はてなキーワード: 本質とは
https://anond.hatelabo.jp/20240619014605
本文)
キャンセルカルチャーの問題点は、「悪い・正しくない」と思う倫理が内発的なものではないことなんだろう。
どこかで知った聞きかじりの「教養」に発するものだから、キャンセルすることでなんとなく自分が「正しい側」にいることに内心満足してしまう。「正しい側」にいるというのは安全地帯なので、いくらでも無知な人を罵倒し、笑い飛ばせる。その教養は実際のところ、★のたくさんついたブコメかもしれない、その程度に知った教養でも安全地帯に入った感覚を得られる。
つまり、「いーけないんだいけないんだー、センセにいってやろ」のアレと大差ない。
その程度の教養と正義感で、MVを取り下げ、ミュージシャンを謝罪に追い込む社会なわけだね。
かつて、なだいなだが、ケシカラニズムといって、理性的な正義と感情的な正義を区別し、自分のことでもないくせに感情的な共感によって主語がでかくなるのが感情的な正義の特徴だとした。そのことで人々がプロパガンダに流されやすくなる、という趣旨のことをどこかで書いていたのを思い出す。
もうひとつ思い出したのは、2年くらい前、
のなかで、人権とかマルクス主義とか、外付けされた倫理は歯止めが効かず暴発する、ということを内田樹がいっていたこと。
コロンブスとナポレオンが他所に乗り込んでそこにいた猿を使役したり自分の文化を教え込んだりする描写になんとも思わんのかお前はw
というのがあるね。
正直、なんとも思わないね、というのが俺の感想だし、植民地主義への反省なんていっても、外付けの反省どまり。
俺の中では、このMVはたわいもなくみえている。そんな他愛のないものを批判したくなるほど自分のなかで植民地主義批判は内面化されていないわ。
そんなことをいうと、すぐにいろいろな知識を開陳して説教したくなるサヨクがぼうふらのようにわいてくるんだが。
むしろMVのなかで、不快に思ったのはそこではなくて、ナポレオンなどの人物たちが「Monkey Attack」というビデオを鑑賞するシーン。負傷していまにも死にゆくハチマキをした類人猿の兵士を抱きかかえる類人猿の兵士、その場面にビデオ鑑賞していた皆が涙する、という場面だが、このシーンは、旧日本軍の兵士を連想させられ、ビデオ鑑賞で感動ポルノを消費するという行動にはイラっとさせられた。
類人猿をベートーヴェンが指導したり、人力車にひかせたりというのには何とも思わなかったのに、このシーンだけは嫌な気分にさせられた。
そう、まさに「つまり解釈の余地があるんです。」という感じなんだな。モンキーアタックビデオへの不快感はあるものの、袋叩きにしてやり込めるほどのものではない。他愛もないMVだよ。
rna氏は、ネット上では一斉に右向け右で「文明的なコロンブスたちが野蛮な猿人たちに文明を伝え、教化し、啓蒙している」という構図が大勢を占めているようだが、そうは解釈できないと述べている。
Mrs. GREEN APPLE「コロンブス」MV 問題、マジわけわかんねぇ (追記あり) - rna fragments
もっとも俺も若い頃、20年くらい前までは、人権の歴史を教科書通りに学んで、それを教養として広めていけば、外付けされた倫理は共感を呼んで広まっていく、みたいに素朴に思っていた時期があった。
https://lady-joker.hatenadiary.jp/entry/2024/06/16/011301
みたいなことを素で思っていたというか、それこそ20年前のはてな草創期の「何とかidさんの日記」にはそういうのがあふれていた時代、、はてなにははてサと言われる人たちが多かったのだろう、そういう人ともつながった。
しかし、いつしか違和感を覚えるようになった。特に、歴史修正主義というドイツで使われた文脈の言葉を安易に日本の南京虐殺否定の文脈で使うことが一般的になり始めたころ、はてサという存在が疎ましくなっていった。
俺の違和感の正体は、結局のところ、歴史の文脈のなかで生まれた言葉には、その歴史に紐づいた反省があり、過去への抗いがあるはずなのに、いつしか「教養」として普遍化するなかで、その歴史の固有性が失われ、あたかもハンディな批判ツールになり下がることだった。
村上春樹が2009年、イスラエルの文学賞を受賞したとき、はてサは一斉に授賞式に出席しようとする村上を引き留めようとし、攻撃した。出席することは共犯を意味するとまで言った人もいた。そのとき、村上氏は自身への批判を受け、それらの情景を正論原理主義といった。パレスチナの人たちとの現実の接点をもたずに、パレスチナだ、ガザだ、人権だと漠然と騒いでいる、ごく普通のひとたち(私たち)の”寄り添い”は本当に軽いものだ。共犯という言葉も軽い。イスラエルに赴いて「高くて頑丈な壁と、それにぶつかって割れる卵の側では、私は常に卵の側に立つ」と現場で話をした村上春樹の言葉のほうがよっぽど覚悟が必要だ。それでも村上春樹を攻撃する様子をみて、俺はだんだん嫌気がさして、ブログからフェイドアウトしていった。
(追記2)なお歴史修正主義に関して、以下のブコメが目に留まった。
tick2tack ???/ 外付けの倫理の話なのに2行目で教養の話になってるのはなに。/ (歴史)修正主義という言葉は50年以上前からドイツ関係なく使われてる。
すまんが、ズレてるぞお前さん。こういうのってさ、ちょっとでもファクトチェックしてもらう手間を惜しまなければわかることなんだよ。ドイツで生まれた修正主義はその後、ソ連や中国などの共産主義社会で使われていった。イデオロギー的な対立が強い国では、ある視点や政策に「修正主義者」というレッテルを貼ることで、それを委縮させることを狙ったわけだ。
つまり信奉するイデオロギーから逸脱した奴を侮辱して叩く、こん棒として便利に使われるようになっていった、というのがお前さんのいう「50年以上前からドイツ関係なく使われてる」の実態だからな。それが90年代後半、新しい教科書問題以降、日本で使われ始め、00年代半ばには定着した、というのが俺の理解。完全にこん棒化した、っていうのが歴史修正主義の使われ方の変遷だ。「相手に対する敵意と侮蔑」そして「俺たちが正しい」以外なにも読み取れない用語になり果ててるわけ。そりゃwikipedia書き換え合戦になるわな。だから俺はこの用語が嫌いなんだよな。
(/追記2)
お前、そんなこともわからないのか、そんなことも知らないのか、といって得意げに歴史や知識を開陳する態度。
てめえだって大して現実味のないことに対して義憤を抱いてるにすぎないくせに、この尊大な態度。
サヨクに対する嫌悪感は、ここに尽きる。キャンセルカルチャーは、無力なサヨクが得意げに知識開陳して自己満足する場になってるんだよ。
言葉の軽さはどこからくるのか。ヒントになるのは、前述の内田樹の文章。
永井:それで言うと、私は本当に「人権」というものを外付けしたタイプだと思います。大学1、2年の頃、大学で平和学の授業を取ってたりしたのですが、そのときに、何が幸福なのか、他人が何を考えているのかなんてわからないと思ったんです。そして陳腐ですが、みんな正義も正しさも違うよねともやはり思いました。
じゃあ何を拠り所にしたらいいのだろうと考えた結果、「そうかそうか、人権というものがあるのか、みんな賛同してるし普遍性高いじゃん」となりました。普遍性が高いなら、「人権が著しく侵害されているのであれば、これは問題だ!」と堂々とみんなに言うことができる。そうして私は良くも悪くも人権というか権利しか見ない人になっていったわけですが、それは本当に「外付け」だったと思います。
「これは問題だ!」と深く自分のこととして考えもせずに簡単にいえてしまう、ここにこそ問題がある。
そういう義憤の正体って何だろう。
最近、朝日新聞の人生相談に回答した野沢直子に対して、それを朝日新聞記者のコメントともに、冷笑と受け取って批判している記事があった。
[B! 報道] 読者を小馬鹿にする記者の態度にビックリ…野沢直子(61)の「悩み相談」騒動に見る“朝日新聞の冷笑主義” | 文春オンライン
https://digital.asahi.com/articles/ASS5K30WGS5KUCVL02MM.html?ptoken=01J0FYBDAZQF5YH5MPNMCJH3QA
「不正義や理不尽な行動を伝える新聞報道を見るたび、怒りに燃えて困っています」とかいう50代の男性の相談。
私個人は、野沢直子の回答の感覚に近い(あ、俺はトランプ支持者じゃないけれどね)。現地に行ってみろと。行けば当事者意識を持てるから。
