだ」というフレーズがあり、Johnが話したセリフとして次のような歌詞に導かれる。
“Bill, I believe this is killing me.
Well, I’m sure that I could be a movie star, if I could get out of this place.”
(部分省略)
ざっと訳すと、
きっと映画のスターにもなれたさ、こんなところにいなければな。」のようになる。
これはkilling meを慣用句として捉えた場合で、これは「耐えられない、うんざりさせる」といった意味がある。
かのウイルスが奪ったのは命だけでなく、「自粛」という形で、誰かの仕事や趣味や生きがいをも奪っていった。
自分がやりたいことを「自粛しなければいけない」という状況で、「何か役に立てることをしたい」「自分を表現したい」と思っていても、「自粛」を強いられて部屋の中で燻っている。
表現をする知人は「時間はあるのに、何も生み出せず、まるで死んだみたいだ」と語っていた。
そんなとき、自分の生きがいを奪われた人は「殺された」言えるのではないだろうか。
ともすれば、This virus is killing me. という文は、実際に闘病して生死の境を彷徨っている場合にも使えるとは思うが、さまざまな要因で「生きている心地がしない」という意味合いも持つのではないだろうか。
Johnは役者になりたかったのかもしれない。でも、厳しい役者の世界で自分の性格に合わずにドロップアウトしたのかもしれない。家庭の事情で夢を追いかけるのを諦めてしまったのかもしれない。
自分のやりたかったことを辞めなければいけない辛さに直面したとき、それはIt is killing him.(それは彼を殺している)と言えるのではないだろうか。
それが成立するならば、この文脈における私の解釈は「This is killing me.=俺はもう生きている心地がしないんだ」である。
「もう俺は生きている心地がしないんだ。
もしここを出て行くことができれば、な」
きっと自粛の下で、この危険な状況下で生きている心地がしない方もいるだろうし、上記のような生きがいを奪われて死んだようになっている人もいて、
きっと発信者に悪意は無いし、権利者もこの人の意見を強く否定する程では無いと思う。でもこの人の善意による発言が、権利者の、あるいは人類史の妨げになると思うので記す。
まず創作物の権利は、当局の著作権法や万国著作権条約によって定められている。しかしその規定された制約ではなく、独自のルールで利用されたいという人は居る。それは権利者の権利である。
今回、多くの興行が中止された。特にチケットを販売済みでその日時に表現をしていたはずの表現者は、インターネット上で代わりのコンテンツを配給しているようだ (もちろん興行に関わる人への利益になるよう調整をしている人も居る) 。その中で、該当コンテンツは「コラボ」を許容した。該当ライセンス記述は以下のとおりだ。
非常に曖昧なライセンスである。権利者が権利を曖昧にする理由は様々だが、該当コンテンツの場合は自由に何かを作って欲しいから、作ることによって辛い気持ちを乗り越えて欲しいからだろう。
安倍首相の Twitter アカウントで、この動画と組み合わせて作ったコンテンツは、とても多くの人に不快感を与えた。表現である以上、評価はコンテンツに触れた人の解釈に委ねられる。でも、 安倍総理の星野源さんコラボは何が問題だったのか / 音楽家からの視点と分析 の主張は違う。「その利用方法が間違っている」と言うのだ。