これは冷笑でもなんでもない。正直、野沢直子の回答を冷笑と捉える文春の批判のほうが今の時代の病を表現していると思った。
新聞で得た世界の出来事をいかに正義の言葉で嘆いても、その切実さは現場の人の感覚とは何も通じ合っていないかもしれない。
かつて、北アフリカのスーダンで、ダルフール紛争と呼ばれる、政府系の集団による虐殺が国際問題となったことがある。
日本のブロガーも反応し、かつてFinalvent氏がこの知名度の低いこの問題を何度も取り上げ、意識を高めようとするべく、記事をお書きになられていた。
最初は、自分の啓発もかねて弁当氏の言説に注目していたのだが、しかし、その後、私自身が北アフリカ地域に仕事上関与するようになってから、スーダン人とも仕事をしたし数多く知り合いになった。自分なりに関心をもって現地で情報を集めてみると、国際的に展開されているセーブ・ダルフール・キャンペーンは次第に異なる運動に映じるようになっていった。
それは当時のバシール大統領の断罪をはじめ、現地武装性組織の悪業を過剰に喧伝する国際NGO特にアメリカのNGOのキャンペーンのやり方に対する違和感だった。紛争の実態はもう終わっているにも関わらず紛争が継続しているかのような言説が多く、過剰かつ単純な演出によって集められた資金は、NGOの広告費に回っているという話まで聞いた。
正しい、とみんなに思い込まされていることでも、プロパガンダが功を奏しているだけかもしれないということだ。
弁当氏がその後、一貫してスーダンに注目していたかどうかは知らないが、やがて同氏の記事の傾向が変わり、国際問題にはほとんど言及されなくなっていった。
今、現在、スーダンの置かれている状況はというと、2023年に始まった国軍と準軍事組織「迅速支援部隊(RSF)」による内戦により、ダルフール紛争の比ではない、深刻な国内避難民が発生している。2023年末時点で国内避難民が905万2822人。これはスーダン人口の2割に相当。2003年の世界最悪レベルの人道危機と言われたダルフール紛争のときですら国内避難民は100~200万人というオーダーだったので、それをはるかにしのぐ難民が発生している今の状況がいかに危機的かがわかる。
しかし、俺は思う。当時、弁当氏のスーダン記事を読み、義憤を抱いた人の何割くらいが、現在進行形の危機を憂いているだろうかと。エジプトとトルコはスーダン国軍支援、アラブ首長国連邦はRSF支援、このように中東の中堅国らは、自分たちに好意的な顧客を武装させながらも、和平を口にする、いわば代理戦争の様相を呈している。
ただ、一方で、外付けの教養には意味がない、とは思わない。しかし、植民地主義の歴史を知るとか、外付けの倫理をいかに理解しているかという意味ではない。
普遍的な価値として、人権を外付け実装してきた日本人である自分自身がいかに受容してきたのか、それを踏まえて自分の生きる社会をどうしたいのかを知ること。
そのルールや規範の成り立ちといった背景をもう少し知る必要があると思っている。
表現の自由ひとつとってもそう。表現の自由って大切じゃないか?と少しでも思ったら、それを所与の普遍的価値だから、と思考停止しないでよくよく考えてもらいたい。
なぜアメリカの判事は歴史的な判決のなかで、空気が濁っているほうが社会は健全だといったのか。なぜフランスでは神を冒涜することが権利なのか。
なぜドイツではホロコーストの否定は表現の自由に当たらないのか。日本は公共の福祉の解釈としてそれらをどのように受容したのか。表現の自由が失われると何が恐ろしいのか、それはそれぞれの社会の文脈がある。少なくとも自分の社会ではそれは何なのか、それを知ること、それこそが教養というものだと思っているし、理性的な共感というものだと思う。
少なくとも俺が思うに、日本社会においては、冒頭のケシカラニズムが政府にとって都合よく操れる心情だろう。
表現の自由が失われることによって立ち現れる社会では、こういう感情的正義がますます膨れ上がるだろう。
表現の自由が失われることによって立ち現れる社会は、「これが正義だ!」とみせられるとすぐに無教養な人々を煽り立てることでき、簡単なプロパガンダで誘導することのできる、政府にとって都合の良い社会ということになろうかね。
MV叩いて知識開陳してマウントとってるサヨクもそれで満足ですかね。まあそういう奴はそういう時代がくれば、アカ狩りで共産党員と不倫していたことをネタに糾弾しているかもしれないし、体制寄りになってるかもしれないけどね。本格的な右派政党が台頭したらそいつらを味方につけるだろう。不謹慎厨の本質は正義の中身を大して気にしてないことだ。日本中が沖縄を踏みつけにしても気にしないが、よその国の自分とさして関わりのない先住民のことは気に掛けるふりができる。
世界中、世の中でいろいろと深刻で理不尽なことが起きているなか、そういう諸々には無関心で当事者意識もないくせに、「教養ある人」が突然ポリコレし始め、他愛もないMVの植民地主義的な傾向にかみついて、そうだそうだとみんなして一斉に同調した結果、MVの発表取り下げに至る、という構図は学級会のつるし上げそのものだ。
サヨクは知識マウントできて満足だし、日ごろのストレス発散になったことだろう。
朝日新聞に人生相談をした「不正義や理不尽な行動を伝える新聞報道を見るたび、怒りに燃えて困っています」という50代の男性も、MVをぼこぼこに叩いて満足するくちかもしれない。新聞を読んで中途半端なポリコレ意識をもてあましている、という輩に対する処方箋としては、野沢直子の回答はこれ以上ない的を射たものだと思った。
なんか現実世界を彷彿させるちいかわ受難要素部分ってのが本質なのはその通りだろうけど、いうほど、表層を流し読みしてたら読み解けないような深層の部分に配置なんて描かれ方をしているだろうか?
いまではさまざまな企業とコラボし、なんでもかんでもグッズ化されている。人気グッズは転売ヤーによって駆逐され、
オンラインストアに関しては注文したものは数ヶ月経っても届かないことがザラにある。殿様商売だ。
アニメも放送され、お台場や各ポップアップストアでイベントが開催され、子どもから大人まで、そして日本だけでなく海外でも人気だ。
もの凄い盛り上がりを見せ、日本の経済はちいかわによって動かされていると言っても過言ではないほど影響力を持っている。
だけど、僕が好きだったあのころの「ちいかわ」はもういなくなってしまった。
僕が好きだったのは、可愛いグッズとかアニメとか撮影イベントとかそんなものじゃない。その世界観だった。
ちいかわの世界は、僕らが生きているこの世の中の縮図だと思っている。
ちいかわの世界でも労働によってお金を稼ぐ。登場人物のほとんどは日雇い労働者だ。
日本にもこういった世界はいまだに存在している。山谷・西成・寿町など日本三大スラム街では見慣れた光景だ。
ちいかわちゃんたちは「草むしり」や「討伐といった仕事をすることで報酬をもらえる。特に討伐は危険な仕事で、大怪我をしたり、最悪「死」となり帰らぬこともある。
その労働で得たお金を使う先にはいつだって鎧さんたちがいる。鎧さんたちが、ちいかわの世界を牛耳っている支配者だ。
鎧さんが募集する仕事をこなし、そこで得た報酬を鎧さんが運営するお店で使う。まさに食うもの・食われるもの、僕らの世界そのものだ。
見た目はかわいいが、この世界の縮図そのものなのだ。それこそがちいかわの根底に眠る物語の面白さだ。
いまのファンのほとんどは、ストーリーはよくわからないけどかわいいからグッズを購入している人がほとんどだろう。
部屋に大量のグッズを並べて写真をアップしている人たちもよく見かける。表面だけを見て本質を見極められていない、薄っぺらなファンばかりだ。
よく中国人転売ヤーについて文句を言っている人がいるが、日本人もたいがいだ。
代理購入したり転載禁止の画像を転載してアップしていたりする。やってることは転売ヤーと変わらないだろう。
圧倒的にこの増田を支持するわ
それを守るために何が必要なのかわかってない奴らが多すぎる
差別はどこにでもある
だからマスコミはかつて悪名高い「放送禁止用語」なんてつくっておいて
その場その場の判断を放棄、脳みそ使わずに「厄介ごとを起こしそうな表現」を自分で葬ってきたわけだ
一回一回頭を使ってものを考えろ
それが自由を守るための最低限のやり方だろ
うおお……また凄まじいものを見せられている……
ゲーム本編でもつぶやいていた「焦土の夢を見た」がまた出ているが
どこからどこまでが夢なのか
おそらく冒頭から全部夢ってことはないだろう
焦土作戦が実行されたあと、目を覚ましたところからが夢なのか?