星野源さんについて詳しく無い (書籍のエッセイは全部読んだが) ので、ブコメを参考にした所によると、この楽曲は「家に籠もることができない人も含めて、自分の心の内の世界で踊ろう」というメッセージらしい (後日に対象の発言を正確に引用してこの節を書き換えるかもしれない)。だとしたら、「ダンス」に「日常生活を送る姿」が含まれる可能性はある。それぞれなりの生活を楽曲になぞらえる、あるいは楽曲から想起され日常に気づき、それを表現するということはあり得る。楽曲と、楽曲の解釈を自分なりに表現したもの。それによって作られたものであれば、権利者は容認し得るだろう。そうでないと言えるのは、ダンスとダンスではないものを規定できる人だけだ(それも権利者の権利を上書きする力は無いが)。
この人が「これはセッションではない」と言うことは、その可能性を閉じることである。
権利者から提示されるライセンスは、権利者と利用者との契約であり、契約に反する場合は当局の法令によって裁かれる。 つまり非権利者が「これは違う」と言うことは、コンテンツの利用者を犯罪者と断定する行為である。
今回の騒動で、権利者は「違う」と言わなかった。一方でこの人は「違う」と言い、それは多くの人の注目を集めた。場合によっては「違う」という意見が多勢となり、「解釈を間違った人は犯罪者である」という状況を作るだろう。これは誇張ではない。
権利者がコンテンツに対してのライセンスを規定できるということは、「コラボ」が許される期間を 100 年程短縮する (権利発生時から権利者の死亡までを 50 年と仮定。日本の著作権法による) 。そのコラボコンテンツにはコラボした時点で権利が発生するため、そのコラボコンテンツを元にコラボするためにはまた 100 年待つ必要がある。権利者がライセンスを規定できることで、その期間をゼロにさえできるのである。さらにそのコラボとなれば、発展の期間の短縮は例を挙げるまでもない。権利者以外の誰かが「これは駄目だ」と言うこと、そして権利者没後の人々が賛同することは、人類の文化史を 100 * n 年後退させることである。
繰り返しになる。みんなが辛い。みんなが興行ができない。そのために素材を提供した。その素材に依るコンテンツを「これは OK 」「これは NG 」と規定できるのは権利者のみである。外部から NG が規定され、雰囲気としてこれは NG とされれば、行われたはずのコラボコンテンツの公開を損なわせる。それこそ権利者の本意に反するのではないだろうか。
今回のことで、インターネット上にコンテンツを配信する人は増えた。そのライセンスが明確であると、それは資源となり、様々なものが作られる。そしてその先には別の未来が待っているだろう。「これは NG 」と規定する非権利者が現れる事によって、人類史は 100 * n 年の遅延を求められるのだ。
まだいつまで続くか分からない状況の中で、興行の代わりに「コラボ可能」なコンテンツを提供する人は多いと思う。そして「細かいことや面倒くさいことを言いたくない」という理由で曖昧なライセンス表記で提供されるだろう。「分かるでしょ」というのは同一の文化圏でのみ通用する。でも公開する以上、同一ではない文化ともなんかやりたいじゃん。
でもやっぱりライセンスを規定するのは難しいし、読む方も難しい。コンピュータソフトウェアはずっと改変によるメリットと著作者の権利を議論し続けていて、ある時クリエイティブ・コモンズという権利者の権利の表示が簡便な仕組みを生み出した。
明確なライセンス表記をすることは、利用者を守る行為でもある。利用者を犯罪者にする可能性を防ぐことができる。クリエイティブ・コモンズの表記は極めてシンプルに作ってあるので、これからコンテンツを公開する人はどうか自分が自分のコンテンツをどう扱って欲しいかを、表記してみて欲しい。だめだったら個別にだめだと言って良い。それは権利者の権利だから。
余談だが、今回の騒動で議論の余地があるとするならば、「文化の政治利用」が「営利」なのか否かだ。もし CD などの物理メディアを通して金銭の授受が行われれば明確にアウトだが、プロモーションについては判例が少ない。ぜひライセンスガチ勢のツッコミを求める。