それとも死体だらけの焦土で目を覚ましたのは現実だが、その直前まで現実と相違ない夢を見ていたということなのか
夢で見た大樹に囁かれるシーンが現実とオーバーラップして心象風景として描かれているのか?
この作戦が夢ではないとして、現実としてホタルは生還しており、そして宇宙で星の破片にまぎれて漂流していたところをカフカが見つけたシーンも事実だとして
そうなると大樹はさておき、少なくともホタルは心象風景と同じように何らかの力の覚醒を経て、星を砕くほどの行為を実際にしていたということになる
もちろん目覚めシーンからは全部夢で爆撃の衝撃で単純に瓦礫ごと宇宙まで吹き飛ばされてただけという線もなくはないかもしれないが
やはり大樹由来っぽい緑の発光を伴って全裸で漂流していることから、装甲サムの能力を超えた何かが覚醒していると見た方が正しいだろう
もし大樹が夢ではないのだとしたら、あのような力は「豊穣」しか考えられない
大樹って呼び方は自分が言っているだけだが、一応ピノコニー編のクロックボーイ文脈で「大樹」といえばファミリーから来たゴフェル、「調和」や「調和」の中の「秩序」の象徴だったが
にょきにょき伸びて緑に光る意匠からして、星神と関連づけるなら「豊穣」が妥当だろう
ただ樹状の先端の黄色とか、蟲との戦いで星を燃やすとかは「壊滅」の関連も見いだせそうだが決定的なことは何もわからん
カフカに発見されたということは、あの蝗害に遭っていた岩石惑星は星核と関係があったのかもしれない
覚醒とともに「豊穣」から使令クラスの力を得て、さらに星核からも何らかの力を得るくらいでないと星を砕くのは無理だろう(ヨウおじは置いといて)
ホタルにとってサムが医療ポッドとして機能していたということはクローン兵士であるグラモスの鉄騎全員がロストエントロピー症候群を患っているということなのだろうか
ホタルの顔に入るヒビのような模様が関係ありそうだが、この緑色版の崩壊エネルギー侵食の発光のようなものは、ホタル以外の兵士にも現れているようだ
このアニメだと芽が大樹へと育つのと同時に涙の跡も樹状の侵食模様へ育っていく描写がある
一つ前の紀行PVでは、4人のパイロットがそれぞれ変身解除したあとの数秒光っているのに加え、旗をちぎる前後のシーンでもホタルとメガネの同僚になぜか発生している
このメカニズムも謎だけど何かと関係していそうで、生命力との関連を感じさせるのでもしかしたら鉄騎のテクノロジー自体、そもそも豊穣由来なのかもしれない
ロストエントロピーとは「物理構造が不可逆的な慢性解離に陥る」ことらしいので、生身の人間がまるで体格の異なるロボへと変異するメカニズムが、魔陰の身のように「物理構造を乖離」させることで成立している、それが豊穣だという具合に解釈可能
まあ意味不明な変形は虚数エネルギーに通じるあらゆる星神とその運命の行人が使えそうと言えなくもないが
一応遺物テキストにも「彼ら(鉄騎)の降臨は神の恩恵の如く」という一文があり、「人類の本質に手を加える」というのも生命を弄ぶ豊穣との関わりが疑われる部分だ
あと覚醒ホタルに砕かれた星の背後にもう一つ星があったのが気になるが何か意味があるかは分からない
もう一つ気になるのが、グラモスはもう存在しないのになぜクローン兵士はずっとグラモス軍規に従って活動を続けているのかということ
かつてグラモス共和国は架空の「グラモス帝国」の女皇「ティタニア」に盲従する洗脳済クローンを量産し鉄騎兵団とすることで星系で発生していた蝗害を鎮めたが
その強大な武力の扱いをめぐり内紛?が起きて滅びたと取れるような内容が遺物ストーリーにて明かされていた
この人間間の問題によって滅びたくだりが胡散臭いと個人的には思っている
クローン兵士は成長速度が一般人と異なり、寿命が極めて短いことはキャラクタープレビューで判明しているので、アニメの直後に星核ハンターに拾われたであろうことを考えると
あの作戦に集っていたサムたちはホタルと同世代で、ホタルが謎の力でよほど長い年月漂流していたのでない限り、それなりに最近の出来事だと思われる、つまり
グラモスの改造戦士技術(と付随する洗脳技術)は何者かによって収奪され、つい最近まで宇宙の蝗害対策として使い捨ての道具のように運用されていたのが真相のように思える
そうでもないと大勢の自軍兵士の巻き添えを厭わない爆撃作戦など実行されないだろう
協定採択の協定がなんなのかはわからないが、協定は一つの国だけで結べるものではない、怪しい
ホタルがどのようにして「グラモスはもう存在しない」ことを知ったのかは謎だが、「帝国が存在しない」ではなく「グラモスが存在しない」(=滅亡)ということで、最近の出来事説が濃厚になる
描写からも洗脳あるいは記憶操作状態にある様子が見て取れ、その洗脳が解けたのと同時に謎の力に覚醒してただ一人生還したというのがこのアニメの内容だろう
遺物テキストで「彼女(「ティタニア」)が織りなす夢」と言われているのがこの洗脳技術だと思われ、その嘘を初めて打ち破ったクローンがホタル、そう考えるとピノコニーでホタルが成した事とも重なる
もしかするとグラモスも、カンパニーの市場開拓部オスワルド・シュナイダーによって、意図的に内紛が起こされて滅び、技術を奪われたのかもしれない
ピノコニー編の主要人物、アベンチュリンとブートヒルもオスワルドによって故郷を滅ぼされているので、二度あることは三度ある予想をしたくなってしまう
ウソツキゴクオーくんが全話無料だと聞いたので初めて読んだのだがこの漫画めっちゃ面白いな。
読み進めていくうちに誰もがふと気づくのだが、この漫画の面白さはミステリー的な部分よりも駆け引き的な部分、嘘を嘘で暴く所にある。
この面白さはギャンブル漫画におけるイカサマvsイカサマ利用イカサマのようなものだ。
そこから更に思考を先に伸ばしていくと、どうもギャンブル漫画の面白さはお互いの嘘の中にこそあるように見える。
麻雀にしろポーカーにしろ決め手となるのはブラフや心理トリックであり、単に引きがいいか悪いかが物語の本質となることは少ない。
咲のような異能力バトルギャンブル漫画になると、自分の能力(哲学)と心中できるかどうかが試されるが、多くのギャンブル漫画で試されるのはハッタリを貫き通せる胆力だ。
嘘つき合戦は嘘を平然とつける奴こそ有利だが、嘘に対して哲学を持ってない奴の嘘は弱い。
ギャンブル漫画の主人公も多くが自分なりの嘘の哲学を持っている。
人を騙すやつを騙し返したい正義感、相手にプレッシャーをかけることを楽しむ悪意、騙される方が悪いという弱肉強食、それぞれの嘘にまつわる哲学が物語を回す支点となっている。
ギャンブル漫画において最もくだらない展開が、単なる強運で主人公が勝ってしまうことだ。
なぜつまらないのだろうか?