あとほんと蛇足なんですが、今回問題になった Tweet はクレジット表示が無かったのは本当にだめ。表示をしなくて良いのは Public domain か CC0 のみで、どんな解釈でもそうは取れないのでだめそう。でも異文化に触れた老人たち (本人じゃないだろう) が異文化の雰囲気を読み見違えるなんて普通じゃんね。それを超えて老人たちも良い感じのコラボコンテンツを出してくれた方がいいじゃん。
ファン歴はそんなに長くはないが、水樹奈々さんのことが大好きである。楽曲は昔から好きでCD等も他のアーティストと併せて買っていた。
私は、とある出来事がきっかけで引きこもり状態になっていたことがある。その時に出会ったのが、水樹奈々のライブであった。
最初はファンクラブにも入っていなかったし、近所だしまあ行ってみようかなという軽い気持ちで行ったライブだった。
それが始まりである。ステージに立つ彼女はとてもキラキラしていて。そして新たなことに取り組む姿勢。
引きこもりから脱したと同時に、彼女のおかげで新しいことにチャレンジするようにもなり、引きこもり状態とは真反対の生活を過ごしている。
そんな私だが、最近の楽曲には少し疑問というか、複雑な気持ちを抱くことがある。
水樹奈々さんのやることは応援したいという気持ちがあるが、とてもこの楽曲、いや、この作曲者・作詞者が苦手なのである。
もうコテンパンに叩く気しかないので、あえて名前は挙げないが、楽曲と共に嫌いな理由を挙げていこうと思う。
耳にも全く残らないし、まあシンドロームシンドローム言ってるんだなということは分かるのだが、曲調が微妙だし、これは後から出てくる他の曲を聴いて思ったことだが、歌詞が全く刺さらない。
NANA MIZUKI LIVE ADVENTURE 2015に参加された人にはわかると思うのだが、この歌を歌うときの水樹奈々さんはノリノリだったりする。正直、とても複雑な気持ちであった。
この曲に関して、私と同じ意見の人はいるのではないだろうか。というより、水樹奈々楽曲の中で一番嫌いな曲は何?と聞かれたら、真っ先に答えるのがこの曲である。
よく皮肉で、「この歌好きな人って、結局相手がいない人でしょ~w」みたいなことを言われることが多いが、彼氏がとうにいる私でもこんな歌を彼氏に歌われたら確実に別れる。
ここまで文章並べて、自分のことしか考えてないって相当ナルシストですよね。なりたいなりたいばっかりで、「かっこよくなるとは言ってない」みたいな風にも捉えてしまう。これに関しては私が偏屈すぎるのだろうか。
なりたいなら目指してほしい。
えっと、無理です。人と人が一緒に暮らして、共に生活をする以上、必ず仲違いは発生する。ましてや家庭環境だって違う、そして男と女という人間が毎日過ごすのである。
そして、大したものは買わねえって予防線張っているところがもうダメ。別にそんなこといちいち口にしなくていいし、いつか子供が産まれて子供を優先せざるを得ない状況が発生する以上、大したものを奥さんに買えなくなることなんていくらでもあるだろう。
毎日笑わせなくてもいいから、とりあえず夜中に食べたご飯の皿は最悪疲れていたら洗わなくてもいいから水につけておいてほしい。そっちのほうが私は笑顔になる。
いやもう、なれよ。(言う気も失せてくる)なりたいけど、君のそばにいたいらしい。
正直もう、こっちの心が痛い。ネガティブな意味で。総括すると、「かっこよくなりた~い^^wwずっとそばにいるし、離さないよぉ~www愛してる愛してる愛してる!wやさしくなりた~~~いwww幸せにするおーwww」みたいな歌詞に聞こえる。すっごい無責任というか、頭が悪そう。
水樹奈々さん本人がこんなことを言われてプロポーズをされたいと言っていた時はがっかりしてしまった。ただ、彼女のラブソング自体はあまり好きな曲は多くないのだが。
そして結構いろんなアーティストとこの歌を歌っていたりする。それだけ、彼女にとって思い入れのある曲なのであろう。それがまた厄介なのだ。
歌詞ばかり叩いているが、曲調も嫌い。売れてないバンドが頑張って結婚式ソング書きました、みたいなメロディーにしか聞こえないのは、私が結婚に対してネガティブな印象を抱きすぎだからだろうか。それは分からない。
この曲に関しては、作詞者と作曲者は異なる。この記事を読んで理解した方にはわかると思うが、この曲では作詞者に言及する。
この曲は、自分はダメダメ。あいつは得をしている。あいつみたいになりたいけど自分は努力していない。みたいな歌である。(多分。)
私はがっかりしてしまった。記事の最初で言及しているが、水樹奈々さんの何事にも前を向いて取り組む、そんなアーティストとしての姿勢が大好きで、憧れていたからである。そして引きこもり状態からも脱している。
それから、「自分は自分で、他人は他人。自分にできることから、一歩ずつ少しずつ、頑張ろう」という気持ちが芽生えてきていた。それが、引きこもりで勉強とゲームぐらいしか取り柄がなかった私に、化粧や洋服、そして(遠征による)旅行の楽しさ、様々な新しい楽しいことを覚えていった。中学生からなりたかった将来の夢も叶えている。
それなのに、"他人と比べる"ことを彷彿とさせる歌詞や、「楽してばかりの人生」という単語が出てきたときは、あれ、これ水樹奈々さんのアルバムだっけ・・・となってしまったぐらい。完全に私のエゴだが、そんな言葉を聞きたくなかった。
チラシの裏だが、愛媛公演が中止になってさらに悲しくなってしまったので書いた。飽きてしまったので書いてないが、この前FNSで放送された、STAND UP!も嫌いで、SIT DOWN!してしまった。そして曲調がもう本当に嫌い。嫌いすぎる。水樹奈々さん本人が、彼の楽曲を推しているのが本当に気に食わない。でも、水樹奈々さんは大好きなのである。恋愛などにおけるアンビバレンスな状態ってイメージがし辛かったが、きっとこういうことなのだろう。
https://togetter.com/li/1484323
これについてるブコメの奴らクソだな。
そもそも作者は電通との関与は否定していて、現状いきものがかりの楽曲以上のつながりは無いのに、勝手に「電通と関係してるはずだ!」ってキレてるのアホでしょ。それで作者を叩くのは正気じゃないわ。
それに5chかなんかのまとめを転載しててクソだし、明確に乗っかるべき事案ではないでしょ。あの作品が例の自殺と関係ある作品じゃないかったら最悪だろ。やってる事がニコニコのゲイビデオの言葉狩りしてる奴らと同レベルだわ。
そもそも電通と関わっていたとして叩くべきは電通自体であってワニの作者じゃねーだろ。
こいつらほんとに感情だけで動く能無だわ。
以前のワニの死を現実と同一視してる奴とかについてるブコメもやばかったし、これ馬鹿と言うか脳に異常があるやつらぞろぞろ出てくるのヤバいわ。
当然コルピクラーニだよな!
というのは不動の前提知識として、にわかに注目されているらしいのが、バンドリ!に最近加わった、Morfonicaとかいうバンド。
えー、女性声優でヴァイオリン弾ける子なんていたっけ?と思っていたら、例によって「逆に考えるんだ、ヴァイオリニストが声優やってもいいさと考えるんだ」ときやがった。
だからお芝居は百歩譲ってノーコメントだけど、個人的にこの人の弾き方も音も、あんまり好きじゃないんだよなあ。
とびっきりのトッププロはともかく、そうじゃない多くの日本人ヴァイオリニストにありがちな「小手先の奏法から始まり、百万回さらって成功した人」というか。
それだけ「作り物を極めた」努力は本当に凄いけど、同時にそれは死屍累々の道であり、何より音楽の原点である歌からかけ離れたアプローチと言う意味でも真似すべきじゃないと思う。