それは、そこに嘘偽りが一切ないからだ。
ただ引いて、ただ結果が出る。
嘘もなければ偽りもないということは、そこに人の意図さえもないということ。
「どうせ見つけられないだろうけど、【粘着アンチが言及するから全面否定できないような本にしたぞ】」
的なことを書きました。
ぼくに粘着している人が、縁も切ってるのに、なぜか言及してサムネイルだけたまたま見ちゃって(ブロックしてるけど、本のタイトル検索したらでてきちゃうからサムネだけ見たんだけど…)
「どうせ酷いこと書いてるんだろうなぁ」
「どうやっても論破しようとしたら、最低でも本20冊分の記事、思想・宗教・ビジネス書の全てに対応した内容を1つの記事に閉じ込めて批判することになるからどうせ重箱の隅をつついて書いたんだろうな。」
(20冊以上の文献を引用するには、あまりにも時間が足りなすぎるので、ほぼ100%重箱の隅か、話のすり替えです。サムネだけで全部わかります。彼の文章は機械的な親切さだけは高くて、機械みたいな文章が好きな人には人気ですからね。
ぼくみたいに文章に血が通ってるを通り越して、血潮が浮かび上がるどころか、血肉をぶっかけるタイプの文章にはないわかりやすさが好まれるのでしょう。彼は文章を配列だと思ってて、私は血液だと思ってるから、そこは最後まで理解できなかったみたいですけどね)
「だから君と縁を切ったんだよ。ぼくがどれだけ話そうと、君は君の物差しでしかモノを測らないどころか、理屈自体に本質がなくて、結局感情(というにはあまりにも子どもっぽすぎる個人的な本音)ありきだから、君と話すのをやめたんだよ」
といいたくなる内容なんだと察しました。
その2日後かな?☆1.0の完全に筋違いのアンチレビューまでつきました。
(彼本人か、関係者かはこの際どうでもいいけど、状況的にまず「アイツだろうな」と私が思うような時系列だよね?あなたほど長くブログをやってる人間が、「この事態を想定できなかった」とは言わせないので、私の中では「そんなんだから、あなたのことを俺は影で根尾昂って呼んでるんだ。カタログスペックだけは一級品だけど、高いレベルの勝負で実績を残すものがない人という意味でそう呼んでるんだ…エリート止まりという意味でね。」)
10年粘着したと思ったら、女使って連れ戻しに来たと思ったら、新しくチャレンジした書籍にもイヤミたらたら…。
それだけ経歴も資産も立派な人間で、「ぼくが欲しいもの・やりたいことの9割はあなたがやってるか持ってる」とさえうらやんでいた時期があるほどの人物の、そんな姿を見ることになったのはとても悲しいよ。
つまり、ぼくが本を書く前に考えていた「最強」に限りなく近いのはあなただったんだよ…。
そんなあなた、10年もネットで一個人に粘着するドリームブレイカーに成り下がっているところを見たくなかったし気づきたくなかったよ。
おかげさまで、「あなたが持ってなかった1割を持ってる友達」のことを大事にできる人生に変わったけどね。
機械的で血が通ってなくても、機械並の性能で自分自身の子どもっぽさをカバーすることはできても…所詮は、「秀才」なのよ。
あなた、自分のこと「邪悪」とか言ってたけど…私に言わせれば、「かわいてるだけ」だよ。
あなたの乾きは一生満たされない。いや、満たされることを怖がってるから、何に対しても斜に構えたようなことを言ってしまうんだろうね。
ぼくは本の終盤パートを本を一緒に作ってきた友人とシェアした時に「満たされるとはどういうことか」がわかったから、満たされることを恐れない。
なんなら、1日1日小さく不満はあっても、いつも満たされてながら寝てる。
私は本をヒットさせたいのは「満たされてるという感覚をわかちあいたい」からだよ。
答えは全部キミの出身地に答えがあったのに…ここを見つけられないところが「秀才」止まりなんだよ。
キミの人生が良くなるヒントも本の中にたくさん仕込んだのに、キミのレビューのサムネイルで
「キミはキミのままでいることを選んだんだね」
「キミの乾き続けることでしか、生を実感できないんだね」
といろいろ諦めました。
だって、俺のことはバレてもいいけど、彼のことや女のことがバレたら…彼らかわいそうじゃん?
「科学を振りかざすな!」「性差や遺伝差は存在しない!ジェンダーガー!」「AIはポルノ製造機!人権侵害!人間の尊厳を奪う!世界ではAIを規制してるが日本だけは〜」
アメリカネトウヨやQさんサイドをバカにしてるが、イデオロギーが違うだけで根本的部分は変わんないんだよな。ポルノを否定するとこもそっくり。
秋葉原ルポ、オタクがいなくなっているのはなぜ? アニメ・漫画の聖地で起きている変化の内容|Real Sound|リアルサウンド ブック
言っちゃ何だが「せいせいした」って感じ。
まだまだいるけどなオタク。
「悪い客種」筆頭だからな。女子の方が若干マシだが、本質は変わらん。
文化亢進の町みたいに思われてるけどな、ただの「商店の町」だぞ。金払いの悪い、すぐに理屈をつけて金を落とすの止める、一方でハマったものには際限なく金を落とし意地汚い。
こんな「悪い客種」の趣味界隈聞いたことがない。オーディオにせよ釣りにせよ車にせよ「金に糸目はつけない」っていうマウント経済が生きている分、全然健全だ。
一品一品の単価が低い割には種類が多すぎて、普通のマウント経済が成立しない以上、客種は悪化する一方なんだよ。
あと「他に金かけない」ってのも酷い。品位が悪い。その分女子の方がマシ。つーか生活に必要な服や靴や鞄「にも」金をかけるのが、他の趣味なんだよ。
その割にはスポーツ選手トレカのような投機的にもならんし。マジでなんなの。
物作って売ってねぇ上、単に買うだけなのに、なんでそんなに「自立」してる振りしてるの?社会に適合出来てないんですけど。
まだクラフトの方が趣味としてマシ。ギリギリ同人誌制作。制作厨の方が買ってるだけのオマエラ、ネット泥棒のオマエラより遥かにマシだぞ。
群と言えば対称性みたいなの、ほんとやめるべき
ほんとそれ。
物理学科で「群とは対称性です!」という言い方で講義されたけど全然意味わからんかったわ。
ベクトル場とかテンソル場に対して「座標変換に対する変換性の違いが」とか言うのも同様。
ベクトルとかテンソルは座標系に関係なく存在するもんであって、変換性が問題になるのは適当な基底で表示した場合だけ。
「座標系に関係ない」ということが多様体(当然Lie群も多様体)の本質なんだからそこを外すのは流石にダメだろって思う。
群だって対称性とは関係なく存在していて、何か別のオブジェクトに対する群作用を考えたときに初めて対称性の話が出てくるだけなのにな。
Lie群に付随する等質空間は(よく知らんが)本質的な構造であって、それを対称性と言うんだろうけど、物理で言う「対称性」とはちょっと違うと思う。
子曰く、「激水の疾(はや)くに漂石なし。激水は勢いが激しいが、流れに乗せられれば、それに従うしかない。」と。
増田、貴殿の問いに答えるために、兵法の教えを借りれば、一つの流れがいかに強烈であるかを理解するのが肝要です。
恒心教のようなネットコミュニティにおいても、強烈な集団の流れに身を置くことで、その勢いに影響される者が多いのです。
彼らが感じる承認欲求の満たされ方は、その集団の流れに強く影響されています。
個人が持つ微弱な自己肯定感が、その集団の中で強化され、承認欲求が満たされたと錯覚することが往々にしてあります。
また、増田が述べたように、ヤンキーの悪乗りやオタクが集団で騒ぐのと何ら変わりはありません。
違いがあるとすれば、それは関与の形態やメディアの違いに過ぎません。
共通して言えるのは、どちらの形態も「集団の勢い」によって個人が動かされる点です。
かの孫子も「勢篇」において、「衆を以て敵を撃つは、鼓鑰の利なり」と述べております。
すなわち、個人の意思が集団に飲み込まれ、勢いに乗せられることで、自己の承認欲求が一時的に強化されるのです。
で、それは増田が他人に負担を強いている結果だということに無自覚、ということも一貫しているが、
俺は学生時代からずっと楽器をやってて、社会人になっても惰性で続けていた。
楽器は、単音楽器だ。だからひとりでやっても音楽として完結しにくいしあんまり面白くない。だから、いつも何かしらのバンドに所属していた。
バンドといっても、ロックバンドのような4ピースバンドとかそんな感じの規模感のものではない。
ビッグバンドとかスカバンドとか吹奏楽とかオーケストラとかそう言うイメージ。
俺は社会人になってから、いつも平メンバーとしてどこかしらのバンドに所属し、たまに雑務をやることもあったが、大体はただプレイヤーとして参加していた。
地方のこの界隈では俺は割とプレイングスキルがある方で、プレイヤーとして重宝されがちだった。
その一方で俺はめちゃくちゃコミュ障で、活動後の飲み会とかはあんまり参加しないor参加してもすみっこで延々と生ビールを舐めてるだけだった。
ただ、活動の時は割と大人数の中でも目立つくらいに「上手い側」の人間だったからか、そんな感じでも声をかけてくれる人がいたり慕ってくれる人がいたりした。
楽器自体はもちろんアクティビティとして好きだったが、それ以上に対人スキルがなくても人と接するツールとして重要だった。仕事が忙しくてなかなか時間が取れないとき、辞めようと思うこともあったが、そのことを思うと辞められなかった。半ば惰性になっても、続けていた。
20代も後半に差し掛かった頃、ネットで新たにバンドメンバーの募集があった。
そのバンドはこれから新規で立ち上げるバンドだそうで、設立メンバーを募集していた。
そして、そのバンドがやるジャンルが、俺がずっとやってみたかったジャンルだった。
おもえば、長い年月ですっかり忘れていたけど、これがやりたくて、この楽器を手に取ったんだった。そんなジャンルだった。
俺は今までになく熱量を持って応募した。
ジャンルが珍しかったためか、楽器経験はあるがバンド経験がないという人は多かった。このバンドの発起人自身もそう言う人で、とても驚いた。大人になってから楽器を始めた初心者もいた。
楽器経験も長く、バンドもいくらか経験があった俺は、右も左も分からないその烏合の衆に頼られて、俺は初めて「運営側」となってバンドに参加することになった。
運営側って大変だった。
これまで平メンバーとして参加していたバンドで、何となく知ったことや、耳に入ってきたこと、実際自分がやってきたこと、それらの知識を総動員して運営して行った。
まずは実務の部分。最初に会計の整備、予算をざっくり出して会費などが決まったら、名簿や規約の整備、活動会場の選定や手配、地域の施設を利用するための組織登録、連盟(社会人サークルの互助会のようなもん)への登録申請。
ある程度軌道に乗ったら、広報活動。SNSやWebサイト、チラシなどの運用。メンバーはまだまだ足りなかったので、かき集めなければならなかった。募集要項のとりきめ。
演奏が様になってきたら、次は披露する場を設けたい。公民館はその手のイベントを各週末にやるために奔走してる場合が多いので売り込み。他にも自主開催のために箱を手配。また会計、広報、そして楽曲の利用許可申請。
珍しいジャンルのバンドだったためか、ズブの素人から俺のように経験が長いのもいたし、セミプロみたいなのも入ってきて、メンバーはカオス状態だった。
俺はプレイングの面でもメンバーを引っ張って行かなければならなかった。
まず、ガンガン高難度の楽曲に挑戦したい人、易しい楽曲を楽しく演奏したい人、それらの要望をなるべく公約数化してセットリストを作成。もちろん著作権などの権利的に可能な範囲におさめなければならない。
そして、できるひと、できないひと、その人の得意なこと、苦手なこと、把握して、アンサンブルの整理と調整。
俺が今まで1プレイヤーとして肌感覚でやってきたことを言語化したり、音楽理論として頭に入っていることをわかりやすく噛み砕くなどして、わからない人にも伝える。そして、俺よりウエの腕っぷしの人からは、吸収したり、教えてもらったり。
メンバーたちの不満の聞き取り。あの曲は難しすぎて苦痛とか、今回のセットリストは好きな曲が少なくてしんどいとか、あの人の演奏は不快だとか、あの人が臭くてとなりで演奏するのが苦痛とか。
要望の聞き取りもした。こんな音楽や楽曲やってみたいと言う話から、合宿をしたい、BBQをしたい、とかそんなことも。
運営は大変だった。
俺には向いてないな、なんて思うこともいっぱいあった。
でも、ここでは俺がやりたかった音楽ジャンルができる。ずっとやりたかった音楽ができる。そのためなら、円滑に運営を転がすために、そしてできる限り良い演奏をするために、できることはなんでもやった。
色々やっていく中で、俺は成長した。
俺はいままで、「趣味は音楽」と言ってきたが、そうで無かったことに気づいた。俺が今までやってきたのはアクティビティとしての楽器に過ぎなかった。
生まれも育ちも暮らしも楽器経験も年齢も性別も違うまわりの人たちと一緒に、できるだけ「みんなが」納得できる演奏をするために必要な調和。その結果出力される演奏が、音楽だった。と、個人的な感想を得た。
これは、
ぶつかることは多いし、納得ではなく妥協を求めることも求められることもあるし、
アクティビティとしての楽器演奏より、だいぶ不快で、難解で、不合理で、不条理で、とても楽しかった。
次に、対人コミュニケーション能力の向上。
立場上、大きなものから些細なものまでメンバー同士のトラブルに第三者として接する機会が多かった。
コミュ障でもできる相手vs自分のとりあえず共感だけしておけばそれなりに円滑に進む(し円滑にならなかったら切れば良い)人間関係とは違って、
生々しい本音と建前と解決課題がある他人vs他人の関係に目をくばせ時にバンドのために(と言う立場で)口を挟まねばならない状況で、人の心の機微というか、人間の本質のようなものをたくさんインプットした。
このインプットによって、アウトプット=俺の対人技術も、それなりに向上したように思う。
ところで俺は社会人になってずっと、一日VSコードを触るタイプの仕事をしていた。言われたことを淡々とこなすだけと言って差し支えない仕事をしていた。
30にも差し掛かると、同じ会社に居座るにしても転職するにしても、ディレクション側というか、マネジメント側というか、そういう立場への進化を求められる気配がする。
ずっと「無理だなー嫌だなー俺には向いてないしなーでも一生ドカタの最前線(というほど先進企業でもないが)で新しい技術や言語を身につけていかなければならないのもつらい」と思いながらグダグダとitドカタをやっていた。
しかし、昨年、この「趣味」の経験から、「なんかいけそうじゃね?」と思えて、一歩踏み出すことができた。
ほかにも、このバンドで恋人もできた。今までの俺の、卑屈で根暗で斜に構えた人生では望むべくもないような、
強く優しく気立てが良く、心の底を打ち明けられる素敵な恋人ができた。
思えば、俺は趣味自体はずっともっていたわけだが、このように「自分が本当にやりたい音楽ジャンル」に触れた瞬間、人生がこのように切り開いた。趣味も突き詰めれば自分の人生の糧となる。
趣味は素晴らしいよ。はてなのみんなも、斜めや上から構えたはてな特有のセンテンスで集めたスターも確かに人生の素晴らしい糧ではあるが、
外に出て人と接する趣味もまた良い。
私はそれが異常者だからだって決めることが1番その本質を見誤る要因になりうるのではと思う。
私たちは誰でもその異常者になりうるのだって思うことが、防犯やそういう追い詰められる状況を作ることをその手前で止めるための心掛けになるのではって思うけどな…
みんな最初はどう見ても普通に見えるからこそ気づかれにくいわけじゃん?