そういうのにリスナーも敏感なのか、ポルノグラフィティの名曲、メリッサのカバーは相当否定的な評価みたいだし。
まあでも、ヴァイオリンが印象的なアニメ系の楽曲は色々あるし(微妙に古い例ばかりで申し訳ないがこれとかこれとかこれとか)、どうカバーされるかは期待しておこうと思う。
これも「生暖かい目で見守る」ということになるか。
(254) TVアニメ「推しが武道館いってくれたら死ぬ」ノンクレジットオープニング - YouTube https://www.youtube.com/watch?time_continue=4&v=jLpT6aS8qqc&feature=emb_logo
いい曲というのがわからない。ネットに限らず、〇〇の「〇〇」は名曲だ!というのにピンとこないことが多い。
ところが、そういう名曲は多くの人が名曲というだけあって、あるとき不意に「あ、名曲だ」とわかる。
それが多数あるので、「〇〇なんて駄曲だよ」なんてことはいわずにいる。
今期はアニソンが不作だなと思っていた。みているアニメ自体もそんな多くはないが「いい曲だな」とおもう曲も少なかった。
「映像券には手を出すな」のchelmicoの「Easy Breezy」くらいかな。
(254) chelmico「Easy Breezy」【Official Music Video】 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=76sNmqMzUuI
そこで冒頭。つまり名曲だったということだね。「シャボン玉を~」の流れがとってもいいなあと。歌詞もいい。なおかつアレンジも地方のアイドル曲と思わせるちょっといなたさがあるようにみせかけてちがう。サブスクでフルを聞いたけど、フルは後半の盛り上がりがえげつない。
日本のフェミニズムが抱えている問題は複数あって、煎じ詰めれば「思想の善悪如何はともかく、その行動が全く効果的ではない」という一事に尽きる。
女性の地位向上。大いに結構。その、地位向上のためにある種攻撃的な手段を用いること、これまた結構。
しかし、攻撃的な手段を用いている割には、その効果が殆ど出ていないことに問題があるのである。
むしろ、結果的にそのような手段が、フェミニズムに対する周囲からの評価を下げてさえいるのが問題なのだ。
古来より女性は男性による抑圧を受けてきた。この事実を頭から否定することはできない。
例えば、近代イギリスの小説家サマセット・モームは、作品『月と六ペンス』の中でこう書いている。「女性は自分を殴る男性を好んでいる。むしろ、自分を殴ることのできない男性のことを見下しているのだ」と。
このような記述は、文脈的に言えば主人公のチャールズ・ストリックランドがタヒチを訪れた際に語られているものである。ここからは、モームがどのような立場で女性を一般化しようとしていたのかが読み取られ得る。
また、自然主義(人間の本質を虚飾なく描くことを目的とした主義思想)作家の大家である、近代フランスのエミール・ゾラが書いた『居酒屋』では、登場人物の男らが、まるで息をするように女性達を殴りつける描写が、散りばめられている。貧民層の現実を標榜した彼の作品においてもまた、女性に対する暴力が大いにクローズアップされている。
このように、国の内外を問わず、女性に対する男性からの暴力というものは散見される。流石に、このような状況は現代において相対的に改善されているものの、未だどこかしらに不満を残す女性がいることに不思議はない。その女性らが、自らの権利を向上するための運動を行ったとして、何の不思議があろうかとも思う。
問題は、それらの行動が評価を得にくいこと、あるいは、フェミニズムの評価を落としていることである。それらの行動の多くが、効果がないどころか逆効果であるという点である。
具体的に、何故そのような問題が発生しているのか?