最初からあからさまにおかしかったらもうちょっと違った処置が早めに施されたんじゃないだろうか。
あとまあこれはジェンダーバイアスや母親信仰といった問題も多少はあるのかもだけど、それよりかは事件のわかりやすさみたいなのはあるかも。
母親になって泣き止まない子供を相手にしてると、こういう事件みたいなことまではいかなくても似たような、あるいは過失で子供を死なせてしまう悪夢にうなされる人は、母親は特に少なくはないんじゃないかと思う。
だから実際にそんなこと実行する人はほとんどいないんだけど他人事とは思えないってなるんだと思う。
でも追い詰められて赤の他人に対して大量殺人を行うっていうのはちょっと普通の人には想像しにくいと思うんだけどどうだろうか。
殊に女性や母親ゆえに許されているっていうこととはちょっと違うと思う。
もちろんそういう想像しにくいことにも思いを馳せてみることも大事なことだと思う。
増田氏はあの母親を理解できないから恐れ、共感する母親たちや世間がみんな異常者に見えて恐れ憤りを感じているのではないだろうか。
まあ同情する側も本当に理解しているのか?っていうとそれぞれ自分の体験に照らし合わせて勝手に解釈してるだけで、真相は全く違う可能性もあると思うけど。
いろんな人がいていいと思うし、当然あれを問答無用で許すなって叫ぶ人がいなくなるのはそれはそれで危ない社会なので、そういう人がいるのは正常なことだと思う。
同情してる人たちもただ同情してるだけで、許してるわけでは決してないと思うけど…そういう人もいるのかな?ならそれはちょっと違うと思う。
あるいはもしかしてここから何か全く事態が逆転する情報が出てこないとも限らない。
増田はそういう違和感を今の時点で敏感に嗅ぎ取った人であるのかもしれないとも思う。
生成AIの話題を見ていると「生成AIと人間の学習は同じ!」という話を見かける。
同じ、といっても「人間も模写をする」や「他人から学習をする」という理論が主。
聞くに生成AIは58億の画像を学習して成り立っているらしい。
58億、とんでもない数字なわけだが、生成AIの機械学習が本当に ”人間と同じ学習” ならば
あそこまでの画力を出すのに58億。些か ”学習下手” だなと言わざるを得ないと思う。
自分は趣味で絵を描いている人間だが人生の中でいくら絵を見続けていたとして、見た絵は50万も行くかもわからない。
その中で更に ”学習” する為に使う資料となれば5万以下にまで減る。
正直、人間が絵が上手くなる為に必要なのは ”他人の絵(資料)そのもの” ではなく ”理解力” だ。
当たり前の話すぎる。
絵が上手くなりたいならデッサンしろって言われたことはないか?
物の本質、構造を理解し、それを絵で表現する力を身に付けるためにやれと言われる。
人間は5万も要らずに多くを理解できるのに対して、生成AIは58億を以ってもまだ理解できない部分があると来た。
これを学習下手と言わずになんと言うのか。生成AIと近未来的な名前をしている割には低機能だなと思ってしまう。
いい加減本題に入ろう。
答えは否だろう。
理由は先に簡単に答えたが生成AIというものに ”物の構造を理解する能力” はない。
私はAI技術というものに詳しい訳ではないが、断言しよう。 ”物の構造を理解する能力” はない。
人間の学習というものはそもそも学習内容を正しく理解し自分の知識として蓄えそれを正しく活かせて初めて ”学習出来ている” といえるものだ。
テストの内容を丸暗記して100点を取ったとしても、それを正しく知識として身に付けていないのならばその学習に意味はない。
よく居るだろう、勉強が出来るだけの馬鹿が。テストでいい点を取っていたのに今はしょうもない平社員なんかやってる人間が。
結局そいう人間というのは正しく活かす為の知恵がなかったというだけの話。
生成AIは過去問全部引っ張り出して暗記して80点を取って「出来た!」と言っているだけに過ぎない。
要はただの数に物を言わせたパワープレイだ。
そこに知恵なんかない。
反AIと呼ばれる人々が生成AIを「コピペ」や「コラージュ」と言うのはこういう面にあると思う。知らんが。
要は他人の技術を、意味や本質学び活用し発展させるのではなく、他人の技術をそのまま切って張っただけ。
その範疇をでないから新しいものは生まれずありきたりなものになり、絵柄を陳腐化させる。
こう見るとコラージュよりも出来が悪いな。
そうではない、と言うならば。
上げればキリがない程に破綻が多い。
そしてその破綻をなくす為にはプロンプトだとかいう呪文とやらの駆使が必要になる。
そこまでやって、やっと手描きと見間違う程のものが出来る。
著作権がどうとかAI技術がどうとか、そういう側面のことは詳しくないので語らないがこれだけは確かだと自信を持って言える。
物の構造や、物事の本質、絵を描く事における技術的知識も何もなく
何一つ活用すら出来ない程度のものが、人間の学習と同じな訳がないだろ。
そもそも「学ぶ」ということをなんだと思ってんだ。
ちなみに私はこの話に於いて「著作権がどうの」 「二次創作がどうの」などという面倒な話はしていない。
だというのにも関わらず「人間が少量で理解できるものを」 「何十億と消費できる機械が理解できていない」という客観的事実を無視して
「人間と機械の学習は同じ」という理論が展開されているのはおかしいだろ、という話をしている。
結局が人間関係の遊びなので、最初に1本動画を見て面白いかどうか判断するとはなりにくいと思うわ。
まず、好きなゲームがあって
そのシリーズが終わって、引き続き見るかどうか。ここで一つハードルがあって、大抵は脱落。だけど続きもだらだら見るなら、継続しているうちにそれが「推し」になっていく。
話が面白いとか、人格が面白いとか、理由は後付けするんだけど、それが本質ではないんだよな。
中田敦彦のYoutube大学というYoutubeチャンネルが叩かれている。
まず結論を言うと、おれはこのYoutubeチャンネルは消えてほしいと思っているし、 もはや中田敦彦には自殺なり事故なりで死んでいただきたいなと思っている。 こいつが、おれがこの社会をおれのような人間にとって生きにくくしてる元凶だと思うからだ。 こいつは、適合人間の権化だ。害悪である。
中田敦彦のYoutubeの大学について、おれはもともと良いと思っていなかった。
誤っていることが多いからだ。 また、文学を紹介する時にも、著者に対するリスペクトが欠けているなと感じることがあった。
ということでおれは無視していた のだが、中東史のビデオが、それに詳しい人に酷評され、そこから中田敦彦批判が広まっていった。
おれも、彼の新選組のビデオは登場人物の名前はじめあまりに誤りが多く、 おれ自身は以前に話したとおり、麻布学園の自由論文テーマで土方歳三を選ぶほど新選組のことが好きであり、 本来ならば、中田敦彦のような著名人に新選組を広く紹介してもらうことは本意であるべきなのだが、 そのビデオを見た瞬間にチャンネルも登録解除したし、レコメンドも停止した。 気づけば、ディスプレイの中にいる中田敦彦に対して中指を突き立てていた。
それ以外のビデオに関しても、見る人が見れば誤ってるとわかるものが多いようなので、 彼のビデオは結構いい加減ということは言えると思う。
おれが中田敦彦のように、 お金を稼ぐためならば、多くの人に見てもらうためならば何をしてもよいと 考える人間が嫌いだ。
また、それに対して群がる人間も嫌いだ。
ツイッターなどで、何も面白くない、知能指数3くらいの白痴ツイートが 1000Likeを得ていたりすることがあるが、 こういうものにLikeするやつは全員ガス室に送るべきだと考えているし、 当然、ツイートした本人も死刑になるべきだと考えている。
なぜか。
それが、適合するということだからだ。
適合人間にとって真実はどうでもよい。 多くの人が正しいと信じていることであれば、それは正しいということになる。 間違っていることであっても、みんなが正しいと思っているから正しいという人間がこの世には結構いる。
中田敦彦にとって正しさの優先度は低い
中田敦彦にとって、ビデオが正しいことを言ってようが何であろうと関係ないのだ。 ただ小説や歴史をてきとうにおもしろおかしく紹介出来て、それによって自分のチャンネルが肥大して、 多くの視聴数が得られ、高額な報酬が得られればそれが正しいことなのだ。
Youtuberは多くの場合、虚業である。 彼らが提供しているのはエンターテイメントであり、 現代の価値基準でいうと、本来なくても良いものだからだ。
しかし、百歩譲って単なるエンターテイメントであれば問題がない。 それどころかおれは、人間が経済的に豊かになった時代においては、人の心を豊かにする エンターテイメントこそが必要なものになると考えている。
では、中田敦彦のYoutube大学はエンターテイメントなのか? 彼はそのつもりかも知れない。 しかし、見ている人間からするとそうではないのだ。 不愉快に思うこともある。
もちろん、不愉快に思う人がいるからやめろというつもりはない。 なぜならばそれはまさに適合サイドの論理だからだ。 全員が不愉快に思っても、正しいことならばやればよい。
しかし、これを「大学」と名乗るのはやめろ。 大学と銘打つのであれば、提供する内容に専門家のレビューを通すのを最善とした何らかの検査をしろ。 正しいことを伝える最低限の努力はしろ。さもなくば、「大学」と名乗るのはやめろ。
なぜ彼が、正しくないことを言ってるにも関わらずそれを大学を呼んでしまうかというと、 そういうものを大学と呼ぶことに罪悪感がないからに他ならない。 なぜかというと、彼にとって大学ないしは学問というのがその程度のものだからだ。
これは恥ずかしいことだと思っていただきたい。 まともに教育を受けた人間で、中田敦彦のYoutube大学を真剣に見てる人は 誰一人いないと断言出来る。 メンタリストDaiGoなんかも似たようなものだ。
中田敦彦がこのチャンネルを「大学」と呼ぶ背景には、 彼が本当に知識を多くの人に届けていることに正義を感じているかというのもあるだろう。
学校でいじめられて引きこもってしまった子などが、自分のビデオを見て学ぶことに喜びを感じているのかも知れない。 経済的に大学にいけない人に学ぶチャンスを与えたいとか思ってる可能性もある。 というか誓ってもいいが、きっとそういうことを言うのだ。なぜならばそれが適合人間だからだ。
しかしおれはそうは思わない。
歴史上の人物について何かしらの真実を捻じ曲げたりすることは、 生きている人間にとって嘘の情報を流してその人間の社会的地位を貶めることとなんら変わりない。
なぜならば、第一にその人の子孫は今の世の中に存在しているからだ。 これは、不愉快に思う人がいるから正しくないと言ってるのとは違う。 単に、犯罪行為をやめろと言ってるに過ぎない。 しかも悪いことに、登録者は100万人を超え、何万何十万というオーダー の人間に見られてしまっているのだ。
また、歴史というのは生きている人間の共通認識でもあり誇り・財産でもある。 これらを穢すことは当然許されない。 歴史は、空気中に浮かんでいる何かではないのだ。
おれは、中東の歴史については詳しくないので上で挙げたツイートについて それが真実かどうか判断する目を持たないが、 もし真実でないとして、それを中東の人が見たらどう思うのだろうか?
理由その2は、一度誤った知識を身に着けてしまうと、 それをあとで修正することが難しくなるからだ。
小学生中学生の子供が、中田敦彦のYoutube大学を見て 何かを学んだ(?)とする。 そしてのちに学校で同じテーマについて正しい知識を学ぼうとした時に、 正しい知識の方が定着しない可能性がある。
理由は、
1.動画で学ぶことは、退屈な教科書で学ぶことより記憶に定着しやすいから
3.多くの人が見ている動画だから正しいと思い込んでしまうから(適合人間の悲しさ)
「人間だから間違うこともある」というのが適合人間の論理だ。 しかも間違うことを許さないと社会が進んでいかないとか言い出したりもする。 というか中田敦彦はきっとそう言うはずだ。
しかしすでに述べたように、 間違ってると思うのであれば、それを大学と銘打って垂れ流すのはやめろというのが一点だが、 その間違いが単にケアレスミスとかそういうレベルではなく 「そもそも正しいことを広める気がない」という点を問題視していることから 自分に対する批判が始まっていることを認識していただきたい。
ここに、「ニンゲンが風邪をひいたら、休め」という規範を示す。
本稿は、右規範に対して懐疑的なニンゲンを説得するために執筆されたものである。具体的には、下記のニンゲンが本稿のターゲット層である。心当たりのある者は、ぜひ熟読せよ。
風邪をひいたら休めという規範は、①パターナリズムと②蔓延防止という二つの論拠から成る。風邪の治癒に専念することで、①疫病が悪化する可能性が低くなり、結果として本人のためになる。そして、②伝染病の蔓延を防止することができる。
ところが、しばしば右規範は破られる。風邪をひいても会社や学校へ行くニンゲンと、これを良しとする第三者が後を絶たない。なんとも嘆かわしい。かかる者は如何にして規範を逸脱するのだろうか。
私は、その理由につき、当該ニンゲンが①パターナリズムのみを重視してしまった結果であると考える。彼らは、「風邪をひいたら休まなくてはならない」という規範の趣旨を、もっぱら「私が大変な思いをするからだ」と捉えてしまう。よって、「私は病状悪化という結果を許容しているから、右規範の趣旨(本人のために休むべき)が及ばない。ゆえに休まなくてもよい」と結論づけてしまうのである。
しかし、かかる見解は妥当ではない。パターナリズムはむろん重要であるが、②蔓延防止の意義を殊更に強調しなくてはならない。
以下、敷衍する。
★「人を傷つけてはならない」という規範
なぜ、風邪をひいた場合に、②蔓延防止のために休む必要があるのか。
まず、「人を傷つけてはならない」という規範は、ハンムラビ法典でも傷害行為が禁止されているように、紀元前時代からの常識である。これは、現代社会においても、傷害罪(刑法204条)が国民に構成要件として配布していることからも明らかである。
そして、風邪をひいた状態で外出をして、特に会社や学校等の多数人が集まる室内で過ごせば、自らの病を伝染させることにより、他者の生理的機能に障害(傷害)を与えることで、人を傷つける蓋然性が具体的明らかに予見される。
したがって、風邪にもかかわらず、休まなかったことで、「人を傷つけてはならない」という規範を乗り越えてしまうことになる。
よって、他者を傷つけないために、風邪をひいた人間は休養することで蔓延防止に努めるべきなのである。
そうであるとしても、いかなる場合にも「風邪をひいたら、休め」という規範を適用するのは妥当ではない。風邪の自覚症状が無い場合や、どうしても外せない急用がある場合もあるだろう。いかに判断するべきか。
まず、自らの病状につき善意(無知)である場合について、いかに解するべきか。
故意責任の本質は、反規範的人格態度に対する道義的非難である。
すなわち、自分が風邪であり、もしかしたら他人に伝染させてしまうかもしれないという点につき、認識・認容していれば、「他人を傷つけてはならない」という規範に対しての反対動機を形成しているものといえる。しかるに、敢えてこれを逸脱したのだから、かかる行為は道義的非難に値する。
よって、自分が風邪であると認知していたのであれば、休養に努めるべきであるのが原則である。
逆に、自分が風邪であると知らなかったのであれば、そもそも「休むべきである」という規範に直面しておらず、反対動機を形成できないため、道義的非難に値しない。実際に、潜伏期間が存在するウイルスは多いことからも、このような結論が妥当である。
以上より、自らの病状につき善意(無知)である場合には、休まなくてもやむを得ないものといえる。
なお、ここでいう「体調不良」とは、月経・片頭痛・食中毒などの伝染病以外で身体異常をきたしている場合を指す。
この点、蔓延防止以前に、そもそもパターナリズムの観点からは、風邪か体調不良か判断できない場合にも休養した方が良いといえる。ゆえに、原則として外出するべきではない。
しかし、単なる体調不良であれば、他者の生命・身体を侵害することはない。よって、自身が体調悪化につき許容しているのであれば、単なる自由意思の範疇にあるといえるから、これを非難される筋合いは薄い。
したがって、伝染病であるという相当の蓋然性がある場合には、「風邪をひいたら休むべきである」という規範に服するべきである。右判断にあたっては、当人の体温、病状、体質、病歴、自覚症状、過去の行動等を総合勘案して判断する。
・平熱と比して体温が高い
・前日に気怠さがあった
・雨にうたれた
・知人が熱を出した
・病状が軽微である
たとえば、体温が37.5℃以上であり、前日から続く気怠さ・咳があるものの、月経による体調不良かもしれないといった場合を想定してみよう。この場合、たしかに月経という事情は伝染病のおそれを低めるものであるが、咳と月経は無関係であり、37.5℃以上という体温は、一般に風邪と判断されるべきものである。