以下に論点を纏めていく。
古代ギリシャの劇作家アリストファネスは、自身の著した喜劇『女の平和』にて、女性らのセックスストライキを描き出している。
女性達が、「そんなに戦争が好きなら、私達を抱かなくとも大丈夫なんだね?」
と、戦争反対のため断固セックスを拒否する痛快さ。このような鮮やかさは、現代人にさえ快い衝撃をもたらすものである。
女性の最大の魅力は何か? それは性である、とアリストファネスは言う。
このような言説は当時のギリシャ男性においてのみならず、近代のフェミニストらにも見られる。
女性が短いスカートを履くこと、自身の魅力を以て大いに社会に地位を占めること――その権利を回復せねばならないということ。それを目的として、20世紀のフェミニストらが声を張り上げていたことは言うに及ぶまい。
イランのごとき保守的な国家においては、女性が人前に出る際には目元を除き身体をベールで覆う必要がある。そのような規則が女性の利益を担保しているのか、損なっているのか、議論の難しい点には違いないが、現代においてはそのような保守的傾向の多くが拒否されている。女性らは、身体をベールで覆うことを一般的によしとしない。
女性が獲得した権利はそこに見られる。つまり、性の発露である。
性はそれまで女性の自由にはならなかった。構造主義の先駆者とされるレヴィ・ストロースは、「女性は男性らの所有物であり、婚姻という形で交換が行われた」という意味の主張を行っている。彼に対する当時のフェミニストらの批判は推して知るべしだが、女性の婚姻が父権的立場にある人間によって執り行われることは多く存在していた。そういう意味で、女性にとって婚姻も性も自由とは言い難かった時代が存在していたのである。
自身の性を管理し行使する権利が、婚姻の不自由によって制限されていた時代があったことは、間違いない。この文脈に沿って言うならば、間違いなく女性の権利は現代において拡張されたのである。
とは言え、問題はこの延長線上にある。
女性が自身の身体的魅力を大いに利用すること、それはアリストファネスの喜劇に見られるように、女性の自由を支えている。そこには、フェミニズムと密接に関係する女性の権利の実現が確認できる。
しかし、昨今、この身体的な魅力を大いに活用することは、「性的搾取」に繋がることが指摘されている。
相対的な性の解放が、性的搾取に繋がること、これは表裏一体の問題と言える。
当然、女性が社会進出をする上で、女性が自身の性を政治の手段として用いることには、危うさが秘められている。
そのような危うさをして、現代のフェミニストらは「性的搾取」の大号令を行う。
これらの分野における女性の露出が性的搾取の危険を秘めている、と現代のフェミニストらは声を揃える。そこには危険があり、権力の影がある、と。
女性がスキームとして用いる性が、危機的な結果に繋がっている。ここでどうするべきなのか?
政治家の大多数が男性であるこの社会において、支配者と被支配者の対照は、男性と女性という対照を想起させる。
男性は狡猾である――多くの女性の思う以上に――男性は狡猾である。男性は暴力を行使することができる。端的に言って、男性の筋力は女性に勝り、悪しき意志が備わりさえすれば、女性の尊厳を根本から損なうことを可能とする。恐らく、文明以前の原始時代においては、男性はこれらの暴力を非常に効果的に用いてきた。そこには、ある種暴力の弁証法とも呼ぶべき歴史があった。例えば、あるコミュニティとコミュニティが衝突する――。一方が敗北すれば、その敗者側のコミュニティに属していた女性は、勝者側に所有されることとなる。多くの場合、そこにおいて女性の尊厳が考慮されることはない。
昆虫や動物らに見られる、コミュニティとコミュニティの争いや、イスラム国による女学校の襲撃を思い出して頂ければ、上記の言説の正しさは容易に担保されると思う。
男性は狡猾であり、暴力性を有史以来、あるいは以前において大いに活用してきた。
勿論、現代においても男性による暴力が根絶されたわけではない――とはいえ、その状況は改善されている。暴力には法が対応する。無論、適切な対応が成されない場合は存在するが、少なくとも有史以前に比べれば状況は好転している。
その進歩の影には、恐らく全ての心ある女性と心ある男性の尽力があったことだろう(思うに、倫理を生み出すのは常に狂気じみた努力である)。
人類は持てる限りの理性を用い、公私において倫理を整備してきた。
我々は持てる限りの能力を用いてきた。そこに、女性の尽力が関わっているのは間違いあるまい。
それは、女性が何かを望む際に、その実現を助ける能力になり得る。例えば、意中の人と結ばれる際にその能力は大いに役立つ。
性的魅力は疑いなく女性の能力である。女性が自身の尊厳を担保し、増進させるために、その能力は用いられ得る。
しかし、その能力を女性自身らの尊厳の為に活かすことと――それと、男性(や女性)によって、その能力が利用されること――とは二律背反となっている。
近代において、女性の魅力や能力が、適切に用いられることをフェミニストは願ってきた。しかし、ここに来てその努力は一つの壁にぶち当たることとなる。
例えば、大きな胸を強調したポスター。女性の魅力が強調されてはいるが、不適切な方法で強調されているのではないか――そういう議論が起っている。
女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である、と人は言う。
この命題は決して間違っていない。「女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である」。決して、この命題は間違っていない。
とは言え、ここが言わばロドスである。
女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取となり得る。
勿論それはそうだ。とは言え、そこには議論の錯綜するポイントがある。
まず第一に言えるのは、女性の魅力の発露=性的搾取といった、シンプルかつ誤謬を招く等式が発生し得ることだ。
女性が何らかの能力を――この場合には性的魅力を――社会において発揮すること。その能力を発揮することにおいて、何らかの報酬を得ようとすること。それ自体は悪ではない。
自分の能力への対価として報酬を貰うことは、多くの場合善悪とは関係ない行為である。
例えば、女性の高く伸びやかな声、時に力強い声。歌手はそれを披露する。
例えば、ダンサーは時に挑発的に、曲線的なラインで身体を躍らせる。挑発的に、攻撃的に。
絵画において、裸婦は笑う。裸婦は草原に寝そべり、微笑んでいる。
これらは全て、(努力などによって獲得された)肉体的魅力を発揮する行為に他ならない。当然のことながら、これらの行為をして悪であると断ずることはできない筈だ。とは言え、それらの魅力や能力の発揮が、「搾取」に繋がると人は言うのである。つまり、その行為は翻って女性の地位を貶め、最終的には女性全体に対する不利益を導くものだ、と叫ぶのである。
例えば、女性歌手が楽曲を作り、歌う。彼女は、男性への恋心を叫ぶ歌謡曲を作り、歌う。その曲を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。
「媚び」はこの場合、不自然に女性の立場を貶める行為であり、最終的な女性の不利益を招く行為を指している。端的に、それは搾取の対象であると、誰かが指摘する。
例えば、写真家が女性の写真を撮る。彼女は、頬杖を付きながら、気だるげに微笑む。その写真を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。
例えば、
例えば、例えば、例えば――
女性が魅力を発露すること、それが搾取の対象になり得るということ――それは必ずしも同じではない。しかし、そこには矛盾がある。女性の尊厳を担保し、増進するために、魅力が用いられること。そのような魅力が搾取の対象とされてしまうこと。
女性が能力を発揮すれば、それは女性全体の利益を貶め得ると誰かが叫ぶ。
能力を発揮すれば、誰かがそれを利用し搾取すると、その誰かは叫ぶ。最終的には、女性全体の立場は貶められ不利益に帰着すると、その誰かは指摘する。
これが、フェミニズムがソフィスティケートされた結果なのである。それは、端的に矛盾である。
カメラに向かって微笑みかける誰かの存在を、「性的搾取」であるとし、それがゆくゆくは女性全体の利益を損なうと指摘する――。
このような言説には致命的な混乱が含まれていると言って差し支えないだろう。近代のフェミニズムによって獲得された、女性が自身の能力や魅力を自身の権限によって行使する自由は、ここにおいて壁にぶち当たっている。
能力を発揮することは搾取に繋がる。能力を発揮してはいけない。
このような論理は、一般的な男女を納得させるに足る論理であろうか?
勿論それは不可能である。フェミニズムは矛盾にぶち当たっている。
そして、その矛盾を解消し得る論理が未だに発見されていない現在――少なくとも、フェミニズムの論理が一般的な男女を――あるいは当事者であるフェミニスト自身らさえ――説得できる状況にない現在。思想としてのフェミニズムは大きな困難に直面していると言わざるを得ない。
結局、フェミニズムが直面している矛盾を、フェミニスト自身らが解決できていない状況において、その混乱を抑えられていないのが現状と言えよう。
その混乱のさなかでは、到底周囲の人々を納得させ得る行動など、示せるわけがないのである。
昨今のフェミニズム運動の空虚さ、反感のみを招く徒労さはそこに根を置いている。これまでに獲得してきたものと、これから獲得しようとするものとの間に生じる矛盾――その矛盾を解決することなくして、現代のフェミニズムは正しい舵取りを行うことなどできない。
結論としては以上となる。