なお、より強度な「明らかに伝染病ではない場合にのみ、休まなくても良い」という判断枠組みも考えられる。筆者は、単なる体調不良の場合は自由意思を尊重するべきであるから、緩い判断枠組みが妥当すると考えたため、かかる見解は採用しなかった。
では、自らの風邪に自覚症状があり、明らかに伝染病であるものの、どう しても外せない急用等がある場合には、いかに解するべきか。
この場合、どうしても外せない急用等に参加したいという時点で、パターナリズムは克服されているため、第三者への傷害の有無で判断するべきである(病状悪化をしてでも〇〇がしたいという者に対して、貴方の身体のために辞めなさいというのは余計なお世話である)。
そして、第三者に病を伝染させてでも、自分がやりたいことを行うというのは、結局のところはエゴイズムである。冠婚葬祭や親族の危篤、会社や学校への出席などは、「自分が行きたいから行く」のであり、エゴイズムが第三者の身体・生命の侵害を正当化する場面は限定的であるべきである。
これに対して、出席せねば評価が悪くなるため、「行きたいから行く」のではない;やむを得ず風邪をひいてでも外出しなくてはならないのである等の反論が想定されるが、妥当ではない。結局、評価の悪化を避けるというのも利己的な目的であり、原則として、そのために伝染病をばら撒いて第三者侵害を行うべきではないいう形式は変動しないためである。
第三者の身体・生命は、きわめて重要な法益であるから、「どうしても外せない用事」との比較衡量で決するべきである。具体的には、用事の重要性・症状を鑑みて、第三者の身体・生命に対する侵害のおそれを惹起してでも、当該「用事」を優先するべきであると判断できる場合にのみ、風邪をひいても休まなくても良いものと解する。
たとえば、冠婚葬祭や親族の危篤などは、この機会を逃してしまえば二度と立ち会えないイベントであり、用事の重要性は高いものといえる。
もっとも、当人が伝染させればきわめて身体・生命への侵害性が高いといえる伝染病を患っている場合は、この限りではない。具体的には、インフルエンザ、新型コロナウイルス、ノロウイルス等の強い感染力・症状を有するものは、真にやむにやまれぬ事情が存在しない限りは、外出するべきではない。
そして、会社や学校への出席は、上記の用事と比して、重要度が低いと言わざるを得ない。成績に重大な影響を及ぼす発表や試験等が存在しないかぎりは、外出を行うべきではない。
そもそも、出席が必要不可欠でない限りは、リモート等の手段を講ずるべきであり、あくまでも「風邪をひいたら休むべきである」という規範を乗り越え、外出を行うという選択肢は、最終手段として留保されるべきである。よって、リモート等の手段を採ることができたのにもかかわらず、他者への傷害を惹起する外出を選択するということは、あってはならないのである。
★まとめ
以上より、風邪をひいたら、本人のために休むべきであるのはもちろん、「他者を傷つけてはならない」のであるから、「ニンゲンが風邪をひいたら、休め」という合理的な規範が成立し、ニンゲンは原則として右規範を遵守しなくてはならないということが示せたはずである。
その他、想定される反論について、下記にまとめる。異論や質疑等があれば、気軽にコメントしてほしい。
・明らかに体調不良ではなく伝染病であるものの、風邪が軽微である場合は?
症状が軽微であっても、他者に伝染させる可能性がある。そして、乳幼児や後期高齢者を想定すれば明らかであるように、自分が軽微な症状であるからといって、第三者もそうであるとは限らない。したがって、伝染によって他社の身体・生命に侵害を及ぼすという点では、原則として「風邪をひいたら、休め」という規範に従うべきである。
もっとも、上記パターン3の判断時に、症状の軽重は重要な考慮要素となりうる。
・風邪をひいた状態で出席することに対して、全員の合意がある場合は?
友人の集まりや会社等で、自己が風邪を患った状態で出席することにつき、コンセンサスを得ている場合には、伝染による傷害結果の発生につき同意がある以上は、「風邪をひいたら休むべきである」という規範が妥当しないのではないか?という反論が考えられる。
しかし、風邪につき合意した者(合意者)のみと交流することは実際上は困難である。例えば、公共交通機関を用いるのであれば、不特定多数人に感染リスクがあり、伝染による傷害を惹起する可能性があるだろう。
そして、合意者がさらに第三者に伝染を及ぼす可能性がある以上は、②蔓延防止の観点からこれを許容するのは妥当ではない。
・病弱なニンゲンにとって、毎回「風邪をひいたら休む」という規範に従うのは難しいのでは?
たしかに、病弱なニンゲンは休む機会が増えてしまうため、会社や学校での評価に悪影響を及ぼすこともありうるだろう。
しかし、病弱な者は他人を傷つけても良いと考える者はいない。そして、伝染病の頒布は他人を傷害する行為であるから、伝染によって他人を傷害してしまうことにつき認識・認容があれば、道義的非難に値することには変わりない。
また、結局のところ、評価の変動といった事情は先述したように利己的・個人的な理由であるから、エゴイズムが第三者の生命・身体を侵害するという場面は限定されるべきであるという当為規範が変動することもない。
以上
それをそのままの形で己の作品として発表すれば悪評を得るだろう。
ではここでその諸問題、「なぜ文章のパクリは忌避」されるのか。
それについて考察しようと思う。
そこで私がその作品から、富士山に対する描写をそのまま引用すればパクリとされる。
それはその「文章」を無断で引用したことを咎められるのであって、「富士山」そのものを流用したこと事態に問題は生じない。
すなわち「富士山」との表象を描写すること自体には、「パクリ」とする概念が存在していないのである。
ここで述べたいことを平易に、そして換言すればこういうことである。
なぜ文学作品の文章を光景として捉え、その文章を描写することは禁止されるのか?
ということである。
詭弁的に述べれば、こういうことだ。
「私はその文章をパクったのではない、私はその文章を光景として読み取り、私が感じたままにその文章を描写しただけである」
その理由こそが、この諸問題としての根源的なものであり、すなわち「パクリ」という行為は、文章を盗む行為ではない。
それは、作者の感性、思考を盗むことに他ならず、端的にも形而上学的に述べれば、それは作者の「魂」を盗むことである。
つまり、富士山としての描写自体に「パクリ」としての表象が生じないのは、富士山としてその表象を捕らえた際、そこには個々人において異なる情動、思考、感性が働くことに由来する。
自分が認識した事象を正確無比に相手に伝えるのは不可能である。
なぜなら知覚した事象を言語化する際に、ノイズが生じることは不可欠だからである。
仮にこうしたコード化によってもノイズが発生しないのであれば、それは他者と自己を境界線が存在しないことに成り、それは他者の存在を消失させてしまうことにつながる。
よって、他者としての存在とその存在性の認識こそが自己認識における伝達として生ずるノイズとしての証明であり、故に完璧な意思疎通は不可能である。
実際に自分が認識したものを完全に換言するのもまた不可能である。
ここで本題に戻ろう。
彼らは実際、事象に対する見事な描写に評価を与えるのではなく、
仮に富士山としての事象、光景が、文字として表せるコードとして定義化されたとしよう。
すると橙色をR132・G90・B18として示せるように、富士山も同様に共同認識のコードにより共通の形で表記することができるだろう。
その際において、富士山を示すコードを流用しようと、橙色の場合と同様、そのコードを”パクリだ!”と批判されることはないだろう。
文章の引用、パクリとされる行為は文章を盗むのではなく、作者としての”ノイズ”を盗むのであり、人は意思の疎通として害となる、その”ノイズ”に価値を置いている。
人間は巧みに描写された事象を求めて作品としての文章を読むのではない。
それは正確さに欠ける、個々人として個人的な感性と称される”ノイズ”を読む行為に他ならないのだ。
つまり、人はノイズを読み得ようとすると同時に、その”ノイズ”の出処を正確に知ろうと欲するためである。
それはすなわち、”ノイズ”の正体が判明しておらず、その”ノイズ”としての概念自体をアニミズム的にも崇高する謂れを持ち得ているからである。
これこそ換言すれば、
「逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ…」